どうも!!流星仮面二世です。
さて、天龍引退の余韻がいまだ覚めない今日この頃ですが・・・悲しいニュースをお伝えしまければなりません。名レスラー、ニック・ボックウィンクルが11月14日に亡くなりました。80歳ですか・・・仕方がないことなんですが、やっぱりさみしいですね・・・
ニック、もう説明するまでもないですね。プロレスラー中のプロレスラー中です。
ボクは最初のニックの印象はテレビよりもプロレススーパースター列伝でのホーガン編での描写が強かったですね。AWA世界王者ながらマネジャーのボビー・ヒーナンと組んでの戦い。プロレスの本なんかでもダーティチャンプと評され・・・でも実際の試合ではそんなことないのにな~なんて、子供心に思っていましたね。
この頃にはジャンボとのAWA戦も行われていましたが、勝てそうで勝てない鶴田の、まさに高い壁となっていましたね。なのであまりにも有名すぎる鶴田AWA奪取のあの試合には、家族でテレビ見ていて勝ったー!!と歓喜した思い出がよみがえります。
それではニック・ボックウィンクル、ちょっと振り返ってみます。
初来日は64年の日本プロレス。その後70年に行われた第1回NWAタッグリーグ戦ではジョニー・クイーンと組んで決勝進出。猪木、星野組と名勝負を展開しました。、
その後、AWAへ転戦。AWA時代の初期の72年、レイ・スティーブンスと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。名タッグとして活躍しました。
75年11月にバーン・ガニアを下しAWA世界ヘビー級王座を初栄冠。78年に全日本プロレスの第1回となる世界最強タッグにブラックジャック・ランザと組んで参加。そして79年には国際プロレスへ参加します。
前年の全日本参戦の時は防衛戦は行いませんでしたが、国際に参戦したこのときはラッシャー木村とAWA、IWAのダブルタイトル戦、そして大木とAWAのタイトル戦と、防衛戦を展開しました。そして同シリーズ中にはルー・テーズと組んでラッシャー木村、グレート草津組と対戦。
ニックの父親のウォーレンとテーズは、まさに同じ釜の飯を食った仲。幼少の頃からニックを知るテーズにとって、このタッグは思い入れの深いものだったと思います。
この時代から80年代に至るまで、ニックはAWA王者としてテクニシャンでありながら海千山千な展開でガニア、ホーガンなど多くのレスラーを相手に長きに渡り防衛戦を展開していきました。
84年2月には蔵前国技館でジャンボ鶴田とAWA世界ヘビー級選手権を行い敗れますが、長きに渡り鶴田が超えられなかった相手として、その評価は非常に高いものでした。
あまり触れられていませんが、84年2月の蔵前でのジャンボ戦でのジャンボ王座奪取のときは、鶴田が33歳直前に対してニックはなんと49歳半ば!!鶴田が王者になったあとは挑戦者としてAWAへ挑戦もしています。プロレスのテクニックやうまさだけでなくコンディションの面でも大変気を使っていたことがわかりますね。
シングルでの評価はもちろん、レイ・スティーブンスとのタッグでもわかるようにタッグもうまく、世界最強タッグに出場の際にはその存在感を発揮していました。
80年の最強タッグはジム・ブランゼルと組んで出場した
また84年にはなんとハリー・レイスとタッグを組んで出場。夢の世界王者コンビとして注目を集めました。
この84年は鶴龍、ファンクス、ハンセンブロディ、ブルドックスと豪華な参加メンバーになりましたが、そんなメンバーの中にあってもまったく存在感が薄まらない、インパクトのあるチームとなりました。
覚えていますね。最強タッグ開幕の予告で出場チームが紹介されるんですが、そのときの
「NWAとAWAの元王者がタッグを組んだ!!」
という紹介に興奮しちゃって、ご飯食べてる家族を呼んでしまった思い出があります。
その後、87年8月の全日本プロレスへの参戦で現役レスラーとしては最後の来日となります。
前回天龍の記事で革命後初のジャンボとのシングル戦の前日、ボクの地元の土浦スポーツセンターで行われた模様のお話をしましたが、実はこの87年のサマーアクションシリーズ2がまさにこの現役では最後の参加シリーズでした。
このときニックはディック・スレーターと組んで輪島、石川組と対戦しました。場外乱闘の末、両者リングアウトという結果でしたが、特リン最前線で見ていたボクはこの場外乱闘の時、輪島とニックに大興奮し超接近して見て・・・次の日学校で、たまたま同会場で観戦していた同級生に、あんまり近づいていくから参戦すんのかと思ったよ!!って言われたた思い出があります。あれから28年かぁ・・・
名レスラーなんて言葉ではとても足りない、表せないほどのレスラーだったニック・・・あまりにも残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。