どうも!!流星仮面二世です。
さて、遅くなってしまいましたが・・・10月18日になります。ケンカ番長ディック・スレーターが亡くなりました。輪島が亡くなって、輪島の追悼記事を書いていたときに入ってきた訃報でした。
本当はツラいことです。1年の内に、こう何度も訃報を聞き追悼するのは正直ツラいです。でも、思い出のレスラー・・・忘れたくないですからね。遅くなってしまいましたが追悼します。みなさんお付き合い、どうぞよろしくお願いします。
ボクは誕生日が同じということで輪島のことを年に一度は必ず思い出していると前回書きましたが、ディッキーもある理由から毎年2回は思い出す日があるレスラーでした。なぜかと言うとボクの父親の従兄弟にディック・スレーターそっくりな人がいるからです。
この親戚のディッキーは自動車屋さんをやっていて、ボクの家から実家から、その親戚に至るまでお世話になっている人です。もちろん昔から知っていて当然日本人なんですが、なぜかディッキーそっくりなんです(ちなみにこのディッキーのお兄さんは80~90年代にアメリカのレース、NASCAR(ナスカー)で活躍したレーサーのテリー・ラボンテに、そのお姉さんは第10代大統領のフェルディナンド・マルコスの夫人イメルダ・マルコスの若いときにそれぞれそっくりです。って、あらためて並べて書くとすげぇ家だなぁ)
まあ、ということで車検やなんやでよく行くので、帰り道はいつも「そういえばディック・スレーターって今どうしてるかな~」と考えながらになるんですよ。今年の8月も自分の車が車検だったんで、ディッキーを思い出し昔の本を引っ張り出して読んでました。なので、それから2ヶ月後に訃報を聞くとは本当にショックでした。
では振り返ってみます。ディッキー、かつては"右利きのテリー"と言われたほどのファイトスタイルが印象的なのでテキサス系に感じますが、フロリダ州のタンパ出身なんですね。
大学時代はアメフトで活躍。優秀だったようでNFLのマイアミ・ドルフィンズからドラフトされたこともあったそうです。ドルフィンズはプレイオフ進出23回、スーパーボウル優勝2回という、かなりの強豪チームです。ディッキーが誘いを受けた70年代はドルフィンズの全盛期の始まる頃だったので、この時代に声が掛かるあたりからディッキーがいかにすごかったかがわかります。
しかし大学卒業後はアメフトの道には進まずマイク・グラハムを通じエディ・グラハムのフロリダのCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)というプロレス団体にて1972年にデビューとなります。
ここから、日本での活躍を見てみましょう。
初来日はデビュー2年目の1974年8月、全日本プロレスのサマー・アクション・シリーズ第2弾でした。このときがもうファンク一家の一員という形だったディッキーはタイツこそ意外なサイケでしたが、そのファイトはまさしくファンク一家。テリーを彷彿させるスタイルから"右利きのテリー"と呼ばれ注目されました。
初来日でサムソン・クツワダと対戦するディッキー
この後、2度目の来日となったのは2年半後の77年2月、エキサイト・シリーズでした。初来日ではシングルで鶴田にフォール負けしてしまったディッキーでしたが今度は30分時間切れ引き分けに持ち込む大健闘。成長を見せました。テリーからもらった"星のパンツ"がいいですね。
星のパンツにヒザのサポーター、そしてファイトと、本当にテリーにそっくりだった
77年の世界オープンタッグ以来、因縁を引きずっていたテリーとブッチャー。そのブッチャーを追ってやってきた"兄キ"テリーを守るため大健闘したのが3度目の来日となった78年7月、第1次サマー・アクション・シリーズでした。同シリーズではvsブッチャーが主戦となるテリーの助っ人はもちろん、7月21日、旭川市体育館で行われたインタータッグ王座挑戦チーム決定戦でテリーと組んでブッチャー、ルーファス・ジョーンズ組と対戦。これに勝利し馬場さん、鶴田の持つ同タッグに挑戦もしています。
テリーを守るためブッチャー相手にケンカ番長ぶりを発揮した
レストランで注文を待ってる間、ゲーム?を真剣に見つめるふたり。兄のように親っていたテリーとはとても仲が良くプライベートでもいつも一緒だった
翌79年3月には第7回チャンピオン・力ーニバルへ参戦。ブッチャーと並び二大外国人エースとして活躍します。3月9日、愛知県体育館ではシリーズ早々ブッチャーとのシングルが実現。ファンク一家の宝刀スピニング・トゥーホールドやブッチャーの凶器を取り上げやり返すなどガッツあるファイトで奮闘しました。
大流血しながらも闘志むき出しでブッチャーを攻めるディッキー。カッコいい!!
またシリーズでは鶴田、スレーターvsブッチャー、大木というタッグマッチが3月25日、後楽園ホールで実現。注目を集めました。ブッチャー、大木のダブルヘッドバットという連携に苦戦しながらも友情タッグで応戦。3本勝負だったこの試合は1-1の引き分けとなりましたが会場は大興奮となりました。
ライバル同士の夢のタッグは一度と言わず何度も見てみたかった
そして、もう説明は不要ですね。80年3月に行われた第8回チャンピオン・カー二バルです。公式戦では馬場さん、鶴田に勝利し、片目をブッチャーに潰されながら進んだ決勝、鶴田との一騎討ちは今でも語り草ですね。
鶴田のジャーマン・スープレックス・ホールドだけでない。ディッキーの決勝までの道のり、試合内容も素晴らしいぞ!!
開幕戦はブッチャー、カマタ相手に大乱闘を展開。公式戦ではリッキーを見事にサポートした
公式戦ではタッグながらビル・ロビンソンとも対戦。キャッチにはケンカ殺法で対抗だ
それでですね、そうなんですよ。これ、足を見てください。ディッキー、ロビンソンの足を踏んでパンチしてるんですね。知ってのとおりロビンソンにはキャッチの技術、リストの取り方ひとつ取っても他のレスラーには真似できない研ぎ澄まされたレスリングテクニックがありますが、ならばディッキーにも実戦で場数を踏んでいる"ならでは"のケンカのテクニックがあるわけなんですね。プロレスの中で見えるこういった攻防ですね。奥深さを感じます。
さて、80年末まで・・・デビュー以来、日本はもちろん海外でも活躍し、次期NWA世界王者候補として必ず名を連ねるほどのディッキーでしたが、明けた81年2月、予期せぬ交通事故に遭い、皮肉にもここがターニングポイントとなってしまいます。この事故のことは次回に書こうと思います。
というわけで続きます。81年7月、最強タッグ以来、7ヶ月ぶりにサマー・アクション・シリーズに来日したディッキーは7月3日の埼玉の熊谷市民体育館で行われた開幕戦のメインでビル・ロビンソンと組み馬場さん、鶴田組と60分3本勝負で対戦しました。心配された事故の影響はどうなのか?注目が集まるところでしたが、ディッキーは1本目、得意のエルボースタンプで馬場さんからピンフォールを奪うという好スタートで不安を払拭します。
しかし2本目、両チームとも場外戦になったときでした。なんと当時、新日本プロレスに参戦していたタイガー・ジェット・シンが突如として姿を現したかと思うと試合に乱入。誰かまわず襲撃しメチャクチャにしてしまったのです。
この猛威をまず受けて立ったのがディッキーでした。翌日4日の後楽園ホールでディッキーはシングルでジェットシンを迎え撃ちます。そう、ジェットシンの全日本初参戦、最初の相手はディッキーだったのです。
試合は4分43秒、ボビー・ヒーナンの乱入によりディッキーの反則勝ちとなりましまが、ジェットシン相手にも負けないラフファイトはさすがでした。
ブッチャーとも渡り合ったディッキーと狂えるインドの猛虎の激突。この戦いは今後どうなっていくのか?戦いは今後に大きな期待を残しましたが、しかし残念ながら、これ以降ふたりが絡むことはありませんでした。
その後、やはり交通事故の後遺症のウワサがディッキーを付きまといますが
82年にエキサイト・シリーズ、同年11月に82世界最強タッグ決定リーグ戦、83年にグランド・チャンピオン・力ーニバルⅡ、84年にグランド・チャンピオン・カーニバルⅢと年に一度は来日し試合を行っていました。
84年のグランド・チャンピオン・カーニバルⅢでは7月25日、福岡スポーツセンターで天龍のUNヘビー級選手権へ挑戦。25分18秒にも及ぶ激闘となったがフォールを喫し王座奪取はならなかった
翌年85年もディッキーは日本へやってきてファイトします。85激烈!スーパー・パワー・ウォーズには特別参加として参戦し4月17日、長浜市民体育館で鶴田の持つインターナショナル選手権に挑戦。久しぶりの鶴田とのシングルに燃えますが21分29秒、鶴田の逆さ押さえ込みに敗れています。
そして同月19日に神戸ワールド記念ホールでは、この年2月からジャパンプロレスとして本格参戦してきた長州と初遭遇。ボブ・ブラウンと組んで長州、浜口組と対決します。試合は11分57秒、長州がブラウンをフォールして終わりましたが、気が済まないディッキーは次はシングルだと長州に迫ります。しかしここで思わぬ事態が・・・なんと阿修羅・原が乱入してきたのです。
実は84年の10月20日以来消息がわからなくなっていた原でしたが、同シリーズの4月3日の山形大会に突如現れ長州vs石川戦に乱入。以降その動向が注目されていた最中でした。
突如現れ長州に迫る阿修羅。ディッキーの心中は・・・
ジェットシンの初登場の乱入のときも、この原のときもテレビで見ていて覚えているんですが・・・ジェットシンのときはワァーって気持ちが高まったんですが、このときは「なんだよー!!」という感じでした。原の乱入で蚊帳の外、まるで添え物みたいな立ち位置になっちゃったディッキー。ボクはそうさせた周囲に頭にきてしまったんです。だからディッキー、原なんかやっちゃえ!!と思ってたんですが、なぜかディッキーはこのとき原に寄り添うような形を取ったんですよね。これがすごくモヤモヤして、なんとも言えない気持ちになった思い出があります。
そして87年8月、2年ぶりの来日となった87サマー・アクション・シリーズ2です。このシリーズでは、輪島の追悼でも書きましたが8月30日に茨城の土浦スポーツセンターで見たニックと組んでの輪島、石川戦が思い出となりました。印象に残ったのはスタンドでのエルボースタンプでした。本当にテリーみたいに打つんだなぁ~と思いました。そして、体あるけど機敏だったというのが記憶にあります。技が早いんではなく、ひと動作ひと動作が早いんですよね。それが印象的でした。
しかしながら最終戦までタッグマッチがほとんどだったこのシリーズのディッキー。チャンピオンシップからも遠ざかってしまいましたが最終戦の9月17日、ノーテレビでしたが新潟県の小出郷体育館輪島でスタン・ハンセンと組み天龍、原の持つPWFタッグに挑戦。メインを飾ります。結果は10分16秒、両者リングアウトとなりましたがディッキーの存在感がシリーズの最後の最後に発揮されたのがうれしい一戦でした。
その後、ディッキーは88年、90年の世界最強タッグに参戦したあと、91年からはWCWを主戦場に活躍。94年には全日本でなくIWAジャパンに来日し新設されたIWA世界ヘビー級王者の王者決定トーナメントに出場。7月20日、和歌山県の岩出町総合体育館での決勝で荒谷信孝に勝利しIWA世界ヘビー級の初代王者となりました。
これが日本最後の勇姿だったか・・・
そして翌年96年に背骨を負傷し、残念ながら引退となってしまいます。引退後は小売業をしていたそうですが、体調が優れないことが多く、また私生活では事件を起こしてしまうなど、いろいろなことがあったようです。そんな中で、67歳で・・・悲しい、寂しいです。
勇ましい姿、ガッツあるファイト。そして、ケンカ番長と呼ばれたこと。好きでした。ありがとうディッキー。また、たまに思い出すよ。ありがとう。
いつまでも忘れないからね・・・