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Go for Broke !!マサ斎藤追悼

どうも!!流星仮面二世です!!

さて、遅くなってしまいましたが今回もベイダーに続き追悼記事です。7月は、7月14日・・・マサさんが亡くなりました。

マサさんこそ、70年代から現在に至るまで、時代時代にマサさんがいて、で、そこにまた時代時代のファンがいる・・・幅広いファン層に愛されたレスラーだったと思います。だから人それぞれに思い出があるレスラーだったと思います。そんなマサさん、振り返ってみます。

マサさんは1942年8月7日、東京都に生まれました。この年、世は太平洋戦争の真っ只中。マサさんが生まれた日はアメリカ軍がガダルカナル島に上陸、翌8日から第一次ソロモン海戦となった年でした。やがて戦争が終わり戦後の混乱期から高度成長期に入り復興を果たした頃にマサさんは国士舘高校から明治大学へと進みます。

知ってのとおり、マサさんは学生時代はレスリングで活躍。東京オリンピック元・日本代表でした。

Wikipediaによれば

"明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)"

と表記されており、マサさんが紹介される際には他でもこれが見受けられるときがあります。しかし実際はほんのちょっとちがうようです。

表記には1963年の全日本選手権とありますが、日本レスリング協会のホームページの歴代記録によれば、マサさんが全日本選手権に優勝したのは1963年ではなく1964年の8月21~24日に東京の駒沢体育館で行われたもの、となっています。

では1963年は・・・?

この年、ヘビー級で優勝したのはフリーがアメリカのクリストフ、グレコローマンがユーゴスラビアのバビチュビッチとなっており、そしてこの年のマサさんの階級だったヘビー級の1階級下のライトヘビー級(97キロ)でもフリーはアメリカのブランド、グレコローマンがユーゴスラビアのチュチチとなっています。ということで63年は残念ながら優勝者にマサさんの、その名を見ることはできませんでした。

ただ、この年は、マサさんは全日本選手権、フリースタイルのライトヘビー級で2位になってるようなんですね。そして全日本学生選手権の方ではフリースタイルで優勝しています。とすると1963年の全日本優勝というのは、全日本と全日本学生という情報が交錯してしまい、結果、誤って伝わってしまったのではないかなと・・・そんな見解ができそうです。

以下、1963年のマサさんの戦績です。

5月31日~6月2日 
レスリング世界選手権(ブルガリア・ソフィア)
フリースタイル ライトヘビー級 3回戦失格(バッドマーク方式による点数消失による敗退、と思われる)

6月19日  
マンチェスター国際大会(イギリス・マンチェスター)
フリースタイル?ライトヘビー級 2位

9月13日~14日 
全日本学生選手権(東京・青山レスリング会館)
フリースタイル ライトヘビー級 優勝

10月28日~31日 
国民体育大会(山口県・光製作所 田布施中)
一般の部 グレコローマンスタイル 優勝

で、翌年の1964年の全日本選手権で両スタイル優勝、東京オリンピック出場と、なるわけなんですね。

ちなみにこの64年の全日本選手権、グレコローマンでの決勝でのマサさんの相手は杉山恒治。そうです、なんとのちのサンダー杉山と争っていたんですね。いやぁ~マサさんとサンダー杉山のレスリングの試合ですよ。これは興味湧きますね。見たかったなぁ~。映像ないかなぁ?ないよなぁ・・・

さて、こうしてレスリングでの実績を引っ提げ大学卒業後、1965年4月に日本プロレスに入門し2ヶ月後の6月3に高崎山猿吉(北沢幹之さんですね)戦でデビューします。で、1966年、東京プロレスに参加となるわけなんですね。

66年10月12日、蔵前での東京プロレス旗揚げ戦ではセミファイナルに抜擢。ザ・ヘラーキュリーと30分1本勝負で対戦した。10分2秒、フォール負けとなったが好勝負として評価された。貴重なショートタイツ姿のマサさん。初めて外国人と対決した記念すべき日でもある

当時デビュー間もないマサさんでしたが、東京プロレスでの当時の選手層では猪木、豊登に次いで三番手に位置する形となっていたそうです。

若き日の猪木とマサさん

しかし東京プロレスはわずか2ヶ月後、12月の大会を最後に翌67年には完全に崩壊してしまいます。マサさんはここで渡米することを決意し海を渡ります。

同年の4月からロサンゼルスマットで初めて試合をすると、やがてサンフランシスコに転戦。ここで日系の大物であるキンジ渋谷とタッグを組み、プロレスのイロハを学びます。こうして渋谷とのタッグで頭角を現したマサさんは翌68年7月にペッパー・ゴメス、ペドロ・モラレスからサンフランシスコ版NWA世界タッグ王座を奪取します。

サンフランシスコ版NWA世界タッグのベルトを腰に巻くギンジ渋谷とマサさん

このタイトルを約1年に渡り保持すると71年からは再びロスマットへ。同じくギンジ渋谷とのコンビでNWAアメリカス・タッグ王座を保持するなど、日系悪役タッグチームとして人気を博しました。

71年、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにてギンジ渋谷とのタッグでロッキー・ジョンソン(ロックのお父さん)を攻めるマサさん。当時は胃袋へのクロー攻撃、神風チョップと呼ばれる手刀を得意とした

こうして海外で5年が過ぎると72年3月、久々にマサさんは帰国し日本プロレスで最後となった第14回のワールド大リーグ戦に参加します。ここではゴリラ・モンスーン、若き日のアブドーラ・ザ・ブッチャー、ディック・マードックらと興味深い顔合わせが実現しています。

その後、日本プロレスが崩壊すると主戦場をアメリカに置きながら、74年からは旗揚げ2年目となる新日本プロレスにフリーの選手として参戦するようになります。


74年から76年まで新日本のワールドリーグ戦には3年連続出場したマサさん。第3回のケン・マンテル戦では、なんとジャーマン・スープレックスを公開。見事!!

そして78年11月17日より行われた新日本プロレスのプレ日本選手権に、ヒロ・マツダらフリーのレスラーと"狼軍団"を結成し参戦します。ここでは、それまでの新日本参戦は日本側としてでしたが、このプレ日本選手権を境に日本側に着くことがなくなり、ヒールとして外国人側というポジションになっていきました。

プレ日本選手権の開幕戦では坂口と対戦。リングアウトで破れたが、そのファイトに坂口からは健闘を讃えられた

こうして日本でのイメージを変えつつ、日本と海外と行き来する形で80年代も幅広く活躍していきます。

81年のフロリダではびっくり仰天!!なんとマスクマンとして登場。アサシン3号と名乗りフロリダ地区のタッグタイトルを保持していたこともあった

そして82年10月、おれはおまえのかませ犬じゃない事件から新日本に反旗を翻した長州が翌月にニューヨークへ渡米。マサさんを尋ねます。ここでマサさんは長州と合流することになります。

合流した長州は11月22日、マサさんとお揃いのコスチュームでMSGマットに出場し、トニー・ガレア、ロッキー・ジョンソンらと試合を行った

このときは、まだ維新軍結成前・・・ひとり新日本に牙を剥いた長州が、これから軍団を形成していく。そんな中で、あらゆる面で頼りになる人物こそマサさんだと長州は見、このニューヨークとなったのではないかと思います。長州、マサさんの師弟関係はここから始まった・・・まさに維新軍の創世記となった日が、この日だったのではないかと思います。

こうして迎えます83年。ここで長州、カーン、小林らが結託し維新軍が結成されます。マサさんはこの維新軍の首領(ドン)として活躍していくんですね。

藤波からWWFインターを奪取したときリング上で長州と抱き合って喜んだマサさん。控え室での表情も本当にうれしそう

アメリカで"サイトー・スープレックス"と呼ばれ恐れられた独特のバックドロップは新日正規軍との戦いでも脅威だった

その後、長州らが84年末、ジャパンプロレスとして全日本プロレスへ登場するとマサさんは明けた85年1月に全日本プロレスの"激突!オールスターウォーズ"へ初参戦します。シリーズでは天龍とは初、鶴田とは夢のオールスター戦以来6年ぶりの絡みとなりました。

オールスターウォーズ最終戦の2月5日の東京体育館では鶴田、天龍vs長州、斎藤というカードがたった一度だけ実現した。結果は16分35秒、両者リングアウトだったが、今後に繋がる対戦に期待が膨らんだ

しかし、残念ながらマサさんの全日本プロレス参戦は、これが最初で最後、一度だけとなってしまいました。マサさんは同年年6月よりケン・パテラの起こした事件に巻き込まれてしまいアメリカのウィスコンシン州にて1年半の刑務所暮らしを余儀なくされてしまったからです。

86年12月2日に出所となったマサさん。出所の日、ウィスコンシン州フランボーにある服役していたコレクショナル・キャンプの前で

出所後、海外でファイトしたのち87年3月に行われたINOKI闘魂LIVE Part2でアントニオ猪木とシングルを行うことが決まり約2年ぶりに日本マットを踏みます。海賊男、ノーロープの手錠マッチ、IWGP決勝と、ここから猪木との戦いが始まります。

そして迎えた87年10月4日。忘れもしません。"究極のラストバトル"と呼ばれた2時間を超える巌流島での戦いとなるんですね。

屋根も壁もない、観客もいない。照明もない野原に置かれたリングを軸に、お互いのプライドがルールという戦い・・・中3のボクは、取り憑かれたようにテレビ画面を見つめていました

その後、88年6月に長州、89年9月に橋本とIWGPタッグを保持。89格闘衛星☆闘強導夢ではソ連レッドブル軍団、ワッハ・エブロエフと対戦するなど対ソ連軍相手にも活躍は続きます。

そして90年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りジャンボ鶴田以来、日本人2人目となるAWA世界ヘビー級王座を奪取する快挙を成し遂げます。

47歳での世界王座奪取。長きに渡り海外でがんばってきたマサさんのベルト姿は、見ていたボクらもうれしかった

90年代にはすでに40代も後半に差し掛かっていましたが、とにかくトレーニングを欠かさなかったマサさんはビガロ、ベイダーらを相手にもファイトを続けました。もちろんワールドプロレスリングの解説も務めていましたね。マサさんの解説は好きでしたね~。

戦ってもしゃべっても、やっぱりマサさんだなぁ~という存在感。"マサさんの世界"がそこにはあった

こうして長きに渡り現役でやってきましたが99年2月14日、56歳のときに日本武道館でスコット・ノートンを相手に引退試合を行い34年のレスラー生活にピリオドを打ちます。レスラーとしては引退でしたが、これからもプロレスと共に生きていくという言葉と、本当にさわやかな表情が印象的な引退試合でした。

しかし翌2000年、マサさんはパーキンソン病を発症。WJ、健介オフィスと活動をしますが、症状は長きに渡り辛くマサさんにのし掛かってきたといいます。それでも、アメリカマットで培った強い精神と絶対に諦めないという鋼の精神、Go for Broke !!で、トレーニング、リハビリを積極的に行い、最期まで前進する、まさに闘ってきた人生でした。

第一報を知ったときボクは、あ~・・・っと思ったが早く、まったく言葉が見つかりませんでした。しかし、その日からしばらくの間、ボクをプロレス好きと知っている会社の同僚や友達らが、ボクを見ては「マサ斎藤、亡くなったんだねぇ」と言ってきました。そう、そう言ってきてくれた人はみんな、特別プロレスファンという方ではなかったんですね。でも、マサさんのことは知っていたんですよ。そうなんだなぁ・・・プロレス界だけじゃなく、ボクらファンやプロレスに普段興味がない人まで、いろんな人から愛された人だったんだなぁ~。そのとき、つくづくそう思いました。

たくさんのプロレスの思い出、ありがとう。マサさん安らかに・・・

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