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フィッシャーマンズ・スープレックスを辿る旅~小林邦昭編~

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さて、祖先編ではミスター・レスリング、ティム・ウッズの技を見てきましたが、ここでは小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックスの全貌を振り返っていきます。
 
小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックス。その歴史の始まりは1982年10月8日。闘魂シリーズ開幕戦に80年6月より2年4ヶ月間に渡りメキシコ、アメリカと海外武者修行に出ていた小林邦昭が凱旋帰国することから始まります。

この凱旋帰国第1戦目を木戸修と組みジョニー・ロンドス、シルバー・ハリケーンと行った小林は、ここでハリケーンをブレーンバスターの態勢に取ったと思いきや、右手で足を取り、そのまま後方へ投げつけブリッジで固めるという技を見せました。
 
これが小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックス初公開シーンだ
 
掲載があった82年12月号のビッグレスラーによれば、技は「変形ブロックバスター」と称されていました。さらに試合の様子をレポートから読み取ると、なんとフォールではなく「ギブアップ」と取った内容になっていました。

そのためか、公式記録ではフィニッシュは「背骨折り」となっており、また別冊ゴングの方では「脳天砕き固め」つまりブレーンバスターをホールドしたもの、となっており、このあたりから当初は技名もなく、そしてまったく未知の新技だったことが伺えました。
 
かくして小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックスは日本で初めて公開されたわけですが、ではその考案に至った経緯とは一体何だったのでしょうか?そして、名前のなかったこの技が、いつからフィッシャーマンズ・スープレックスと呼ばれるようになったのでしょうか?ここからは、このあたりを探っていくことにしましょう。
 
まずは技の発祥ですが、かなり以前にですね、何で読んだかちょっと忘れてしまったんですが・・・フィッシャーマンズ・スープレックスは小林がメキシコで試合を見ていたとき、この技を使っていたレスラーがいて、それを見て「これだ」と感じ使い始めたと、そういう始まりだったと記されているのを読んだ記憶があったんですよ。。
 
ただ記憶がどうも曖昧だったので調べてみたところ、昨年スポーツ報知のWeb版に連載された
 
「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」
 
の10回目
 
 
で、小林が改めてフィッシャーマンズ・スープレックスを使い始めた経緯を詳しく語っているのを発見しましたので、ここでの小林の話を抜粋してみます。
 
「フィッシャーマンはメキシコへ行って2年目で覚えました。エルトレオっていうドーム型の会場の第1試合で若い選手の試合を見ていたんです。まるっきり名前も知らない下の下の下の選手だったんですが、そうしたら、その選手がフィニッシュで使っていたのがフィッシャーマンだったんです。正直言いますけど、それを見て“この技いいな。日本じゃ誰も使ってないぞ”ってパクったんです(笑)。それで、練習して次の日の試合でやったのが初めてのフィッシャーマンでした。それで、フォール取りましたよ(笑)」
 
なるほど。まず「メキシコへ行って2年目で」と言っています。小林のメキシコ遠征は1980年6月からで、82年からはアメリカへ転戦しているので・・・この技はメキシコ遠征が終わりに近い頃に習得したと、いうわけですね。
 
そして、気になるのが次です。ここで「まるっきり名前も知らない下の下の下の選手がフィニッシュで使っていた」と、そして「パクった」と言っています。なんとびっくり。フィッシャーマンズ・スープレックスは名もなきメキシコの無名レスラーが考案した技で、それを小林が使ったのが始まりだった、ということだったんですね。

しかしながら、初代タイガーマスクのキーロックを片腕で持ち上げてしまうほどのパワーと、当時の新日本で鍛え上げられた筋金入りのブリッジを持つ小林が使ったなら、破壊力も安定感も別物。もはや技そのものがちがってきますから、これはもうオリジナル・ホールドと言っても異論はないかなと思います。

さて、こうして小林がメキシコから持ち帰り日本で陽の目を見いだしたフィッシャーマンズ・スープレックスですが・・・先にも触れたように、このときはまだ「フィッシャーマンズ・スープレックス」という名称はありませんでした。
 
先に上げた「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」によれば、技名を付けたのは当時実況をしていた古舘伊知郎さんということなので、今度はフィッシャーマンズ・スープレックスのテレビ初公開の様子と技名の発祥を見ていってみましょう。
 
背骨折り、脳天砕き固めと言われたこの技が、いつからフィッシャーマンズ・スープレックスとなったのか・・・その道すじを辿ると、同シリーズの後半戦である10月29日放送のワールドプロレスリング、10月26日に大阪府立体育会館で行われたWWFジュニアヘビー級選手権、タイガーマスクとの一戦にて、実況していた古舘さんが試合の終盤、
 
「この、チャレンジャー小林邦昭は、フィッシャーマンズ・スープレックス、漁師が、網打ちを豪快に行うときに、見舞ったこの、豪快に行うときのその仕草に似ているという、フィッシャーマンズ・スープレックスも持っています」
 
と言っているのを確認できました。
 
実はこの闘魂シリーズで、開幕戦から10月26日のタイガーマスク戦までの18日間でフィッシャーマンズ・スープレックスがフィニッシュで使用されたのは凱旋帰国第1戦となった10月8日の後楽園ホールでの試合と10月10日に神奈川県の平塚市・平果青果市場(現在の平塚中央青果卸売株式会社の平果地方卸売市場と思われる)で行われた第3戦でのブラックキャット戦の2回のみ。加えてテレビは10月22日に広島県立体育館で行われたタイガーマスクvsレス・ソントン戦の前に乱入したのを除けば(小林邦昭さんのブログ:小林邦昭より 懐かしのフォト。)10月8日の闘魂シリーズ開幕戦の生放送から、この10月29日の放送分まで週にして4週。意外なことにシリーズも終盤に差し掛かったこの日まで、小林の試合は一度もテレビで放送されていなかったのです。
 
ということは、この10月29日が小林が凱旋帰国後に初めてテレビマッチ登場にした日であり、初めて古舘さんが「フィッシャーマンズ・スープレックス」という言葉を全国の電波にて発した日、ということになります。
 
プロレス実況時代、実況の中で様々なストーリーを奏でていった古舘さんは名言やレスラーのキャッチフレーズだけでなく、その実況の中でレスラーの技名も考案しては世に送り出してきました。おそらく開幕戦でこの技を見た古舘さんの頭に、漁師の手元から投網がワァっと広がっていく、あの網打ちのイメージが浮かび、この技にはこれしかないとネーミングし・・・そして、この日ついに小林の試合を実況することで、初めてそのフレーズを世に出したのでは?と想像できます。

しかし「フィッシャーマンズ・スープレックス」という言葉こそ出ましたが、この試合はあの衝撃のマスク剥ぎにより小林の反則負けとなり、残念ながら技は出ず・・・その全貌を見ることはできませんでした。

判定後には解説の桜井さんが
 
「(場外戦後)上がってきたところをフィッシャーマンズ・スープレックスで勝負するべきでしたねぇ」
 
と言っており、技名を認識していることがわかります。フィッシャーマンズ・スープレックスの地上波初登場はお預けとなりましたが、放送席はこの日、技名に対しては一丸。満を持していたのかもしれませんね。
 
そして迎えた翌週11月5日のワールドプロレスリング。11月4日に行われた蔵前国技館でのNWA、WWFのジュニアヘビーのベルトがかけられたタイガーマスクとの一戦で、ついにフィッシャーマンズ・スープレックスが、そのベールを脱ぎます。
 
この日の実況は保坂アナウンサーでしたが、試合開始後、古舘さんのサイドリポートが入ります。
 
「え~チャレンジャーコーナーですがね、この小林邦昭、長州力と二人っきりの控室を取りましてですね、明かりを消して真っ暗な片隅でですね、じーっと精神統一を試合前しておりました。そしてですね、非常に鬼気迫るものがあったんですが、一言聞きますとですね、フィッシャーマンズ・スープレックスを狙いたいと。これはあの自分のオリジナルテクニックでメキシコで開発した技だと。まあ先だっての戦いはですね、マスクを破ったけれども、今日はその本体をですね、このフィッシャーマンズ・スープレックスで潰してやると、強気な発言を一言漏らしました」
 
そして、それを受けた保坂アナが
 
「フィッシャーマンズ・スープレックス、これは小林邦昭がメキシコから持ち帰ったオリジナルテクニックであります」
 
と述べています。この時点では、まだ多くのプロレスファンがこの技を知りません。しかし放送席から頻繁に名前が出ているということで、その期待度は膨らみ出します。
 
そんな実況のすぐあと、試合序盤で小林がブレーンバスターの態勢にいくと・・・
 
 
保坂アナ「さあこれからフィッシャーマンズ・スープレックスにいくか!?山本さん、これが彼のオリジナルテクニックなんですけどね」
 
小鉄さん「そうですね」
 
と対話しているのが確認できます。これにより前週の桜井さんに続き、小鉄さんも技名を認識していることがわかります。このときプロレス誌上ではそれぞれちがう技名で表している段階でしたが、これで古舘さん、保坂アナ、桜井さん、小鉄さんと、放送席では技名が「フィッシャーマンズ・スープレックス」で完全に一致していたことが伺えました。
 
結局ここはタイガーマスクがこらえたので何も起きませんでしたが、フィッシャーマンズ・スープレックスはブレーンバスターのような技なのか?というさらなる期待が高まることとなりました。
 
こうして、やがて試合も佳境に入った頃。タイガーマスクはダイビング・ヘッドバット。小林はこれを交わしますがタイガーマスクは飛び込み前転でさらに交わすという目まぐるしい展開から、タイガーマスクがショルダーアタック。そしてロープに飛ぶと、ついにその瞬間が訪れました。
 
まず、ロープから返ってきたタイガーマスクに小林がカウンターでボディにサイドキック
 
キックで前屈みになったタイガーマスクにブレーンバスターか?と思うと、同時に足に手を伸ばします
 
これに対し、投げられまいと腰を落とすタイガーマスクですが、この行為が体を丸めることとなり足を取りやすくさせる結果に。ここから小林が踏み込み、そして・・・
 

 
 
 
まさに投網が広がっていくかのような綺麗な弧を描いて見事に炸裂したフィッシャーマンズ・スープレックス。これがテレビ初公開シーンです!!
 
そして、このとき保坂アナは
 
「フィッシャーマンズ・スープレックスにいくか!?おっとこれはフォールの態勢!!」
 
と実況。初めて言葉として出したのは名付け親である古舘さんでしたが、初めて実況で発したのは保坂アナだったんですね。
 
で、このあと我々が見てきたフィッシャーマンズ・スープレックスなら、すぐにフォールカウントが入りますが・・・実況で保坂アナが「おっとこれはフォールの態勢」と言っているように、このときまず映し出されたのはレフリーの柴田勝久のフォールカウントではなく、タイガーマスクに近寄りギブアップかどうかを聞くという動作でした。
 
タイガーマスクに確認する柴田レフリー
 
やがて、少ししてタイガーマスクの肩が着いたのを確認すると、ここで初めてカウントを入れました。ギブアップを確認してからのフォールということで出た保坂アナの「おっとこれは」という想定外を表す言葉と、ギブアップを確認したことでフォールカウント開始まで間ができたため、カウントはツーで返されてしまいましたが抗議することなく悔しさを露にした小林を見ると・・・

悔しがる小林
 
ビッグレスラーの開幕戦の記事にあったように、フィッシャーマンズ・スープレックスは最初はギブアップを奪う技として認識されていたことがわかりました。
 
これまでの経過と合わせれば、この技の名前は実況、解説陣の連携により放送席から世へ発信されたことがわかります。当時の放送席がいかに素晴らしかったかがよくわかる発祥だったと思いました。

この日の模様を伝える昭和57年12月号の別冊ゴングでは「ブレーンバスター固め」となっていたことからも、放送席のチームワークが伺える
 
しかし一番素晴らしかったのは、やはりこの日のフィッシャーマンズ・スープレックスです。豪快な引っこ抜きと叩きつけにして、しなやかで強力なブリッジ。そして決まった形・・・もし初公開が小林でなかったら、技がその後に続かなかったかもしれませんし、名称も変わっていたかもしれません。この日このとき、小林邦昭がやったからこそフィッシャーマンズ・スープレックスなんだと思いました。

その後、幾多の対決で名シーンを展開してきたフィッシャーマンズ・スープレックス。83年6月2日の蔵前国技館でのタイガーマスクとのNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦ではタイガーマスクが小林へ、まさかの掟破りの逆フィッシャーマンを敢行し・・・
 
マジック・ドラゴンやディビーボーイ・スミスに自身の技をされた小林だったが、初めて小林にフィッシャーマンズ・スープレックスを仕掛けたのは実は初代タイガーマスクだった
 
85年6月21日の日本武道館での2代目タイガーマスクとのNWA認定インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権試合ではフィッシャーマンズ・スープレックスを仕掛けられた刹那に足を切り、すぐさまフィッシャーマンズ・スープレックスで返すカウンターを見せました。
 
まさにフィッシャーマン返しというべき妙技を見せ本家の貫禄を見せつけた
 
85年の週刊プロレス105号ではジュニア統一の夢を語り、その切り札になると秘密兵器"フィッシャーマン85"を公開。
 
 
腕折りを加えたそれは、このままでもギブアップが取れそうな凄まじさ。投げたなら一体どうなっていたか・・・その破壊力ゆえ、ついに実戦で使われることはなかった
 
86年11月23日の後楽園ホールでの世界ジュニア・ヘビー級王座に挑戦した際はヒロ斉藤にニュー・フィッシャーマンズ・スープレックスを見舞い勝利します。
 
 
幻のフィッシャーマンズ・スープレックスは相手の腕を抱えて投げるフォールを重視した形だった

こうして初公開から今日に至るまで、様々なドラマを生んできたフィッシャーマンズ・スープレックス。小林の初公開から38年。ときには掟破りに合い、ときには姿を変え・・・そして現在までに、団体、レスラー問わず、世界中のプロレス界で様々なレスラーに使われてきました。しかし、いかに優れた使い手が現れても、やっぱり小林のそれとは何かがちがう気がしました。それは、なぜだったのでしょうか・・・

日本三大河川のうち最長を誇る信濃川は新潟県から長野県に入ると千曲川と名を変えます。小林の出身地である長野県小諸市を流れるその千曲川は、5月を迎えると産卵期のウグイを捕るため、江戸時代からの伝統漁法「つけ場漁」が始まります。これは人の手で川の底にウグイの産卵床を作り、そこに産卵にやってきたウグイを捕まえるというものだそうなのですが、その漁具こそ投網での網打ちなのです。

遥か昔から受け継がれてきた伝統の漁法。しかしそれは漁法だけでなく、先人達の記憶もまた、末裔の潜在意識へと受け継がれていきました。

その末裔である小林がレスラーになり、やがてメキシコへ行き・・・そこで目にした、のちのフィッシャーマンズ・スープレックスを使っていたレスラー。小林が、この名もなきレスラーを見なかったなら、フィッシャーマンズ・スープレックスは今この世になかったかもしれないわけです。

しかし、そのレスラーは本当に存在したレスラー、だったのでしょうか?

これだけ世界中に知れている技にして、これだけのネットの時代なのに、未だにそのメキシコ人レスラーは誰なのか?わかっていません。いくら「まるっきり名前も知らない下の下の下の選手がフィニッシュで使っていた」としても、たとえばそのレスラーが自ら名乗ることをしなくとも、そのレスラーから技を受けたことがあるレスラーは何人かいたはずですし、レスラー仲間もいたはずです。それに、小林のようにそのレスラーの試合を見たレスラーだっていたはずなのです。なのに今日まで、情報がまったく出てこないというのは・・・なんだか腑に落ちないのです。

もしかするとこのメキシコ人レスラーは、そもそも存在しておらず・・・小林が見たものは、千曲川の先代達から受け継がれた遺伝子、潜在意識が、この技を使わさるべく小林に見せた"幻影"だったのでは・・・なかったのでしょうか?

そして日本で公開され、古舘さんに「網打ち式」のインスピレーションを与え・・・こうして運命に導かれて、フィッシャーマンズ・スープレックスはこの世に生を受けたのではないでしょうか?

異国の地メキシコで見た考案者不明の技が、日本の自身の故郷を流れる川の伝統漁法と繋がる・・・これらが単なる偶然だったとはボクには思えないのです。今回、この技を調べていき、小林がこの技を使うのは生まれ持っての運命であり、天命だったのではなかったのかなと・・・感じた次第です。

いまだに全盛期を思わせる見事な筋肉を維持し、そしてブログでは、なつかしい写真で楽しませてくれる小林邦昭さん。今日はそんな小林さんの65回目のお誕生日です。お誕生日、おめでとうございます。いつまでも虎ハンターでいてくださいね~!!

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