その4 ⑤からの続きです。
探偵「先輩、新しい時代をもたらすレスラーとは!?」
先輩「ブルーノ・サンマルチノだ」
ブルーノ・サンマルチノ
探偵「人間発電所ですか!!」
先輩「おっ、よく知ってるじゃないか。そう人間発電所だ。ということで、ここではブルーノ・サンマルチノについて見ていこう。まずは生い立ちからWWWF王者になるまでを振り返ってみる」
探偵「はい」
先輩「ブルーノ・サンマルチノ、本名ブルーノ・レオバルド・フランセソ・サンマルチノは1935年10月6日、イタリアの・・・昔の書物にはイタリアのフオレットー、またはフォレットー。それとカブール地方ピアザ・ヴェルダッドというのが出身地として出てくるんだが、調べたところイタリアにこのような地名の場所は存在しないんだ」
探偵「ええ!?まさかサンマルチノもロッカと同じく宇宙人だったって言うんですか!?」
先輩「いや、これは多分ね・・・ひとつ出てきた出身地にイタリアのアブルッツォ州キエーティ、ピッツォフェッラートというのがあったんだが、これが唯一実在する地名だったから、おそらくフオレットー、フォレットーはフェッラート、ピアザ・ヴェルダットはピッツォフェッラートを聞きまちがいしたか記載ミスしたか、だったんじゃないかなと思う。なのでアブルッツォ州キエーティ、ピッツォフェッラートでまちがいないと思うよ」
探偵「なるほど。イタリアまではわかりますが、詳細な地名となると日本では馴染みないですからね。当時は誤認もあったんでしょうね。それにしても、宇宙人でないにしろサンマルチノもロッカと同じくイタリア出身とは驚きです」
先輩「ああ。実はそのあともちょっと似ていてな。ロッカもイタリアからアルゼンチンに移住した一家だったが、サンマルチノ家も1950年2月に家族でイタリアからアメリカのペンシルベニア州ピッツバーグに移住した一家だったんだよ」
探偵「へぇ・・・」
先輩「"G SPIRITS Vol.49 追悼ブルーノ・サンマルチノ 未発表ロングインタビュー 第1回 初めて「ボーナス」をもらうまでの25年間"によれば、サンマルチノの父親であるアルフォンソは鉄工、鍛冶の職人で第二次世界大戦前の1936年頃からピッツバーグへ出稼ぎに来ていたらしいんだ。つまりアメリカとイタリアを行き来していたんだね。しかし、やがて大戦へ突入すると帰還できなくなった父親と合流する形で移住となったようなんだが、この当時の情勢により、父親はサンマルチノが生まれて間もない頃にはアメリカにいて、やがて帰れなくなってしまったから・・・合流した1950年、つまり14歳になるまでサンマルチノは父親の顔を知らなかったそうなんだ」
探偵「大変な時代だったんですね」
先輩「本当にそのとおりでね。イタリアに残されていた母親と兄、姉、サンマルチノの一家は戦時中ということもあり裕福ではなかったようで・・・サンマルチノは少年期は小柄だったらしく、ある海外のサイトによれば、移住した14歳の時点で体重がわずか80ポンド、つまり36、7キロくらいしかなかったなんて記述もあったんだ」
探偵「あのサンマルチノが、そんなに痩せていたんですか!?」
先輩「おそらく身長もまだなかった頃なんだろう。で、それが移住した3年後には200ポンドで約90キロ、10年間で275ポンド、約125キロにまで達したというんだ」
探偵「確かに中学のとき小柄だったやつが、高校生になってすごい久々に会ったら背が伸びて大人びちゃってて、別人みたいになってて驚いた・・・なんてことはよくありますもんね。それにしても3年間で約50キロも増したサンマルチノの変貌ぶりはすごいですね」
先輩「ああ、まさしく。高校に入ったサンマルチノは運送屋で荷揚げ、荷降ろしのアルバイトをするんだが、このバイト先で面倒を見てくれていた人がトレーニング施設があったYMCA(Young Men's Christian Association キリスト教青年会)を紹介してくれて、そこでウェイト・トレーニングと出会うことになるんだ。さらに幸運にもそこにはレスリング場もあり、ピッツバーグ大学のレスリング選手が練習に来ていたのでサンマルチノも一緒にレスリングを練習したというから・・・ここで体も心も大きくなっていったってわけだね」
探偵「運命なんでしょうねぇ・・・もうプロレスラーへと導かれていってる感じがします」
先輩「そうだよなぁ。ピッツバーグにこなければウェイト・トレーニングにもレスリングにも出会わなかっただろうからね。で、その後、高校を卒業すると父親の紹介で建築会社に就職。同時に18歳からは州兵に志願することになる」
探偵「州兵?」
先輩「ああ、州兵とは文字通り州政府の管轄で州の治安維持や災害時の活動を行うアメリカの軍事組織のことなんだ。サンマルチノは建設会社の仕事をしながら、この州兵として生活をしていたらしい」
探偵「でも軍にいて普通の仕事って持てるんですか?」
先輩「うん、ニュースなどで目にするアメリカ軍は連邦政府下の軍だから、それがイコール職業となる。でも州兵というのは州知事の指揮下になるので"パートタイム"になるそうなんだ。だから仕事をしながら定期的に義務付けられている訓練に参加していく形になるそうだよ」
探偵「へぇ~なるほど」
先輩「で、サンマルチノは、この州兵での活動は1955年までのようで以降は建設会社の仕事だけに絞ってたようだ。しかしトレーニングは怠らなかったようで、1959年、24歳のときにアメリカで行われたパワーリフティングの大会に出場するとベンチプレスで565ポンド、約256キロを挙げ当時の世界記録を更新。大会を優勝する」
探偵「に、256キロ!?全盛期のアンドレ・ザ・ジャイアントくらいあるじゃないですか!!」
先輩「そう考えると戦慄だな。で・・・この優勝が前回話したWWWFの前身のキャピトル・レスリング・コーポレーションのペンシルベニア州ピッツバーグの担当だったプロモーター、ルディ・ミラーの目に留まり・・・」
探偵「そしてプロレスデビューへ、となるわけですね」
先輩「そう。サンマルチノのプロレスへの道筋は、この流れでほぼまちがいない。でも、このサンマルチノのプロレスへの流れには、もうひとつ・・・こんな話もあるんだ」
探偵「え!?それは!?」
先輩「サンマルチノが通っていたトレーニング・ジムというのがあったそうなんだが、ここが有名スポーツ選手が来るところだったそうで・・・そのうちのひとりにソニー・リストンがいたらしいんだ」
探偵「ソニー・リストン?」
先輩「そう。モハメド・アリ以前のボクシングの世界ヘビー級王者だよ。資料がある」
ソニー・リストン
探偵「えーっと・・・親が出生届を出さなかったため正式な生年月日は不明。極貧で教育が受けられず、父親にはひどい虐待を受けて育った。幼い頃から犯罪に手を染め19回も逮捕されたが、しかし刑務所でボクシングと出会い1953年にプロデビューする。身長185センチだったがリーチは213センチあり、そのパンチは強烈で54戦50勝4敗のうち39KOを納めている、と・・・すごい経歴ですね」
先輩「リストンはその人生経験から肝が据っていたし、裏社会とも繋がりがあったことから凄みもあったんだ。リストンというとモハメド・アリが世界王座初奪取したときの対戦相手というのが真っ先に来てしまうが、全盛期はテクニックを効かせた接近戦からのパンチが素晴らしいボクサーだったんだよ」
探偵「なるほど。で、このリストンがサンマルチノに目をかけ、プロレスを紹介したと!?」
先輩「いや、リストンはこのジムでサンマルチノにボクシングのトレーニングを指導するようになったというんだ」
探偵「サンマルチノがボクシングを!?しかしそれではプロレスへは・・・」
先輩「そう。だがこの頃、このジムには他にも有名スポーツ選手が来ていたんだよ」
探偵「それは・・・?」
先輩「アントニオ・ロッカさ」
探偵「ろ、ロッカが!?じゃサンマルチノをプロレスに導いたのはロッカだったっていうんですか!?」
先輩「この話はロッカのときにも紹介した81年5月に出たゴング増刊号"THE WRESTLER BEST100"のサンマルチノのページで原康史、つまり桜井康雄さんが書いているんだ。詳細を見てみよう」
81年5月ゴング増刊号THE WRESTLER BEST100より一部抜粋(原文まま)
スチルマン・ジムの帝王は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのソニー・リストンでリストンは「おい、そこのイタリアーノ・・・ここへきて打ってみろ」とサンドバッグをサンマルチノに打たせ「なかなかいいパンチを持っている。本気でやってみるがいい」とサンマルチノに小使いを与えてトレーニングさせたという。
このジムにはプロレスラーもよく出入りしており(いってみればプロ格闘家のたまり場であった)当時ニューヨーク・プロレスの帝王といわれたアントニオ・ロッカが、ここでボクシングの練習をしているサンマルチノに目をつけ「おい、ボクシングなんかやめちまえ。おまえはプロレスラーになったら稼げるぜ」とサンマルチノをプロレス界へ引っ張った。ソニー・リストンが怒ってアントニオ・ロッカに文句をいったが、サンマルチノはイタリア人の先輩であるロッカにひかれ、ロックの紹介でプロモーターのルディ・ミラーを訪ねることになる。
探偵「うむぅ・・・もしこの説が正しいとしたなら、1950年代の帝王が1960年代から帝王になるサンマルチノに声をかけていたことになります。こんな運命はちょっとないですよ。すごい」
先輩「もはや事実関係は確認できない話だけどね。でも、夢のある話はいいもんだよな」
若き日のサンマルチノとロッカの貴重なショット。新旧ふたりの帝王が並ぶシーンは、見ていると本当に不思議な気持ちになる
先輩「かくして・・・1959年10月20日。ピッツバーグ郊外のペンシルバニア州アリクイッパでサンマルチノはタイガー・ジャック・バンスキーなるレスラーと対戦、プロレスラーとしてデビューする。ただし10月23日、ニューヨーク州ホワイトプレーンズでミゲル・トーレスというレスラーとデビュー戦を行った記録もあり、このあたりは定かではない。が、まあデビューはこのあたりでまちがいないだろう」
探偵「はい」
先輩「その後、翌1960年1月2日には早くもマディソンに初出場しブル・カリーと対戦。カナディアン・バックブリーカーでこれを勝利。マディソンの第一歩を踏み出したわけだ」
探偵「デビューして約2ヶ月でマディソンのリングに上がっていたわけだすね」
先輩「ああ。そして初登場から4ヶ月経った1960年5月21日。サンマルチノは体重が270キロ以上あった人間空母ヘイスタック・カルホーンと対戦するんだが、ここでプロレス史上において現在にまで語り継がれるマディソンの伝説を生むことになる」
探偵「ここ、これは!!」
!!
先輩「そう。この日、それまでどんな対戦相手が何をしようがビクともしなかった体重270キロ以上ある人間空母カルホーンを、サンマルチノが持ち上げてしまったんだ」
探偵「な、なんというパワー・・・なぜ人間発電所と呼ばれるようになったのかわかりましたよ」
先輩「そう。この時点ではグリーン・ボーイだったサンマルチノだったが、これによりパワーハウス、パワーステーションと呼ばれるようになり、注目を集めることになるんだ」
探偵「まだラフのロジャース、空中戦のロッカがいたマディソンにパワーファイターという新しい風が吹き出した瞬間ですね」
先輩「そうだったんだが・・・」
探偵「ええっー!!」
先輩「ま、まだ何も言ってないぞ・・・」
探偵「すいません、いつもの流れから察しがついてしまいまして、つい・・・」
先輩「な、なんだぁもう・・・で、こうしてマディソンでファイトするようになり名前も知られていったサンマルチノだったが、あるときマクマホン・シニアとの間に重大な問題が生じてしまい、ニューヨークでは出場停止。圧力もかけられ、他のエリアのリングにも上がれなくなってしまうんだ。こうしてサンマルチノは一旦はプロレスから完全に離れてしまうことになる」
探偵「やっぱりなぁ・・・またプロモーターとレスラーの確執ですか。しかし、まったくリングに上がれなくなるとは、よほどのことがあったんですね」
先輩「うん。ここは"G SPIRITS Vol.49 追悼ブルーノ・サンマルチノ 未発表ロングインタビュー 第2回 ビンス・マクマホン・シニアの非情な仕打ち"を参考にまとめるね。いろいろ調べたんだが、やっぱり本人のインタビューが一番鮮明だったので・・・」
探偵「はい」
先輩「デビュー後のサンマルチノはマクマホン・シニアの団体であるWWWFでファイトはしていたが、プロモートやマネージメントをしていたのはマクマホン・シニアではなく、ロッカのプロモート、マネージメントもしていた"コーラ・クワリヤニ"なる人物だったらしいんだ」
探偵「つまり・・・サンマルチノはマクマホン・シニアの下でファイトはしていたがマネージメントは"コーラ・クワリヤニ"がしていたのでマクマホン・シニアと個人契約している直属の専属選手ではなかった。立場的には"フリー"だった、ということですね」
先輩「そう。しかしこの"コーラ・クワリヤニ"とマクマホン・シニアの間で何かがあり"コーラ・クワリヤニ"はニューヨークから撤退してしまうんだ。すると、それまでは試合順もメイン近くの後半出場でギャランティーもよかったサンマルチノが、やがてメインから外れ、だんだんと第2、第3試合なんてのが多くなり、ギャラも15~25ドルと安くなっていってしまったらしいんだ」
探偵「そんな金額で・・・」
先輩「それで、サンマルチノは、プロレス入りのキッカケにもなったルディ・ミラーに他のエリアのプロモーターを紹介してくれと頼んだんだ」
探偵「それはわかります。カルホーンを持ち上げて人気となり、以降は集客にも貢献していたサンマルチノに、こんな仕打ちはないですよ。もっとギャランティーがいいところに、そりゃ行きたくなりますよ」
先輩「ということで、ルディ・ミラーからデトロイトのプロモーター"ジョニー・ドイル"に話が通された。そこで"ジョニー・ドイル"がサンマルチノに言ったのがサンフランシスコ遠征だった。サンマルチノはマクマホン・シニアにもその旨を伝え、ニューヨークで組まれた試合を消化したのち遠征に出たわけだ」
探偵「うむ~。個人でプロモーターに掛け合い、今いるテリトリーからちがうテリトリーに行く・・・これは昔のアメリカのプロレスにはよくあった話ですよね?しかも個人契約もしてなかったし、黙って出ていったわけではなかったわけですから、何も問題なさそうですけど・・・」
先輩「だがしかし、この一連の行動がマクマホン・シニアの逆鱗に触れてしまったようなんだ。マクマホン・シニアからしたらグリーン・ボーイの自分が、ニューヨークで試合が出来てギャラも出て、何が不満なんだ!?と言ったとこだったのかな・・・」
探偵「すれちがいというかコミュニケーション不足というか、そんな感じだったんですかねぇ・・・」
先輩「確かに、それはあったかもしれないな。かくしてサンフランシスコに遠征。無事に第1戦を終えたサンマルチノだったが、その第1戦を終えたとたん。現地のプロモーターから、その場で出場停止処分を言い渡されてしまうんだ」
探偵「プロモーター間の圧力が掛けられたと」
先輩「そう。サンマルチノがサンフランシスコにいることを知りながら、マクマホン・シニアは同日にメリーランド州ボルチモアでサンマルチノの試合を組むというダブルブッキングを仕掛け、試合に出場できない状態を作り上げ"試合を無断欠場した"としてサンマルチノを干しにかかった、というわけさ」
探偵「マクマホン・シニア、相当頭にキテたんですね・・・」
先輩「ああ。その後、サンマルチノは出場停止がかかっていなかったインディアナ州インディアナポリスでファイトしたが、ここでのギャラもニューヨークと同じく2桁のドルしかもらえなかったから、とても生活していけないと腹を決め、プロレスを諦め6月にピッツバーグの家に帰るんだ。手持ちがなかったサンマルチノの帰宅方法、その手段は、なんとヒッチハイクだったそうだよ」
探偵「インディアナポリスからピッツバーグまで360マイル、約580キロをヒッチハイクとは・・・日本で言ったら東京から岩手県の盛岡までくらいの距離ですよ。当時の状況が目に浮かびますね・・・で、その後、サンマルチノはどうなったんですか?」
先輩「プロレスは引退。実家へ戻り、再び建築関係の仕事に就いたようだ。しかし働きだして20日もしないうち、サンマルチノのところに電話してきた人物がいたという」
探偵「それは?」
先輩「トゥーツ・モントだよ」
探偵「た、狸親父が!?」
トゥーツ・モント
先輩「サンマルチノの家のあったピッツバーグ地区のプロモート権を持っていたモントは、ピッツバーグは出場停止が掛かってないからパートタイムででもやらないか?と誘い、しばらくファイトさせたのち「キミが戻りたいならマクマホン・シニアに頼み出場停止処分を解除するよう頼むよ」と言ってきたそうなんだ」
探偵「胡散臭・・・だってマクマホン・シニアとトゥーツ・モントはキャピタル立ち上げからの馴染みでツウツウじゃないですか。サンマルチノを戻すための策略ってことが見え見えですよ」
先輩「だなぁ。で、こうして1961年8月25日にサンマルチノはマディソンに復帰。同年11月にはマディソンで海外武者修行だった馬場さんとの初対決も実現。一見すると順調に見えたが、しかしファイトマネーは変わらず・・・状況は変わらなかった」
探偵「うーん・・・」
先輩「状況に耐えられなくなったサンマルチノは62年1月に、ついに辞意をマクマホンに伝える。そして辞意と一緒に、出場する試合はいつまでで、以降はキャピタルの所属ではありません、という文面を渡すんだ」
探偵「前回のようなことがないように念を押したわけですね」
先輩「ああ。こうして・・・翌月の2月26日。ビットリオ・アポロと組んでアル・コステロ、ロイ・ヘファーナンの初代カンガルーズとの対戦を最後にニューヨークを離れることになる」
探偵「今回は遠征でなく離脱ですから、だいぶ意味がちがいますよね。それでニューヨークを離れ、どこへ?」
先輩「サンマルチノはニューヨークでのことを知人であり理解者であったユーコン・エリックに相談していたんだ。事情を知ったエリックはカナダのプロモーターだった"フランク・タニー"へ口を利き・・・これによりサンマルチノはカナダのトロントでファイトできることになったんだ」
探偵「ユーコン・エリック、まさに恩人ですね。そういえば、このレスラーは・・・」
先輩「そう。キラー・コワルスキーのフライング・ニードロップで耳を削がれてしまったことで、現在にまで知られることになってしまったレスラーだ。しかし本来はカナディアン・バックブリーカーの考案者であり、ベア・ハッグなど怪力殺法で人気のあったランバージャックスタイルのレスラーだったんだよ」
ユーコン・エリック
先輩「サンマルチノの一件でもわかるようにエリックはマジメで義理堅く、温厚で人望が厚い人物だったそうだ。だが、ゆえに家庭で離婚問題となったときに悩みをひとりで背負ってしまい、1965年1月に自殺してしまったそうだがな・・・」
探偵「そうなんですか・・・サンマルチノを導いた人物だけに残念ですが、でもサンマルチノがカナディアン・バックブリーカーやベア・ハッグなどの技を使っていたのは、どこかユーコン・エリックへのリスペクトが感じられていいですね」
先輩「そうだね。まあ、こうしてサンマルチノはカナダのトロントでファイトするようになったわけだが・・・やっぱり、サンマルチノは"持っている男"だったんだろう。ここでのファイトが思わぬ事態を巻き起こすことになる」
探偵「思わぬ?それは?」
先輩「当時カナダのトロントには、その数40~50万人とも言われるイタリアからの移民がいたんだが、このイタリア移民たちがイタリア出身のレスラー、サンマルチノの活躍を新聞などで知るようになるんだ。やがて活躍の噂は広がっていき、イタリア移民からのサンマルチノへの支持は絶大になっていったんだよ」
探偵「なるほど。同郷を応援したいのは心情ってもんですもんね。サンマルチノの人気が上がっていったというわけですね」
先輩「そう。で、1962年8月2日。サンマルチノはついにトロントのメープルリーフ・ガーデンズでバディ・ロジャースの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦することになる」
探偵「サンマルチノがロジャースとNWA戦!!どうなったんですか!!」
先輩「ああ。3本勝負で行われたこの試合は1-1から決勝の3本目をロジャースの負傷による試合放棄でサンマルチノが拾い勝利するんだ」
探偵「ロジャースに勝利!!すごい!!でも・・・NWA王座遍歴にサンマルチノの名はなかったような・・・?」
先輩「そう。NWAルールでは2フォールでないとタイトル移動とはならないから、残念ながらこの試合はロジャースの防衛となったんだ。だが、この一戦がまたもサンマルチノの運命を動かすことになる」
探偵「そうか、イタリア移民の同郷のレスラーがデビュー3年にも満たない状況で、あのバディ・ロジャース相手に堂々渡り合ったとなれば・・・サンマルチノの人気がさらに急上昇したということですね」
先輩「その通りだ。サンマルチノの人気は、まさに爆発したかのように世に広がり、知名度はカナダで絶大なものになったんだ。そして、この噂はニューヨークのマクマホン・シニアの耳に入るのにも時間は掛からなかった」
探偵「え!?まさか!?」
先輩「そのまさかさ。マクマホン・シニアはサンマルチノを再びニューヨークへと誘ったんだ。昔のことは水に流して、また一緒にやらないか?とね」
探偵「それはあんまりですよ。出場停止にしたり圧力をかけ追いやったりしたわけじゃないですか?そのおかげで一時はプロレスを引退もしたんですよ!?それが人気が上がったら、また戻ってこいだなんて・・・」
先輩「もちろんサンマルチノも断固として断ったそうだ。でも、マクマホン・シニアはギャランティーの格上げと最高の舞台を用意することを条件に出しサンマルチノに復帰を承諾させる」
探偵「最高の舞台!?それは!?」
先輩「順を追って話そう。まずサンマルチノはカナダのトロントからマクマホンのWWWFのところへ復帰するわけだが、その最初の試合は1963年2月4日、ペンシルベニア州ピッツバーグで行われたものだと思われる。記録によれば、この復帰戦の対戦相手はなんとバディ・ロジャースだ」
探偵「サンマルチノの家があるピッツバーグでロジャースと復帰戦ですか!!」
先輩「ああ。時間軸で追うと、前回も話したカナダのトロントでロジャースとテーズがNWA世界戦を行いテーズが勝利。46歳にして6度目の王座返り咲きとなった試合が1963年の1月24日。そして王座遍歴を確認するとNWA王座転落の翌日1月25日にロジャースがWWWF世界ヘビー級の初代王者として認定されているから・・・」
探偵「これはサム・マソニックのNWA戦強行と王座移動をフレッド・コーラーとマクマホン・シニアが認めず、ロジャースを新たな王者と認定したから、ですね」
先輩「そのとおりだ。ということでサンマルチノの復帰戦となった1963年2月4日の時点でロジャースはWWWF王者だったから、このサンマルチノの復帰戦はロジャースとのWWWF世界ヘビー級選手権だった可能性が高い」
探偵「すごい。サンマルチノは復帰戦でWWWF世界ヘビー級に挑戦していたのか。それにしても先輩、もしこれがWWWF世界ヘビー級選手権でなかっとしても、前年にトロントで行われた白熱のNWA戦の再現がまた見れるとあってはイタリア移民始めファンは大興奮。うれしかったでしかったでしょうね」
先輩「そう、このあたりは、客の心情を理解し好むものを提供するというマクマホン一族の"業"であり、代々受け継がれる無形資産と言えるだろうな」
探偵「無形資産、なるほどなぁ・・・ただ復帰させて試合するだけじゃなく、流れをよく理解した上でストーリーを受け継ぐというのは、確かに今も続いていますもんね」
先輩「プロモーターとしてレスラーや団体を見るから、そりゃ厳しいところもあるし、嫌われることもある。でもそうしてレスラーを確保しファン目線でモノを考え現在にまで興行を継続してきたわけだからね、マクマホン一族はやっぱりすごいよ」
探偵「そうですね」
先輩「で、話を戻して・・・こうしてWWWFへ復帰したサンマルチノは、その後2月25日にマディソンに再登場。ボボ・ブラジルと組んでジョニー・バレント、マグニフィセント・モーリスと対戦し2-1で勝利している。その後、マディソンを含め翌3月からのサンマルチノのWWWFでの試合は以下のようになっている。可能な限り調べたが試合の記載漏れがあるかもしれないし、試合タイム、フィニッシュ、勝敗はわかる範囲でしか記載できてないので、そのあたりは容赦してくれ」
1963年
3月2日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
イワン・コロフ●
3月9日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
イワン・コロフ●
3月11日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
バディ・オースチン●
3月18日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
シビック・センター(シビック・アリーナ?)
バディ・オースチン●
3月25日 ニューヨーク州
マディソン・スクエア・ガーデン
ボボ・ブラジルvsブルート・バーナード、スカル・マーフィー●
3月26日 コネチカット州ブリッジポート
ブリッジポート・アリーナ(ただし、この会場の過去の存在は確認できず)
ボリス・マレンコ●
3月29日 ニューヨーク州ウエスト・ヘンプステッド
会場不明
ジョニー・バレント●
4月1日 ニューヨーク州キングストン
会場不明
ビットリオ・アポロvsザ・ファビラス・カンガルーズ(アル・コステロ、ロイ・ヘファーナン)●
4月4日 ワシントンD.C
ワシントン・コロシアム
ゴルドチワワ、トミー・オトゥール●
(※1vs2 ハンデキャップマッチ)
4月11日 ワシントンD.C
会場不明
バディ・ロジャース▲
ノーコンテスト
5月13日 ワシントンD.C
ワシントン・コロシアム
ジョニー・バレントvsマグニフィセント・モーリス、ザ・シャドー(ミスターアトミック)●
探偵「4月11日にはロジャースと3度目の対戦をしているんですね」
先輩「そう、この日はふたりは対戦しているが、復帰後の大会はロジャースのWWWF戦がメイン、サンマルチノがセミファイナルという形が多く見られ、サンマルチノ単独メインというのもあったから二大看板的扱いってとこだったんだろう」
探偵「なるほど。結果もサンマルチノは負けなしで勢いがありましたね」
先輩「ああ。そして、こうして迎えた1963年5月17日。サンマルチノの復帰ロードは佳境を迎える。マディソンのリングで、ついにバディ・ロジャースとブルーノ・サンマルチノがWWWF世界ヘビー級王座をかけて戦うんだ」
探偵「マクマホン・シニアが用意した最高の舞台が、これだったんですね!!」
先輩「そう。チャンスを与えられたサンマルチノは試合開始直後からロジャースに付け入る隙を与えさせずパワーで圧倒的に一気に攻め、カナディアン・バックブリーカーを決めて、わずか48秒でロジャースからギブアップを奪い勝利。WWWF世界ヘビー級の新王者となったんだ」
フィニッシュとなったカナディアン・バックブリーカー
倒れるロジャースと勝ち名乗りをあげるサンマルチノ。それはあまりにも象徴的なシーンだった
先輩「これがニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンに新しい時代をもたらすレスラーが誕生した瞬間、というわけさ」
探偵「伝説の始まりかぁ・・・」
続きます。