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Channel: 団塊Jrのプロレスファン列伝
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プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ④ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~

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その4 ③からの続きです。

先輩「さて、前回はロッカの謎に迫り、いろいろな説が飛び交ったが・・・ここからは試合記録に基づき辿っていこうと思う」

探偵「はい。前回も話した1949年4月20日、ニューヨークで"動くアルプス"プリモ・カルネラと対戦。そして同年12月12日にマディソンで初めてメインに立ちジン・スタンレーと対戦した、この年をロッカのマディソン登場の年として辿っていくわけですね」

先輩「そう。ということでまずは・・・試合自体は直接マディソンに関連しているわけではないが出来事に所縁がある話からさせてもらうね」

探偵「はい」

先輩「1948年。ロッカがアルゼンチンのブエノスアイレスでディック・シカットを破りタイトルを手にした記述があるんだが、このタイトルが当時のニューヨークで"インターナショナル・ヘビー級"という名称になっているんだ」

探偵「それは、あの!?」

先輩「そう。このタイトルが82年8月30日に藤波がマディソンで獲得したWWFインター、ロッカ・メモリアルということになる」

探偵「これがWWFインターナショナル・ヘビー級の起源ですか」

先輩「そうなんだけどね。しかし実のところ1948年にアルゼンチンのブエノスアイレスで試合が行われた確たる証拠はなく、その後の防衛記録も発見されていない。一部ではロッカを王者にするための架空の試合なんて情報もあってね・・・真実は謎なんだ」

探偵「やっぱりロッカと謎は常にセットなんですね・・・」

先輩「だなぁ。ちなみに前回紹介したゴングのロッカのインタビューによれば1958年にブラジルのサンパウロでマリオ・デ・サウザという南米の有名なレスラーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級王者になったと語っている。観衆は10万人だったそうだが会場名は言っていないので不明。このときは中南米をサーキットし22試合を行ったとロッカは述べているが、公式な記録などはこれまた謎なんだ」

探偵「マリオ・デ・サウザは力道山がブラジル遠征をした1958年と1960年に、それぞれシングルで対戦している記録がありますね(etsujikoizumiさんのブログ:続プロシタン通信 ブラジルでの力道山、清見川 ※表記はマリオ・デ・ソーサ)力道山のブラジル遠征とロッカの中南米サーキットはどちらも1958年と年が被ってますので可能性はあるのかもしれません。しかし、また謎かぁ~。本当にやれやれって感じですね」

先輩「ははは。本当にまいっちゃうな。だが、これがなければ藤波、長州がやりあった我々の知るWWFインターはなかったわけだからね」

探偵「そう考えると大事な歴史ですね」

先輩「ああ。その大事な歴史なんだが・・・WWFの名が出てきたが、このあたりからはWWEにとっても大事な歴史が出てくるんだ」

探偵「WWE!?」

先輩「そう。ジェス・マクマホンが1925年にボクシングの興行をプロモーターの初仕事として行っていたことは以前に話したが、以降もジェスはプロモーターとしてボクシングやプロレスの興行を行っていたんだ」

探偵「はい」

先輩「しかし1954年11月22日にジェス・マクマホンは72歳で死去してしまう。これにより息子のビンセント・ジェームス・マクマホン。つまりビンス・マクマホン・シニアが、興行会社キャピトル・レスリング・コーポレーション(Capitol Wrestling Corporation)で1956年からニューヨーク、マディソンで活動をし始めることになるんだ」

若き日のマクマホン・シニア

探偵「マクマホン・シニア!!今のマクマホンのお父さんですね。とうとうマクマホン・シニアがマディソンに登場かぁ~。あ、ということはつまり、キャピトル・レスリング・コーポレーション、これがジェスが作った会社でWWEの前身ってことなんですね!?」

先輩「そう、察するとおりこれがWWEの前身になるが・・・キャピトル・レスリング・コーポレーションは1953年1月7日に立上がったとされるがジェス・マクマホンが設立したのかマクマホン・シニアが設立したのか!?本当のところ創設者はわかっていないんだ」

探偵「しかし、どちらにしてもマクマホン一族なんですよね?」

先輩「とは思うんだけどね。とにかく設立間もなくトゥーツ・モントが参加しNWAにも加入。他の地区より安定した集客もあったということで、かなりの"支配力"があったそうだ」

探偵「なるほど~。トゥーツ・モントが一枚噛んでる可能性があるわけですね。本当に狸親父たなぁ」

先輩「ははは。だな。ま、かくして1956年11月26日。この日、キャピトル・レスリング・コーポレーションのマクマホン・シニアとして記念すべきマディソン初プロモート興行が行われたんだ。カードはアントニオ・ロッカvsディック・ザ・ブルーザー。観衆は14000人とあるから、大成功と言えただろうね」

探偵「ロッカvsブルーザーとはすごいですね。オールドファンならヨダレが出そうなカードです」

先輩「でも、さらにヨダレが出そうなのは1957年2月4日。アントニオ・ロッカとバーン・ガニアが組み、ハンス・シュミット、カール・フォン・ヘスと対戦したカードだ。このときは観衆19300人のソールド記録を作ったそうだよ」

探偵「まだミネソタの帝王以前のガニアとロッカのタッグですか。これは人気があるのがわかります」

先輩「登場レスラーも聞き覚えのある名前が増えてきたしね。モントの存在感とマクマホン・シニアの手腕から来るブッキングの力を感じずにはいられないよな。それに"タッグマッチ"という言葉が出てくるようになった。タッグがメインイベントで入場がソールドアウトとは、これは大きな変化と言えるだろうな」

探偵「そういえば昔、ボクらタッグのことを調べたはいいが一回で終わってしまったことがありましたね(タッグのことを話そうよ パート1)」

先輩「ああ、せっかく画像やら文献やらまとめたのに、パソコン壊れちゃって終わっちゃったあれな」

流星仮面二世「そうそう。あれも大作になる予定だったんだけどねぇ~。跡形もなく消えて心が折れたよね」

探偵「はいはい。しかしながら、やはり13年もトップに君臨したロッカが気になります。これだけの集客力を誇ったロッカのプロレスとはどのようなものだったんですか?」

先輩「ロッカは、それまでのレスラーとちがうプロレスを展開したことで爆発的な人気を得た。当時は誰もやっていなかった連続ドロップキックや、とんでもないところから飛んできては一瞬にして相手の肩に乗り転がしてしまうフライング・ヘッドシザースなどを繰り出す一方、ハイジャンプやネックスプリングや側転などで間を繋ぎ、プロレスに立体的な動きを持ち込んで大人気となったんだ」

グレート東郷をジャンプして撹乱するロッカ

代名詞アルゼンチン・バックブリーカーはロッカの完全オリジナル。前回紹介したゴングでのロッカのインタビューによれば1953年にマサチューセッツ州にあったボストン・ガーデンでボブ・レビンスキーというポーランド系レスラーにエアプレーン・スピンを掛けた際、暴れたのでとっさに押さえたところこの技になった、とのことである

先輩「写真の他、ロッカの試合映像はわりと残っているので現在でも見ることができる。ルー・テーズとのNWA世界ヘビー級なんかも残っているが、オススメしたいのは1950年2月3日にイリノイ州シカゴのシカゴ・スタジアムで行われた(と思われる)ベニート・ガルディーニというレスラーとの対戦だ」

探偵「シカゴ?マディソンではないんですか?」

先輩「うん。このベニート・ガルディーニというレスラーは日本ではまったく知られていないが、当時マディソンをはじめアメリカ各地でファイトしていた有名なレスラーだったようなんだ。悪役レスラーだったようだが、試合では相手のいいところを引き出しては観客の目を引いたり、観客とのやり取りが抜群にうまかったという」

探偵「うーん、170センチ、135キロという体型。けして主役ではなかったが引き立て役の試合から世界タイトル戦まで広くこなしていたと・・・今の芸能人でいうと、ちょうど出川哲朗みたいな感じなんですかね」

先輩「ああ、まあそんなところだな。で・・・ロッカの試合は何試合か見たんだけど、このベニート・ガルディーニ戦が短時間にして一番ロッカのプロレスがわかると思ったのでね」

https://www.youtube.com/watch?v=OqtOxbtGzfY

探偵「こ、これは・・・すごい。知られているロッカの技ももちろんですが、まず驚いたのがリング上でフットワークを使い前蹴りやハイキックで相手を攻撃しているところです。1950年代に、もうこんなことをしていたなんて」

先輩「プロレスの源流は各種のレスリング。だから元来、組むことを基本としてきたから、このロッカの動きはセンセーショナルだっただろう。それにしてもロッカは、どこからこの動きに至ったんだろうなぁ?前蹴りも独特だし、ハイキックは空手でいう外回し蹴りみたいだし・・・それに他の映像ではソバットを使っているものもあったし」

探偵「前回、田鶴浜さんの手記にサバットの経験とありましたが、それかもしれないですね」

先輩「そうなんだけど、どうもなぁ・・・」

探偵「何か、思い当たるところが!?」

先輩「ああ。このロッカの蹴りは、もしかするとカポエイラなんじゃないだろうか?」

探偵「カポエイラ!?」

先輩「ああ。サバットを調べても、この形の蹴りが出てこないんだよ。しかしカポエイラには、ロッカのあの前蹴りならマルテーロ、外回し蹴りならメイアルーアジフレンジと呼ばれる酷似した蹴りが存在するんだ。だから、もしかしたらカポエイラを習った過去もあったんじゃないかなって」

探偵「そうか!!確かにロッカはブラジルではなくアルゼンチンですが、南米ということでカポエイラに触れる機会があったのかもしれないですよね!!ロッカのカポエイラ説。もしこれがはっきりわかったなら、これまた大発見ですね!!」

先輩「そうだな。現在はMMAでもカポエイラ使う選手がいるけど、一番最初にプロのリングに持ち込んだのは実はロッカだった、なんてなったらおもしろいだろうね」

探偵「そうですね。あと、一番最初という点で言うならこれも触れておきたいんですが、ロッカがリープ・フロッグを使って相手を交わし、返ってくるところにカウンターのドロップキックをやってます。これも印象的でした。リープ・フロッグがこの頃に存在していたとは・・・」

先輩「うん。当時の映像だとテーズもやってるシーンが見られたが・・・おれが知る限りプロレスでリープ・フロッグを使用している様子が見られる最も古いシーンはロッカのじゃないかなと思う。ただ、全部調べたわけではないので絶対とは言えないけどね」

探偵「ロッカが考案者だった可能性もあるということですね。だとすれば、これも今回の新たな発見ですね!!とにかくロッカの試合は常に動きがあるのでずっと見ていられます。それに、次はどんな動きをするのか?なんの技が出るのか?と思うと期待感が増して目が離せなくなります。引き込まれますよ」

先輩「そう、このロッカのプロレスは見る者をそういう気持ちにさせ、テレビを通し、より多くの人々の目をもプロレスへと導いた。そしてプロレス自体にも影響を与え、その後のプロレスの"形"に大きな変化をもたらしたんだ。もちろんおれらはその現象は体感はできなかったが、きっと初代タイガーマスクが現れたときのような感覚だったんだろうな」

探偵「初代タイガーマスクかぁ・・・ですね。もしプロレスの世界に現れなかったら、その後のプロレスはどんなふうになっていたんだろう!?というのはまったく共通すると思います。影響力を感じましたよ」

先輩「だが、そんなロッカのプロレスも1960年からは運命に誘(いざな)われるようになる」

探偵「運命!?それは・・・?」

先輩「バディ・ロジャースのマディソン登場だ」

探偵「ロジャースが!?」

先輩「そう。1950年代。ロジャースが最も観客を動員するレスラーだというのは以前に話したが、ロジャース推しだったマクマホン・シニアは自身がプロモーターになると早くからニューヨーク、マディソンにロジャースをブッキング。登場させていたんだ」

探偵「なるほど。空中戦のロッカにラフ・ファイトのロジャースとくればマディソンのプロレスも磐石ですもんね」

先輩「ああ。各々の試合はもちろん、ふたりの直接対戦はエキサイティングで人気があったようだよ。で・・・そんなロジャースがNWA世界王座を手にしたのは1961年6月30日、シカゴでのことだった」

探偵「パット・オコーナーと戦った、コミスキー・パークに38622人の観衆を動員した試合ですね」

先輩「そうそう。で、ここからはちょっと政治的な話が含まれていて複雑なんだが、話の進行上、交えて話すね」

探偵「はい」

先輩「NWA発起人で創設者だったミズーリ州セントルイスのプロモーター、サム・マソニックはテーズ推しのプロモーターだった。だからテーズ以降もディック・ハットン、パット・オコーナーのような技巧派を王者としていたんだ」

探偵「はい」

サム・マソニックとルー・テーズ

先輩「しかし実力は申し分なくてもロジャースのようなスター性に欠けていたハットンやオコーナーでは興行的面において苦戦を強いられる点があり、NWA内で不平の声が上がってきていたんだ」

探偵「つまり客の呼べるレスラー、ロジャースを王者に置いた方が賢明と・・・」

先輩「そう。しかし、ご覧のようにマソニックは、まったくロジャース推しではなかったわけだ」

探偵「なるほど・・・プロレスは強さやテクニックがあってこそ。でも興行収入がなければプロレスが継続もできないし、なによりレスラーが食えない。これは悩むところですね」

先輩「そう。だが悩むところはそこだけじゃなかった」

探偵「え!?それは!?」

先輩「1961年6月。マソニックが推していなかったロジャースがついに王者となるわけだが、このときロジャース推しではなかったマソニックもNWA世界戦のプロモート権を失うことになるんだ」

探偵「た、タイトル移動でプロモート権も移動!?一体、誰にですか!?」

先輩「マクマホン・シニアと共にずっとロジャース推しだったシカゴのプロモーター、フレッド・コーラーだ。コーラーはNWA世界戦のプロモート権を握り、8月にはNWAの会長にもなったんだ」

探偵「うむぅ~・・・」

フレッド・コーラーとバディ・ロジャース

先輩「そしてマクマホン・シニアはロジャースの個人マネージャーになる。もちろんマクマホン・シニアのバックには狸親父のトゥーツ・モントもいたから・・・」

探偵「圧倒的な観衆動員数を誇るロジャースをNWA世界王者としてプロモートできるようになったコーラー、マクマホン、モントが独占する形になったというわけですか」

先輩「その通りだ。こうしてNWA世界戦は自身のエリアであるシカゴ、ニューヨークを中心とするようになった。マソニック派のNWA側がちがうところで防衛戦を要求しようが対戦相手を指名しようが跳ね除けんばかりにプロモート力を発揮し続けたんだ」

探偵「それでロジャースがマディソンに世界王者として登場するようになると・・・」

先輩「そう。で・・・話をロッカに戻すと、ロジャースがNWA王者になる5ヶ月前の1961年1月23日。ロッカは、ジョニー・バレンタインとのタッグでカンガルーズと対戦したあと一旦ニューヨークを離れ同年の6月23日まで全米サーキットに出るんだ」

探偵「マソニックとコーラー、マクマホン、モントのNWA内紛のその騒動の火蓋が切られた頃、ロッカはニューヨークを一旦離れるわけですか」

先輩「そうなんだ。これまでにもニューヨーク以外で試合することはあったが、それらは単発での出場だったので・・・ロッカが完全にニューヨークを離れサーキットすることは初めてだっただろうね」

探偵「ということは、鬼の居ぬ間にナントカじゃないですが、ロッカがマディソンにいなかったこの5ヶ月のサーキットの間にロジャースがニューヨーク、マディソンに定着し始め状況が変わり出してきた、ということなんですね」

先輩「ああ。ロッカは1961年6月23日にマディソンに復帰。メインでアルゼンチン・アポロと組んでロジャース、ボブ・オートン組と対戦し引き分けこそしたが、翌月の7月28日の定期戦では1ヶ月前にロジャースが奪取したNWAの防衛戦がメインとなり、ロッカはセミファイナルでの出場となった。マディソン登場以来11年ぶりにもなろうメイン以外での出場と相成ったんだ」

探偵「マディソンの主役はロジャースに変わりつつあったのか・・・」

先輩「降格なんて言葉は使いたくないが、しかしメインから外されてしまったのは事実。1961年9月からニューヨーク地区へ転戦してきた海外武者修行中の馬場さんが、ここマディソンでロッカとのシングルやマンモス鈴木とのタッグで相当数対戦できたのは、あるいはこのためかもしれないなぁ」

探偵「そうかぁ・・・いくら馬場さんが逸材だったといえ、デビュー1年にも満たない時期にマディソンでロッカと何度も対戦できたのは、ロッカがメインイベンターから一歩引いていた時期だったから、かもしれないと・・・それで先輩、その後ロッカはどうなるんですか?」

先輩「うん、結論から言うと、マディソンを去る」

探偵「あー・・・」

先輩「順を追って説明すると、まず・・・さっき1961年6月にロジャースが王者となった際、コーラー、マクマホン、モントがNWAの要求に従わず自身のエリアであるシカゴ、ニューヨークを中心とした興行を展開したことを話したが、半ば王者を独占されたマソニックはその後、NWAをセントルイスに奪還しようと乗り出したんだ」

探偵「でも・・・コーラーやマクマホンがマソニックに従うとは思えませんが・・・」

先輩「その通り。そこでマソニックは当時NWA王者になると発生するボンド金システムの発動に踏み出したんだ」

探偵「ボンド金!?」

先輩「そう。ルー・テーズ自伝によれば、当時NWAには王者になるとNWAに一定の金額を"預ける"システムがあったというんだ」

探偵「え!?王者がお金を預ける・・・!?」

先輩「これは王者でなくなると返金してもらえるが、王者中にNWAの規定や指示に従わなかった場合、それならば"預かっている"金額を没収します等、強権のように発動できたシステムだったようなんだ。これにより王者ロジャースを引きずり出す作戦に出たらしい」

探偵「そうか・・・こうして引きずり出したところで、マソニックは確実に勝利できるレスラー、ルー・テーズを挑戦者に抜擢。半ば引退状態だったテーズに直訴し挑戦者としてぶつけ、NWA奪回を目論んだわけですね。それにしてもすごいシステムですね。まるで人質ですよ」

先輩「ははは。人質とは物騒だが、ちょっと通ずるかもしれないな。で、こうして1963年1月24日。カナダのトロントでロジャースとテーズのNWA世界戦が実現。テーズが勝利し46歳にして6度目の王座返り咲きとなりNWA世界戦のプロモート権もセントルイスのマソニックに戻った、というわけだ」

探偵「しかしこれではコーラー、マクマホンは納得いかないですよね?」

先輩「まさしく。この行動に不満を持ったマクマホン・シニアは、この王座移動は無効だと主張。反発する形で同年3月に試験的にワールド・ワイド・レスリング・アソシエーション(World Wide Wrestling Association)WWWAを組織し、同年5月にはついにNWAを脱退してワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション(World Wide Wrestling Federation)WWWFを設立することになる」

探偵「WWWF(スリーダブリューエフ)!!WWEの原点が!?」

先輩「そう。そしてWWWF設立と同時にロジャースが初代WWWF王者に認定される・・・と、いうわけなんだが、この一連の流れが始まった1963年に入るとすぐ、ロッカはマディソンから離脱してしまうんだ。詳しい原因はわからないが、1962年頃から、どうもマクマホン・シニアと何かあったらしい。ケンカ別れしたなんて記述もあったからなぁ」

探偵「うーん、何かがなぁ・・・確執なのか、別のことなのか?最後はこう、なっちゃうもんなんですかねぇ・・・」

先輩「まぁなぁ・・・人間同士だからなぁ・・・どうしようもないところはあるよな・・・」

探偵「結局ロッカは離脱するわけですが、マディソン以降は他の地区でプロレスを!?」

先輩「その後、同年の9月末にロッカはニューヨークに戻ってくるんだ。しかしこれはマクマホン・シニアの管轄でのことではなく、個人的に新団体を設立、旗揚げするためだったようだ」

探偵「なるほど。他団体とはいえ、長年ファイトしていたニューヨークならロッカの知名度も手伝って新団体もうまくいくと考えたわけですね」

先輩「多分そういう見込みはあったんだろう。でも団体は翌1964年6月に崩壊してしまったらしい。その後のロッカはオーストラリアやプエルトリコなどでファイトしていた記録も見られたが、副業がうまくいっていたという話もあり、プロレスはリタイヤ状態という話も見られた。晩年にはWWWFでコメンテーターをしていたなんて情報もあったよ」

1975年10月14日。日本で猪木vsテーズを裁いたわずか5日後、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでアーニー・ラッドを相手に現役カムバックの試合を行ったロッカ。プロレスラー姿のカラー写真はかなり貴重だ

イワン・プトスキーにインタビューをする若き日のマクマホン・ジュニア(現ビンス・マクマホン)とコメンテーターのロッカ

探偵「これはすごい。猪木vsテーズ戦のあとカムバックしていたことや若き日のビンスと行動していたことにも驚きましたが、離れたはずのWWWFにロッカが戻ってきていたとは・・・」

先輩「のちにマソニックと和解しNWAに加盟したりして・・・マクマホン・シニアは、他団体とも友好的だった寛大なイメージがあるんだよ。だからロッカがコメンテーターとして登場していたのはマクマホン・シニアのはからい。器なのかもしれないな」

探偵「しかし、ニューヨークにWWWFが誕生しましたがプロレスラー、アントニオ・ロッカは去ってしまいます。このあとニューヨーク、マディソンはどうなっていくんですか?」

先輩「10年の空白からロッカの登場で甦ったマディソンは、また新しいスターと共に新時代へと進んでいくわけさ」

探偵「さらなる新時代かぁ~」

その4 ⑤へ続きます。


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