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スレーター追悼(番外編)

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どうも!!流星仮面二世です!!

さて、前回ディック・スレーター追悼をやりまして、その中でもちょっと触れましたディック・スレーターの交通事故についてですね、今回は番外編としてお送りしていきます。

さて、ディック・スレーターと聞くと、必ず出てくるのが

「ケンカ番長」

「第8回チャンピオン・カーニバル決勝戦の鶴田戦」

「交通事故後は」

と・・・いう感じではないかなと思います。まず、ニックネームのとおりのケンカの強さ。そして鶴田のライバルとして来日の度に頭角を現し、ついに展開されたチャンピオン・カーニバルでの名勝負。しかし翌年事故に遭い、後遺症もあったのか・・・トップ戦線で活躍しなくなってしまった、と、こういう解説が多いですよね。

しかしながら、実際ディッキーの事故に関してはほとんどのことがわかっていません。結局のところこの事故はどのようなものだったのでしょうか?

現在、ネットで調べてもその詳細は明らかではありません。検索し最もヒットするWikipediaのディック・スレーターでも

「フロリダを離れるとテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングに進出。1981年2月に交通事故に遭い、平衝感覚を失う後遺症が出たためしばらく欠場するも、カムバック後の8月15日にマニー・フェルナンデスからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取」

1981年の交通事故後は精彩を欠き始めトップ戦線からは脱落していったものの、以降も全日本プロレスへの参戦を続け、1990年11月まで通算17回に渡って来日した」

と、わずかしか触れていません。ディッキーの交通事故がわかるものは、ないのでしょうか?

探してみたところ、当時の話が81年6月に発売されたプロレスアルバムNo.11ディック・スレーターに詳細が載っていました。その文章を原文のまま、時系列を整えながら転写して追ってみます。

「事故が起こったのは81年2月6日の午前9時半ごろだった。前日テキサス州サンアントニオの試合に出場したスレーター、テリー、タリー・ブランチャード、フレデリック・ベーレンドら6人が、ビールを飲んで食事をした後、この日の試合地コーパスクリスティーに向かうべく一台の大型乗用車に同乗、夜を徹してハイウェイを突っ走り、朝もやで視界が悪くなっていたためか、ハイウェイ中央にエンストを起こして停車していた大型のレッカー車に追突してしまったのだ」

う~ん、これは衝撃的でした。まず交通事故はディッキー単独のものではなかったんですね。しかも運転者はタリー・ブランチャードで、テリー・ファンクも一緒に乗っていたとは驚きです。

「救急車で病院に運ばれ、全員がいったん入院させられたが、医師の診断は、テリーが全治1週間、スレーターとベーレンドは同2週間、運転していたブランチャードは肋骨にひびが入って同3週間。乗用車はメチャメチャだったという」

そして、驚きの事実はこのあとです。

「テリーだけは同夜病院を抜け出してコーパスクリスティーの試合に出場、また病院に帰り、翌日午後には全員が勝手に退院して、レンタカーでサンアントニオに帰っている。スレーターは、事故当日の試合は欠場したものの、その後は出場していたのだ

ディッキー、なんとこの時点では事故後も試合に出場していたんです。

事故後の3月1日にジョージア州アトランタのオムニ・コロシアムでもビッグマッチに出場。オレイ・アンダーソンと試合を行っていた

かつて足を銃で撃たれながら、わずか2週間で復帰したことがあるというディッキー。事故に遭いながら、外傷や骨折等がなかったため、大丈夫だ!!とすぐ試合をしていたのかもしれません。しかし見た目には変わらなくても、試合ではほとんど技が出ず動きにも違和感があったようです。やはり何かしらの異常があったように伺えます。

この事故のあと、81年3月27日からディッキーは第9回チャンピオンカーニバルへ参加する予定でした。前年の鶴田との決勝戦など、その活躍ぶりからファンの期待のかかった待望の来日となるはずでした。ですが、これが不参加となります。理由は例の交通事故となっていたようですが、実は来日も迫った3月21日、フロリダ州タンパでダスティ・ローデスと対戦したとき、こんなことがあったようです。

「カーニバルに参加したジャック・ブリスコの話では、スレーターの来日が不能となった直接の原因は、フロリダ州タンパでダスティ・ローデスと対戦中、マットに後頭部を強打して人事不省となり、入院したためだという。その後、国際電話でジャイアント馬場が何度も容態を聞いているが、一時は両目がはれあがって危険な状態にあったスレーターも、3月31日には退院している。だが精密検査の結果がまだ不明で、レスラーとして再起できるのかどうか結論はまだ出ていないようだ

試合中に後頭部を打った際、あまりの衝撃にディッキーの目が飛び出しそうになったという記述もあります。一歩間違えればリング禍にもなりかねなかった、想像を絶する大事故だったようです。

交通事故後も試合に出場していたディッキー。アンダーソン戦でも見受けられたように、事故の影響で体が動かなくなる、または動けなくなる瞬間が発生するようになってしまっていたのではないでしょうか?だから受け身が出ず、ローデス戦で後頭部を打って重傷となってしまったのではと・・・ローデス戦での事故は、先の事故から続く二次災害だったとも考えられそうです。

その症状、深刻さについてはテリーの話が同じくプロレスアルバムNo.11 ディック・スレーターに載っています。

「ディッキーの症状は、はっきりいって相当悪いようだ。現在はすでに退院して自宅で療養しながら一週間に一度、タンパの脳外科に通院しているという。吐き気、頭痛、背中の痛みをおぼえるようで、毎日気分のはっきりしない苦しい日が続いているようだ」

「ディッキーは歩くのも困難だと聞いている。だから、一時、トイレに行くのにも人の手を借りたそうだよ(中略)だが、私の口から一ヶ月先、半年先にカムバックできるとはいえない。ドクターにまかすしかない」

そしてテリーとの話から、編集者が文章でまとめているところにこんな言葉が出てきます。

「いずれにしても"スパイナル・タップ"とテリーが呼んだ病気に悩むディッキー」

このテリーの話はインタビュー方式ではなく、テリーの話の要所を抜き出して、編集文と一緒に構成されている形なので・・・テリーが実際どう話したかは不明ですが、テリーはこの編集者との会話の中で何度か"スパイナルタップ"という言葉を出し、ディッキーの症状として説明している様子がわかります。

しかしスパイナルタップとは、一体どんな症状のことなのでしょうか?

weblio辞書によると

「スパイナルタップ:脊椎穿刺(せきずいせんし)脳脊髄液の採取や薬物の投与を目的として脊柱の下部に針を刺す手技。「 lumbar puncture(腰椎穿刺)」とも呼ばれる」

ということになるそうです。プロレスアルバムでは診断名、病名となっていましたが、どうやらこれは検査、治療のことだったようです。この治療方法をするようだと、どのような症状であったのか・・・専門知識がないのでこれ以上のことはわかりませんが、大変危険な状態にあったことはまちがいなさそうです。

さて、だいぶディッキーの事故のことがわかってきましたが、ここまではいわゆる"伝わってきた話"です。それとは別に、ディッキー自身が事故を語っものはないのでしょうか?探してみると、本人が事故のことを語ったことが載っている貴重な記事が意外なところにありました。昭和56年8月号の別冊ゴングで当時連載されていた

「チャコの・・・アタック・インタビュー 第6回 ディック・スレーターの巻」

です。

チャコのアタック・インタビュー。これはチャコという女性が、毎回様々なレスラーにいろいろな話を聞いていくというものでした。内容はマニアック感は一切なく、とにかくソフト。かわいくて、そこまでプロレスに詳しくない。そんな女性が話を振るのがレスラーにはたまらなく、またチャコさんのフレンドリーさと聞き上手が手伝って、レスラーからは毎回好印象、好感を持たれていました。

インタビュー時のディッキーとチャコさん。ちなみにチャコさん、全12回の掲載にしてプロフィールはおろか本名すら載ったことがなく、その詳細は一切不明。何者だったのか未だ謎である

で、そのインタビューです。81年7月、サマー・アクション・シリーズに来日したディッキー。このとき事故発生から5ヶ月。事故後、おそらく初めて本人が語った事故の話でした。

スレーター「一瞬の出来事だったけれども、まだ鮮明に覚えているよ。あれはちょうど朝方のことだったけどサンアントニオからコーパスクリスティに向かう途中の山道で頂上にさしかかるところだったな。横にはオレの親友のテリー・ファンクが座っていたが、二人とも長くハードなサーキット・コースなので、グッタリとシートに寝そべっていたんだ。その時、ドライバーの悲鳴でハッとした瞬間、停車中の大型トラックに激突したんだ。そのあげく今度は対向車に突き飛ばされ、オレ達の車は完全にひっくり返っちまったんだ。とにかく、その日は夜からずっと霧が濃くて視界がきかない最悪のコンディションだったことは確かだよ」

チャコ「ワァー、コワイ!それで結局皆んな無事だったのかしら?」

スレーター「まあね。誰もしには死ななかったけどさ。でもドライバーのタリー・ブランチャードって奴は腕を二本折っちまったし、テリーはヒザをやられた。どういうわけかオレが一番ひどい目にあったんだ。完全にKOで、十日間もこん睡状態が続いて、気がついた時にはベットの上さ。そのあげくに打ち所が悪かったせいか、いまだに記憶を失う時がたまにあるんだよ

ディッキー自身が語った交通事故は、最初に書いたプロレスアルバムの話とほぼ一致していました。しかし10日間、昏睡状態になって・・・というのはかなりちがいます。

もしかするとディッキーは2月6日の交通事故での入院から3月21日のローデス戦で重傷を負い病院で気がついたところまでの、この間の記憶が喪失してしまっていたのでは・・・事故での度合いを考えると、あり得ることだったかもしれません。実際、事故以降は記憶が飛ぶことがあったようで、試合中にレフリーに今、何本目だ?など経過を問うことが多々見受けられたようです。

その後、後遺症という言葉が付きまとい、日本ではかつてのようにメインで活躍することはなくなってしまいました。しかしディッキー、海外では様々なテリトリーで活躍しシングル、タッグともタイトルホルダーとして試合を行っていました。

実際、後遺症はどこまで続いていたのか?これだけの症状なので、すぐ治るとは思えません。おそらく長く、何かしらの障害は残っていたのではと思えます。海外での活躍は事故後も続きましたが、しかし事故以前に次期NWA世界ヘビー級王者候補と呼ばれ、実際NWA王座挑戦にも挑戦していた、そのようなメインを張る形の第一線での活躍はなくなってしまった感があります。そこで考えられたのがミスター・プロレス・アワーさんがブログで書いていた話です。


後遺症があった時期があるのはまちがいありません。しかしディッキーがいた時間軸には、自身が事故をして後遺症が出て、そして症状が改善されていった時間の流れと同時にプロレス界に新しい波や流れが起きる時間も当然流れていたわけですよね。日本でも海外でも、このふたつが事故後のディッキーには影響したと言えるのかもしれないですね・・・

そして最後に感じたことをふたつ。まず"レスラーであるがゆえの体への過信"です。現在こそ聞かなくなりましたが、かつてはプロレスには人間離れした、鍛え上げられたプロレスラーならではという逸話や伝説が数多くありました。頑丈さ、丈夫さ、タフネスぶり・・・それこそ常人では考えられないような状態でも平気でリングに上がったり、病院も行かず治してしまうようなことがあったのです。

先にも書きましたディッキーの交通事故直後の様子をまとめると、救急車で病院に運ばれ全員が入院し全員全治数週間の診断を受けます。しかし翌日には全員が勝手に退院し240~260キロあまりの距離を移動し試合に出場しているのです。一見すると、いやぁ~さすが昔のレスラーは、すごいなぁ。やることがちがうなぁ~とも思えますが、もしもディッキーがこの事故の後遺症によりローデス戦で頭を強打して亡くなっていたとしたなら、それこそ武勇伝にも逸話にもなりません。事故のあと、勝手なことをせず病院で精密検査を受け、しっかり治療、静養を取るべきだったのでは・・・そうすればローデス戦での事故は起きなかったのではないか?ディッキーが言われるターニングポイントも訪れなかったのでは・・・そんな気がします。

しかし一方で、体への過信でもなければ、治療、静養なんて言えない"試合に出続けなければならない事情"が当時のアメリカのプロレスにはあったことも否めません。現在でこそプロレス団体は会社、組織として成り立ち、きちっとした管理下での給与の支払いや保証が成されるところも多くなりました。でも、かつてのアメリカのプロレスは、上がるリングへのプロモート、プロモーターとの交渉、試合、移動、宿泊先の手配と、いろいろなことをレスラー個人がやらなければならない世界でした。ファイトマネーも1試合いくら、出なければゼロ。休んだら食えない、長く休んだら使ってもらえない、信用も失うという現状がベテランですらあった時代がありました。

交通事故後、ディッキーがどんな思いで試合に出続け、そしてさらなる事故は起きてしまったのか・・・先に書いたものはあくまでボクの感じたことでしかないので、その真実はわかりません。しかしプロレスラーが戦い続けなければならないこと。それを思うと、本当になんとも言えない、複雑な気持ちになって仕方がありません。

現在のプロレスは技が高度になり、危険度が増しました。負傷から長期欠場というニュースも多々あります。命懸けでプロレスを見せてくれるレスラーに感謝しつつ、同じようなことが起きないよう祈るばかりです。


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