会場では着々と準備が進められています。
司会のユリオカ超特Qさんも到着。こっそり会場を確認します
その頃、朝にお会いしたあのご夫婦の旦那さんと再び遭遇。ハンセンのTシャツを身に纏いやって来た旦那さんは今年の2月19日に両国で行われたオールスター戦(魂の相伝~プロレスの日に、プロレスを見た~)はもちろん、その6日前の2月13日に神奈川県の横浜市にあるハードロックカフェ横浜で行われたハンセンのトークショーにも参加しているほどのハンセン好き。そのときハンセンと一緒に撮った画像も見せてくれました。あ~うらやまし~!!いやぁ~しかし、こういう方と出会えるのは本当にうれしいですね~。
奥様の方は朝は旦那さんのお友達の整理券を取るため一緒に来ていたようで、このあとお友達と合流するとのことでした。その後、お友達も来られ、挨拶するとトークショー開始まで3人でプロレス談義となりました。今日、さっき会ったばかりなのに、もうリミッター解除状態で楽しく話せる・・・いつも思います。プロレスファンで本当によかったと・・・ねぇ~。
こうしていよいよアナウンスがかかり、トークショー開始となりました。オープニングのNTVスポーツテーマに乗り、まずはユリオカ超特Qさん登場。早くも大盛り上がり。初めの挨拶もそこそこに、ノリノリの会場からは「ドラゴーン!!」「藤波っー!!」の声が飛びます。そこでユリオカさん
「馬場さんのね、全日本のとこで恐縮なんですが、お声もかかってるんで・・・」
と、藤波のモノマネに入ります。まずはお家芸、藤波のドラゴンストップからです(レガさんのブログより 宮戸語録 vol.25~ドラゴンストップの彼方に~)
いやぁこれは・・・テレビや動画で見てて、似てるなぁ~と思ってましたが、目の前で生で見たら似てるなんてもんじゃないですよ。このクオリティの高さ!!すごい!!これには会場、割れんばかりの大歓声となりました。
次に、小橋選手を絶賛するも、最後の「あっぱれ!!」しか聞き取れない天龍のモノマネです。これは振りだけで笑ってしまいましたが、やったの見たら笑い通り越して腹痛になりました。
そして続きまして・・・とユリオカさんが言いかけたそのとき、突然サンライズのイントロが!!騒然とする会場。しかしすぐに空気を察知したファンは一斉に、あの「入場シーンを体験!」のゲートに目をやります。開いたそこには・・・
ブルーザー・ブロディと、それから、ジミー・スヌーカがやってきますが、おっとそのうしろに、これは誰でしょうか?ウエスタンハットを被っております、ウエスタンハットを被った大型の男、何やら、どういう選手か、
あ!!スタン・ハンセンだ!!
ついにハンセンが登場です!!ゆっくりと花道を歩きリングインすると、右腕のロングホーンを突き上げて
「ウィー!!」
ああ~目の前でハンセンがウィーしてる!!なんという至極!!
しかもハンセンのうしろからは流智美さんが!!なんと通訳として一緒に来場のようです。こいつはなんて豪華なトークショーなんだぁ~!!
今回、トーク中の撮影は禁止となり、トーク終了後に撮影タイムがあるとのことだったので、じっくりとハンセンの話を聞くことができました。ここからは当日のトークの内容を当時の画像を用いながら振り返ってみます。
まず初来日の頃の思い出を聞かれたハンセン。そこでは馬場さんの思い出が語られ、ビッグフットと繰り返しては、大きな足で16文キックを食らったことが印象的だと語りました。
1975年9月26日から10月30日まで開催されたジャイアント・シリーズに初来日したハンセンはタッグで4度、馬場さんと対決した。画像は10月12日、大阪博記念公園お祭り広場でボビー・ジャガーズと組みアントン・ヘーシンク、馬場さんと対決したときのハンセン。馬場さんと3度目の顔合わせのとき。デビュー2年と8ヵ月のときだ
そしてもうひとつ、馬場さんの技ではジャンピング・クローズラインが印象残っていると話しました。ジャンピング・クローズライン・・・このフレーズにユリオカさんも流さんも一瞬、ん?という表情でしたが、そこはさすがのおふたり。フライング・ネックブリーカー・ドロップのこととすぐに解説を入れてくれました。
実は海外では元来ラリアートという言葉は使われず、首に掛かる技はクローズラインと呼ばれるんですが、本家ハンセンからしても、あの技はジャンプしながらのクローズラインということだったんでしょうね。
ではリング外での馬場さんとはどんな感じでしたか?の質問。もちろん、これはプライベートでのハンセンと馬場さんの話のことだったのですが
「ああ、リング外ではミスターババを机やイスに叩きつけたり引きずり回したりしたよ」
と答え会場を沸かせます。さすが超一流レスラーですなぁ。
続いては、トークショーではよく出てくる"これまで対戦した相手で誰が強かったか?"という質問です。今回は3人上げるとするならば?というもの・・・ハンセンが日本人レスラーで強かったと思ったのは!?
まず最初にハンセンが答えたのは馬場さんでした。
82年2月4日、新日本から移籍後初の馬場さんとのシングルとなった東京体育館のPWFヘビー級選手権は12分39秒、両者反則となったが、この年の年間最高試合を受賞。当時44歳で落ち目と囁かれていた馬場さんが全盛期復活と騒がれるほどの動きを見せ注目され、それを引き出したハンセンも好評価された。その後、シングル、タッグと何度も対決しては名勝負を残した
そして次に名を上げたのが鶴田でした。
テキサスのファンクスの下で修行時代、まさに同じ釜の飯を食ったふたりだったがハンセンの全日本登場後はライバルとして幾度となく対戦した。特にインター、PWF、UNが統一される流れとなった昭和末期から平成初期はアツかった。画像は89年4月18日、大田区体育館でハンセンのPWF、UNと鶴田のインターをかけた王座統一戦で鶴田が勝利し三冠が初めて統一されたときのもの。このときのハンセンの悔しがり方は印象的だった
最後、3人目は天龍でした。
83年発売の"君にも必殺ラリアート"の中でも、戦っていてアレ!?っと思う存在・・・いわゆる隅には置けない、侮れない存在と、早くから天龍の実力を見ていたハンセン。そんなふたりの戦い、天龍革命から龍原砲との戦い、鶴田と同じく三冠が統一される流れとなった一連の戦いは手に汗握るものだった。画像は2000年10月21日、愛知県体育館での三冠ヘビー級トーナメントでの天龍との戦いで生涯最後のラリアートを放った瞬間。まさに魂の一撃だ
では、アメリカでは・・・と問われると、ここで真っ先に名前を上げたのは意外なことにテリー・ファンクでした。
かつてはファンクスの下でプロレスを学んだハンセンにはテリーは日本でいうところの師匠にあたる。しかし全日本登場後は激しい抗争を展開し日本中を盛り上げた。テキサスの化石になれ!!はプロレス史の中でも屈指の名言だ
そして次は、これまた意外だったブルーノ・サンマルチノ。
76年の4月からWWWFへ登場したハンセンは4月26日にMSGでサンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦。ハンセンは当時絶対王者だったサンマルチノの首を折り、レフリーストップに追い込み、その名を世界に知らしめた。画像は6月26日、首の骨折からカムバックしたブルーノとの再戦の舞台となったセンチュリー・シェア・スタジアムでの戦い。8月7日にはMSGで3度目の対決をし、ニューヨーク中を興奮のるつぼに追い込んだ
そして3人目は完全予想外。会場が一番どよめいた、まさかのリック・マーテルでした。
グリーンボーイの時代には幾度と対戦していたハンセンとマーテルだが、85年12月29日、ニュージャージー州のイースト・ルーサーフォード・メドーランズ・アリーナではAWA世界ヘビー級選手権をかけ戦う運命となった。王者マーテルに対し、ハンセンはコーナーへ頭を押し当てながらのボストンクラブ・ホールドを決め27分5秒、執念の勝利を飾り第35代のAWA世界王者となった。ハンセンの思い出の試合のひとつだ
と、このような感じだったのですが、その人選には会場はもちろん司会のユリオカさんも流さんも意外性を隠せない様子でした。そこでユリオカさん、あの~、アンドレなんかは、あれですかね?と問うとハンセン、
「アンドレはフランス人だからね」
とまたも場内を沸かせます。そこでベストバウトの話となり、ユリオカさんが、やっぱり田園コロシアムのアンドレ戦は一番じゃないんですか?我々ファンはみんなそう思ってますよ。ねえ!?と盛り上げます。するとハンセン、テニス・スタジアムだったかテニス・アリーナだったか・・・田園コロシアムをそう言うと、うれしそうな、なつかしそうな表情となりました。やはりこの試合には特別な思いがあるようでした。
もはや説明不要。81年9月23日の田園コロシアムのハンセンvsアンドレはプロレス史上最高の名勝負だ!!
続いて、今度は対戦相手ではなくタッグを組んだ相手、ベストパートナーは?という質問。これにはまったく考える様子もなく即答でブロディと答え、会場は拍手の渦となりました。
大学時代から親友関係にあったふたりはデビュー間もない74年8月にタッグを結成し同年10月にはNWAトライステーツ版USタッグ王者に初栄冠。75年2月にも同王者になっている。76年4月にはハンセンと共にニューヨークなど北東部をサーキットしたが海外でのタッグはその後なかった。82年、ハンセンの全日本プロレス参戦と共にタッグは再結成され世界最強タッグで82年準優勝、83年優勝、84年準優勝の成績を残し同年4月には新設されたPWF世界タッグ選手権の初代王者となった。85年3月にブロディの新日本参戦により日本でのタッグは消滅。同年4月にオーストラリアでタッグを組んだのが最後とされる。画像は83年4月のグランドチャンピオンカーニバルで行われた世界最強タッグ・リマッチにて優勝したときのもの。プロレス史上、最強のタッグチームだった
そして次に上がったのは馬場さんの名前でした。
馬場さんとのタッグは93年、世界最強タッグにパートナーとして参戦していたテッド・デビアスの公式戦2戦目での負傷欠場から急遽誕生したものだった。チームは初タッグながら対角線ホイップからの16文、ラリアートという連携"ジャイアント・コンビネーション"を武器に一気に優勝候補に躍り出てチームは台風の目となり、リーグ終盤戦では川田・田上組、三沢・小橋組相手に連続で引き分けするという大健闘を見せ準優勝となった。94年は3月に武道館で三沢・小橋組とスペシャルマッチで対戦。最後は三沢が馬場さんをフォールするという伝説的試合となった。同年は引き続き世界最強タッグに出場。優勝圏外からは離脱したが最終戦では意地を見せ川田・田上組を撃破し直接優勝を阻止。2年連続で準優勝となった。強い信頼関係で結ばれた素晴らしいチームだった
最後は、しばらく考えてからのテリー・ゴディでした。
83年8月31日、テリー・ファンクの引退試合にてパートナーに抜擢され初タッグ。その後87年の世界最強タッグでチームとなりブロディ・スヌーカ組と対決。重要なポジションで試合を一層盛り上げた。88年7月29日、群馬の高崎で世界タッグ選手権を奪取。同年の世界最強タッグにも出場し優勝。当時のルールにより同日12月16日に世界タッグ選手権王者にも返り咲いた。テリー・ゴディの活躍はハンセンのタッグパートナーに留まらないのは知ってのとおりだが、故に自己管理がもう少しできたレスラーなら・・・悔やまれる
こうしてあっという間にトークタイムが終了し、写真撮影タイムとなりました。
撮影タイムのため立ち上がるハンセン。この立ち方!!かわらないなぁ~
そして一番前に来ました。もうハンセンに手が届きそうです。ここで来場者全員が一斉に撮影となりました。
来た・・・ボクはこの瞬間を待っていました。撮影を!?いえ、みんながスマホをかざすこのときをです!!
そう、みんなが撮影に集中している、スマホにしか意識がいってないこのときこそハンセンに声をかける最大のチャンスだったのです。肉を切らせて骨を断つ。撮影タイムにあえて撮影を捨て、本人に振り向いてもらえるようアピールするのです。そりゃ画像は残せません。でもおれは画像ではなく、記憶に残る思い出の方を取る!!
とはいえ、アピールしたところで気づかれなければそれまでの話・・・これは賭けでもあります。のるかそるか!?さぁー勝負だー!!
ボクはスマホを置き、身を乗り出しながら
「ハンセ~ン!!ハンセ~ン!!」
と両手で手を振りました。すると、みんなが撮影している中、ひとりだけちがうことをしているボクはやはり目についたか、ハンセンは気づいてくれました。ここで満面の笑顔で「ハンセ~ン♪」とさらに声をかけると、ハンセンはニヤリと笑い、ボクだけにあのロングホーンを差しのべてくれたのです。ああ~ハンセンが、おれだけにロングホーンを!!んぉぉー!!
見たか!!これがぁ!!昭和のプロレスファンの生きざまだー!!
でも最後のウィー!!は撮れたよ~!!
最後は馬場さん、ユリオカさんと記念撮影です。
馬場さんを中心に並びました
この間も続く撮影の嵐。ハンセンは終始笑顔で応えます。しかしその最中、ハンセンは急に横を向き、しみじみ馬場さんを見つめ出したのです。
あ・・・
少しすると、また笑顔になり撮影に応えていました。その間、ほんの数秒でしたが、ボクはこのシーンがこの日一番、印象に残りました。本当のところはわかりません。でもボクにはハンセンが馬場さんに「今日はありがとう」と言っているような気がして・・・ならなかったのです。
こうして最後の挨拶とマイクを握ったハンセンは、この翌日に行われる「ザ・デストロイヤー メモリアル・ ナイト〜白覆面の魔王よ永遠に〜」に先立ちデストロイヤーの思い出を語りました。
初来日の日本で、最終戦でデストロイヤーの四の字で負けたことは今となっては名誉だと述べました
そして、この場に来たみなさんに感謝を述べ、ロングホーンで締めました。
こうして大歓声の中、ハンセンは去って行きました。今回はサイン会やツーショットの撮影会などはありませんでしたが、いかにレスラーに近づけるか?という、少年時代のようなときめきを体感できた、ファンの"原点"に戻れた価値のある1日だったなぁと・・・人が去りし会場を見ながらひとり思うのでした。
さあ、おれも帰るかな。満たされた気持ちで、こうして会場をあとにしようとしたそのときでした。目の中に飛び込んできたそれは、まだこの日のプロレスは終わっていよ・・・と、囁くかのようでした。
それはイベント終了後、明日の「ザ・デストロイヤー メモリアル・ ナイト〜白覆面の魔王よ永遠に〜」のチラシをせっせと配るひとりの女性の姿でした。その女性の名は緒方理咲子さん。そう、馬場さんの奥様の元子さんの姉の娘、つまり元子さんの姪です。
2018年12月28日にTBSで放送されました「爆報!THE フライデー~昭和の大スター!禁断の2時間SP~」で、ご覧になった方も多いと思います。緒方さんは若くから馬場さん夫婦の子供のように共に過ごし、晩年の元子さんの看病をし最期を看取った方にして、馬場さん亡きあと馬場さんの意思を引き継いだ、その元子さんの意思を最も受け継いだ方なんです。今年2月の馬場さん没後20年追善興行や東京、北海道、埼玉と展開されてきました、このプロレス展の運営の中心となった人です。まさにこの人なしでは・・・という、あまりにも大きな存在でした。
お声をかけ、記念撮影を一緒にしていただいてもよろしいですか?と伺うと
「え!?私ですか!?だって私、有名人でもなんでもないですよ~」
と・・・いえいえ!!そんな~!!ゼヒお願いしますっ!!というと、そうですか~と記念撮影に応じてくれました。
いやぁ~うれしいですね~