どうも!!流星仮面二世です。
さて、2020年は東京オリンピックが開催されますね。
日本でのオリンピックといえば今では話題の国立競技場が真っ先に思い出されると思いますが、ボクなんかはやっぱり、日本武道館ですね。
ということで今回は日本武道館のお話です。
日本武道館は1961年、昭和36年の6月に東京オリンピックの正式種目に柔道が選ばれたことを期に結成されました「国会議員柔道連盟」の連盟会長であった、当時の衆議院議員の正力松太郎が武道の殿堂を東京へ建設する、と表明。音頭を取ったことから始まります。そう、いわばオリンピックで柔道をやるというプロローグの象徴的シーンだったんですね。
その後、正力松太郎は同年同月「武道会館建設議員連盟」を議員5人で結成。他の議員の理解も得、500人以上の議員の署名を集め1962年、昭和37年の1月末に文部大臣の認可を得、「財団法人日本武道館」を発足させることになります(ちなみに、この財団法人日本武道館発足当時の理事長にして三代目の会長を務めた連盟当時からの議員メンバーの赤城宗徳氏は、ボクの母校の校長、名誉校長だったんですよ。いらない情報ですけど・・・)
そして東京オリンピックに向け着工となるわけなのですが、建設においては総工費はなんと20億円という・・・当時の20億って今でいういくらなんだ?と震え上がってしまいそうですが、他に当時の時代背景など様々な問題もあった中、1964年、昭和39年9月に日本武道館はついに落成、となったわけなんだそうですね。
こうして行われた東京オリンピックでの柔道。当時はまだ階級が軽量級、中量級、重量級、無差別級の四階級しかありませんでした。しかし日本のお家芸といわれた、現在でもオリンピックで唯一の日本発祥のこの種目。当時は全階級制覇が期待されていました。しかし無差別級では日本人でなくオランダのアントン・ヘーシンクが優勝したことにより、柔道のオリンピックの歴史のスタートを語るにおいて未だ忘れられない出来事となっていますね。
そんな歴史を持つ日本武道館。オリンピック以降も柔道はじめ様々な武道の大会やボクシングなどの試合に使用されてきました。しかし・・・プロレスが初めて行われたのはいつだったんでしょうか?
日本武道館ができた当時、プロレスのメイン会場といえば蔵前国技館でした。この頃の日本プロレスは馬場さんが不動のエースとして活躍し会場へファンを引き付けていましたが、完成時点で蔵前を凌ぎ日本で一番観客を収容できる室内の会場となった武道館の使用には、何か気がかりがあったようで・・・どうやらすぐ使用には至らなかったようなのです。
しかしビートルズが来日し歴史的なライブを行った1966年、昭和41年に日本プロレスに事件が起こります。そう、豊登りによるアントニオ猪木の、プロレス・スーパースター列伝でいう「太平洋ひきぬき事件」です。
これにより猪木の新天地・東京プロレスは66年10月12日、蔵前国技館で金髪の爆撃機、妖鬼の異名を取るジョニー・バレンタインと旗揚げ戦を敢行。蔵前は超満員になり、その試合内容は、なぜテレビが付かなかったのか・・・映像が残っていれば!!と悔やまれるほどの名勝負となり、白熱ぶりが今なお語り継がれるほどのものでした。
猪木の生涯最高の名勝負と語る人もいる伝説のバレンタイン戦
しかし、この事態に眉間にシワを寄せたのが日本プロレスでした。
ただでさえ、お世話になった力道山ゆかりの日本プロレスを裏切った!!と怒りを買っていたのに、旗揚げ戦が超満員で絶賛されては・・・
しかもこの当時、超大物だった“まだ見ぬ強豪”バレンタインを招聘、日本プロレスでなく東京プロレスへ初来日させたことも、おもしろくなかったのでは・・・おそらく、こんな理由で日本プロレス陣営は相当イラだっていたのかもしれません。
そこで日本プロレスが出たのが
「格のちがいを見せる」
でした。
蔵前以上の会場でプロレスをやり、ジョニー・バレンタイン以上の“まだ見ぬ強豪”の大物を呼ぶ。こうして日本プロレスの思い切った判断で会場に初めて日本武道館が選出されました。残りはまだ来日していないビッグネームの招聘・・・
しかし、そんなレスラーがいるのでしょうか?いや、ひとりだけいました。バレンタインにも引けを取らない、必殺の毒針エルボーにも引けを取らない大物が・・・それはテキサスの帝王、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックでした。
エリックはこの初来日時にはすでにプロレス団体、NWAビッグタイムレスリングを本拠地のテキサス州ダラスに構えプロモーター兼レスラーとして活躍していました。またホテルや銀行の経営にも積極的で、
「エリックの経営するホテルに泊まり、エリックのテリトリーでプロレスをし、エリックの銀行からファイトマネーが支払われる」
という伝説まで残したほど、テキサスでの影響力を持った文字通りの超大物レスラーだったのです。しかしすごいのは、そこばかりではありませんでした。そう、本当にすごかったのはエリックの必殺技アイアンクローでした。
エリックは生まれながら手の平が大きく、そのスパンはなんと32センチ・・・ボクが子供の頃はLPレコードが手に納まってしまうと、本などに書かれているのをよく見ましたが、今でいえばピザーラのピザのMが25センチ、Lが36センチ、こういえばその大きさがわかっていただけると思います。で、この手の大きさにして握力が一説には200キロ近くあったのではないか?と言われていました。息子のケリー・フォン・エリックが全盛期で160キロだったそうですが、そのケリーも自身で親父には及ばないと漏らしていたそうなので・・・少なくとも160キロ以上はあったのはまちがいなさそうです。
スパン32センチ、握力200キロ・・・この手から繰り出されるアイアンクローの威力は、当時まだ未来日であった日本にも十分伝わっていました。
こうして66年11月、エリックはついに日本プロレスのインターナショナル・チャンピオンシリーズに初来日します。
初来日の記者会見では記者を相手にさっそくアイアンクローのデモンストレーションを展開しました。
そして、この席上にいた徳光和夫さんの証言では、誰かリンゴを持ってきてくれないか?とリクエストし、リンゴを受け取るとその場で握り潰しジュースにしてしまったといいます。力自慢がリンゴを潰すのはよくある光景ですが、エリックのそれは単に指が食い込んで割れていくような形でなく、全体をジワーっと絞られていくような、そんな潰れ方だったそうです。
こうして戦慄を覚えていった日本のファンがまず目にしたのが11月28日、大阪府立体育館にて来日第1戦でいきなり馬場さんの持つインターヘビーに挑戦した試合でした。当日はあまりに大勢のファンが押し寄せたため、会場のドアが壊れてしまったほどの熱狂ぶりだったという3本勝負のこの試合では、馬場さんが1本目は選手しましたが、2本目・・・とうとうその必殺技がベールを脱いだのでした。
3本目、なんとかリングアウトで勝利し2-1で王座防衛した馬場さんでしたが、ファンにも馬場さんにも、この恐怖がしっかりと根づいた試合となったのでした。
そして迎えた12月3日、いよいよ日本武道館でのプロレス初進出となる日が来ました。大阪での遺恨を引きずった決戦の大舞台に訪れたファンは14000人にも登りました。試合は大阪と同じく3本勝負で争われました。
1本目は馬場さんが16文からのチョップで先制。しかし2本目あの戦慄が・・・そう、アイアンクローでした。
しかも、あの巨体の馬場さんを右腕一本で、顔面を掴んだまま引きずり回し・・・場外からリング内まで引っこ抜いてしまうほどの、まさに鉄の爪地獄で馬場さんを追い込んだのです。現在に至るまで、右腕一本で顔面掴んで場外からレスラー引っ張り上げるなんて、できる人いないですよ。この恐ろしさと貫録がエリックのもっともすごいところではないかと思います。
この貫録・・・
2本目はアイアンクローに終始押され気味でしたが、3本目は馬場さんのオリジナル空手殺法、耳そぎチョップで猛反撃。
この連打ですっかりペースを狂わされたエリックが反走暴走の椅子攻撃で反則負けとなりました。これにより2-1で馬場さんが大阪に引き続きインターヘビーを防衛となったのでした。
しかし、試合はアイアンクローそのものでした。
そう、エリックには現在のような多彩な技はありません。エリックの得意技はアイアンクロー、パンチ、馬の蹴りと称された下からの強烈なキックなど、いわゆるケンカ殺法です。しかし、あまりにもアイアンクローが強烈なあまり・・・
エリックがアイアンクローの構えをすれば、思わずああっ!!と身を乗り出し、馬場さんにアイアンクローが迫れば、あああやばい!!そして入れば、決まれば、ダメだ、逃げられるか!?馬場さんがよければ、あ、交わした!!エリックの右手を攻撃すれば、おー、アイアンクロー封じだ!!
こうして試合を通し、すべてのファンがエリックのアイアンクローに見入っていました。日本武道館の14000人が、エリックの右手に、試合開始から終わりまで集中していたんです。会場のすべての人が手に汗を握りながら見入っていたんです。たったひとつの必殺技がすべてをくぎ付けにし、支配したんです。なんてすごいんだ・・・
武道館のプロレス初進出、武道館でのプロレスはそんなすごい、アイアンクローから始まったんだなぁ・・・
50年を超えた格闘技の殿堂、日本武道館。猪木vsルスカ、猪木vsアリ、プロレス夢のオールスター戦、ジャパンプロvs全日本、世界最強タッグ、鶴龍対決、三冠戦、四天王プロレス、高田vs北尾、ベイダーvsオブライト、鈴木vsモーリス・スミス、馬場さん最後のリング・・・まだまだ、たくさん!!これまでも、この先も武道館での名勝負、見ていきたいですね。