さて、後編はデビューからの軌跡を追ってみたいと思います。
前編でも書きましたが、ブロディのデビュー戦は明確なデータがないので、当然写真も残っていないようです。しかしリングネームは“フランク・ハンマー・ゴーディッシュ”との説があったりして・・・うーん、対戦相手はやはりボブ・ループなのでしょうか?
確証がないので、データとしては、やはりハンセンとのタッグで売り出した74年頃がプロレスラーとして記録がはっきりしている最古のものなのかもしれません。
それが前編でも出ました74年8月に“テキサス・カウボーイズ”となるタッグになります。結成後、2ヶ月後にルイジアナ、オクラホマなどのミッドサウスのトライステート地区のUSタッグ王者となり活躍しました。
タイトルを保持するハンセン、ブロディ
ふたりとも若いですが、見てすぐ本人たちとわかりますね。
ファイトするブロディ
この当時の戦い方はどんな感じだったんでしょうかねぇ。見てみたかったですね。
この次の年、75年にはブロディはフロリダ地区に転戦しNWAフロリダ・ヘビー級王者となります。
例の76年の月刊ゴングに紹介されていた写真。しかし肩にアメリカ国旗とは・・・
当時日本へ紹介されたブロディのリングネームは本名のフランク・ゴーディッシュ(当時の紹介はグーディッシュではなかった)で、ニックネームは“閃光男”でした。頭にバンドを巻き、肩には国旗。手にも何か持っているのですが、これは確認できません。ゴングによればレポート時は深紅のジャンパーに深紅のタイツで入場し・・・なんて記述もみられますが、実際はどうだったのでしょうか?
76年にはニューヨークへ転戦しブルーノ・サンマルチノの保持するWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦し名をあげました。
ハンセンの首折り事件後の対戦相手としてブロディの出世試合にもなったサンマルチノ戦
また、この当時はアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦が実現しています。現役時代はWWFとは接点がなかったブロディだけに、この時代のニューヨークでの出来事は貴重と言えますね。
翌77年、WWWFを離れるとダラス地区に戻り、日本で言うところの“師”にあたるフリッツ・フォン・エリックとNWAアメリカン・ヘビー級王座を巡り攻防を繰り広げます。
エリックにエルボーを落とすブロディ
エリックはかなり大きい選手でしたが、ブロディと比べると・・・という感じすらしてしまいますね。しかしスーパースター列伝ではかなり壮絶に描かれていたエリックがブロディにアイアン・クローをするシーン、実際にはどうだったんでしょうかね?見てみたかったですね!!
エリック相手に快勝しアメリカン・ヘビー級(と、このベルトは思われます)の王者にも輝いたブロディ
翌年の78年には同地区でキラー・カール・クラップからブラスナックル・ヘビー級王座を奪取。79年にはデッィク・ザ・ブルーザーと“ブルーザー対決”として有名なWWA世界ヘビー級選手権も実現。着々とその名をプロレス界へ広めていきました。
そしてエリックの推薦で79年1月2日、ついに日本へ初来日します。記念すべき来日第一戦は後楽園ホールにて大熊元司、伊藤正男と2対1のハンデキャップ・マッチでした。
日本デビューは豪快なあばれっぷりで飾った
すでにこのクラスでは手におえない感じでしたね。
そして1月5日には川崎市体育館でキング・カーチス・イヤウケヤとタッグを組み馬場、デストロイヤー組と対戦します。
初来日は、とにかく体の巨大さが目立った
初来日ながらアトミックドロップから必殺のニードロップで馬場さんからフォール勝ちをするという快挙を成し遂げ、期待度と大物ぶりを見せつけました。もちろんリアルタイムではないんですが、実はこの試合は見たことがあるんですよ。ブロディがとにかく大きかったんですが、ニードロップのときはフワっとジャンプしていたのは印象的でした。
その後、日本を重要なテリトリーと考えていたブロディは初来日での戦いで、動ける体でなくてはならない、と体を絞り、2度目の来日からは10数キロ減量し体型をキープしていたのは有名な話ですね。
だからあんなに動けたんだなぁ
その際にはブロディは肉よりも魚をよく食していたといいます。主に缶詰での摂取が多かったようですが、ときには新鮮な魚を買うことも。
フィッシュだ
普段からトレーニングも欠かさなかったブロディは、どのテリトリーにいてもコンディション作りには徹底していたようです。しかしブロディがお客で来たのには魚屋のおじさんもビックリですねぇ。
80年10月3日、来日したブロディは富山市体育館で馬場さんの保持するPWFヘビー級に挑戦します。3本勝負で行われたこの試合で1本目はブロディが押さえましたが、2本目では馬場さんがなんとトップロープからのフライング・ボディアタックを敢行し1フォール奪う大健闘を見せました。
結果はドローだったが・・・
3本勝負とはいえ、おそらく海外でもフォール取った選手はそういませんね。この他、馬場さんは81年のチャンピオン・カーニバルでもブロディからフォールを取っています。
そんな当時。日本では常に対決の話が先行してしまうブロディとアンドレですが、81年1月にはNWAの総本山、セントルイスのキール・オーデトリアムでは夢のタッグを実現させています。
これは誰も勝てなそう・・・
対戦相手はデッィク・マードックとリック・フレアーというこれまた豪華なチーム。アンドレとブロディはMSG、オーストラリア(確か昭和60年から62年の間に出た月刊ゴングにオーストラリアでの試合が掲載されていた記憶があるのですが・・・ご存知の方いましたら情報ください)インディアナポリスなどで対戦歴がありますが、タッグ結成は多分これだけではないですかね?まだ全米レスリング・ウォーが始まる前、選手がテリトリーを行き来できるよき時代だったんですね。しかしこれは見たかったなぁ~。
81年10月にはドリー・ファンク・ジュニアを破りインターナショナル・ヘビー級王者 となります。
日本の至宝を腰に巻くブロディ
その後、1ヶ月後に一旦ドリーファンク・ジュニアにタイトルを明け渡しますが82年4月に王者に返り咲くと83年8月にジャンボ鶴田にタイトルを取られるまで約1年4ヶ月王座を防衛しました。
82年からは新日本より移籍してきたハンセンとタッグを結成。もう言うまでもない、ミラクル・パワーコンビとして大活躍を見せました。
超獣コンビとも言いましたね
ファンクス、馬場さん、鶴田、天龍と激しい戦いを繰り広げましたが世界最強タッグでは83年には対マスカラス・ブラザース、84年には対ダイナマイト・キッド、ディビーボーイ・スミスという夢の対決も実現しています。
キッド、スミス組とは84年12月5日に熊本市体育館で実現した
マスカラス・ブラザーズとの試合はリアルタイムで見たのを覚えています。これは本当に夢の対決で興奮しましたね~。キッド、スミスとの対決は、まだ契約上の問題があってテレビでやらなかったんですが・・・これ、ブロディとキッドの絡みって海外でもおそらく実現していないんじゃないでしょうかね。だから対決は多分これが最初で最後なんじゃないでしょうかね?まさに夢の対決、でしたね。
さて、80年代のブロディは海外でもタイトル戦線には常に名を連ねていました。NWA世界王者に挑戦する機会も増え、ハリーレイスからは勝利するも幻の世界王者になってしまうこともありました。
次期NWA王者候補として期待が高かったが、ついに王者にはなれなかった
しかしながらレイスやリック・フレアーとのNWA戦はドル箱カードとしてファンの人気を集めました。海外ではベビーフェイスだったブロディがレイス、フレアーを攻めるたび大きな声援が起きていましたねぇ。83年にはブロディとフレアーのNWA戦、日本でも全日本プロレスの特番で中継しましたよね!!あれはよかったなぁ~。
84年2月、共に来日していたデビッド・フォン・エリックが急死するというショッキングな出来事が起きました。
花を手向けるブロディ
この模様はテレビで放送されましたね。覚えてますねぇ・・・ブロディが涙をこぼしながらデビッドにキスをしたんですよね・・・
ブロディは試合になっても姿を現さないデビッドを心配し、関係者と共にデビッドの宿泊先のホテルに行き・・・ほぼ第一発見者だったといいます。単にフリッツ・フォン・エリックの息子の死というだけでなく、幼き頃から成長を見てきたデビッドは自分の身内同様だったんでしょうね。
85年3月9日、完成したばかりの両国国技館の、まさにこけら落としとなった大会でタッグマッチで長州と初対決します。
まさに大暴れ
このときは長州に何もさせず暴れまわったブロディに様々な憶測が飛び交いましたけど、ボクは知ったかぶっていろいろ語りませんよ。純粋にボクは、これくらい大暴れするブロディが好きでしたね。だってね~ブロディがひと試合に2回もドロップキック出すのって珍しいですよ。多分この試合だけじゃないかなぁ?過去にもこんな暴れっぷりがありましたね。そうハンセンとタッグを組んでた82、3年のブロディは毎回こんな感じでしたよ。なのでこのときは久々にブロディを見れたな~!!といういい気分にボクはなれましたけどね。
しかしわずか12日後でしたねぇ・・・同年3月21日、衝撃でした。ブロディは新日本プロレスに姿を現しました。
ついに新日本のリングへ登場したブロディ
ベートーベンの運命が流れる中、スーツ姿で登場したブロディ。実現は不可能かと思われた猪木戦が現実のものとなりましたね。このときボクは、ちょうど小学6年生が終わる頃でしたね・・・
そんな猪木との初対決は奇しくも両国国技館・・・そうです、ブロディは全日本、新日本とも国技館の初興業に出場しているんですね。試合は、試合前に猪木を襲い、痛めた猪木の腕を心配しながら、でも大興奮で見たのを思い出します。実はこの試合ってプラモデルで出たんですよね。知っている人いるかなぁ?
その後もタッグ、シングルと相見えたふたり。延髄斬りで倒れない。かと思えばキングコング・ニーも功を通さない。全くどうなるのか予想もつきませんでした。いつも大興奮で見ていたのを思い出します。
猪木がブロディのキックを受けるその様は“屈辱の見返り美人”とまで言われた
同年8月、そんな猪木とのさらなる戦いに向けルー・テーズに手ほどきを受けるブロディの姿が紹介されました。
元々テーズを尊敬していたというブロディでしたが、こうして手を合わせるのは初めてでした。テーズの関節を受けたブロディは70歳にして、その技はまるで万力に挟まれているようで逆らえないと回想し“全盛期を考えると恐ろしい”と親しい者に語ったといいます。
ブロディにテーズのダブル・リストロックとは、今見ると不思議な感じがしますね
当時はそこまで語られませんでしたが、ブロディはテーズ流のテクニックを学んだのか?そういったファン心理を見事に突かれ当時は胸がいっぱいになったものでした。
さらに新日本時代は猪木との対決ももちろん注目でしたが、マードック、スーパースターらとの外人対決も見ごたえ十分でしたよね。
全日本にはなかったブロディが見れた
また、テレビ中継されなかったハックソー・ヒギンズとの試合は会場の外にまでもつれる新日本史上に残る大乱闘となりました。
ブルーザーvsエリック以来の大乱闘
この試合はビデオのみで、しかもオリジナルでない移民の歌をバックにプロモ風に構成されていたんですよね。なんでしたっけ?85IWGPタッグのノーテレビの試合を収録したビデオでしたよね?この試合はちゃんと見たかったなぁ・・・
しかしこの85年12月にブロディは一旦、新日本から姿を消します。そして86年夏に復帰しましたが、同年9月16日の大阪城ホールでの猪木戦、9月19日、福岡スポーツセンターで行われた藤波戦を最後に、二度と新日本へ参戦することはありませんでした。
ブロディ最後の新日本は奇しくも金曜8時最後の生放送の日であった
結局、猪木との決着はつかず、そしてアンドレ、前田とはついに絡むことはありませんでした。でも・・・それでよかったような気がしました。最初は夢の対決に期待したけど、新日本でのブロディはボクにはどこかやりずらそうに見えました。
新日本を離脱後、日本から一旦は遠ざかったブロディでしたが、海外ではサーキット・エリアを広め大きな団体から小さな団体まで、様々なリングでファイトしていました。AWAではまだ駆け出しだったのちのビッグ・バン・ベイダー、レオン・ホワイトに将来性を見出し期待をかけます。小さな団体では、ブロディが参戦したりテレビに出演したりすることで活性化することが多かったようです。レスラーとしては完全にベビーフェイスとなり、この頃はサイン会や記念撮影なども積極的に行っていたといいます。そして短期間ではありますがマスクを被りレッド・リバー・ジャックとしてファイトを行ったこともありました。
レッド・リバー・ジャック
しかしWWFの全米侵攻が迫るアメリカマットでは、小さな団体は消滅の一途をたどるばかりでした。こうなると日本から離れてしまったブロディが上がるリングは、おのずとプエルトリコ・マットが多くなっていったのです。思えばもう、このとき足音が聞こえていてしまっていたのでしょうか・・・
そんな中、87年10月にブロディは全日本プロレスの創立15周年記念のジャイアント・シリーズに、当初全日本に参戦予定であったリック・フレアーが来日不能になった為“X”として浮上します。そして10月4日の群馬・伊勢崎市民体育館で行われたメインイベント、鶴田、カブキ、渕vs天龍、原、冬木の終了後、突然会場に姿を現しパイプ椅子で天龍、鶴田に、まさに無差別攻撃を敢行しました。
ジャージ姿で現れたブロディ。一番最初は天龍に襲い掛かった
こうしてブロディはこのシリーズから全日本マットへ再び登場することになりました。
こうして・・・その年の世界最強タッグではファンが夢にまで見たあの対決、ハンセンとブロディが戦うという、タッグながら軌跡を目にすることができたんですね。
だから今でも、プロレスが好きなんですよ!!
そして88年3月。ジャンボ鶴田とインターナショナル選手権をかけての、あの一騎打ちが実現します。
短期間ながら新日本マットに上がり、猪木や藤波と戦ったということがブロディの価値観を上げました。もちろんその間、天龍とやりあった鶴田にも同じことが言えます。
そんなふたりの戦い・・・もう昔の鶴田vsブロディ戦ではなかった
それはハイレベルな戦いでした。そして・・・あれだけプロレスラー、ブルーザー・ブロディとしてスタイルを貫き生きてきたブロディが、あのとき見せた、流した涙は・・・
今思えば、あれも虫の知らせだったのだろうか・・・
そして全日本復帰後、鶴田戦とは一味違う天龍との戦いも、見事な光を放っていました。新日本に移籍しても、なぜオールジャパンは天龍を前に出さないんだ!?と話していたブロディ。ブロディが認める、そんな天龍相手に同年4月にはブロディのインター、天龍のUN、PWFをかけ全日本において初めてトリプル・タイトルマッチが行われました。
このときヒザを痛めていましたが、そんな中で放ったあのキックが忘れられません。そして1試合で、キングコング・ニードロップ、ダイビング・キングコング・ニードロップと繰り出したブロディ・・・これだけ引き出させた天龍も、敢行したブロディも本当に凄かったです。
見ろ!!これが!!キングコング・ニードロップだ!!
結果は痛めていたヒザが悪化し、ニードロップを出しながらもフォールに行けず・・・両者リングアウト、ドローとなってしまいましたが、ボクの中では本当に忘れられない一戦でした。
こうしてシリーズは進んでいき終盤を迎えますが・・・これがブロディの日本での最後の年となってしまいました。最終戦・・・88年4月22日、川崎市体育館でトミー・リッチと組んで天龍、原と対戦したブロディ・・・
ブロディの、これからのさらなる戦いを予感させたが・・・
これがブロディの日本でのラストマッチとなってしまいました。
そして・・・同年7月、運命のサーキットが始まってしまいます。
13日、プエルトリコ入りしたブロディは、まずカタノ市のペドロ・ロドリゲス・ガヤ・コロシアムにてシングル4連戦を強行します。相手はザ・レベル、ジ・アサシン、エクゾチカ、という地元のレスラーだったようですが、プロフィールなど詳細は不明。ブロディはこのレスラー達を、いずれも2分弱で料理しています。そして迎えた4人目の相手はなんとアブドーラ・ザ・ブッチャー。結果はノーコンテストだったようですが、テレビマッチということも手伝って会場のブロディ人気は相当なものだったといいます。
14日はナグアボ市ベースボール・スタジアムというところで、日本にもなじみのあるロン・スターと対戦。フォールかどうかは不明ですが、この試合はブロディが勝利しています。結局これがブロディ最後のシングルマッチとなってしまいました。
15日、ブロディはプエルトリコのポンセ市にあるパチン・ビセンテ(ビンセンスかもしれないですが、詳しくは不明)・コロシアムの敷地内にあったと思われるパンティ・アリーナという会場で、カーロス・コロンとタッグを組みアブドーラ・ザ・ブッチャー、ダニー・スパイビーと対戦しました。
ふたりががりで攻撃するブッチャーとスパイビー
試合はブッチャーとスパイビーの激しい攻撃によりブロディが大苦戦を強いられるという珍しい展開となりました。中でも翌日の16日、シングルで激突するはずだったスパイビーとの絡みは激しく、大いにもつれた模様だったようです。
場外でも激しくやりあったブロディとスパイビー
これだけ激しくやりあったら、明日の試合はどうなるんだ!?そうです、翌16日、ブッチャーはコロンと、ブロディはスパイビーと・・・それぞれシングルマッチが予定されていました。ファンが楽しみに待ち望んでいた試合でした。
しかし・・・翌日、ブッチャーの攻撃にピンチに立たされたコロンの元にも、自身の試合にも・・・ファンが“ウォ、ウォ、ウォ”と、いくら呼んでも、ブロディが現れることはありませんでした。
15日の、試合後のこの姿が最後となってしまった・・・
そして・・・運命の日、7月16日。プエルトリコのバヤモン市にあるエスタジオ・ジュアン・R・ロブリエルという会場のシャワールームで、ブロディは刺され、翌17日朝、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
東スポに大きく載った記事・・・週プロもゴングも、ブロディのニュースを伝えました。信じられませんでした。いや、信じたくなかった・・・でも・・・その写真を見たとき、信じなくてはならなくなりました。
本当だったんだ・・・
棺に納まるブロディ・・・これがあの、あのブルーザー・ブロディだなんて・・・ブロディの最後だなんて・・・
あれから、本当に時間が流れました。当時高校1年生だったボクも、気がつけばブロディが亡くなった年齢と同じ42歳になっていました。
亡くなる年、ブロディは親しい者によく、今後は家族との時間を大切に会いたいんだと、子供をいろいろなところに連れてってやりたいんだと話していたそうです。
笑って楽しんで、でもときには叱ったり、怒ったり。ケンカもしたり、一緒に喜んだり・・・子供の成長を感じながら、いろいろな思い出をたくさん作って・・・過ごしていきたかったんだろうな・・・
当時はプロレスファンとしてプロレスラー、ブルーザー・ブロディの死を悲しみましたが、今、この年になって振り返ると、自分も子を持つ親として、ちがった意味で悲しみがこみ上げてきます。
昨今はブロディといえば、やれプロモーターと、やれマッチメイカーと、やれ、対戦相手と・・・ギャラがどうだったとか、こんな性格で、あんな性格だったから、だからプロレスラーとして、なんだとかかんだとか・・・と、裏を語る話ばかりです。
ブロディのことをそう思うのは、それは本にそう書いてあったからですか?ネットでそう流れてるからですか?だからそれを読んで、自分もそう語るんですか?みんなと同じように?
いつからみんな、そんな大人になっちゃったの?
みんなプロレスファンとしてプロレス見てきて、ブロディにたくさん思い出、もらっただろう?
裏話するなとは言わない。楽しみ方は人それぞれだから・・・でも、たまには昔に戻って、超獣ブルーザー・ブロディを思い出してみないか?
移民の歌をバックにチェーンを振り回していたあの姿。ワンハンドのゴリラスラム、横投げのブレーンバスター、まるで無重力みたいにフワっとジャンプしてやるドロップキックにギロチン・ドロップ。そしてキングコング・ニードロップ!!
ほら、目を閉じればいつだって、ウォ、ウォ、ウォって吠える声が聞こえてくるだろう?