どうも!!流星仮面二世です!!
ということで前回からの続きとなります。
今回はスーパー・デストロイヤー大全集2です。
ではさっそく行きましょう!!
8.スコット・アーウィン
スーパー・デストロイヤー(1980年~)
スーパー・デストロイヤー 1号(1983年頃~1984年頃)
スーパー・デストロイヤー2号(1983年末頃~1984年頃)
ビル ・アーウィンは1954年9月17日、アメリカのミネソタ州ダルース出身。スコット・アーウィンの実弟になります。デビューは1977年。兄スコットも活躍したGCWで活動すると1979年からはNWAセントラル・ステーツ地区へ転戦。翌1980年1月には早くも全日本プロレスの新春ジャイアント・シリーズに初来日します。
実はビル・アーウィンの方が兄のスコット・アーウィンより先に来日しているんですね。しかもマスクマンとしての来日しかないスコット・アーウィンに対しビル・アーウィンは素顔。このあたりマスクマンと素顔の期間のちがいが出ていて、ちょっとおもしろいですね。
この帰国後、テネシー州メンフィスのCWA(コンチネンタル・レスリング・アソシエーション)に参戦すると1981年の末よりテキサス州ダラスのエリック王国WCCWへ転戦。ここでシングル、タッグでエリック・ファミリーと激しい戦いを繰り広げることになります。
そして1983年下期からはスカンドル・アクバをマネージャーに兄のスコット・アーウィンをスーパー・デストロイヤー1号、自身をスーパー・デストロイヤー2号としスーパー・デストロイヤーズになると、いうことなんですね。
スカンドル・アクバとスーパー・デストロイヤーズ。兄弟でスーパー・デストロイヤーを行ったのは、あとにも先にもスコット・アーウィン、ビル・アーウィンのみである
1984年2月にはスーパー・デストロイヤーズとして全日本プロレスに最初で最後の来日も果たしますが、しかしシリーズ中は別々にタッグを組まされたり6人タッグだったりがほとんどで・・・スーパー・デストロイヤーズとして純粋にタッグマッチを行った試合はシリーズ全18戦のうち、わずか3試合という待遇でした。
この最後の来日から帰国後、スーパー・デストロイヤーズは終了。素顔となり、バイカーズチームを模したザ・ロング・ライダーズに変身します。
ザ・ロング・ライダーズ
チームはザ・ロードウォリアーズの対抗馬として頭角を現し、チームもウォリアーズとの対決も人気となっていきました。
奇しくも、この時期くらいからアメリカのプロレスはタッグチームでの試合が主流となっていきます。
人気、実力のあるチームから単に流行に乗っただけの三流チームまで、とにかくタッグチームがひしめき合うことになるのですが、このタッグ全盛の時代にマスクマンのタッグチームはほとんど出てこず・・・自分が記憶にあるのはザ・ナイトメアーズくらいだったように思います。
スコット・アーウィンとビル・アーウィンのイメージチェンジの成功が物語るように、この頃にはもはやスーパー・デストロイヤーズのような大型マスクマン・タッグチームは時代遅れの存在になってしまっていたのかも・・・しれません。思えばこの時代は、アメリカのプロレスの転換期だったのかもしれないですね。
10.トム・スタントン
スーパー・デストロイヤー(1985年頃?)
トム・スタントンはカナダのブリティッシュコロンビア州出身。1975年にデビュー。以降カナダを主戦場にしており、1979年から1984年に出身地であるブリティッシュコロンビア州バンクーバーをはじめ、アルバータ州カルガリー、マリタイム地区(カナダの最東部のニューブランズウィック州、ノヴァスコシア州、プリンスエドワードアイランド州の総称で沿海州とも言われる)でファイト。またアメリカではテネシー州メンフィスでファイトしていたこともあり、1980年には当時カナダの同地区でファイトしていたモンゴリアン・ストンパーのパートナーとして国際プロレスに参加。唯一の日本遠征をしています。
この国際プロレスに来たときの試合映像を見たことがあるのですが、そのときの杉浦アナの実況では身長が194cmと紹介されていました。確かに188センチのモンゴリアン・ストンパーと比較しても遥かに長身。スーパー・デストロイヤーになるには持ってこいという体型だと思いました。
国際プロレス来日時のスタントン。この時点ではまだスーパー・デストロイヤーにはなっていなかったが、身長に加えコスチュームも素質十分だった
そんなスタントンがスーパー・デストロイヤーになったのは国際プロレスへ来日してから5年後。リングネームをE.Tスタントン、エルトン・スタントン、マーセナリー(傭兵)と、いろいろ名乗ってきたようですが、その中のひとつがスーパー・デストロイヤーだったようです。
いつから名乗ったかなどの詳細はわからなかったのですが、どうやら1984~1985年頃のマリタイム地区でではないか?と思われます。
映像が現存していました。
Super Destroyer vs Red Mahoney
これですね、対戦相手が下手すぎるとかジ・アベンジャーのマスクがマスカラスの初来日のときのみたいだなとかボルコフもどきみたいのがいるとか諸々。最初から最後まで突っ込みどころ満載で、これだけでブログ記事ひとつ書けそうな勢いなんですが・・・とりあえずそっちは置いておきまして改めてスタントンのスーパー・デストロイヤーです。
トム・スタントンのスーパー・デストロイヤー
これはスーパー・デストロイヤーよりジ・アサシンのマスクに近いですね。このアサシンと名乗るマスクマンも当時はたくさんいたのですが、彷彿させるマスクだなと思いました。
でも正直、このマスクはあまりカッコよくないですよね・・・何でこのデザインで鼻を出してしまったのかなぁ?
なんて思っていたところ、本人もそう感じていたのか?その後はご覧のようにマイナーチェンジが施されていました。
後期型マスクには星が数個加えられ、鼻も隠れる使用となった
ちょっとカッコよくなりましたね。って、いや?なんかどこかで見たことあるマスクのような気がするなぁ?まあ、そこは偶然ということでそっとしておきましょう。
実はスタントン、1980年前半はマグナムTAと結構試合してるんですね。その頃は観客を煽りつつ相手のいいとこ引き出して、まあ最後は負けてしまうんですが・・・そんな感じの試合運びで、なかなかうまいレスラーだなと思ったんです。
でもスーパー・デストロイヤーやっているスタントンは、なんだか無理無理キャラを作っているように見えてしまい、ちょっと気の毒というか残念というか・・・そんな気持ちになってしまいました。体型はスーパー・デストロイヤーやるにはもってこいでしたが、このレスラーに限っては素顔のままの方がよかったのではないかなと・・・バイプレーヤーこそ真骨頂だったのではないかなと、ちょっと思いました。
11.ハクソー・ヒギンズ
スーパー・デストロイヤー(1986年のみ?)
ハクソー・ヒギンズは1957年(1956年説あり)ミズーリ州セントジョセフ出身とのことですが、なんと誕生日は不明。わかりませんでした。デビュー年は1976年らしいのですが1985年に来日時の闘魂スペシャルのプロフィールによれば「高校時代はアマレスをやり、ジョニー・バレンタインにスカウトされ、コーチを受け1980年にテキサスでマスクマンとしてデビュー(原文まま)」とあり、デビュー当時からの形跡は意外と謎めいたものでした。
記録としてはNWAセントラルステーツ地区でファイトしており1984年10月6日に全日本プロレスに来日したこともあるバズ・タイラーを破りNWAセントラルステーツ・ヘビー級王者に君臨。しかし同月の25日にカンザス州カンザスシティでハーリー・レイスに同タイトルを奪われているという記録があります。このあたりから、どうやらNWA圏のカンザス州で長くファイトしていた様子が伺えます。
そんなヒギンズが日本のプロレスファンに初お目見えしたのは1985年。2月15日(テレビ中継は22日)にハワイ州ホノルルのNBCアリーナで行われた猪木とのシングルマッチでした。最初にご紹介したヒギンズの画像が、そのときのものになります。
そして同年3月、日本へ初来日します。このビッグファイト・シリーズ開幕戦の3月1日に後楽園ホールで行われたアントニオ猪木との来日第一戦でヒギンズは強烈無比なバックフリップを披露。当時は無名の外国人レスラーでしたが、これで猪木を半失神状態に追い込み"斬り捨て御免の人間チェーンソー"の異名を日本全土のプロレスファンに知らしめました。
紫レガさんのブログ「腕ひしぎ逆ブログ」より
こうしてエース外国人レスラーとして同年8月のチャレンジスピリット85、11月のIWGPタッグリーグ戦と初登場1年目で3度来日を果たすことになります。
海外では引き続きNWAセントラル・ステーツ地区で活躍。1986年5月29日にはカンザス州カンザスシティにて輪島の海外デビュー戦の相手だったJ・Rホッグと組んでNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取。同年12月16日にはフロリダ州タンパでレイ・キャンディのカリーム・モハメッドをパートナーにNWA・USタッグ王者にもなりました。
で、この1986年にテキサス州ヒューストンでファイトしていたことがあるらしいのですが、このときスーパー・デストロイヤーになっているようなのです。
しかし実のところ、どのプロフィールを見てみてもヒギンズがスーパー・デストロイヤーだったという過去は出てきません。広く情報が拾えるインターネット上ですら皆無です。
でもスーパー・デストロイヤーをやった過去があるのです。その心は、昭和61年8月号の月刊ゴングのコーナー、未知の若手レスラーを紹介する「USAこいつはナウイぜ 総点検シリーズ⑬」にありました。
この回ではビッグ・ババ(※このビッグ・ババを初めビッグ・ブーバーと表記しましたが、ビッグ・ブーバーのレイ・トレイラーではなく、正しくはタイフーン、タグボートのフレッド・オットマンの方でした。お詫びして訂正致します。Hさんご教示ありがとうございました。11/15訂正)を紹介しているのですが、そのブーバーの対戦相手としてヒギンズのスーパー・デストロイヤーが、わずかですが確認できるのです。
ハクソー・ヒギンズのスーパー・デストロイヤー
マスクはストロング・マシーンのように目のところがメッシュになっており、表情が読み取れない仕様のようです。デザインのモチーフはコウモリでしょうか?とてもカッコいいですね。もっとハッキリ写っているものがあったらなぁ・・・これは見てみたかったです。
黒をメインにしたマスクにヒギンズの体型がマッチ。これまでにない迫力を持つスーパー・デストロイヤーだ
さて、この時期ですが、このブーバーとの試合写真が1986年頃のテキサス州ヒューストンでのものとあったので調べたところ、やはりこの年のヒギンズはサンアントニオにあったTASW(テキサス・オールスター・レスリング)に参戦しており、そこでブルーザー・ブロディ、ワンマン・ギャング、そしてビッグ・ブーバーと抗争していたということがわかりました。
よって日本には伝わってきませんでしたが、この時期のヒギンズはハクソー・ヒギンズではなくスーパー・デストロイヤーとしてファイトしていたということで、まちがいないと思います。
先にも触れましたが、デビュー当時も「テキサスでマスクマン」とあったので、もしかすると1986年以前にもスーパー・デストロイヤーをやっていた可能性はありそうですね。
個人的には好きなタイプのレスラーでしたが、どうやら1991年、34歳のときにはプロレス界から去っているようです。もっと活躍が見たかったレスラーです。
12.A.J."トニー"ペトルッチ
スーパー・デストロイヤー1号(1992年~1994年)
こちらは顔がわかる画像が見つからなかったのでno photoとなります。すいません。
A.J"トニー"ペトルッチは1951年ペンシルベニア州出身。デビューは1984年、ニュージャージー州フィリップスバーグで、相手はブライアン・ブレアーだったようです。これはスーパー・デストロイヤーとしての因縁なのでしょうか?偶然にもハルク・ホーガンと同じデビュー戦の相手なんですね。不思議な感じします。
スーパー・デストロイヤーとなったのは1991年、ECW(イースタン・チャンピオンシップ・レスリング)で、ハンターQ.ロビンスIIIという人物をマネージャーに自身が1号、このあと出てきますダグ・スタールというレスラーを2号としスーパーデストロイヤーズを結成したと、いうことなんですね。
このチームで1992年6月と1993年5月にECW世界タッグ王者に君臨。タッグ戦線で活躍しますが、しかし1994年。父親が肺癌となったため世話のため一旦プロレスから離れるそうなんですね。その後、父親か亡くなった2005年に復帰しますが、このときはスーパー・デストロイヤーではなかったようなので・・・活動期間は1992年から1994年の期間だけだったようです。
スーパー・デストロイヤーを名乗るほどなのでワイルドで野性的なヒールでありましたが、実はペンシルベニア州カッツタウン大学で刑事司法の理学士号を取得していたというペトルッチ。リング外ではカウンセラーとして依頼者に真摯に対応し、評判がよかった人物だったといいます。
ボクは1990年代中盤からはプロレスの知識が乏しくなるため、このレスラーのことはまったくわからず。今回初めて知ったのですが、その内容からスーパー・デストロイヤー史上一番のインテリ・レスラーだったと言えそうです。
13.ダグ・スタール
スーパー・デストロイヤー2号(1992年~1994年)
こちらも顔のわかる画像が見つからなかったのでno photoとなります。すいません。
ダグ・スタールは1963年メリーランド州出身。14歳でボクシングを始め15歳でUSAのジュニア・ヘビー級タイトルを獲得。15歳と17歳でゴールデン・グローブのトーナメントで優勝と輝かしい記録を残しました。高校卒業後は陸軍に入隊しボクシングも続けていましたがパラシュートの訓練で左膝の前十字靭帯を断裂しボクシングを断念。陸軍も離れることになります。
こうして25歳になった1988年。ニール・アレン・カリコフェという人物が主催するNWL(ナショナル・レスリング・リーグ)という団体であのワイルド・サモアンズのコーチを受けプロレスデビューとなったそうです。
その後、先にもお話しましたペトルッチとECWで組み、スーパー・デストロイヤー2号になると、いうことなんですね。
ということで、こちらがA.J."トニー"ペトルッチとダグ・スタールのスーパー・デストロイヤーズになります。
A.J."トニー"ペトルッチとダグ・スタールのスーパー・デストロイヤーズ。中央はマネージャーのハンターQ.ロビンズⅢ
さすがはスーパー・デストロイヤーを名乗るだけのことあって威圧感、迫力があっていいですね。
なんて言ってますが・・・このダグ・スタールもペトルッチ同様、今回初めて知ったレスラーになります。なのでどっちが誰なのか?わかりません。すいません。
しかしながらペトルッチが刑事司法の理学士号を持つインテリならスタールはボクシング、軍隊経験者を持つ格闘派。なかなか興味深いチームですよね。
ちなみにこのマネージャーのハンターQ.ロビンズⅢですが、一応調べたのですが詳細も出てこなかったため、わかりませんでした。
と、このスーパー・デストロイヤーに関してはわからないことばかりとなってしまいましたが、しかし調べていくうち、この時期のECWにはもうひとりスーパー・デストロイヤーがいたことがわかりました。それが次のレスラーになります。
14.ベルモ・サルバトーレ
スーパー・デストロイヤー3号(1993年5月から6月頃)
ベルモ・サルバトーレは1951年6月18日ベルギー出身。1970年頃デビューし1975年にメキシコに遠征。その後オーストリア、ドイツに戻り1977年からはスタンピートレスリングをはじめカナダでファイトしていたということです。
翌1978年には国際プロレスのビッグサマーシリーズに最初で最後の来日。ヨーロッパ流の正統派レスリングテクニックを見せファンを唸らせました。
初来日の国際マットで華麗なフォルムのダブルアーム・スープレックスを披露するサルバトーレ
その後、1981年はNWA。1982年からはWWFでファイトしデビッド・シュルツ、グレッグ・バレンタイン、ビッグ・ジョン・スタッド、ポール・オーンドーフ、パット・パターソンなどと対戦。そしてロディ・パイパーのパイパーズピットにも出演と、なかなか活躍していたようです。
そんなサルバトーレがスーパー・デストロイヤーとなったのは1993年。ECWに参戦し、ここでスーパー・デストロイヤー3号になったとのことです。
で、名前に「3号」と付くので、ボクはてっきりサルバトーレがハンターQ.ロビンズⅢ率いるスーパー・デストロイヤーズの3番手になったのかと思っていたのですが、これがまったく予想外。
実はタッグマッチにてスーパー・デストロイヤーズと対戦し勝利したサルバトーレが、次の試合からスーパー・デストロイヤーズを揶揄する形でマスクを被り現れ、名乗ったものだったというのです。つまりスーパー・デストロイヤーズを茶化した姿が発祥だったということなんですね。
その姿は普段のコスチュームに黒いマスクを被っただけ。正体を隠す気がまったくない、本当に挑発目的の姿だったようです。
もちろんこの行為はスーパー・デストロイヤーズの怒りを買い抗争となったようですが・・・しかしサルバトーレがスーパー・デストロイヤー3号としてスーパー・デストロイヤーズとの絡んだのは1993年の5月と6月のみ。ごくわずかな期間だったようです。このため姿がわかるものは残念ながら見つかりませんでした。
それにしても、これまでにいろんなスーパー・デストロイヤーがいましたが、このような形での出現は例がなく、しかも短期間ながら同じエリアに3人同時にスーパー・デストロイヤーがいたというのも最初で最後の例だったのではと思います。それにヨーロッパ系のレスラーがこんなことをしたというのも意外、驚きです。
サルバトーレ、晩年は故郷ベルギーでプロモーターをしていたようですが、2019年に残念ながら亡くなっているようです。
「KINGのプロレス観戦記&諸々」より
わずかな期間でしたが、サルバトーレがスーパー・デストロイヤーをしたことは貴重な時間軸と言えるものだったのかもしれないですね。
15.バリー・ダーソウ
スーパー・デストロイヤー21号(2000年)
バリー・ダーソウは1959年10月6日ミネソタ州ミネアポリス出身。ジェシー・ベンチュラ、ロード・ウォリアーズ、リック・スタイナーを育てたエディ・シャーキーの元トレーニングを積みスチュ・ハートのサポートでハワイ、ニュージーランドをツアー。このとき、1980年にハワイにてデビューしているようですがハッキリとしたデビューの詳細は不明。わかりませんでした。
その後、1983年にビル・ワットのMSWA(ミッドサウス・レスリング・アソシエーション)でファイト。この頃にクラッシャー・クルスチェフとなりニコリ・ボルコフとタッグチームで活躍したと、いうことなんですね。これ、ボクはザ・ラシアンズからクラッシャー・クルスチェフになったのかなとずっと思っていたんですが、始まりはボルコフとのタッグだったんですね。
この2年後、1985年からはNWAミッドアトランティック地区に転戦。ここでイワン・コロフ、ニキタ・コロフとザ・ラシアンズ結成となります。チームはNWA世界タッグ、NWA世界6人タッグ、NWA・USタッグと主力タッグタイトルに次々栄冠。ザ・ロード・ウォリアーズとの対決は人気ドル箱カードとなりました。
翌1986年は1月と10月にニキタ・コロフとザ・ラシアンズで日本へ初来日。1987年からはWWFへ参戦しスマッシュ・デモリッションとなり、アックス・デモリッションとなったマスクド・スーパースター、ビル・イーディとザ・デモリッションを結成。途中よりタッグパートナーがブライアン・アダムスのクラッシュ・デモリッションに変わりましたがWWF世界タッグ王座を3度獲得するなどタッグ戦線で活躍しました。
アックスとスマッシュのザ・デモリッション
1991年からはリポマンのリングネームでコミカルなヒールに転向。1994年にはWCWに移りますが1995年に解雇され、その後は細々とインディー団体のマットに上がっていたと、いうことなんですね。
そんなダーソウがスーパー・デストロイヤーになったのは2000年。海外ではなく、なんと日本でだったようです。
この年の9月、日本のインディー「世界のプロレス」に来日し、このとき行われたNWAジャパン・ワールド・タッグリーグにおいて、かつてスーパー・デストロイヤー2号であったビル・アーウィンのタッグパートナーとなったそうなのです。このときスコット・アーウィンにあやかりスーパー・デストロイヤー21号となりファイトしたと、いうことなんですね。
バリー・ダーソウのスーパー・デストロイヤー21号
ビル・アーウィンと組んだということでジ・アステロイド仕様、あのスーパー・デストロイヤーの姿だったんですね。
と、知ったふうに書いていますが・・・すいません。この時期のプロレスになるとさっぱりわからなく・・・もはやちんぷんかんぷんです。
この「世界のプロレス」なるインディー団体がどのようなものだったのか?どうやらウォーリー山口がやっていた団体のようですが、そこで行われたとされる「NWAジャパン・ワールド・タッグリーグ」も初耳。この年にビル・アーウィンやダーソウが日本に来てファイトしていたこともまったく知りませんでした。
一体どんなシリーズで、参加メンバーは誰だったのか?勝敗なども気になるところです。知っている方いらっしゃいましたらご教示よろしくお願いいたします。
ちなみにダーソウ、現在は故郷のミネソタ州にある印刷会社で幹部クラスなんだそうです。クラッシャー・クルスチェフが上司の会社・・・なんか、すごそうですね。
16.バイソン・スミス
スーパー・デストロイヤー2000(2000年中盤~2001年中盤?)
バイソン・スミスは1973年9月24日、コロラド州デンバー出身。カリフォルニア州フレズノで育ち、13歳でウエイトリフティング、コロラド大学時代はアメリカンフットボールで活躍するスポーツ好きの好青年だったようです。
デビューは1998年4月にカリフォルニアであったようで、その2年後の2000年にカリフォルニア・チャンピオンシップ・レスリングという団体でバディ・ソテッロ Esq(Esqはエスクァイアと読むそうで日本でいうところの「殿」とか「様」の意味になるそうです)という人物が率いる「ソテッロ・シンジケート」なる軍団の下、スーパー・デストロイヤー2000となりファイトしていたということです。
バイソン・スミスのスーパー・デストロイヤー2000。右側はバディ・ソテッロ Esq
バイソン・スミスのあの体つきから勇ましいマスクを想像していたのですが、意外とシンプルなデザインですね。
活動時期ですが、確認できるかりでは2000年10月14日、カリフォルニア州ヴァレーホで行われたキッド・クローム(詳細不明)との対戦が自分が調べることができた中ではスーパー・デストロイヤー2000としては最も古いものになります。
最後に見られたのは2001年6月9日。同じくカリフォルニア州ヴァレーホで行われたトミー・ブレイズ(詳細不明)戦までで、以降はマーク・スミスとなり、同年8月にプロレスリング・ノアに初来日するときにはバイソン・スミスとなっていました。なのでスーパー・デストロイヤーの名を冠しての活動は8ヶ月から1年ほどだったのではないかなと思われます。
日本ではGHCのシングル、タッグとタイトル戦線でも活躍したスミスでしたが、初来日から10年後となる2011年11月22日。遠征先のプエルトリコで心不全により38歳の若さで急死しています。
みなさんご承知のとおり2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権は三沢光晴の最後の試合となってしまいましたが、そのときの対戦相手だったのが齋藤彰俊と、このバイソン・スミス組でした。
あの試合から2年4ヶ月後、対戦相手だったバイソン・スミスまで逝ってしまうとは、あまりにも悲しい事実ですね・・・
さあ次回は最終回。
スーパー・デストロイヤー大全集3
に続きます。