その4 ⑥からの続きです。
探偵「さて、ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンに新しい時代をもたらすレスラーが誕生したわけですが・・・」
先輩「ああ。ここからはサンマルチノを軸にマディソンが回っていくと言っても過言ではない。さっそく新しい時代を追っていってみよう」
探偵「はい」
先輩「5月17日に運命の対決を制したサンマルチノは1963年6月5日、ニューヨーク州ホワイトプレーンズのウェストチェスター郡シビック・センターでスカル・マーフィーと初防衛戦を行い勝利。そして3日後の6月8日、ペンシルベニア州フィラデルフィア・アリーナでマグニフィセント・モーリスを相手に2度目の防衛に成功すると、6月21日。ついに王者としてマディソンに初登場する」
探偵「かつてはプロレスをあきらめたサンマルチノが王者として凱旋したわけですね」
先輩「ああ。ここではハンス・モーティアを相手に記念すべきマディソンで初めての防衛戦を勝利し、通算で3度目の防衛を飾った。翌7月12日にもマディソンでモーティアと防衛戦を行い、これも防衛。マディソンでの初陣を2回とも勝利している」
独特のヘッドギアがトレードマークだったハンス・モーティアは、ボディビルで鍛えた肉体を武器に当時のマディソンで人気のトップヒールだった。ターザン・ゾロ、ドクターXと名乗りマスクマンとして日本へも来日し、カール・ゴッチとは大の親友だったという
探偵「ロッカからロジャース、そしてサンマルチノ。もう完全に主役は交代した感じですね」
先輩「ところがだ。驚くべきことにロジャースは、その後もサンマルチノと試合していたんだよ」
探偵「え!?でも確かロジャースは・・・」
先輩「そう。プロレス史上ではロジャースは5月17日のWWWF世界ヘビー級選手権でサンマルチノにわずか48秒で敗れ、その試合を最後に引退したというのが定説になっているが・・・実はあの試合のあともしばらく現役だったようなんだ」
探偵「本当ですか!?」
先輩「これを」
◎ロジャースの1963年5月17日以降の試合記録
6月10日 ワシントンD.C. ワシントン・コロシアム
8人タッグマッチ?分?本勝負
バディ・ロジャース、ジョニー・バレンド、ザ・シャドー(日本ではミスター・アトミックだったクライド・スティーブス)、ダイアモンド・ジャック(中東系のレスラーのようだが詳細不明)vsブルーノ・サンマルチノ、ボボ・ブラジル、バディ・オースチン、ペドロ・モラレス
(試合結果不明)
7月12日 マディソン・スクエア・ガーデン
タッグマッチ?分?本勝負
バディ・ロジャース、ジョニー・バレンドvsボボ・ブラジル、ペドロ・モラレス
(試合結果不明)
8月2日 マディソン・スクエア・ガーデン
?分3本勝負
バディ・ロジャース、ジョニー・バレンドvsボボ・ブラジル、ブルーノ・サンマルチノ
(タイム不明 ロジャース組が2-1で勝利)
8月8日 ワシントンD.C. ワシントン・コロシアム
タッグマッチ?分?本勝負
バディ・ロジャース、ジョニー・バレンドvsペドロ・モラレス、ピート・サンチェス(WWWF専属レスラー)
(試合結果不明)
8月23日 マディソン・スクエア・ガーデン
シングルマッチ?分?本勝負
バディ・ロジャースvsハンス・モーティア
(タイム不明 ロジャースがフォール勝ち)
8月30日 ニュージャージー州 アズベリーパーク・コンベンションセンター
シングルマッチ?分?本勝負
バディ・ロジャース、ジョニー・バレンドvsボボ・ブラジル、ペドロモラレス
(タイム不明 ロジャース組が2-1で勝ち)
探偵「5月17日以降、タッグとはいえサンマルチノと2回も試合しているとは・・・しかも最初のは6月10日で、まだ5月17日の余韻が残っていた時期ですよ。それにその後8月2日のマディソンではサンマルチノ組に勝利もしています。これは引退どころか、ゆくはサンマルチノとWWWF世界ヘビー級選手権をやるんじゃないのか?そんな勢いを感じることすらできますよ。なのに・・・」
先輩「なぜ8月30日以降は試合記録がないんだろう?かな?」
探偵「そうなんですよ。サンマルチノに敗れたとはいえ、人気と知名度はまだまだ絶大。"客の呼べるレスラー"という点ではサンマルチノを上回っていたはずです。なのに、このタイミングでプッツリと現役が終わっているのは妙ですよ」
先輩「確かに1963年8月30日以降のロジャースの試合記録はここで途切れ、確認できなかったのはおれも妙だと思った。そこで調べてみたら判明したことがいくつかあったんだ。それはこのあと触れることになるので一旦置いといて・・・ここはマディソン、サンマルチノの話を軸に進めていくね」
探偵「はい」
先輩「6月、7月とマディソンでWWWF世界ヘビー級選手権の防衛戦を行ったサンマルチノは8月23日にはキラー・コワルスキーと同タイトル戦を行い勝利。こうして定着してくると、サンマルチノのマディソンでの最初の強敵となるあるレスラーが登場するんだ」
探偵「それは?」
先輩「ゴリラ・モンスーンだ」
探偵「ご、ゴリラ?モンスーン!?うーん、こんな奇抜なリングネームのレスラーがサンマルチノのマディソンでの最初の強敵とは、なんだか・・・」
先輩「いやいや、確かにリングネームは奇抜かもしれないがWWWF、WWF、WWEと、生涯を通して所属し、役員、テレビ制作、実況、コメンテーターまでして活躍した大変有名なプロレスラーだったんだよ。それにモンスーンに纏(まつ)わっている、現在まで続くプロレスの流れも多々あるからね。この人物なしでもまたマディソンは語れないんだ。経歴を見ていこうじゃないか」
探偵「はい」
先輩「ゴリラ・モンスーンは1937年6月4日、ニューヨーク州ロチェスター出身。本名はロバート・ジェームズ・マレラというイタリア系のアメリカ人だ」
探偵「ロッカ、サンマルチノと同じイタリア系なんですね」
先輩「そう。モンスーンはニューヨークのブルックリンにあったトーマス・ジェファーソン高校(2007年閉鎖)でフットボール、陸上競技、レスリングなどをしていたスポーツマンだった。体重は高校生ながら300ポンド、約136キロあったが動きは軽量選手のように機敏だったという。人柄もよく仲間からは「タイニー」の愛称で親しまれ人気者だったようだよ」
探偵「重量級で機敏となると、スタン・ハンセンみたいな感じだったのかもしれないですね」
先輩「だな。で、高校を卒業するとニューヨーク州イサカにある、大学ランキングではベスト5に常にランクインされる全米屈指の名門校、コーネル大学に入学する。成績はトップクラスで、スポーツはフットボールで優秀選手賞を2回受賞。陸上競技では円盤投げと砲丸投げで大学記録を更新するほどだったという。そしてレスリングではNCAA(全米大学体育協会)のレスリング選手権で1958年に優勝、59年に準優勝の成績を残している」
探偵「すごい。スポーツに勉強、どちらも万能だったんですね!!」
先輩「うん。で、これが当時プロモーターで、のちにNWFを発足、主宰するペドロ・マルティネスの目に止まり大学卒業にプロレス入りとなるわけだ。最初はイタリア系のレスラーとしてジノ・マレラの名で1959年にデビュー。ベビーフェイスでやっていて、63年4月には日本プロレスで行われた第5回ワールド大リーグ戦に参戦。初来日もしているんだ」
探偵「へぇ・・・日本へ来ていたとは驚きました」
先輩「だが、その日本から帰国後にマクマホン・シニアのアイデア(諸説あり)で"満州から来た恐ろしい巨人"という触れ込みのヒールレスラー、ゴリラ・モンスーンに改名することになる
ジノ・マレラから変身を遂げた若き日のモンスーン
探偵「うむぅ・・・満州から来た恐ろしい巨人、ですかぁ。それにしても学歴、スポーツ歴からしたら、まさに対極ですね。顔もハンサムですし」
先輩「ところがこの対極なイメージチェンジをしたことにより、モンスーンにボビー・デービスという当時有名だったマネージャーも付いたからモンスーンの評判はうなぎ登り。大成功することになるんだ」
探偵「ボビー・デービス・・・?まったく聞いたことのない名前ですが、それは一体!?」
先輩「この人もまた、ゴージャス・ジョージやアントニオ・ロッカのように、もしいなかったら現在のプロレスはどうなってしまっていたんだろう?というくらいプロレスにおいて重要人物だったんだ。おそらくこれまで日本では紹介されたことがないので触れておこう」
探偵「はい」
先輩「ボビー・デービスは1937年(2021年1月没)オハイオ州コロンバス出身。元々はレスラー志願でトレーニングを積んでいたが、練習中に首を痛め、レスラーを断念。マネージャーに転向することになる」
探偵「うーん、プロレス界ではよくある話ですが・・・」
先輩「そう。しかしデービスはその後がちょっとちがったんだ」
探偵「それは?」
先輩「それまでのプロレスのマネージャーと言ったらレスラーのマネージメント、運営面を管理する裏方がそれだった。しかし1950~60年代、デービスはバディ・ロジャースのマネージャーとして試合の前後にリングサイドなどでアナウンサー相手に卓越した"しゃべり"を行っては、セコンドに付き試合中にちょっかいを出したり、言葉で煽ったり。ときには自らリングに上がったりと、はかけ離れたことをしていたんだ」
ボビー・デービスは1950年代半ばくらいからバディ・ロジャースに付き口巧者(くちごうしゃ)ぶりを発揮。それまでにないプロレスビジョンを展開し人気となった
テレビカメラに向かい、リングサイドで熱弁を振るうボビー・デービス。モンスーンの他、ジェリーとエディのグラハム・ブラザーズ、キング・カーチス・イアウケアなどのマネージャーも務めレスラーの人気上昇に貢献した。その風貌から"リングのエルビス・プレスリー"と呼ばれることもあったが、その扇動された"しゃべり"はときにファンを本気で怒らせてしまうこともあり、イスを投げつけられ鼻が削げそうになる大ケガを負ってしまったこともあったという
先輩「言ってみれば、のちのボビー・ヒーナンやジム・コルネットのような・・・いわゆるリングサイドに陣取り口先で攻撃するタイプのプロレス・マネージャーの祖。原型となった人物なんだよ」
探偵「へぇ・・・マネージャーがちょっかい出したりレスラー顔負けでしゃべったりするのは今ではよくある光景ですが、この人がいなければそんなシーンも現在なかったわけですね」
先輩「うん。で、そのボビー・デービスが
"満州で川沿いを全裸で歩いている大男を発見。孤立した山里で生まれたと思われるその大男は言葉が話せなかった。熊と闘いながら山を渡り、肉は生肉を食し、彼の犠牲となった者はその血を飲まれたという・・・それがモンスーンだった"
と、説明したんだ」
探偵「これは・・・あまり情報を得られなかった時代ですから、人々の関心を誘ったでしょうね。それでモンスーンとしては、いつからマディソンに登場となったのですか?」
先輩「はっきりとは言えないんだが、63年8月2日にマディソンでカール・シュタイフ(日本ではミスター・アトミックだったクライド・スティーブスのザ・シャドーの前の名)と対戦している記録があった。この日以前は確認できなかったので、おそらくこのあたりがゴリラ・モンスーンとして試合に出場しだしたあたりだったんじゃないかな」
探偵「なるほどなぁ。それにしても名門コーネル大学卒のインテリが、満州で全裸で人の肉や血を食らっていたことになるとは・・・わからないものですね」
先輩「本当だな。かくして6日後の8月8日にはワシントンでジャック・ミラー(詳細不明)、9日にはニュージャージー州でピート・サンチェス( WWWF専属レスラー)を下し、23日に2度目のマディソン登場でロン・リード(バディ・コルト)と対戦し勝利。そして先にも触れたバディ・ロジャース最後の試合となった8月30日のニュージャージー州アズベリーパーク・コンベンションセンターの大会ではダイヤモンド・ジャックと組みハンス・モーティアと、ボビー・デービスのあとモンスーンのマネージャーとなるワイルド・レッド・ベリーと対戦し、これも勝利する」
探偵「ワイルド・レッド・ベリー?」
先輩「ああ。ボビー・デービスとタイプがちがうが、この人もプロレス・マネージャーとしては祖だったんだ」
ワイルド・レッド・ベリーはNWA世界ライトヘビー級(全米レスリング協会)など軽量級で活躍した名レスラーだった。マネージャーに転向後、1967年から1969年にかけモンスーンのマネージャーとなり、ステッキで攻撃しては大いに試合を盛り上げた
ハンス・モーティアに策を授けるワイルド・レッド・ベリー。ボビー・デービスがボビー・ヒーナン、ジム・コルネットのタイプの祖なら、こちらはグレート・ボリス・マレンコやミスター・フジのタイプの祖といったところだろうか
先輩「とまあ、ちょっと話は反れたけど、こうして試合を重ねていくとファンはモンスーンに本気で恐怖するようになったんだ。リングで繰り出される得意技のエアプレン・スピンと巨体に見合わぬ超ジャンプからのマンチュリアン・スプラッシュやゴリラ・スプラッシュと呼ばれたボディプレスにファンは戦慄したんだよ」
探偵「マクマホン・シニアの改名とデービスのテレビを通したマネージメントが見事に成功したというわけですね」
先輩「そう。そして迎えた9月16日。モンスーンはハンス・モーティアと組み、いよいよサンマルチノ、ボボ・ブラジル組と対戦するんだ」
探偵「満州から来た恐ろしい巨人モンスーンと、カルホーンを持ち上げたパワーを持つ人間発電所サンマルチノがついに対決するんですね!!しかもサンマルチノのパートナーは必殺ココバットのボボ・ブラジル!!これはたまらないですね」
先輩「ああ。試合は3本勝負のようだったらしく、ここではモンスーン組が2フォールを奪って勝利しているが・・・」
探偵「が!?」
先輩「これを見てくれるか?」
探偵「これは!?」
!?
探偵「ロジャースとモンスーンが組んでサンマルチノ、ブラジルとタッグで対決?うむー、これはスゴい対戦カードですが・・・でも今回、先輩が調べたロジャースの戦績には、こんなのはなかったですよね?これはいつのなんですか?」
先輩「9月16日のマディソンでの対戦カードが掲載された新聞記事らしい。だから大会前日の15日か、当日くらいのものだろう」
探偵「え!?つまり、これが本来9月16日のマディソンで行われるはずのカードだったと!?ではこの日はモンスーンと組むのはモーティアではなく本当はロジャースだったということですか!?」
先輩「そのようだ。ふたりが一緒に写っている写真が残っている」
ロジャースとモンスーン
探偵「こ、これは・・・!!」
先輩「先にも触れたが、モンスーンがWWWF、マディソンに初登場したのが1963年8月2日とすると、その日からロジャースの最後の出場となった8月30日までにふたりが同じ大会に出場したのは8月2日のマディソン、8月8日のワシントン・コロシアム、8月23日のマディソン、8月30日のアズベリーパーク・コンベンションセンターの4回のみ。つまりこの1ヶ月間だけなんだ」
探偵「その間、ふたりがタッグを組んだという戦績は見つからなくて、でも、ふたりが一緒に写っている写真が存在しているということは・・・」
先輩「これは9月16日の宣伝用のスチールだったんじゃないだろうか?」
探偵「じゃ、ロジャースはこのタッグマッチに出場して、その後サンマルチノとリターン・マッチをする予定があったということなんですね!!」
先輩「そう。この9月16日のタッグから、10月4日にはWWWF世界ヘビー級選手権をかけたシングルマッチが行われる予定だったんだ。つまりロジャースの8月30日以降の試合出場記録はなかったが、8月30日以降に"試合に出場する予定"はあった、ということになる」
探偵「そうだったのか・・・でも、なぜロジャースは突然試合に穴を開けてしまったのでしょうか?ロジャースほどのベテランが新聞にまで掲載されていた試合を直前にキャンセルするなんて・・・」
先輩「調べても、その原因について書かれたものは出てこなかった。唯一、理由的なものが書かれたものとしては、どうも内臓、心臓あたりに疾患があったのでは・・・ということだけだった」
探偵「疾患・・・」
先輩「うん。真相はわからないが、とにかく急に試合に出なくなるくらいだから、よほどのことがあったんだろうなぁ」
探偵「そうか・・・結局、最終的にはサンマルチノに敗れた5月17日と同時期だったことと、その試合結果のインパクトが強すぎたことで、プロレス史上ではあの試合が原因で引退。リングから姿を消したと・・・そのように思われてしまったんですね」
先輩「おそらくね。それにしても、このタイミングもそうだけど、ロジャース現役最後の試合となった8月30日のニュージャージー州がロジャースの出身地だったというのを思えば、何か運命的なものを感じずにはいられないな」
探偵「運命・・・そうですね。かくして、このような流れからモンスーンに白羽の矢が立ったと・・・いうわけですね」
先輩「そう。モンスーンは9月16日のタッグマッチでは大活躍を見せ、本来ロジャースが戦うはずだった10月4日のルーズベルト・スタジアムではルール上タイトル移動はなかったがリングアウトでサンマルチノを下し勝利。一気に注目の的となった。そして17日後の10月21日。場所をマディソンに移し再びWWWF世界ヘビー級選手権で相まみえると今度は両者カウントアウトでドローとなり、2戦ともフォールを許さずサンマルチノを追い詰めたことで、さらに注目が高まることとなったんだ」
探偵「それで、そのあとは!?」
先輩「こうして11月18日、いよいよ迎えた3戦目。決勝ともいえるWWWF世界ヘビー級選手権での対決は迫り来るモンスーンの脅威をサンマルチノがカウントアウトで撃破。ついに激戦を制し勝利することとなった。ルーズベルト・スタジアムから戦いの場をマディソンに移した白熱の2戦は、どちらも全席がソールドアウトするほどの人気を集めたそうだ」
サンマルチノをパワーで圧倒し一気に注目の的となったモンスーン
探偵「モンスーンは代役を果たしたどころか、それ以上の活躍をしたことになったんですね。ロッカやロジャースが去り、サンマルチノやモンスーンの若い力が一気に花開いた。そしてプロレスのマネージャーの形に戦いのストーリーの樹立・・・ニューヨークのプロレスの原点がここにあった。そんな気がしますね」
先輩「うん。しかしながら、結果オーライとはなったけど、圧倒的観客動員数を誇るロジャースの代わりに当時出現したばかりの満州の巨人という無名レスラーを当てるというのは・・・マクマホンにしたら、かなりの勝負だっただろうなぁ」
探偵「ですね。このあたりもまた、ニューヨークのプロレスの原点に思えますね」
先輩「そうだな。では、ここからはサンマルチノのマディソンでの戦績を元に進めていこう。11月のモンスーンとのWWWF世界ヘビー級選手権以降は、翌月の12月16日にジェリー・グラハムとノンタイトル戦を行う」
探偵「はい」
先輩「そして明けた1964年。前年の12月に試合したジェリー・グラハムと1月20日、今度はWWWF世界ヘビー級選手権をかけ対戦している。そして注目は翌月の2月17日だ」
探偵「あ!!思い出しましたよ!!馬場さんだ!!この年の2月8日にはミシガン州デトロイトでルー・テーズのNWA世界ヘビー級へ、そしてこの17日にはニューヨークでブルーノ・サンマルチのWWWF世界ヘビー級へ、その11日後の28日にはロサンゼルスでフレッド・ブラッシーのWWA世界ヘビー級へわずか1ヶ月の間に連続挑戦していたんですよね。グレート東郷のとき調べましたよ(名レスラー伝~地獄の大悪党!!グレート東郷 その6 去りゆく大悪党~)」
先輩「おっ、よく覚えていたな。まさにその試合だ。実はモンスーン戦のインパクトが強すぎたせいか12月と1月のグラハム戦が不入りだっので、当時全米で絶大な人気を誇っていた馬場さんがオファーされ実現したタイトル戦だったようなんだ。流れを見ていけばわかると思うが、当時のWWWFの選手権試合は前哨戦があって、連続挑戦する形で同じレスラーと何試合かやるのが主流だったんだ」
探偵「ストーリーを持たせファンの興味を引くためですね。興行的にも利益が出ますし」
先輩「そう。だからこの馬場さんの単発的なWWWF参戦にして選手権挑戦がどれだけすごかったか?ということだね。結果、馬場さんのマディソン登場で会場はソールドアウト。試合の方は3本勝負で、1本目をサンマルチノがバックブリーカーで取り、2本目が進んでいくと市の条例により時間切れ。興行終了で1-0となってしまい残念ながら馬場さんの負けとなってしまったが、その偉大さを改めて認識することとなったわけだ」
探偵「タイトル奪取にはなりませんでしたが、この時代に日本人がマディソンでメインでWWWF世界ヘビー級選手権をやっていたなんて、すごすぎますよ。東郷が欲しがったのも無理はないですね」
先輩「そうだな。で・・・この馬場さんとの対決のあと、サンマルチノは3月16日にジェリー・グラハムとみたびWWWF世界ヘビー級選手権で対戦。5月11日、6月6日にはあの3戦の興奮再び、ゴリラ・モンスーンとWWWF世界ヘビー級選手権をかけ定期戦2連戦を行う」
探偵「もはや、ふたりの試合は人気カードだったんですね」
先輩「そうだね。そして7月11日、8月1日はWWA世界ヘビー級王者だったフレッド・ブラッシーとWWWF世界ヘビー級選手権をかけた定期戦で2回連続の対戦を決行する」
探偵「え!?WWAとWWWFのダブルタイトルが行われたんですか!?」
先輩「ああ。確認できたかぎり64年6月26日のニューヨークのルーズベルト・スタジアムが初戦で、その後このマディソンでの2戦を経て8月24日、ペンシルベニア州ピッツバーグにあったフォーブスフィールドでの試合まで4戦は行われている。マディソンでの試合の他、珍しい写真も見つかったよ」
7月11日のサンマルチノvsブラッシー戦。ブラッシーは40代半ばに差し掛かっていたが反則を駆使したインサイドワークでサンマルチノを追い込んだ
64年8月24日、ペンシルベニア州ピッツバーグにあったフォーブスフィールドで行われる両世界ヘビー級選手権に先立ち契約書に署名するサンマルチノとブラッシー。サンマルチノの隣はサンマルチノのプロレス入りのきっかけとなり当時マネージャーだったルディ・ミラー氏
探偵「これはすごい!!当時の世界タイトルのうちのふたつ、WWWFとWWAの両ベルトが並んでいるとは・・・かなり貴重なシーンですよ!!でも、これだけの出来事なのにプロレス史上で知られていないとは不思議ですね」
先輩「ああ。実はこの3ヶ月前の4月22日、ブラッシーはディック・ザ・ブルーザーに敗れWWA世界ヘビー級王座から転落していて、実際は王者ではなかったんだ。おそらく東部でだけWWA世界王者を名乗っていたんだろう」
探偵「なるほど。だから知られていないんですね。昔のプロレスにはよくあったあれですが、それでも・・・すごいですよね」
先輩「そうだな。このときブラッシーは46歳くらいだから下降線と言われれば仕方ないが、それでも話題性はダントツだっただろうね。ちなみに7月11日のサンマルチノvsブラッシー戦が行われたマディソンではボビー・デービスvsワイルド・レッド・ベリーの"マネージャー対決"が行われていた記録があった」
探偵「マネージャー対決!?この時代にもう、そんなことも行っていたとは・・・このあたりにもニューヨークのプロレスの原点を感じずにはいられないですね」
先輩「そうだなぁ。80年代にはよくあったことだけど、この時代にやっていたとはね・・・試合にちょっかいを出す者同士をリングで戦わせてしまおうという発想力には脱帽してしまうよな」
探偵「そうですね。当時の観客の興奮する姿が目に浮かびますね」
先輩「で・・・ブラッシー戦のそのあとは8月22日、9月21日、10月19日とワルドー・フォン・エリックとWWWF世界ヘビー級選手権で定期戦3回連続対戦となる」
プロシアン・バックブリーカー(カーフ・ブランディング)の使い手として有名なワルドー・フォン・エリックとの初戦となった8月22日は80分を戦い抜いての興行終了による時間切れ引き分けという大熱戦だった
先輩「エリック戦後の11月16日、12月14日は、この約1年後にルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王者となるジン・キニスキーとWWWF世界ヘビー級選手権を定期戦で2回連続で行い、サンマルチノはこの年のマディソンでのプロレスを締めたと・・・いう感じだ」
探偵「ロジャース戦からここまで1年7ヶ月。サンマルチノはボクらが知るレスラーもたくさん出始めてきたマディソンでハードな防衛戦スケジュールに身を置きながらも主役を見事に務めたわけですね。それにしても・・・」
先輩「うん?」
探偵「ロッカの空中戦にロジャースのラフファイトときて、サンマルチノはふたりとはタイプがまったく異なる"パワーファイター"だったわけじゃないですか?そんなサンマルチノがマディソン・スクエア・ガーデンに新しい時代をもたらすことができた最大の理由とは、なんだったのでしょうか?」
先輩「・・・わかりやすかったんじゃないのかな?」
探偵「わかりやすさ・・・」
先輩「サンマルチノは身長こそ180センチちょっとだったが、あの筋肉隆々な体にカルホーンを持上げるほどのパワーがあった。そんなサンマルチノが、あるときはパワーで相手を圧倒したり、またあるときはモンスーン戦のときのように自分より大きい相手に負けてしまったり引き分けてしまったり。ブラッシー戦のように反則やラフで苦しめられることもあった。でも、最後には勝つんだ。そこには複雑なグラウンドの展開もなければマネできないような技もない。あったのは、ベビーフェイスのサンマルチノがヒールを倒すというビジョンだったということさ」
探偵「つまり、正義のヒーローが次々と現れる敵を倒すという・・・」
先輩「小さな子供から年配者までサンマルチノに夢中になったのは、そこなんじゃないのかな?」
探偵「なるほどなぁ」
先輩「そんなサンマルチノの時代は、まだまだ続くよ」
その4 ⑧へ続きます。