その4 ②からの続きです。
探偵「先輩、マディソンの救世主とは一体!?」
先輩「アントニオ・ロッカさ」
探偵「アントニオ・ロッカ!!ボクですら名前を知っている伝説のレスラーですよ。ロッカがいよいよニューヨークに現れるんですね」
先輩「そう。前回イリノイ州シカゴのテレビ局がバディ・ロジャースやルー・テーズの試合を、西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスのテレビ局がゴージャス・ジョージの試合を放送していたことに触れたが、ニューヨーク州もプロレスの放送をしていたんだ。そこでテレビと共にマディソンで主役となったレスラーこそロッカだったんだ」
アントニオ・ロッカ
先輩「今回はマディソン自体の話に行く前に、このマディソンの伝説のレスラーのことについてちょっと調べてみようと思うんだ。なんせ謎だらけなんでね」
探偵「はい」
先輩「現在までに一般的に流れているロッカのプロフィールに基づけば、アントニオ・ロッカ、本名アントニーノ・バイアセットンは1927年4月13日、イタリア・トレヴィーゾ出身。青少年期はレスリング、ボクシング、陸上などをしており、1940年初め頃にアルゼンチンでプロレスデビューした後、アメリカへ渡ってテキサスからニューヨークへ転戦し多彩な飛び技で一世を風靡しマディソンで大人気となる。特にイタリア系、ヒスパニック系(スペイン語を母国語とするラテン・アメリカ)の移民からの支持は絶大で1949年から1962年までの約13年間に渡りマディソン・スクエア・ガーデンの帝王と呼ばれ不動のメインイベンターをつとめた・・・という感じだ」
探偵「はい」
先輩「現在までに一般的に流れているロッカのプロフィールに基づけば、アントニオ・ロッカ、本名アントニーノ・バイアセットンは1927年4月13日、イタリア・トレヴィーゾ出身。青少年期はレスリング、ボクシング、陸上などをしており、1940年初め頃にアルゼンチンでプロレスデビューした後、アメリカへ渡ってテキサスからニューヨークへ転戦し多彩な飛び技で一世を風靡しマディソンで大人気となる。特にイタリア系、ヒスパニック系(スペイン語を母国語とするラテン・アメリカ)の移民からの支持は絶大で1949年から1962年までの約13年間に渡りマディソン・スクエア・ガーデンの帝王と呼ばれ不動のメインイベンターをつとめた・・・という感じだ」
探偵「う~ん、これだけ確固たる経歴がわかっているのに謎が多いとは・・・」
先輩「ああ、とにかく多い。まず生年月日だが、ロッカには1927年の他、1921年、1925年、1928年と計4つの生年月日説が存在している」
探偵「4つ!?そりゃ過去にもそういうレスラーいましたけど生年月日説はあってもふたつでしたよ。これほどの説があるレスラーは見たことないです」
先輩「そう、悪役のような"ギミック"を操るならプロフィールが複数あっても不思議ではないけど、ロッカのようにベビーフェイスで主戦場も変わらないレスラーならなおさらだ。妙だよな」
探偵「うーん・・・」
先輩「そしてスポーツ歴は先にあげた他、サッカーやラグビーをもやっていたという情報もあった。そして田鶴浜弘さんの手記によれば父親からフェンシングとサバテ、おそらくこれはサバットのことだろう。この手ほどきを受けたという話があった。また別のところではサーカスチームでアクロバットの経験があったという経歴も見られた」
探偵「サバットはフランス発祥の護身術、格闘技でジェラルド・ゴルドーもやっていたというキックボクシングに似ているというあれですね。しかしサーカスのアクロバットは体操と似ているからって気もしますが、ちょっと突拍子がないですね」
先輩「そうだな~。まあこれらスポーツ歴には正確性はなく不明な点ばかりでわからないんだ。たた、とにかくスポーツをやらせたら何をやっても万能だったのはまちがいなかったようだよ」
探偵「なるほど。プロレスへはどのように?」
先輩「プロレス入りは1940年代初めとあるが、調べていくとアルゼンチンで1941年、1942年と、それぞれデビュー説があり、場所はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスだったというものが見られた。しかしどのようなきっかけでプロレス入り、いつ、どこでデビューしたのかはわかっていない」
探偵「うーん、本当に謎だらけですね。しょっぱなからわからないことばかりですよ。それにしても一般的なプロフィールにある1927年生まれが正しいとするなら、デビューが1941年、1942年だったなら14、5歳ということになりますから、かなりプロレスデビューが早かったことになりますね」
先輩「そうなんだけど・・・」
探偵「どうしました?」
先輩「おれらはマディソンを軸にして、マルドゥーンの時代からこうして調べてきてさ、ヨーロッパやアメリカのプロレス史こそ歴史があり、現在にまでわかっていることが多いということが理解できたよな?」
探偵「そうですね」
先輩「でも、この時代のアルゼンチンのプロレス事情ってどうだったんだろうなぁ?思わないか?」
探偵「そういえば・・・これまで、恐怖のトルコ人ユーソフやハッケンシュミットのようにヨーロッパ圏から海を渡りアメリカに来て試合したとか、逆にジェイキンスのようにアメリカからヨーロッパ圏に行って試合したとか。日本人でもソラキチ・マツダのように海を渡って活躍した人がいたとか、ありましたが・・・」
先輩「そうなんだよ。でも南米から誰かが来てタイトル戦やったとか、逆に南米に行ってタイトル戦やったとか。南米で活躍したレスラーがいたとかプロレスが行われていたとか・・・そういうのって聞いたことないんだよ。この南米ってとこは調べてもプロレスの記録が出てこないんだ」
探偵「確かに南米は格闘技こそ古くから歴史が見れど、プロレスは出てこないですね。1958年の力道山のブラジル遠征以降はプロレスという単語も見るようになりますが・・・」
先輩「そうなんだよ。こうなると1940年代にロッカがプロレスデビューしてプロレスするところが、はたしてアルゼンチンにあったのか?って話なんだよね」
探偵「そうかぁ・・・これは確かに疑問点だ。あ、でも、もしかしたら歴史には残らないようなすごく小さなローカル団体は存在していたのかもしれないですよ。そういったところで始まった可能性はあるんじゃないですかね?」
先輩「それはあるかもしれない。でも、そうだとしたらスポーツ万能のロッカが、まったく世に知れてないような小さな団体でプロレスをやる理由はあったのかな?わずか14、5歳でさ」
探偵「ロッカほどの身体能力の人間なら、収入が多いとは思えない小さなローカル団体にわざわざ入るメリットはない、かぁ・・・」
先輩「うん。で、そこで引っ掛ったのが"スタニウスラウス・ズビスコがロッカのコーチをしていた"という情報なんだ」
探偵「ズビスコがコーチを!?」
先輩「そう。調べていたら出てきた。そしてピーンときたのが以前ちょっと触れたヴラディック・ズビスコが1934年7月28日にブラジルで行われたレスリング(キャッチ)とブラジルの格闘技であるルタ・リーブリの対抗戦に出場していたという話さ」
探偵「以前に話したあれですか(プロレス研究所~MSGとプロレス その3 ② 2代目マディソンの時代 1890~1926年~)」
先輩「うん。で、ここからはおれの完全な仮説なんだけど・・・アルゼンチンのプロレス史は不明だが、もしかするとズビスコは南米に遠征していくことで当時の南米を新しいプロレスのマーケットとして開拓し、プロレスを普及させようとしていたんじゃないだろうか?」
探偵「北米に次ぐ市場の発掘。南米でのプロレス・マーケティングというわけですか」
先輩「そうそう。南米にプロレスはなかったが、アメリカから一団として行き南米で興行として行えば・・・」
探偵「WWEの日本公演だったり、今の新日本プロレスがやっている海外進出のような、そんな感じを目指したのかもしれないですね」
先輩「そう。で、そういった関係でアルゼンチンで何かのきっかけで少年ロッカの動いているところを目にし素質に惚れスカウトしたとか?あるいは誰かに"いい若者がいるんだが"と紹介されプロレスに引っ張ってきたとかね」
探偵「なるほど。そして、ひとまずアルゼンチンで試運転させ、ゆくはアメリカで本格的にやらせようという・・・そういう流れだったかもしれないと。現にズビスコはプロモーターもしていたようですし、ハーリー・レイスやジョニー・バレンタインを見出だした、いわゆる素質を見抜く目を持っていた人のようですから、あり得る話かもしれません」
先輩「うん。アメリカではプロレスは最も稼げるコンテンツだ。キミほどの身体能力ならプロレスで必ず成功できる。面倒はすべて見るよ。と・・・ズビスコからロッカへ、そんな口説きもあったのかもしれない。事実、ロッカがアメリカに渡ってきたのは1948年頃と推測されているんだが、このときアメリカに渡る手立てをしたのはズビスコとニック・イーリッチというレスラーだったらしいからね」
探偵「ズビスコの育成説。これはあるかもしれないですね」
ガチャ。
所長「ところがどっこいよ」
探偵・先輩「しょ、所長!!」
所長「1975年10月9日、 蔵前国技館で行われた猪木vsテーズの特別レフリーとして来日したロッカのインタビューが昭和50年12月号の月刊ゴングに載っているの。ここでは一般的に流れているロッカの情報とはちがう話を本人が多々しているわ」
探偵「え!!本当ですか!!」
所長「ふふふ・・・読んで、すったもんだしてちょうだい」
探偵「ありがとうございます!!先輩、さっそく読んでみましょう」
先輩「あ!?ああ。ありがとうございます」
バタン。
先輩「・・・」
探偵「先輩?どうしました?」
先輩「(このタイミングにあのセリフ・・・ステッカーvsキャドックの映像のときもそうだったが、おかしい。所長はまるで前の所長のことを知っているような動きを)」
探偵「先輩!?」
先輩「あ!?そうだな、見てみよう」
探偵「はい」
昭和50年12月号の月刊ゴングより一部抜粋(原文まま)
─さっそく伺いたいのだがまず、あなたは何歳なのかということだ。いろいろ資料によって違うし、六十歳という人もいれば五十五歳というひともいる。
ロッカ:いきなり年を聞くのは失礼だな・・・昔のわたしならば一発お見舞いしているところだが(笑い)・・・。五十とか六十とかいわれたんじゃ、とてもがまんできない。パスポートをみせてやる。一九二七年生まれとなっているだろう。正真正銘の四十八歳だ。わたしは他の人と違って年はごま化さない。まだ若いんだ。わたしは青年だよ。六十なんていわれたんじゃ本当に泣けてくるよ。
─なるほど、ところであなたはいま国籍は何国人なんですか。
ロッカ:アルゼンチンだ。アメリカに住んでいてアメリカの市民権と永住権を持っているが、ナショナリティはアルゼンチンだ。もっとも生まれたのはイタリア・・・イタリアのベニスで生まれて九歳の時、アルゼンチンへ行った。それから一九五一年、二十四歳の時までアルゼンチンで育っている。アルゼンチンのサンタフェというところでね。両親は牧場をやっていた。わたしは牛が嫌いでね。デル・リトラール・アン・ロザリオ大学に入った。
─大学を出ているんですか。
ロッカ:馬鹿にしたことをいうな。わたしのレスリングがサイエンティフィックなのは、わたしが大学で科学的な思考法を身につけているからだ。こう見えて、わたしは大学時代電子工学を専攻した電気の専門家だぜ。
─なぜプロレスラーになったんですか?
ロッカ:大学で陸上競技と体操の選手だった。アメリカで一九五〇年にパンアメリカンの陸上大会があって、わたしはアルゼンチン代表で出た。初めてそのときニューヨークを見た。ニューヨークがすっかり気に入ってしまった。そのとき知り合った友人がアメリカのボルチモアの人間で体操教師の仕事を世話してくれた。それで一九五一年にアメリカに出てきたんだが、体操教師ではもうからない。その頃プロレスを見て、トーツ・モントという男にプロレスラーにならないか──といわれてトレーニングを受けた。わたしも血の気は人一倍多い方だったので、面白い商売だと思ってレスラーになった。
─最初の試合を覚えていますか。
ロッカ:覚えている。わたしはマジソン・スクエア・ガーデンでデビューしたかったんだがデビューしたのはマイアミで、相手はアート・ネルソン・・・確か15分くらいでドローだったと記憶している。
先輩「な、なんだこれは・・・どこにも知られてないような話ばかりだぞ」
探偵「本当だ。いわゆる一般的に流れているプロフィールと合わないものばかりですよ。とりあえず噛み砕いていきましょう。まずロッカは1927年生まれと言っています。半信半疑な記者にパスポートを見せて話しているので、これはまちがいなさそうですね」
先輩「ああ。しかし生まれはロッカの一般的なプロフィールにあるイタリアのトレヴィーゾではなくベニス、つまりヴェネチアと言っている。トレヴィーゾからヴェネチアは約30~40キロほどの距離だから近いといえば近いが、イタリア本土のトレヴィーゾと離島のヴェネチアが情報として交錯するとは、なんとも妙だな」
探偵「馬場さんの出身地でたとえるなら、新潟県の三条市を佐渡島というくらいの感覚ですよ。トレヴィーゾ生まれのヴェネチア育ちってことなんですかね?」
先輩「うーん、わからない・・・」
探偵「でも9歳のときにアルゼンチンに行ったというのは、年齢から換算すると1936年になりますから、こちらは第二次世界対戦前といことになります。これは合っていますね」
先輩「だが他は理解不能だよ。1951年までアルゼンチンにいたなんて・・・」
探偵「1941年、1942年に14、5歳でプロレスデビュー説が一転して大卒、24歳までアルゼンチンにいたとは・・・この10年の開きには確かに面食らいますが、検索したところロッカの言うデル・リトラール・アン・ロザリオ大学はロザリオ国立大学・・・現存する大学です。1653年に建設されていてアルゼンチンでは名門大学のようで、もちろん電子工学部も存在しています。それと・・・」
探偵「でも9歳のときにアルゼンチンに行ったというのは、年齢から換算すると1936年になりますから、こちらは第二次世界対戦前といことになります。これは合っていますね」
先輩「だが他は理解不能だよ。1951年までアルゼンチンにいたなんて・・・」
探偵「1941年、1942年に14、5歳でプロレスデビュー説が一転して大卒、24歳までアルゼンチンにいたとは・・・この10年の開きには確かに面食らいますが、検索したところロッカの言うデル・リトラール・アン・ロザリオ大学はロザリオ国立大学・・・現存する大学です。1653年に建設されていてアルゼンチンでは名門大学のようで、もちろん電子工学部も存在しています。それと・・・」
先輩「うーん・・・」
探偵「デビュー地もアルゼンチンでなくフロリダ州のマイアミと言っています。ということは、このインタビューからすればロッカのデビュー戦は1951年以降ということになりますね。しかもトーツ・モント、これはトゥーツ・モントですね。名前を上げています。モントが関わっていたんですね」
探偵「デビュー地もアルゼンチンでなくフロリダ州のマイアミと言っています。ということは、このインタビューからすればロッカのデビュー戦は1951年以降ということになりますね。しかもトーツ・モント、これはトゥーツ・モントですね。名前を上げています。モントが関わっていたんですね」
先輩「うーん・・・」
探偵「検索したところロッカがデビュー戦の相手として名前を上げたアート・ネルソンは実在するレスラーでDVD"流智美の黄金期プロレス50選 vol.6 鉄人テーズ&野生児ロジャース"で1954年にタッグでロッカと対戦している貴重な映像を見ることができます(表記はアート・ニールスン)67年には一度だけ日本にも来日しています」
先輩「いや、ちがうんだよ・・・ロッカがアメリカのテキサスに渡ったとされる1948年はテキサスで試合した記録が残っているんだよ。これをどう説明すればいいんだ!?」
探偵「ええ!?」
先輩「1948年の8月6日にヒューストンでディジー・デービスというレスラーからテキサスヘビー級のタイトルを奪取。そして同年11月12日に流血王といわれたダニー・マクシェーンにタイトルを奪われるが30日にダラスで奪還。明けた1949年1月1日にテキサスのウェーコでディジー・デービスに破れタイトル転落というものが残っているんだ」
探偵「本当だ。アルゼンチンにいたはずの時代にテキサスでの記録が・・・」
先輩「その後のテキサスでの足取りは掴めなかったが、しかしこの3ヵ月後の4月20日、ニューヨークで同じイタリア出身の"動くアルプス"プリモ・カルネラと対戦したという記録も見られたんだ」
探偵「それはマディソンでですか!?」
先輩「いや・・・これはマディソンかどうかはわからなかったし勝敗も不明だった。でもニューヨークだったという点から、この1949年の1月1日以降から4月20日までがロッカがマディソンに登場した可能性が非常に高いんだ。確実にマディソンに出て日にちまでがわかるものであれば1949年12月12日にジン・スタンレーと対戦したのがそうだ。これがロッカが初めてマディソンでメインイベントで試合をした日だとされている」
探偵「でも、それじゃ辻つまが合わないですよ!?おかしいじゃないですか!?説とかじゃなくて本人が1951年の24歳までアルゼンチンにいたと言っているんですよ!?」
先輩「確かにそうなんだが、だとしたら1948年から1951年までの3年間をどう説明すればいいんだ!?同じ人物なのに居た場所もやってることも、まったくちがうんだぞ!?」
探偵「それは・・・そうだ!!ロッカはインタビューで1950年にアメリカでパンアメリカンの陸上大会があってアルゼンチン代表で出て、そのときはじめてニューヨークを見たと言ってたじゃないですか。現在でも行われているパンアメリカン選手権なら正式な記録が残っているはずですよ。それで調べれは何かわかるはずですよ!!」
先輩「ところがな・・・パンアメリカン選手権が始まったのは1950年ではなく1951年からなんだよ。それに、もし仮にロッカが出場した年を1年勘違いしていたとしても第1回大会の開催地はアルゼンチンのブエノスアイレスだったからロッカがニューヨークを見ることはあり得ないんだ。大会は1959年にシカゴで行われた第3回までアメリカ本土では行われていないし、現在に至るまでニューヨークで行われたことは一度もないんだよ・・・」
先輩「ところがな・・・パンアメリカン選手権が始まったのは1950年ではなく1951年からなんだよ。それに、もし仮にロッカが出場した年を1年勘違いしていたとしても第1回大会の開催地はアルゼンチンのブエノスアイレスだったからロッカがニューヨークを見ることはあり得ないんだ。大会は1959年にシカゴで行われた第3回までアメリカ本土では行われていないし、現在に至るまでニューヨークで行われたことは一度もないんだよ・・・」
探偵「そんなバカな!!それじゃロッカがインタビューで話したことって一体!?」
先輩「試合やタイトル遍歴の記録が誤ってるとは思えないし、だからと言ってロッカが西暦や日付まで交え(※インタビューでは過去の試合のことに西暦や日付も含め明確に話している)これほどスラスラとウソを語れるとも思えない。もしかすると・・・いや、そんなはずは・・・」
探偵「なんですか!?そのもしかするというのは!?」
先輩「メン・イン・ブラックって映画、見たことある?」
探偵「え!?ええ知ってますよ。地球にある宇宙人を監視する秘密組織MIB、メン・イン・ブラックの話です。シリーズ全作見てますよ。でも、それが何か?」
先輩「実は75年10月にロッカが来日した際、ロッカの世話役として宿泊先に起居したミスター高橋の体験した話を田鶴浜弘さんが81年5月に出たゴング増刊号"THE WRESTLER BEST100"に載せているんだ」
探偵「それがMIBと何の関係が!?」
先輩「とりあえず読んでみてくれ」
81年5月ゴング増刊号THE WRESTLER BEST100より一部抜粋(原文まま)
ある日突然、血相変えたロッカが頭を抱え、ベッドの隅に逃げ込み、おびえ切って口走る。「とうとう来たのか、お前はFBIか?」といったようでもあるし語尾が「UFOか?」といったようでもあった。そして、はっきり「まだ俺を連れていくな・・・」と──そして、うつろな目で窓外の上方を指差した不気味さにミスター高橋はぞっとしたが、それっきりあんなそぶりは2度と見せなかった。
ある日突然、血相変えたロッカが頭を抱え、ベッドの隅に逃げ込み、おびえ切って口走る。「とうとう来たのか、お前はFBIか?」といったようでもあるし語尾が「UFOか?」といったようでもあった。そして、はっきり「まだ俺を連れていくな・・・」と──そして、うつろな目で窓外の上方を指差した不気味さにミスター高橋はぞっとしたが、それっきりあんなそぶりは2度と見せなかった。
(中略)
ロッカが没する2週間前、ロスでミスター土門がヘルス・ジムで会ったときはまるで筋肉の化物、場合によっちゃあマットにもう一花──というくらいだった。ミスター土門の奥さんの親友がロッカの死んだ病院の婦長さんで、後年、彼女の話だと、ロッカの遺体は、まるで空気の抜けた風船みたいにしぼんでいた──というのだから、いかにも腑に落ちない話である。
探偵「ま、まさか!!ロッカは宇宙から来た宇宙人で、力が尽きたから体がしぼんでしまったっていうんですか!!」
確かに帰ってきたウルトラマンはカラータイマーを取られ、しぼんでしまったことがある
先輩「そう。そして地球にはMIBのような組織が本当にあって、若き日に何か重要な秘密を知ってしまった宇宙人のロッカに"ピカッ"をして記憶を消し、ちがう記憶を入れたんだ。だからデビュー説に10年の開きが生じたり、1948年から1951年の3年間に異変が生じてしまったんだよ」
探偵「そんなバカな・・・」
先輩「なんてな。だったら辻つまは合うんだけどな」
探偵「でも冗談でもない気がしてきましたよ。ロッカって一体、何者だったんでしょうか・・・」
先輩「わからない。でも、ロッカの時代にもう少し付き合ってもらうよ」
続きます。