どうも!!流星仮面二世です。
この間、三世とテレビでプロレス見てたんですが、なんですか?今の新日本にはずいぶん二世レスラーがいるって言うじゃないですか。
グレッグ・ガニア、デビッド・サンマルチノ、それからエリック一家もそうでしたが、一昔前は父親が偉大すぎるあまり・・・なんてことは多かったですよね。でも今はそんなこともなくうまくいっているような?感じです。というわけで今回は、現在、新日本で活躍する二世レスラーのお父さん達を見ていってみようと思いますよ。
ちなみにボクは、普段はネットで拾った画像は載せない主義なんですが、現在のレスラーが載っている本を持ってないので今回は二世レスラーの画像に限ってはネットから拝借しました。ご了承ください。
ディビーボーイ・スミスJr
ボクは2014年の1.4の東京ドームでその存在を知ったのですが、リアルタイムのプロレス音痴なボクでも名前でわかりました。身長はお父さんより大きいですが、顔はよく見ると似ていますね。
父親、ディビーボーイ・スミスは83年11月にザ・コブラの日本デビュー戦の相手、ザ・バンピートとして蔵前国技館に登場。これが初来日でしたね。
まさに幻のマスクマン、ザ・バンピート
この日、先に入場しリング上で同じく日本初登場となったザ・コブラの入場を待ちますが、コブラがリングインすると試合開始前にマスクを脱いでしまうという驚きの行動から先制攻撃を仕掛けます。しかし日本初登場前に海外でのスミスの試合がテレビにて放送されていたこともあり、予想以上に大声援を受けました。
素顔となったスミス
その後、スタンピート・レスリング特有の、あのファイトスタイルを武器にダイナマイト・キッドと並びジュニア戦線では欠かせない存在になったのはもちろん、キッドとのタッグで日本では最も客の呼べるレスラーの上位として常に名をあげ、人気レスラーに君臨しました。84年暮れには突如、全日本へ電撃移籍。その後85年からはWWFへ参戦し、86年にレッスル・マニア2に出場。シカゴ大会でメインを務めるほどの大物ぶりを見せました。
で、この頃からですねぇ、スミスの体が大きくなっていきますよね。元々スミスは新日本登場当時からジュニア・ヘビーでは重すぎるのでは?という評価を受けていましたが、全日本に参戦した頃には完全にヘビー級になっていて、そしてWWF時代には180ちょいくらいの身長でありながらウェートは全日本参戦当時よりも大幅アップの、なんと120キロにまで到達していました。
WWF時代のスミス。まさに驚異の肉体・・・
筋肉の終着駅、肉体の表面張力の限界表現とは言ったものですが、見ているだけで怖くなってしまうようなスゴイ体ですね。
その後、日本でのファイトを挟み、離脱等の紆余曲折はあったもののWWFでは2000年までファイトしたようです。しかし2002年5月、39歳の若さでこの世を去ってしまいます。
ディビーボーイ・スミスJrは父親ディビー、そして母親は名門ハート一家出身という血統の持ち主。先にも出たレッスルマニア2の年の86年8月に生まれるわけですが、まさに血統を受け継ぐサラブレットとして、時代に何を見せてくれるでしょうか?期待しましょう。
タマ・トンガ
これはね~びっくりしましたよ。今まで何回か見てましたが、まさかキング・トンガの息子とは・・・まったく知らなかったですね。
さて、キング・トンガ、元々は相撲でしたが所属部屋の諸事情により廃業に追い込まれる不運に見舞われ、77年に全日本プロレスに入門することになります。その後ジャンボや天龍のようにファンクスの元に送られプロレス修行しプリンス・トンガのリングネームで一足先に海外デビュー。この感じだと半年、1年で帰ってきて日本デビューの流れですが、トンガはそのまま2、3年海外に定着しファイトしていたようです。
プリンス・トンガ時代。身に着けているのはトンガ王国の民族衣装なんでしょうかね?
その後、80年に全日本に戻り2年ほど日本でファイトしますが、再び海外へ。アメリカを主戦場としAWA時代には赤い道着のようなズボンを履いてファイト。リック・マーテルやロード・ウォリアーズと激しい戦いを繰り広げました。
ウォリアーズ相手にも引けを取らなかったトンガ
86年にはWWFへ登場。トンガキッド・タマと組んでジ・アイランダーズとして活躍。先に出ましたディビーボーイ・スミスとダイナマイト・キッドのブリティッシュ・ブルドックスとも抗争を繰り広げました。そして89年にはアンドレ・ザ・ジャイアントのタッグ・パートナーとしても活躍。
チーム名はコロッサル・コネクション
この頃はマスクド・スーパースターであるアックスが大活躍するザ・デモリッションズとの抗争も名物でした。またハルク・ホーガンとも激しい戦いを展開するなど活躍を見せていました。現在でも現役でインディーなどのリングに上がり続けているようです。すごいことです。
余談ですが、キング・トンガといえばボクはあのトンガの使う独特のドロップキックが好きで、名前を聞くと必ず思い出すんですよ。水平に飛んで、なんていうのかなぁ・・・屈伸で蹴るんじゃなくて、足伸ばして、体が水平に動いて行って蹴る、というかね。言葉では説明も難しいんですが、なんかこう、好きでしたね。
タマ・トンガ、これまでは正直なところ、なんなんだろなぁ?くらいにしか思えないレスラーでした。奇抜なペインティング、格好や動きでは確かに印象に残るかもしれませんが、レスラーとして、これだ!!と目を見張るものがまったくない気がします。もっとがんばってほしいですねぇ。
マキシモ
これはですね・・・昨年の9月に観戦 に行って知ったレスラーなんですよ。
実はボクはオカマのレスラーというのが大の苦手なんです。リング上で相手にウィンクしたりキス攻撃したり・・・そういうのをプロレスに取り入れられるのがすごくイヤなんですよ。正直、見たくないのです。だからこの選手が出てきたときイヤ~な気持ちになりましたね。ああ~見なきゃならないのかって・・・しかし試合を見始めると、あれ?あれれ?
前回も書きましたが・・・確かにオカマ殺法も使うんですが、その動きは混じりっ気なしのメキシカン。いまだに正当なメキシコのスタイルを持つ選手なんですよ。けして派手さはないんですが、いわゆるルチャ・リブレの試合展開を忠実にやっていましたね。
これは正直、びっくりしました。まだこういう選手がいたんだなぁと・・・なのでちょっと調べたら、父親がなんとブラソ・デ・プラタ!!そうだったのか・・・なぁ~るほどなぁ~と思わず納得してしまいました。
ブラソ・デ・プラタ、メキシコではプロモーターやレフリーとしても活躍したシャディト・クルスというレスラーを父親に持つ名レスラー。兄弟もプロレスラーで、ブラソ・デ・オロ、エル・ブラソとの二人の兄とのトリオはメキシコでは有名でした。日本には新日本、全日本と来日していますが、やはり登場初期の初代タイガーマスクと戦った試合は今でも印象的ですね。敗れたもの、ルチャ・リブレを発揮してタイガーのいいところを引き出しつつ存在感を出しました。
シングル、タッグと両方対決しているプラタ
メキシコではルードとしてマスカラス相手にも激しくやりあった
しかしプラタ、身長は170センチくらいですが・・・新日本時代はまあ、ちょっとメキシカンにしてはお肉がついてるかな?くらいでしたが、年を追うごとにどんどんぽっちゃりしていって・・・
ん~む・・・
画像の頃は120キロ以上くらいはあったかもしれません。でも動きは軽快。試合の流れもうまく持っていくし、ラフも強い。おまけにこの体型でトペとかやっちゃうんだから驚いちゃいますが、体型のおかげでコミカルに見えてルードだけど憎めない感じでした。
ところで・・・少し話は脱線しますが、元来、メキシコのレスラーってアメリカで試合しても日本で試合しても、メキシコ流の動きを発揮するものだったじゃないですか?試合運びも飛び技も固め技もね、パンチひとつにしても打ち方がちがって、ああ~メキシカンなんだなぁ~って思うことありましたよね。
しかし今はメキシコのレスラーもいろんな技出すようになって、試合運びも変わって・・・メキシカンぽくない選手が増えてしまいましたよね。間も技もだいぶちがいます。特に飛び技、難易度高いです。同時に危険度がハンパじゃない。見ていてヒヤっとし、思わず首をひねるときもあります。
やるのは選手だから何も言えませんが、ボクは何も飛んだり跳ねたり、ひたすら早いテンポで試合するのだけがルチャ・リブレではないと思うんです。派手さはない小さな技でも、いいテンポで繋いでいって、でも間はしっかり持って・・・進化するのもいいですが、色あせないメキシカン・スタイルも大事にしてほしいと思う次第なんです。
でもオカマレスラーは、その限りではありません・・・
コーディ・ホール
しっかしねぇ・・・油断できないですね。スコット・ホールの息子もいるんですね。
スコット・ホールはディック・マードックを叔父に持ちブラックジャック・マリガンを父に持つ名レスラー、バリー・ウインダムにプロレスの手ほどきを受け84年にプロレス入り、同年にデビューしています。
デビュー当時はスターシップ・コヨーテのリングネームで同じく同年にデビューしたスターシップ・イーグル、のちのダニー・スパイビーとタッグチーム、アメリカン・スターシップを結成。NWA地区で活躍していたようです。
アメリカン・スターシップ時代のスコット・ホールとダニー・スパイビー。ふたりとも若いなぁ
翌年の85年にはAWAへ参戦し短期間ではありますがカート・ヘニングとのタッグでAWA世界タッグを保持。この地区でも活躍を見せました。うーん、デビュー1年後にAWAタッグを保持するなんて、なかなかないですからね、すごいことですよ。
で、翌87年から新日本プロレスへ参戦するようになりますが、新日本参戦時の活躍はなかなかすごかったですよね。まず87年ジャパンカップ争奪タッグ・リーグでは坂口征二のタッグ・パートナーとして参戦。
2mクロス・ラインにダブル・アトミック・ドロップなどコンビネーションも上々だった
本来はディック・マードックとのチームになるはずが、猪木がマードックとタッグを組んだための抜擢でしたが、これがなかなかいい連携のチームでした。また90年にはタッグマッチで坂口征二の引退試合の相手という大役も務めましたね。
同年、パニッシャー・ダイス・モーガン、のちのジ・アンダーテイカーと大型コンビを結成しマサ斎藤・橋本真也の保持するIWGPタッグにも挑戦しました。ダブル・ドロップキックを見舞うなど王座チームと熱い戦いを展開しました。また、この頃にはのちのフィニッシュとなるレザー・エッジの原型のような技も使っています。
橋本を上げるとは!!すごいパワー!!
これあれですね、初参戦してからの短期間に、日本でこれだけの扱いというのは期待度が相当高かったってことですよね。あと、載せたかったんですが見つからなかったので無念なんですが・・・そう、船木との骨法の練習シーン、あったじゃないですか?これもねぇ~。見たときホールって本当にいいやつなんだな、日本が好きなんだな~って思いましたよね。
外人レスラーでありながら日本に深くかかわり、のちに全米ではトップに君臨する・・・ハルク・ホーガンもそうでしたがホールも然り、やはり“日本帰りは出世する”のジンクスは間違っていなかったようです。息子も父親が歩んだ道を行き、いつか名レスラーと呼ばれる存在になれればいいですね。
柴田勝頼
さて、柴田です。お父さんはご存じ柴田勝久。ボクらの年代はレフリーとしての姿がなじみですね。
ドーリーの、これですね
しかしながら当然、プロレスラーですね。柴田は66年に相撲からプロレスに転向。東京プロレスへ入り、のち日本プロレスに所属します。この頃メキシコへ遠征しリングスのレフリーでおなじみでした北沢幹之とタッグを結成。活躍したそうです。
メキシコ時代の柴田
当時のメキシコでは、遠征した日本人レスラーの定番でもあった田吾作スタイルでルード、悪役として大暴れ。人気を博し、ほとんどの試合がメインだったといいます。その後、72年に新日本プロレス旗揚げに参加。日本プロレス時代に付き人をしていた経緯があってか、旗揚げ当時は猪木とタッグを組むことも度々ありました。
猪木とのタッグで勝利者賞を手にする柴田
試合前の猪木と。やっぱり勝頼に似てますね
人材が薄かった新日本の中で柴田の存在がいかに大きかったのがよくわかりますね。
その後、新日本が安定してくるころには中堅どころで脇を固め、やがて76年に引退。翌77年からはレフリーに転向し数々の名勝負を裁いてきました。99年にレフリーを引退。のち、ゲスト的にレフリーをやったこともありましたが、2010年1月に亡くなっています。
ボクは2014年の1.4のドームで柴田がプロレスをしたところを初めて見たのですが、このとき今はなくなってしまった新日本のあのギラギラした殺気、妥協なき戦いを柴田に感じ、すごく期待しました。二世レスラー、プロレスを受け継いだ者は多くいます。でも、ストロングスタイルを血筋で受け継いだ者はいません。柴田、もっと、もっとです!!期待してますよ!!
といわけで二世レスラーのお父さん特集でした。