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名レスラー伝~スーパー・デストロイヤー大全集 1 ~

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どうも!!流星仮面二世です!!

 

さあ、ということで今回はスーパー・デストロイヤー特集です。

 

プロレス界において、時代を隔て数多くのレスラーが名乗ってきたスーパー・デストロイヤー。しかし、これまでにそれらを示すものがなかったので見分けが難しく、すべてを把握するのは困難なものでした。

 

そこで、はたしてスーパー・デストロイヤーは何人いたのか!?を徹底調査。ビッグネーム、超一流からマイナーまで、スーパー・デストロイヤーを名乗ったレスラーを可能なかぎり追跡、解析します。

 

こんなレスラーが!?これは一体!?有名どころから、まったく未知だった存在もの。そして謎。超破壊仮面に隠された真実とは!?さあ、一緒に謎解きの旅へ出発しましょう。

 

それではスーパー・デストロイヤー大全集、スタートです!!

 

 

1.ドン・ジャーディン

スーパー・デストロイヤー(1973年~1994年)

 

ドン・ジャーディンは1940年3月24日、カナダのニューブランズウィック州出身。1955年にデビューしカナダを主戦場にファイト。その後、1962年からはアメリカ本土にも進出し、翌1963年7月には日本へも初来日。ドン・ジャーディンの名で日本プロレスの夏の国際試合に参戦します。


その2年後の1965年9月にはリングネームをザ・ブッチャーとし2度目の来日。ここでは10月22日、富山市体育館にて行われたインターナショナル・ヘビー級争奪資格決定戦の第3戦で馬場さんと60分3本勝負で対決。1-1の引き分けに持ち込む大健闘を見せました。


1965年10月22日、富山市体育館での馬場戦。全盛の馬場さんから1本目を先取し3本目を時間切れ引き分けに持ち込むとは勲章だ


この来日の2年後。1967年頃にテキサス州ダラス地区でファイトしているときフリッツ・フォン・エリックからアドバイスを受けマスクマンのザ・スポイラーへ変身します。

 

そして、その6年後の1973年。ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に登場。ここで初めてスーパー・デストロイヤーを名乗ることになります。

 

ドン・ジャーディンの元祖スーパー・デストロイヤー


細身に見えますが193センチ、125キロという大型マスクマンと化したジャーディンは、スーパー・デストロイヤーを名乗ってからもザ・スポイラーと同じマスク、コスチュームでリングネームを併用しながらファイトします。このためスーパー・デストロイヤーを名乗った正確な日時は残念ながらわかりませんでした。


しかしプロレス界でのスーパー・デストロイヤーはドン・ジャーディンが元祖であり、その発祥は1973年ノースカロライナ州であったということはまちがいないと思います。1973年ノースカロライナ州・・・スーパー・デストロイヤーは、すべてがここから始まったというわけですね。

 

そんなジャーディンがスーパー・デストロイヤーとして日本に初登場したのは誕生から3年後の1976年8月。全日本プロレスのブラックパワーシリーズでした。

 

このシリーズの8月28日に東京の日大講堂で行われたザ・デストロイヤーの「覆面十番勝負」の最後の相手として登場したのがジャーディンのスーパー・デストロイヤーだった

 

史上初の"デストロイヤー対決"となったこの試合では奇怪なデザインのマスクとサイケなコスチュームで日本のファンを魅了しましたが、日本初の覆面剥ぎマッチでもあったこの戦いに敗れてしまったジャーディンはマスクを剥がされ素顔を見せることとなってしまいました。

 

しかし以降もスーパー・デストロイヤーをやめることなく、フロリダ、テキサス、ジョージア、ニューヨークと1994年に引退するまでアメリカ全土を渡り歩き活躍。全日本プロレス、新日本プロレスにも来日し、その勇姿を見せました。

 

様々なマスクでリングに上がっていたジャーディンのスーパー・デストロイヤー。フロリダでは初期のマスカラスを思わせるようなデザインのものも着用していた

 

鷲を象ったマスクは代表的。最後の来日となった1980年の新日本参戦時もこのデザインだった


プロレス引退後は洗車場経営と彫刻家をしていたというジャーディンでしたが2006年12月16日、白血病のため66歳という若さでこの世を去っています。虎は死して皮を留め、人は死して名を残す・・・すべてのスーパー・デストロイヤーの始まり。この人をおいてスーパー・デストロイヤーは絶対に語れません。人気、実力、知名度と文句なくナンバーワンのスーパー・デストロイヤーです。

 

 

2.ネイル・グアイ

スーパー・デストロイヤー(1974年末~1975年中期)

スーパー・デストロイヤー・マークⅢ(1978~1980年?)

 

ネイル・グアイは1942年7月21日、カナダのケベック州出身。1960年頃にデビューしスタンピートレスリング他、カナダマットを主戦場にしていたようです。

 

スーパー・デストロイヤーを名乗ったのは1974年12月。このときの場所は特定できませんでしたが、しかし翌1975年4月に新日本プロレスで行われた第2回ワールド大リーグ戦に同名で来日。日本のプロレスファンの前にその姿を現すことになります。

 

ネイル・グアイのスーパー・デストロイヤー

 

と、これ・・・よく見るとドン・ジャーディンのスーパー・デストロイヤー日本初お目見えが1976年8月なのに対して、ネイル・グアイのスーパー・デストロイヤーは1975年4月なんですね。

 

ということは元祖ドン・ジャーディンよりネイル・グアイのスーパー・デストロイヤーの方が日本登場に関しては1年4ヵ月早かったということになります。これは意外。驚きの結果です。

 

しかしネイル・グアイのスーパー・デストロイヤーは長くは行われず・・・同年の5月23日、韓国のソウルにある奨忠体育館で大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。60分3本勝負で行われたこの試合の2本目でマスクを剥がされた上、頭突きの猛攻を受け敗北。わずか5ヶ月という短期間でスーパー・デストロイヤーを終えてしまいます。

 

その後、1975年10月頃にカナダマットにてタワーリング・インフェルノというマスクマンに変身。

 

タワーリング・インフェルノ

 

このリングネームは1974年公開に名優ポール・ニューマンが出演したパニック映画「タワーリング・インフェルノ」からのものだったそうです。ちなみにこの映画、日本では1975年6月に全国ロードショー。この年の興行成績が約37億円となり2位の「大地震」と3位の「エマニエル夫人」に20億以上の差をつけて1位。さらに「エクソシスト」「ゴットファーザー」を抜き当時の歴代1位となった超人気映画だったと、いうことなんですね。

 

それにしても・・・これまでにバットマンやタイガーマスク、ローン・レンジャーやランボーなどドラマや映画の主人公、アメコミヒーロー、アニメヒーローのキャラクターを模したレスラーは多々現れましたけど、映画まるごと1本を模してしまうとは発想力がすごいですね。

 

で、そんな映画人気の余韻もまだ覚めぬ1976年4月。ネイル・グアイはタワーリング・インフェルノとして新日本の第3回ワールド大リーグ戦に登場します。

 

しかしシリーズから帰国するとタワーリング・インフェルノからザ・ハングマンに名を変えロスマットにヒールとして登場。ここで絞首刑用ロープを手に大暴れ。アメリカス・ヘビー級、アメリカス・タッグと次々ロスのタイトルを手にします。

 

ザ・ハングマン

 

そして1979年からはAWAに参戦。ここでドン・ジャーディンのスーパー・デストロイヤーがAWAを去ったことにより1978年から先にスーパー・デストロイヤー・マークⅡとなっていたサージェント・スローターのタッグパートナーとして「スー パーデストロイヤー・マークⅢ」に変身します。このキャリア2度目のスーパー・デストロイヤーではスローターとのスーパー・デストロイヤーズでAWA世界タッグ戦線で大暴れ。また、仲間割れから史上初のスーパー・デストロイヤー対決も行うなど高いヒール人気を得ることとなりました。

 

1977年8月の闘魂シリーズ、1980年11月の第1回MSGタッグ・リーグ戦にはリングネームはザ・ハングマンそのままに、素顔で新日本プロレスに登場。シリーズでは持ち前のラフファイトでハンセン、ホーガン組とも渡り合い活躍しました。

 

アンドレと並ぶと小さく見えるが193センチ、130キロと実は大型だったハングマン。スーパー・デストロイヤーになるにはうってつけのレスラーだった

 

様々なマスクマンとして活躍し、プロレスラー史上唯一の"2タイプのスーパー・デストロイヤー"を行ったネイル・グアイ。元祖ドン・ジャーディンにも劣らないスーパー・デストロイヤーでした。

 

 

3.アート・ネルソン

スーパー・デストロイヤー(1976年~1980年?)

 

アート・ネルソンは生年月日が不明。出身も1930年ミシガン州デトロイトで1980年10月20日没という情報と、1927年カナダのオンタリオ州ウィンザーで1983月10月20日没という情報があり、このあたりはよくわかっていません。

 

デビューは1949年末から1950年初頭あたりとされ、当時はテネシー州でブラックファントムというマスクマンでファイトしていたという記録があります。この時代にテネシー版のNWAジュニアヘビー級王者として活躍していたようです。

 

ブラックファントム

 

その後、1960年代はインディアナポリスでレイ・スティーブンスとタッグを組みAWA(インディアナ)のタッグタイトルを獲得。のちスタン・ネルソン(詳細不明)というレスラーと兄弟タッグのネルソン・ブラザーズ(実際は兄弟ではない)として同タイトル戦線で活躍したそうです。アメリカではタッグの名手として有名で、タッグにおいては常にトップにランキングされるほどの実力だったそうです。

 

日本へは1967年9月に日本プロレスのダイヤモンドシリーズに最初で最後の来日。同月30日に札幌中島スポーツセンターで馬場さんのインターナショナル選手権に挑戦します。当時は現役のNWA世界王者が挑戦するほどの権威であったインターナショナル選手権の挑戦者としてはネーム不足、格下など言われてしまったネルソンでしたが、下馬評では馬場さん余裕のストレート勝ちと言われていた予想に反し、2本目に馬場さんからフォールを奪う大健闘を見せました。

 

そして1970年代です。この頃は南部で活躍。ジョージアでジェリー・ローラーとタッグを組むなどしていましたが、どうやら1976年にスーパー・デストロイヤーに変身しているようです。

 

アート・ネルソンのスーパー・デストロイヤー

 

キャリア末期にスーパー・デストロイヤーへと変身したネルソンは、この同年の11月、テキサス州アマリロに初登場となったミル・マスカラスの対戦相手として連戦を行ったり、他にスコット・ケーシー、ジョニー・ウェーバー、桜田一男らとも対戦。同年12月25日にはテキサス州のアマリロ・スポーツ・アリーナでデビューして間もない、まだ本名の嶋田源一郎だった天龍と15分1本勝負を行い時間切れ引き分けをしている記録も残っています。

 

1978年9年14日にはミスター・ポーゴと名乗り始めた当時の関川哲夫とテキサス州ヘレフォードにて対戦している

 

このようにネルソンは、スーパー・デストロイヤーとしてはテキサスで長くファイトしていたようです。

 

で、ネルソンを調べていくうちスーパー・デストロイヤーとして気づかされることがありました。このマスクです。ちょっとご覧いただきたいのですが・・・

 

左がドン・ジャーディン、右がアート・ネルソンのスーパー・デストロイヤー

 

そうこれ、マスクのデザインがまったく同じなんですよ。

 

様々なレスラーがスーパー・デストロイヤーを名乗り多くのエリアに出現しましたが、そのマスクまで同じデザインだったというのはちょっと聞いたことがありません。

 

このマスク、真似にしては完成度が高すぎますし、デザインがたまたま似たとも考えがたいです。もしかするとジャーディンとネルソンは交流があり、スーパー・デストロイヤーをやるにあたり本家から譲り受けたのではないか・・・これにはそんな妄想も、ちょっと頭を過るくらいでした。もしそれが事実だったのであれば、ジャーディンとネルソンのスーパー・デストロイヤーズ。見てみたかったです。

 

 

4.ハルク・ホーガン

スーパー・デストロイヤー(1977年後半の数ヶ月間のみ?)

 

ハルク・ホーガンは1953年8月11日、ジョージア州オーガスタ出身。ヒロ・マツダに鍛えられ1977年8月10日にフロリダ州フォートマイヤーズでデビューとなりましたが、このデビュー戦がマスクマンのスーパー・デストロイヤーだったと、いうことなんですね。

 

その発祥は当時のNWAのフロリダ地区であるCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)のプロモーター、マイク・グラハムの息子のエディ・グラハムの発案だったようです。

 

ハルク・ホーガン自伝「ハリウッド・ハルク・ホーガン」より

 

「1977年の終わりのことだ。プロとして初めての試合で、エディ・グラハムは俺にマスクを被せ、「スーパー・デストロイヤー」と名付けた。エディは俺を尊重していたし、いつか大成すると思っていたからこそ、俺の顔をマスクで隠したのだ。マスクを着けていれば、よほど活躍しない限り、誰も俺だと気づくことはない(原文まま)」

 

こうして迎えたデビュー戦の相手はブライアン・ブレアー。20分を戦い引き分けとなっています。

 

しかし自伝によればデビューはしたものの、その後は試合をなかなか組んでもらえなかったそうで・・・デビューして4ヶ月間でわずか10試合程。1週間に1度も試合がないときも多々あり、よって収入もなかったそうです。これによりホーガンは、ここで一旦プロレス界から離れてしまったそうなんですね。

 

それから1年後にフロリダ州北部からアラバマ州南東部で復帰しますが・・・

 

「ペンサコラ~アラバマ地区での俺はもう、スーパー・デストロイヤーではなかった。本名をもじった「テリー・ボールダー」というリングネームで、ベビーフェイスとして闘うことになった(原文まま)」

 

とあります。つまり復帰後からはスーパー・デストロイヤーではなかったということになります。

 

ということで、ホーガンがスーパー・デストロイヤーだった期間は4ヶ月くらい。わずか数十試合だったということになりそうです。

 

この活躍期間の短さとプロレスを離れていた時期があったことが影響してか、ホーガンのスーパー・デストロイヤー姿の写真は現在まで発見されていません。マスクやコスチュームはどんなものだったのか?もはや確認はできませんが、デビュー戦が決まった様子を語るホーガンによれば・・・

 

「リングシューズも持っていなかった俺に、ジムでボコボコにされているのを見て喜んで見ていたジャック・ブリスコが真新しい白のブーツを買ってくれた。俺はヒールになる予定だったから、そのブーツは黒く染め直さなければならなかったが、ジャックが初めてのブーツを買ってくれたことはけして忘れない(原文まま)」

 

とあるので、黒がベースだった様子が伺えます。しかしそれ以上は、うーん、 わからないですね・・・

 

若き日のハルク・ホーガン。この仕様でマスクを着けた感じだったのだろうか?(左はジェリー・ローラー)

 

もはや確かめる術は本人に聞く以外ありませんが、のちにハルク・マシン、ミスター・アメリカとマスクマンもこなしたことを考えると、意外とスーパー・デストロイヤーの経験が活きたのかもしれないですね。

 

 

5.サージェント・スローター

スーパー・デストロイヤー・マークⅡ(1978年~1980年?)

 

サージェント・スローターは1948年8月27日、ミシガン州デトロイト出身。1972年、AWAでデビュー。3年後の1975年1月には国際プロレスに初来日。同年7月には全日本プロレスにも参戦と早くから日本で活躍していました。

 

帰国後の1976年からはNWAトライステート地区、翌1977年からはNWAセントラルステーツ地区とNWA圏でファイト。そして1978年に古巣のAWAに戻るのですが、このときドン・ジャーディンのスーパー・デストロイヤーがAWAを去ったことにより、後任する形として「スーパー・デストロイヤー・マークII」となったと、いうことなんですね。

 

サージェント・スローターのスーパー・デストロイヤー・マークⅡ。あの独特のアゴのラインはマスク越しでも存在感十分だ

 

そして先にご紹介しましたネイル・グアイをスー パーデストロイヤー・マークⅢとしてスーパー・デストロイヤーズのタッグを組むと、いうわけなんですね。

 

サージェント・スローターとネイル・グアイのスーパー・デストロイヤーズ。スーパー・デストロイヤーが同地区にふたり存在しタッグを組んだのはこれが初だった

 

スーパー・デストロイヤーズはAWA世界タッグ戦線で活躍しましたが、しかし、マネージャーのボビー・ヒーナンのファイトマネーの分配が原因でのちに仲間割れ。タッグパートナーから一転し、スーパー・デストロイヤー同士の抗争に発展してしまいます。

 

1980年6月14日、ネブラスカ州オバマのコンベンションセンターでのマークⅡとマークⅢのスーパー・デストロイヤー対決。スーパー・デストロイヤー同士の抗争も、もちろんこれが史上初だった

 

そして、タッグ解消からシングルマッチが増えたこの時期、1980年6月22日のミネソタ州ミネアポリスのミネアポリス・オーデトリアムでは馬場さんの持つPWFヘビー級王座に挑戦する試合も行われていました。

 

1980年6月22日のミネアポリスでのPWFヘビー級選手権でのスーパー・デストロイヤー・マークⅡ。正体を知ってか!?馬場さんはアゴを持っての河津落とし敢行。これにはさすがのスローターも大ピンチ!?

 

結果は10分15秒、16文キックの前に沈みましたが、馬場さんの海外遠征の相手に抜擢されるあたりは将来トップレスラーとなるなんたるか、だったのかなと思いました。

 

で、このサージェント・スローターのスーパー・デストロイヤー・マークIIなんですが、実はですね、テーマ曲が存在するんですよ。

 

曲はThe Turnbuckles(ザ・ターンバックルズ)というパンクバンドが1979年に出した

 

「Super Destroyer Mark II」

 

だそうです。

 

ちょっと聴いてみましょう。

 

The Turnbuckles - Super Destroyer Mark II [1979]

 

どうですかこれ。この「スゥパデストロイャマクツー」いいですね~。

 

ですが、これが入場テーマ曲だったのかどうかは実のところ不明。曲か作られた経緯もわからなければ、このザ・ターンバックルズの詳細もわかりませんでした。

 

しかし「専用のテーマ曲があるスーパー・デストロイヤー」は、おそらくプロレス史上初でありスローターが唯一だったのではないかなと思います。

 

タッグチームから同士の対決。そしてテーマ曲と、スーパー・デストロイヤー史上初尽くめとなったスローターはスーパー・デストロイヤー界のパイオニア的存在だったと言えるかもしれませんね。

 

 

6.ニコリ・ボルコフ

スーパー・デストロイヤー(1978年の数ヶ月のみ?)

 

ニコリ・ボルコフは1947年10月14日、当時のユーゴスラビア連邦人民共和国、現在のクロアチア出身。父親がユーゴスラビア人、母親がロシア人という家系なんだそうです。ボクはボルコフはロシア人のイメージでやっていたアメリカ人なのかと思っていましたが、正真正銘、ロシア人の血が流れていたレスラーだったんですね。

 

そんなボルコフがプロレスへと向かったのは1967年。この年にカナダに渡りカルガリーのスタンピード・レスリングでスチュ・ハートの下、トレーニングを行います。そして1968年9月20日にニュートン・タットリー、のちのジート・モンゴルとの対戦でデビューしたと、いうことなんですね。

 

翌年の1969年にはジート・モンゴルとなったタットリーのタッグパートナーとしてベポ・モンゴルに変身。ザ・モンゴルズとなりアメリカ本土に進出していきます。

 

そんなボルコフがスーパー・デストロイヤーとなったのは1978年。WWFでファイトしたいた時期で、おそらくこの年のみのようです。

 

海外のサイトにレポートがありました。

 

WWWF All-Star Wrestling Review 08-26-78 | crazymax.org
 

リンクより画像を抜粋してみます。

 

ニコリ・ボルコフのスーパー・デストロイヤー

 

レポートによればこの試合は1978年の8月9日(テレビ放送は26日)の試合とあります。ボルコフのマネージャーにはキラー・コワルスキーやマスクド・スーパースター、ビリー・グラハムなどのマネージャーをWWFでつとめ名高かったグランド・ウィザード(アーニー・ロス)がついていたようです。対戦相手はマイク・ミルトンとありましたが、こちらは詳細不明でした。

 

で、このレポートなんですが、読んでいくと

 

「The masked Super Destroyer here is actually Nikolai Volkoff.」

 

とありました。このスーパー・デストロイヤーは実際にはニコライ・ボルコフだと言っています。


まあ、これはわかるんですが、そのあと

 

「 It’s kind of funny since we just saw the real Super D(Scott Irwin)wrestle in the previous match. 」

 

"前回の試合で本物のスーパー・デストロイヤー(スコットアーウィン)が戦っているのを見たばかりなので、おもしろい"

 

というようなことを言っているんですね。

 

これがちょっと引っ掛かります。というのもスコット・アーウィンのスーパー・デストロイヤーは1980年からのはずだからです。

 

このレポートの方が1978年にスコット・アーウィンのスーパー・デストロイヤーの試合を見ていたとすると、出現が実際より2年早かったということになり、本当なら大発見になります。しかしリアルタイムでなく映像で見返したことを言っている可能性もあり、このあたりは定かではありません。

 

とにかく1978年はNWA圏ではドン・ジャーディンの他、アート・ネルソン、AWA圏でサージェント・スローター、ネイル・グアイと、スーパー・デストロイヤーが各地区でごそって現れた年。このあたりから、NWA、AWAで次々出現したスーパー・デストロイヤーを見た首脳陣がWWF圏でも・・・と考えて登場させたのかもしれないですね。

 

しかし以降の記録は見られないので、おそらくこの年だけで終わってしまったのだと思われます。


ボルコフもサージェント・スローターと同じく日本、海外と大活躍した超ビッグネームでしたが、スーパー・デストロイヤーの過去はあのスタイルからは想像にも及ばない、知る人ぞ知るボルコフの意外なプロレス人生の1ページだったのかもしれないですね。

 

 

7.ビル・ドロモ

スーパー・デストロイヤー(1981年末~1982年?)

 

ビル・ドロモは1937年6月28日、カナダのマニトバ州ウィニペグ出身。1958年にプロデビューし、カナダを主戦場にしていたようです。

 

1961年からは、まだキャピトル・レスリング・コーポレーションだった時代のWWWFに登場。スタニスラウス・ズビスコの甥であるビリー・ズビスコとしてファイトし、この年の9月18日にマディソン・スクエア・ガーデンに初登場した馬場さんのMSGデビュー戦の相手をしたと、いうことなんですね。

 

その後、1964年に日本プロレス、1967年に国際プロレスと日本へ来日。海外ではNWAのジョージア地区でファイトし1969年6月にはジョージア州コロンバスのコロンバス・メモリアル・オーデトリアムでドリー・ファンク・ジュニアの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦。他、過去にもバディ・ロジャース、ルー・テーズが王者だった時代にNWA戦をやっているようで、なかなかの実力者であった感が見られます。

 

1971年には日本プロレスへ再び参戦。1月15日に徳山にて大木金太郎からアジア・ヘビー級王座を奪取、第3代王者となっています。

 

そんなドロモが初めてマスクマンとなったのが1974年4月。この年に行われた新日本プロレスの第1回ワールドリーグ戦にマスクマンのザ・インベーダーと名乗り参戦します。

 

ザ・インベーダー

 

ザ・インベーダー、当時の新日本のパンフレットによれば「ミズーリ州セントルイスでミズーリ州ヘビー級王者だったハリー・レイス(1973年当時)をさんざんな目に合わせ、インディアナ州インディアナポリスで希代の無法者ディック・ザ・ブルーザーを場外KOし勇名を轟かせ、フロリダ州ジャクソンビルではボビー・ダンカンをチェーン・マッチで叩きのめし観客の度肝を抜いている」とあり、かなりの強豪感を漂わせています。しかし一説にはインベーダーは日本だけの仕様ともあり、このあたりは定かではなく謎と言えそうです。

 

しかしながらマスクマンを経験したことが活きたか?1981年末頃にテネシー州のCWA(コンチネンタル・レスリング・アソシエーション)にてスーパー・デストロイヤーに変身します。

 

Super Destroyer w Jimmy Hart (vs Jerry Lawler, 11-14-81) Classic Memphis Wrestling

 

ビル・ドロモのスーパー・デストロイヤー

 

ドロモはスーパー・デストロイヤーとしてジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーと抗争するなど活躍しますが、しかし1982年。理由は不明ですが45歳で引退しているようで・・・残念ながらここでスーパー・デストロイヤーも終了してしまったようです。

 

シンプルなマスクですが、通常の星型ではなくユダヤを象徴するダビデの星が施されているのは他のスーパー・デストロイヤーとは一線を画す大きな特徴。独特の世界観を持ったスーパー・デストロイヤーだったんだなと思いました。

 

ということで


スーパー・デストロイヤー大全集 2 


に続きます。

 


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