どうも!!流星仮面二世です!!
さて、今回はですね、ちょっと遅くなってしまいましたが2019年8月1日、肺がんのため76歳で亡くなりましたミスタープロレス、ハーリー・レイスの追悼をしたく、みなさんと振り返っていこうという所存でございます。
ハーリー・レイス・・・思い出がたくさんありますね~。
小学生の低学年の頃は、ボクは学校だけじゃなく家でもよくプロレスのモノマネをしていました。そのとき得意だったのが「フォールをカウント2で返し上半身を起こしたときの天龍の首の角度」と「試合途中から始まるレイスの呼吸音」でした。
中でもレイスのモノマネは得意でした。家族の前でジャッシェアシェアシェア、ジャッシェアシェアシェア・・・とやると父親も母親や祖母も、みんな喜んでくれたので、まだ小さかったボクはそれは喜んでやっていました。やがて、家族でプロレスを見ていて、レイスのそれが出たなら
「おっ。ジャッシェアシェアシェアが始まっては、強いど~」
となるようになり、レイスの試合は我が家の茶の間で盛り上がるようになったのでした。
しかしこんな状況とは逆に、小学生時代のレイスはボクにとっては伝説的でした。当時はレスラーには珍しかった入れ墨。しかもその入れ墨の下、左腕にはすごい鉄が入っている。怒らせたら怖くて、アンドレをボディスラムで投げるほどパワーがあって、でも家は100人がパーティーできるほど広い、などなど・・・まだプロレスの知識なんかなかった頃でしたが、レイスが普通のレスラーとはちがうというのは子供だったボクにも伝わってきていたのかもしれないですねぇ・・・
では、あの日あのとき、あのミスタープロレス。振り返っていってみたいと思います。
レイスは1943年4月11日 アメリカのミズーリ州出身。高校を早くに中退し、1958年頃、15歳のときに伝説のレスラー、スタニスラウス・ズビスコの下でプロレス修行に入ります。レイスはズビスコが経営していた農場で仕事もしていたようなので、日本でいうところの押しかけ弟子状態といっていいかもしれませんね。
ここでレスラー修業を積むと、まずサーカスなどで力自慢の素人を相手にするカーニバル・レスラーとしてデビューし力をつけていきます。やがて60年に本格的にプロレスデビューすると着々と自身のスタイル、ポジションを確立しドリー・ファンク・シニアのテキサス州アマリロ、NWAウエスタン・ステーツ地区で活躍するようになると、いうことなんですね。
64年8月からはAWAに参戦。ここでアマリロ時代からの同士であったラリー・ヘニングとタッグを組み活躍し65年1月にはディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーからAWA世界タッグを奪取し抗争を展開、人気となります。
また、この時代には日本から海外武者修行に来ていたトーキョー・トム時代のアントニオ猪木とカンサス州で対決しています。
さて、ベルトの話が出ましたが、シングルでは68年4月、NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を初栄冠。同タイトルは84年10月までに9度、王者になっています。
この初栄冠の2ヶ月前、68年2月にレイスは日本プロレスのダイナミック・シリーズへ初来日しています。シリーズでは日本初登場ながら2月26日、大阪府立体育館でディック・ザ・ブルーザーと組みBI砲の持つインターナショナル・タッグに挑戦しているようですが、ちょっと資料かなく詳しくはわかりませんでした。
2度目の来日は1年9ヵ月ぶりとなる69年11月、NWAシリーズでした。このシリーズでは12月1日、広島県立体育館でドリー・ファンク・ジュニアと組み猪木、吉村の持つアジアタッグに挑戦しています。
ドリーに逆水平を打つ猪木。それをコーナーから見るレイス。もう2度と見ることのできないシーンだ
で、日にちを見ますとこのアジアタッグ戦・・・猪木とドリーの大阪府立体育館でのNWA戦、60分フルタイムの試合ですね。この試合はそのフルタイム戦の前日に行われた試合だったんですね。当日はドリー・ファンクと共にドリーのセコンドについたレイス。この前哨戦を一緒に戦っていた、そんな感じが伝わってきます。
その後、70年11月のインター・チャンピオン・シリーズを経て、日本プロレス最後の来日となった72年2月ダイナミック・シリーズに参戦します。ここでは3月13日、宮城県スポーツセンターで坂口征二の保持していたUNヘビー級王座に挑戦しています。
こんなパワーがあるやつが日本にいたのか!?坂口の猛攻に思わずレイスはこの表情
日本プロレス時代はタッグの選手権こそあれ、シングルでのタイトル戦に恵まれなかったレイスのUN戦でしたが、残念ながらタイトル奪取とはなりませんでした。
しかし7ヶ月後の72年9月16日。ミズーリ州セントルイスで、のちにNWA世界ヘビー級王座への登竜門と言われたミズーリ・ヘビー級王座を奪取します。
調べてみたところミズーリ・ヘビー級はこの72年に新設され、王者決定トーナメントが行われ決勝で勝利したレイスが初代王者となったというのが経緯のようです。そのレイスの決戦の相手ですが、なんと76年に韓国で猪木と戦ったパク・ソンナンだそうで・・・その歴史にはつくづく驚かされてしまいますね。
"ミズーリを制するものは世界を制す"と謳われたミズーリ・ヘビー級の歴史はレイスから始まった
そして73年5月24日。レイスはミズーリ州カンザスシティでドリーファンク・ジュニアを破り世界タイトル初栄冠。第47代のNWA世界ヘビー級王者となります。ドリーはこのとき4年3ヵ月というNWAの歴史の中で最も長い王座保持を継続していたため、王座陥落と共に新王者レイスの名は大変なニュースとなりました。
しかし同年7月20日。テキサス州ヒューストンにてジャック・ブリスコに敗れ、わずか2ヶ月で王座陥落となってしまいます。この日は、のちにレイス・モデルと呼ばれるようになるNWAのベルトの初お披露目となった日でしたが、残念ながらベルトは新王者ブリスコの腰に巻かることとなりました。
試合前に新しいNWAベルトを披露するレイス。向かって右は先のNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級、ミズーリ・ヘビー級の王座を管理していたセントルイス・レスリング・クラブを主宰し、NWAの発足メンバーにして1950年から1975年までに計22年に渡りNWA会長を務めたサム・マソニック氏。NWAを世界最高峰タイトルに育てた立役者だ
NWA初栄冠時は、残念ながら王者として来日できませんでしたが、73年からは全日本プロレスへ参戦。2月にジャイアント・シリーズ、8月にワールド・チャンピオン・シリーズへ参戦し、9月13日には日大講堂で馬場さんの持つPWFヘビー級王座へ挑戦しています。
それから4年後。久しくNWA世界王座から遠ざかっていたレイスでしたが、77年2月6日。カナダのトロントにおいてテリー・ファンクを下して2度目の王座返り咲きを果たしました。
その同年6月、レイスはNWA世界王者として全日本プロレスのNWAチャンピオン・シリーズに来日します。レイスが王者となっての日本での記念すべき最初のNWA世界ヘビー級選手権、第1戦は6月11日世田谷区体育館でのジャンボ鶴田戦でした。60分3本勝負で行われたこの試合は2-1でレイスが勝利しています。
続く第2戦は6月14日、千葉県・松戸市スポーツセンターでの馬場さんとの60分3本勝負でした。試合は馬場さん、レイスとも1本づつ取り1-1から3本目は時間切れ引き分けという激闘となりました。
レイスのダイビング・ヘッドバット。この飛行距離!!
海外では7月15日、カナダのカルガリーでアンドレ・ザ・ジャイアントの挑戦を受けます。レイスはアンドレの圧倒的な攻めで追い込まれてしまいますが、幸運にも反則勝ちを拾い王座防衛となりました。
のちに全米でドル箱カードとなるレイスvsアンドレは、ここから始まった
明けて78年。新春ジャイアント・シリーズに参戦したレイスは1月20日、帯広市総合体育館でジャンボ鶴田とNWA世界ヘビー級選手権を行います。試合は1-1から3本目が時間切れ引き分けとなりレイス防衛となりましたが、その内容が高く評価され、この試合は78年のプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞しています。
また、日本から帰国し、この試合からわずか5日後の1月25日にはフロリダ州のマイアミでWWWFヘビー級王者だったスーパースター・ビリー・グラハムとNWA、WWWFをかけたダブル・タイトルマッチを行っています。
同年12月18日にはニューヨーク、WWWFで行われたMSG定期戦へ出場しNWA世界ヘビー級選手権を行っています。実はマディソンでのNWA世界戦は62年11月に行われたバディ・ロジャースとドリー・ディクソンが戦って以来、このとき16年ぶりに行われた歴史的なものでした。
相手はWWWF、WWFタッグ王座の常連で当時ニューヨーク地区で人気レスラーだったトニー・ガレア。若いガレアはこのチャンスを積極的に攻めますが試合はレイスの横綱相撲。最後は得意のブレーンバスターで8分57秒、体固めに取りマディソンで堂々防衛となりました。
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16年ぶりのマディソンでのNWA世界戦で余裕のアトミック・ドロップを見せるレイス。さすが歴戦の強者だ
さて、ざっと試合を紹介してきていますが、この時代のレイスはNWA世界戦含め、他にもたくさん試合をしています。当時のNWA世界王者というのは自分の家に年間通して何日かしかいれないようなハードスケジュール。特にレイスの場合は77年2月にテリー・ファンクからNWAを奪取し79年8月にダスティ・ローデスに一旦奪われるまでのこの2年半が最も長くタイトルを保持していた時期になり、そしてこの時期が最も多忙な時期でありました。そんな、強敵ばかりを相手に戦ってきた日々がレイスの身体に影響を与えたのか・・・78年のレイスについて、こんな話がありました。
広済堂 豆たぬきの本 プロレス名鑑(1980年)よりハーリー・レイスの項
『78年春、チャンピオンでありながら、レイスは16年目の危機にあっていた。原因不明の腰痛であり、ベッドの中で寝返りが打てないほどの激痛に悩まされていた。
この事実をひたかくしにして、連日のようにチャレンジャーを迎撃していったレイス。歯をくいしばり、油汗を流しての激闘ーーー専門家の目をだますことはできず、まことしやかにその周辺には"限界説"がうずをまいていた。
東洋の鍼灸術、グゴーンのお灸、ぶらさがり健康術、スポーツマッサージ、整体術、ラジウム鉱泉ーーー腰痛がなおるというものは全部取り入れてみたがいずれも数日間の効能しかなく、時間の経過とともにまた痛みはレイスの腰へちゃっかりとカムバックしてきた。
こんなある日、移動する飛行機の中でレイスは"救いの神"にばったりと出会った。プロフットボールチームのトレーナーというその男は、「俺のホテルへ遊びにこいよ。体操を教えてやるぜ。俺の考えた体操は椎間板ヘルニアだって治してしまうんだ」と自信満々いってのけた。
フロリダのホテルでレイスは仰向けにフロアに寝かされた。
「いいか、膝を立て、腹を突き出すようにして腰を浮かし3分間がんばるんだ、アゴを引きつけてーーー」
なんの変哲もないこの秘伝を10日間、のべ時間にして10数時間消化するころからあの激痛はウソのようにうすらいでいった。「5千ドルももらおうか」といったレイスの恩人は「酒と煙草は控えろな」といい残して消えていった。以来レイスは絶好調である(原文まま)』
今、読むと、テレビでよくやってる『人生が変わる1分間の深イイ話』みたいなのに出てきそうなエピソードですが、当時の当人にとっては大問題。ここで治るか治らないかでレスラー人生が大きく変わった、分岐点になった出来事だったと思いました。それにしても名も告げず去っていった恩人は、一体何者だったのでしょうか?不思議な話でもあります。
さて、その後まさしく絶好調となったレイス。79年のスーパー・パワー・シリーズで5月8日、千葉県立体育館では強者ディック・マードックの挑戦を受けます。試合は1-1から時間切れ引き分けとなりましたが試合巧者同士の対決にして双方得意技のブレーンバスター対決と、マニアにはたまらない一戦となりました。
同年10月31日はジャイアント・シリーズに参戦。愛知県体育館で馬場さんとNWAタイトルをかけ対決します。60分1本勝負で行われたこの試合では馬場さんのランニング・ネックブリーカー・ドロップに敗れレイスは王座陥落してしまいました。
このあと11月5日、宮城県串間市体育館でレイスは馬場さんにリベンジマッチを挑みますが20分38秒、体固めに敗れ奪取失敗。しかし2日後の11月7日尼崎市スポーツセンターで20分58秒、執念の勝利。NWA世界ヘビー級の第56代王者に返り咲きました。
この3日後の11月8日、王座奪取の興奮冷め止まない後楽園ホールでは因縁の相手であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと対決。5分7秒、乱戦の両者リングアウトでしたがタイトルはしっかり守りました。
帰国後、翌月となる12月17日はマディソン・スクエア・ガーデンでダスティ・ローデスを相手にNWA世界戦を行います。この試合は当時全日本プロレスのエース外国人であったレイスがワールドプロレスリングに登場するという貴重な試合となりました。
明けて80年は5月27日、秋田県立体育館でタイガー戸口とNWA世界戦。60分3本勝負を2-1で勝利します。しかし4ヵ月後の9月4日、佐賀スポーツセンターで馬場さんとのNWA世界戦60分1本勝負は14分5秒、またしてもランニング・ネックブリーカー・ドロップに敗れ王座陥落となってしまいました。
7ヵ月前と同じ状況になってしまったレイスは再び馬場さんからの王座奪取を狙い6日後の9月10日、滋賀県の大津市皇子が丘体育館でリベンジマッチ。11分58秒、見事フォールを決め第58代王に者返り咲きました。
しかし休むまもなく、2日後の9月12日愛知県の一宮産業体育館でミル・マスカラスと対戦。14分45秒、両者リングアウトで引き分け防衛となりました。帰国後は、マスカラス戦からわずか10日しか経っていない9月22日にはニューヨークに飛び、マディソンで当時WWFヘビー級王者だったボブ・バックランドとNWA、WWFをかけたダブル・タイトルマッチを行っています。
バックランドの本拠地でヘッドバットの洗練だ
このあと、2ヶ月後の11月7日には今度はレイスの本拠地であるミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムで再びダブル・タイトルマッチを行っています。それにしても・・・数日刻みで強者ばかりと連続の世界戦とは驚かされます。NWA世界王者は強いだけではなれない。その理由がヒシヒシと伝わってきます。
さて81年です。この年、レイスは2月15日に後楽園ホールで馬場さんと60分3本勝負にてNWA世界戦を行います。この試合は2-1で馬場さんの勝利となりましたが3本目が反則勝ちだったため、反則を含む勝利のため王座は移動せず。レイスの防衛となりました。しかし、この年の6月にはダスティ・ローデスにタイトルを奪われ、しばらくNWAのベルトから遠ざかってしまうため、これが馬場さん最後のNWA世界戦にして、レイスも馬場さんと行った最後のNWA世界戦となりました。
全日本プロレスに参戦するようになってからは常に王者だったレイスは2度目の参戦となる73年の8月ワールド・チャンピオン・シリーズから、この81年10月のジャイアント・シリーズまで13回連続で特別参加としての来日でした。しかし述べましたように6月にローデスに敗れ丸腰になったことで81年の世界最強タッグは久々のシリーズ・フル参戦が実現。駆け出し時代からのパートナーだったラリー・ヘニングと組み出場することになりました。
しかしその開幕戦、11月日の後楽園ホールでレイスを待っていたのは公式戦でなくブルーザー・ブロディとのシングルでした。海外では何度もNWA世界戦を行いセントルイスでは黄金カードとして人気の対決が日本で初めて実現し期待が高まりますが4分44秒、両者リングアウトで残念な幕切れとなりました。乱闘決戦ではありましたが、ふたりがリング上で見せたドロップキック合戦は見応え十分。また対決が見たいと思える試合でした。
その後、NWAこそ手放せど・・・やはりミスタープロレス。活躍は続きます。82年、まずは4月24日にインディアナ州インディアナポリスで空位となっていたWWA世界ヘビー級王座をボボ・ブラジルを下し手にします。
日本では8月1日に後楽園ホールにてジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を奪取。ニークラッシャーの体勢から後方へ投げるレイス独特のバックドロップで勝利しました。
さらに10月26日には帯広市総合体育館にて馬場さんからPWFヘビー級王座を奪取と、強さを見せつけます。
この試合は憶えてますね~。レイスってトップロープからダイビング・ヘッドバットやる前って、首をこう傾けて、角度をつけて一度相手を見るんですよね。まるで狙いを定めているようで、これが好きでしたね~。PWFのタイトルは翌年2月11日、あのチェッカー・ドームですね。テレビでも特番でやりました。あの試合でレイスは馬場さんにベルト奪われてしまうわけなんですが、あの会場の空気、フインキですよね。「あ~アメリカのプロレスってこうなんだなぁ」と子供ながらに思った記憶が甦る次第です。
さて、翌83年6月10日。波に乗るレイスはミズーリ州セントルイスにてリック・フレアーを破ってNWA世界ヘビー級王座への通算7度目の戴冠を果たします。
20日後、6月30日にはオハイオ州クリーブランドで強敵スタン・ハンセンの挑戦を退き・・・
10月8日にはミズーリ州セントルイスでハルク・ホーガンの挑戦を受けます。この6月に第1回IWGPに優勝し勢いのあるホーガンでしたが16分23秒、反則勝ちに持っていかれてしまいました。
内容では押していたホーガンだったがインサイドワークではやはりレイスが上だった
そして日本へは同年9月から開幕したジャイアント・シリーズに参戦します。NWA世界王者としては最後の参戦となったこのシリーズでは10月26日、盛岡・岩手県営体育館でジャンボ鶴田と対戦。30分にも及ぶ戦いとなりましたが最後は両者反則となりレイス防衛となりました。
左利きのレイスの、ヒジを上げて打つ独特のパンチが鶴田を苦しめた
そして10月31日。福島・会津体育館でレイスはテッド・デビアスを相手にNWA世界戦を行います。お互い技を出しては主導権を握りあう素晴らしい試合となりましたが、最後はデビアスのスピニング・トーホールドを丸め込み18分6秒、首固めでレイスが勝利しました。
久しぶりにクリーンな結果となった防衛戦に控え室で満足そうなレイス
しかし翌月11月24日にノースカロライナ州グリーンズボロでリック・フレアーに王座を奪われてしまったため、結局この試合がレイスの日本における最後のNWA世界戦となりました。77年6月の鶴田戦から、このデビアス戦まで、レイスが行った日本でのNWA世界戦は、なんと全22戦という歴史に残るものとなりました。
84年、タイトル戦線から一歩引いた形となっていましたが84世界最強タッグリーグ戦に元AWA世界ヘビー級王者のニック・ボックウィンクルと夢のタッグを結成し出場。存在感を見せます。シリーズではハンセン、ブロディ、ファンクスとの対決も注目されましたが、12月1日に盛岡・岩手県営体育館で行われたダイナマイト・キッド、ディビーボーイ・スミスとの公式戦はこれ以上ない夢の対決となりました。
このシリーズに新日本プロレスから電撃移籍したキッド、スミスと最初で最後の対決となった。試合はリングアウトでレイスとニックが勝利した
翌年、85年になるとアメリカは若い世代、新しいプロレスが展開されていき、42歳になっていたレイスもやや勢いに押され気味になっていきました。9月2日、フロリダ州タンパで行われたAWA世界タッグ選手権、スタン・ハンセンと組んでのザ・ロード・ウォリアーズとの対決は、まさにそれを象徴するかのように思えました。
試合ではレイスの持ち味が出せず・・・いいところがないまま終わってしまった
さらに日本でも時代の勢い、波はのし掛かります。86年5月、全日本プロレスのスーパーパワーシリーズに参戦したレイスでしたが、同シリーズは全日本プロレスとジャパンプロレスの激しい攻防が展開されていた真っ只中。参加外国人はザ・ロード・ウォリアーズが途中参加ながらエースとなる構図でした。そんな中での5月24日、レイスはウォリアーズが来る前の静岡・沼津市体育館のメインで鶴田のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦します。
この試合は13分2秒、両者反則で幕を下ろしましたが、あまり大きく取り上げられず・・・おそらくみなさんも、この日の記憶は鶴田vsレイスよりセミファイナルの長州、谷津vsマシン、高野の試合にキラー・カーンが乱入し、谷津にダイビング・ニードロップを決行して谷津が失神したシーンが鮮明だったのではないでしょうか・・・?結局、これがレイスにとって日本で最後のタイトル戦となりました。
その後、同年にWWFに移籍し"キング" ハーリー・レイスとしてリングに上がりますが89年に退団。同年4月、全日本プロレスに3年ぶりに参戦しますが、これが現役レスラーとしては最後の来日となりました。
レイス最後のレスラー姿はダブルショルダーだった
以降、レスラーとしての活動はなくなりWCWでマネージャーとして活躍しましたが95年に交通事故により正式に引退と、なっています。引退後はミズーリ州でWLWという団体を99年に設立し、ジムも設けレスラー育成も行っていたということです。またWLWは日本ではプロレスリング・ノアとパイプがあったようで、WLWからノアへのレスラー参戦も行われていたようです。ジョー樋口の死去後にはGHCの管理委員長も務め、2013年12月7日、有明コロシアムで行われた「GREAT VOYAGE 2013 in Tokyo vol.2〜田上明引退記念大会〜」に久しぶりの来日を果たし、以降、シリーズに帯同。そして2014年1月4日に行われた「バディファイトPresents WRESTLE KINGDOM 8 in 東京ドーム」にて行われましたNWA世界ヘビー級選手権試合の特別立会人として登場しました。
忘れもしません。この日、ボクは15年ぶりの東京ドームでした。プロレスがわからなくなっていて、出てくるレスラーもほとんどわからなくて・・・そんな中、NWA世界ヘビー級選手権が行われると聞いて戸惑っていました。しかしそこに特別立会人としてレイスが姿を現したときのボクのテンションの上がり方と言ったらありませんでした。周りがドン引きしようが、あとからなんか言われようがかまわない。とにかく大声でレイスー!!と何度も叫びました。当時70歳だったレイスが杖を突きながらリングインしたこと、当時のNWAの会長みたいな人に詰め寄りパンチを放ったこと・・・うれしくて、興奮して、またうれしくて・・・今でもはっきり憶えています。あの日、プロレス行って本当によかったと思いました。
ハーリー・レイス。たくさん、本当にたくさんの思い出をもらったなぁ・・・額に落とすニードロップ。ドリル・ア・ホール・パイルドライバー。ダイビング・ヘッドバット。ジャッシェアシェアシェア・・・
そして・・・
バーディカル・スープレックス!!
本当に、ありがとうと伝えたい。ありがとう。ありがとう・・・どうもありがとう!!本当に本当にありがとう!!
どうか安らかに・・・