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プロレス研究所~MSGとプロレス特別編 ザ・ヒストリー・オブ・デファジオ・メモリアル~

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どうも!!流星仮面二世です!!
 
ということでブログで展開しております「MSGとプロレス」のシリーズも創世記から3代目マディソンまでが終わり、いよいよ4代目マディソン・スクエア・ガーデンの時代へと突入していくわけなんですが・・・今回はその時代の狭間にありました、マディソンに直接の関わりがないのにマディソンと深く関わりがあるお話。特別編として「ザ・ヒストリー・オブ・デファジオ・メモリアル」と題しお送りします。
 
さて、デファジオ・メモリアルです。プロレスファンであればもうご存じかと思いますが、説明しておくと1978年1月23日に藤波辰巳がマディソンでカルロス・ホセ・エストラーダから奪取したWWWFジュニアヘビー級王座ですね。これを先代王者のジョニー・デファジオの功績にあやかり"栄光のデファジオ・メモリアル"と実況の古舘さんが呼んだことから始った伝説のタイトル"であります。

栄光のデファジオ・メモリアルを巻く若き日の藤波
 
藤波はこのタイトルを手土産に凱旋し、ヘビー級にはないスピーディーな動きとドラゴン・スープレックス・ホールドに代表される新しい技、数々のドラゴン殺法を見せ人気が大爆発。ドラゴン・ブームが巻き起こり、日本のプロレス界で"ジュニアヘビー"というカテゴリーをはっきりと確立させていきます。
 
以降、タイトルはWWFジュニアヘビー級王座となり、初代タイガーマスクへと受け継がれ・・・85年7末に新日本とWWFの提携が切れるまで新日ジュニアの象徴となります。現在の新日本プロレスのジュニアヘビー級のタイトルはIWGPジュニアヘビー級王座となるわけですが、このデファジオ・メモリアルが今日まで続くジュニアヘビー級の原点となったと、いうわけなんですね。
 
で、WWWFジュニアヘビー級王座ですが、藤波が獲得するまでの王座遍歴を調べてみますと、多くが
 
初代王者
ジョニー・デファジオ
獲得日:1965年10月15日 
獲得場所:ペンシルバニア州 ピッツバーグ
 
第2代王者
カルロス・ホセ・エストラーダ
獲得日:1978年1月20日
獲得場所:ニューヨーク州 ユニオンデール 
 
第3代王者
藤波辰巳
獲得日:1978年1月23日
獲得場所:ニューヨーク州 マディソン・スクエア・ガーデン
 
となっているのですが、実はデファジオから藤波に辿り着くまでの間には、知られざらる戦いの歴史があったわけなんです。それでは見ていきましょう。
 
まず、なんと言っても栄光のデファジオ・メモリアルの発祥となったジョニー・デファジオです。

ジョニー・デファジオ
 
デファジオは1940年11月15日(1940年11月30日、1941年11月30日の表記もあり)ペンシルバニア州ピッツバーグ出身ですが、その原点はロッカやサンマルチノと同じく、イタリアにあったようです。
 
平成18年(2006年)に発売された週刊プロレスの別冊冬季号である「プロレス ザ・レトロマニア 流智美の70'Sクラシック研究」(※ブログで「MSGとプロレス」をやるにあたり、独断小僧さんが送ってくださいました。ありがとうございました)にデファジオのお話が載っていますので抜粋します。

プロレス ザ・レトロマニア「流智美の70'Sクラシック研究より一部抜粋(原文まま)
 
「そう。私も両親がイタリア人で、ブルーノとは小さい頃からの友達だった。今でもブルーノやドン・デヌッツイとは時々会うよ」
 
デファジオとサンマルチノは同じ環境で子供時代から苦楽を共にした幼馴染みといったところ、だったのかもしれませんね。
 
また、サンマルチノと同じく、デファジオも少年時代からボディビルに熱中し15歳でコンテストに出場したといいます。高校時代はデファジオの住んでいたペンシルベニア州アレゲニー郡シャラーにあるシャラー高校でサッカーを行いながら柔道と空手も習うなど、とにかく体を動かすことが大好きだったようです。そして高校を卒業するとピッツバーグのウッドストリートにあるポイント・パーク大学に通い経営学の学位を取得します。スポーツも勉学も優秀だったようです。
 
その後、大学卒業後は一般企業の会社に就職したということなんですが、その職種は製鉄所勤務。つまり工場労働者だったようです。
 
プロレス ザ・レトロマニア「流智美の70'Sクラシック研究より一部抜粋(原文まま)
 
「私はピッツバーグの興行にしかでなかった。なぜなら父親が『ジョーンズ&ラーグリン・スチール』という鉄鋼会社の経営者で、私もそこの役員だったから、プロレスは週末だけ、しかもピッツバーグ近郊でしかできなかったんだ」
 
デファジオがプロレスラーとしてデビューしたのは1962年とされていますが、1940年生まれの人が順当に大学を卒業し就職していたならその年は1962年。プロレスラーになった年と就職した年が一致します。つまり・・・カール・ゴッチをして「すごい男」といわしめたドン・レオ・ジョナサンがレスラーをしながら潜水業をしていたように、デファジオも働きながらプロレスを行っていたレスラーだった、ということのようです。
 
こうしてデビューしたデファジオは地元ピッツバーグ「Wiic TV Channel 11」のプロレス中継番組「Studio Wrestling(スタジオ・レスリング)」のスタジオマッチに出場するようになります。

スタジオマッチは文字どおりスタジオにリングを組んで、試合前のレスラーへのインタビューから試合、試合後のレスラーの発言、乱闘などがすべてスタジオ1ヵ所、一体で行われるプロレスに特化したテレビ番組です。1970~1980年代のアメリカでは、この構成のプロレス中継が多々ありましたが、スタジオ・レスリングはその祖と言っていいかもしれません。

で、このスタジオ・レスリングの当時の進行役が人気テレビパーソナリティーのビル・カーディルとなっていたことで番組はかなりの人気だったといいます。

ビル・カーディルはローカルステーションが大量にローカル番組を制作していたこの時代において「Wiic TV Channel 11」で最も多くの番組の進行役を勤めていた。日本でいえば全盛期の欽ちゃんやタモリのポジションにあたる人物で、当時テレビで最もよく知られている"顔"だった。出演番組でスタジオ・レスリングに並び有名だったのはホラーとSFの映画を上映した土曜日深夜の「Chiller Theatre(チラーシアター)」という番組で、そこで「Chilly Billy(チリービリー)」というキャラクターに扮しての進行が大変人気を得ていたという。スタジオ・レスリングとチラーシアターは1960年代からピッツバーグで育った人にとっては「8時だョ!全員集合」のように、あまりにも忘れられない存在なのである

またWWWFのラインでアントニオ・ロッカ、バディ・ロジャース、そしてブルーノ・サンマルチノ時代の主力レスラーらと時代を追いながら多数スタジオ・マッチに出場していたので、その内容はとても高く、テレビ史上最も有名で人気があり、評価の高かったローカル番組と言われています。

左はスタジオ・レスリング放送初期の1959年8月の番組宣伝用チラシで、右は1961年10月に初代進行役のマル・アルバーツからビル・カーディルへ交代してからのもの。番組は毎週土曜日の夜6時からの90分生放送だったが、放送当日はお昼の12時くらいからスタジオ観覧したい人が集まってきては、夕方にはテレビ局の周りに毎回長い行列ができるほどだったという。このスタジオ・レスリングで前哨戦、のちピッツバーグのシビック・アリーナで本戦という流れも多々あり、このテレビの影響で冷えきっていたピッツバーグのプロレス熱が復活したほどだった

試合前にサンマルチノにインタビューするカーディル。番組でもサンマルチノの存在は絶大だったが、サンマルチノがカーディルを背に乗せ腕立て伏せをしたり持ち上げたりする、ふたりのやり取りは人気だったという。ちなみに「プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ⑦ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~」で紹介したマネージャーのボビー・デービスとWWWFとWWAのダブルタイトルの契約書に署名するサンマルチノとブラッシーの画像に写っていたマイクを持った人物もカーディル。スタジオ・レスリングの模様だったのだ

スタジオ・レスリングには当時のババ・ザ・ジャイアントこと馬場さんも登場した。リング上は左から私服のジョニー・デファジオ、狸親父ことトゥーツ・モント、馬場さん、カーディル。アナウンスをする左下の人物は1948年に三塁手で初のアメリカ野球殿堂入りを果たした元ピッツバーグ・パイレーツのパイ・トレイナー。豪華なメンバーだ
 
デファジオは、そんなスタジオ・レスリングでスピードとジャンプを生かしたファイトで活躍。ドロップキックやサンセットフリップ、そしてデファジオ・クレイドルと呼ばれる技を得意とし広く知られるようになり、やがて"ジャンピング"ジョニーと呼ばれ番組内でサンマルチノと並ぶ人気のレスラーとなっていきました。

"ジャンピング"ジョニー・デファジオと呼ばれたその由縁は、この跳躍力。見事なドロップキックだ
 
こうしてスタジオ・レスリングで活躍していたデファジオが、のちに"デファジオ・メモリアル"と呼ばれるWWWF世界ジュニアヘビー級選手権に初めて関わることになったのが1965年10月15日。ピッツバーグでのポール・デガレスとの試合でした。
 
一般的な記録の中には初代王者はデファジオとなっているものがありますが、実際はデファジオではなく1965年9月にポール・デガレスだったとされています。

ポール・デガレスはカナダ出身との情報もあったが残念ながら資料はあまり残っておらず、生年月日など詳しいプロフィールは不明。ただ1958年8月に力道山がルー・テーズからインターナショナル選手権を奪取したアメリカ遠征時期中のプログラムに名前が見られることから、ロスマットを主戦場にしていたレスラーの可能性も考えられる
 
デガレスがなぜ初代王者だったのか?予想されることとしては、当時ピッツバーグ地域をプロモートしていた狸親父こと、ご存じトゥーツ・モントがジュニアヘビー級タイトルを新設するにあたり、1957年、1959年にMWA世界ジュニアヘビー級王者を獲得していたデガレスを招聘。泊をつけるため元ジュニア王者の肩書きがあるデガレスを初代WWWF世界ジュニアヘビー級王者として認定したのではないか?というのが有力です。そしてその初代王者に1965年10月15日にデファジオが挑戦。勝利しデファジオが第2代の王者になった・・・という経緯ですね。
 
しかしデファジオ本人が語っているところでは、ちょっと内容が異なるところもあるようです。
 
プロレス ザ・レトロマニア「流智美の70'Sクラシック研究より一部抜粋(原文まま)
 
66年の1月だったと記憶しているが、ピッツバーグでポール・デ・グレスというフランス系の選手と決定戦をやってベルトを巻いた。これもブルーノがビンス・マクマホン(シニア)に掛け合ってくれてね。『ピッツバーグには地元のヒーローが必要だ。ディファジオは軽量だが、ジュニアの王座を新設しよう』と。WWWFにはジュニアのレスラーなんて一人もいなかったから、防衛戦もピッツバーグで10回ほどやっただけだった」
 
なるほど。サンマルチノがマクマホンに掛け合いタイトルを新設。モントが以降の段取りをした様子が伺え、話も繋がります。しかし記録の方はというと、デファジオは初戴冠は1965年10月15日ではなく1966年の1月と語っています。そして初代王者ポール・デガレスに"挑戦"したのではなく"決定戦をやって"となっています。

これらが事実であれば王座発祥の歴史もかなり変わってきますが、このあたりはもはや調べようもなく真相は謎としか言えません。なので、ここでは1965年9月にポール・デガレス、1965年10月15日にジョニー・デファジオということでお話を進めます。
 
ということで王座遍歴を見てみましょう。
 
○WWWF世界ジュニアヘビー級王座遍歴
(エストラーダ獲得以前)
 
初代王者
ポール・デガレス
獲得日:1965年9月?日
獲得場所:不明
 
第2代王者
ジョニー・デファジオ(初)
獲得日:1965年10月15日
獲得場所:ペンシルバニア州ピッツバーグ
 
第3代王者
ジャッキー・ニコルズ
獲得日:不明 
獲得場所:ニューイングランド?
(ニューイングランドとはコネチカット州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、メイン州、ロードアイランド州からなる北東部地区のことを差す)
 
第4代王者
ジョニー・デファジオ(2)
獲得日:不明 
獲得場所:不明
 
第5代王者
ジャッキー・ニコルズ
獲得日:不明 
獲得場所:不明
 
第6代王者
ジョニー・デファジオ(3)
獲得日:不明 
獲得場所:不明
 
第7代王者
ジャッキー・ニコルズ
獲得日:不明 
獲得場所:不明
 
第8代王者
ジョニー・デファジオ(4)
獲得日:不明 
獲得場所:不明
 
1972年?月
王座空位
 
王座遍歴ではデファジオの初戴冠以降、年月日不明で場所も不明となっていますが、先に「流智美の70'Sクラシック研究」より抜粋した「WWWFにはジュニアのレスラーなんて一人もいなかったから、防衛戦もピッツバーグで10回ほどやっただけだった」ということを当てはめれば、場所はすべてピッツバーグで、スタジオ・レスリングでだった可能性が高いです。
 
そして、そこで見られたジャッキー・ニコルズというレスラーの名です。デファジオとニコルズの間でこれだけ王座が行き来したとなれば、このレスラーの詳細がやはり気になってきます。
 
ジャッキー・ニコルズは1910年12月31日、メイン州ポートランド出身(2003年4月22日 没)とのことですが・・・残念ながら詳しいプロフィールは残っていませんでした。

ジャッキー・ニコルズ
 
しかし調べていくと1955年10月21日、メイン州ポートランドで、なんとアントニオ・ロッカと試合している記録を発見しました

1955年10月21日、メイン州ポートランドで行われたロッカvsニコルズの試合のチラシ。会場として表記されている「EXPOSITION Bldg. Portland(ポートランドのエクスポジション・ビル)」は1915年6月7日にオープンし現在もスポーツイベント会場や展示場として使われている。マサチューセッツ州ボストンのマシューズ・アリーナに次いでアメリカで2番目に古い施設である
 
1955年といったらマディソンでのロッカの全盛期にあたるわけですが、そんな時代にロッカがアメリカ最北東部のメイン州に出向いて試合していて、そこでメインを任されてるのがニコルズとは・・・これは驚きを隠せません。
 
さらに年は不明ですが(1961年~1963年?の10月28日?)ニコルズがイボン・デュレルというボクサーとミックスドマッチ、つまり異種格闘技戦を行っていたという記録もありました。
 
イボン・デュレルは1958年12月10日にモントリオールで当時世界ミドル級王者だった、プロレス・スーパースター列伝でもおなじみ"KO魔"アーチ・ムーアと対戦。壮絶なダウンの取り合いをし最後は逆転の判定負けとなりましたが1ラウンドに3回のダウンを奪っており、現在のルールならTKO勝ちだったというボクシングファンには語り継がれる試合を残しているボクサーなんだそうです。
 
アントニオ・ロッカ全盛期に自身の地元でメインで対決し、有名なボクサーと異種格闘技戦も行っていたというニコルズ。一体どんなレスラーだったのか!?そのファイトスタイルを目にすることはできないものか・・・と探してみると、1958年5月2日にシカゴでビリー・ゲルツ(1948年にNWA世界ジュニアヘビー級王座に2度戴冠)というレスラーと試合している映像が出てきました。
 
 
これは・・・いやぁ驚きました。序盤の腕の取り方やグラウンドの攻防、これは当時のアメリカのスタイルではないですね。ピート・ロバーツやスティーブ・ライトを見ているかのようです。そのリストロックを実況が「ジャパニーズ・リストロック」と呼んでいるのも興味深いですね。リバース・スープレックスの攻防も味わい深いです。
 
察するに、ニコルズはヨーロッパ系で、今でいう"隠れシューター"というやつだったのではないでしょうか?ヨーロッパにいたとか、ヨーロッパ系のレスラーに指導されたとか・・・このあたりは謎ではありますが、何かしら関連したことがあった実力派レスラーだったと言ってまちがいないようです。
 
そんなニコルズとデファジオがWWWF世界ジュニアヘビー級王座を軸に戦いを繰り広げていたとあれば、その興味は尽きません。デファジオの空中戦とニコルズのヨーロッパスタイル。当時のふたりの戦いがどのようにファンの心を刺激していたか?考えただけでワクワクしてしまいますね。
 
さて、こうしてジュニアヘビー級戦線で活躍していた様子を見ていると、デファジオはシングルプレーヤーという印象が優先してしまいますが、実はタッグでもたった一度だけタイトルを保持していたことがありました。
 
1971年12月18日、ピッツバーグでジート・モンゴルとタッグを組んだデファジオはターザン・タイラー、ルーク・グラハムが持つWWWFインターナショナル・タッグ選手権に挑戦。これに勝利し第7代のタッグ王者となっているんですね。

WWWFインターナショナル・タッグ選手権のベルトを巻くジート・モンゴルとジョニー・デファジオ  
 
と、ここでピンときた方も多いと思います。そう、WWWFインターナショナル・タッグ選手権です。これは1985年5月24日に神戸ワールド記念ホールで藤波、木村がディック・マードック、アドリアン・アドニスと王座決定戦を行い勝利し、獲得したWWFインターナショナル・タッグ選手権の原点となったタイトルですね。

WWFインターナショナル・タッグ選手権に栄冠した藤波、木村組。なんと藤波はデファジオゆかりのベルトの、シングル、タッグのどちらの王者にもなっていた"たったひとり"のレスラーだったのだ
 
しかし、デファジオがこのタッグ・タイトルを手にした1971年代というのは、ピッツバーグのプロレスが衰退していってしまっていた時期で・・・大きな変革期を迎えんとしているときでもありました。
 
まず、それまでピッツバーグのプロモート権を保有していたサンマルチノ(1966年2月にサンマルチノがトゥーツ・モントから購入)が、この71年にジート・モンゴルにその権利を売却します。そしてデファジオがタッグ王座を獲得した翌年の1972年になるとニューヨークのバッファローを拠点としたペドロ・マルティネスのNWF(National Wrestling Federation 全米レスリング連盟 ※のちにアントニオ猪木が保持したNWF)がピッツバーグのプロモート権をジート・モンゴルから買収する流れとなったのです。
 
これによりピッツバーグでのWWWFのタイトルは宙に浮くことになり、WWWF世界ジュニアヘビー級王座、WWWFインターナショナル・タッグ王座は行き場を失い空位となってしまったのです。
 
そしてスタジオ・レスリングです。この同時期に「Wiic TV」は経営陣が変わり、番組が編成され本来スタジオ・レスリングが放送されていた土曜日の午後6時の時間帯はニュース番組へとシフト。スタジオ・レスリングは16時30分、17時、13時と放送時間の変更を次々余儀なくされた上、放送時間を1時間に短縮されることになってしまったのです。やがてメジャーリーグの放送と重なっては徐々に放送は不定期となり・・・1974年6月に放送終了が通知され、16年の歴史に幕を閉じることとなったのです。
 
時を同じくして、デファジオはプロレスラーを引退。鉄鋼会社勤務に本腰を入れ、36歳の若さにしてUSW(全米鉄鋼労組)の代表となり、その後ペンシルバニア州のUSW局長など労働組合組織の幹部を務めるなど、社会的になっていったのです。
 
こうして人気番組だったスタジオ・レスリングもジュニアヘビー級タイトルも、そしてジョニー・デファジオも・・・その痕跡を消していってしまったのです。
 
しかし、プロレスを行いたかったデファジオは仕事を続けながらも1974年にプロレスに復帰。地元ペンシルベニア州や隣の州であるオハイオ州、ウェストバージニア州などで行われたWWWF主催の大会に細々とスポット参戦していくことになります。

1974年に復帰したときのデファジオ。ややぽっちゃりとした印象となったが、その表情からプロレスへの情熱が消えていないのがわかる
 
こういった形ながらプロレスラーを続けていったデファジオでしたが1984年4月にピッツバーグで行われたレッド・デーモン(ホセ・ルイス・リベラ)戦を最後に正式に引退。以降は鉄鋼会社の役務を経、ペンシルバニア州アレゲニー郡の評議員となり、1999年からは評議員会会長を2019年まで務めることになります。
 
しかし2020年頃からあまり体調がよくなかったらしく・・・デファジオは2021年2月26日に80歳で、その生涯を閉じることになります。
 
CBSピッツバーグより
 
その死には1960年以降にピッツバーグのテレビで育った世代から惜しまれたのはもちろん
 
「お父さんとお母さんが子供の頃は、この人のテレビを見て育ったんだよ」
 
と、両親から聞かされ育った次世代も多かったことから、ピッツバーグの広い年齢層から追悼されたといいます。
 
プロレスラーとして人々に夢を与え、社会人として雇用維持、環境改善に注力し、そして評議員で人々の暮らしのために尽くしてきたデファジオ。まさに"人のため"に生きたピッツバーグの伝説は、その存在こそがメモリアルとなり、いつまでもひとりひとりの心の中で生きていくことと思います。

日本のファンも栄冠のデファジオ・メモリアルを忘れません。ありがとうジョニー・デファジオ。どうか安らかに・・・

◎追記
さて、本記事は本来は上記までだったのですが、ある映像を見つけたので追記させていただきます。

独断小僧さんから本を送っていただき、この記事を作り始めた頃(2020年6月時点)はデファジオもご存命でした。そして先に上げたように、そのとき調べた限りでは1984年4月にピッツバーグで行われたレッド・デーモン(ホセ・ルイス・リベラ)戦がデファジオ最後の試合となっていました。
 
しかしデファジオが亡くなった2021年2月頃に1988年3月25日にジョニー・デファジオが試合を行っている映像がYouTubeにアップされているのを発見したのです。
 
 
この試合は最後の試合とされている1984年4月から4年もあとの1988年のものです。1988年といったら、1960年代や1970年代からしたらプロレス史の記録はそれこそ鮮明になっている年代です。なのにこの試合は、これまでまったく知られておらず・・・調べても詳細が出てこず、正直なところ何なのか?わかりませんでした。
 
エキシビションマッチの可能性が高いですが、これまでデファジオの現役時代の試合映像は一切発見されていないので、全盛時代でないにしろデファジオがプロレスをしている映像があったというのはもはや奇跡。大変貴重だと思います。
 
ということで・・・流智美さんのようにはいきませんが、映像から可能な限り詳細を割り出して掲載してみます。
 
まず「トライステート・チャンピオンシップ・レスリング」、「シャラーエリア」と言っています。
 
トライステートとは「tri(3つの)-state (状態)」を指すようで、アメリカでは「3つの州にまたがる」または「隣接する3つの州を統べる」エリアを本来こう言うそうなんですが・・・調べたところスタジオ・レスリングが放送されていた時代にテレビに登場してくるレスラーの総称が「トライステート・レスリング」だったようなんですね。なのでここではデファジオを表し、そういう意味で言っているんだと思います。
 
そして「シャラーエリア」ですが、こちらはペンシルベニア州アレゲニー郡シャラーで行われたことを表しているということでまちがいないと思います。

会場はハイスクール・ミュージアムと言っているので、どこかの高校の体育館のようですが「シャラーハイスクール」と言っているようにも聞こえるので、この試合はデファジオの母校での開催だったのかもしれません。
 
デファジオの相手は実況からすると「ザ・シチリア・ビースト」という名前のようです。調べたところ同じ名前のレスラーが1960年代にカナダやピッツバーグでサンマルチノやバレンタインと試合している記録があったのですが、1979年に引退。1986年に亡くなっているようなので、おそらく映像のレスラーは2代目ではないかと思われます。が、詳しくは不明です。
 
そのビーストにつくジミー・ハートもどきみたいなマネージャーは「マイク・カーティス」というようです。カーティスは1984年頃からプロレス界にマネージャーとして名前があり、1991年にジム・コルネットの主催するSMW(スモーキーマウンテンレスリング)でレフリー。1995年からはECW(エクストリームチャンピオンシップレスリング)でブライアン・ヒルデブランドという名前でレフリーをし、のちWCW(ワールドチャンピオンシップレスリング)でマイク・カーティスとしてマネージャーとして活躍したと、いうことなんですね。しかし1999年9月8日に癌のため37歳の若さで亡くなっているそうです。
 
一方、デファジオはスタジオ・レスリングのレジェンド"ジャンピング"ジョニー・デファジオと紹介されています。誕生日から換算すると47歳の姿と、いうことになります。かなりの声援があります。このあたりはレジェンドたる由縁ですね。

試合は20分1本勝負のようです。実はデファジオが活躍したスタジオ・レスリング他、1960~1970年代に行われたプロレスの試合は、タイトル戦などビッグマッチでなければこの20分1本勝負というのが主流だったようなんです。なのでこれは当時にならって、この試合時間としたのかなと思いました。
 
試合は派手な技こそありませんが、駆け引きと試合の組み立てでお客さんの気持ちを存分に引き出していていますね。誰が見ても楽しめる展開です。このあたりはさすがだと思いました。
 
動きは、さすがに飛び技は出ませんでしたが全体的にスムーズで、足がもたつく、もつれるような様子はなかったので・・・もしかすると84年以降もリングに上がっていたのでは?なんて思えてしまうほどでした。

気づいた点としては、デファジオ試合中にマネージャーのマイク・カーティスを片手だけで持ち上げて机に投げ落としていますね。このすごいパワー。こういうことができることにも驚きなんですが、デファジオこれ左腕でやってるんですね。試合後半にビーストに打っているパンチも左打ちなんですよ。なので・・・もしかするとデファジオは左利きだったのではないでしょうか?もしそうなら、これはプロレス史上、初の発見かもしれないですね。
 
ということで今回の映像ですね。デファジオは社会人をしていたので常に現役を継続してきたレスラーではなかったわけですが、この時点でこれだけ動けていたんですね。それを思うと、やはり全盛期のデファジオですね、そのジャンピングの由来となった姿を見てみたくなりました。

これまで発見されていなかった映像が発掘され、世に出てくることが現在では増えています。なので・・・いつかスタジオ・レスリング時代の"ジャンピング"ジョニー・デファジオの映像が発見されることに期待したいと思います。
 

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