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怒涛の怪力 ~ストロング小林追悼 その2~

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どうも。流星仮面二世です。
 
では、その1の奇跡に続きまして、こちらではストロング小林の軌跡を見ていきましょう。ちょっと資料不足なところもあるのですが、その点はご容赦いただきたく、よろしくお願いいたします。
 
ストロング小林、本名は小林省三さんですね。1940年12月25日、東京都文京区出身。生まれは水道橋に程近い本郷というところでしたが小林が生まれたこのとき、世は第二次世界大戦の真っ只中。このため東京の青梅市へ疎開し終戦後もそのまま青梅市で育ったといいます。体は大きかったようで、中学時代には相撲部屋から声をかけられたこともあったそうです。
 
その後、同市にあった東京都立農林高等学校(2009年3月閉校)へ入学。1959年3月、この高校を卒業後すると、なんと日本国有鉄道、国鉄ですね。現在のJR、ここに就職し社会人となると、いうことなんですね。
 
この1950年代、都会では教育熱が急上昇。これにより進学率が高くなってしまったことで、学歴の価値が低下してしまうという「学歴インフレ」と呼ばれた現象が見え始めます。このため働き手の確保は東北や九州などから求人を求め上京、就職するという「集団就職」が盛んとなり、行われていた時代でした。小林が進学、就職した時代は、そんな時代だったんですね。
 
さて、こうして社会人となりますが、大好きだった力道山の体型に憧れていた小林はボディビルに専念。体作りに励んだそうです。そして社会人になり7年が過ぎた1966年10月。友人が出場するということで行ったボディビルの大会会場にて、同じく会場に来ていた国際プロレスを立ち上げたばかりの吉原功に出会いプロレスへ誘われます。こうして立ち上がったばかりの国際プロレスにてプロレスラーへの夢を歩むことになります。
 
吉原が日本プロレスを退社したのがこの年の10月5日。もし吉原が退社せず日本プロレスにいたままだったなら、小林とボディビル会場で会うことはなかったのかもしれません。そう考えると、この出会いは運命だったのかもしれませんね。
 
かくして、小林は国営事業、政府出資100パーセントという勤めていれば一生安泰の国鉄を辞めることになります。このとき26歳目前。格闘技のバックボーンもなかった小林にとっては、プロレスラーになるには正直遅い年齢です。それに父親も国鉄社員だったことから、当然家族からは猛反対にあいます。しかし、どうしてもプロレスラーになりたいという信念で家族を説得すると同年11月1日、ついにプロレス界に飛び込むことになります。
 
東京の港区青山にあった国際プロレスの事務所の入っていたビルの屋上で吉原社長らと。若き日のマイティ井上、マティ鈴木、ヤス・フジイの顔も見える
 
入門後はヒロ・マツダの付き人として巡業に同行。平行してトレーニングを積み約8ヶ月が過ぎた翌年の1967年7月27日(7月21日という表記もあり)愛知県名古屋市・金山体育館でマスクマンの覆面太郎としてデビューすることになります。
 
アーム・バーで攻める覆面太郎。試合は20分1本勝負で大磯武を相手に行われ14分37秒、ボディプレスから体固めで初陣を飾った。デビュー戦を行うレスラーとは思えない見事な上半身の筋肉に大器を感じずにはいられない
 
こちらは珍しい覆面太郎のロングタイツ姿。ビルドアップされた筋肉に黒が映える。相手はマイティ井上
 
覆面太郎は日本でデビューした日本人初の覆面レスラー、日本人マスクマン第1号となったというのは有名な話ですが、素顔で一戦も試合を行ったことのないレスラーがマスクマンでデビューしたというのも日本で初めてのことになります。今でこそ様々な団体で多種多様に存在する日本人マスクマンですが、その原点は小林の歴史の中にあったと、いうことなんですね。プロレス、本当に奥深いです。
 
その後、小林は覆面太郎として約5ヶ月試合を行いますが1968年1月に国際プロレスのテレビ放送開始に合わせ、ここで初めて素顔となりストロング小林の歴史に突入するというわけなんですね。
 
素顔になった小林は同年10月からヨーロッパ遠征、武者修行へ出発。ここで試合をこなし経験値を上げると翌1969年5月18日にフランスのパリで行われたIWA世界タッグの王者決定トーナメントに豊登と組んで出場。決勝まで進みモンスター・ロシモフ、イワン・ストロゴフと対戦し、これに勝利し初代王者となります。
 
決勝戦に先立っての記念撮影。ロシモフのパートナーのイワン・ストロゴフはドイツ出身でヨーロッパでは多くのトーナメントに出場しているヒールレスラー。70年、73年と国際プロレスにも2度登場している
 
こうして海外で実力をつけた小林は1970年2月5日の大阪府立体育会館、2月6日の東京体育館でバーン・ガニアの持つAWA世界ヘビー選手権に連続挑戦します。
 
それまでにNWA、WWA、WWWFの王者が日本へ登場している中、AWA世界王者の来日だけが叶っていなかったため"まだ見ぬ強豪"と言われていたガニアの日本初登場は当時注目を集めましたが、そのガニアを相手にして小林は堂々対決。デビューして2年7ヵ月目ながらガニアのネームバリューに負けないファイトを展開。名を挙げました。
 
この前日の大阪大会でガニアと引き分けしていることから奮起し挑んだが惜しくも2-1で敗れた。しかしAWA世界王者と渡り合った試合内容は評価され小林株は上昇していった
 
その後、1971年6月19日。アメリカのミネソタ州ダルースでビッグ・ビル・ミラーを降し国際プロレスの看板タイトルとなるIWA世界ヘビー級王座を獲得。
 
試合前にインタビューを受ける小林。中央の宮尾建設のハッピ姿のレスラーは海外で小林のマネージャー役だったスタンレー・コワルスキー。小林をメインイベンターに育て、国際プロレスへ来日時も日本側として小林のセコンドにつくなど義理堅いレスラーであった(※ビル・ミラーとのIWA世界ヘビー級選手権試合は公式な記録が存在していない説もある)
 
IWA世界ヘビー級王座となった小林はビル・ロビンソン、ホースト・ホフマン、クラッシャー・リソワスキー、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、イワン・コロフ、ダスティ・ローデス、ディック・マードックら強豪を挑戦者に迎え王座を防衛していくことになります。
 
そして翌1972年5月6日にはIWA世界ヘビー級王者を保持したまま第4回IWAワールド・シリーズの決勝へ駒を進めます。決勝戦の舞台となる盛岡市県営体育館(との当時表記だが、おそらく岩手県営体育館)での相手は強豪モンスター・ロシモフ。 同大会は第1、2回はビル・ロビンソンが2連覇。そして第3回はこのロシモフで、ここまで日本人の優勝がありませんでした。団体のエースとして、ここは優勝したい小林。さらにIWA世界ヘビー級王者としてリーグ戦制覇と偉業へと奮起します。
 
若き日のアンドレと小林が優勝をかけシングル対決。お互いにいい表情だ
 
試合はロシモフが制圧。1本目は14分40秒、戦慄のツームストーン・パイルドライバーで先行を許すと、2本目こそ11分19秒 、なんとか反則勝ちを拾いましたが勝機は見出だせず。しかし、このままロシモフが勝利し2連覇かと思われた3本目。なんとロシモフがエプロンに片足を掛けたまま宙吊りになるハプニングが発生。エプロンでリングアウトカウントが入り8分1秒、小林が決勝の1本を奪取。この執念が呼び寄せたとも言える勝利で悲願の初優勝を飾ると共にIWA世界ヘビー級王者としてリーグ戦も制覇する偉業を達成しました。

さらに、この2ヶ月後の7月7日には千葉県体育館で行われたIWA世界タッグ王座決定戦でグレート草津と組みビル・ミラー、バロン・マイケル・シクルナを下し2度目の栄冠も達成。これによりIWAのシングル、タッグ、リーグ戦と、国際プロレスのすべてのタイトルを手中に収めることになります。1972年は、まさに小林時代到来の年だったんだなと言えると思いました。
 
そんな小林時代が続いていた翌年1973年7月9日。小林は大阪府立体育会館にて日本プロレス史に一石を投じることとなるラッシャー木村とのIWA世界ヘビー級選手権試合を迎えることになります。
 
なぜ一石を投じる事態だったのか・・・そう、今では信じられないことですが、当時日本のプロレス界では若手でない日本人同士が対決することは御法度。絶対にあり得ない、いや、あってはならないことで、それこそ会社やレスラーが口にすることすらタブーな時代でした。
 
しかし同門であるラッシャー木村が挑戦を表明。その熱意に会社も承諾し、これに小林も応えたことにより1955年1月26日に力道山vs山口利夫が行われて以来、18年半ぶりに日本人対決が行われる運びとなったのです。言ってみれば"封印が解かれた日"であり、現代のプロレスにまで繋がる歴史的な一戦の日であったわけなんですね。
 
試合は1本目を木村が16分12秒、ラッシャー・スープレックスで先取しましたが小林が2本目を2分7秒、ブレーンバスターで取り返します。そして決勝の3本目は6分12秒、小林がバックドロップで取り勝利。激戦を制し24度目の防衛に成功となりました。
 
この試合は見たことがあるのですが、試合中盤、2本目が決まるかなというあたりだったでしょうか?ふたりが張り手の応酬をするんですが、これがとにかくすごいんですよ。
 
張り手と拳が入り乱れるようなガツ!!ガツ!!という殴り合いは衝撃がテレビ画面越しでも伝わってくるほど。ものすごい凄まじさだった
 
これは、それまでの外国人vs日本人の対戦では絶対に見られなかった、お互いに「負けられない」「退けない」という純粋な気持ちのぶつかり合いが生み出した"日本人対決にしかない象徴的シーン"なんだと思いました。時間は短いですが、本当に凄まじい張り合いです。機会があればみなさんもゼヒ見てみてください。
 
さて、歴史的な日本人対決が行われたこのあと、同年11月2日に小林はレッド・バスチェンを相手に25度目の防衛に成功。しかし1973年11月9日、26度目の防衛戦となる和歌山県・勝浦町観光会館(那智勝浦町観光会館)でのワフー・マクダニエル戦でワフーのラフ殺法と巧妙な反則により2-1で敗れ小林は王座から転落となってしまいます。1971年6月19日にミネソタでビル・ミラーを破り、第4代IWA世界ヘビー級王者になってから2年6ヶ月間保持してきたタイトルは25回(プロレス・タイトルの日本人連続防衛記録歴代2位)という記録を持って、ここでストップすることとなりました。
 
その後、同月14日に長野県・長野市民体育館でマクダニエルとリターンマッチを行うも1-1から3本目が両者KOとなりドロー。そして迎えた同月30日。後楽園ホールで行われた再々戦で勝利。虎の子である王座の奪還を果たします。
 
こうして明けた1974年。小林は1月14日と1月19日にカウボーイ・ビル・ワットを相手に2度の防衛に成功。王座に返り咲き再び王者街道まっしぐらかと思われましたが・・・
 
"荒馬"ワットを相手に連続防衛をしたが・・・(画像は1月14日の大阪の寝屋川市民会館での防衛戦)
 
しかし'74パイオニア・シリーズの最終戦の当日となる1974年2月1日に小林は突如、IWA王座を返上し国際プロレスへ辞表を提出。退団します。そして同年2月13日、小林はフリーを宣言するとジャイアント馬場とアントニオ猪木へ挑戦すると表明。プロレス界を大きく揺らしました。
 
2月13日、東京・新宿の早稲田駅前にある喫茶店「ルナ」で緊急記者会見を行った小林。記者団の中には懐かしの顔も見える
 
かくして、様々な流れが巻き起こり対決が現実味を帯びてくると世間も騒ぎ立ち、ついに1954年12月22日の力道山vs木村政彦以来の超大物日本人同士の対決、あの世紀の一戦が実現することになります。
 
3月1日に京王プラザで行われた調印式。最後は握手となったが猪木が張り手を見舞い対決への緊張感が一気に高まった
 
1974年3月19日、ついに実現した蔵前国技館での対決はNWF世界ヘビー級選手権試合(前年12月にジョニー・パワーズから奪取してからの初防衛)にして異例の90分1本勝負で行われた。プロレス界だけでなく一般社会をも動かした超大物日本人は超満員札止めの16500人という蔵前史上最多の人数を動員した
 
試合は29分30秒、小林が猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れてしまいます。この試合のことはみなさんご存じのとおり。改めて説明するまでもありませんね。永遠に語り継がれるプロレス界の伝説です。
 
さて、この伝説の一戦で敗れてしまった小林は猪木との再戦を視野に単独海外遠征に出発。打倒・猪木を掲げアメリカを転戦する形で武者修行を決行します。
 
渡米した直後の1974年5月から7月はNWAフロリダ地区のCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でマスクマンとなり「アサシン(暗殺者)」を名乗りファイト。日本での正統派スタイルから一転、フロリダでは悪名を轟かせました。
 
ザ・デストロイヤーばりのマスクを被りファイトする小林。コリアン・アサシンと名乗りパク・ソンナンともタッグを組んだ
 
8月からはニューヨークのMSGに初登場。ここでもヒールとしての登場となりましたが、なんと日系悪役レスラーばりの田吾作スタイルに変身しファンを驚かせました。
 
初登場は8月26日。トニー・ガレアを相手に19分58秒、反則負けとなっている。小林はヒールでラフファイトという、これまでにはしなかったスタイルを加えていきレスラーとして変貌していった
 
翌月の9月21日にはペンシルベニア州フィラデルフィアでブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座にも挑戦(タイム不明、サンマルチノがカウントアウトで勝ち)10月19日はマサチューセッツ州ピッツフィールドでペドロ・モラレスともシングル(9分45秒、モラレスがフォール勝ち)タッグではキラー・コワルスキーと組むことが多く、モラレスや日本でも戦ったアンドレ・ザ・ジャイアントと熱戦を繰り広げヒールとして活躍しました。
 
こうして約9ヶ月間の海外遠征を終え1974年12月12日、蔵前国技館でアントニオ猪木のNWF世界ヘビー級王座へ再挑戦します。
 
初戦ではスロースターター、正攻法な攻めで挑んだ小林でしたが、再戦ではサンマルチノ、モラレスらを苦しめたラフ殺法を軸に猪木に迫ります。
 
約9ヶ月間の海外武者修行で身につけたアメリカ仕込みのラフ殺法を武器に猪木を追い込んだ小林だったが・・・
 
しかし28分27秒、卍固めが決まり再び猪木の軍門に下ることとなってしまいました。
 
この試合を機に新日本プロレスへ入団することとなった小林は明けた75年1月から、まずはフリーとして新日本プロレスにシリーズ参加。5月からの正式入団を前に、4月から第2回ワールドリーグ戦へ参加します。
 
このワールドリーグ戦では4月4日は蔵前国技館で行われた開幕戦では坂口征二と、5月3日は福岡県・三萩野体育館で大木金太郎とそれぞれ初対決。坂口と引き分け、大木には勝利し元国際プロレスのエースの名に恥じぬ戦いを繰り広げました。
 
これまで接点のなかった大木との初対決では大木の頭突きと反則殺法に苦しみながらも16分17秒、ボディスラムを押し潰し逆転のフォール勝ちを収めた
 
そして5月6日の広島県立体育館では公式戦でアントニオ猪木戦と3度目の対決。過去2戦敗れている小林でしたが、この試合を時間切れ引き分けに持ち込み決勝戦へと大きく前進します。
 
そして5月16日、両国日大講堂での優勝戦第1試合、最終の決勝リーグでアントニオ猪木と4度目の対戦。勝てば決勝という大一番でしたが20分2秒、グラウンド卍固めに敗れ惜しくも進出なりませんでした。
 
その後、翌月の6月5日の札幌中島スポーツセンターではライバルであったアントニオ猪木と初タッグを結成。グレッグ・バレンタイン、ザ・プロフェッショナルと60分3本勝負で対決します。
 
猪木、小林は初タッグながら上々の連携を駆使し、このシリーズが日本初登場となるグレッグ・バレンタインを1本目、アトミックドロップで18分5秒にフォール。2本目を猪木が新兵器ブロックバスターホールドでザ・プロフェッショナルを取り、見事ストレート勝ちを収めました。
 
猪木との初タッグにてバレンタインにベア・ハッグを見舞う小林。BI砲、黄金コンビにも劣らない強力タッグには外国人部隊もタジタジだった
 
明けた1976年2月5日は札幌中島スポーツセンターで行われたNWA認定北米タッグ王座決定戦で坂口征二と組みタイガー・ジェット・シン、ブルータス・ムルンバと対戦。小林はこれに勝利し新日本でタイトル初栄冠を達します。
 
以降、小林は北米タッグ王者としてタッグ戦線で活躍します。防衛戦ではWWFでもアツき戦いを繰り広げたペドロ・モラレス、ビクター・リベラ組やイワン・コロフ、スーパースター・ビリー・グラハム組らと対戦。またタイガー・ジェット・シン、上田馬之助とは王座を巡る抗争を展開、激しい戦いを繰り広げました。
 
77年2月にシン、上田に一度は王座を明け渡してしまうものの約半年後には奪還。以降79年4月にヒロ・マツダ、マサ斎藤に敗れるまで3年と2ヶ月君臨。新日本のタッグの歴史の基礎を築いた
 
1979年4月に北米タッグ戦線からは離脱したものの同年8月26日、日本武道館で行われたプロレス夢のオールスター戦では、当時の国際のエースだったラッシャー木村とシングルで相対時することになります。
 
あの1973年7月9日、大阪で行われた18年半ぶりの日本人対決から6年。国際プロレスの新旧エース対決はセミファイナルという舞台で行われましたが、試合は12分4秒、小林が不本意なリングアウトで敗れてしまいます。しかし・・・
 
一瞬先にリングインした木村の勝利となったが・・・
 
この試合の映像を昔見たことがあるのですが、とにかくふたりへの歓声が尋常じゃないんですよ。特に小林への歓声がすごくて、ベアハッグが出ただけでもワァーっと盛り上がるほどなんですね。試合裁定は確かに不本意でしたが、試合後は揉める感じもなく互いにおれの勝ちだ!!とコーナーに上り会場にアピールしては大歓迎。むしろ会場をいい空気にしメインに繋いだ戦いだったんではないかなと感じました。
 
しかしこの頃くらいから、小林の体には腰痛という形で体に限界点が近づいてきてしまいます。加えて人気外国人レスラーの登場や若手の台頭が拍車をかけ、小林の新日本プロレスでの存在はだんだんと遠退いて行ってしまうことに・・・なってしまいます。
 
翌年1980年の第3回MSGシリーズでは敗者復活で決勝リーグへ進出し5月27日、大阪府立体育会館でアントニオ猪木と久々の対戦となりましたが、かつての名勝負を彷彿させることなく、わずか11分27秒、延髄斬りから体固めで敗れてしまいます。
 
あっさりと猪木の軍門に下ってしまった小林。猪木とは、これが最後のシングル対決となった
 
翌月6月29日には国際プロレスで行われたIWA世界タッグ王座決定戦に永源遙と組んで出場。ここでマイティ井上、寺西勇を下し8年ぶりにIWA世界タッグ王者に返り咲きますが、わずか16日後に井上、浜口にタイトルを明け渡すこととなります。
 
かつての同門井上と新日本のレスラーとして対決した小林。なつかしのIWA世界タッグは小林最後のタイトルとなった
 
そして1981年。この頃、新日本プロレスはスタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデス、ボブ・バックランド、ディック・マードック、マスクド・スーパースター、ダイナマイト・キッドら豪華メンバーが集ってはヨーロッパから幻の強豪ローランド・ボックの登場、全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーが電撃移籍して話題をさらい、さらにタイガーマスクがデビューし人気爆発と黄金期へ突入していくことになります。

そんなことからか・・・年明けの1月16日の三重県・四日市市体育館からの生中継、坂口と組んでのザ・サモアンズとの試合を最後に、以降テレビマッチで小林の名を見ることはなくなってしまいました。

そして同年10月。小林は、とうとうプロレスラーとして最後のシリーズを迎えてしまいます。

この月、小林は10月8日に蔵前国技館で行われた新日本のワンマッチ興行「新日本vs国際全面対決」に登場。坂口と組みバッドニュース・アレン、ビリー・クラッシャーと対戦します。
 
素顔のビリー・クラッシャーとして唯一参戦してたマスクド・スーパースターと対戦した小林
 
そして翌日の10月9日に後楽園ホールでの闘魂シリーズ開幕戦にも出場しますが、なんとこの日、木村、浜口、寺西、剛竜馬と共に新・国際軍団を結成するという正式発表が行われます。
 
木村、浜口に誘われる形で合流、国際側として登場しリング上から紹介された小林
 
確かに前日10月8日の「新日本vs国際全面対決」では新日本サイドでありながらメインでラッシャー木村のセコンドとしてピタリと寄り添い猪木の怒りを買っていた小林でしたが・・・この意外な展開にはファンは驚かされるばかりでした。

しかし、このシリーズ中に兼ねてから心配されていた腰痛が悪化。シリーズを途中欠場という形でリングから離れることになってしまいます。
 
この項、Wikipediaによれば
 
「1981年10月16日の大分県立総合体育館での試合(星野勘太郎と組んでのアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン戦)を最後に、腰痛を理由に長期欠場し、レスラー活動はセミリタイア状態となる」
 
と書かれており、ソースは
 
「「実録・国際プロレス」 ストロング小林イ ンタビュー」 『Gスピリッツ』 Vol.13、 辰巳出版 〈タツミムック〉、2009年、 82-87頁。」
 
とあるのですが、真実とは異なる点がありますので小林最後の戦績を見ながら確認してみることにしましょう。
 
'81闘魂シリーズ
10月9日 後楽園ホール (開幕戦)
シングルマッチ 30分1本勝負
ビリー・クラッシャーvsストロング小林
クラッシャー(7分32秒 体固め)小林
 
10月10日 神奈川県・東戸塚駅東口広場特設リング (第2戦)
シングルマッチ 45分1本勝負
ハルク・ホーガンvsストロング小林
ホーガン(7分32秒 片エビ固め)小林
 
10月11日 徳島県・阿南市スポーツセンター (第3戦)
6人タッグマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木、ストロング小林、星野勘太郎vsハルク・ホーガン、ディック・マードック、スティーブ・トラビス
①ホーガン(9分5秒 片エビ固め)星野
②星野(3分37秒 反則勝ち)マードック
③(3分8秒 両軍リングアウト)
 
10月12日 高知県民体育館 (第4戦)
45分1本勝負
ハルク・ホーガンvsストロング小林
ホーガン(6分41秒 体固め)小林
 
10月13日 広島県・呉市体育館 (第5戦)
30分1本勝負
バッドニュース・アレンvsストロング小林
小林(6分29秒 反則勝ち)アレン
 
10月14日 熊本市体育館 (第6戦)
6人タッグマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木、ストロング小林、長州力vsハルク・ホーガン、ビリー・クラッシャー、ディノ・ブラボー
①(10分33秒 両軍リングアウト)
②猪木(3分28秒 体固め)ブラボー
 
10月15日 長崎県・佐世保スポーツランド (第7戦)
タッグマッチ 45分1本勝負
アブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレンvsストロング小林、星野勘太郎
ブッチャー(4分21秒 体固め)星野
 
10月16日 大分県立総合体育館 (第8戦)
タッグマッチ 30分1本勝負
ハルク・ホーガン、ディック・マードックvsストロング小林、藤原喜明
ホーガン(11分49秒 片エビ固め)藤原
 
ということでシリーズで小林の名前が見られるのはこの第8戦まででしたので、現役最後の試合は大分大会でまちがいなさそうなんですが・・・しかし星野と組んでブッチャー、アレンと対戦したのは10月15日の佐世保大会だったことがわかります。おそらく10月16日の大分と記憶が前後してしまったのかもしれないですね。
 
結果として小林の現役最後の試合は藤原と組んでのホーガン、マードックだったということになります。のちにアメリカン・ヒーローになるホーガンとプロレス史に伝説を残した小林。そんなふたりが最後に戦っていたとは本当に驚かされてしまいます。
 
さて、国際軍団入りと発表されながら実際には国際勢とタッグを組むことはなく新日本の小林としてファイトし迎えた現役最後のシリーズ。ブッチャー、アレン、ホーガン、素顔のマスクドにマードックという豪華外国人参加にして国際軍団の本格参戦、タイガーマスクの人気、そして藤波がヘビー級転向のためWWFジュニア王座返上と話題性も高い中、どこかひっそりとリングを離れていった・・・小林の欠場は、そんな感じに思えました。
 
その後、1982年9月21日に大阪府立体育館で行われたアントニオ猪木vsラッシャー木村の髪切りデスマッチにて小林は久々に姿を現し乱入しますが・・・
 
それまで静かに観戦していた小林だったが場外乱闘時にアニマル浜口にハサミを渡し髪切りを促すと、やがてパンチを3発お見舞いし加勢。最後は猪木にイス攻撃で返り討ちにされるという一幕があった。これを機に国際軍団として復活か!?とも思われたが・・・
 
しかしその後、小林がリングに上がることはなく兼ねてから活動していたタレント業を本格化。芸能界で活躍し一般に顔馴染みになっていくことになります。
 
その最大のターニングポイントとなったのが改名だったのではないかなと思います。あの大阪での髪切りマッチ乱入から約3ヶ月後の12月18日。小林は、この日より公開された映画「伊賀忍法帖」に「金剛坊」という役で出演するのですが、この役柄を気に入ったことから「ストロング金剛」に改名するんですね。
 
映画公開の記者会見で改名を発表した小林。この日は主演の真田広之に本作がデビューの渡辺典子、そして大阪での遺恨を払拭し特別ゲストとして駆けつけたアントニオ猪木も登場。豪華なものとなった
 
伊賀忍法帖の翌年1983には伊賀野カバ丸、そして薬師丸ひろ子、松田優作共演の角川作品である探偵物語に暴力団員の「和田」の役で出演。そして1984年にはスーパー戦隊シリーズ第8作目となる超電子バイオマンに「モンスター」の名で準レギュラーで出演と、シリアス路線から子供向けまで作品を問うことなくこなします。こうして幅広い年齢層に「ストロング金剛」としてお馴染みの存在になっていき順調な芸能活動を送ることになった1984年。小林はプロレス界から正式に身を引くことになります。
 
ブラディファイトシリーズの第3戦となる8月26日の東京・福生市民体育館での興行において引退式が行われ正式にプロレスから引退した小林。約17年のプロレス生活に別れを告げた
 
大変な母親思いだったという小林は引退式に母せつさんを招いた。猪木戦も会場で見届けた強く優しい母である
 
その後の活躍はみなさんも知ってのとおり。本格化したタレント業ではバラエティーにドラマに、重要な役どころからチョイ役まで幅広くこなしては多くの人を楽しませてくれました。
 
かつてはレコードもリリースしている。よく「まじめのみじめはくらめのとどめ」が取り上げられるが個人的には「俺は闘犬(運命の流星仮面~第五話~)」がイチオシだ
 
ボクがテレビを見ていた頃、小林はもうプロレスラーではありませんでした。でもテレビで小林を見るといつも「プロレスラーが活躍しているんだ」と思えて、うれしい気持ちになったものでした。プロレスラーとしての存在感を維持したままタレントをしていたから、そういったことを感じることができたんだろうなと思います。
 
こうしてプロレス引退後も順風満帆にタレントとして活躍していた小林。しかし1990年代になるとその活動にも変化が訪れるようになります。
 
1990年代は1991年に太平記、1994年は花の乱、1995年は八代将軍吉宗とNHKの大河ドラマに連続して出演するなどタレント業も円熟期に入らんとしていました。一方、1992年3月1日に横浜アリーナにて開催された新日本プロレス設立20周年記念大会「超戦士IN横浜アリーナ」ではエキシビション・マッチで坂口征二と組みタイガー・ジェット・シン、上田馬之助と対戦。久々にリングに上がりシン、上田を相手に大暴れし元気な姿も披露します。
 
およそ11年ぶりの新日マットはニューヨークでも身につけていた田吾作スタイルのタイツに北米タッグのベルトを巻いての登場となった
 
しかし1995年4月、母親のせつさんの死をきっかけに自身を見つめ直し、自分の時間を大事にしようと思った小林はタレント業から一線を引くことになります。この頃には元々よくなかった腰の具合に加え、テレビ撮影中に痛めてしまった足の影響で体が動きづらくなってしまっていたそうなので、もしかするとそれも原因だったのかもしれないですね。
 
晩年は脊髄損傷の重傷を負ってしまい下半身が麻痺状態となってしまったそうで、2018年頃より特別養護老人ホームへ週4日のデイサービスを利用していましたが2020年頃からは完全入居。寝たきりの状態になっていたようです。
 
その後、2021年11月9日に吐血し危篤状態に陥り4日間意識不明となりますが、なんとか回復。しかし肺機能が低下し痰が左肺に、右肺には水が溜まる状態となってしまい、翌月12月30日に容体が急変。翌日の12月31日の7時21分、東京都青梅市内の病院で家族に見守られながら息を引き取ったということです。12月25日が誕生日だったので81歳を迎えてからの旅立ち・・・だったんですね。
 
調べたところ、スポーツ報知でのこの取材が最後の公の姿となったようです。
 
 
記事中より、2021年10月に撮影された小林。まさかこの2ヶ月後に亡くなってしまうとは・・・
 
日本人マスクマンの祖であり、日本人の同門対決の先駆者でもあり、そして団体の枠を越えた日本人同士の対決の扉をも開いた小林。そしてプロレスラーからタレントに転身するというスタイルを形成、成功させるなど、プロレス界において様々な礎を築き功績を残しました。あまりにも偉大・・・ひとつの言葉では表すことはできません。同じ時間軸にいれたことをうれしく思うばかりです。
 
あの温かく親しみやすい優しい顔を一生、忘れません。長い間ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね。
 
ありがとうございました・・・
 
 

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