どうも!!流星仮面二世です!!
さて今回はですね、マスクマンですよ。ボクがマスクド・スーパースター好きなのはもうおなじみですが、これがですね~、ヘビー級のマスクマンというのがツボ、大好きなんですよ。というわけで今回はマスクド以外に大好きなふたりのマスクマンをご紹介します。
まずは、スーパー・デストロイヤー(スコット・アーウィン)です。
スコット ・アーウィンは1952年5月14日は、アメリカのミネソタ州ダルース出身。76年3月にプロレスデビューすると、それから2年後の78年3月にはWWWFに登場しユーコン・ピエールというレスラー。このレスラーボクはまったく知らなかったんですが、このピエールとユーコン・ランバージャックスというタッグチームを結成するそうなんですね。で、その3ヶ月後の6月、デビュー後わずか2年にしてWWWF世界タッグを奪取するという勢いのあるところを見せ注目を集めました。
翌79年からはNWAのフロリダ地区、チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ、CWFに転戦。ここで1年ほど素顔でファイトしたのち80年からスーパー・デストロイヤーに変身すると、ヒールとしてダスティ・ローデス、マニー・フェルナンデスなどと抗争を展開します。
そしてこの年、80年10月に全日本プロレスのジャイアント・シリーズに初来日。ここでは姿形はスーパー・デストロイヤーのまま名前をジ・アステロイドとし、大型のマスクマン、ジ・アベンジャーや、このあと紹介しますビッグ・ジョン・スタッドらとタッグを組んで試合に出場しました。しかしこの当時はキャリア不足が隠せなく、バタバタとした動きばかりが目立ち活躍できなかった感じでした。
その後、81年からはNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング、GCWへ転戦。ここでマスクド・スーパースターとタッグを結成し同年1月にはNWAナショナル・タッグ王座を奪取しGCWではメインを張るようになります。テレビスタジオマッチの多いGCW特有の試合の前後のインタビューでは"しゃべり"も習得しヒール人気を集めました。
マスクド・スーパースターとテレビインタビューに応えるスーパー・デストロイヤー。この怪しく影のある雰囲気がたまらない。中央はGCWのテレビ中継担当のゴードン・ソーリー。ジョージア、フロリダなど3州でプロレス実況を担当していた人気名物アナウンサーだった
で、ご存知のようにボクはマスクド・スーパースターが好きなので、このGCW時代のふたりのタッグ映像はよく見るんですが、これがですね~スーパー・デストロイヤーが全日本に初参戦したときとまったく!ちがうんですよ。ここでは日本でのバタバタ感、無駄な動きがなくなって、かなりスムーズになっていました。中でも注目は試合運びですね。これがとにかくマスクドとそっくり。ほとんど同じなんですよ。試合の間の取り方にモーションや使う技、あと技の受け方、受けたときのリアクション。それにクセまでもが本当そっくりなんです。
動きもそうだが体型もほとんど同じだったマスクドとデストロイヤー。そのためマスクの色が同じときは、もはや一見だけでは見分けが難しいほど。タッチワークや連携も早く攻撃力のあるいいチームだった
おそらくスーパー・デストロイヤーはここでマスクド・スーパースターと組むことによってプロレスのいろんな部分を吸収していったんではないかなと思います。フィニッシュの元祖・雪崩式ブレーンバスターも完成し、スーパー・デストロイヤーの形が出来たのこそ、このGCW時代だったのではないかなと思えました。
スーパースープレックスと呼ばれた雪崩式ブレーンバスターは完全オリジナル。プロレス史上、初めて雪崩式をやったレスラーこそスーパー・デストロイヤー、スコット・アーウィンだったのだ
この年、日本へは82年11月に今度はスーパー・デストロイヤーとして世界最強タッグ決定リーグ戦に参加します。当初は弟のビル・アーウィン、そして日本ではまだ未知の存在だったテリー・ゴディとのタッグで参戦と言われていましたが、急遽、予想だにしなかった上田馬之助とのチームでの出場となりました。
現在では即席タッグだったためリーグは得点ゼロの最下位と評されますが、どのチーム相手にもむちゃくちゃ暴れて突っ掛かっていくこのチームには意外と声援が多くありました。
その後、1983年末からはテキサス州ダラス、エリック王国のWCCWに転戦。ここでは弟のビル・アーウィンがスーパー・デストロイヤー2号となり「スーパー・デストロイヤーズ」を結成。NWAアメリカン・タッグ王座を奪取し活躍します。
翌1984年2月には全日本プロレスのエキサイト・シリーズにスーパー・デストロイヤーズで参戦。自身にとっては、これが最後の来日となりスーパー・デストロイヤーズとしても最初で最後の日本登場となりました。
しかし、これだけ確固たるタッグチームにもかかわらず、シリーズ中に純粋なスーパー・デストロイヤーズとしてタッグマッチを行った試合は、シリーズ全18戦のうち、なんとわずか3試合のみでした。
というわけで日本でスーパーデストロイヤーズとして写っている写真は、ほぼ残っていない
その3試合のうちのひとつは2月26日に大阪府立体育館で行われた阿修羅・原、石川隆士のアジアタッグ王座に挑戦した選手権試合でしたが、原のラリアートから石川のダイビング・ボディアタックに13分ちょうどで1号のスコットがフォール負けという結果でした。
日本では唯一のタイトルマッチだったが、いいところなく終わってしまった
最終戦の3月1日、スーパー・デストロイヤーは埼玉県深谷市民体育館でアレックス・スミルノフと組んで阿修羅・原、馬場さんとタッグマッチで対戦しますが結果は8分13秒、原にスーパー・デストロイヤーが体固めで敗北。結果これがスーパー・デストロイヤーの日本での最後の試合となりました。
シリーズ中はシングルが少し。通常のタッグはもちろん6人タッグでも1号、2号がそれぞれ別々にちがうレスラーと組まされることが多く黒星も目立ちました。ジョージア、テキサスではヒール人気が高く、試合でもメインを張っていた人気レスラーでしたが、日本ではあまりにも不遇な待遇だったスーパー・デストロイヤー。ボクには残念でなりませんでした。
その後、84年後半からはからはガラリとイメージチェンジ。素顔に戻りビル・アーウィンとハーレーダビッドソンをイメージさせるバイカーズ・タッグチームの「ザ・ロング・ライダーズ」に変身します。
ザ・ロング・ライダーズ。向かって左がスコット・アーウィン
この80年代中盤から後半はアメリカンプロレスはタッグが大流行。有名どころから二流に至るまで数多くのタッグチームが誕生してはひしめいていました。ロング・ライダーズはそんな中にあってタッグ・ウォーの中心だったザ・ロード・ウォリアーズと抗争し人気となりました。
しかし87年9月5日、スコット・アーウィンは脳腫瘍のため35歳の若さでこの世を去ってしまいます。自身の病気がわかり余命宣告をされた後、親しい人や仲間を訪ねては感謝の言葉とお別れをして回ったというスコット・アーウィン。その人間性には涙か溢れます。レスラーとして最も油が乗る年齢。もっと活躍してほしかった。いいレスラーでした。
続いてはビッグ・ジョン・スタッドです。
ビッグ・ジョン・スタッドは1948年2月19日、アメリカのペンシルベニア州バトラー出身。72年にプロレス入りとあり、そのきっかけは墓場の使者の異名を取った"殺人狂"キラー・コワルスキーとの繋がりからだったそうで・・・スタッドにとってはキラー・コワルスキーは師にあたると、いうことなんですね。
このあたりの経緯からスタッドは76年にキラー・コワルスキーが変身したマスクマンのタッグチーム「ジ・エクスキューショナーズ」で自身初のマスクマンとなるエクスキューショナー2号に変身。超大型マスクマンタッグとして活躍し、同年5月にはWWWF世界タッグ王者にもなりました。
マネージャーのキャプテン・ルー・アルバーノを招き入れるジ・エクスキューショナーズ。エクスキューショナーは死刑執行人という意味だが、まさしく不気味な存在だ
翌1977年からはフリッツ・フォン・エリック主宰のテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリングに参戦。ここではキャプテンUSAというマスクマンになり、なんとブルーザー・ブロディからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取しています。その他、タッグでもNWAテキサス・タッグ王者となりここではかなりの活躍が見られました。
その後はマスクは被らずビッグ・ジョン・スタッドで活動しますが、NWAミッドアトランティック地区へ転戦すると3度目のマスクマンへ。なんとマスクド・スーパースター2号としてマスクド・スーパースターとタッグを組むことになります。
このスタッドのキャプテンUSAとマスクド・スーパースター2号の画像、残念ながらボクの持っている本からは見つかりませんでした。特に長年マスクド・スーパースター2号の姿を見たく探しているのですが、これがなかなか出てきません。スタッドのスーパースター2号が掲載されている雑誌等をご存知の方おりましたらゼヒ教えてください。よろしくお願いします。
さて、スタッドの日本でのファイトですが、初来日は先に紹介しましたスコット・アーウィンのジ・アステロイドと同じ80年10月の全日本プロレスのジャイアント・シリーズでした。GCW、NWAのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングではヒール軍チームとして大活躍したこのふたりが日本でもタッグを組みましたが、このときはあまり活躍できずに終わってしまいました。
GCWでのビッグ・ジョン・スタッドとスーパー・デストロイヤー。同地区ではメインを張っていたが全日本ではあまり活躍できなかった
その後、82年の年末からWWF所属となったことにより、83年には新日本プロレスの第1回IWGPにアメリカ代表として出場します。このときはリングネームこそ全日本プロレス来日時と同じくビッグ・ジョン・スタッドそのままでしたが、肉体は初来日当時よりビルドアップされて筋骨隆々。さらに黒いマスクを被りマスクマンとして登場したことにより注目を集めました。
で、このマスクなんですが・・・IWGPの開幕戦か、その次の週のテレビのときだったか?本当に記憶が定かではないんですが、桜井康雄さんが解説で、何かのトーナメントに優勝したときのマスク着けて出場してますみたいなこと言ってた記憶があるんですが・・・どなたか覚えている方いますでしょうか?記憶ちがいかもしれませんが、もしスタッドのマスクについての情報知っている方いましたら、こちらも教えてください。よろしくお願いします。
さてお話を戻しまして・・・初めての新日本参戦となったこのシリーズでは5月13日、大宮スケートセンターでの決勝リーグでアントニオ猪木とのシングル初対決が実現します。
この試合ではアンドレ、ホーガンにも引けを取らないパワーとアメフト出身ならではのスピードある攻めで圧倒。終始攻め込みましたが9分18秒、アリキックの連打からの延髄斬りでフォール負けとなってしまいました。
丸太のような腕で猪木を攻めるスタッド。敗れはしたが存在感を示した
で、これですね。スタッドはラリアートの使い手なんですが、猪木戦でももちろん見せましたが、これが見事でしたね~。身長があるのでやや腕が下がり気味になるんですが、この姿勢でアメフト流タックルの要領で、こう体で当たるように素早く打つんですね。これが格好よく迫力あってよかったですね。それと、このシリーズだったかどうか忘れてしまったんですが、右手で相手の左手を持って引きつけながらラリアートを打つという、いわばレインメーカー式のやり方をやったことがありました。打ち方にもバリエーションがあってよかったですね。

5月27日、日立市中央体育館ではエル・カネックと最初で最後のシングル対決が行われた。結果は8分21秒、スタッドが得意のラリアートから体固めでカネックを葬った。それにしても、なんという体の大きさ・・・人間起重機のニックネームも頷ける
結局、決勝リーグは猪木、ホーガン、アンドレの3強に次ぐ4位という好成績を残し、同年10月の闘魂シリーズには素顔に戻ってしまいましたがエース外国人のポジションで参戦。猪木とシングル2連戦を行うなど活躍しました。
そして翌84年。最後の来日となった第2回IWGPでは開幕戦でマスクド・スーパースターとの対決が実現します。NWAミッドアトランティック地区でマスクド・スーパースター2号としてタッグを組んでいたスタッドとマスクドとの夢の対決は肉弾相打つ戦いとなりましたが8分32秒、両者フェンスアウト引き分けとなりました。
しかし以降は猪木、長州に黒星。そして84年5月23日、前橋市群馬スポーツセンターではWWFでは抗争を通し名物カードだったアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決が実現します。試合ではスタッドが得意のラリアートで一旦はアンドレをグラつかせますが二度目を交わされコーナーへ腕を痛打。痛めた腕へアンドレがアームブリーカーを決めたところで6分23秒、レフリーが危険な状態としストップとなってしまいました。
ラリアートを交わされて「しまった!!」という表情のスタッド。この後、コーナーへ自爆し、腕を痛めてしまった
まだリーグ戦序盤でしたが、これにより腕を負傷したスタッドはシリーズ欠場となり途中帰国・・・結局これがスタッドの日本で最後の姿となってしまいました。
最後の日本マットはなんとも不本意な結末となってしまいましたが、しかし海外では活躍が続きます。この84年中盤からはWWFの全米侵攻の主力としてヒールとして活躍。翌85年3月31日の第1回となるレッスルマニアでは因縁のアンドレと1万5千ドル争奪のボディスラム・マッチで激突。翌86年のレッスルマニア2ではWWFのレスラーと当時のNFLのトップスター選手とのバトルロイヤルに参加と、大会を盛り上げました。またWWF王者だったホーガンとも熱戦を繰り広げ、WWFにはなくてはならない存在となりました。プロレス以外でも85年は俳優業にも進出しジャッキー・チェン主演の映画「プロテクター」にも出演と幅広い活躍を見せました。
こうして長きに渡り活躍してきましたが1990年にプロレスラーを引退。俳優活動に力を入れ、翌91年には映画「ハーレーダビッドソン&マルボロマン」に出演。ここでは酒場の乱闘でミッキー・ロークと激しい乱打戦を展開。スタッドらしい立ち回りとなりました。
ハーレーダビッドソン&マルボロマンでのスタッド。乱闘シーンではネックハンギング・ツリーやボディスラムも飛び出した
これがのちにミッキー・ロークの「レスラー」に多大なる影響を与えた・・・かどうかはわかりませんが、この映画こそスタッドが持ち味を存分に発揮できた役だったと思いました。
しかし引退して5年後の95年3月20日。ホジキンリンパ腫による悪性腫瘍のため47歳でスタッドは亡くなってしまいす。大変な人格者で人望も厚かったというスタッド。スコット・アーウィンもそうでしたが、なんでいい人ほど早く逝ってしまうんでしょうか・・・残念でなりません。
さて、大好きなふたりのマスクマンをご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
わずかに覗く目や口から顔を探ってみたり、本を見て体型が似ているレスラーを探してはまじまじと見比べてみたり・・・少しでも共通点があったなら、それはそれは「もしかして!!」と前のめりになったものでした。そうやって正体を追いかけては、いつも夢中になっていました。それがファンの抱くマスクマンという存在でした。
しかし、そんなファンも今では見られなくなりました。そして、見上げるような身長に人間離れした巨大な肉体で恐ろしいほどのパワーで相手を攻めては、正体不明というミステリアスな空気を振り撒いて人々を魅了したヘビー級マスクマンも・・・いなくなってしまいました。
時代と共に忘れ去られていくプロレスの風景。でも、ファンにとってのマスクマンの存在価値がどんなに変わろうと、プロレスの風景がどんなに変わろうと、変わらないものがあります。ずっと大好きなことがあるって、素晴らしいことですね。みなさんも、そう思うでしょ~?
最後までありがとうございました。