その3 ②から
を経て続きです。
探偵「ということで前回は1920年1月30日のジョー・ステッカーとアール・キャドックの統一世界ヘビー級の試合を見ましたが、この時代のプロレスを見れて本当によかったと思いました」
先輩「そうだな。プロレスの本来の姿。やはりプロレスは格闘技なんだということがよくわかったし、もはや時代にかき消されてしまったふたりの名レスラーのことを知ることができたことがうれしい。プロレスが好きで本当によかったと思ったよ」
探偵「そうですね。さて・・・そんなふたりの近いが行われた1920年。この1920年代に入るとアメリカの様子はかなり変わり出します」
先輩「そうか。確かアメリカは1920年代は好景気になるんだったな」
探偵「はい。1918年11月11日に第一次世界対戦が終わると、戦時中にいろいろなモノの生産を減らす、いわゆる減産をしていた状況が続き・・・アメリカの景気、経済は不況で、いい状態ではありませんでした。しかし大戦から帰還した兵が職につくと、ここから1年強で工場などの生産性が拡大し、徐々に景気、経済が回りだします。こうして1920年に入ると"狂騒の20年代"や"黄金の20年代"と呼ばれる好景気の時代がアメリカに訪れるわけです」
先輩「うん。この時代になると自動車の生産性が向上するね。特にフォードだ。1台1台を手作業で作っていた時代から、早々に製造ライン化を実現し大量生産に成功した社は、従業員の大幅な賃金アップをしつつ自動車販売価格は値下げするなど、いろいろな策を実施して1923年には1年間で205万5300台を生産。1924年には累計販売1000万台を達成する。アメリカ国内の半分がフォードのモデルTという車になるほどだったそうだ」
探偵「そうです。こうして、それまで上流階級しか手の届かなかった自動車が中流階級に広がったことで"家族の楽しみ"が増したのはもちろん、高速道路の開通やガソリンスタンド、宿泊施設などが増加し経済効果が上がりました」
家族とフォード・モデルT。車があることで生活は便利になり、家庭の絆や心のゆとりが増し幸福度も上昇していった
先輩「車に乗る人が増えるから燃料が売れる。行動範囲が広がるから道も通る。道が通れば遠くに行く。観光したり泊まったり買い物したりするから関連施設も増える。結果、景気は回ると・・・まったく理に適った経済効果だ」
探偵「さらに、それまで石炭だった生活エネルギーが発電所の登場により電気に変わり、生活は豊かになってきます。1920年末からはラジオ放送も始まり、電話線もアメリカ中に広がり通信も普及してきます」
先輩「日本でいう高度経済成長期というか、バブルというか・・・そんな感じだったんだね」
探偵「はい。そんな1920年代の初期、ニューヨークはイギリスの口ンドンを抜いて、世界で最も人口を擁する都市となりました。1923年2月1日にはグランド・セントラル駅も完成。ニューヨークに高層ビルが立ち並び始めた頃ですね」
先輩「そんな時代に3代目マディソンは、まさに高層ビルの中に姿を現すわけだ」
探偵「そうなんです。3代目マディソンは1925年、8番街の49-50丁目に移転する形でリニューアルされました」
先輩「2代目マディソンスクエアガーデンの場所はマンハッタンの26番街とマディソンアベニューだったから、2.5マイル、4キロ離れた場所になったんだね」
探偵「はい。おおざっぱですが地図で見るとこんな感じですね」
先輩「中央が現在のマディソンか」
探偵「はい。そしてこの3代目からマディソンのオーナーがティックス・リカードなる人物に変わります」
先輩「なるほど。この狂騒の20年代と呼ばれた時代の初期になる1920年7月22日にマディソンのオーナーだったウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトは70歳で亡くなっているからオーナー交代劇があっても不思議じゃないわけだ」
探偵「そうですね。それに、鉄道王の家系も20世紀からは勢いが下降していったようなんですね。そういう意味でも、かつて世界一裕福と言われたヴァンダービルト家が、この狂騒の20年代にマディソンのオーナーから外れたというのは何かの運命を感じますね」
先輩「だなぁ・・・で、ティックス・リカードだっけか。これはどういう人物だったんだ?」
探偵「はい。リカード氏は1920年代にボクシングのプロモーターとして名が通っていた人物だったようです。またマディソンでは有名なアイスホッケーでも名が通っており、こちらは1926年にはNHL、ナショナル・ホッケ・リーグのニューヨークレンジャーズの創設者ともなっています」
ティックス・リカード
先輩「ヴァンダービルトは資本重視なオーナーの印象があるが、リカードは現場から上がってきた実践派って感じがするね」
探偵「確かにヴァンダービルトにはないノウハウというんですかね、そういうものを持っている感じがしますね。さて、そのリカード氏なんですが、まずは1923年5月31日。ニューヨークにさらなる規模と充実性を持った3代目マディソンの建設と運営を目的として動き始めます。翌1924年にマディソンの権利を取得しオーナーとなると着工から1年も経たない、わずか249日で3代目マディソンを完成させ、オープンとなった1925年1月15日に会場と運営を管理するマディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションとして新マディソンをスタートさせると、いうことなんですね」
先輩「事前の段取りがよかったとか、そういうのももちろんあっただろうけど・・・1924年は狂騒の20年代のピークとも言える年だから、当時のニューヨークの勢いが伺えるね」
探偵「そうですね。まさに費用も勢いがあって総工費は475万ドルということでした」
先輩「475万ドル、現在にすると約513億円と、すでにこの時点ですごいが・・・これが1924年。大正13年だから、当時は1ドルが2円63銭と・・・これをかけてやれば・・・1249万2500円。約1250万円か」
探偵「はい」
先輩「で、当時の日本の物価と人件費を平均して、だいたい1円が5000円くらいの価値だから、1250万円に5000かければ・・・ろ、624億6250万円!!本当か!?だって、はいからさんが通るの頃の話だろ、これ」
探偵「これはすごいですね。東京ドームが88年で約350億円ですからね・・・って、はいからさんが通る?なんですかそれは?」
先輩「ああどうせアニメのも南野陽子のも知らないよな。若いもんな。どーもすいませんでした。続き、どーぞ」
探偵「は、はい。かくして初代、2代目より規模が増した3代目マディソンは1925年11月28日にオープンしました。プロジェクトと運営に関わった人物は、このリッカード氏の他、ナショナルホッケーリーグ(NHL)のニューヨークレンジャーズの元スポンサーであり初代社長で、マディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションの副社長でもあったジョン・スティーブン・ハモンド氏です」
先輩「ジョン・スティーブン・ハモンド・・・一体どんな人物だったんだ?」
探偵「はい。ハモンド氏は1905年に陸軍士官学校を卒業後に武官となり、アルゼンチンにいるときにテックス・リッカードと知り合いになります。その後、ハモンドは陸軍を去り、牛関係と石油関係の新規事業をリカードと共に行ったようです。その後、ハモンド氏は第一次世界大戦中は砲兵教育、訓練の担当として陸軍に従事し一旦はリッカード氏とは疎遠になりますが、戦後になるとニューヨークの証券会社の南アメリカの代表として働き、やがて1922年になると、ハモンド氏はリカード氏から新しいマディソン・スクエア・ガーデンを建設することを知らされ、再び行動を共にするようになったようなんですね。ハモンド氏はその膨大な人脈により億万長者達から資金を調達できるようにし、リカード氏とマディソンの建設に大きく貢献したと、そんな感じです」
先輩「なるほど。リカードからすると盟友(めいゆう)ってとこなんだな」
探偵「はい。他には・・・
大学時代はサッカー、陸上でトッププレーヤーとして活躍。第一次世界大戦では陸軍に所属し数々の勲章を手にし、マディソン・スクエア・ガーデンコーポレーションの社長を務め25年もの間マディソンを運営した、ナショナルホッケーリーグのニューヨークレンジャーズのクラブ経営者兼監督としても活躍した"ジェネラル"ジョン・キルパトリック。
ニューヨーク・ワールド・テレグラム(ニューヨーク世界電報)という新聞でスポーツジャーナリストとして活躍。一方でフットボールチームのニューヨークジャイアンツの試合では広報活動を行いフットボールの普及に勤め、バスケットボールではプロモーターとしてNBAの基礎となったバスケットのプロリーグの発足と普及に貢献したネッド・アイリッシュ。
19歳でペンシルベニア大学ウォートン・ビジネス・スクールで金融学の学位を取得し、当時、大手証券会社だったヘイデン・ストーンのニューヨーク支店に就職。ここでのノウハウを発揮し、のちにこのマディソンの権利を買い取り4代目マディソンを誕生させるアーヴィング・ミッチェルフェルト。
そして詳細はまったく不明ですがウィリアム・F・キャリーなる人物も3代目マディソンの立ち上げ、運営に名を連ねています」
先輩「初代、2代目マディソンはバーナムこそいたけれど、資産ある実業家たちが目立った。でも3代目マディソンのメンバーはリカードと同じく現場も知ってる実践派ぞろいと言っていい感じだね」
探偵「そうですね。で、そんなメンバーで築かれた3代目マディソン・スクエア・ガーデン。そのデザイナーですが、こちらは20世紀における劇場や映画館のデザイナーとして有名で、特に劇場ではブロードウェイ周辺だけで48以上を手掛け、ニューヨークの国会議事堂も担当したトーマス・ホワイト・ラム氏が行ったと、いうことです」
先輩「ふぅ~ん。ニューヨークの建築ラッシュに大きく貢献したデザイナーかぁ。彼の手掛けた建造物のデザインは、どこか中世ヨーロッパの建物を思わせる感じだがマディソンはまた一味ちがう感じだね」
3代目マディソン・スクエア・ガーデン
通りから入口を眺める。初代、2代目に比べると近代感溢れる風景だ
探偵「はい。しかし外観だけでなく中身もグレードアップしました。注目すべきは座席数です。現在でいう、いわゆるスタンド席の部分ですね。これが3代目マディソンは、それまでになかった3段階座席となり、より多くの観客が収容できるようになりました。アイスホッケーやバスケットボールのようにアリーナを使わないプロレスやボクシングであればマックスで約19000人を収容できる巨大会場となったわけです」
先輩「19000人とはすごい。2013年5月11日に日本武道館で開催された小橋健太の引退試合「FINAL BURNING in Budokan 小橋建太引退記念試合」が武道館のプロレス興行じゃマックスの17000人だそうだから、その規模が伺えるなぁ」
探偵「しかし問題もまだあったようで・・・当時は場内で喫煙が許可されていたそうなんですが、場内は換気が悪かったため、イベントになると会場上部に煙が留まってしまい曇みたいになっていた、なんて記述も見られました」
先輩「なるほど。ステッカーvsキャドックの試合映像でも観客席が映ったときは白っぽい霧みたいなのが見えたときがあったが、このせいだったんだな。この時代は空調設備自体の性能もまだよくなかったんだろうしね」
探偵「そうですね」
先輩「まあでかい会場は仕方ないところがあるよ。今の時代ですら日本武道館なんか1階席と2階席でぜんぜん温度ちがうもんな。夏場なんか特に。でも、なんかこういうの味わいあっていいよ」
探偵「ところで先輩、3代目マディソンでのプロレスは、どんな感じでしたか?」
先輩「ああ。興味深いところがあったよ。まず1925年。日時は不明だが、ビンス・マクマホンの祖父であるジェス・マクマホンがボクシングの興行をプロモーターの初仕事として行っている記録が残っていたんだ」
探偵「ま、マクマホン!!とうとうMSGの歴史にマクマホン一族が現れるんですね!!」
先輩「ああ。で~・・・マクマホン、一応経歴を調べたんだが、なんせ英文の資料しかなかったんで訳がまちがってるかもしれない。そのあたりは了承した上で聞いてくれ」
探偵「わかりました」
先輩「ロデリック・ジェームズ・マクマホン、通称ジェス・マクマホンは1882年5月26日、ニューヨークでホテルのオーナーをしていた父・ロデリック・マクマホンと母・エリザベス・マクマホンの間に4人兄弟の末っ子として生まれたそうだ」
ジェス・マクマホン
探偵「この時代でホテルのオーナーですか。マクマホン家は富裕層だったんですかね?」
先輩「ああ~だろうなぁ。ちなみに両親は、かつてアイルランドのゴールウェイからニューヨーク市に引っ越してきた様子が伺える記述があった」
探偵「へぇ・・・今やニューヨークの帝王と言ってもいいマクマホン一家のルーツはアメリカでなくアイルランドにあったとは意外ですね」
先輩「そうだなぁ~。で、ジェスの兄弟は皆、マンハッタン大学に通ったようで、ジェスも商業学位を取得したようだ。しかし商業系の仕事よりスポーツに興味があったようで1909年、27歳のときには兄弟でニューヨークアスレチッククラブで管理職か何かをしていたようだよ」
ニューヨークアスレチッククラブ、N.Y.A.Cは1868年に設立されたスポーツクラブ。トレーニングフロアにはスカッシュコート、バスケットボールコート、プールの他、ボクシング、レスリング、柔道、フェンシングの各フロアがある他、施設には高級レストラン、カクテルラウンジ、ボールルーム(舞踏室)、ビリヤードルーム、屋上サンルーム、図書室、会議室があり、メンバーとゲスト用に8階建のホテルも完備されている。会員になるには厳しい審査があり、会員は年間60万円の費用がかかるという。このように対象としては富裕層が占めるグレードの高いスポーツクラブだ。しかし、これまでに金メダル119個、銀メダル53個、銅メダル59個というオリンピックのメダリストを輩出している実績があり、各スポーツ界の選手の練習施設としても評価が高い
先輩「そこで・・・1911年になるとジェスは業務を拡大し、当時存在していた黒人だけのメジャーリーグ"ニグロリーグ"に着手し「リンカーン ジャイアンツ」というチームを設立。また1922年には"ブラックファイブズ時代"と言われていたプロバスケットボール界で「コモンウェルス・ビッグ5」というバスケットボールチームを設立するなどスポーツ面の運営に力を入れていたようだ」
ニグロリーグでも原動力が最も高かったというリンカーンジャイアンツ
バスケットボールチームのコモンウェルス・ビッグ5。5人制で、どのチームも5人すべてが黒人というところから“ブラックファイブス時代”と呼ばれるようになった。全米バスケットボール協会が人種的に統合された1950年までがこの時代にあたるという
探偵「先輩、先ほどから野球もバスケットも黒人だけの、という言葉が出ていますが、これには理由が?」
先輩「うん。1900年代に入るとアメリカの南部の田舎からアメリカ北部へ黒人たちが移動するようになってきたんだ。これはアメリカ史では"アフリカ系アメリカ人の大移動"と呼ばれ歴史に残っている出来事で・・・要因としては奴隷解放宣言、人種差別などに対し、その対応で南部から北部に移動した、と・・・大きく言えばそんな感じになる」
探偵「はい」
先輩「そんな"アフリカ系アメリカ人の大移動"の流れの中のひとつに、多くのアフリカ系アメリカ人がニューヨークのマンハッタン北部、ハーレムにやってきた、というのがあって・・・ハーレムはニューヨークきっての黒人街になった、というわけなんだ」
探偵「なるほど。つまりニューヨークの黒人人口が増したから黒人によるビジネスが増えた、というわけですね」
先輩「そう。1930年代、マクマホンはハーレムのイースト135番街でカジノも運営していたそうなんだ。これはおれの予想でしかないんだか、マクマホンはすでにニューヨークにいる白人はもちろん、人口が増加した黒人が興味を持ったりできるようなことをやったら様々なことが活性化するし儲けも出るんではないかと・・・そういう点に着眼したんじゃないのかな」
探偵「なるほどなぁ~。マクマホン一族は先代からエンターテイメントのパフォーマーだったんですね。とにかくニューヨーク、MSGの歴史にマクマホンが出現したのは、なんかうれしいですね」
先輩「ああ。ボクシングながら当時43歳のジェス・マクマホンがMSGで初めて興行を手掛けたというのはプロレスファンとしてグッとくるね。さて、この時代のMSGでの主なプロレスを見てみよう」
探偵「はい」
先輩「1933年2月20日、ジム・ブラウニングがエド・ストラングラー・ルイスを下し世界ヘビー級王座を奪取する。だが、これはステッカーが保持していたそれでなく、ニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級王座だったようだ」
探偵「ニューヨーク体育協会版、ですか。このあたりは以前、先輩が言っていた"この時代は認定される先々で"世界"と冠するタイトルがたくさんあって、なかなか混乱する"ってやつですね」
先輩「そうだね。このニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級タイトルはペンシルバニア州でも認定されていたそうでルイスの他にはガス・ソネンバーグ、ディック・シカット、ジム・ロンドス、ダノ・オマホニーなどが歴代王者として名を連ねている」
探偵「先輩、このジム・ブラウニングというレスラーはどんな選手だったんですか?ステッカーと激戦を繰り広げたルイスを破るくらいですから相当な猛者だったと予想しますが」
先輩「いやこれが・・・ニューヨークのプロレスの古い歴史を遡れば必ず名前を目にするレスラーではあるんだが、これまた情報がなくてね。いろいろ漁って、また英文からの情報はわずかに得られた。でもおれの訳なんで、そのつもりで聞いてな」
探偵「はい」
先輩「ジム・ブラウニング、本名ジェームズ・オービル・ブラウニングは1903年3月31日、ミズーリ州ローレンス出身。1917年、14歳のとき父親が肺炎で亡くなったため、家計を支えるため早くから働きに出たという。そこで大人に交じり建設業、油田採掘業と肉体労働に勤しんだそうだ。これらの仕事で体も心も鍛えられたブラウニングは、やがてレスラーになるためのトレーニングを開始し、プロレスの門を叩いたと、いうことらしい」
探偵「うーん、これまではレスリング経験者やカーニバル・レスラー出身など、そのような経緯からレスラーとなった話がほとんどでしたが、ブラウニングの場合はバックボーンは肉体労働で得た筋肉と精神で、生きていくためにプロレスの道を選んだ、そんな感じなんでしょうね」
先輩「ああ、おそらく・・・14歳から過酷な労働に出なくてはならなかったんだから、学校へは行けなかっただろうからなぁ。遊びはもちろんスポーツをやる時間なんてなかっただろうな」
探偵「ですねぇ・・・プロレスで活躍すれば大金を稼げ家族を幸せにできると、そんな思いからだったのかもしれませんね。まさしく裸一貫ですね」
先輩「だなぁ~。で、そのプロ入り後だが、ジム・ロンドス、ジョー・ステッカー、エド"ストラングラー"ルイス、エド・ダン・ジョージ、ジョー・サボルディ(必殺技を語ろうスペシャル!!第三回 ~ドロップ・キック~)など当時の有名どころと対戦しては名を上げたという。ニックネームはジェントルマンで、エアプレーンスピンとステッカーのようなシザースからのホールドが得意技だったようだ。1933年、ルイスを破り世界ヘビー級王者となったが、しかしその3年後の1936年6月19日、ミネソタ州ロッチェスターの病院で肺塞栓症のため33歳の若さで亡くなっているそうだ。情報同様、写真もなく見つからなかったが、多分これだ」
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ジム・ブラウニング(と思われる)

ジム・ブラウニング(と思われる)
探偵「これがブラウニング・・・つらい少年時代を経てレスラーとなり、やっとスポットライトを浴びて、これからというときに亡くなってしまうなんて悲しい運命ですね。しかし、短期間ながら世界タイトルを保持し、マディソン以外でも試合をしていたのに本当に情報がないんですね」
先輩「ああ。でも、写真こそないが、この1933年2月20日のルイスとの試合は映像が残っているんだ。カットが多く時間が短いし、顔もハッキリはわからないがブラウニングの動く姿が見れるよ」
探偵「この映像だけ見ると、強い弱いより必死さっていうんでしょうか?一生懸命さがすごく伝わってきますね。あと、ステッカーvsキャドックから13年しか経っていないのに、こんなに試合の仕方に変化が出ていることに驚きました。ルイスはヘッドロックからの投げ、そして打撃であるエルボースマッシュを使っていますね」
先輩「そうだな。そして最後、ルイスのフルネルソンをブラウニングがコーナーを蹴って弾きフォールにいくなんて、なんとも近代的だ。そしてそれらを見ている観客の反応もいい」
探偵「1920年代から1930年代の間に、プロレスがレスリング的からプロレスリングになっていく過程にも興味が湧きますね」
先輩「だなぁ。いつか調べてみたいもんだな。では、その後だ。同年12月18日にニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級王者だったこのジム・ブラウニングとAWAボストン版の世界ヘビー級王者だったエド・ダン・ジョージが対戦する」
エド・ダン・ジョージ
先輩「エド・ダン・ジョージ、本名エドワード・ナイ・ジョージ・ジュニアは1905年6月3日、ニューヨーク出身。セントボナベンチャー大学とミシガン大学の両方で勉学に励み学位を取得するほどのインテリにして1928年のアムステルダムオリンピックではレスリングのフリースタイルでアメリカ代表として出場し、+87キロ級で4位を獲得するという超エリートだった。ちなみに日本では昔からエド・ダン・ジョージと記されるが、エド・ドン・ジョージが正しいと見られる記述もあった」
探偵「勉強もスポーツも万能だったんですね。それにしても、這い上がってきたブラウニングと超エリートのエド・ダン・ジョージのマディソンでの対決。これまた興味が湧きますね」
先輩「そうだね。まるで梶原一騎作品に出てきそうなシチュエーションのふたりの対決だ。結果は時間切れ引き分けとなっている。おそらく統一戦だったのではないかと思うが、そのあたりの詳細は不明だ」
探偵「そういえば先輩、これまた"世界"と冠するタイトルですが、これはAWAなんですね」
先輩「なんだけど、これはバーン・ガニアのAWAとは別物なんだ。しかしこのAWAは当時乱立した"世界"と冠するタイトルではかなり価値が高かったようだよ。歴代王者にはルイス、ガス・ソネンバーグ、ダノ・オマホニー、スティーブ・ケーシーなどがいる。後年にはルー・テーズも王者となっているよ」
探偵「うーん、3代目マディソンの時代にはプロレスも変化を見せ、いろんなレスラーも出てきて"世界"と冠するタイトルの統一も進み出した。そんな感じがしますね」
先輩「まさしくだ。プロレスの変化もそうだし個性あるレスラーも多くなってきた。また、ニューヨーク以外でも世界と冠するタイトルの統一戦は盛んに行われるようになったんだ。しかし1938年、マディソンではある異変が起きてしまうんだ」
探偵「異変!?それは一体・・・!?」
先輩「プロレスが、行われなくなってしまうんだ」
探偵「ええっ!?」
その4 ②に続きます