「ボクと同じ年齢の方が生まれた72年度というのは、1971年から1974年までの、まさに第二次ベビーブームのど真ん中世代・・・このブログの題名にもなっているとおり、まさに“団塊Jr”の流転輪廻であった。
そんな子供の多かった時代だったから・・・その人口密度はボクの住んでいるような田舎でも例外でもなかった。
その昔、どの集落にも駄菓子屋というのが必ずあった。
ボクの住んでいる集落にも一軒の駄菓子屋があった。田舎の家というのは昔からの屋号というもので呼ばれることが多く・・・たとえばもう商いをしておらず、まったく普通の家であっても、大昔に塩を売っていた家ならば塩屋、油を売っていた家なら油屋・・・という具合に呼ばれるのだ。そんな流れで、その駄菓子屋は「ちょうちん屋」と呼ばれていた。
この駄菓子屋ちょうちん屋、本当に小さく売っているものも数少なかったが、なんせ集落にお店がここしかなかった為、特にお年寄りと子供の利用者は多かった。加えて目印になるので幼稚園のバス乗り場にもなっており、ボクも幼稚園当時は帰ってきてから祖母と一緒にここに寄り、アイスを買ってもらうのが楽しみだった。
しかしこの駄菓子屋、普通の駄菓子屋とはちょっとわけがちがっていた。とにかくミラクルが多かったのだ。
いくら噛んでもポロポロでガム状にならないガム、のり塩かと思って食べようと思ったポテトチップスが、実はのり塩でなく黒カビだった、炭酸のジュースが微炭酸になっていた、ペプシを買って栓を開けたら何年か前に終わっていたキャンペーンのヒット賞が出たなど、今の世の中では考えられない、その賞味期限伝説は計り知れないものがあった。
だが、かと思えば学区内どの集落の駄菓子屋に行っても売ってなかった聖子ちゃんとトシちゃん、マッチのブロマイドが大量入庫されたり、ガチャガチャのスーパーカー消しゴムの種類が豊富であったりと、食べ物以外は意表を突く優れものが充実することが多々あった。
ある者はその賞味期限伝説を見に、またある者はブロマイドを買いに、わざわざ遠くの集落から来たりすることがあったのだ。
そんなちょうちん屋のおばちゃん、何を隠そうダスティ・ローデスにそっくりだったのだ。
ウチの祖母と同姓同名であり、また茶飲み友達でもあったちょうちん屋のおばちゃんは、ボクの家にはよく来たりしたものだった。その度、本人の目の前ではちょうちん屋のおばちゃんで通っていたが、家族でプロレス好きだった我が家ではちょうちん屋のおばちゃんが来るたび
「ダスティ・ローデスが遊びに来たよ」
「ばぁちゃん、ローデスが庭で呼んでるぜ」
といった具合で皆、ローデスと呼んでいた。それで通ってしまうのも今にしてみればおもしろい出来事である。が、同じく今にしてみれば、ボクにとっても忘れがたい思い出があった。
あれはまだ小学校低学年の頃だったか・・・このちょうちん屋に紐を引いて引っ張ってやるくじ引きが入庫されたことがあった。そう、昔よくあったあれだ。
同じ集落の子供たちはみんな一等を当てようとくじ引きに挑むが、そこはなかなか出ないのがくじ引きだ。
「当たんねーんだよ」
次々とぼやく他の子供たちを見て、ボクもちょうちん屋に行ってみた。もちろんこのくじ引きをやるためだ。まだ出てないんなら、おれが一等当たるかもしれない・・・そんなことを思いながら店に入ったが、ボクを見るなりローデスは
「おお、来たか。ほら、取っといてやったど」
と何かを茶ダンスから出してきた。これは・・・?
それはタケコプターのような形の、紐を引っ張ると羽が回って飛ぶようなおもちゃだったと思う。
あれれ!!これってくじ引きの一等じゃないか!!
驚くべきことにローデスは、一等をくじから外しておき、ボクが来るまで取っておいてくれたのだ。
そりゃ誰も当たらないはずだ・・・で、でもこれは受け取っていいものかどうか・・・
しかしローデスはニコニコしながらボクを見ている。もし断ったりしたらバイオミック・エルボーを食らうかもしれない・・・なんて、そんなことは思わず、一瞬ためらったがボクも子供だったので、そのときは大喜びで一等をもらって帰ってきた。ローデスは、なぜかボクにはいつも優しくしてくれたのだ。
食べ物から、こういった昔ならでは、田舎ならではの出来事がたくさんあった駄菓子屋だった。
しかし・・・そんなちょうちん屋はある日、突如として壮絶な最後を迎えることになる。
小学校を終え中学生になるとボクらも大きくなってしまった為、通学で毎日ちょうちん屋の横を通るにしろ、寄るということがなくなってしまっていた。加えてもうボクよりも年下の、周囲の子供という存在がいなくなってしまったせいもあり、いつしかちょうちん屋はお年寄りのお茶飲み場のような感じになっていた。
そんなある日。あれは中学の2年の冬だっただろうか・・・期末テストの真っ最中だったボクは、いつもはいない時間帯に家にいた。勉強はやった口ではなかったが、とりあえず机に向かっとくか・・・と言いつつ、読んでいるのは週刊プロレス。そんな感じだった。そんな、ちょうどそんなときだった。
「ちょうちん屋が燃えっちまー!!」
という近所のおばちゃんとボクの祖母の咆哮が集落中に響き渡った。
「な、な!?」
と言って表に出ると、サンダルを手に持ったまま裸足で家の前の道を縦横無尽に走り回る近所のおばちゃんとボクの祖母が・・・唖然とするボクの耳に、間もなくサイレンの音が聞こえてきた。目をやると、ちょうちん屋の方向からは黒い煙がもくもくと立ち上っていた。
火事だ・・・ちょうちん屋が火事になっている!!
近所のおばちゃんとボクの祖母の咆哮のおかげで通報が早く行った為、物置と犬小屋こそ全焼になってしまったが、母屋はちょっと焼けただけでなんとか無事で、ローデスとローデスの旦那の藤吉っつあんも無事だった。しかし、駄菓子屋・ちょうちん屋は決定的なダメージを受けたことにより、この日を境に店の戸を開けることは二度となかった。
その後、ボクは高校になると同時に部活の関係で合宿所に入ってしまったので地元を離れてしまったのだが、たまたま家に帰れるときができ、帰宅したことがあった。
ボクの実家は田舎なので、車がないと移動手段が本当に皆無なのだ。バスは一応あるが、当時はバス停から家までは歩いて30分はかかった。
その日、家に帰る為、バスに乗ってバス停で降り、家までの道のりを歩いていた時のことだった。ちょうど家まであと半分という距離だっただろうか・・・遠目に自転車があるのになぜか乗らず、押して歩いている人が見えた。ローデスだった。
お久しぶりです、と声をかけると
「あらぁ~大きくなったこど~」
と笑顔になり
「自転車、おっかなくて乗れねんだよ~」
と相変わらずの反応が返ってきた。だったら歩いて外出すればいいのに・・・と思ったが、ローデスにしてみればこれがよかったんだろう。
こうして10分ほど一緒に歩き、ローデスは家へと帰っていった。
その後、ボクがローデスに会うことはなかった。結局これがローデスとの最後の会話だった。
現在、あの駄菓子屋・ちょうちん屋があった場所は畑となり、家が建っていた片鱗は全く残っていない。そしてローデスも今はいない。ここに小さな駄菓子屋があったことを思い出す人も、今はいない・・・
でも・・・わずか100円のこづかい持って、小さいチョコレートと小さいガム、あとは何買おうかな~ってやって、人情味あふれるあのフインキで友達と食べるあの楽しさは忘れることができない大切な思い出、いつまでも忘れ去られない思い出なのだ」
実は今回、レガさんとのやり取りや、北海道にて行ったサミットでダスティ・ローデスの話題が出たばかりでした。そんなわけでボクはブログでこのお話をやろうと、文章を作っていたところでした。
そんなおり、あのダスティ・ローデスの訃報を独断さんと先輩からの連絡、ほぼ同時にいただいて・・・知りました。この頃、話題になっていたのは何か、虫の知らせだったのでしょうか・・・そんなふうに思えてなりません。
そして本当に残念でなりません。
~ダスティ・ローデス グラフティ~
ダスティ・ローデス、思い出しますね。やっぱりあの独特の歩き方、ダスティ・ウォークとリズミカルに繰り出すパンチとフェイントからのエルボーですね!!ずいぶんマネしました。
時代的には、日本へ来ていた頃を見てたのは小学校までですかね。あとはローデス自身、プロモーター兼レスラーとしてアメリカから動かなくなってしまったので、途中からは雑誌で見かける程度になってしまいました。
ボクが動くローデスを唯一生で見たのは92年の1.4東京ドーム、超戦士IN闘強導夢でのキム・ドク、マサ斎藤vsローデス、ローデスJrですね。息子が売出し中で・・・動きとか顔とか似てましたが、やっぱりローデスが一枚上でしたね。今となっては貴重な体験です。
さて、ダスティ・ローデスの初来日は71年11月、国際プロレスのビッグ・ウィンター・シリーズでした。
第一戦の相手はなんとアニマル浜口
初来日で、すでにエルボーは得意技だったようです。
このときは2週間にも満たないシリーズ参加でしたが、最終戦ではストロング小林の持つIWA世界ヘビーに挑戦するという、エース外人としての活躍でした。その後、73年に再び国際プロレスへ来日するとディック・マードックとのジ・アウトローズで大暴れします。
続き全日本プロレスには75年11月に初登場。同じくマードックとのコンビでインターナショナル・タッグに挑戦し馬場さん鶴田と激しい攻防を繰り広げました。
馬場さん、鶴田を甚振るアウトローズ
続いて全日本プロレスの世界オープン選手権に参加。馬場さん、ヒロ・マツダ、ハリー・レイスと大物と激戦を繰り広げました。
ローデスの試合の中で評価が高いレイス戦
そして79年からは新日本プロレスに登場します。
やっぱり新日本でのローデスといえば80年と81年のMSGシリーズですね。この頃はボクも記憶にもあるし馴染みですね。とにかく豪華外人が勢ぞろいなシリーズで夢のカードが続出でしたよね。
猪木とのシングル戦はあんまり覚えてないんですが、タッグは覚えていますね。あーちょうちん屋のおばちゃんが猪木とタッグ組んでるよ~!!なんて家で言ってた記憶がありますねぇ~。
猪木vsローデス
ローデスって出血するといつもハンパじゃない量出てましたよね・・・
タッグでハンセン、ホーガンとやり合うローデス。豪華だなぁ~
ローデスとホーガン、この絡みも冷静に考えるとすごいですね。のちのアメリカのメジャー選手ふたりが同じリングでやってたわけですからねぇ・・・すごい。
ホーガンとやっていてジェットシン乱入。すごい・・・
これもすごいですね。ジェットシンとローデスが絡んだのって海外ではまずないですよね。シングルもやってますが、多分ここだけじゃないですかね?
で、もっとすごいのがこれですね。80年5月24日に青森で実現したこの試合です。
アンドレとのシングル対決
これね、今ではベビーフェイスもヒールも試合する、しないの境もないですけど、当時のアメリカのプロレスシーンにおいて、ベビーフェイス同士が試合するということがありえなかったわけですよ。なのでこれは本人達も海外メディアも大変驚いたそうですね。ちなみにスーパースター列伝ではこのふたりが対決後、タッグ結成ってことになってますが、おそらくこれが初対決じゃないですかね?
ところが、すごいのはこれだけじゃないんですね~。なんと同年5月27日、大阪ではバックランドとのWWFヘビー級選手権も実現しているんですね。
ローデスvsバックランド
なにがすごいって、日にち見てくださいよ!!アンドレ戦が24日でバックランド戦が27日ですよ!!たかだか3日のうちに、アメリカマットで絶対に実現しない試合が2つも実現してるんですよ!!今でいえばイチローと錦織圭が一緒に板前になって明日から寿司屋をやるくらいの出来事なんですよ!!
アンドレ戦に続き、当時のアメリカでは、何事なんだと話題になり、通常ありえない「日本の試合がアメリカのプロレス雑誌の表紙になる」という現象が起きたそうな・・・すごいことですねぇ・・・
そうそう、新日本参戦時のアウトローズでは猪木の足を痛めつけ、欠場に追い込んだこともありましたね。
痛々しい猪木の姿に心も痛くなった・・・
その前まで猪木とタッグ組んだりしてたのに、なんでこんなことするんだろう・・・これは子供心にショックを隠せませんでしたねぇ・・・でも、結局は国際、全日本、新日本と日本のメジャー団体すべてに上がったアウトローズが、いかにすごかったのかというのは刻み込まれましたよね。
さて、海外では短期間ながらNWA世界ヘビー級王者に君臨したこともありました。レイス、フレアーと名勝負を展開し通算3度、王者になっています。しかし、中にはこんなNWA戦も・・・
んん!?
83年2月、場所はフロリダ州タンパ。このときローデスは出場停止中だったそうですが、こっそりマスクマン、ミッドナイト・ライダーに変身し王座に挑戦。なんとフォール勝ちでタイトル奪取となりましたが、マスクを脱がされローデスであることがバレてしまい、無効試合のような形になったという世にも珍しい試合となったそうです。
こうして日本でも海外でも大活躍したローデス。アメリカン・ドリームはけして自分のことだけじゃなく、見る人にも夢を与えてくれる意味だったとボクは思っています。謹んでご冥福をお祈りいたします。
天国でもアウトローズで大暴れしてください。