Quantcast
Channel: 団塊Jrのプロレスファン列伝
Viewing all articles
Browse latest Browse all 312

永遠に黄金の左!!輪島大士追悼

$
0
0
どうも!!流星仮面二世です!!

さて、本当に今年はなんなんでしょうか・・・こんなに訃報を聞くことになるとは思いませんでした。

10月8日に、大相撲の元・横綱の輪島が亡くなりました。遅くなってしまいましたが、今回は追悼したく、よろしくお願いいたします。

さて、輪島大士と聞くと、ボクにはたくさん思い出すことがあります。

実はボク、輪島と誕生日が同じなんです。しかもボクの生まれた73年は輪島が横綱に昇進した年なんです。横綱の輪島・・・思い出します。

昔からプロレス好きの我が家でしたが、相撲も好きでよく見ていました。物心ついた頃、当時相撲で知名度が高かったのは高見山でしたが、ボクの相撲の憧れは増位山でした。

増位山は、けして圧倒的に強いわけではなかったのですが、他の力士に比べると細めの増位山が自分より大きい力士を足技で倒すというのが子供ながらにツボで、それはそれはいつも応援していました。もちろん好きなのは相撲だけでなく歌もで「そんな女のひとりごと」も歌っては、孫として祖母を喜ばせたりもしました。

で、その当時の横綱こそ輪島でした。今に思えば、ボクの見てた頃は輪島の現役時代でもかなり後半頃だったので、当時の大人の評価からすれば、やや下り坂な輪島だったのかもしれません。でもボクには勝ってる姿は常に目に入ってきてたので、北の湖もすごいけど、やっぱり輪島も強いなぁ~となってました。でも、なんと言っても記憶に残ったのはその特徴でした。いろんな力士がいる中で、ちょっと他の力士とちがう独特の、なんとも言えない空気が輪島にはあって・・・その姿が、子供心に焼きついていました。

だから、輪島がプロレスやると知ったときの興奮度と言ったらありませんでした。あ、あの輪島が!?と・・・それこそ髪の毛じゃなく頭の中がベネゼルホームパーマ状態で、ん~!!レッ、パーミンッグ!!って感じでした。

その後、プロレス入りの記者会見が全日本プロレス中継内で放送されると、輪島情報として毎回輪島の様子が放送されるようになりました。輪島がパット・オコーナーにコーチされたりアメリカでデビュー戦したりする様子が流れ、だんだんレスラーになっていくのを見るのが楽しくて仕方ありませんでした。それこそ輪島情報のたび流れるカクトウギのテーマは自分の中で輪島のテーマ曲と化していました。

やがて日本でデビューして、その翌年の87年の夏休みも終わりの8月30日。サマーアクションシリーズ2で土浦スポーツセンターに全日本プロレスがやって来ました。ボクはそこで初めて輪島を生で見ました。この日、輪島は石川と組み、ニック・ボックウィンクル、ディック・スレーターという豪華なチームと対戦しました。最前列にいたボクの目の前で動く輪島・・・一番印象的だったのはタッグマッチ中、コーナーに立っていた姿でした。ボクの目線からだと、ちょうど輪島の背中を見る感じだったのですが、でかいんですよ。体もそうですが、存在がでかかった。レスラーのキャリアは浅いのに貫禄とオーラという点では誰よりありましたね。やっぱりちがうんだなと思いました。

それにしてもニックも輪島も、そしてこの記事を書いているとき入ってきた訃報。スレーターも・・・もうこの世にいないんだと思うと、寂しいばかりです。

では、振り返ってみましょう。今回は輪島のタイツの色を尊重し、カラーでお送りします。

輪島のプロレス入りを一番最初に伝えたのは86年4月8日の日刊スポーツでした。スクープとして一面を飾ったこの記事は世間の注目を集め、他のマスコミにも飛び火し報道は一気に加熱。あっという間に正式発表が待たれる形となりました。

そして迎えた4月13日。東京都千代田区永田町のキャピトル東急ホテル(現在はザ・キャピトルホテル東急)竹の間で、ついに輪島の正式な記者会見が行われることとなりました。

会見でカメラマンに応じる輪島と馬場さん

この記者会見には一般、プロレス関係含め、なんと200人以上のマスコミが集まったといいます。プロレスの記者会見にこれだけの人数が集まることはもちろん異例。いかに輪島がすごかったかがわかる現象だったのですが、実はすごかったのは、それだけではありませんでした。

輪島のプロレス入りが報じられた86年4月8日。みなさんこの日に何があったか、覚えていますでしょうか?

そうです、当時人気絶頂だったアイドルの岡田有希子が飛び降り自殺を図り、衝撃が日本中を駆け巡った日でしたよね。通常ではありえない飛び降り直後の写真も公開され、なぜ自殺したのか!?様々な憶測が飛んでは、未だかつてないファンの後追い自殺がさらなる衝撃を与えました。それこそワイドショーでは連日取り上げられていました。

しかし、同じ時期に発信され、これだけの大事件にも影を潜めず連日テレビや新聞、雑誌で、輪島のプロレス転向は大きく報道されました。知名度、ニュース性はもちろん、輪島自体が“ただごとではない”人物だったことがよくわかる出来事だったと思います。

記者会見を終えると輪島は5日後の4月18日に渡米。19日にニューオリンズのスーパードームで行われた世界タッグ五輪を、20日にミネアポリスのメトロドームで行われたレッスルロック86をそれぞれ観戦。リング上から紹介もされました。

メトロドームでAWAの帝王バーン・ガニアと握手を交わす輪島

21日からはハワイに入り、いよいよ本格的トレーニングを開始します。

ハワイでPWF会長だったロード・ブレアーズと対面し、トレーニングを受けた

6月からは元NWA世界王者の魔術師パット・オコーナーがコーチとしてハワイ入り。1ヶ月みっちりと輪島を鍛えた

7月からは本土のミズーリ州セントルイスにオコーナーと共に飛び、今度はマンツーマンでのトレーニングとなりました。そして1ヶ月後の8月、オコーナーから太鼓判をもらい本土デビューが決定。8月7日に馬場さんと組んでアースクエーク・フェリス、JRホッグとの30分1本勝負が組まれ、輪島のプロレスデビューとなりました。

注目のデビュー戦は初公開となったゴールデン・アームボンバーから相撲タックル2連発で6分48秒、ホッグからフォール勝ちを収めた

余談ですが当時の86年11月号の月刊ゴングを見ると、ほんの一行だけなんですが「馬場が“輪島スペシャルとして考え出した"のど輪ラリアット"とも言うべき左腕の“アームボンバー”で」という記載があるのが見てとれます。ということは、輪島のオリジナルにして、のど輪落とし、チョークスラムの起源となったこの技の真の源流は馬場さんにあったということになるのでしょうか?確かに87年6月に行われたラジャ・ライオン戦で馬場さんが1ラウンドで一度だけ似ている技を使っています。だとすれば、これは新事実ですね。いやぁ~奥が深いです。

その後、ニューヨーク州バッファローに移り、ザ・デストロイヤーのコーチを約1ヶ月受け、8月30日にラスベガスで馬場さんと組みポール・ガーナー、ケント・グローバー組と対戦。デビュー2戦目を行いました。

このときはゴールデン・アームボンバーを見事決めフィニッシュした

その他、シングルを含め7戦を消化し、実戦を積みながら輪島は9月からノースカロライナ州シャーロッテに渡り元NWAジュニアヘビー級王者の荒くれ牧童ネルソン・ロイヤルの下、コーチを受け日本デビュー戦へ向け最終トレーニングに入ります。

ヘッドロックをコーチするロイヤルに輪島もやる気満々だ

アメリカ修行時代のヒトコマ。ロングブーツ購入としゃれこんだが、履きなれない靴にはさすがの輪島も大苦戦!?

こうして4月から7ヶ月間のプロレス修行を終え11月1日に地元の七尾総合市民体育館にてタイガー・ジェット・シンとデビュー戦を行います。で、大変申し訳ないんですが、ここだけ週プロも週刊ゴングも所有しておらず画像なしです。すいません。

しかし当時のことはよく覚えていますよ~。この日はデビュー戦、生放送でやるということで朝から興奮しちゃって、学校で、今日は輪島デビュー戦なんだぜ!!なんてみんなに言って回ってましたね。加えて相手がジェットシンということで、どうなるのかまったく想像できなくて、なおのこと興奮してました。試合ももちろん興奮しました。試合終わってジェットシンが戻ろうというとき輪島がコーナー上がって、アームボンバーの構えで挑発したんですよね。それがカッコよくて、よかったですね~。

その後、12月12日、最強タッグ最終戦で馬場さんと組みリック・マーテル、トム・ジンク組と対戦。バックドロップ、そしてワジマ・スペシャルの二段式首折りを初公開し東京デビューを飾りました。

見事に決まったワジマ・スペシャル。輪島の現役時代で一番と言ってもいい決まり具合だった

年明けからは本格的にシリーズ参戦し、ジエットシンとの抗争に加えザ・ロードウォリアーズ、リック・フレアーらと戦いを繰り広げました。

87年2月5日、札幌中島体育センターでの3度目のシングルではジェットシンの目つぶし攻撃の洗礼!!ますます遺恨を深めることとなった

2月27日、愛知県豊田市体育館ではザ・ロードウォリアーズと初激突。わずか4分あまりの対決だったがアニマルのベアハッグを相撲の流すくい投げで返し、真っ向勝負を展開した。同年6月9日には日本武道館でジャンボ鶴田と組みウォリアーズの保持するインターナショナルタッグにも挑戦している

3月21、日本武道館ではリック・フレアーの持つNWA世界ヘビー級王座へ挑戦。アメリカでのデビュー戦からわずか7ヶ月でのNWA王座挑戦となった。大善戦となったがスピニング・トゥーホールドを首固めに取られデビュー以来、初のフォール負けとなった

4月からはスタン・ハンセンと初遭遇。PWFの王座決定戦の2連戦で名勝負を展開します。4月23日、第1戦目の新潟市体育館では12分36秒、押し気味の両者リングアウト。第2戦目の24日、横浜文化体育館では試合前に奇襲のボディスラムを見舞うなど気合い十分でしたが12分38秒、最後はラリアートから首固めに敗れPWFヘビー級王座奪取なりませんでした。

ラリアートをかわし相撲タックルからワジマ・スペシャルを決めるのは屈指の名シーン!!輪島の勝負勘には脱帽だ

87年中盤からは天龍革命をブチ上げた天龍、原との戦いも激化。前田日明をも刺激させた天龍の徹底した攻めに輪島も奮起しました。

天龍の妥協なき攻めに、ときには流血しながらも元・横綱の維持を見せた輪島

そして8月31日、日本武道館では石川と組み馬場さん、タイガーマスク組と対戦。初の師弟対決も実現しました。

師に容赦ないストンピング。シングルも見てみたかった

そして迎えた世界最強タッグです。87年はファンクス、ハンセン、ゴディ、に加え新日本から戻ってきたブロディ、スヌーカ、ブッチャーが参加。史上最高とも言われる豪華メンバーがそろっての大会となりました。輪島は馬場さんとの師弟タッグで出場し強豪たちと連日激闘を繰り広げました。

ブッチャーには苦戦する場面も多かったが、相撲殺法で一矢報いる場面は圧巻。現役時代を彷彿させる下手投げは会場を大いに盛り上げた

しかし、明けた88年2月から輪島は第五頸椎骨折という大ケガで入院。約2ヶ月、欠場する事態となってしまいました。

3月26日、長い欠場から輪島は復帰します。が・・・輪島が休んでいる間、全日本は鶴田、天龍、ブロディ、ハンセンが軸となりインター、PWF、UNのタイトルが統一される時代に突入せんとしていました。気迫に欠け、勢いがなくなってしまった輪島はそこに入れる余地もなく中堅どころに留まる形となってしまいました。

のちにタイツの色を変えたりと、心機一転挑んだが・・・

長引く低迷。この先どうなるのか・・・ここで輪島は奮起し、88年8月6日から16日まで地元の石川県七尾市某所の倉庫で特訓を行うことにしました。輪島は特訓場所となった七尾市某所の倉庫内へリング輸送のトラックに同乗し現地に入り、リング設置も自身で行い、基本に戻った受け身の練習から、得意技の再確認。そして途中合流してきた馬場さんからフライングネックブリーカードロップを伝授されるなど、まさに進退をかけた特訓を行ったのです。

ラストチャンスに賭ける!!という輪島の気持ちに応え、馬場さんは得意技を直伝

しかしデビュー当時の勢いは、ついに取り戻せず・・・カブキと組んで出場した88年の世界最強タッグが終わると、ひっそりとプロレス界をあとにしました。

12月16日、日本武道館でクラッシャー・ブラックウェル、フィル・ヒッカーソン組と対戦し、11分42秒、ゴールデン・アームボンバ一でヒッカーソンからフォール勝ちを収めた。画像は試合後に勝ち名乗りを受ける輪島。最後のプロレスラー姿は、どこかせつなかった・・・

相撲の頂点、相撲界では神様である横綱になった人が、ちがう競技をはじめからやり直す・・・けしておごらず、海外修行や試合で一生懸命にプロレスをやっている姿が本当に好きでした。ありがとう輪島。黄金の左、忘れません。

ありがとう・・・



Viewing all articles
Browse latest Browse all 312

Trending Articles