↧
Photo Exhibition 10 ~おれたちの8.8~
↧
真夏のライオンキングダム!!
どうも!!流星仮面二世です!!
さぁーというわけで久々の観戦記です。
今回は8月12日に行われました
「HEIWA Presents G1 CLIMAX29 FINAL」
行ってきましたので、その模様をお送りいたします。
まずですね、今回は座席ですよ。昨年の武道館は2階席でしたが、今年は三世も受験生ということで1年の観戦数が限られます。なら、ここは奮発しようじゃないかと1階スタンドをファンクラブ先行で勝負です。そしたら当たった席がここですよ。
こ、ここはぁ~!!
なんと1階スタンドの、レスラーの入場ゲートの上です!!
この白い矢印のところです
いやぁ~昨年は2階のですね、後ろから何番目というとこで、背もたれはないわひたすら暑っいわというとこでしたが、今回のここはなんですか!!背もたれがある!!涼しーい!!しかも前に誰もいなく、近い!!
おそらく人生のプロレス観戦でも最初で最後のポジションでしょうなぁ~。じっくりと、見させていただきます。では、ズバッと行きましょう!!
第1試合 15分1本勝負
辻陽太、成田蓮vsカール・フレドリックス、クラーク・コナーズ
さぁ第1試合は新日本とLA DOJOの日米ヤングライオン対決です。初めて見ます外国人チームは勢いあっていいですね。しいて言えば、まだところどころが荒いというとこだけだったと思います。動きしかり、ステップ・オーバー・トーホールドなんかも見せ、いい傾向だと思うんですが、ちょっとまだ単発ですね。流れに沿ってその技が出せてないところがありました。でも、それでいいと思いますね。そういうのは今後の経験だと思うので、今は若手同士、もっと!!今回もよかったですが、もっとね、感情出してバチバチやってほしいです。やっぱりヤングライオンの試合はエキサイティングでいいですね。おもしろかったです。
第2試合 20分1本勝負
タイガーマスク、ジェフ・コブ、獣神サンダー・ライガーvs金丸義信、タイチ、ランス・アーチャー
これはまずアーチャーですね。このシリーズから見た目も戦い方もちょっと変えたようですが・・・個人的にですけどね、ボクは前の方が好きでしたねぇ。なんかアーチャーの一番いいところだった、とっぽさ、ワルさがなくなっちゃった気がしました。個人的にはちょっと残念でした。
ジェフ・コブは、以前も書いたかもしれませんが、もったいないですね。こんなすごいのになぁ・・・このレスラーに必要なのはちょっとの欲とライバルだけですよ。このまま終わってほしくないんですが、うーん、どうかなぁ~。
第3試合 20分1本勝負
SHO、YOH、ウィル・オスプレイvs石森太二、チェーズ・オーエンズ、高橋裕二郎
これはですね、試合よりもですね、裕二郎の連れてくる女性ですね。今回の格好はいかがなもんなのかなぁ?以前、アーチャーがリングサイドの子供を泣かせて会社側からですね、やらないようにと言われたなんて話を聞いたことありましたけど、なら、これはいいんでしょうか?子供に与える影響ってことなら話は一緒じゃないんですかね?というか、もうこんなつまんない入場やらなくていいんじゃないですかねぇ?今の新日本に必要ないと思うんですけどねぇ・・・
第4試合 20分1本勝負
トーア・ヘナーレ、ジュース・ロビンソンvs海野翔太、ジョン・モクスリー
これはジョン・モクスリーですね。2016年の7月ですか、ボクWWEの両国を観に行ったんですが、そのときのWWE王者が当時ディーン・アンブローズだったジョン・モクスリーだったんですね。この頃は三世と一緒にWWEをテレビでも少々観てたので知ってたんですが、どーもですね、当時このレスラーにおもしろ味を感じることができなくて、なぜこんなレスラーがWWEのトップなのか不思議だったんですね。
で、それ以来は見てなくて今回なんですが、驚きましたね。シリーズ通して見てたら、これは同じレスラーなのか!?というくらい別人に感じました。まず、これは三世とも話していたのですが、モクスリー、WWEではやや小柄に見えてたんですよ。しかし新日本に来たら、あれ!?って感じになりましたね。そう、でかいんですよ。WWEでは周囲のレスラーがでかいんで大きく感じられなかったんですね。実際は、こんな大きさがあるレスラーだったんだなぁ~としみじみ感じました。あとファイトですね。こんなアグレッシブに攻める印象がなかったレスラーだったので、これもちょっと驚きました。
さて、今回ファンは、WWE時代のモクスリーを知らない人がほとんどだったわけですよね。そんな中でモクスリーをシリーズ通して見てきたわけですよ。で、最終戦だったのですが、そこにきてモクスリーの試合でファンはおとなしかったんですね。ということは、日本のファンが興味を持てるレスラーには、まだなっていないということなんですよ。今回は元WWEというブランドもありましたが、今後も日本でやるのであれば、もうひとつほしいかなと、ちょっと思いました。ストーリーも大事ですが、やっぱり日本では試合内容になると思います。モクスリーに期待です。
第5試合 30分1本勝負
田口隆祐、本間朋晃、矢野通、真壁刀義、後藤洋央紀 vsBUSHI、鷹木信悟、SANADA、“キング・オブ・ダークネス”EVIL、内藤哲也
今年の4月、平成最後の親子観戦でも書きましたが、ボクは鷹木信悟、新日本に登場してからというもの、どんなレスラーなのかわりませんでした。ドラゴンゲート、大日本、全日本での活躍は知らず・・・昨年の10月8日、新日本の両国に登場してからしかボクは知りませんでした。そして、現在の新日本には、そういうファンがボクの他にもたくさんいると、そういう新たに知ったファンに、新日本に登場以来、何を見せたのか?とも書きました。
で、今回です。G1、魅せましたね!!新たに知ったファンに、これ以上ないほど知ってもらえ、また今後が見たいと思われる存在になったと思いました。特に後藤との戦い、最高にエキサイティングでした。やりますね!!かっこよかった~。ちょっと好きになりましたよ。今後、いろんなレスラーとの絡みが楽しみになりました。
そして、その後藤です。体が見ちがえましたね!!いいですね。かなり絞られ見ちがえりました。動きもいいですね~。こちらもちょっと好きになっちゃいました。ふたりの対決、今後も楽しみです。
第6試合 30分1本勝負
KENTA、YOSHI-HASHI、石井智宏vsタンガ・ロア、タマ・トンガ、バッドラック・ファレ
これはですね、KENTAの裏切りの中で孤軍奮闘する石井がよかったですね~。石井の、ヤロォー!!という男気がいいんですよ。これは石井だからいいんですよね~。歓声もすごかったです。
そして柴田ですね。これは、いやぁ~寒気と同時にカーッと熱くなりましたね。柴田がリングで動いている・・・そのシーンに体が自然に反応していました。しかし必須るは、なんと言ってもあの出てきたときの歓声ですよ。武道館が一瞬にして膨張し、バーンと破裂するんじゃないかと本気で思いました。とにかく異常でした。内藤登場やメインの試合じゃなく、柴田の来たこの瞬間が、この日一番歓声でしたね。
KENTAのBULLET CLUB入りはおおいに賛成ですね。最近ユニットの意味や存在価値がよくわからない状態になってきてるんで、ぐちゃぐちゃにするくらいに好き勝手やって、暴れてもらって、刺激を与える存在になってほしいですね。
第7試合 30分1本勝負
棚橋弘至、オカダ・カズチカvsザック・セイバーJr、鈴木 みのる
さて、ここで三世スイッチオン!!受験生ストレスも手伝って久しぶりの生オカダに狂喜乱舞です。
しかしながら今回は完全に鈴木の試合でしたね~。結果には三世もがっかりしつつ、しかし鈴木のマイクには
「鈴木も好きだし、正論だけになにも言えないなぁ・・・」
と消沈です。確かにこれは、そうですね~。正論にして、あの武道館の観客の気持ちを全部自信に乗せてしまう鈴木のすごさですね。完全に空間を支配してました。やっぱりすごいレスラーですね~。
いやぁ~それにしてもこれ、この鈴木のIWGPへの絡み方はよかったですね。NEW JAPAN CUP優勝、準優勝。G1でIWGP王者に勝ったレスラー。それも確かに挑戦者としていいのかもしれませんが、やはりこういう予想外で奇想天外のも必要ですよね。新鮮で刺激的でいいと思いました。
一方、対戦相手だった棚橋、オカダのタッグですが、これには前から言いたかったことがありまして・・・今回はこの機会に、ちょっと言わせていただきますね。
ふたりは昨年末からタッグ組むようになりましたが、納得いかないのは試合後のふたりの姿なんですよ。勝ったときはいいんですけど、負けたときの姿なんですよ。今回もそうでしたが、これまでもどうでしたか?負け試合は、伸されて動けない、どっか痛くて動けない。ありませんでしたか?そして、これかあまりに印象に残ってしまってませんか?
これは棚橋、オカダのタッグではやっちゃいけないことなんですよ。ふたりのタッグは今の新日本を象徴するレスラーのチームなわけですし現と元の王者のチームなんですよ。だから常に強さと貫禄を持ってなきゃいけないんですよ。だから負け試合、フラフラであっても立っているのがキツくても、そういう姿を見せてはいけないんですよ。ロープに寄りかかってようが片ヒザをマットに着いてようが、体は起き上がってないと・・・他のレスラーはまだしも棚橋、オカダは最後は立ってないとダメなんですよ。特にオカダはです。いくらタッグだからって、試合後に伸びてる王者に、ファンがいつまでも共感できると思いますか?いつも王者は王者らしくあってほしい。そう強く思います。
第8試合 G1 CLIMAX 29 優勝決定戦 時間無制限1本勝負
飯伏幸太vsジェイ・ホワイト
実は前日、前々日と決勝進出者が決まっていった過程の我が家は失意に溢れていました。どうしても期待できない思いがあったからです。
ボク個人としては、決勝に行くんじゃないか?と予想されるレスラーの決勝進出より、まったく予想つかないような意外なレスラーの決勝進出に期待していたので、このカードに決まったときは正直、なんだかなぁ・・・という感じでした。しかし始まったら、まず入場から、おお!!これはいいなぁ~と引き込まれましたね。おもしろかったです。試合も久しぶりに楽しく見れた内容でした。
以前、観戦記でも書いたんですが、飯伏というレスラーは試合の良し悪しが相手によって左右されるところがある、と思うんですよ。よさを引き出す相手やテンポよく攻めてくる相手だと素晴らしい動きが発揮され、試合をして光るんですね。
今回は試合はジェイが作ってましたね。7割はジェイが作り、そこに飯伏が入っていって、このコントラストが見事だったと思いました。互いにマッチし、いい色合いで光りましたね。これは素晴らしかったです。
久々に、まっさらな気持ちで楽しめた試合でした
ただ、細かいことかもしれませんが、残念なところもありました。今回、前日に飯伏はジェイに足を攻撃され痛めたわけですよ。で、決勝でもです。しかし、これがまったく生かされていませんでした。いろいろあるんで遠回しな言い方になっちゃいますが、試合でもジェイは足への攻撃を軸に試合をしていたわけなんですよ。痛めているからと大きくも攻めましたし、自分が攻められてるときに流れを変えるため泣き所をつく、そういう攻めもしました。なので、飯伏はもう少しここを生かしてもよかったんじゃないかなと・・・ちょっと思いました。
三世も、今年の決勝はおもしろかったと満足そうでしたがフィニッシュのカミゴエ、2回やってダメなら3回目に行くんじゃなく、あそこは最後フェニックスで決めるべきだったとの意見でした。なるほど。カミゴエが返された。だからさらにカミゴエ!!でなく、カミゴエが返された。なら最後はこれだ!!というフェニックス!!がよかったんじゃないかということか・・・読むようになったな。おれにはそんなこと、思いつかなかったよ。やはり現在のプロレスへの思考は一枚も二枚も上だなぁ~。
冒頭でも触れましたが今年は三世は受験生。ということで本年の観戦は一応これで最後となります。では次回、東京ドームで・・・
最後までありがとうございました。
↧
↧
ミスタープロレス ハーリー・レイス追悼
どうも!!流星仮面二世です!!
さて、今回はですね、ちょっと遅くなってしまいましたが2019年8月1日、肺がんのため76歳で亡くなりましたミスタープロレス、ハーリー・レイスの追悼をしたく、みなさんと振り返っていこうという所存でございます。
ハーリー・レイス・・・思い出がたくさんありますね~。
小学生の低学年の頃は、ボクは学校だけじゃなく家でもよくプロレスのモノマネをしていました。そのとき得意だったのが「フォールをカウント2で返し上半身を起こしたときの天龍の首の角度」と「試合途中から始まるレイスの呼吸音」でした。
中でもレイスのモノマネは得意でした。家族の前でジャッシェアシェアシェア、ジャッシェアシェアシェア・・・とやると父親も母親や祖母も、みんな喜んでくれたので、まだ小さかったボクはそれは喜んでやっていました。やがて、家族でプロレスを見ていて、レイスのそれが出たなら
「おっ。ジャッシェアシェアシェアが始まっては、強いど~」
となるようになり、レイスの試合は我が家の茶の間で盛り上がるようになったのでした。
しかしこんな状況とは逆に、小学生時代のレイスはボクにとっては伝説的でした。当時はレスラーには珍しかった入れ墨。しかもその入れ墨の下、左腕にはすごい鉄が入っている。怒らせたら怖くて、アンドレをボディスラムで投げるほどパワーがあって、でも家は100人がパーティーできるほど広い、などなど・・・まだプロレスの知識なんかなかった頃でしたが、レイスが普通のレスラーとはちがうというのは子供だったボクにも伝わってきていたのかもしれないですねぇ・・・
では、あの日あのとき、あのミスタープロレス。振り返っていってみたいと思います。
レイスは1943年4月11日 アメリカのミズーリ州出身。高校を早くに中退し、1958年頃、15歳のときに伝説のレスラー、スタニスラウス・ズビスコの下でプロレス修行に入ります。レイスはズビスコが経営していた農場で仕事もしていたようなので、日本でいうところの押しかけ弟子状態といっていいかもしれませんね。
ここでレスラー修業を積むと、まずサーカスなどで力自慢の素人を相手にするカーニバル・レスラーとしてデビューし力をつけていきます。やがて60年に本格的にプロレスデビューすると着々と自身のスタイル、ポジションを確立しドリー・ファンク・シニアのテキサス州アマリロ、NWAウエスタン・ステーツ地区で活躍するようになると、いうことなんですね。
64年8月からはAWAに参戦。ここでアマリロ時代からの同士であったラリー・ヘニングとタッグを組み活躍し65年1月にはディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーからAWA世界タッグを奪取し抗争を展開、人気となります。
また、この時代には日本から海外武者修行に来ていたトーキョー・トム時代のアントニオ猪木とカンサス州で対決しています。
さて、ベルトの話が出ましたが、シングルでは68年4月、NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を初栄冠。同タイトルは84年10月までに9度、王者になっています。
この初栄冠の2ヶ月前、68年2月にレイスは日本プロレスのダイナミック・シリーズへ初来日しています。シリーズでは日本初登場ながら2月26日、大阪府立体育館でディック・ザ・ブルーザーと組みBI砲の持つインターナショナル・タッグに挑戦しているようですが、ちょっと資料かなく詳しくはわかりませんでした。
2度目の来日は1年9ヵ月ぶりとなる69年11月、NWAシリーズでした。このシリーズでは12月1日、広島県立体育館でドリー・ファンク・ジュニアと組み猪木、吉村の持つアジアタッグに挑戦しています。
ドリーに逆水平を打つ猪木。それをコーナーから見るレイス。もう2度と見ることのできないシーンだ
で、日にちを見ますとこのアジアタッグ戦・・・猪木とドリーの大阪府立体育館でのNWA戦、60分フルタイムの試合ですね。この試合はそのフルタイム戦の前日に行われた試合だったんですね。当日はドリー・ファンクと共にドリーのセコンドについたレイス。この前哨戦を一緒に戦っていた、そんな感じが伝わってきます。
その後、70年11月のインター・チャンピオン・シリーズを経て、日本プロレス最後の来日となった72年2月ダイナミック・シリーズに参戦します。ここでは3月13日、宮城県スポーツセンターで坂口征二の保持していたUNヘビー級王座に挑戦しています。
こんなパワーがあるやつが日本にいたのか!?坂口の猛攻に思わずレイスはこの表情
日本プロレス時代はタッグの選手権こそあれ、シングルでのタイトル戦に恵まれなかったレイスのUN戦でしたが、残念ながらタイトル奪取とはなりませんでした。
しかし7ヶ月後の72年9月16日。ミズーリ州セントルイスで、のちにNWA世界ヘビー級王座への登竜門と言われたミズーリ・ヘビー級王座を奪取します。
調べてみたところミズーリ・ヘビー級はこの72年に新設され、王者決定トーナメントが行われ決勝で勝利したレイスが初代王者となったというのが経緯のようです。そのレイスの決戦の相手ですが、なんと76年に韓国で猪木と戦ったパク・ソンナンだそうで・・・その歴史にはつくづく驚かされてしまいますね。
"ミズーリを制するものは世界を制す"と謳われたミズーリ・ヘビー級の歴史はレイスから始まった
そして73年5月24日。レイスはミズーリ州カンザスシティでドリーファンク・ジュニアを破り世界タイトル初栄冠。第47代のNWA世界ヘビー級王者となります。ドリーはこのとき4年3ヵ月というNWAの歴史の中で最も長い王座保持を継続していたため、王座陥落と共に新王者レイスの名は大変なニュースとなりました。
しかし同年7月20日。テキサス州ヒューストンにてジャック・ブリスコに敗れ、わずか2ヶ月で王座陥落となってしまいます。この日は、のちにレイス・モデルと呼ばれるようになるNWAのベルトの初お披露目となった日でしたが、残念ながらベルトは新王者ブリスコの腰に巻かることとなりました。
試合前に新しいNWAベルトを披露するレイス。向かって右は先のNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級、ミズーリ・ヘビー級の王座を管理していたセントルイス・レスリング・クラブを主宰し、NWAの発足メンバーにして1950年から1975年までに計22年に渡りNWA会長を務めたサム・マソニック氏。NWAを世界最高峰タイトルに育てた立役者だ
NWA初栄冠時は、残念ながら王者として来日できませんでしたが、73年からは全日本プロレスへ参戦。2月にジャイアント・シリーズ、8月にワールド・チャンピオン・シリーズへ参戦し、9月13日には日大講堂で馬場さんの持つPWFヘビー級王座へ挑戦しています。
それから4年後。久しくNWA世界王座から遠ざかっていたレイスでしたが、77年2月6日。カナダのトロントにおいてテリー・ファンクを下して2度目の王座返り咲きを果たしました。
その同年6月、レイスはNWA世界王者として全日本プロレスのNWAチャンピオン・シリーズに来日します。レイスが王者となっての日本での記念すべき最初のNWA世界ヘビー級選手権、第1戦は6月11日世田谷区体育館でのジャンボ鶴田戦でした。60分3本勝負で行われたこの試合は2-1でレイスが勝利しています。
続く第2戦は6月14日、千葉県・松戸市スポーツセンターでの馬場さんとの60分3本勝負でした。試合は馬場さん、レイスとも1本づつ取り1-1から3本目は時間切れ引き分けという激闘となりました。
レイスのダイビング・ヘッドバット。この飛行距離!!
海外では7月15日、カナダのカルガリーでアンドレ・ザ・ジャイアントの挑戦を受けます。レイスはアンドレの圧倒的な攻めで追い込まれてしまいますが、幸運にも反則勝ちを拾い王座防衛となりました。
のちに全米でドル箱カードとなるレイスvsアンドレは、ここから始まった
明けて78年。新春ジャイアント・シリーズに参戦したレイスは1月20日、帯広市総合体育館でジャンボ鶴田とNWA世界ヘビー級選手権を行います。試合は1-1から3本目が時間切れ引き分けとなりレイス防衛となりましたが、その内容が高く評価され、この試合は78年のプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞しています。
また、日本から帰国し、この試合からわずか5日後の1月25日にはフロリダ州のマイアミでWWWFヘビー級王者だったスーパースター・ビリー・グラハムとNWA、WWWFをかけたダブル・タイトルマッチを行っています。
同年12月18日にはニューヨーク、WWWFで行われたMSG定期戦へ出場しNWA世界ヘビー級選手権を行っています。実はマディソンでのNWA世界戦は62年11月に行われたバディ・ロジャースとドリー・ディクソンが戦って以来、このとき16年ぶりに行われた歴史的なものでした。
相手はWWWF、WWFタッグ王座の常連で当時ニューヨーク地区で人気レスラーだったトニー・ガレア。若いガレアはこのチャンスを積極的に攻めますが試合はレイスの横綱相撲。最後は得意のブレーンバスターで8分57秒、体固めに取りマディソンで堂々防衛となりました。
![]()

16年ぶりのマディソンでのNWA世界戦で余裕のアトミック・ドロップを見せるレイス。さすが歴戦の強者だ
さて、ざっと試合を紹介してきていますが、この時代のレイスはNWA世界戦含め、他にもたくさん試合をしています。当時のNWA世界王者というのは自分の家に年間通して何日かしかいれないようなハードスケジュール。特にレイスの場合は77年2月にテリー・ファンクからNWAを奪取し79年8月にダスティ・ローデスに一旦奪われるまでのこの2年半が最も長くタイトルを保持していた時期になり、そしてこの時期が最も多忙な時期でありました。そんな、強敵ばかりを相手に戦ってきた日々がレイスの身体に影響を与えたのか・・・78年のレイスについて、こんな話がありました。
広済堂 豆たぬきの本 プロレス名鑑(1980年)よりハーリー・レイスの項
『78年春、チャンピオンでありながら、レイスは16年目の危機にあっていた。原因不明の腰痛であり、ベッドの中で寝返りが打てないほどの激痛に悩まされていた。
この事実をひたかくしにして、連日のようにチャレンジャーを迎撃していったレイス。歯をくいしばり、油汗を流しての激闘ーーー専門家の目をだますことはできず、まことしやかにその周辺には"限界説"がうずをまいていた。
東洋の鍼灸術、グゴーンのお灸、ぶらさがり健康術、スポーツマッサージ、整体術、ラジウム鉱泉ーーー腰痛がなおるというものは全部取り入れてみたがいずれも数日間の効能しかなく、時間の経過とともにまた痛みはレイスの腰へちゃっかりとカムバックしてきた。
こんなある日、移動する飛行機の中でレイスは"救いの神"にばったりと出会った。プロフットボールチームのトレーナーというその男は、「俺のホテルへ遊びにこいよ。体操を教えてやるぜ。俺の考えた体操は椎間板ヘルニアだって治してしまうんだ」と自信満々いってのけた。
フロリダのホテルでレイスは仰向けにフロアに寝かされた。
「いいか、膝を立て、腹を突き出すようにして腰を浮かし3分間がんばるんだ、アゴを引きつけてーーー」
なんの変哲もないこの秘伝を10日間、のべ時間にして10数時間消化するころからあの激痛はウソのようにうすらいでいった。「5千ドルももらおうか」といったレイスの恩人は「酒と煙草は控えろな」といい残して消えていった。以来レイスは絶好調である(原文まま)』
今、読むと、テレビでよくやってる『人生が変わる1分間の深イイ話』みたいなのに出てきそうなエピソードですが、当時の当人にとっては大問題。ここで治るか治らないかでレスラー人生が大きく変わった、分岐点になった出来事だったと思いました。それにしても名も告げず去っていった恩人は、一体何者だったのでしょうか?不思議な話でもあります。
さて、その後まさしく絶好調となったレイス。79年のスーパー・パワー・シリーズで5月8日、千葉県立体育館では強者ディック・マードックの挑戦を受けます。試合は1-1から時間切れ引き分けとなりましたが試合巧者同士の対決にして双方得意技のブレーンバスター対決と、マニアにはたまらない一戦となりました。
同年10月31日はジャイアント・シリーズに参戦。愛知県体育館で馬場さんとNWAタイトルをかけ対決します。60分1本勝負で行われたこの試合では馬場さんのランニング・ネックブリーカー・ドロップに敗れレイスは王座陥落してしまいました。
このあと11月5日、宮城県串間市体育館でレイスは馬場さんにリベンジマッチを挑みますが20分38秒、体固めに敗れ奪取失敗。しかし2日後の11月7日尼崎市スポーツセンターで20分58秒、執念の勝利。NWA世界ヘビー級の第56代王者に返り咲きました。
この3日後の11月8日、王座奪取の興奮冷め止まない後楽園ホールでは因縁の相手であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと対決。5分7秒、乱戦の両者リングアウトでしたがタイトルはしっかり守りました。
帰国後、翌月となる12月17日はマディソン・スクエア・ガーデンでダスティ・ローデスを相手にNWA世界戦を行います。この試合は当時全日本プロレスのエース外国人であったレイスがワールドプロレスリングに登場するという貴重な試合となりました。
明けて80年は5月27日、秋田県立体育館でタイガー戸口とNWA世界戦。60分3本勝負を2-1で勝利します。しかし4ヵ月後の9月4日、佐賀スポーツセンターで馬場さんとのNWA世界戦60分1本勝負は14分5秒、またしてもランニング・ネックブリーカー・ドロップに敗れ王座陥落となってしまいました。
7ヵ月前と同じ状況になってしまったレイスは再び馬場さんからの王座奪取を狙い6日後の9月10日、滋賀県の大津市皇子が丘体育館でリベンジマッチ。11分58秒、見事フォールを決め第58代王に者返り咲きました。
しかし休むまもなく、2日後の9月12日愛知県の一宮産業体育館でミル・マスカラスと対戦。14分45秒、両者リングアウトで引き分け防衛となりました。帰国後は、マスカラス戦からわずか10日しか経っていない9月22日にはニューヨークに飛び、マディソンで当時WWFヘビー級王者だったボブ・バックランドとNWA、WWFをかけたダブル・タイトルマッチを行っています。
バックランドの本拠地でヘッドバットの洗練だ
このあと、2ヶ月後の11月7日には今度はレイスの本拠地であるミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムで再びダブル・タイトルマッチを行っています。それにしても・・・数日刻みで強者ばかりと連続の世界戦とは驚かされます。NWA世界王者は強いだけではなれない。その理由がヒシヒシと伝わってきます。
さて81年です。この年、レイスは2月15日に後楽園ホールで馬場さんと60分3本勝負にてNWA世界戦を行います。この試合は2-1で馬場さんの勝利となりましたが3本目が反則勝ちだったため、反則を含む勝利のため王座は移動せず。レイスの防衛となりました。しかし、この年の6月にはダスティ・ローデスにタイトルを奪われ、しばらくNWAのベルトから遠ざかってしまうため、これが馬場さん最後のNWA世界戦にして、レイスも馬場さんと行った最後のNWA世界戦となりました。
全日本プロレスに参戦するようになってからは常に王者だったレイスは2度目の参戦となる73年の8月ワールド・チャンピオン・シリーズから、この81年10月のジャイアント・シリーズまで13回連続で特別参加としての来日でした。しかし述べましたように6月にローデスに敗れ丸腰になったことで81年の世界最強タッグは久々のシリーズ・フル参戦が実現。駆け出し時代からのパートナーだったラリー・ヘニングと組み出場することになりました。
しかしその開幕戦、11月日の後楽園ホールでレイスを待っていたのは公式戦でなくブルーザー・ブロディとのシングルでした。海外では何度もNWA世界戦を行いセントルイスでは黄金カードとして人気の対決が日本で初めて実現し期待が高まりますが4分44秒、両者リングアウトで残念な幕切れとなりました。乱闘決戦ではありましたが、ふたりがリング上で見せたドロップキック合戦は見応え十分。また対決が見たいと思える試合でした。
その後、NWAこそ手放せど・・・やはりミスタープロレス。活躍は続きます。82年、まずは4月24日にインディアナ州インディアナポリスで空位となっていたWWA世界ヘビー級王座をボボ・ブラジルを下し手にします。
日本では8月1日に後楽園ホールにてジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を奪取。ニークラッシャーの体勢から後方へ投げるレイス独特のバックドロップで勝利しました。
さらに10月26日には帯広市総合体育館にて馬場さんからPWFヘビー級王座を奪取と、強さを見せつけます。
この試合は憶えてますね~。レイスってトップロープからダイビング・ヘッドバットやる前って、首をこう傾けて、角度をつけて一度相手を見るんですよね。まるで狙いを定めているようで、これが好きでしたね~。PWFのタイトルは翌年2月11日、あのチェッカー・ドームですね。テレビでも特番でやりました。あの試合でレイスは馬場さんにベルト奪われてしまうわけなんですが、あの会場の空気、フインキですよね。「あ~アメリカのプロレスってこうなんだなぁ」と子供ながらに思った記憶が甦る次第です。
さて、翌83年6月10日。波に乗るレイスはミズーリ州セントルイスにてリック・フレアーを破ってNWA世界ヘビー級王座への通算7度目の戴冠を果たします。
20日後、6月30日にはオハイオ州クリーブランドで強敵スタン・ハンセンの挑戦を退き・・・
10月8日にはミズーリ州セントルイスでハルク・ホーガンの挑戦を受けます。この6月に第1回IWGPに優勝し勢いのあるホーガンでしたが16分23秒、反則勝ちに持っていかれてしまいました。
内容では押していたホーガンだったがインサイドワークではやはりレイスが上だった
そして日本へは同年9月から開幕したジャイアント・シリーズに参戦します。NWA世界王者としては最後の参戦となったこのシリーズでは10月26日、盛岡・岩手県営体育館でジャンボ鶴田と対戦。30分にも及ぶ戦いとなりましたが最後は両者反則となりレイス防衛となりました。
左利きのレイスの、ヒジを上げて打つ独特のパンチが鶴田を苦しめた
そして10月31日。福島・会津体育館でレイスはテッド・デビアスを相手にNWA世界戦を行います。お互い技を出しては主導権を握りあう素晴らしい試合となりましたが、最後はデビアスのスピニング・トーホールドを丸め込み18分6秒、首固めでレイスが勝利しました。
久しぶりにクリーンな結果となった防衛戦に控え室で満足そうなレイス
しかし翌月11月24日にノースカロライナ州グリーンズボロでリック・フレアーに王座を奪われてしまったため、結局この試合がレイスの日本における最後のNWA世界戦となりました。77年6月の鶴田戦から、このデビアス戦まで、レイスが行った日本でのNWA世界戦は、なんと全22戦という歴史に残るものとなりました。
84年、タイトル戦線から一歩引いた形となっていましたが84世界最強タッグリーグ戦に元AWA世界ヘビー級王者のニック・ボックウィンクルと夢のタッグを結成し出場。存在感を見せます。シリーズではハンセン、ブロディ、ファンクスとの対決も注目されましたが、12月1日に盛岡・岩手県営体育館で行われたダイナマイト・キッド、ディビーボーイ・スミスとの公式戦はこれ以上ない夢の対決となりました。
このシリーズに新日本プロレスから電撃移籍したキッド、スミスと最初で最後の対決となった。試合はリングアウトでレイスとニックが勝利した
翌年、85年になるとアメリカは若い世代、新しいプロレスが展開されていき、42歳になっていたレイスもやや勢いに押され気味になっていきました。9月2日、フロリダ州タンパで行われたAWA世界タッグ選手権、スタン・ハンセンと組んでのザ・ロード・ウォリアーズとの対決は、まさにそれを象徴するかのように思えました。
試合ではレイスの持ち味が出せず・・・いいところがないまま終わってしまった
さらに日本でも時代の勢い、波はのし掛かります。86年5月、全日本プロレスのスーパーパワーシリーズに参戦したレイスでしたが、同シリーズは全日本プロレスとジャパンプロレスの激しい攻防が展開されていた真っ只中。参加外国人はザ・ロード・ウォリアーズが途中参加ながらエースとなる構図でした。そんな中での5月24日、レイスはウォリアーズが来る前の静岡・沼津市体育館のメインで鶴田のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦します。
この試合は13分2秒、両者反則で幕を下ろしましたが、あまり大きく取り上げられず・・・おそらくみなさんも、この日の記憶は鶴田vsレイスよりセミファイナルの長州、谷津vsマシン、高野の試合にキラー・カーンが乱入し、谷津にダイビング・ニードロップを決行して谷津が失神したシーンが鮮明だったのではないでしょうか・・・?結局、これがレイスにとって日本で最後のタイトル戦となりました。
その後、同年にWWFに移籍し"キング" ハーリー・レイスとしてリングに上がりますが89年に退団。同年4月、全日本プロレスに3年ぶりに参戦しますが、これが現役レスラーとしては最後の来日となりました。
レイス最後のレスラー姿はダブルショルダーだった
以降、レスラーとしての活動はなくなりWCWでマネージャーとして活躍しましたが95年に交通事故により正式に引退と、なっています。引退後はミズーリ州でWLWという団体を99年に設立し、ジムも設けレスラー育成も行っていたということです。またWLWは日本ではプロレスリング・ノアとパイプがあったようで、WLWからノアへのレスラー参戦も行われていたようです。ジョー樋口の死去後にはGHCの管理委員長も務め、2013年12月7日、有明コロシアムで行われた「GREAT VOYAGE 2013 in Tokyo vol.2〜田上明引退記念大会〜」に久しぶりの来日を果たし、以降、シリーズに帯同。そして2014年1月4日に行われた「バディファイトPresents WRESTLE KINGDOM 8 in 東京ドーム」にて行われましたNWA世界ヘビー級選手権試合の特別立会人として登場しました。
忘れもしません。この日、ボクは15年ぶりの東京ドームでした。プロレスがわからなくなっていて、出てくるレスラーもほとんどわからなくて・・・そんな中、NWA世界ヘビー級選手権が行われると聞いて戸惑っていました。しかしそこに特別立会人としてレイスが姿を現したときのボクのテンションの上がり方と言ったらありませんでした。周りがドン引きしようが、あとからなんか言われようがかまわない。とにかく大声でレイスー!!と何度も叫びました。当時70歳だったレイスが杖を突きながらリングインしたこと、当時のNWAの会長みたいな人に詰め寄りパンチを放ったこと・・・うれしくて、興奮して、またうれしくて・・・今でもはっきり憶えています。あの日、プロレス行って本当によかったと思いました。
ハーリー・レイス。たくさん、本当にたくさんの思い出をもらったなぁ・・・額に落とすニードロップ。ドリル・ア・ホール・パイルドライバー。ダイビング・ヘッドバット。ジャッシェアシェアシェア・・・
そして・・・
バーディカル・スープレックス!!
本当に、ありがとうと伝えたい。ありがとう。ありがとう・・・どうもありがとう!!本当に本当にありがとう!!
どうか安らかに・・・
↧
もう、ぐっちゃぐっちゃ
どうも!!流星仮面二世です!!
そうなんです。ぐっちゃぐっちゃ・・・頭の中が、ようこそここへ~ぐっちゃぐっちゃ 私の青江三奈♪ドゥドゥビドゥビドゥビドゥビドゥバ~状態なんですよ。
仕事のこと、集落のこと、個人的なことなのでここでは書きませんが、いろいろありましてブログに手がつけられなくなりました。そのため、しばらくブログをお休みすることに致しました。
そりゃ短い文章の更新ならできるかもしれませんが、腐っても流星仮面二世。ちょっと他所にはないものをお出しして、読んでくれる人に心から楽しんでもらい、喜んでもらうのが心情です。それに自分自身も納得いくものを仕上げ、見てもらいたい。そんな気持ちがある故に、ボクのブログはひとつできあがるまでに相当な時間がかかってしまうから・・・やっぱり時間が取れません。やりたいんだけど、どうしようもありません・・・
ずっと以前、長くお休みしちゃったことがありましたが、今回も長くなってしまいそうです。ここまでのコメントは少しずつお返ししますので、どうかご容赦ください。
それではみなさん、またいつか・・・
↧
台風被害にあたり
どうも!!お久しぶりです。流星仮面二世です。
ブログお休み中ですが、ご報告として更新します。
さて、連日ニュースでも伝えられておりますように10月12日の台風19号により、ここ茨城県でも甚大な被害が出てしまいました。
つきましては安否を気遣っていただき、たくさんの方からご連絡、お声をかけていただきました。当日、自分の住む地域では停電等はありましたが、復旧も早く、河川の氾濫もなく大事に至らずにすみ、自分も家族も全員無事でした。みなさん、お気遣い本当にありがとうございました。
現在、自分の地域は生活に大きな支障もなく過ごせていますが、わずか数十キロ先では氾濫、浸水、停電、断水が今もまだ続いているところがあります。また、スーパーでは水、パンなどが品薄状態に加え、仕入先の被害から搬送、納品ができない事態も発生しています。職場でも使用品の遅延が出てきており、台風被害がじわじわと身にしみて参ります。その現状には心底、驚きと恐怖を隠せません。
被害に遭われた同県、隣県の皆様には、謹んでお見舞い申し上げます。一日も早く復旧するよう、心よりお祈り申し上げます。
↧
↧
受け継がれし王者の魂~サンライズ編 その1~
どうも!!流星仮面二世です!!
ブログの方、お休みしていましたが、本日よりちょっとずつ、ゆっくりな速度での更新になってしまいますが再開していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
さて、休み明けの今回は11月13日から18日まで埼玉県越谷市のイオンレイクタウンmoriで開催されておりました
「みんなのプロレス展-世界の王道ジャイアント馬場- in イオンレイクタウンmori」
にて14日に行われましたスタン・ハンセンのトークショーの模様をお送りします。響け!!魂のロングホーン!!では、どうぞ!!
それは奇しくも23年目となる結婚記念日の日の10月20日のこと・・・いつもプロレスイベントがあると真っ先に教えてくれるヨンペイさんからのLINEでした。
「お疲れ様ですー(//∇//) 恥ずかしながら茨城と埼玉って近いイメージを持っていますが、実はとんでもないくらい遠いのかな?でありますがこんなのを知りました!」
こ、こいつは・・・!!
今年の1月に東京の渋谷で行われたジャイアント馬場展(受け継がれし王者の魂)と同じ流れを組むイベントじゃないか!!
そういえば夏には北海道でも開催されたんだよなぁ(レガさんのブログより 同時開催『若獅子展』へ行って来ました。)
なるほど。今回は埼玉に上陸というわけか。こいつはすごい!!
しかし続くヨンペイさんの言葉がさらに衝撃を与えました。
「ハンセンにドリーがイオンに来るんですよね!」
は、ハンセン!?ハンセンだってー!!
ですが・・・その画像を見ると11月16日はドリーと小橋のトークショー、17日は大仁田のトークショーとなっており、ハンセンの姿はありません。14日の木曜日はといえば・・・
うむ~、これは・・・
ウエスタンハットにテキサスロングホーン・・・疑いようはありません。でも確信も持てません。だって、ドリーや小橋はちゃんと顔写真が載っているのに、なぜここだけシルエットで、しかも見出しが
"外国人レスラー乱入!"
なんだ?
実はロン・バスなんじゃないか?いや亡くなっているし・・・じゃあボブ・オートン・ジュニア!?あ!ボビー・ダンカンでは!!でも、イオンの広場にボビー・ダンカンが来て知名度的にどうだろう?とふたりでもはや暗中模索・・・うむぅ・・・
しかし開催も間近に迫ったある日。再びヨンペイさんからのLINEでハンセン来場が確定されたことがわかりました。
これぁ~!!
ハンセンが本当に来るかどうか半信半疑だったので急遽有休となりましたが、幸いにも休めることになりました。ということで前日から会場を下調べです。
この日の会場となる埼玉県の越谷市にあるイオンレイクタウンmoriは、我が家からなら高速を使えば1時間ほどで到着するところです。トークショーは19時からということなので、これなら午後からゆっくり行けらぁ~と余裕かましていると、公式サイトにはこんな説明が・・・
整理券!?
ドリーと小橋のトークショー、そして大仁田のトークショーにはない説明文にして、何の、どういう整理券なのか?説明がなくわかりません。ということで主催に電話して聞いてみます。すると、この日のみ座席があり、座れる数が限られているので整理券配布なんだとか・・・こ、こいつは・・・
かつてヨーロッパで最大の大帝国を築いたローマ帝国。その強大さと繁栄から、すべての道はローマに通ずとまで言われた。しかしローマ帝国がそのような存在に至るまでには、実に700年もの長き年月の苦難や道のりがあったのだ。やがて人は、それをこう言い表した。「ローマは1日にして成らず」と・・・
得てして、整理券配布のあるイベントは開始時間にして成らず!!なんですよ!!
いい席、いい場所を取るためには誰よりも早く現地に行き、整理券を確実に手に入れなければならない。イベントの時間が決まっているからって、そこがスタートではないのです。すべては整理券配布からがスタートなんですよ!!すべてのイベントの正真正銘のスタート地点は、ここなんですよんぉぉー!!
ということで当日は気合い満々。朝の4時半に家を出ます。こうして5時半に現地に到着。さすがに一番乗りだろ~と意気揚々にイオンレイクタウンmoriの駐車場入口に入ろうとしますが・・・
閉まってる~♪
仕方なく道路の隅に待機です。やがて6時になると警備員のおじさんが自転車で登場。胸騒ぎのチェーンを開けます。そこへ「おはようございまーす!!車は何時から入れますか?」と元気いっぱい伺うと、なんだこいつは!?と言わんばかりのおじさんは、まさにブロディのように片手にチェーンをジャラジャラと振るわせながら「ああ、もう入れますよ。どうぞ」と言ったが早く、再び自転車で次の入口へと消えていきました。そうか、入れるのね!!こうしてようやく駐車場へイン。これから3時間、開店まで入口で孤独な闘いです。
しかし、このあと7時、8時と時間は経過しますが、おかしい。誰も来ないぞ・・・
駐車場はこの有り様だ
場所は散々確認したし会場となる山の広場に一番近い入口がある駐車場にいるからまちがいはないはずだ。はずなんだが・・・
そして8時半。開店30分ですが、やっぱり人は来ない。これまでプロレスはもちろん、いろいろイベントの整理券取りには並んだが、こんなことは初めてだ。
すると一組のご夫婦がボクのうしろに並びます。整理券ですか?とお声をかけると、そうです、と!!お~うれしいね~!!
ご夫婦は地元ということだったのでいろいろ伺うと、近くにもうひとつ入口があるそうで、そちらにいる人もいるのかも、とのこと。でも入口から会場までの距離はどちらの入口からでも変わらないそうです。
そうかぁ~よかった。それにしても、ご夫婦はかなりゆっくりいらしてましたが・・・すると、なんと今日この11月14日は埼玉県民の日だそうでお休みなんだそうな。そのため地元勢はわりと余裕で並びに来てるんじゃないかと。なるほど、そうだったのか~。イベントはだいたい土日、平日ならやっても金曜日だが、週も真ん中の木曜日にイベントを持ってきたのはそのためだったのか。開催地を軸にする。これは素晴らしい主催の配慮だ(ちなみに茨城県は、その前日の13日が県民の日でした)
その後、このご夫婦とちょっとプロレス談義していると、さすがに並ぶ人も増えてきました。こうしていよいよ開店。自動車ドアが開くと、「行きましょう!!」と声をかけ、まさにハンセンの入場のごとくボクとご夫婦の3人で突っ走ります。会場の作り上、ちがう入口から入ってきた方々に数メートル差で遅れてしましたが、3人とも整理券は最前列をゲットできました。
うぉぉぉぉ~!!
しかし、まだ9時・・・これから19時までの10時間を過ごさなければなりません。まあせっかく来たんだ。イオンは長時間楽しめるとこだし、じっくり行きましょう。
ではプロレス展レポートと参りましょう。全景はこんな感じです。
見事な佇まいですね(画像クリックで大きくなります)
中は渋谷、札幌でも展示されていました馬場さん所縁の品々が並びます。が、渋谷は一室で行われていたのに対し、今回はまったくもってオープンな作りです。360度どこからでも入れ、どこからでも展示物を見ることができます。貴重品がこんなに身近に見れるとは贅沢極まりないです。すごいですね~。
こんな風に通路からひょいと目に入ります(画像クリックすると大きくなります)
展示品には、あのガウンもありました。そして馬場さんのシューズもあります。
シューズにすらオーラがあるなぁ
トロフィーもあります。前回、興奮しすぎて撮り忘れちゃったワールドリーグ戦のトロフィーがあり歓喜。また見れるとは思わなかったのでホントうれしかったです。
何気にこれがふたつ並んでいるのもレアですね
馬場さんの私物もた~くさ~ん。
プッシュアップ台、欲しいなぁ
そしてベルトです。
いいなぁ~
やっぱりここに差し掛かると足が止まり、長時間いちゃいますね。また見れるとはうれしいです。しかし、ああ~一度でいいから手に持ってみたいなぁ・・・いや肩に下げたいな、いや腰に巻いてみたい・・・あああ・・・
続いては大会ポスターです。これですね、ちょっと見てみてどうですか?
何か気づきました?そう、ポスターの会場名が埼玉で行われたものなんですよ。渋谷のときは蔵前とか日大講堂とかだったんですね。で、今年の北海道のは札幌中島のですね、北海道での大会ポスターで、今回は埼玉なんで埼玉県の大会ポスターなんですよね。
ポスターをイベント開催地に合わせる・・・いやぁ~これはポスター自体が貴重品なんで、やろうと思ってもなかなかできませんよ。主催の配慮と努力、そして真心を感じます。感動しました。素晴らしいものをありがとうございました。蛇足になりますが、機会があればぜひ茨城県でもお願いします。
さて、ポスターと並び写真パネルの展示もいろいろなものがありました。そんな中、ボクが一番ツボに入ったのがこれでした。
見事な16文です
これは
とのことでしたが、このパネルで気になったのは馬場さんでなく、実はこのレフリーだったんです。
!?
当時のアメリカマットに日本人のレフリー?しかも見たこともない人物です。これは一体・・・!?
実はこのレフリーは日系二世のウォーリー堤という方で、全日本プロレス旗揚げの際にレフリーとして参加した方なんだそうです。これまでミック博士のサイトでしか見たことがなかった人物でしたので(ミック博士の昭和のプロレス研究室より ウォーリー堤)これは貴重な一枚となりました。
この他にも上腕と握力を測定しレジェンド・レスラーの記録を超えれば景品がもらえる「親父の腕自慢測定」や・・・
小橋の上腕54センチ、エリックの握力130キロを超えれば景品ゲットです(って、こ、超えられるかよぉ!?)
日替わりでレスラーの入場テーマがかかり、入場ができる「入場シーンを体験!」も
ゲートのうしろにボタンがあり、押すと日替わりでレスラーの入場テーマがかかり入場ができます。この日はもちろんハンセンのテーマ、サンライズでした
レッドカーペットを行けばリングがあり、リングインできます
これは見てた感じ、若い世代のご家族なんかが小さいお子さんにやらせて画像撮ったりして、一緒に楽しんでたのが多かったですね。
と、このようなプロレス展でしたが、実のところボクが最も印象的だったのは、このプロレス展があることも知らない普通に買い物に来たお客さんの反応、でした。
若くてお子さま連れのそれは、まず馬場さんの等身大フィギュアに足を止めます。本当にこんな大きい人がいたの?すごい!!と驚きながらも喜んで、たくさんの人が楽しそうにフィギュアと記念撮影していくんです。そして会場を見て帰るんですね。
そして年配の方です。もう定年されたご夫婦や、ひとりで買い物に来た方、孫をつれてきた方。いろいろいらっしゃるんですが、とにかく必ず足を止めます。そして懐かしそうに「あ~馬場かぁ~」「いやぁ~懐かしいなぁ」と、とてもにこやかに見ていくんですよ。これがね~すごくよかったですね~。
会場では馬場さんの試合も見ることができますが、日中は特に年配の方がたくさんいました
ある方は、展示してある昔の大会ポスターを見て係員に何か質問をしていましたが、係員さんも昔のことなのでわからなく、近くにいたボクが思わず反応してお話聞いてしまったのですが、この方はポスターのあるレスラーを指差し「昔よく見ててね、顔を覚えてるんだけど今どうしてるかわかるかな?」と・・・聞けば72歳というこの方は近所に住んでおり、現在はプロレスファンではないのですが買い物に来てみたら展示物があり、懐かしく見ていたということでした。そこから話題は街頭テレビを見に行った話となり、日本プロレスの話、友達と自転車乗り合わせ遠くまでプロレス観戦に行った話なども教えてくれました。とにかく、話すときのそのうれしそうな顔が素敵すぎて、こちらもうれしくなってきました。
現在、プロレス人気は相当回復してきていますし知名度も上がっています。でも、それでもまだ知らない人も大勢います。そんな中での、このプロレス展での人々の反応・・・なんて素晴らしいんだと心から思いました。
プロレスに縁のない人から、もう忘れていたプロレスファンまで・・・惹きつけ、呼び覚ます。馬場さんの力を感じました。
さあ後半、その2はいよいよハンセン登場です。
↧
受け継がれし王者の魂~サンライズ編 その2~
会場では着々と準備が進められています。
司会のユリオカ超特Qさんも到着。こっそり会場を確認します
その頃、朝にお会いしたあのご夫婦の旦那さんと再び遭遇。ハンセンのTシャツを身に纏いやって来た旦那さんは今年の2月19日に両国で行われたオールスター戦(魂の相伝~プロレスの日に、プロレスを見た~)はもちろん、その6日前の2月13日に神奈川県の横浜市にあるハードロックカフェ横浜で行われたハンセンのトークショーにも参加しているほどのハンセン好き。そのときハンセンと一緒に撮った画像も見せてくれました。あ~うらやまし~!!いやぁ~しかし、こういう方と出会えるのは本当にうれしいですね~。
奥様の方は朝は旦那さんのお友達の整理券を取るため一緒に来ていたようで、このあとお友達と合流するとのことでした。その後、お友達も来られ、挨拶するとトークショー開始まで3人でプロレス談義となりました。今日、さっき会ったばかりなのに、もうリミッター解除状態で楽しく話せる・・・いつも思います。プロレスファンで本当によかったと・・・ねぇ~。
こうしていよいよアナウンスがかかり、トークショー開始となりました。オープニングのNTVスポーツテーマに乗り、まずはユリオカ超特Qさん登場。早くも大盛り上がり。初めの挨拶もそこそこに、ノリノリの会場からは「ドラゴーン!!」「藤波っー!!」の声が飛びます。そこでユリオカさん
「馬場さんのね、全日本のとこで恐縮なんですが、お声もかかってるんで・・・」
と、藤波のモノマネに入ります。まずはお家芸、藤波のドラゴンストップからです(レガさんのブログより 宮戸語録 vol.25~ドラゴンストップの彼方に~)
いやぁこれは・・・テレビや動画で見てて、似てるなぁ~と思ってましたが、目の前で生で見たら似てるなんてもんじゃないですよ。このクオリティの高さ!!すごい!!これには会場、割れんばかりの大歓声となりました。
次に、小橋選手を絶賛するも、最後の「あっぱれ!!」しか聞き取れない天龍のモノマネです。これは振りだけで笑ってしまいましたが、やったの見たら笑い通り越して腹痛になりました。
そして続きまして・・・とユリオカさんが言いかけたそのとき、突然サンライズのイントロが!!騒然とする会場。しかしすぐに空気を察知したファンは一斉に、あの「入場シーンを体験!」のゲートに目をやります。開いたそこには・・・
ブルーザー・ブロディと、それから、ジミー・スヌーカがやってきますが、おっとそのうしろに、これは誰でしょうか?ウエスタンハットを被っております、ウエスタンハットを被った大型の男、何やら、どういう選手か、
あ!!スタン・ハンセンだ!!
ついにハンセンが登場です!!ゆっくりと花道を歩きリングインすると、右腕のロングホーンを突き上げて
「ウィー!!」
ああ~目の前でハンセンがウィーしてる!!なんという至極!!
しかもハンセンのうしろからは流智美さんが!!なんと通訳として一緒に来場のようです。こいつはなんて豪華なトークショーなんだぁ~!!
今回、トーク中の撮影は禁止となり、トーク終了後に撮影タイムがあるとのことだったので、じっくりとハンセンの話を聞くことができました。ここからは当日のトークの内容を当時の画像を用いながら振り返ってみます。
まず初来日の頃の思い出を聞かれたハンセン。そこでは馬場さんの思い出が語られ、ビッグフットと繰り返しては、大きな足で16文キックを食らったことが印象的だと語りました。
1975年9月26日から10月30日まで開催されたジャイアント・シリーズに初来日したハンセンはタッグで4度、馬場さんと対決した。画像は10月12日、大阪博記念公園お祭り広場でボビー・ジャガーズと組みアントン・ヘーシンク、馬場さんと対決したときのハンセン。馬場さんと3度目の顔合わせのとき。デビュー2年と8ヵ月のときだ
そしてもうひとつ、馬場さんの技ではジャンピング・クローズラインが印象残っていると話しました。ジャンピング・クローズライン・・・このフレーズにユリオカさんも流さんも一瞬、ん?という表情でしたが、そこはさすがのおふたり。フライング・ネックブリーカー・ドロップのこととすぐに解説を入れてくれました。
実は海外では元来ラリアートという言葉は使われず、首に掛かる技はクローズラインと呼ばれるんですが、本家ハンセンからしても、あの技はジャンプしながらのクローズラインということだったんでしょうね。
ではリング外での馬場さんとはどんな感じでしたか?の質問。もちろん、これはプライベートでのハンセンと馬場さんの話のことだったのですが
「ああ、リング外ではミスターババを机やイスに叩きつけたり引きずり回したりしたよ」
と答え会場を沸かせます。さすが超一流レスラーですなぁ。
続いては、トークショーではよく出てくる"これまで対戦した相手で誰が強かったか?"という質問です。今回は3人上げるとするならば?というもの・・・ハンセンが日本人レスラーで強かったと思ったのは!?
まず最初にハンセンが答えたのは馬場さんでした。
82年2月4日、新日本から移籍後初の馬場さんとのシングルとなった東京体育館のPWFヘビー級選手権は12分39秒、両者反則となったが、この年の年間最高試合を受賞。当時44歳で落ち目と囁かれていた馬場さんが全盛期復活と騒がれるほどの動きを見せ注目され、それを引き出したハンセンも好評価された。その後、シングル、タッグと何度も対決しては名勝負を残した
そして次に名を上げたのが鶴田でした。
テキサスのファンクスの下で修行時代、まさに同じ釜の飯を食ったふたりだったがハンセンの全日本登場後はライバルとして幾度となく対戦した。特にインター、PWF、UNが統一される流れとなった昭和末期から平成初期はアツかった。画像は89年4月18日、大田区体育館でハンセンのPWF、UNと鶴田のインターをかけた王座統一戦で鶴田が勝利し三冠が初めて統一されたときのもの。このときのハンセンの悔しがり方は印象的だった
最後、3人目は天龍でした。
83年発売の"君にも必殺ラリアート"の中でも、戦っていてアレ!?っと思う存在・・・いわゆる隅には置けない、侮れない存在と、早くから天龍の実力を見ていたハンセン。そんなふたりの戦い、天龍革命から龍原砲との戦い、鶴田と同じく三冠が統一される流れとなった一連の戦いは手に汗握るものだった。画像は2000年10月21日、愛知県体育館での三冠ヘビー級トーナメントでの天龍との戦いで生涯最後のラリアートを放った瞬間。まさに魂の一撃だ
では、アメリカでは・・・と問われると、ここで真っ先に名前を上げたのは意外なことにテリー・ファンクでした。
かつてはファンクスの下でプロレスを学んだハンセンにはテリーは日本でいうところの師匠にあたる。しかし全日本登場後は激しい抗争を展開し日本中を盛り上げた。テキサスの化石になれ!!はプロレス史の中でも屈指の名言だ
そして次は、これまた意外だったブルーノ・サンマルチノ。
76年の4月からWWWFへ登場したハンセンは4月26日にMSGでサンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦。ハンセンは当時絶対王者だったサンマルチノの首を折り、レフリーストップに追い込み、その名を世界に知らしめた。画像は6月26日、首の骨折からカムバックしたブルーノとの再戦の舞台となったセンチュリー・シェア・スタジアムでの戦い。8月7日にはMSGで3度目の対決をし、ニューヨーク中を興奮のるつぼに追い込んだ
そして3人目は完全予想外。会場が一番どよめいた、まさかのリック・マーテルでした。
グリーンボーイの時代には幾度と対戦していたハンセンとマーテルだが、85年12月29日、ニュージャージー州のイースト・ルーサーフォード・メドーランズ・アリーナではAWA世界ヘビー級選手権をかけ戦う運命となった。王者マーテルに対し、ハンセンはコーナーへ頭を押し当てながらのボストンクラブ・ホールドを決め27分5秒、執念の勝利を飾り第35代のAWA世界王者となった。ハンセンの思い出の試合のひとつだ
と、このような感じだったのですが、その人選には会場はもちろん司会のユリオカさんも流さんも意外性を隠せない様子でした。そこでユリオカさん、あの~、アンドレなんかは、あれですかね?と問うとハンセン、
「アンドレはフランス人だからね」
とまたも場内を沸かせます。そこでベストバウトの話となり、ユリオカさんが、やっぱり田園コロシアムのアンドレ戦は一番じゃないんですか?我々ファンはみんなそう思ってますよ。ねえ!?と盛り上げます。するとハンセン、テニス・スタジアムだったかテニス・アリーナだったか・・・田園コロシアムをそう言うと、うれしそうな、なつかしそうな表情となりました。やはりこの試合には特別な思いがあるようでした。
もはや説明不要。81年9月23日の田園コロシアムのハンセンvsアンドレはプロレス史上最高の名勝負だ!!
続いて、今度は対戦相手ではなくタッグを組んだ相手、ベストパートナーは?という質問。これにはまったく考える様子もなく即答でブロディと答え、会場は拍手の渦となりました。
大学時代から親友関係にあったふたりはデビュー間もない74年8月にタッグを結成し同年10月にはNWAトライステーツ版USタッグ王者に初栄冠。75年2月にも同王者になっている。76年4月にはハンセンと共にニューヨークなど北東部をサーキットしたが海外でのタッグはその後なかった。82年、ハンセンの全日本プロレス参戦と共にタッグは再結成され世界最強タッグで82年準優勝、83年優勝、84年準優勝の成績を残し同年4月には新設されたPWF世界タッグ選手権の初代王者となった。85年3月にブロディの新日本参戦により日本でのタッグは消滅。同年4月にオーストラリアでタッグを組んだのが最後とされる。画像は83年4月のグランドチャンピオンカーニバルで行われた世界最強タッグ・リマッチにて優勝したときのもの。プロレス史上、最強のタッグチームだった
そして次に上がったのは馬場さんの名前でした。
馬場さんとのタッグは93年、世界最強タッグにパートナーとして参戦していたテッド・デビアスの公式戦2戦目での負傷欠場から急遽誕生したものだった。チームは初タッグながら対角線ホイップからの16文、ラリアートという連携"ジャイアント・コンビネーション"を武器に一気に優勝候補に躍り出てチームは台風の目となり、リーグ終盤戦では川田・田上組、三沢・小橋組相手に連続で引き分けするという大健闘を見せ準優勝となった。94年は3月に武道館で三沢・小橋組とスペシャルマッチで対戦。最後は三沢が馬場さんをフォールするという伝説的試合となった。同年は引き続き世界最強タッグに出場。優勝圏外からは離脱したが最終戦では意地を見せ川田・田上組を撃破し直接優勝を阻止。2年連続で準優勝となった。強い信頼関係で結ばれた素晴らしいチームだった
最後は、しばらく考えてからのテリー・ゴディでした。
83年8月31日、テリー・ファンクの引退試合にてパートナーに抜擢され初タッグ。その後87年の世界最強タッグでチームとなりブロディ・スヌーカ組と対決。重要なポジションで試合を一層盛り上げた。88年7月29日、群馬の高崎で世界タッグ選手権を奪取。同年の世界最強タッグにも出場し優勝。当時のルールにより同日12月16日に世界タッグ選手権王者にも返り咲いた。テリー・ゴディの活躍はハンセンのタッグパートナーに留まらないのは知ってのとおりだが、故に自己管理がもう少しできたレスラーなら・・・悔やまれる
こうしてあっという間にトークタイムが終了し、写真撮影タイムとなりました。
撮影タイムのため立ち上がるハンセン。この立ち方!!かわらないなぁ~
そして一番前に来ました。もうハンセンに手が届きそうです。ここで来場者全員が一斉に撮影となりました。
来た・・・ボクはこの瞬間を待っていました。撮影を!?いえ、みんながスマホをかざすこのときをです!!
そう、みんなが撮影に集中している、スマホにしか意識がいってないこのときこそハンセンに声をかける最大のチャンスだったのです。肉を切らせて骨を断つ。撮影タイムにあえて撮影を捨て、本人に振り向いてもらえるようアピールするのです。そりゃ画像は残せません。でもおれは画像ではなく、記憶に残る思い出の方を取る!!
とはいえ、アピールしたところで気づかれなければそれまでの話・・・これは賭けでもあります。のるかそるか!?さぁー勝負だー!!
ボクはスマホを置き、身を乗り出しながら
「ハンセ~ン!!ハンセ~ン!!」
と両手で手を振りました。すると、みんなが撮影している中、ひとりだけちがうことをしているボクはやはり目についたか、ハンセンは気づいてくれました。ここで満面の笑顔で「ハンセ~ン♪」とさらに声をかけると、ハンセンはニヤリと笑い、ボクだけにあのロングホーンを差しのべてくれたのです。ああ~ハンセンが、おれだけにロングホーンを!!んぉぉー!!
見たか!!これがぁ!!昭和のプロレスファンの生きざまだー!!
でも最後のウィー!!は撮れたよ~!!
最後は馬場さん、ユリオカさんと記念撮影です。
馬場さんを中心に並びました
この間も続く撮影の嵐。ハンセンは終始笑顔で応えます。しかしその最中、ハンセンは急に横を向き、しみじみ馬場さんを見つめ出したのです。
あ・・・
少しすると、また笑顔になり撮影に応えていました。その間、ほんの数秒でしたが、ボクはこのシーンがこの日一番、印象に残りました。本当のところはわかりません。でもボクにはハンセンが馬場さんに「今日はありがとう」と言っているような気がして・・・ならなかったのです。
こうして最後の挨拶とマイクを握ったハンセンは、この翌日に行われる「ザ・デストロイヤー メモリアル・ ナイト〜白覆面の魔王よ永遠に〜」に先立ちデストロイヤーの思い出を語りました。
初来日の日本で、最終戦でデストロイヤーの四の字で負けたことは今となっては名誉だと述べました
そして、この場に来たみなさんに感謝を述べ、ロングホーンで締めました。
こうして大歓声の中、ハンセンは去って行きました。今回はサイン会やツーショットの撮影会などはありませんでしたが、いかにレスラーに近づけるか?という、少年時代のようなときめきを体感できた、ファンの"原点"に戻れた価値のある1日だったなぁと・・・人が去りし会場を見ながらひとり思うのでした。
さあ、おれも帰るかな。満たされた気持ちで、こうして会場をあとにしようとしたそのときでした。目の中に飛び込んできたそれは、まだこの日のプロレスは終わっていよ・・・と、囁くかのようでした。
それはイベント終了後、明日の「ザ・デストロイヤー メモリアル・ ナイト〜白覆面の魔王よ永遠に〜」のチラシをせっせと配るひとりの女性の姿でした。その女性の名は緒方理咲子さん。そう、馬場さんの奥様の元子さんの姉の娘、つまり元子さんの姪です。
2018年12月28日にTBSで放送されました「爆報!THE フライデー~昭和の大スター!禁断の2時間SP~」で、ご覧になった方も多いと思います。緒方さんは若くから馬場さん夫婦の子供のように共に過ごし、晩年の元子さんの看病をし最期を看取った方にして、馬場さん亡きあと馬場さんの意思を引き継いだ、その元子さんの意思を最も受け継いだ方なんです。今年2月の馬場さん没後20年追善興行や東京、北海道、埼玉と展開されてきました、このプロレス展の運営の中心となった人です。まさにこの人なしでは・・・という、あまりにも大きな存在でした。
お声をかけ、記念撮影を一緒にしていただいてもよろしいですか?と伺うと
「え!?私ですか!?だって私、有名人でもなんでもないですよ~」
と・・・いえいえ!!そんな~!!ゼヒお願いしますっ!!というと、そうですか~と記念撮影に応じてくれました。
いやぁ~うれしいですね~
↧
バベルの塔は崩れない
どうも!!流星仮面二世です!!
さて、12月1日、幼馴染みの流星仮面2号のご好意で、2号のプロレス仲間との忘年会兼お食事会に参加させていただきました。今回はその模様をお送りいたします。
ということで当日、2号宅に集合です。着くと、さっそくのお出迎えは小学3年生にして昭和のプロレスを熟知する、動く金剛力士、甦ったディオスクロイとも言われるご存知、M・Tマシーンズです。
挨拶もそこそこに、マシーンズが昭和のプロレスを話しながらさっそく取り出したのは、なんとプロレススーパースター列伝の単行本です。これは再販の文庫本サイズなんですが、幻のカール・ゴッチ編が収録されているという優れものです。今からM・Tマシーンズ、このスーパースター列伝でクイズ合戦やろうじゃないかと。おお~それは楽しみだ。おじちゃんは少年サンデーでリアルタイムで読んでいて、当時モノの単行本を今でも持っているんだよ~。はたして勝てるかな~?
「ブラック・タイガーの正体は?」
や・・・やつの正体は、ほぼ、まちがいなくマーク・ロッカ!恐怖のイナヅマ男でなくては、あのプランチャーはかわせん・・・
「指を第一関節から曲げることのできるレスラーは?」
自慢ではないが・・・日本人レスラーでもこれのできるのはカブキ、タイガーマスク、わたしの3人のみ!アントニオ猪木(談)
「じゃあ猪木がハワイに行ったとき豊登が予約しておいたホテルの名前は?」
パコダ・ホテル?ハテ、力道山先生時代から日本のレスラーがハワイへくると泊まる、いつものホテルとちがうな?
というかマシーンズ、ふたりそろって代わる代わる次々と、なんというレベルだッ!!まさに地獄のバケツリレーか、はたまた顔面ゲシュタルト崩壊か!!
その他にも、このマニアックにしてハイレベルのスーパースター列伝クイズの出題は続きましたが、よーし。これだけの知識があるなら今度はおれからスーパースター列伝クイズを出そうじゃないか。
じゃあまず~リック・フレアーがヒザにサポーターした理由は?なんてのはどうだ?
「足を長く見せるため」
うぬぅアッサリと・・・じゃあカブキの毒霧の成分は?
「13種の毒草、毒キノコ」
ガッデーム・・・じ、じゃあブッチャーの空手の師匠は
「ガマ・オテナ!!」
ですが、ではガマ・オテナの一番弟子のカブキの師匠の名前はなぁーに!?
「う~ん、うーん・・・」
ふっふっふ、これはさすがに・・・
「ウォン・チュン・キム!?」
わ、わかんのか・・・
しかしマシーンズの恐怖はこれだけでは終わりませんでした。プロレススーパースター列伝が落ち着くと、おもむろに取り出した本はプロレスではなくカンフー映画大全集。そしてジャッキーチェンの大福星やポリスストーリー2 九龍の眼の特集本です。こ、これは・・・!?
「いやぁ~最近はカンフー映画にはまっててね~。ジャッキーチェンとか好きなんだよ。昭和が止まらなくて・・・」
と2号。な、なんという・・・
ここを長く読んでいる方ならボクにとっての神様がブルース・リーであることはご承知かと思います(ブログ開始した日もブルース・リーの誕生日ですしね)
そんな流れで・・・自分で言うのもなんですが、ブルース・リーを長く追いかけるあまり身に付いたボクのカンフー映画に関する知識はかなりのものなんです。そんな気持ちもあったので「マシーンズ、カンフー映画好きなのか~。でもまだ酔拳や蛇拳あたりを見て好きっていうくらいだろうな。どれ、おじさんがお話聞いてあげようかね~」と話し出すと・・・
「ゴールデンハーベストのカンフー映画はロー・ウェイ監督じゃなくて、レイモンド・チョウ体制の方がね・・・」
「ジミー・ウォングの片腕ドラゴンはね・・・」
「新死亡遊戯7人のカンフーは実は死亡遊戯より公開が早くて・・・」
「ブルース・リャンはね、倉田保昭とね・・・」
「ユン・ワーはサイクロンZでね・・・」
「ハンサムはチャールズ・チンだよ。今、言ってるのはリチャード・ンの方で念力・・・」
お、おいおいおい!!
ドラゴン怒りの鉄拳でブルース・リーとノラ・ミャオがキスシーンしてるとき監督のくせにドッグレースの中継を聞いてた、いい加減で有名なロー・ウェイに、なぜか片腕役が得意で本当に黒社会の人間だったっていうジミー・ウォングに、本家の死亡遊戯ではブルース・リーの代役は断ったホー・チョンドーが出演して、びっくり人間みたいなのと次々戦った新死亡遊戯7人のカンフーに、帰ってきたドラゴンや無敵のゴッドファーザー・ドラゴン世界を征くで追いかけ合いながら倉田保昭と戦ったブルース・リャンに、燃えよドラゴンでブルース・リーの代役でボブ・ウォールにバク転蹴りしてる人だけど実はシー・キエン(ミスター・ハンね)が投げたリンゴにベティ・チュンがフッてナイフ飛ばして、刺さったそれもキャッチしてるユン・ワーか!!
そしてトドメが、リチャード・ン!!
おれ!?
そういうレベルなのか!?うぬぬ・・・ぬぅ~!!
プロレスとちがいマニア人口が少ないこのジャンルでは、ボクはこれまでリミッター解除して話せたことがありませんでした。しかし今日、リミッターどころか本気を出さないと渡り合えない事態になるとは・・・まさに恐るべしはマシーンズ!!
でも、こうして話せる相手ができたのはうれしいですなぁ。お父さんお母さん、お子さんたち、いい子に育ってますね~♪昭和プロレス、カンフー映画。ね~。ん!?プロレス、カンフー・・・!?あれこれもしかして、流れ的に次は極真か・・・!?
まあ、こうしてプロレス、カンフー映画の話をしながら車、電車を乗り継ぎ待ち合わせ場所に到着です。本日会場となるのは東京、北千住にある居酒屋と焼肉の甘太郎というお店。東京なんですが、室内かすごい広くて大所帯でもゆっくりできそうなところです。
そんな会場に今日いらっしゃる2号のプロレス仲間は、元々は2号のお仕事上でのお付き合いのある間柄の方々だったそうですが、ふとしたことからお互いをプロレスファンと知り、以来2号とプロレス観戦に行ったり、こうして集まり交流するようになった方々なんですね。プロレスに関しては、もちろんハイレベル。ボクもかつてお世話になったみなさんです。ご紹介します。
まずボクが開運!なんでも鑑定団に出演したとき応援に来てくれた、当時流星仮面1号の名で紹介しました藤波の大ファンのMさんです。現在はボディビルダーとして広く活動しているというMさん。その様から、ひとり筋肉放浪記、筋肉の木下大サーカスと言われてやみませんが、あの87年11月19日、後楽園ホールでの前田の長州顔面蹴撃事件や89年10月13日、後楽園ホールで暴動寸前となった橋本、斎藤vs長州、蝶野戦など数々の歴史的現場に居合わせた生き証人にして、必須るは2004年3月14日、スティーブ・ウィリアムスvsアレクセイ・イグナショフ戦。そのプロレスの惨敗模様に「あれはストップが早すぎる。レフリーがジョー樋口ならウィリアムスが勝っていた」とGKに直訴したという武勇伝を持つアツきプロレスファンです。今回は奥様もご一緒します。
そして、同じく開運!なんでも鑑定団のとき応援に来てくれた、当時流星仮面3号の名でご紹介したSさんです。プロレスファンなら必ず通る道なのが過去の試合の視聴ですが、その中にあって我々が最もお世話になったビデオこそビデオ・パック・ニッポンではなかったでしょうか?実はSさんは、そのビデオ・パック・ニッポンで、かつてプロレスのビデオを制作していたという、いわば我々ファンにとっては神様的存在な人なんです。現在でもBS、CSのプロレス放送のチェックを外さないのはもちろん、当時モノを含め2000強のプロレス映像を所有するという、まさに映像という名のマゼラン星雲をプロレスというハッブル宇宙望遠鏡で観測するといった佇まいの方なんです。
続いては初対面となりますGさんです。Gさんは書籍の企画編集、チラシやパンフレットの制作などを行う出版社の女社長さんにして、自らも編集、ライター業を行うというすごい方です。その手腕から、編集業界のマクドナルド兄弟、ひとりマイクロソフト社の異名を取りますが、プロレスに関してはこれまたすごいファン歴で、あの77年12月15日に蔵前国技館で行われた世界オープン・タッグ選手権の最終戦、歴史的名勝負となったザ・ファンクスvs ブッチャー、シークを見てドリー・ファンク・ジュニアの大ファンになり、以来ドリーの追っかけをしていたという純度100パーセントのザ・グレート・テキサンなのであります。現在、会場には多くの女性プロレスファンが見え、それこそ会場、ネット上とレスラーを追いかけるシーンが当たり前になったのはみなさんご承知のところだと思いますが、ファンクスはそういった女性ファンがプロレス界に現れた、いわゆる発祥となったところです。Gさんはまさに女性プロレスファンの"祖"とも言うべき方なんですね。
ここに幼馴染みの流星仮面2号、M・Tマシーンズ、そして今回は2号の奥様でM・Tマシーンズのお母さんのYさんも加わり、忘年会兼お食事会、開始です。
まずはMさんとSさんとは、ボクとはなんでも鑑定団のときは・・・というご挨拶からお互い始まりました。Mさんとは2015年の1.4の東京ドームでお会いしたのですが、そのときはほどんど話せなかったので、おふたりとは2014年3月の鑑定団以来の顔合わせという形になりました。
あのときはみんなでマスクド・スーパースターのマスク被ってプロレスファンのノリを発揮したら制作側に注意されたり、いいとこカットされたりしちゃったんですよね~と盛り上がります。気さくに話してますがMさんとSさん、そして幼馴染の2号はプロレスファンとしてのレベルはもちろんすごいんですが、その職種、経歴もすごかったので、あのときは大勢の援軍が後ろにいてくれているような、そんな気分だったなぁ~と話しながら思いに浸っていると、あのときの鑑定団、見ていました~とGさんがお話かけてくれました。
そう、Gさん・・・実はこの日、最も気になる存在の方でありました。というのも昔から、ボクにはファンクスのリアルタイムの女性ファンに会ったら、どうしても聞きたいことがあったからです。初対面のファーストコンタクトにも関わらず、その衝動が抑えきれず・・・我慢できず、いきなり聞いてしまいました。
「あの~・・・やっぱり入場ではスピニング・トーホールドでチア・ガール隊の踊り、やったんですか?」
あはは~と笑ったあと、Gさんは私はやりませんでしたよ~と笑顔で返してくれました。しかし、当時あのテリー人気絶頂の中、なぜGさんはドリーに行ったんですか?と続けて問うと、みんなテリーに走ったが、自分はあの渋みというか味わいに惹かれドリーだったと教えてくれました。ファン全盛期にはドリーが宿泊しているホテルに行き、同じエレベーターに乗り「ここにさっきまでドリーが乗っていたのね~」と歓喜を上げたりしていたという思い出話もしてくれました。アツい!!こういう話、大好きなんですよ。いいですね~。倉持アナ風に言えば、ドリーのがんばり、ドリーのがんばり、もう涙が出ます!!状態です。ということで独断小僧さん直伝のドリーのコールのときのモノマネをお礼に披露しておきましたよ~。
その後、2号が前もってMさん、Sさんに話してたあの話題にテーマが移りました。そう、ボクとレガさんが調査している新日本プロレスのザ・スコアーオープニングの話です。
レガさんのブログより
まずUWFの会場使用の方ですが、Mさんは89年の1月の武道館から、UWFをほぼ毎大会、観戦していたということで期待が高まりましたが、残念ながら音楽的な記憶が定かでなく、これは謎となりました。しかし当時UWFの興行にはハウンドドックの関係者も多く関わっており、その中に知り合いがいるらしいMさんは、そのルートで調べられれば・・・ということでした。いやぁ~期待度が高まりますな~。
そして新日本のオープニングにザ・スコアーが使われた時期ですが・・・レガさんが突き止める寸前まで迫りながら、映像再生不能により無念の中で弾き出された「89年2月末から4月29日」という期間でしたが、ここでSさん
「(その期間のワールドプロレスリングを録画さしたものなら)あるはずだなぁ」
あ、あるのかぁー!!これはすごい!!
ということで現在、調査中です。ザ・スコアーの謎、判明の日は近そうです!!
このあとSさんのオフレコのビデオ・パック・ニッポン裏話を軸にプロレス談義は進みます。あまり内容は言えませんが、たとえばどのビデオが売れたとか、どんな風にシリーズができたかとか、団体と制作側とのマル秘話など・・・聞けばきくほど、おれらが見てたプロレスビデオには、そんな歴史があったのか~と唸るばかりのお話でした。
こうして話もひと区切り。お腹もほどよくいっぱいになると、鳴りを潜めていたマシーンズが満を持して登場です。このお食事会では毎回、マシーンズがプロレスのクイズを出し、みんなで答えるのが恒例行事なんだそうな・・・これはおもしろそうだ。よーぉし。今日はおれも参戦するぜ~。
M.Tマシーンズ・クイズ。覚えているのを書いていってみます。答えは書きませんので、みなさんもやってみてくださいね。さぁ何問、答えられるかな~?
「グレート東郷がプロレスに残した言葉(名セリフ)は?」
簡単なのから・・・って出してきましたが、さっそくなかなかのレベルじゃないすか?
「ルー・テーズ、カール・ゴッチの本名は?」
うむ~、これはハイレベルだ。テーズは答えられなかった~。
「日本人レスラーでベニー・ユキーデの弟子だったことのあるレスラーは?」
答えよりも、この年齢でベニー・ユキーデを知ってるのがすごいと思いました。
「ザ・バンビートの正体は?」
このマスク、かっこよかったね~。ちなみに現場では、知っていたのにド忘れしてしまったSさんが大苦戦でした。
「ザ・コブラの使ったスープレックスは?」
タイガー・スープレックス・ホールドの別の呼び名です。今はこの名称、言わなくなっちゃいましたね。
「プロレススーパースター列伝のマスカラス編で、マスカラスが覆面剥ぎマッチで倒したマスクマン、ミスターMの正体は?」
これは列伝本編でも名前こそ出れど顔が描かれていないという難問です。一度だけこのブログでもそのコマを出したことあります。わかるかな~?
「古舘さんがテレ朝を退社しフリーになったことを伝える当時の週刊プロレスの記事中で、古舘さんは猪木さんに何をしていた?」
ピンポイントすぎる問題ですが、なんとなく想像もつくと思います。ヒントは技です。でも珍しいといえば珍しいシーンです。
「力道山のデビュー戦の相手は?」
ボビー・ブランズではなく、海外のデビュー戦の相手だそうです。マシーンズ、やるね~。
「力道山が一番好きだった食べ物は?」
答えはシンプルですが、あまり知られていないので難しいですね。ちなみにタピオカではありません。
「ミスターXの正体は?」
と、言われてもミスターXは何人かいるんだよなぁ・・・と、みんなで同じリアクション。とりあえず一番有名な方を答えれば正解です。
ここまでは大人たちも総力結集。誰かは答えられていましたが、この日、とうとう誰ひとり答えられなかった問題がありました。それがこれです。
「ジャイアント馬場が生涯ただ一度だけ行った金網デスマッチはジョン・トロスと組んだタッグででしたが、その対戦相手はマサ斎藤と、誰?」
どうですか~。みなさんは何問わかりましたか?それにしても、再三再四言っていますが、問題を出しているのは小学3年生ですよ。つくづく、すごいことですね。
こうして楽しいひとときもあっという間に終り、時間となりました。短い時間でしたが、心から楽しめました。2号、誘ってくれてありがとう。今回また、みんなでゆっくり会いしましょう!!
それにしても・・・最年少から最年長まで、50歳以上の年齢差があった今回の集まりだったけど、そこをまったく感じることなく自然に話せたのは、やっぱりすごいことだと改めて思いました。
プロレスファンにおいて"プロレス"というジャンルは、ひとつしかありません。しかし、それは戦前だったり昭和だったり平成だったり・・・そう、日本のが好きな人もいれば、アメリカ、メキシコなど海外のが得意な人もいます。女子プロレス通もいるし、メジャー好き、インディ好きもいるし、団体を問わずひとりのレスラーを追いかける人もいます。技術系、格闘技系、エンターテイメント系、テーマ曲、マスク、本や映像・・・いろんなファンがいます。ひとつの世界なのに、いろんな世界が存在する、ひとりひとりがそれぞれの"世界"を持っている類稀なる世界なんです。
ノアの洪水の後、すべて同じ言葉を話していた人間。技術を進歩させていった人間は石をレンガへ、漆喰をアスファルトへと変えていった。傲慢になっていった人間は、やがて天まで届くような塔のある町を建てようとした。それを見た神は心配し、怒り、人間の言葉を混乱させ、通じなくなることでその手を止めさせた・・・旧約聖書の創世記に出てきたバベルの塔は、気持ちが高ぶり、侮り見下した人間に神が行った行為でした。
バベルで神は人々を分けた。でも、プロレスはひとつになれる世界となった。
だから・・・いろんな話ができたんじゃないかな?プロレスでバベルの塔は壊れない。多種多様、多彩にして無限の可能性を秘める世界か・・・自分は、素晴らしい世界に辿り着けることができたんだな・・・本当に、よかった・・・
本年はこれが最後の更新になります。1年間ありがとうございました。まだまだ本格的更新とは行きませんが、来年もよろしくお願いします!!よいお年を!!
↧
新時代へのパスポート
どうも!!流星仮面二世です!!
遅くなってしまいましたが、皆様あけましておめでとうございます!!本年もよろしくお願いいたします!!
というわけで1発目は恒例のこちら。2020年、1月5日の方になります
「バンドリ!Presents WRESTLE KINGDOM 14 in 東京ドーム」
行ってまいりましたので、その模様をお送りいたします。
というわけで久々のプロレス観戦。東京ドームでございます!!
来ましたよ~
今回はですね、三世と三世の親友の、おなじみ平成のレネ・グレイこと81くんとの観戦です。
まずですね、受験生ですよ。そう、早いもので三世も81くんも今年は受験生なんですよ。年が明けて、もう最終追い込みです。この時期プロレス観戦、普通は行けないんですが、そこをお正月だからとなんとか1日と、こう交渉したのが昨年の2019年の1.4の前日ですよ。来年は受験生だけど、1日くらい息抜きいいでしょ~?お願いしますよ~と話して、この日は行けるようになったわけなんですね。
でもフタを開けてみたら、まさかの2Daysというですねぇ~。通常なら2日間とも連れてってやれるんですが、これはねぇ・・・なんでこんなときに限って2日間もやるんでしょうかねぇ~もう。
で、まあウチの事情はさておき、その賛否両論、議論百出な今回の2Days、東京ドーム2日間興行ですが、行った方の情報ですと1月4日の方は開場前からかなりの人が押し寄せていたとのことなんですが、1月5日の方は、いやぁ~、2014年から三世と一緒に行くようになってから6年になりますが、驚きました。人がですね、この6年では一番少ないですね。この日は開場13時からだったんですが、遅くても1時間半前にはですね、いつも我々現地にいるんですが、例年だとその時間帯は駅からグッズ売場から各ゲート前からですね、とにかく普通に歩けないくらい人だらけなんですよ(昨年の観戦記 さぁ、プロレスだ!!)
でもそんな風景がないんですよ。もちろん人はたくさんいますよ。でも普通に歩けるというのは、これは意外でした。2Days、この現象を良しと取るか?悪く取るか?このあたりは最後にもう一度、考えてみようと思います。
さて、今回はWRESTLE KINGDOMにて獣神サンダーライガーの引退、最後の試合がありますね。ライガー引退、グッとくるところありますね~。その心情の現れは小さな子供からボクらより上の世代にもですね、会場の至るところで見られました。
本物そっくりのライガーが花を添えます
ではライガー最後の勇姿。そしてIWGP二冠戦。行ってみましょう!!
第0試合 NEVER無差別級6人タッグ選手権試合 ガントレットマッチ
チェーズ・オーエンズ、高橋裕二郎、バッドラック・ファレ
ロビー・イーグルス、YOSHI-HASHI、石井智宏
金丸義信、エル・デスペラード、タイチ
BUSHI、鷹木信悟、“キング・オブ・ダークネス”EVIL
田口隆祐、矢野通、真壁刀義
初めはこちらのタイトル戦で、最後は鷹木が田口からフォールし王座を奪取となりました。が、この日がんばってましたロビー・イーグルスというレスラー。なんですか?聞けば得意技が「ロン・ミラー・スペシャル」というそうじゃないですか。これはちょっと突っ込んでおかないといけませんな~。
そう、以前このブログでこんなお話をしたことがありましたが
このロン・ミラーって、85年の第3回IWGPの1回戦、5月11日の佐賀県の唐津市文化体育館でストロング・マシーンと戦うはずだったが欠場により不戦敗となったロン・ミラーのこと?なんでしょうか?
同じレスラーだとするならば82年5月28日には全日本プロレスで、凱旋帰国した大仁田の帰国第一戦の相手を北海道の旭川で務め4分27秒、バックドロップで敗れている
ちがうのかな?若き新日本ファンたち、教えておくれ~。
第1試合 獣神サンダー・ライガー引退試合Ⅱ 60分1本勝負
佐野直喜、獣神サンダー・ライガーvsリュウ・リー、高橋ヒロム
試合は今日が最後となるライガー。試合内容より本当に最後なんだなぁと・・・その思いがいっぱいでしたねぇ~。
ここでも何度か書いてますが、ボクが初めてプロレス生観戦したのは84年の6月末の新日本のサマーファイトシリーズでした。このときライガー、まだ素顔の山田恵一は第1試合に出場し畑浩和と対戦しました。生まれて初めて生で見たプロレスの試合だったので、もちろんよく覚えていますが・・・実はそれよりも強く思い出に残っているのが、それから約1年後の翌年の85年の生観戦でした。
この年、山田は4月に第1回ヤングライオン杯で準優勝して知名度も上がり、実力も認められ少しずつ外国人選手とも対戦が組まれるようになっていきました。そんな年の9月3日です。新日本がチャレンジスピリット85というシリーズで土浦スポーツセンターに来たときでした。
この日、山田はシバ・アフィとシングルで対戦したのですが、このときの山田の入場テーマ曲がボニー・タイラーのヒーローで・・・この曲に乗り、口を真一文字にし淡々と入ってくる山田がとにかくカッコよくて、あれから35年になりますが今でもそのシーンが忘れられないんです。
山田はライガーになりプロレス界のヒーローになりました。そのヒーローのライガーの最後の入場シーンが、あの日の山田と重なって、思わず目頭を押さえてしまいました。ライガーの最後の戦いを見ることができて本当にうれしかったです。長い間、お疲れ様でした。ありがとうございました!!
第2試合 IWGPジュニアタッグ選手権試合 60分1本勝負
エル・ファンタズモ、石森 太二vsSHO、YOH
このファンタズモというレスラーは、なかなかおもしろくていいですね。身体能力が高く高度な技も器用にこなしますが、ボクはそっちより試合運び、見せ方、表し方がうまい、いい選手だと思いました。なんというんでしょうか、機敏になりすぎたジェイク・ロバーツって感じですね。しかし人気、このレスラーに対してのファンの声援はあまりないですね。やはりこのタイプは現在は理解しづらいレスラー、になってしまうのかもしれませんね。
第3試合 ブリティッシュヘビー級選手権試合 60分1本勝負
ザック・セイバーJr.vsSANADA
いやぁ~SANADAですね。試合前の煽りVTRで、頭から落とすだけがプロレスじゃない、と・・・これは心に響きました。で、そこにきて東京ドームのリングで、試合でコブラツイストからローリング・クレイドルですよ。三世はもちろん、ボクの前に座ってた女の子ふたり組とロスインゴ仲良し四人衆はその瞬間「ん!?」ってなってて・・・これは見ていて最高に気持ちよかったですね。SANADAもそうだったんじゃないかな~。試合には敗れてしまいましたが、SANADAをさらに好きになる一戦でした。
第4試合 IWGP USヘビー級選手権試合 60分1本勝負
ジョン・モクスリーvsジュース・ロビンソン
モクスリーいいですね。あれですね、今の新日本のレスラーって急に試合の中で間ができちゃうとすぐエルボー打ち合いしちゃったり、同じ展開を繰り返しちゃったりしちゃうんですけど、モクスリーはそういうのがないんですね。相手がそういう、同じことしてきても何回かでフッと軌道を変えて繰り返さない。こまかいところまでマンネリを許さないんですよ。攻めていても受けていても、折り折りでの展開の切り替えがとにかくうまいですね。豪快なところは豪快に、しかし小さいことや気がつかないようなところも繊細に変化を作るんですね。こういう試合運びは見てる人が飽きず最後まで見ていられます。さすがです。そういう意味で、鈴木みのるとの対戦は好カードになるでしょうね~。楽しみです。
ちなみにこの日、一番歓声が大きかったのは内藤の入場のときでしたが、その次が鈴木の登場のときでした。試合はないのに出てきただけで盛り上がるという・・・つくづく、すごいレスラーですね~。
第5試合 NEVER無差別級選手権試合 60分1本勝負
KENTAvs後藤洋央紀
これは負けましたけどKENTAの試合でしたねぇ~。終始、試合作ってたのはKENTAでしたね。いやぁしかし、ちがっちゃいましたね。対戦相手、客vs自分というのがよくわかっている魅せ方でした。これは近年の日本のプロレスラーじゃないですね。あっちで学んだものは大きいんだな~とつくづく思いました。
そこいくと後藤は、言ってみればオードブルからデザートまで、すべてが肉料理って感じなんですよ。何度かここで書いてますが、技のヒットポイント、見栄え、豪快さや迫力は、とにかく他のレスラーにはないものがあります。いいところですよね。しかし試合運びが淡白なんですよ。技は濃厚なんですが試合運びは淡白、なんですね。体もすごい締まりました。男臭さもあっていいんですよ~。だからあとちょっとなぁ・・・試合運びがうまければ、すごいファンになっちゃうんだけどなぁ。
第6試合 スペシャルシングルマッチ 60分1本勝負
飯伏幸太vsジェイ・ホワイト
う~ん、ここ最近は、飯伏はあれですねぇ・・・技ひとつひとつはポテンシャル高いし綺麗だし、威力もあって抜群なのに、技を出してから次の技に行くまでが無駄に長すぎますね。表情で見せたり声を出してフラストレーション表したりしてるんでしょうけど、やっぱりちょっと長いですよ。しかも繰り返しが多い。見ている人に「またかぁ」という印象を与えてしまいますし、試合の流れ、線の繋がりも途切れちゃって、各技だけが単発に見えちゃうんですよ。"キレる"というのを最近の試合ではよく見られますが、ちょっとこれも多発させすぎ、やりすぎじゃないですかね?たまにやるから効果がある、意味があるんじゃないんですかね?
飯伏の良さはスピーディーでアグレッシブなところじゃないですか。だから技以外のところも動いてね、なにも大きな動きじゃなくていいんですよ。ちょっとした動きで技と技の間を繋げば、もっといい試合になると思うんですよね。ちょっと変われば初代タイガーマスクに並ぶのも夢じゃないレスラーです。あの身体能力を持って生まれて、持て余してるのは本当にもったいない。んだけど、どうしたもんかなぁ・・・もう変わらないだろうなぁ・・・
第7試合 スペシャルシングルマッチ 60分1本勝負
棚橋 弘至vsクリス・ジェリコ
いやぁ~これはよかったですね。見ていてまず思ったのが90年代の新日本でしたね。あの時代の空気、情景が脳裏にパーッと甦ってきて、テンション上がりましたね~。
さらに攻防がよかったですね。ウォールズ・オブ・ジェリコをめぐるふたりの攻防ですね。技が決まるまでの駆け引きの緊張感、決まってから逃げられるかどうかのドキドキ感ですね。で、そこにきてですよ。ウォールズ・オブ・ジェリコはジェリコが使うから近代的な技に感じますが、技自体はボストンクラブ・ホールド、逆エビ固めなわけなんですよ。SANADAの言葉「頭から落とすだけがプロレスじゃない」なんですよ。ぐるぐる回して派手に落とす技はたくさんありますし、一緒に飛び上がって一緒に落ちて、どっちに効いてんだかわからない技もありますよ。それらでフィニッシュして盛り上がるのもいいんですよ。でも、どうですか!?これがプロレスじゃないですかね?最高におもしろくて気持ちのいい一戦でした。
第8試合 IWGPヘビー、IWGPインターコンチネンタルヘビー、ダブル選手権試合 60分1本勝負
オカダカズチカvs内藤哲也
さて、メインです。この試合は内容より背景重視だったかな~と・・・
終わってみれば内藤が悲願の東京ドームのメインでの初勝利にしてIWGP二冠達成という歴史的な日となりました。知ってのとおりウチはオカダ贔屓ですけど、ボクは今回のこれは素直によかったなぁ~と思いました。内藤はここ何年、見ていると足がバラつくときがありました。以前は技の失敗なんかないレスラーだったのに、近年はそういうこともあり・・・あまりコンディションよくないんだろうなと思ってました。でも、そんな中でよくやりましたよ。夢が叶ってよかったです。
一方のオカダは、前日のメインもそうでしたが、貫禄や威厳、立ち位置はもちろんタフさやスタミナと、とにかく他のレスラーでは太刀打ちできない存在、巨大な存在になってきましたよね。家に帰って嫁と顔を合わせ、まず出てきた言葉が「オカダってジャンボ鶴田だよなぁ~」でした。本当にそんな感じがします。今回は敗れタイトルも失いましたが、だから何だ!?と思わせるものが伝わってきて、行く行くどうなっていくのかが楽しみでなりません。
しかし三世はさすがにショックな様子でした。でも、やっぱり大きくなったんですね。オカダが負けたあとすぐ「帰るか?」と聞いたんですが、理解が早かったです。大丈夫、最後まで見ていくとリングを見てました。
そして内藤のマイクです。しかしここはさすがに悔しかったのか・・・三世、ものすごい険しい表情になりました。近年はどのレスラーが好きであれ、最後は勝った方へは暖かい声援を贈る会場のファン。それこそロスインゴやバレットクラブのグッズを身に付けながら、本隊やケーオスを目の前にすると平気で靡く(なびく)人がほとんどです。しかし、そんな行動を絶対に許さない三世は、ドーム全員が大合唱しようとしていたそのときも信念を貫き、ただ一点を見つめるばかりでした。
しかし、三世の悔しさがマックスに差し掛かろうとした大合唱寸前のそのとき、もう「デ」まで出かかってたそのときでした。突如、疾風のようにリングインし内藤に横殴りのラリアートを放つ男が!!なんと!!KENTAか!!
少しの騒然のあと、泣きそうな人、本気で頭にキテいる人。一気に異様な空気が場内を支配し混沌となりました。前の席のロスインゴ四人衆も「なに!?なに!?」と、かなりの混乱状態に陥っていました。そして、このときボクの頭の中をパッと過ったのは第2回IWGPの長州乱入でした。昔の新日本なら、これは絶対に暴動になる!!いくら今の新日本でも、これはさすがにまずい。この空気はまずいぞ・・・
このあとのことが急に心配になり、不安になりましたが・・・でも今のファン、感情を露にしての激しいブーイング、帰れコールこそすれどモノひとつ投げつけないんですよ。マナーのことが取りざたされることもある今の新日本のファンですが、昔に比べたらやっぱりおとなしい。礼儀正しいんだなぁと・・・これはすごいと思いました。まぁでも、だよなぁ~。問題起こしてドーム使えなくなっちゃうのもイヤだもんな。なんだかんだ今のファン、たいしたもんじゃないか。なぁ三世!?
「へへへ・・・」
わ!?笑ってやがる!!
「これはヤバイよね~。おれはオカダファンだけど、これはさすがにヤバイと思うよ~。へへ~」
そ、そう・・・でも、そう言ってるわりに表情がやけに明るいぜ!?するとこっそりと
「オカダの着てるし、これだけ周りにロスインゴファンいると何されるかわからないからさ~。本当は立ち上がって(喜ぶの)やりたいんだけど♪」
そうですか・・・
「内藤ファンめ、ざ」
いや!!
とりあえずオカダ敗北のショックも即回復。受験には影響なさそうでよかった~。三世を心配してくれた皆様、連絡くれた方、KENTAのおかげで大丈夫でしたよ。ありがとうございました。
というわけで、総評です。まずは今回の東京ドーム開催についてです。
最初にもちょっと書きましたが、今回、2020年の東京ドームは1月4日、5日で2日間、2Daysでした。これに対し、意見させてもらうなら・・・ボクは正直、やるやらない以前に、成功とは言えなかったのではなかったかなと・・・そう思いました。理由としては、2日間やるにしては、あまりにも"爆発力"が足りなかったからです。
東京ドームのチケットの発売は、通常はG1終わったあとの9月くらいからなんですよ。でも今回はファンクラブ先行が6月上旬、一般が7月上旬と早かったんです。ライガーの引退というのはありましたが、時期的にはG1の行方もまだ見えないとき、ドームまでの道筋もまったく読めないときです。この時点でわかっているのは
"東京ドーム大会のチケットが発売される"
ということだけで、出場選手すらもわからない、まったく未知数な状態だったんですね。
でも対戦カードへの"もしかして"に希望を託しては、いい席は早く取らなくちゃ!!とファンはなるんですよ。で、チケット取るんですよ。しかし全カードが決定したのは12月、そしてメインとスペシャルマッチの2試合が決定したのは結果的に前日だったわけです。これを通して見たならば、ちょっとね~当日までの持って行き方が、あまりにも緩やかすぎじゃなかったですか?
なぜ2日間なのか!?何のための2日間なのか!?まったく見えませんでした。もちろんG1からの権利書戦とかライガー引退試合までの道とかありましたけど、発表からは緩やかに右に上がって行って、当日という頂上に着いてしまった感じでした。対戦カード発表が遅めなのは仕方ないところがありますけど、2Days発表した初期段階で、誰が王者であってもドームは二冠戦!!とか、ファン投票で夢のカード募集!!など、2日間やるならば例年にはない
「2Daysならではの爆発力を持ったテーマ」
そういう趣旨を早々に出して、ファンに向けるべきだったんじゃないですかね?
動員数、初日が4万と8人、2日目が3万と63人ですか。なんだかんだすごい。やっぱりすごいですよ。でも、もっといけますよ。やり方次第で2Days満員もできるはずです。やるならば爆発力ですよ。発表してから前日までは起爆剤を撒きながらエネルギーを溜め込んで、当日に爆発させなくちゃダメですよ。もし次も2Daysやるならば絶対、爆発力です。
ただ、個人的には、1日の方がよかったです。1日の方が行きやすいというのも正直ありますが、実際2日間で分散するならば1日に凝縮、濃厚にた方が明らかに集客は延びると思います。それに今回は棚橋のようにどちらか1日しか出ないパターンもありました。1.4しか行けない棚橋ファンで、早々チケット取って楽しみにしてた人の心情ですよね。ファンにしたら大事な大事な日、1年に1度の特別な日なわけですからね。
あと、レスラーへの負担ですね。2日間やるからって初日をセーブするわけにいきませんよ。今回なんかは実際は3日間連続興行ですから本当に大変だったと思います。最高のパフォーマンスを出すためにも、この辺りも考えて、今後は考案していただきたいですね。
最後に新日本プロレス自体のことでひとつ。
以前は新日本のレスラー、外国人も日本人も、次々とWWEに行ってしまっては、なんだかなぁ~という失望感を抱くことがありました。でも、ここ何年かは逆にWWEでトップで活躍したレスラーが新日マットへ上がるようになりました。なのでそういったレスラーをじっくりと見る機会に恵まれました。
WWE内で見ているときはあまり感じませんでしたが、こうして元WWEのレスラーが他の団体でやっているのを見ると、やっぱりうまい。うまさが伝わってきます。プロレスの"魅せ方"という点で多くの新日レスラーとの差を感じずにはいられません。試合の組み立て方、相手との間、観客とのやり取りはもちろん、観客の動かし方、会場を支配する力ですね。本当にうまいですよ。すごいレベルの高さをしみじみ感じました。
そして、女子プロレスです。聞けばスターダムという団体が同じ会社、傘下に入ったということで1.4では試合も行ったといいます。今年も新日本は国外での大会にさらに力を入れていくことと思いますが、MSG大会でもそうだったように、新たな計略のひとつとして、今後は新日本でも女子プロレスの試合を組み入れてくるという予想も難しくありませんし、やがては国内でもビッグマッチには取り入れられてくるかもしれません。かつてのビューティーペアからクラッシュギャルズ、ブル様、北斗を軸にした団体対抗戦と・・・70年代から80年代、90年代。勢いに乗ったときの女子プロレスのパワーですね。みなさんもよくご存知かと思います。
そんな未知の可能性を秘めたスターダムという女子プロレスと、じわじわと新日マットで展開されていくWWE流のプロレス、です。加えて現在の新日本プロレスの所属選手数、レスラーの多さです。言いたいことは、つまりこの状況は、どういうことなのか!?というところなんです。
そうです。支持を得られない試合や人気を得られない試合をしているレスラーの出番はなくなっていく・・・能力のない人間はいらなくなくなっていく、切られていく、ということなんですよ。キツく言ってしまえば、レスラーども!!新日本に所属していれば安泰だなんて思ってたら、今に足元を掬われるぞ!!なんですよ。今後は団体内でも本当の意味で戦いになっていくと、そう思いました。
平成元年4月24日。新日本が初めて東京ドームでプロレスを行った日・・・思えばあの日は、昭和のプロレスから平成のプロレスへと新日本が変わり始めた、新しい流れが始まった日でありました。そして平成から令和という時代に変わり、最初の東京ドームを新日本は行いました。プロレス史上、初のドーム2Days。そして元WWEのレスラーのプロレスと女子プロレスの登場。平成が始まったそのときのように、プロレスの変化を予感しないわけがありません。そういった意味で、この先の新日本が楽しみでなりません。令和からはどう変わっていくのか・・・頂いた新時代へのパスポートを胸に、今後も旅をさせていただきます。
最後までありがとうござました。
↧
↧
プロレス研究所~MSGとプロレス その3 ② 2代目マディソンの時代 1890~1926年~
その3 ①からの続きです。
先輩「さて、前回はマディソンを介したゴッチ、ジェンキンス、ハッケンシュミットの、大戦前のプロレスのピークを話したわけだが・・・かくして1914年7月から世は第一次世界大戦に突入する。ということで、ここを一区切りとし、ここからは大戦後のプロレス史として進めていこうと思う」
探偵「はい」
先輩「まず1911年にゴッチと2度目の対戦を行ったハッケンシュミットだが、この試合以降リングに上がることはなく、これが事実上の引退試合となった」
探偵「うーん、結局ハッケンシュミットは33歳で引退となってしまったわけですね。引退後は哲学書を数々出版し、ベストセラーを連発。晩年は哲学者として活動したと・・・いうわけですか。まったく人生が方向転換してしまった感じですが、ゴッチとの戦いでプロはイヤになってしまったんですかね?」
先輩「哲学を持ってるくらいだからね。バーンズを筆頭としたゴッチ陣営のやり方に、何か感じるものがあったのかもしれない。ハッケンシュミットは生涯、このアメリカでの試合のことは口をつぐんで語らなかったそうだからね」
探偵「そうなんですか・・・先輩、ゴッチの方はどうだったんですか?」
先輩「ゴッチの方は、このあたりから1915年にかけ、ほぼ毎年のペースで引退、復帰を何度も繰り返しては、あまりリングに上がれない状態となってしまったようなんだ」
探偵「先輩、この時代に"引退ビジネス"があったとは思えません。ゴッチに何があったんでしょうか?」
先輩「はっきりとした詳細はわからないんだが、健康状態に問題があったのではないか?という説が有力だ。で、それが直接の原因どうかは定かではないが・・・ゴッチはハッケンシュミットとの対決からわずか6年後の1917年末に39歳という若さで亡くなってしまうんだ。死因は胃ガン説から尿毒症説、性病説と、いろいろ残っている。体調がよくなかったのは、まちがいなかったみたいだね」
探偵「人知れず、ゴッチにもいろいろあったんでしょうね。戦前の3人、残るひとりはジェンキンスですが、ジェンキンスはどうなったんですか?」
先輩「ジェンキンスもゴッチとハッケンシュミットの対決が行われた翌年の1912年に引退となっている。運命なんだろうか・・・1900年代初期に一時代を築いたレスラー達は、この大戦を境にリングから姿を消していってしまったんだ」
探偵「うーん、なんだかなぁ・・・」
先輩「しかし、新しい波もやってくる。マディソンでのプロレスも変化を見せてくるんだ。まずは1915年、6月25日。スタニスラウス・ズビスコの弟のヴラディック・ズビスコとアレックス・エイバーグがマディソンで世界グレコローマンというタイトルをかけ対戦している。結果は3時間45分でドローとなっている。そして同年10月25日には、同じくマディソンで世界グレコローマンのタイトルをかけて再戦も行っているんだ。フィニッシュは不明たが、このときはエイバーグが勝利している」
探偵「先輩、この世界グレコローマンというタイトルはハッケンシュミットのものとはちがうんですか?」
先輩「ああ、この世界グレコローマンというタイトルは、どうやらアメリカ版のタイトルのようだ。実はこの時代は認定される先々で"世界"と冠するタイトルがたくさんあって、なかなか混乱するんだよ」
探偵「◯◯版・世界ヘビー級みたいな遍歴は現在でも多く見かけますが、そんな感じですか」
先輩「そうなんだ。調べてると結構出てくるんだが・・・実のところ把握しきれないので、このあと出てきても深く考えないで聞いててくれれば」
探偵「はい」
先輩「で、ヴラディック・ズビスコだが・・・このレスラーは、この当時のマディソンやニューヨーク地区のプロレスを調べていくと、それこそ頻繁に名前を目にするんだが、不思議なことに写真はおろかイラストすら、まぁ~出てこない。詳細も出てこないんだ。だからどんなレスラーか、ぜんぜんわからないんだよ。アレックス・エイバーグもしかりね」
探偵「でも、兄のスタニスラウス・ズビスコは情報があるんですね」
先輩「ああ。マディソンではもちろん試合をしているし、統一世界ヘビー級王者としても名を残している。インドのグレート・ガマと伝説的な戦いをしたとか77歳まで試合をやったとか、ハーリー・レイスのコーチをしたとか、いろいろわかることがる。それにプロレスだけでなくプロモーターとしても活動していたし、映画にも出演したことがあるそうだから、当時の活躍や知名度が今なお伺えるんだよ」
スタニスラウス・ズビスコ
探偵「確かに、わかることがたくさんありますね」
先輩「加えて、おれらの世代なんかは・・・昔のプロレス百科的な本にはズビスコは結構出てくる存在だったんだ。だから詳細はわからずとも名前は知っているってことが多かった。でも、弟の話はまったく出てこなかったね。今回調べるまで、いたのすら知らなかった」
探偵「う~ん。しかしヴラディック・ズビスコは実際には後年までニューヨークで活躍したレスラーだったわけですよね。マディソンでメインを張るほどの」
先輩「そうなんだ。だから今回、可能な限りヴラディック・ズビスコのことを調べてみたよ」
探偵「何か掴めましたか?」
先輩「わかったことは、1891年11月20日生まれ。ポーランドのクラクフ出身。父親はオーストリア政府の役人で、スタニスラウス・ズビスコ他、5人兄弟のひとりだったということだ。いつ、どういう経緯でプロレスを始めたのかは不明。しかしクラクフ大学で学び、ウィーン大学で法におけるなんらかの学位を取得していたという記述があった。それとピアノの演奏に優れ、かなり優秀なピアニストだったとの記述も見られた。これが写真だ。おそらくはっきりと写ってるのは、これしかないと思う」
ヴラディック・ズビスコ
探偵「これが・・・すごい!!なんて上腕の太さだ。マディソンでメインを張るのも納得です。しかし父親が政府の役人で、学位取得にピアニストとは・・・失礼ながら、写真からは結び付きませんね」
先輩「ああ、確かに・・・ピアノとはとても一致しないね。それにしても目が行くのは、やはりこの肩から上腕、前腕。そして手の大きさだ。この時代にこんなレスラーがいたとは驚きだよ。しかもレスリング出身とかカーニバル・レスラー出身という経歴が多いこの時代にして、大学で学位まで取得していたんだから、異例だっただろう」
探偵「インテリ・レスラーの第一号かもしれないですね」
先輩「そうだなぁ。で、どうやら1910年代にアメリカに移住。アメリカでの初試合は1913年1月17日にシカゴで"アレクサンダー・アンジェロフ"というレスラーとの対戦だったらしい。結果はヴラディック・ズビスコが勝利している」
探偵「うーん。年代から言うと、アメリカ初戦で勝利して、この2年後にはマディソンでメインに出ているわけですよね。ヨーロッパでのキャリアは結構あったということなんでしょうか?」
先輩「そのあたり、ヨーロッパでの実績は不明なんだが・・・少なくとも大学でレスリング系の何かをやっていて実績もないと、この短期間でメインに躍り出るのは難しいだろうからね」
探偵「やはりレスリング経験者だったのかなぁ?」
先輩「このあたりは謎だなぁ・・・しかしキャリアの点において、ひとつ興味深いことがあった。記述は1934年7月28日のものだ。このときブラジルでレスリング(キャッチ)とブラジルの格闘技であるルタ・リーブリの対抗戦が行われたようなんだが、このときヴラディック・ズビスコが出場し、なんとエリオ・グレイシーと対戦しているんだよ」
探偵「エリオ・グレイシー!?あのヒクソンやホイスのお父さんの!?」
先輩「そう。グレイシー柔術のね。で、このときのルールなどはわからなかったんだが、ヴラディック・ズビスコはエリオと引き分けしているんだ」
探偵「すごい!!やはり何かしら実績があり、実力のあったレスラーだったんですね。しかし、これだけの経歴がありながら、ほとんど世に知られていないとは・・・こんな強豪が歴史に埋もれていたなんて」
先輩「ヴラディック・ズビスコは、確認できる範囲では1938年までマディソンでの試合に名前が見られるから、ニューヨークでは相当長く試合に出ていたんだと思う。実力もあったようだし、それに・・・兄弟レスラーってのが当時はいなかったはずだから、そういう意味でも後世に知られてていいと思うんだけどなぁ・・・」
探偵「本当に不思議ですね・・・」
先輩「ちなみに昔、全日本プロレス中継で解説をしていたライターでプロレス評論家だった、おなじみ田鶴浜弘さんはヴラディック・ズビスコの試合をマディソンで観ているようだが、詳しいことは残念ながらわからなかった。このレスラー、個人的にはもっと調べてみたいが、おそらく資料がな、出てこなそうだな」
探偵「そうですね。今後、なにか発掘されればいいですね」
先輩「そうだな。さて・・・その後の流れに移行しよう。明けて1916年になるとマディソンにまた新しい波が起きる。"胴締めの鬼"と呼ばれたジョー・ステッカーが登場するんだ」
ジョー・ステッカー
探偵「胴締めの鬼?」
先輩「そう。ステッカーは1893年、ネブラスカ出身。フランク・ゴッチと同じく農民の子として8人兄弟の末っ子として生まれ、小さい頃からトウモロコシ畑で手伝いをして育ったという。傍ら、レスリングと水泳を行っては万能だったそうだ。やがて18歳でローカルでプロデビューすると、フランク・ゴッチの師でもあったファーマー・バーンズがレスラーを引き連れネブラスカにやってくるんだが・・・」
探偵「何かあったんですね」
先輩「そう。バーンズはそのとき連れていたレスラー、ベンジャミン・フランクリン・ローラーの挑戦者を募ったんだ。ステッカーは、これに名乗りを上げ対戦する。若きステッカーは、のちにそのニックネームにもなる胴締め、ボディシザースを相手に決め45分にも渡り動きを封印。どうしようもなくなったローラーがステッカーの足に噛みついて反則負けになるという異例な結果となった。こうして、すごいのがいたとバーンズに見出だされ、ニューヨークに進出。1920年代を代表するレスラーとなるわけさ」
探偵「農民の子からレスラーになり、地元に来ていたレスラーと戦い名を上げ、バーンズに見出だされやがて世界に・・・本当にフランク・ゴッチに似てますね。しかし恐るべしはこのボディシザースですね」
先輩「ああ。ステッカーは自分の家で扱っていたトウモロコシなどの穀物を詰めた麻袋を足で挟んで、締めつけ破裂させるのが特技だったらしいんだ。おもちゃや娯楽がない時代だから、おそらく小さい頃から袋で遊んでいるうちに強靭な脚力を持つこととなったんだろう。しかしこれがレスラーとなり活かされ、強烈なボディシザースを生む結果となったわけだね」
探偵「こ、これは!!足で挟んで腕で引っ張ったなら麻袋は横に破けるはずですが、これは縦に破けていますよ!!本当に足の挟む力だけで破裂させたってことじゃないですか!!胴締めの鬼・・・うなずけます」
先輩「そう、まさにこの必殺のボディシザースを武器にステッカーは1915年7月、ゴッチ引退表明から統一世界ヘビー級タイトルの暫定王者となっていたチャーリー・カトラーを下しタイトルを獲得するんだ」
探偵「なるほど。こうして王座を引っさげ堂々マディソン初登場というわけですね」
先輩「そう。こうして1916年1月27日、ジョー・ステッカーがマディソンでマスクド・マーベルという覆面レスラーと統一世界ヘビー級選手権を行うんだ」
探偵「え!?覆面レスラー!?この時代に覆面レスラーがいたんですか!?」
先輩「うん。今回の話の一番最初のマディソン創世記の項でほんのちょっとだけ触れたけど、プロレス史上、最も古い覆面レスラーの記録は1873年、フランスのパリで試合に出場した"ザ・マスクド・レスラー"とされている」
探偵「はい」
先輩「で、このマスクド・マーベルは"ザ・マスクド・レスラー"に次ぎ、プロレス史上2番目にプロレスに現れた覆面レスラーにして、アメリカのプロレス史上初のマスクマンだったんだ」
1915年頃に突如に現れた、アメリカのプロレス史上では初となるマスクマンのマスクド・マーベル。正体はモート・ヘンダーソン(向かって右)というレスラーらしい
全体像を見比べると、なで肩でリーチにもちがいがあるように見えるが・・・詳しいことは謎である
探偵「驚きました。こんなレスラーがいたことも驚きましたが、アメリカ初のマスクマンがマディソンで統一世界ヘビー級に挑戦していたとは・・・」
先輩「しかし、このマスクマン、マスクド・マーベルの歴史的出場の経緯は、まさに瓢箪から駒というか、意外な展開からだったんだ」
探偵「意外!?」
先輩「うん。発端となったのが1915年11月から1916年1月まで、ニューヨークのマンハッタン・オペラハウスというところで開催されたインターナショナル・トーナメントという大会だったんだ」
探偵「オペラハウス?マディソンではなかったんですか」
先輩「ああ。この大会はサム・ラックマンという人物をプロモーターに、ヨーロッパで行われるレスリング・トーナメントのアメリカ版のような大会としたようだったんだ。出場者は先にも出た、世界グレコローマンのタイトルを争っていたヴラディック・ズビスコとアレックス・エイバーグ。前・統一世界王者のチャーリー・カトラー。のちにルー・テーズの師となるエド"ストラングラー"ルイス。スッテカーを見出したきっかけとなった、当時の人気レスラーだったベンジャミン・フランクリン・ローラーなど。当時の有名選手が集結したすごい大会だったようだよ」
インターナショナル・トーナメントの出場レスラーの記念写真
探偵「すごい人数ですね。しかもみんな強そうですよ」
先輩「しかし、この強そうなメンバーの集う大会の開幕戦に、なんとマスクド・マーベルが突然に姿を現し参加を表明したらしいんだ」
探偵「開幕戦に謎の覆面レスラーが!?これは驚きました。この時代のプロレスに、そういうことがあったとは・・・」
先輩「この写真からもわかるように、まだまだレスリング色は濃く残っていた時代だからね。こういう出来事があったと知ると本当にびっくりするよ。で・・・」
探偵「はい」
先輩「このインターナショナル・トーナメントも大詰めを迎えようとしていた1916年1月26日。公式戦でエド"ストラングラー"ルイスとヴラデッィク・ズビスコの試合があったんだが、なんとステッカーが、この試合の勝者と統一世界ヘビー級のタイトル戦を行う意思があると発表したんだ」
探偵「他に行われていた大会の勝者に現・統一世界ヘビー級王者が対戦を迫ったわけですか。うーん、でも、この時代のこれまでの流れから察するに、これはあり得る話ですよね。おそらくこの公式戦の勝者が優勝を決めるような状況で・・・だからトーナメント優勝者と統一世界ヘビー級王者が対決して一番を決めようじゃないかって流れですよね」
先輩「まさしく大会は3日後の1月29日にグレコローマン部門がエイバーグ、キャッチ部門がルイスの優勝で幕を閉じているんだ。ルイスはデフェンディングチャンピオンだったから決勝のみという記録も見られたので、ルイスとズビスコの勝者に挑戦というのはイコール優勝者との対戦ってことになるだろうから、流れ的には考えられると思う。しかし、この場合は主催がちがったわけだから・・・」
探偵「今で言うならチャンピオン・カーニバル優勝者に対し、IWGPヘビー級王者が戦う準備があると発言するような感じでしょうか」
先輩「ニュアンス的には近いものがあるね。だからか・・・そのときのことがこう残っている」
探偵「はい」
先輩「この表明を受けてインターナショナル・トーナメントのプロモーターだったサム・ラックマンとマディソンのプロモーター、つまりステッカー側のプロモーターのジャック・カーリーが協議して、ニューヨークの地方裁判所へ調停を申請したとあるんだ」
探偵「調停申請・・・」
先輩「うん。で、これを受けて裁判所から、ステッカーはマスクド・マーベルと対戦してはという仲裁案が提案されたという」
探偵「そんな経緯からだったんですか・・・」
先輩「結局こういった流れから1916年1月27日、ジョー・ステッカーがマディソンでマスクド・マーベルと統一世界ヘビー級選手権を行う運びとなった、というわけなんだ。結果はステッカーが勝ちタイトルを防衛している」
探偵「うーん。本当に予想外の、意外なところから発生した試合だったんですね」
先輩「で、ちょっと話は脱線するんだけど・・・」
探偵「なんですか!?」
先輩「実はマディソンって、かつてはマスクマンの出場は禁止されていたんだよ。過去に、覆面レスラーは覆面を脱いで素顔で出場しなければならないっていうのがあったんだ」
探偵「そうなんですか!?」
先輩「うん。それで、それが初めて解かれたのがミル・マスカラスで、1972年12月18日のザ・スポイラー戦から、となっている」
探偵「確かに・・・ネットなんかで調べるとそう出てきますね。Wikipediaにもそう載ってますよ。これが何か?」
先輩「気づかないか?」
探偵「・・・何にですか?」
先輩「覆面レスラーさ」
探偵「あー!!こ、これって!!」
先輩「そう。実際には、マスカラス登場から遡ること56年も前にマディソンのリングに覆面レスラーが上がっていたってことさ」
探偵「厳密に言えばマスカラスはマディソンの歴史上、2番目に登場した覆面レスラーということだったのか!!マスカラスは"覆面を被ったままMSGに登場した初の人物である"というのは誤りだったんだ。こ、これは歴史的発見じゃないですか!!」
先輩「そうだね。これは今までプロレス史で取り上げられなかった、いわば盲点に入ってしまっていた事実だと思う。今回マディソンのことを調べなければ、わからなかった新発見だ」
探偵「テーズベルトのブラッシーモデルの存在、そしてグレート東郷の日本プロレス乗っ取りは陰謀説、以来の発見ですね!!」
流星仮面二世「ホントですね!!でも発見したところで認識はされませんけどね~」
探偵「ん?誰ですか今のは?」
先輩「ああ。気にするな。今のは手塚治虫作品でいうとこのヒョウタンツギみたいなもんだから」
探偵「そうですか。しかし、うーん。話を戻して、裁判やら調停やらと聞いて、いろいろなことを予想してしまいましたが、このあたりになると至るところ"プロモーター"の存在が気になってきますねぇ」
先輩「そう。この頃になってくると、レスラーの他にプロモーターという言葉を多く目にするようになってくるんだ。プロモーター同士の仲間派閥で力のあるところが出現したり、その派閥の中からまた分派ができたりして・・・プロレス興行では、この派閥が相当な影響力を発揮していたようだよ」
探偵「うーん、なんだか現在にも精通する話ですね」
先輩「ははは、そうだな。で、この時代から1920年代は、プロレス界はスタニスラウス・ズビスコ、ジョー・ステッカ一、エド"ストラングラー"ルイスの3人が3強としてプロレス界で軸となる時代、いわゆる"3強鼎立(ていりつ)時代"と呼ばれるものとなるんだが、このときニューヨーク地区はプロモーターのジャック・カーリーの力とカーリーの派閥力で、かなりの勢力となりマディソン以外の会場でも盛んにプロレスが行われていたんだ」
探偵「プロレスがひとつのカテゴリーとして完全に成り立ってきた、そんな感じであったんですね」
先輩「ああ。プロレスがひとつのカテゴリーとして成り立ち、そしてプロモーターを介し、プロレスがアメリカ中を回る形ができてきたのもこの時代からなんだ。このステッカーとルイスの対決は、その流れを作って行った対決でもあったんだよ」
探偵「なるほど。プロレス・マーケティングって感じですね」
先輩「そう。マーケティングとは"顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその価値を効果的に得られるようにするための概念とあり、 また顧客のニーズを解明し、顧客価値を生み出すための経営哲学、戦略、仕組み、プロセスを指す"とある。ふたりの対決は、このあたりを理解し成り立っていったのかもしれないね。各地区のプロモーターがウチでやってくれと誘致し、入札合戦も盛んだったようだからね」
探偵「どこでやっても必ず観客が入る、いわゆる"ドル箱カード"だったわけですね」
先輩「うん。そんなふたりの対決は1915年の初対決から1930年まで全米を又にかけ、実に19回行われていたんだ。しかし単にドル箱というだけでなく、試合はステッカーが6勝、ルイスが9勝し4つの引き分けという激しいものだったようだよ」
探偵「そういえば先輩、先ほどから名前が出ているエド"ストラングラー"ルイスですが、ルー・テーズの師であるというのはボクもわかるんですが・・・ルイスとはどんなレスラーだったんですか?」
エド"ストラングラー"ルイス
先輩「エド "ストラングラー" ルイスは1891年、ウィスコンシン州出身。1905年頃、14歳のとき一般の力自慢などを相手に戦うカーニバル・レスラーに挑戦しデビュー・・・これが一般的となっているが、14歳でフレッド・ビールを相手にデビューという説もあり、また14歳でなく13歳でデビューだったという説もあって、このあたりは謎が多く実はよくわかっていない。しかし1910年頃にカーニバル・ショーを行う一団と何年か地方巡業していたという記録があるので、どうやらレスラーとしてのルーツはこのあたりにあるようだ」
探偵「13、4歳で大人相手に戦ってたんですか・・・すごいなぁ」
先輩「その後、22歳のとき"絞め殺し"の異名をとったイヴァン"ストラングラー"ルイスというレスラーにあやかり本名のロバート・ハーマン・ジュリアス・フリードリックからエド"ストラングラー"ルイスに改名。統一世界ヘビー級王者として長きに渡り活躍したのはもちろん、プロモーターとしても活動し、派閥も持っていたんだ。とにかく当時プロレスへの影響力を持った人物だった。先に話したプロレス・マーケティングで言えば、現在に続くプロレスリングのビジネス形態を作った人物でもあったんだよ」
探偵「へぇ・・・レスラーでプロモーター、派閥もあって、そして人気と知名度は当時の大リーガーのベーブ・ルースと並ぶ存在だったんですね。しかしステッカーがボディシザーズで胴締めの鬼というのに対し、ルイスは"ストラングラー"ですか」
先輩「そう、ストラングルは絞めころす、窒息させるという意味を持つから絞め殺し人、ということになるが、ルイスはヘッドロックを得意としていたところから"絞め殺し屋"と呼ばれていたんだよ。こんな写真がある」
探偵「こ、これは!?」
!?
先輩「これは木製の人の形の頭に強力なスプリングをいくつも仕込んだルイス特製のヘッドロックのマシーンだ。ルイスは、これを絞めつけるトレーニング、そしてデモンストレーションをよく披露していたそうだよ」
探偵「なるほど・・・作物の袋を脚力で破裂させる胴締めの鬼vsヘッドロックのマシーンで力を誇示する絞め殺し屋。こういったパフォーマンスからも人を魅了する力、ファンを引き付ける力があったのが想像できますね。ドル箱になるわけだ」
先輩「そのドル箱カードだが、そのうちの2回を、ふたりはマディソンで戦っている。試合記録は、まず1918年4月26日。このときは2時間ドローで引き分け。そして同年11月3日。このときはステッカーが勝利し統一世界ヘビー級王者となる。ただし統一世界ヘビー級タイトル遍歴には、この日時の移動が見られないため・・・これは別の世界タイトルだったかもしれないな」
探偵「なるほどなぁ~。ゴッチ、ハッケンシュミット、ジェンキンスが去り、マディソンでのプロレスも変化を見せ始めた、いやプロレスが変化をし始めたという感じだったんですね。こうやって知っていくと、この時代のプロレスが本当に見てみたくなります」
先輩「そうだなぁ~。しかしこのときはまだテレビ自体が発明段階だし、プロレスがテレビと共に歩み出すのはまだ先。1920年代ではなぁ・・・おそらく映像は残ってないだろうなぁ」
ガチャ
所長「ふふふ・・・ところがどっこいよ」
探偵「え!!」
先輩「なっ!?」
所長「1920年1月30日にマディソンで行われたジョー・ステッカーとアール・キャドックの統一世界ヘビー級選手権は映像が残っているの」
探偵「ええ!!映像が!?」
先輩「本当ですかっ!?」
次回、プロレス名勝負伝へと続きます。
↧
プロレス名勝負伝~ジョー・ステッカーvsアール・キャドック~パート1
所長「1920年1月30日・・・おそらく現存する世界タイトル戦では最古のものだと思うわ。まだテレビはない時代だったから、記録映画として残されたんだと思う」
探偵「先輩、見てみましょう!!」
先輩「ああ!!」
先輩「まず最初のは題だな。上からThe Pioneer Film Corp・・・パイオニア フィルム コープでまちがいないだろう。これは映像の会社の名前なんだと思う」
探偵「次の段は、これは残念ながら読めませんね。pr・・・・ni・?presents、プレゼンツでしょうか?」
先輩「多分ね。そのあとはTHE WORLD & CHAMPIONSHIP WRESTLING MATCH。beiw・・・n?わからないな。しかしそのあとは
JOE STECHER and EARL CADDOCK、ジョー・ステッカーとアール・キャドックだな」
探偵「パイオニア フィルム コーポレーション。調べれば、こちらも歴史アリそうですね」
先輩「そうだな。とりあえずわかっているのは、このパイオニアの撮影監督であったフリーマン・ハリソン・オーウェンズによって撮影されたということだ」
探偵「始まりました。これは・・・試合前の様子から入っていますね」
先輩「ああ。向かってきて帽子を脱いだ、これがアール・キャドックだ」
探偵「本当だ。髪型や輪郭が同じですね」
アール・キャドック
先輩「アール・キャドックは1889年アイオワ州出身。フリースタイルのレスリングで1909年、アイオワ州ミドル級王者で1914年にはAAU全米選手権ライトヘビー級で王者になっている。プロ入り時期は不明だが1917年4月9日にジョー・ステッカーと統一世界ヘビー級王座をかけて戦い、タイトルを奪っているんだ」
探偵「ということは、ステッカーにとってこの試合はリベンジマッチだったんですか」
先輩「うん。このふたりの戦いが第1次世界大戦前の最後の統一世界ヘビー級王座のタイトル戦となり、この試合後にキャドックは陸軍、ステッカーは海軍に従軍することになったから、しばらく戦いは行われなかったんだ。その後、大戦が終わり3年が経って、ようやく再戦が行われたと・・・その戦いがこれだったというわけだ」
※第一次世界大戦が開戦したのは1914年ですが、アメリカが大戦に参戦したのは1917年からなので、大戦前の最後のタイトル戦ということになります
探偵「あ、走ってくる方、これがステッカー!?」
先輩「顔がよく見えないが、こちらはステッカーでまちがいないだろう」
ジョー・ステッカー
探偵「前回載せた2代目マディソンはイラストだったからわからなかったけど、実際は白っぽい色だったんだ。そして、イラストで見るより大きさが伝わってきますね」
先輩「そうだなぁ・・・2代目マディソンの映像としては、おそらくこれが最古のものだろうな」
探偵「あっ、掲示板でしょうか!?対戦が書いてありますね」
先輩「ああ、現在のように大会を知らせる大きな掲示もされていたんたね。上から
"MAD,SQ GARDEN(マディソン・スクエア・ガーデン)"
"CADDOCK(キャドック)"
"STECHER(ステッカー)"
とハッキリと読める」
探偵「会場内も映ってますね。トップハット姿の男性ばかりです。観客の人数、すごいですね」
先輩「そうだな。このときは通常の観客ももちろんいたんだけど、どうやらステッカーとキャドックが属していた元・陸軍と元・海軍の同志も、それぞれ観に来ていたようだからな」
探偵「先輩、これは!?」
先輩「これは・・・レフリーが元・軽量級のチャンピオン、ジョージ・ボスナーとあるな」
探偵「ジョージ・ボスナー?」
先輩「ああ。まったく誰なんだかわからないけど、そう書いてある。きっと有名なレスラーだった人なんだろう」
探偵「入場して、リングインしました。ガウンなんですね」
先輩「ゴッチとハッケンシュミットもガウン姿が残っているが、これもプロレスの伝統、名残りなんだろうな」
2分39秒 試合開始(以降表示します分数表示は動画全体の経過時間です)
探偵「先輩、試合が始まりました。握手したように見えましたが、すぐ組みましたね」
先輩「ああ。柔道が必ず礼から始まるように、レスリングは必ず握手から始まるんだ。だから、やはり当時のプロレスはレスリングの試合に近かったんだろう。しかし第一印象、構えや体勢はフリースタイルともグレコローマンスタイルとも言えない感じがするなぁ」
探偵「それは・・・?」
先輩「うん。フリースタイルだと相手の足を取る動きが主体となるから腰を引いて頭を低くする形・・・もう少し前傾になり低い構えになるんだよ。足を取らせないで取れる態勢って言うのかな。だから、お互いの足はもうちょい遠ざかる形になる。これはそのあたりがちょっとちがうかな」
探偵「なるほど」
先輩「逆にグレコローマンスタイルだと下半身への直接攻撃がルール上できないから上半身を使い有利に組めるよう、相手と接近するような動きになる。だから状態、構えは上がって間合いはフリースタイルより近くなるんだ。結果、足は近くなるんだよ。でも、この場合は似てはいてもグレコローマンスタイルともまたちがうなぁ」
探偵「う~ん」
先輩「ただ、おれはカラー・アンド・エルボーやキャッチの試合、それらの動いている映像を一度も見たことがないから・・・もしかするとこれは、そっちのスタイルの構えや姿勢が影響を与えているのかもしれないね」
探偵「なるほどなぁ~」
探偵「なるほどなぁ~」
3分43秒 キャドックがサイドからステッカーの足を取り、すぐさまバックに回る
探偵「あ、キャドックがバックに回りましたね」
先輩「うまい。相手の体を振ってから左腕を相手の左足の内側に入れてヒザの裏に掛け、右腕を背後に回して体重を乗せて前に倒した。こういうテクニックもそうだが、キャドックは常に右半身で構えて動いているから・・・実績どおり、フリースタイルのレスリングがベースのようだね」
探偵「どういうことですか?」
先輩「近代のレスリングは利き手の方を前に出す、つまり右利きなら右半身に構えるのが基本なんだ。で、前傾的な構えで重心移動を利して攻めや受けの動きに応じていくというね、簡単に説明するとそんな感じなんだ。さっき試合で構えは独特という話をしたけど、そんな中においてキャドックの動きは現在でも見られる、そういうフリースタイルの技術が所々で見られるというわけさ」
探偵「なるほど。キャドックはバックボーンのフリースタイル・レスリングの技術を軸に試合しているということですね。そう見るとステッカーはキャドックとは対照に左半身、逆ということになりますが、ステッカーはレスリングにおいてサウスポーだったということでしょうか?」
先輩「そこは実はポイントなんだよ。実際レスリングにもサウスポーはあるし、藤田和之や吉田沙保里のように右利きでもサウスポーにする選手もいるんだ。柔道やボクシングと同じく左は有利になる点が多いからね」
探偵「なるほど」
先輩「その辺りから推測してどうかと言えば、ステッカーのはレスリングのサウスポー、左構えともちがうように見える。左半身で、左腕を相手の首にしっかり掛けて右腕は相手のヒジあたりに置いている。流れの中でなく、初めからこれで組んでいった。単にこれを見て、何か連想できるものはある?」
探偵「プロレスの・・・ロックアップの形!?」
先輩「うん。レスリングをはじめ組系格闘技は普通、さっき説明したように利き手の方を前に出して構えるのが基本なんだ。つまり右半身がほとんどなんだよ。しかし組系格闘技において基本の構えが唯一左半身なのがプロレスなんだ」
探偵「確かにステッカーの組んだところの姿は現在のプロレスと比べても、あまり違和感がない気がします。ということはステッカーの構えはプロレスの源流ということに!?」
先輩「フリースタイルのレスリングが世に現れたのは1904年のアメリカからと言われている。つまり最初に紹介したウィリアム・マルドゥーンの時代は、まだフリースタイルがなかったんだ。だからグレコローマン、カラー・アンド・エルボー、キャッチが同じスタイル同士で試合したり、ミックスルールで試合したりで行われてきて・・・そして、やがてルールがまとまり出して、ひとつのものとなっていった流れがある。ということはステッカーのそれはカラー・アンド・エルボーやキャッチの名残りを持つ構え、現在のプロレスの原型なのかもしれないね」
4分32秒 キャドック、スタンドで足払い
探偵「あ!!キャドックが足払いのようなことをしましたよ」
先輩「これは驚いた。この時代に、というか外国人でレスリングで足払いを使う人がいたとは・・・」
探偵「珍しいんですか?」
先輩「ああ。日本人でも柔道上がりのレスリング選手とか、重い級とかくらい・・・いや、今はもうやる人はほとんどいないんじゃないだろうか?これもカラー・アンド・エルボーやキャッチの名残りなのかなぁ?興味深いシーンだ」
探偵「キャドックがまたバックに回りましたね」
先輩「このあたりは、やっぱりフリースタイルレスリングの動きだね。それにしてもキャドックは動作が早い。かなり瞬発力があった選手だったんだと思う。しかし、ここまではいいんだけど、ここからなんだよ。先ほどもそうだが、キャドックはバックに回ったあとの、ここからがないんだよなぁ・・・」
探偵「確かにここからは失速しますね」
先輩「しかも映像を見てわかるように左脇に着いて、左腕を取りたいのか・・・左後方から何かを狙っているように見えるんだが、左に着くがあまり相手の背中をガラ空きにさせてしまっている。つまりグランドに持っていきながも、まったく相手を制圧してないんだよ。だからステッカーに逃げられてしまうんだ」
探偵「なるほど・・・キャドックは左から腕を取るか、ヒジ関節を狙っているんでしょうか?」
先輩「わからないなぁ・・・でも、普通バックから腕を取るにしても、完全にバックを取り相手を制圧してからやるもんなんだが・・・このバックからのキャドックの狙いがなんなのか、ちょっと謎だなぁ」
5分33秒 ステッカーがスタンドの片足タックルで足を取りテイクダウン。バックから左足をフックしようとしている
探偵「先輩、このステッカーのタックルはどうですか?」
先輩「このステッカーの片足タックルは低い位置から飛び込むものではなく、スタンドで相手の足を引っかけるようにして取るものだ。高いし射程距離は短いから切られる場合が多いが、切られてもすぐ体勢が整えられるから不利になるリスクは低いものだね」
探偵「なるほど。そしてここからテイクダウンを奪ったあと今度はステッカーがバックを取りましたが、先輩、さっきのキャドックとはちがい、ステッカーは完全に背後から制圧していますね」
先輩「うん。得意のボディシザースを狙っているというのもあると思うけど、バックを取ったら、まずこれが基本だね」
探偵「6分22秒、うーん、このあたりからは映像が悪く見えなくなってしまいますね」
探偵「ざっと100年前の映像だから見えなくなるところもあるんだろうな。こればっかりはどうしようもないなぁ」
先輩「ああ、現在でも、これだけ速いスピードで正面タックル入れる選手はそういないよ。キャドックの瞬発力は唯一無二と言っていい。それに入るタイミングだ。タックルにいく予兆をまったく見せず入ったからステッカーがカウンターできなかったんだ」
探偵「予想できないタイミングでとんでもなく速く入られたから、ステッカーにしたら「!?」という感じだったんでしょうね。ですがキャドック、バックを取りましたが・・・やはりそのあとがない?」
先輩「そうなんだよ。あれだけのタックルを持っていながら、テイクダウンしたあとグランドにいくと攻めあぐんでしまうんだ。なんでかなぁ?もったいない」
探偵「と・・・また映像が悪くなりましたね。グランドのようですが、何をしているのかはわからないですね」
9分49秒 このあたりからステッカーがスタンドのままバックを取っている、グランドに持って行くが立ち上がられる、スタンドでの片足タックルの状態からステッカーが足を使い後ろに倒す、という様子が断片的に映る
探偵「先輩、ここはお互いに目まぐるしい攻防、見応えありますね!!」
先輩「ああ、このあたりはまるっきりレスリングの動きと言っていい展開だ。中でも・・・ここ、見てごらん。ステッカーの片足タックルに対し、キャドックは足を取られながらもステッカーの股に足を入れているんだ。わかるかい?」
探偵「本当だ。キャドックの足がスッテカーの股の間に見えますね」
先輩「実は、こうするとテイクダウンが取りづらいんだよ」
探偵「そうなんですか」
先輩「見た目だとキャドックの軸足にステッカーが左足かけて倒せるんじゃ?と思うかもしれないが、こうされるとステッカーがひとつ踏み込んでもキャドックが同じだけ下がってしまいコントロールできないんだ。股に足が入っているから足を横や上にも動かせない。言ってみればキャドックの股関節から膝までの大腿骨が、つっかえ棒になるようなイメージかな」
探偵「へぇ・・・ではテイクダウンするためには!?」
先輩「この足を股から出すんだ。そうすればつっかえ棒、つまり取っている足を上げたり横に動かしたりというコントロールができるようになるから軸足を刈って崩すなどの動きが可能になるんだよ。映像を見ていると足が股から外れたあとステッカーがコントロールしキャドックを後ろに倒しているのがわかるだろう」
探偵「なるほど・・・確かに足が股から外れたあとすぐ倒していますね。でも先輩、ここから・・・先ほどから見ていて疑問に思ったんですが、倒された方は必ずパーテールポジション(四つんばい)か、うつ伏せになっているじゃないですか?」
先輩「そうだな」
探偵「でも、倒されたからといって必ずパーテルポジションや、うつ伏せになる必要はあるんでしょうか?背中を着いてのグランドの展開・・・たとえば体を流してグランドに引き込むとか、猪木さんがペールワンとやったときのように下から関節を取るとか、そういう形に持って行ってもいいんじゃないかと思うんですが、この試合では見られません。このときは、そういった技術がなかったのでしょうか?」
先輩「いや、技術は存在していたはずだよ。エド"ストラングラー"ルイスの書物からも、そういったシーンが見られるからね」
ルイスの下からの関節技
先輩「しかし、ここでそうしなかったのには、なによりこうしなければならなかった理由があったからだと思うんだ」
探偵「それは!?」
先輩「フォールカウントがシビアだったんじゃないだろうか?」
探偵「フォール・・・」
先輩「前田光世って知ってるか?」
探偵「え!?ああ、コンデ・コマと呼ばれた柔道家で、ブラジリアン柔術の父とも言われた!?」
先輩「そう。異種格闘技戦を含め生涯で2000戦試合をも行い、無類の強さで勝ち続けた伝説の柔道家だ。その前田光世がアメリカに渡ったときレスリングと戦い、下から十字締めをきめながらも負けてしまった試合が唯一あるというんだが・・・なんだかわかるかい?」
探偵「まさか、フォールカウントが入ってしまったと!?」
先輩「そう。前田光世は下から、今でいうガードポジションの状態から十字締めをした。柔道なら抑え込みにはならない形にして有効な攻めになるが、レスリングでこの形は即フォールになる。そのためフォール負けしてしまったというわけだ」
探偵「へえ・・・」
先輩「渡米したばかりで、まだレスリングルールを把握してなかったから、という記述もあったりするけど、そもそも前田光世は端っからレスリングルールで対決したわけじゃないし、相手も柔道ルールで対決したわけじゃないから、その結果はどうなのか?ってところではあるんだけどね・・・まあ話が反れちゃうんでここで話を戻すけど、とにかくシビアなフォールがあるルールの試合では、絶対やっちゃダメな体勢があるということさ」
探偵「なるほど・・・」
先輩「おそらくこの時代のプロレスは現在のレスリングのようにフォールカウントがワンだったんじゃないかな?」
探偵「だから背中を着けるグランドの行為を一切許さず、レスリング的な試合となっているわけですね」
先輩「おそらくね」
10分50秒 ステッカーはバックからジワジワとボディシザースを狙う
探偵「うーん、キャドックと比べると、やはりステッカーはバックを取ったあとの攻めが確固たるものですね」
先輩「ああ、しっかりとバックを取り攻めているね。それに得意技のボディシザースだが、入り方を見る限り、スッテカーは右ヒザを相手の右に置き左足をボディに入れていくという入り方が得意だったようだ」
探偵「それにしても先輩。ここまでの流れ、本当にレスリング的な攻防ばかりですね」
先輩「ああ、打撃はおろか、関節技へ行くような様子もない。本当にレスリング的だ。この時代のプロレスはポイント制を無くしたフォール決着のみのレスリングって感じなのかな・・・」
11分53秒 キャドック回避。立ち上がる
12分00秒くらいから、ステッカーが片足タックルに取られた状態から左腕を背中越しに回しスタンドのままキャドックの腕を取りに行く
先輩「こ、これは・・・映像を戻してくれ」
探偵「はい」
先輩「見てくれ。まずはキャドックがステッカーの左足を取っている」
探偵「はい。これはこれまでにも何度か見られた体勢ですね」
先輩「うん。だが、このあとステッカーが左足は取られたまま、右手でキャドックの左手を持って切っている。わかるか?」
探偵「はい。ステッカーの右腕とキャドックの左腕が繋がってるのがわかります」
先輩「そのあと、キャドックの右腕を抱えていたステッカーが、左腕をキャドックの背中越しに素早く回しているんだ。この黄色いラインがスッテカーの左腕だ」
探偵「一瞬で回しましたね」
先輩「そして左足を切り状態を起こし、ステッカーは腕を取ったまま足払いをした」
探偵「本当だ。引っ掛けるようにして足を払いに行ってます」
先輩「そこからステッカーは腕を上げようとしている。対してキャドックはそうさせないようにしている。しかし・・・」
探偵「先輩、これは!?」
パート2へ続きます。
↧
プロレス名勝負伝~ジョー・ステッカーvsアール・キャドック~パート2
パート1からの続きです。
探偵「先輩、これは!?」
先輩「ダブルリストロックの体勢だ」
探偵「ダブルリストロック!?関節技ですか!?」
先輩「そうだ。どうする・・・」
探偵「・・・(ゴクッ)」
探偵「回った!!」
探偵「ああ!?キャドックがタックルっ!?せ、先輩、これは!?」
先輩「ああ。順を追って説明しよう。まず12分くらいから片足タックルを切りながらステッカーは腕を取りに行った。やがてスタンドで腕を取ったステッカーに対しキャドックは防御を取ろうとした。ここまでは前回、説明したとおりだ」
探偵「はい」
先輩「その後、キャドックは踏み込まれんとステッカーの左足を押さえたり足を取って形勢を変えようと動作する。だがスッテカーは依然チャンスと腕を引き抜かんとする。ルー・テーズの画像を使って説明すると、いわばこの体勢だ」
探偵「はい。猪木さんがテーズに左腕を取られているのがわかります」
先輩「12分23秒、スッテカーは後方へ回転しアームロックの態勢でグラウンドへ持って行く。ただ、ステッカーは左足を股の下に入れながら縦に回ったので技への意味や形に関してはこの画像とはちがう点があるが、あいにく縦回転のがみつからなかったので・・・イメージ的にはこの感じということで勘弁してくれ」
探偵「なるほど」
先輩「と、ここからダブルリストロックにいくわけだが・・・しかしキャドックは、おそらくこの回転を利用して脱出し、いったん離れスキができたところにチャンスとばかり間髪入れずタックルにいった。しかしステッカーはこれを読み、交わす・・・という流れだったわけだ」
探偵「そうだったのか!!すごい!!」
先輩「ああ。すごい攻防だ。8mm映像なんでわかりずらいが、よーく聞くとステッカーが腕を取ったとき場内の歓声がやや大きくなるのもわかるね」
探偵「そうですね」
先輩「それと・・・」
探偵「それと?」
先輩「ダブルリストロック、いわゆるアームロックは古来から日本はもちろん世界で存在していた関節技だ。そして現在でも様々な格闘技で使われているが・・・」
探偵「はい」
先輩「今回のこの映像は技が決まるシーンこそ見れなかったが、アームロックの入り方に関しては、おそらく最古の映像ということになると思う」
探偵「そうか。古くから存在していた技ですが、実際の入り方がどうだったのかなどを考えれば、これは資料的価値も高いわけですね」
先輩「うん。しかもその最古の映像の取り方が、片足を取られている状態から手を切り、腕を取るという入り方だなんて・・・」
探偵「すごいことなんですね」
先輩「ああ。普通に考えたなら、まずあの状態から相手の腕の関節を取るという発想に至れない。もし至ったとしても、最初に左腕で抱えていた右腕、つまり自分に近い方を取るはず・・・いや経験者ならそっちを取ってしまうはずなんだ。でもステッカーは自分から遠い位置にある左腕を取りにいった。すごい。思いつかないよ。現在では様々な関節技の技術が世に出ているけど、こんな入り方は見たことがない。こんな入り方があったなんて本当に感動ものだ。フォール決着のみのレスリングだなんてとんでもない。奥が深い。素晴らしすぎる攻防だ」
12分39秒 早い動き。激しくバックを取り合う
探偵「激しい攻防ですね。先輩、やはりお互いバックに回り攻撃したい感じですね」
先輩「うん。ステッカーの狙いはバックから得意のボディシザーズでまちがいないだろう。しかしキャドックは試合早々からバックに回ったあとの攻めが不鮮明。タックル技術ではステッカーよりも上だが、先ほどタックルを関節に切り返されたことで、もう安易には入れなくなってしまっただろう。この先どうするかだな」
探偵「キャドック劣勢ですか・・・」
12分57秒 膠着から映像が悪くなり、良く見えない
先輩「うーん、映像も不鮮明になってしまったか・・・」
探偵「グランドの展開のようですが、完全にわからないですね」
13分15秒 映像が換わり、グランドでバックの取り合いからスッテカー。またもボディシザースを狙う
探偵「ステッカーは、やはり右ヒザをつき左足を入れる入り方なんですね」
先輩「うん。それにしてもキャドックの防御がすごい。体をあらゆる態勢にし、絶対に入らせないようにしている。このあたりを見ると、ステッカーのボディシザースは“一度入られたらおしまい”なんだろうな」
探偵「なるほど。まさに“必殺”ですね」
14分10秒 キャドックがステッカーのグランド攻撃から回避しスタンドに。その後、テイクダウンになるが、また映像が悪くなり、どうなったのかわからない
先輩「どうもこの引きで撮った映像に切り換わると見えなくなるな」
探偵「何分、昔のフィルムですからね。でも、おそらくスッテカーがバックからボディシザースを狙っている様子ですね」
先輩「そうだな。キャドックはスタミナも切れてきたのかもしれない」
15分00秒から動きがあり、15分07秒から映像が換わり鮮明になってからスッテカーの片足タックル
探偵「パート1で説明してもらったようにステッカーの片足タックルを足を入れ防御していますが、もはや守るのが精一杯という感じに見えますね」
15分25秒 ステッカーがテイクダウンを奪いボディシザースに入る態勢に
探偵「この映像がステッカーのボディシザースの入り方を一番鮮明に見れるとこかもしれないですね」
先輩「ああ。あ~でもまた映像が・・・」
探偵「うむむ・・・ダメかぁ」
15分39秒 また映像が換わり不鮮明に
先輩「よく見えないが、しかしスッテカーがバックからボディシザースを狙っている様子はわかるね」
探偵「そうですね。攻防が見えないのは残念ですが、淡々とボディシザースを仕掛けるステッカーに、それを防御するキャドックの攻防は臨場感あっていいですね」
先輩「そうだな。まさに息詰まる闘いだ」
16分35秒 不鮮明だがグランドの態勢が変わった様子
探偵「何か動きがあったと、キャドックが下でなくなったように見えますね」
先輩「キャドックはスイッチしたのかな?」
探偵「スイッチ?」
先輩「うん。言葉で説明するのは難しいんで省略するけど、バックに回られた状態から相手のバックに回るスイッチという切り返し技がレスリングにはあるんだ。おそらくそれをしたんじゃないかなぁ」
探偵「へぇ~。そんな動きがあるんですね」
先輩「うん。レスリング経験者じゃなくても、昔の新日なんかじゃ藤波とかね、使う人いたんだけどね。今はグランドの展開自体なくなっちゃったから見なくなったなぁ」
17分00秒 立ち上がる。以後、不鮮明
17分15秒 両者転がる形でグランドに。でも不鮮明でわからない
17分46秒 映像が換わる。と、ボディシザースの態勢に。しかし、これも入っておらず、立ち上がる
18分05秒 カメラが換わりスタンドの状態からになる
18分23秒 ステッカーがバックに回る
探偵「またしても同じ展開になりましたね」
先輩「ああ。キャドックはスタンドでも序盤の勢いがなくなってしまいテイクダウンを取られるばかりになってしまった。グランドも防ぐのに精一杯という感じだ」
探偵「先輩、映像を見ていると、ステッカーは腕を取りに行っているように見えるんですが、どうでしょうか?」
先輩「うん。腕を取りフォールの態勢へ持っていいく、というのもある。それと、腕を取り、相手に腕の防御をさせることで下半身を浮かせて足を入れる・・・腕を取ることで意識を上に行かせて下を、というのを狙っているのかもしれないな」
探偵「なるほど。ボディシザースのための腕取りというわけですか」
先輩「そして逆も然り。腕を取り下半身を浮かせて足を入れようとすることで意識が下、つまりボディシザースにいったところで腕にいく、というのもあるだろうね」
探偵「へぇ・・・一見すると地味な画でも、ものすごい展開が成されているんですねぇ」
19分00秒 キャドックがネルソンでキャドックを反転させる
探偵「これですね!!」
先輩「そうだ。しかし、このままだとキャドックはフォール負けしてしまうぞ・・・」
19分16秒 完全に仰向けになってしまったキャドック
探偵「キャドックは完全に乗られていますよ!!」
先輩「ああ、マウント状態で完全に手四つで抑えられている。これはピンチだ」
19分29秒 キャドック、ブリッジから反転し脱出
探偵「脱出した!!先輩!!」
先輩「うーん、あそこまで押さえられていて抜け出すとは・・・キャドックもタダモノじゃないな」
19分35秒 カメラ換わり、ステッカーの片足タックルからテイクダウン
19分57秒 映像変わりキャドック片足。しかし倒すに至らずコーナーへ
探偵「久々のキャドックのタックルでしたが押してくだけで終わってしまいましたね」
先輩「ああ。足を取ったはいいが、もうコントロールできなくなっているんだ。明らかに体力がなくなってきている。この試合の映像は全部で25分くらいになっているが実際の試合時間は2時間5分だったそうだからなぁ・・・」
探偵「に、2時間!?体力消耗もうなずけますね・・・」
先輩「でも、それだけじゃないんだ。キャドックが戦時中に陸軍だった話は最初に出たが、そのとき戦地で毒ガスを吸ってしまい、以降は肺機能が正常じゃなかったらいんだよ。それが理由で、この試合の2年後に34歳で引退してしまっているんだ」
探偵「呼吸がちゃんとできない状態で試合を!?そんなハンデがあったんですか・・・」
20分09秒 映像が変わり、グランドから。ステッカー、バックからコントロール
探偵「ステッカーはキャドックの足のつま先を持ったり、体を揺らしたりしていますね」
先輩「これもさっきの腕取りと同じく胴体へ自分の足を入れるためのものかもしれない。完全にキャドックは制圧されているな」
探偵「さっきの話を聞いたらキャドックにがんばってほしくてたまらなくなりましたよ。キャドック、がんばってくれー!!」
20分23秒 映像変わってステッカーがサイドヘッドロック?
探偵「先輩、これはヘッドロックでは!?」
先輩「見えずらいが、そうだな・・・おそらく首を絞めているのではないと思う。ステッカーは腰を上げて締め上げているね。これはキツイよ」
探偵「あ、でも自ら外していきましたね」
先輩「しかし、外した途端相手にバックを取られないように振り向いている。もしかすると外れそうになったので自ら外し態勢を取ったのかもしれないな」
20分45秒 映像換わりグランドから。ステッカーがバックから攻める
探偵「先ほどのように腕を取っていますね。体が浮いてスッテカーの左足が入りそうですよ!!」
先輩「これは、ああでも抜けた!!キャドックが前傾で脱出した。ステッカーがちょっと前に乗ってしまった態勢を見逃さなかったな」
20分50秒 脱出したキャドックは向き合おうとするスッテカーに対し足を取りバックに回る。目まぐるしい攻防
探偵「あっ!!」
探偵「キャドックがやっとバックを取りましたね!!」
先輩「しかしキャドックはここからだ。どうするか・・・」
探偵「キャドックが乗りましたよ!!」
先輩「さあどうする!?」
探偵「うーん、攻めあぐんでいる感じですね・・・」
先輩「このチャンス、何かほしいところだが・・・」
21分49秒 スッテカーがスイッチし形勢逆転
探偵「先輩、これがスイッチですか!!」
先輩「ああ、これもスイッチだね。それにしてもステッカーの回転が早い」
探偵「しかしステッカーは横についたままですね?どうしたのでしょうか?」
先輩「映像からは見えないがキャドックが足をフックしていて上に来させないようにしているんだ。地味に見えるが巧妙な攻防だよ」
22分13秒 ポジションが取れないスッテカーは反転して戻り、スタンドへ。映像換わり、ステッカーがスタンドでバックポジション。ここから右足を掛けながらのテイクダウン。ローリングしてベタになる
探偵「またもステッカーがバックを取りましたね」
先輩「グランドに持っていき、スッテカーはここからまた上下と攻めていくだろう。キャドックはもはや成す術なしか・・・」
22分40秒 ステッカー、ボディシザースを狙いながら上半身をネルソン(に見える)で返しフォールを狙う
探偵「スッテカーが完全に乗っています」
先輩「ああ、完全にステッカーがホールドしている。これは・・・」
探偵「あ、キャドックが跳ね上げ返しました!!でも、ああっ、またすぐバックを取られてしまいましたね」
先輩「うん。ここから、またしてもスッテカーの得意な攻めだ。キャドックはなんとか凌いでいるが、これは時間の問題かもしれないな・・・」
23分35秒 スッテカーの左足がキャドックの胴に回る
探偵「キャドックの体を揺らし、反転させながら徐々に足を深く入れていきました。とうとうスッテカーの足がキャドックの胴体に回りましたよ!!ボディシザースですね!!」
先輩「ああ。バックから右ヒザを相手の右側に置き、腕を取りながら胴体を浮かせ、相手を揺らし反転させながら左足を入れていく・・・これが胴締めの鬼といわれたジョー・スッテカーのボディシザースの入り方だったんだ。圧巻だ・・・」
24分20秒 ステッカーがキャドックをフォール
探偵「ついにカウントが入ったようですね!!」
先輩「ああ。映像では見づらいが、ボディシザースから反転させて、最後はステッカーの練習風景にもあったこの形に持っていってのフォール
で、まちがいないだろう」
探偵「そうですね、これですね!!」
先輩「それにレフリーが両肩を確認してフォールを取った。カウントはスリーでなくワンだったんだ。現在のレスリングと同じフォールの取り方だったんだなぁ」
探偵「でも先輩、ステッカーの得意技のボディシザースは、ボクはギブアップを取るものだとばかり思っていましたが・・・」
先輩「うん。試合をじっくり見て思ったんだが、おそらくステッカーはボディシザースでギブアップを取るのではなく、ボディシザースを決めながら腕を使い、反転させながらネルソンでフォールに持っていくというのが得意だったんじゃないかなと・・・ボディシザースは日本レスリング界の名選手、笹原正三が開発した"股裂き"に近いフォール技だったんじゃないだろうか」
探偵「その強烈な締めを利して、実戦では確実にフォール勝ちするための手段としてボディシザースを使っていた、ということなんですかね」
先輩「うん。だと思うなぁ。それにしても奥が深い、本当に奥が深い名勝負だったなぁ」
探偵「そしてThe Winner with the Winning Smile.勝者は勝利の笑顔、かぁ・・・」
探偵「ステッカーの笑顔、いいですね」
先輩「ああ。だからこそ悲しい・・・」
探偵「え!?」
先輩「ステッカーはこのあと引退を表明するんだが、翌年プロモーターに説得され復帰するんだ」
探偵「それは先に話していたルイスとの試合がドル箱だったから・・・ですか」
先輩「そう。キャドック戦で燃え尽きたステッカーにとって、このときプロレスへの熱意はもう消えかけていた。しかし押しに負けてしまったんだろう。結局1925年5月に世界王者に返り咲くとルイスとの戦いを軸に1928年2月まで約3年、防衛し続けた。その後タイトルを失い引退すると、ここから農業へ戻るが1929年の大恐慌で自身の農園が破綻してしまい、やむなくプロレスへ復帰。そして5年後、1934年に41歳で引退し兄の会社経営を手伝っていたが・・・43歳で統合失調症となり、ステッカーは80歳で亡くなるまで施設で過ごすことになるんだ」
探偵「そんな・・・」
先輩「ヒーローの末路は、なんでいつもこうなんだろうな・・・」
探偵「先輩、この試合が行われた1920年1月30日から今年でちょうど100年目になります。素晴らしい試合を残してくれた時代の英雄。せめてボクらだけでも・・・たまに思い出して供養しましょうよ」
先輩「そうだな。時間を超えて素晴らしい戦いを見せてくれた名レスラーに感謝を込めてな・・・」
プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ① 3代目マディソンの時代 1925~1968年~へ続きます。
↧
ザ・ニックネーム選手権
どうも!!流星仮面二世です!!
ということで今回はですね、読んだが最後、問答無用です。プロレスラーのニックネーム100問に挑戦していただきます。
ハイハイ。抜き打ちテストずる~い!!とか言わない。ちゃんとね、難しい問題には項ごとにレスラーがヒント出してくれますからね。じゃ、前の人から答案用紙を一枚ずつ後ろに回してください。先生がぁ~いいと言うまで裏にしておいてください。先生がいいっと言ったら~表にして必ず、必ず名前を書いてから始めてください。
で、いいですか?ネット検索はカンニングですからね。行ったら即0点となります。あと、こっそりネットで調べて、元々ぉ~知ってるように振る舞う"知ったかぶり"をする人が稀にいます。そういう人は0点じゃ済まされません。無期、若しくは5年以上の懲役に処されますので、え~絶対にやらないように!!お願いします。
最後の人まで回った?回ったね?やり方は各項上げてあるレスラーのニックネームに答えるだけです。ひとテーマ10問で1問1点です。
はい、では、始めてください!!
1.基本問題
①燃える闘魂
②東洋の巨人
③不沈艦
④超獣
⑤白覆面の魔王
⑥黒い呪術師
⑦千の顔を持つ男
⑧グレート・テキサン
⑨テキサス・ブロンコ
⑩大巨人
「久しぶりだな、④だ。って、おいおい。さすがにこの10問はヒントなしでパーフェクトだっただろうな?ここで躓いてるようじゃ、この先は到底無理だからな。次からハードル上がるぜ。気合い入れてやりな」
2.日本人レスラー
①和製マットの魔術師
②和製カーペンティア
③和製アメリカンドリーム
④和製人間風車
⑤方舟の天才
⑥怒涛の怪力
⑦野生のダンプガイ
⑧金狼
⑨突貫小僧
⑩龍の忍者
「⑦です。⑨は新日本のレスラー。⑩はマスクマンで、かつてこのブログでも取り上げられたことがあるレスラーだよ。わかるかな?」
3.近代の新日本レスラー
①100年に一人の逸材
②ザ・レスラー
③レインメーカー
④混沌の荒武者
⑤スイッチブレード
⑥ムーンチャイルド
⑦ザ・ローグジェネラル
⑧ジ・エアリアル・アサシン
⑨フェノメナール・ワン
⑩リアル・ロックンローラー
「こんにちは④です。ヒントです。⑩は外国人レスラーで、彼がバレットクラブにいたときのニックネームです。現在はWWEです。わかりましたでしょうか?それでは全問、討ち取ったり!!」
4.覆面レスラー
①アカプルコの青い翼
②仮面の魔豹
③忍者仮面
④怪魚仮面
⑤稲妻仮面
⑥孤狼仮面
⑦流星仮面
⑧超破壊仮面
⑨暗殺者
⑩覆面神父
「はじめまして⑤です。私は日本では馴染みがないかもしれませんが60~70年代のメキシコではエル・サントに並ぶ人気と知名度を誇っていました。息子も二世でレスラーで、こちらは日本に来日したこともあります。大の親日家で自分の子供に日本人の名前をつけるほどなんですよ」
5.人間◯◯とインディアンレスラー
①人間発電所
②人間戦車
③人間魚雷
④人間空母
⑤人間起重機
⑥重圧粉砕機
⑦狼酋長
⑧荒鷲酋長
⑨荒熊酋長
⑩恐怖のアパッチ
「⑧です。私は日本プロレスにジョー・スカルパの名前で三度、⑧としては78年に新日本の第1回MSGシリーズに一度だけ参加しています。海外ではWWFが長かったですね。⑨は79年に一度だけ全日本に来日し⑦と最強タッグに出場しています。その後ニューヨークでは私と組んでWWFタッグチャンピオンにもなっていますよ」
6.悪役、ラフファイター
①流血大王
②流血怪人
③鋼鉄怪人
④生傷男
⑤ぶち壊し屋
⑥放浪の殺し屋
⑦踏み潰し野郎
⑧荒くれ牧童
⑨催眠博士
⑩神風軍師
「ああそうだ、おれが⑤だ!!何!?ヒント出せだと!!⑨は日本へは来日したことはないが名前は馴染みのはずだぜ。弟がスーパースターだからな。⑩は日系人レスラーで大戦中の軍人の名前がついてるんだとよ。でもヒント出したところでわかるやついるのか!?難しすぎるぞ!!おい徳光!!どこいった!!」
7.出身地などが入ったニックネーム
①ウガンダの大魔人
②アラビアの怪人
③テキサスの黄色い薔薇
④カリフォルニアの太陽
⑤英国の弾丸
⑥ミズーリの隼
⑦カナディアンロッキーの新星
⑧ロシアの白熊
⑨ナチの妖獣
⑩ナチの亡霊
「⑦だよ。ああ、このニックネームは若いときのさ。WWF時代はヒットマン・・・って、言わなくても知っているだろう?まさかおれの名がわからないなんてやつはいないだろうからな。⑤は独特のキックが素晴らしいレスラーだった。⑧は、どっちかな?とみんな悩んでるんじゃないか?」
8.黒人レスラー
①毒グモ
②黒い猛牛
③黒い魔神
④黒い山猫
⑤黒い稲妻
⑥黒い殺人戦車
⑦黒い弾丸
⑧黒い起重機
⑨黒い怪鳥
⑩怪力水夫
「⑤です。今回の⑤は同じニックネームでもジェリー・モローではなく私です。私は70年代は全米各地でファイトし特に南部では人気がありました。日本への来日を待望されましたが残念ながら来日できず、幻の強豪、まだ見ぬ強豪と言われていたそうです。左目が義眼です。わかりましたか?」
9.60~70年代のレスラー
①密林男
②メキシコの狂える巨像
③魔術師
④マットの魔術師
⑤殺人狂
⑥地獄の料理人
⑦金髪のジェット機
⑧モルモンの暗殺者
⑨マルタの怪男爵
⑩猛犬
「⑦だ。金髪の妖鬼、金髪の爆撃機とも言われたが、日本のファンは今でもおれがわかるかい?そうか、それはうれしいよ。ヒントは、まず①はよく見てから答えることだ。⑨は独特のバックブリーカーでブルーノ・サンマルチノを失神させたという伝説を持っているレスラーだ。⑩は犬の名前、というヒントの方がいいかな」
10.70~80年代のレスラー
①鋼鉄男
②鋼鉄男二世
③喧嘩番長
④暴走狼
⑤鬼軍曹
⑥電光男
⑦巨鯨
⑧青き閃光
⑨炸裂弾
⑩虎鮫
「やあ④だよ。ヒントは、①は項の年代をよく見てな。②の親父の方じゃないからな。⑩はニュージャパンへは同じ時代に来ていたしWWFでも一緒だったよ。83年10月にMSGでやったスジミー・スヌーカのケージ(金網)マッチ、ケージ最上段からのスーパーフライはすごかったが、あれは⑩が相手だからこそ、というのは大きかったと思うよ。さあ、わかったかな?」
お疲れ様でした。最後までありそうございます。さて、何問できましたか?
回答は来週です。
↧
↧
ザ・ニックネーム選手権 (解答編)
どうも!!流星仮面二世です!!
というわけで今回は前回の解答でございます。さっそくいってみましょう!!
1.基本問題
①燃える闘魂 (アントニオ猪木)
②東洋の巨人 (ジャイアント馬場)
③不沈艦 (スタン・ハンセン)
④超獣 (ブルーザー・ブロディ)
⑤白覆面の魔王 (ザ・デストロイヤー)
⑥黒い呪術師 (アブドーラ・ザ・ブッチャー)
⑦千の顔を持つ男 (ミル・マスカラス)
⑧グレート・テキサン (ドリー・ファンク・ジュニア)
⑨テキサス・ブロンコ (テリー・ファンク)
⑩大巨人 (アンドレ・ザ・ジャイアント)
ということで基本問題と題しました最初の問題は、ここは国語でいうところのひらがな五十音、算数でいうところの掛け算九九というくらい大切なところですよ~。中でも①と②です。これは年齢、ジャンル、ファン歴に関係なく"プロレスファンならば知ってなくてはならない"ことだとボクは思います。
ハンセンは新日本時代には「ブレーキの壊れたダンプカー」と呼ばれていましたが、記憶が確かなら79年6月に蔵前国技館で行われた第2回MSGシリーズの優勝戦のときのテレビで桜井康雄さんですね。ハンセンは今ジョージアでファイトしていると、そこでブレーキの壊れた大型トラック、これはダンプカーのことなんですが、そう呼ばれているんだと、確かそんな話をしたんですね。これが「ブレーキの壊れたダンプカー」が最初に言われた日じゃなかったかなと思います(まちがってたらすいません)日本ではすっかり不沈艦が根付きましたが「ブレーキの壊れたダンプカー」好きでしたね~。
ブロディは他に「キングコング」が有名ですが、83年2月にミズーリ州セントルイスのチェッカードームで行われたフレアーvsブロディのNWA戦のときですね。馬場さんがレイスからPWF奪回したときのテレビのときです。このとき「キングコング・ブロディ」とリングアナにコールされてて、あ~アメリカではちがうんだな~と感極まったことを思い出します。個人的には「キングコング」というニックネームのピークを見た日であります。
2.日本人レスラー
①和製マットの魔術師 (マイティ井上)
②和製カーペンティア (寺西 勇)
③和製アメリカンドリーム (ロッキー羽田)
④和製人間風車 (鈴木 秀樹)
⑤方舟の天才 (丸藤 正道)
⑥怒涛の怪力 (ストロング小林)
⑦野生のダンプガイ (阿修羅・原)
⑧金狼 (上田 馬之助)
⑨突貫小僧 (星野 勘太郎)
⑩龍の忍者 (マジック・ドラゴン)
これまた珍しい顔合わせの金狼・上田馬之助と狂犬ディック・マードック。これは強そうだ
はい、2.の項では日本人レスラーです。まずは和製◯◯ですが、これは小さい頃は正直なところ意味がわからなくてですね、中学生くらいになって、なるほど、そういうことなのか~と、なりましたね~。しかし今、冷静に見るとすごいですね。マイティ井上が「和製マットの魔術師」で寺西勇が「和製カーペンティア」というですね、実はふたりともエドワード・カーペンティア由来だったという驚愕の真実ですね。勉強になります。
ロッキー羽田の「和製アメリカンドリーム」も好きでしたね。あとアニマル浜口の「和製ブルーザー」や山田恵一の「和製ダイナマイト・キッド」もよかったです。今は外国人レスラーに憧れたりファイトスタイルを手本にするということがなくなってしまったので和製というニックネームは本当にいなくなりましたよね。鈴木秀樹が最後となりますかね。ちょっとさみしい気がします。
3.近代の新日本レスラー
①100年に一人の逸材 (棚橋 弘至)
②ザ・レスラー (柴田 勝頼)
③レインメーカー (オカダ・カズチカ)
④混沌の荒武者 (後藤 洋央紀)
⑤スイッチブレード (ジェイ・ホワイト)
⑥ムーンチャイルド (ジュース・ロビンソン)
⑦ザ・ローグジェネラル (バッドラック・ファレ)
⑧ジ・エアリアル・アサシン (ウィル・オスプレイ)
⑨フェノメナール・ワン (AJスタイルズ)
⑩リアル・ロックンローラー (プリンス・デヴィット)
若き日の棚橋。エースにも、こんな下積み時代があったのだ
続きまして3です。近代の新日本レスラーですが、これはですね、問題を作ってて、まずプロレスにおける昔と今のニックネームの概念のちがいですね。これを感じました。
かつてはニックネーム、もちろん自ら名乗るレスラーもいましたが、それはプロレス誌やスポーツ新聞などで使われていたものが広がって浸透したり、テレビの実況席から生まれて知られていったりというのが多かったですよね。そこいくと現在はあれですね。たとえば海外武者修行に行っていたレスラーが凱旋してきて登場すると、すでにイメージチェンジが成されていていますよね。で、この時点で新しいニックネームがもう付いていて、団体としてリングネームとニックネームが同時に発信されていくという形ですね(おそらくニックネームにも登録商標もあるんでしょうね)
こうすることで売り出すレスラーは目に止まりやすくなり、印象、記憶に残りやすくなりますし、イメチェンしたイメージも上がりやすくグッズなどに反映もしやすくなりますよね。⑤のジェイ・ホワイトの「スイッチブレード」は最たる例じゃないかなと思います。近代のニックネームはレスラーの売り出しでかなり重要なキーポイントとなるんだなと、こう思いました。
4.覆面レスラー
①アカプルコの青い翼 (リスマルク)
②仮面の魔豹 (エル・カネック)
③忍者仮面 (ブラックマン)
④怪魚仮面 (フィッシュマン)
⑤稲妻仮面 (ラヨ・デ・ハリスコ)
⑥孤狼仮面 (エル・ソリタリオ)
⑦流星仮面 (マスクド・スーパースター)
⑧超破壊仮面 (スーパー・デストロイヤー)
⑨暗殺者 (ジ・アサシン、またはジ・アサシンズ)
ザ・スポイラー、スーパー・デストロイヤーとして活躍したドン・ジャーディン。今のマスクマンには出せない迫力とミステリアスな風貌は常にファンの心をくすぐった
さて、4です。覆面レスラー、これはニックネームなしでは語れないですね。特にメキシコは古くは「聖者」エル・サントから「青い悪魔」ブルー・デモン。そして⑤の「稲妻仮面」ラヨ・デ・ハリスコですね。歴史を感じます。ボクらの年代だと藤波との戦いで馴染み⑥の「孤狼仮面」エル・ソリタリオ。タイガーマスクとの戦いで馴染みの③の「忍者仮面」ブラックマンですね。他にも「悪魔童子」ビジャーノⅢや「金腕戦士」ブラソ・デ・オロ、「銀腕戦士」ブラソ・デ・プラタと必ず付いてました。
⑧のスーパー・デストロイヤーの「超破壊仮面」これは好きなニックネームでした。ドン・ジャーディンのスーパー・デストロイヤーは当時のマスクマンにしては珍しくマスクのデザインにバリエーションがありました。ボクは鷲のデザインのが好きでしたね~。でも実はスコット・アーウィンのスーパー・デストロイヤー、ジ・アステロイドの方が好きだったりします。シンプルなんですがジョージア時代のマスクドとのタッグが好きで気に入ってます。
5.人間◯◯とインディアンレスラー
①人間発電所 (ブルーノ・サンマルチノ)
②人間戦車 (ボビー・ダンカン)
③人間魚雷 (テリー・ゴディ)
④人間空母 (ヘイスタック・カルホーン)
⑤人間起重機 (ビッグ・ジョン・スタッド)
⑥重圧粉砕機 (クラッシャー・ブラックウェル)
⑦狼酋長 (ワフー・マクダニエル)
⑧荒鷲酋長 (チーフ・ジェイ・ストロンボー)
⑨荒熊酋長 (フランク・ヒル、またはジュールス・ストロンボー)
⑩恐怖のアパッチ (ブル・ラモス)
5ですね。ここはまずプロレスのニックネームの王道とも言うべき人間◯◯です。これはですね、なんと言っても①の「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノですよ。これスゴくないですか?これほど一言で伝わって体を表せるニックネーム、他にはないですよね。素晴らしすぎますよ。
そして④のヘイスタック・カルホーンの「人間空母」ですね。そのレスラーの姿を知らなくても、どれだけでかいんだ!?人間空母だってよ!?なんかすんごいレスラーがいるらしいぜ!?となりますよね。なるでしょ~!?
で、なった上で体重272キロあったという「人間空母」カルホーンを「人間発電所」サンマルチノが試合で担ぎ上げたという伝説が出てくるわけですよ。これはですね、カルホーンがサンマルチノに担ぎ上げられたじゃダメなんですよ。「人間空母」が「人間発電所」に担ぎ上げられた!!から、いいんですよ。わかります!?ね~もうね、メシ何杯でも食えますよ。だからプロレスって好きなんだよなぁ~。
インディアンレスラーですが、⑩は本当は「殺人アパッチ」なんですが、こちらは我々の世代にはおなじみ"豆たぬきの本"の「プロレス名鑑」森岡理右ですね。こちらのから出させていただきました。なので、ちょっと難しかったですかね。すいません。余談ですが、あの本にブル・ラモスは馬と会話ができるって書いてあって、ものすごく興味をそそられた思い出があります。
6.悪役、ラフファイター
①流血大王 (キラー・トーア・カマタ)
②流血怪人 (アレックス・スミルノフ)
③鋼鉄怪人 (アイアン・シーク)
④生傷男 (ディック・ザ・ブルーザー)
⑤ぶち壊し屋 (クラッシャー・リソワスキー)
⑥放浪の殺し屋 (ジプシー・ジョー)
⑦踏み潰し野郎 (モンゴリアン・ストンパー)
⑧荒くれ牧童 (ネルソン・ロイヤル)
⑨催眠博士 (ジェリー・グラハム)
⑩神風軍師 (トージョー・ヤマモト)
トージョー・ヤマモト。一見、日本のプロレスとは馴染みがないように感じるが、海外武者修行時代の大仁田厚、淵正信、橋本真也、笹崎伸司など日本人のマネージャーを務めることが多々あった
6です。ここも5と同じくプロレスのニックネームの王道とも言うべきレスラーのタイプ、姿を表したネーミングですが、まず①ですね。これね、どうですか!?「流血大王」ですよ。流血という世界において大王なんですよ!?通常の社会ではあり得ない、想像もつかない世界観が広がりますよね。いいですね~。そして②です。「流血怪人」ですよ。これはすごいでしょ!?だって、すでに怪人なんですよ。すでに奇怪な人物なんですよ。それが流血しているんですよ。どうですか、この恐ろしさ!!たまらないです。
⑩は大戦時の陸軍大将・東条英機と海軍大将・山本五十六から名を取ったゆえに"神風軍師"というわけなんですね。ネーミングセンスが高すぎて脱帽です。ちなみに以前、某SNSでドラゴンボール芸人のぴっかり高木さんにトージョー・ヤマモトに似てますねとコメントしたところ「誰だよ!似てるじゃねえか!(笑)」というお返事をいただいたことがあります。本編とは無関係ですが、ちょっとうれしかったです。
7.出身地などが入ったニックネーム
①ウガンダの大魔人 (ジャイアント・キマラ)
②アラビアの怪人 (ザ・シーク)
③テキサスの黄色い薔薇 (デビット・フォン・エリック)
④カリフォルニアの太陽 (チャボ・ゲレロ)
⑤英国の弾丸 (クリス・アダムス)
⑥ミズーリの隼 (ジム・ブランゼル)
⑦カナディアンロッキーの新星 (ブレット・ハート)
⑧ロシアの白熊 (ニコリ・ボルコフ)
⑨ナチの妖獣 (バロン・フォン・ラシク)
⑩ナチの亡霊 (クルト・フォン・ヘス)
84年5月、デビットの追悼試合でケリーが着用したガウン。おそらくこの印象が、みなさんがケリーを「テキサスの黄色い薔薇」と誤認してしまった原因かも・・・ちなみにケリーのニックネームは「虎の爪」必殺のクローもタイガークローと呼ばれていた
さて7は、出身地由来ですね。これは結構あるんですが、気になるところはナチスを名乗るレスラーですね。これは1933年から1945年のアドルフ・ヒトラー、そして国家社会主義ドイツ労働者党支配下のドイツ。このナチス・ドイツの残党というわけなんですね。
⑨のバロン・フォン・ラシクはナチの怨念から妖怪と化した獣、⑩のクルト・フォン・ヘスは、まだこの世に未練のあるナチスの霊の怨念というところでしょうか。他にもフリッツ・フォン・エリック、ワルドー・フォン・エリック、ハンス・シュミット、キラー・カール・クラップなどナチスを名乗るレスラーはかつてはたくさんいました。冷血さ、強さ、ただならぬ迫力を持つレスラーならではのニックネームでしたね。しかし現在では二度と甦ることのないニックネームだと思うと、さみしいばかりです。
8.黒人レスラー
①毒グモ (アーニー・ラッド)
②黒い猛牛 (バッドニュース・アレン)
③黒い魔神 (ボボ・ブラジル)
④黒い山猫 (ベアキャット・ライト)
⑤黒い稲妻 (サンダーボルト・パターソン)
⑥黒い殺人戦車 (レイ・キャンディ)
⑦黒い弾丸 (ロッキー・ジョンソン)
⑧黒い起重機 (レロイ・ブラウン)
⑨黒い怪鳥 (スキップ・ヤング)
⑩怪力水夫 (アート・トーマス)
試合会場を訪れたモハメド・アリと話す黒い魔神ボボ・ブラジル。当時のプロレスのポジションの高さを表す貴重な写真だ
8は黒人レスラーです。陸上、バスケットボール、アメフト、ボクシングなど様々な競技で脅威の身体能力を誇る黒人は、プロレスでもその威力を発揮しては注目を集める、なくてはならない存在でした。ニックネームはそれを表すように"黒い"と付くものが多く、特有の威圧感、地から湧き出るようなパワーを感じることができたものでした。
そんな黒人レスラーでボクが興味をそそられたのは問題のとき画像を出した⑤の「黒い稲妻」サンダーボルト・パターソンでした。子供の頃"秋田書店"の「プロレス大全科」で王冠を被り微笑むパターソンを見て、稲妻が黒い!?光が黒い!?こんなあだ名が付くなんて、こいつは強いんじゃねーか!?と、いつも心奪われたものでした。しかし、パターソンは一度も日本には来ることはありませんでした。動いている姿はもちろん、結局プロレス大全科以外で姿を見ることもありませんでした。でも、そのおかげで「黒い稲妻」の幻影をいつまでも抱くことになり、ボクの中では忘れられないレスラーとなりました。たった1ページに載せられた写真と少しの説明文とニックネーム。でも忘れることができなかったレスラー・・・かつては、プロレスにもそういうレスラーの存在があったのです。
さあ、ここからはラストスパート。9、10続けていきますよ~。
9.60~70年代のレスラー
①密林男 (グレート・アントニオ)
②メキシコの狂える巨像 (ジェス・オルテガ)
③魔術師 (パット・オコーナー)
④マットの魔術師 (エドワード・カーペンティア)
⑤殺人狂 (キラー・コワルスキー)
⑥地獄の料理人 (ハンス・シュミット)
⑦金髪のジェット機 (ジョニー・バレンタイン)
⑧モルモンの暗殺者 (ドン・レオ・ジョナサン)
⑨マルタの怪男爵 (バロン・マイケル・シクルナ)
⑩猛犬 (ブルドック・ボブ・ブラウン)
「密林男」アントニオのバス引き。アントニオはリアルタイムを知らない我々の年代のファンにも名が知られているが実は二度しか日本へ来日していない。広い意味で"記憶に残るレスラー"だった
空中殺法において回転技のパイオニアとなったカーペンティア。元祖サマーソルト・キックはまさに「マットの魔術師」そのものだった。見事!!
これが66年1月にMSGでサンマルチノを失神させたバロン・マイケル・シクルナのマルタ式バックブリーカー。キリスト教の騎士修道会であるマルタ騎士団の象徴、マルタ十字をマントに背負い登場していた「マルタの怪男爵」の面目躍如たるシーンだ
10.70~80年代のレスラー
①鋼鉄男 (ポール・オンドーフ)
②鋼鉄男二世 (テッド・デビアス)
③喧嘩番長 (ディック・スレーター)
④暴走狼 (アドリアン・アドニス)
⑤鬼軍曹 (サージェント・スローター)
⑥電光男 (マイク・ジョージ)
⑦巨鯨 (キングコング・バンディ)
⑧青き閃光 (ブライアン・ブレアー)
⑨炸裂弾 (マグナムTA)
⑩虎鮫 (ドン・ムラコ)

日本では不遇であったがアメリカでは「ミスターワンダフル」のニックネームでトップスターだった「鋼鉄男」ポール・オンドーフ。85年3月、記念すべき第1回レッスルマニアではメインイベントに登場。ロディ・パイパーと組みハルク・ホーガン、ミスターTと対戦。大役を務めた
82年6月テキサスではフリッツ・フォン・エリックの引退試合の相手。83年6月にはダラスで馬場さんとPWF戦。85年1月は新日本へ初来日し愛知、大阪で猪木と1万5000ドルをかけたボディスラム・マッチで注目を集め86年4月のレッスルマニア2ではメインでホーガンとケージ・マッチを行ったキングコング・バンディ。まさに伝説の「巨鯨」だ
81年8月、MSGでWWFインターコンチネンタルヘビー級王者としてWWFヘビー級王者のボブ・バックランドに挑戦した「虎鮫」ドン・ムラコは60分フルタイムドローの大熱戦。王者を追い込んだ。日本人ではあまり目立つことはなかったが海外では高く評価されるレスラーだった
さて、というわけで・・・古いものから新しいもの、馴染みのものから難題までいろいろありましたが、みなさん点数は、いかがでしたでしょうか?
今の世の中、何かあれば人はすぐネット検索に走ります。それもいいかもしれないけど・・・でも、たまにはたった数文字の言葉から、何かを考えてみませんか?想像してみませんか?プロレスだけに与えられたファンタジー、ニックネームでレスラーに夢を抱いてみませんか?きっともっと、プロレスが楽しくなるはずです。
それではまた一緒に楽しみましょう。ありがとうございました。
↧
ボクは、ここにいる
どうも。流星仮面二世です。
今回のお話は本当に、本当に私的な内容です。だから、おもしろくはありません。でも、もしかしたら・・・ネットの中で誰かと関わることがある以上、みなさんの身にも同じようなことが起こりうるかもしれません。いや、すでに起こったことがあるかもしれません。そんなとき、どうしたらいいのか?どんな気持ちになるのか?自分ならどうするのか?そんなことを考えながら、ちょっとでも目を通していただけたならうれしく思います。
ボクがブログと出会ってから約15年になります。始まりは2005年9月16日。このブログをする前にやっていた"お婿さんブログ"が始まりでした。
当時はブログが日本で認識され広がり始めた頃。いわゆる"ブログが流行"し出した時期でした。
その頃は、このAmebaですらサービス開始して1年目。まだ芸能人のブログは少なく、一般人の書くブログの方が先行していたように感じます。書かれる内容はいろいろでしたが、学校や仕事のこと、家庭のこと、今、自身が置かれている環境のこと・・・自身の周りの出来事、日常生活を表したものがほとんどでした。
中でも多かったのは夫婦のやり取りや子育てのことを中心とする"主婦の方が家庭のことを綴ったブログ"でした。
その中身は、言葉は悪くて申し訳ないんですが、この人、こんなんでよくブログやろうと思ったな~とあきれてしまう心底つまらないものから、文脈が素晴らしく、分かりやすくて深い、自作のイラストなどを交え綴られる凝っているもの、のちに書籍にまでなってしまうようなものまで、それはいろんなブログが見られました。
お婿さんブログをやっていた手前、家庭環境や自分と同じ子育ての環境下が見て取れるこうしたブログには、よく目がいきました。共通の話題も多く、読んでいて共感することも多々ありました。
そんな頃です。ボクはひとつのブログと運命的な出会いをしました。
その方のハンドルネームは"きざお"といいました。
主婦にして"きざお"と名乗るこの女性の書くブログの内容は、11歳の年の差がある旦那さん"ベレー"さんとのやり取りや、まだ幼い長女のちいちゃん。次女のロナウ次女ちゃんとのやり取り。そしてご両親の話題に、自身の若かりし思い出話など・・・それらがリアルタイムだったり回想だったりという感じで展開されていく、そんな感じのものでした。
ここだけ聞くと、なんだ。先に言ってた"主婦の方が家庭のことを綴ったブログ"じゃないか。と思うかもしれません。しかし、そのファーストインパクトは、まさに衝撃でした。
それはブログのタイトル画像こそ"ひよざえもん"というかわいいひよこキャラでしたが、その題名が
「KIZAO THE RIPPER (2005年?月?日~2008年9月14日迄。現在は過去記事表記がひとつのみ)」
だったからです。
これは1888年にイギリスで発生した連続猟奇殺人事件の犯人の呼び名「JACK THE RIPPER (ジャック・ザ・リッパー)」つまり"切り裂きジャック"を意味するもの。そして、そこで駄目押しとばかり目に飛び込んできた最新記事こそ「ゴルゴ13に狙撃される」という題名のものでした。
当時は、主婦の方が書くブログのブログ名といえば「◯◯の◯◯日記」「◯◯と◯◯記」という形状が多かった時代。しかも付けられる記事の題名も今日は子供と何をしたとか、こういうことがあったという出来事に関連したものが主でした。
ところが、ここでは19世紀に起きた世界的に知られる未解決事件の通称がブログ名で、最新記事が「ゴルゴ13に狙撃される」なんです。でもタイトル画像はひよこの武士キャラ、ひよざえもん・・・そそる。あまりにもそそる!!
読めば、その内容は部屋を掃除中、その振動でタンスの上から本が落ちてきて頭に当たったというものだったのですが、その本がゴルゴ13の単行本だった、というものでした。
「これは・・・なるほど・・・なるほど!!」
そう、掃除という日常を伝えたいなら、普通は「今日は掃除をしたので、きれいになった」が、その記事の内容であり"結果"になるはず。しかしここでは、請け負った仕事はどんな困難があろうと必ず完遂する超一級の暗殺者・ゴルゴ13に普通の主婦が狙撃されたことこそが"結果"だったのです。
書き方は、それは長く細かな文章ではなく、どちらかといえば簡潔でした。しかし家庭の出来事に自身の持つ知識を加味し、不二の語り口と文章で読む者を独特の世界で包み込んでは魅了するという、あまりにも卓越されたセンスがそこにはありました。
その後、何回かの更新を読み、いよいよボクはコメントをしました。すると、当時まだ自身のブログが広く知られる前だったこともあり、まっさらな状態からコメントが入るのは意外だったらしく
「リアルの知り合いさんかしら!?」
というコメ返しがファーストコンタクトとなりました。こうしてやり取りが始まり、だんだん打ち解けていくと、きざおさんもこちらのブログにコメントをくれるようになりボクらは仲良くなっていきました。
お互いを認識していくと、不思議なことに私生活での出来事やブログネタがかぶったり、あ、次それをやろうと思ってたんですよ~。それ、最近思ってたんですよ~。なんてことが起こるようになり、それは「アンパンマン解体新書」という題名でコラボネタをやるまでに発展しました。それにしても多発した思想・・・よく"時空を超えた遺伝子双子"なんてお互いを言っていましたが、ああいうのもシンクロニシティと言うのかなぁ・・・本当に不思議でした。
しかし、ベースがお婿さんブログというどこか陰湿(!?)で文章もオモシロくなかったボクのブログとはちがい、類稀なる文章センスにしてマメで心地のよいコメ返しをするきざおさんのブログが燻ったなままなわけもなく・・・きざおさんのブログはアクセスが日々、上がっていきました。
当初は、ひとつの記事に対しコメントは2、3件と、まだひっそりとしていましたが、やがてブログは特に雑感・雑記のジャンルで広がりを見せ、ブログランキングでは上位に位置するようになり、ランキングサイトで個別に紹介されるまでになりました。コメントも月を追うごとに増えていき、ひとつの記事を更新すれば20件近くものコメントが付くほどになり、コメント欄は毎回、当時のノリでいうところの2ちゃんねるの"お祭り"状態のようになるようになりました。この頃になるとブログ名も「元祖KIZAO THE RIPPER 白昼夢の切り裂き魔」になり、アクセス数も想像を絶する数値となっていき、果てはオフ会も行われる域に到達しました。きざおさんのブログは、天井知らずの人気ブログとなっていったのです。
すごいなぁ~。コメント欄を介して、ブログからまた別のブログへと枝分かれするように伝わっていってる。で、伝わったとこからまた広がっていくって感じで、ブログの盛り上がりが止まらないや。毎回、閑古鳥が鳴いてるおれのブログとは雲泥の差だ~。よく、そんなことを思っていました。
それにしてもオフ会か・・・そういえばきざおさんとは知り合った頃から、いつか会いましょう!!とやり取りをしていたっけ。おれもいつか会えるといいなぁ・・・
その後、ボクは新たなブログ(今のこのブログ)を始めるため2008年4月28日に旧ブログを終了し同年11月27日まで半年間、ブログをお休みしました。
こうして自分は一旦はブログをやらなくなってしまいましたが、相変わらずきざおさんのブログは楽しみにし読んでいました。しかし・・・きざおさんも2008年を境にブログの更新がだんだん減っていき、やがてフェードしていってしましたのです。
あれだけの勢力・・・そう、あれは勢力と言っていいと思います。絶大な勢力を誇っていたブログでしたが、それが強くなりすぎたためセーブしたのか?それとも家庭のこともありセーブしたのか?この時点では、まだ個人的に連絡を取り合うまでにはなっていなかったのでブログ失速の理由は定かではありませんでした。かくして、ボクもきざおさんもブログが止まってしまったので、ブログを介したコミュニケーションはここで一旦消滅してしまいました。
でも、それは唐突でした。ある日のこと
「今度、家族で東京へ旅行へ行くのですが、もしご都合よろしければ、どうでしょうか」
というメールがきざおさんから来たのです。
このときには直接連絡を取れるようにはなっていましたが、ブログが終わっていたのにもかかわらずこう言ってもらえたことを本当にうれしく思いました。ボクは、もちろん大丈夫です!!行きます!!と即答しました。
東京に家族で旅行となると浅草かな?でもお子さん小さいからお台場とかかもしれないな。と考えながら、ちなみに東京はどちらへご旅行ですか!?と問うと
「東京ドームホテルに宿泊するのですが(来るのが)大変ですか?」
というお返事が・・・と、東京ドームホテル!?それは水道橋じゃないか!!
きざおさんはプロレスファンではないのでプロレスのことはほとんど知りません。なので水道橋とプロレスの関係性なども当然わからない状況でした。だから偶然、東京旅行に東京ドームホテルを選んだのです。
なんという因果・・・初めて来る東京に選んだ場所が、おれが通いなれた聖地だったとは!!本当に遺伝子双子なんじゃないか!?そう思わずにはいられませんでした。
こうして2009年2月21日、きざおさん一家と東京ドームシティでお会いしました。
ブログを介して人と会うのは2007年1月のらんぞうさん以来2回目でしたので緊張しました。しかし対面すると、その緊張もすぐに消え、うれしさに溢れました。ボクらの好きだった漫画のジョジョの奇妙な冒険のジョセフ・ジョースター風に言えば
「これから会う女性は初めて会うのにずっと昔から知っている女性・・・そう・・・わしは・・・ずっと知っていた・・・わしはこいつのことを産まれた時からずっと知っていた・・・なつかしい相手ではない・・・産まれた時から会うべき相手として・・・」
でした。やっと会えた!!と心から感激しました。
そしてブログ中で"ベレー"と呼ばれていた11歳年上の旦那さん。長女のちいちゃん。次女のロナウ次女ちゃんの、おふたりの娘さん。ブログに登場していたご家族とも顔を会わせました。
これがブログで読んでいたご家族か。あの楽しく仲のよいご家族か・・・もちろんブログを通して知っているんですが、ひとりひとりの顔を見ると、そういうのとはまたちがう意味で知っていたような気がしました。それはとても不思議な感覚でした。
挨拶をすると東京ドームホテルの最上階にあるレストランに行き、お茶をしながらいろいろなお話をしました。ブログのことはもちろん、ブログ以前のこと、これまでの人生のことなど・・・たくさん話しました。ご都合があったので対面できたのは2時間にも満たない短さでしたが、それはかけがえのない、ものすごく大きい時間となりました。今度会うときは、もっとたくさん、ゆっくり話しましょう!!そう約束し別れました。
その後もやり取りは続き、やがてきざおさんは小休止していたブログ活動を2011年1月27日から別の題名、別のハンドルネームで再開しました。今度はこっそりやりますので、私がきざおなことは内緒で・・・と教えてくれたのです。またあの独特の世界観を味わえるんだな~と思うと、うれしくてたまりませんでした。
こうして順調に更新も続いていきましたが、しかし2012年12月7日。きざおさんのブログの更新は突然止まってしまいました。ここでは理由は書けませんが、個人の事情によりブログを継続ではなくなってしましたのです。
それでも個人的にやり取りは続きました。年に一回か二回のメールでのやり取りだけになってしまいましたが、家庭やお子さんたちの近状などを話したりしていました。
しかし・・・2018年6月18日。それは大阪府北部地震があった日でした。きざおさんは大阪在住だったため、ボクは「大丈夫でしたか!?」と、すぐメールを送りました。でもメールは何度送っても「ユーザーが見つかりません」と返ってくるばかりでした。
「おかしい・・・なんか変だ!!」
電話も通じずショートメールもしてみましたがダメでした。家のパソコンのメールにも送りましたが、やはり届きませんでした。
その後も日を置いて何度かメールしてみました。でも、それは焼石に水・・・一度こうなってしまうと届くはずはないのです。
そんなことはわかっていました。でも、送らずにはいられませんでした。つい半年前にもメールしていたのに、わずか半年後にはまったく通じなくなってしまうなんて・・・そんなことは信じたくなかったからです。
我に返り大阪府北部地震を調べましたが、きざおさんに該当する人物が関連していることはありませんでした。これが原因じゃない。何か別の理由が、この半年に起きてしまったんだ。そうとしか考えられませんでした。
でも、ボクはきざおさん以外のご家族の連絡先はわからないし、共通の友達もいません。本人はSNSは一切やっていなかったので、そちらから足取りを辿ることもできません。だから、わからない・・・どうしていいかわからないんです。もう、なす術がないんですよ。どうしていいか、わからないんです・・・
今、通信できているものが途絶えてしまったら、本人と途切れてしまったら、もうどうしようもないのだろうか?そこで終わるしかないんだろうか!?ネットで出会った人とは、最後はみな、こうなってしまうんだろうか・・・
いやだ。そんなのは絶対にいやだ。
最後にメールした2018年元旦のメールの返信。その最後のメールに書かれていた
「アメブロでブログしていた時代が懐かしい
きっどさん※だけは変わらずお付き合いいただいてありがたいです
今年もお互い身体を労わり仕事頑張ろうね」
※最初のブログのハンドルネーム
その言葉が頭を何度も過りました。
あれが何かの暗示だったなんて思いたくない。ボクはここにいます。あの頃からずっとここにいます。だから、いつか「携帯のデータ飛んじゃいまして」なんてひょっこりと連絡が来る日を、また繋がる日を・・・待っています。いつまでも待ってまいす。
ボクはここにいますからね。
↧
Photo Exhibition 11 ~行きたかったなぁ~
↧
名レスラー伝~大好きなマスクマン~
どうも!!流星仮面二世です!!
さて今回はですね、マスクマンですよ。ボクがマスクド・スーパースター好きなのはもうおなじみですが、これがですね~、ヘビー級のマスクマンというのがツボ、大好きなんですよ。というわけで今回はマスクド以外に大好きなふたりのマスクマンをご紹介します。
まずは、スーパー・デストロイヤー(スコット・アーウィン)です。
スコット ・アーウィンは1952年5月14日は、アメリカのミネソタ州ダルース出身。76年3月にプロレスデビューすると、それから2年後の78年3月にはWWWFに登場しユーコン・ピエールというレスラー。このレスラーボクはまったく知らなかったんですが、このピエールとユーコン・ランバージャックスというタッグチームを結成するそうなんですね。で、その3ヶ月後の6月、デビュー後わずか2年にしてWWWF世界タッグを奪取するという勢いのあるところを見せ注目を集めました。
翌79年からはNWAのフロリダ地区、チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ、CWFに転戦。ここで1年ほど素顔でファイトしたのち80年からスーパー・デストロイヤーに変身すると、ヒールとしてダスティ・ローデス、マニー・フェルナンデスなどと抗争を展開します。
そしてこの年、80年10月に全日本プロレスのジャイアント・シリーズに初来日。ここでは姿形はスーパー・デストロイヤーのまま名前をジ・アステロイドとし、大型のマスクマン、ジ・アベンジャーや、このあと紹介しますビッグ・ジョン・スタッドらとタッグを組んで試合に出場しました。しかしこの当時はキャリア不足が隠せなく、バタバタとした動きばかりが目立ち活躍できなかった感じでした。
その後、81年からはNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング、GCWへ転戦。ここでマスクド・スーパースターとタッグを結成し同年1月にはNWAナショナル・タッグ王座を奪取しGCWではメインを張るようになります。テレビスタジオマッチの多いGCW特有の試合の前後のインタビューでは"しゃべり"も習得しヒール人気を集めました。
マスクド・スーパースターとテレビインタビューに応えるスーパー・デストロイヤー。この怪しく影のある雰囲気がたまらない。中央はGCWのテレビ中継担当のゴードン・ソーリー。ジョージア、フロリダなど3州でプロレス実況を担当していた人気名物アナウンサーだった
で、ご存知のようにボクはマスクド・スーパースターが好きなので、このGCW時代のふたりのタッグ映像はよく見るんですが、これがですね~スーパー・デストロイヤーが全日本に初参戦したときとまったく!ちがうんですよ。ここでは日本でのバタバタ感、無駄な動きがなくなって、かなりスムーズになっていました。中でも注目は試合運びですね。これがとにかくマスクドとそっくり。ほとんど同じなんですよ。試合の間の取り方にモーションや使う技、あと技の受け方、受けたときのリアクション。それにクセまでもが本当そっくりなんです。
動きもそうだが体型もほとんど同じだったマスクドとデストロイヤー。そのためマスクの色が同じときは、もはや一見だけでは見分けが難しいほど。タッチワークや連携も早く攻撃力のあるいいチームだった
おそらくスーパー・デストロイヤーはここでマスクド・スーパースターと組むことによってプロレスのいろんな部分を吸収していったんではないかなと思います。フィニッシュの元祖・雪崩式ブレーンバスターも完成し、スーパー・デストロイヤーの形が出来たのこそ、このGCW時代だったのではないかなと思えました。
スーパースープレックスと呼ばれた雪崩式ブレーンバスターは完全オリジナル。プロレス史上、初めて雪崩式をやったレスラーこそスーパー・デストロイヤー、スコット・アーウィンだったのだ
この年、日本へは82年11月に今度はスーパー・デストロイヤーとして世界最強タッグ決定リーグ戦に参加します。当初は弟のビル・アーウィン、そして日本ではまだ未知の存在だったテリー・ゴディとのタッグで参戦と言われていましたが、急遽、予想だにしなかった上田馬之助とのチームでの出場となりました。
現在では即席タッグだったためリーグは得点ゼロの最下位と評されますが、どのチーム相手にもむちゃくちゃ暴れて突っ掛かっていくこのチームには意外と声援が多くありました。
その後、1983年末からはテキサス州ダラス、エリック王国のWCCWに転戦。ここでは弟のビル・アーウィンがスーパー・デストロイヤー2号となり「スーパー・デストロイヤーズ」を結成。NWAアメリカン・タッグ王座を奪取し活躍します。
翌1984年2月には全日本プロレスのエキサイト・シリーズにスーパー・デストロイヤーズで参戦。自身にとっては、これが最後の来日となりスーパー・デストロイヤーズとしても最初で最後の日本登場となりました。
しかし、これだけ確固たるタッグチームにもかかわらず、シリーズ中に純粋なスーパー・デストロイヤーズとしてタッグマッチを行った試合は、シリーズ全18戦のうち、なんとわずか3試合のみでした。
というわけで日本でスーパーデストロイヤーズとして写っている写真は、ほぼ残っていない
その3試合のうちのひとつは2月26日に大阪府立体育館で行われた阿修羅・原、石川隆士のアジアタッグ王座に挑戦した選手権試合でしたが、原のラリアートから石川のダイビング・ボディアタックに13分ちょうどで1号のスコットがフォール負けという結果でした。
日本では唯一のタイトルマッチだったが、いいところなく終わってしまった
最終戦の3月1日、スーパー・デストロイヤーは埼玉県深谷市民体育館でアレックス・スミルノフと組んで阿修羅・原、馬場さんとタッグマッチで対戦しますが結果は8分13秒、原にスーパー・デストロイヤーが体固めで敗北。結果これがスーパー・デストロイヤーの日本での最後の試合となりました。
シリーズ中はシングルが少し。通常のタッグはもちろん6人タッグでも1号、2号がそれぞれ別々にちがうレスラーと組まされることが多く黒星も目立ちました。ジョージア、テキサスではヒール人気が高く、試合でもメインを張っていた人気レスラーでしたが、日本ではあまりにも不遇な待遇だったスーパー・デストロイヤー。ボクには残念でなりませんでした。
その後、84年後半からはからはガラリとイメージチェンジ。素顔に戻りビル・アーウィンとハーレーダビッドソンをイメージさせるバイカーズ・タッグチームの「ザ・ロング・ライダーズ」に変身します。
ザ・ロング・ライダーズ。向かって左がスコット・アーウィン
この80年代中盤から後半はアメリカンプロレスはタッグが大流行。有名どころから二流に至るまで数多くのタッグチームが誕生してはひしめいていました。ロング・ライダーズはそんな中にあってタッグ・ウォーの中心だったザ・ロード・ウォリアーズと抗争し人気となりました。
しかし87年9月5日、スコット・アーウィンは脳腫瘍のため35歳の若さでこの世を去ってしまいます。自身の病気がわかり余命宣告をされた後、親しい人や仲間を訪ねては感謝の言葉とお別れをして回ったというスコット・アーウィン。その人間性には涙か溢れます。レスラーとして最も油が乗る年齢。もっと活躍してほしかった。いいレスラーでした。
続いてはビッグ・ジョン・スタッドです。
ビッグ・ジョン・スタッドは1948年2月19日、アメリカのペンシルベニア州バトラー出身。72年にプロレス入りとあり、そのきっかけは墓場の使者の異名を取った"殺人狂"キラー・コワルスキーとの繋がりからだったそうで・・・スタッドにとってはキラー・コワルスキーは師にあたると、いうことなんですね。
このあたりの経緯からスタッドは76年にキラー・コワルスキーが変身したマスクマンのタッグチーム「ジ・エクスキューショナーズ」で自身初のマスクマンとなるエクスキューショナー2号に変身。超大型マスクマンタッグとして活躍し、同年5月にはWWWF世界タッグ王者にもなりました。
マネージャーのキャプテン・ルー・アルバーノを招き入れるジ・エクスキューショナーズ。エクスキューショナーは死刑執行人という意味だが、まさしく不気味な存在だ
翌1977年からはフリッツ・フォン・エリック主宰のテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリングに参戦。ここではキャプテンUSAというマスクマンになり、なんとブルーザー・ブロディからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取しています。その他、タッグでもNWAテキサス・タッグ王者となりここではかなりの活躍が見られました。
その後はマスクは被らずビッグ・ジョン・スタッドで活動しますが、NWAミッドアトランティック地区へ転戦すると3度目のマスクマンへ。なんとマスクド・スーパースター2号としてマスクド・スーパースターとタッグを組むことになります。
このスタッドのキャプテンUSAとマスクド・スーパースター2号の画像、残念ながらボクの持っている本からは見つかりませんでした。特に長年マスクド・スーパースター2号の姿を見たく探しているのですが、これがなかなか出てきません。スタッドのスーパースター2号が掲載されている雑誌等をご存知の方おりましたらゼヒ教えてください。よろしくお願いします。
さて、スタッドの日本でのファイトですが、初来日は先に紹介しましたスコット・アーウィンのジ・アステロイドと同じ80年10月の全日本プロレスのジャイアント・シリーズでした。GCW、NWAのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングではヒール軍チームとして大活躍したこのふたりが日本でもタッグを組みましたが、このときはあまり活躍できずに終わってしまいました。
GCWでのビッグ・ジョン・スタッドとスーパー・デストロイヤー。同地区ではメインを張っていたが全日本ではあまり活躍できなかった
その後、82年の年末からWWF所属となったことにより、83年には新日本プロレスの第1回IWGPにアメリカ代表として出場します。このときはリングネームこそ全日本プロレス来日時と同じくビッグ・ジョン・スタッドそのままでしたが、肉体は初来日当時よりビルドアップされて筋骨隆々。さらに黒いマスクを被りマスクマンとして登場したことにより注目を集めました。
で、このマスクなんですが・・・IWGPの開幕戦か、その次の週のテレビのときだったか?本当に記憶が定かではないんですが、桜井康雄さんが解説で、何かのトーナメントに優勝したときのマスク着けて出場してますみたいなこと言ってた記憶があるんですが・・・どなたか覚えている方いますでしょうか?記憶ちがいかもしれませんが、もしスタッドのマスクについての情報知っている方いましたら、こちらも教えてください。よろしくお願いします。
さてお話を戻しまして・・・初めての新日本参戦となったこのシリーズでは5月13日、大宮スケートセンターでの決勝リーグでアントニオ猪木とのシングル初対決が実現します。
この試合ではアンドレ、ホーガンにも引けを取らないパワーとアメフト出身ならではのスピードある攻めで圧倒。終始攻め込みましたが9分18秒、アリキックの連打からの延髄斬りでフォール負けとなってしまいました。
丸太のような腕で猪木を攻めるスタッド。敗れはしたが存在感を示した
で、これですね。スタッドはラリアートの使い手なんですが、猪木戦でももちろん見せましたが、これが見事でしたね~。身長があるのでやや腕が下がり気味になるんですが、この姿勢でアメフト流タックルの要領で、こう体で当たるように素早く打つんですね。これが格好よく迫力あってよかったですね。それと、このシリーズだったかどうか忘れてしまったんですが、右手で相手の左手を持って引きつけながらラリアートを打つという、いわばレインメーカー式のやり方をやったことがありました。打ち方にもバリエーションがあってよかったですね。

5月27日、日立市中央体育館ではエル・カネックと最初で最後のシングル対決が行われた。結果は8分21秒、スタッドが得意のラリアートから体固めでカネックを葬った。それにしても、なんという体の大きさ・・・人間起重機のニックネームも頷ける
結局、決勝リーグは猪木、ホーガン、アンドレの3強に次ぐ4位という好成績を残し、同年10月の闘魂シリーズには素顔に戻ってしまいましたがエース外国人のポジションで参戦。猪木とシングル2連戦を行うなど活躍しました。
そして翌84年。最後の来日となった第2回IWGPでは開幕戦でマスクド・スーパースターとの対決が実現します。NWAミッドアトランティック地区でマスクド・スーパースター2号としてタッグを組んでいたスタッドとマスクドとの夢の対決は肉弾相打つ戦いとなりましたが8分32秒、両者フェンスアウト引き分けとなりました。
しかし以降は猪木、長州に黒星。そして84年5月23日、前橋市群馬スポーツセンターではWWFでは抗争を通し名物カードだったアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決が実現します。試合ではスタッドが得意のラリアートで一旦はアンドレをグラつかせますが二度目を交わされコーナーへ腕を痛打。痛めた腕へアンドレがアームブリーカーを決めたところで6分23秒、レフリーが危険な状態としストップとなってしまいました。
ラリアートを交わされて「しまった!!」という表情のスタッド。この後、コーナーへ自爆し、腕を痛めてしまった
まだリーグ戦序盤でしたが、これにより腕を負傷したスタッドはシリーズ欠場となり途中帰国・・・結局これがスタッドの日本で最後の姿となってしまいました。
最後の日本マットはなんとも不本意な結末となってしまいましたが、しかし海外では活躍が続きます。この84年中盤からはWWFの全米侵攻の主力としてヒールとして活躍。翌85年3月31日の第1回となるレッスルマニアでは因縁のアンドレと1万5千ドル争奪のボディスラム・マッチで激突。翌86年のレッスルマニア2ではWWFのレスラーと当時のNFLのトップスター選手とのバトルロイヤルに参加と、大会を盛り上げました。またWWF王者だったホーガンとも熱戦を繰り広げ、WWFにはなくてはならない存在となりました。プロレス以外でも85年は俳優業にも進出しジャッキー・チェン主演の映画「プロテクター」にも出演と幅広い活躍を見せました。
こうして長きに渡り活躍してきましたが1990年にプロレスラーを引退。俳優活動に力を入れ、翌91年には映画「ハーレーダビッドソン&マルボロマン」に出演。ここでは酒場の乱闘でミッキー・ロークと激しい乱打戦を展開。スタッドらしい立ち回りとなりました。
ハーレーダビッドソン&マルボロマンでのスタッド。乱闘シーンではネックハンギング・ツリーやボディスラムも飛び出した
これがのちにミッキー・ロークの「レスラー」に多大なる影響を与えた・・・かどうかはわかりませんが、この映画こそスタッドが持ち味を存分に発揮できた役だったと思いました。
しかし引退して5年後の95年3月20日。ホジキンリンパ腫による悪性腫瘍のため47歳でスタッドは亡くなってしまいす。大変な人格者で人望も厚かったというスタッド。スコット・アーウィンもそうでしたが、なんでいい人ほど早く逝ってしまうんでしょうか・・・残念でなりません。
さて、大好きなふたりのマスクマンをご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
わずかに覗く目や口から顔を探ってみたり、本を見て体型が似ているレスラーを探してはまじまじと見比べてみたり・・・少しでも共通点があったなら、それはそれは「もしかして!!」と前のめりになったものでした。そうやって正体を追いかけては、いつも夢中になっていました。それがファンの抱くマスクマンという存在でした。
しかし、そんなファンも今では見られなくなりました。そして、見上げるような身長に人間離れした巨大な肉体で恐ろしいほどのパワーで相手を攻めては、正体不明というミステリアスな空気を振り撒いて人々を魅了したヘビー級マスクマンも・・・いなくなってしまいました。
時代と共に忘れ去られていくプロレスの風景。でも、ファンにとってのマスクマンの存在価値がどんなに変わろうと、プロレスの風景がどんなに変わろうと、変わらないものがあります。ずっと大好きなことがあるって、素晴らしいことですね。みなさんも、そう思うでしょ~?
最後までありがとうございました。
↧
↧
プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ① 3代目マディソンの時代 1925~1968年~
その3 ②から
を経て続きです。
探偵「ということで前回は1920年1月30日のジョー・ステッカーとアール・キャドックの統一世界ヘビー級の試合を見ましたが、この時代のプロレスを見れて本当によかったと思いました」
先輩「そうだな。プロレスの本来の姿。やはりプロレスは格闘技なんだということがよくわかったし、もはや時代にかき消されてしまったふたりの名レスラーのことを知ることができたことがうれしい。プロレスが好きで本当によかったと思ったよ」
探偵「そうですね。さて・・・そんなふたりの近いが行われた1920年。この1920年代に入るとアメリカの様子はかなり変わり出します」
先輩「そうか。確かアメリカは1920年代は好景気になるんだったな」
探偵「はい。1918年11月11日に第一次世界対戦が終わると、戦時中にいろいろなモノの生産を減らす、いわゆる減産をしていた状況が続き・・・アメリカの景気、経済は不況で、いい状態ではありませんでした。しかし大戦から帰還した兵が職につくと、ここから1年強で工場などの生産性が拡大し、徐々に景気、経済が回りだします。こうして1920年に入ると"狂騒の20年代"や"黄金の20年代"と呼ばれる好景気の時代がアメリカに訪れるわけです」
先輩「うん。この時代になると自動車の生産性が向上するね。特にフォードだ。1台1台を手作業で作っていた時代から、早々に製造ライン化を実現し大量生産に成功した社は、従業員の大幅な賃金アップをしつつ自動車販売価格は値下げするなど、いろいろな策を実施して1923年には1年間で205万5300台を生産。1924年には累計販売1000万台を達成する。アメリカ国内の半分がフォードのモデルTという車になるほどだったそうだ」
探偵「そうです。こうして、それまで上流階級しか手の届かなかった自動車が中流階級に広がったことで"家族の楽しみ"が増したのはもちろん、高速道路の開通やガソリンスタンド、宿泊施設などが増加し経済効果が上がりました」
家族とフォード・モデルT。車があることで生活は便利になり、家庭の絆や心のゆとりが増し幸福度も上昇していった
先輩「車に乗る人が増えるから燃料が売れる。行動範囲が広がるから道も通る。道が通れば遠くに行く。観光したり泊まったり買い物したりするから関連施設も増える。結果、景気は回ると・・・まったく理に適った経済効果だ」
探偵「さらに、それまで石炭だった生活エネルギーが発電所の登場により電気に変わり、生活は豊かになってきます。1920年末からはラジオ放送も始まり、電話線もアメリカ中に広がり通信も普及してきます」
先輩「日本でいう高度経済成長期というか、バブルというか・・・そんな感じだったんだね」
探偵「はい。そんな1920年代の初期、ニューヨークはイギリスの口ンドンを抜いて、世界で最も人口を擁する都市となりました。1923年2月1日にはグランド・セントラル駅も完成。ニューヨークに高層ビルが立ち並び始めた頃ですね」
先輩「そんな時代に3代目マディソンは、まさに高層ビルの中に姿を現すわけだ」
探偵「そうなんです。3代目マディソンは1925年、8番街の49-50丁目に移転する形でリニューアルされました」
先輩「2代目マディソンスクエアガーデンの場所はマンハッタンの26番街とマディソンアベニューだったから、2.5マイル、4キロ離れた場所になったんだね」
探偵「はい。おおざっぱですが地図で見るとこんな感じですね」
先輩「中央が現在のマディソンか」
探偵「はい。そしてこの3代目からマディソンのオーナーがティックス・リカードなる人物に変わります」
先輩「なるほど。この狂騒の20年代と呼ばれた時代の初期になる1920年7月22日にマディソンのオーナーだったウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトは70歳で亡くなっているからオーナー交代劇があっても不思議じゃないわけだ」
探偵「そうですね。それに、鉄道王の家系も20世紀からは勢いが下降していったようなんですね。そういう意味でも、かつて世界一裕福と言われたヴァンダービルト家が、この狂騒の20年代にマディソンのオーナーから外れたというのは何かの運命を感じますね」
先輩「だなぁ・・・で、ティックス・リカードだっけか。これはどういう人物だったんだ?」
探偵「はい。リカード氏は1920年代にボクシングのプロモーターとして名が通っていた人物だったようです。またマディソンでは有名なアイスホッケーでも名が通っており、こちらは1926年にはNHL、ナショナル・ホッケ・リーグのニューヨークレンジャーズの創設者ともなっています」
ティックス・リカード
先輩「ヴァンダービルトは資本重視なオーナーの印象があるが、リカードは現場から上がってきた実践派って感じがするね」
探偵「確かにヴァンダービルトにはないノウハウというんですかね、そういうものを持っている感じがしますね。さて、そのリカード氏なんですが、まずは1923年5月31日。ニューヨークにさらなる規模と充実性を持った3代目マディソンの建設と運営を目的として動き始めます。翌1924年にマディソンの権利を取得しオーナーとなると着工から1年も経たない、わずか249日で3代目マディソンを完成させ、オープンとなった1925年1月15日に会場と運営を管理するマディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションとして新マディソンをスタートさせると、いうことなんですね」
先輩「事前の段取りがよかったとか、そういうのももちろんあっただろうけど・・・1924年は狂騒の20年代のピークとも言える年だから、当時のニューヨークの勢いが伺えるね」
探偵「そうですね。まさに費用も勢いがあって総工費は475万ドルということでした」
先輩「475万ドル、現在にすると約513億円と、すでにこの時点ですごいが・・・これが1924年。大正13年だから、当時は1ドルが2円63銭と・・・これをかけてやれば・・・1249万2500円。約1250万円か」
探偵「はい」
先輩「で、当時の日本の物価と人件費を平均して、だいたい1円が5000円くらいの価値だから、1250万円に5000かければ・・・ろ、624億6250万円!!本当か!?だって、はいからさんが通るの頃の話だろ、これ」
探偵「これはすごいですね。東京ドームが88年で約350億円ですからね・・・って、はいからさんが通る?なんですかそれは?」
先輩「ああどうせアニメのも南野陽子のも知らないよな。若いもんな。どーもすいませんでした。続き、どーぞ」
探偵「は、はい。かくして初代、2代目より規模が増した3代目マディソンは1925年11月28日にオープンしました。プロジェクトと運営に関わった人物は、このリッカード氏の他、ナショナルホッケーリーグ(NHL)のニューヨークレンジャーズの元スポンサーであり初代社長で、マディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションの副社長でもあったジョン・スティーブン・ハモンド氏です」
先輩「ジョン・スティーブン・ハモンド・・・一体どんな人物だったんだ?」
探偵「はい。ハモンド氏は1905年に陸軍士官学校を卒業後に武官となり、アルゼンチンにいるときにテックス・リッカードと知り合いになります。その後、ハモンドは陸軍を去り、牛関係と石油関係の新規事業をリカードと共に行ったようです。その後、ハモンド氏は第一次世界大戦中は砲兵教育、訓練の担当として陸軍に従事し一旦はリッカード氏とは疎遠になりますが、戦後になるとニューヨークの証券会社の南アメリカの代表として働き、やがて1922年になると、ハモンド氏はリカード氏から新しいマディソン・スクエア・ガーデンを建設することを知らされ、再び行動を共にするようになったようなんですね。ハモンド氏はその膨大な人脈により億万長者達から資金を調達できるようにし、リカード氏とマディソンの建設に大きく貢献したと、そんな感じです」
先輩「なるほど。リカードからすると盟友(めいゆう)ってとこなんだな」
探偵「はい。他には・・・
大学時代はサッカー、陸上でトッププレーヤーとして活躍。第一次世界大戦では陸軍に所属し数々の勲章を手にし、マディソン・スクエア・ガーデンコーポレーションの社長を務め25年もの間マディソンを運営した、ナショナルホッケーリーグのニューヨークレンジャーズのクラブ経営者兼監督としても活躍した"ジェネラル"ジョン・キルパトリック。
ニューヨーク・ワールド・テレグラム(ニューヨーク世界電報)という新聞でスポーツジャーナリストとして活躍。一方でフットボールチームのニューヨークジャイアンツの試合では広報活動を行いフットボールの普及に勤め、バスケットボールではプロモーターとしてNBAの基礎となったバスケットのプロリーグの発足と普及に貢献したネッド・アイリッシュ。
19歳でペンシルベニア大学ウォートン・ビジネス・スクールで金融学の学位を取得し、当時、大手証券会社だったヘイデン・ストーンのニューヨーク支店に就職。ここでのノウハウを発揮し、のちにこのマディソンの権利を買い取り4代目マディソンを誕生させるアーヴィング・ミッチェルフェルト。
そして詳細はまったく不明ですがウィリアム・F・キャリーなる人物も3代目マディソンの立ち上げ、運営に名を連ねています」
先輩「初代、2代目マディソンはバーナムこそいたけれど、資産ある実業家たちが目立った。でも3代目マディソンのメンバーはリカードと同じく現場も知ってる実践派ぞろいと言っていい感じだね」
探偵「そうですね。で、そんなメンバーで築かれた3代目マディソン・スクエア・ガーデン。そのデザイナーですが、こちらは20世紀における劇場や映画館のデザイナーとして有名で、特に劇場ではブロードウェイ周辺だけで48以上を手掛け、ニューヨークの国会議事堂も担当したトーマス・ホワイト・ラム氏が行ったと、いうことです」
先輩「ふぅ~ん。ニューヨークの建築ラッシュに大きく貢献したデザイナーかぁ。彼の手掛けた建造物のデザインは、どこか中世ヨーロッパの建物を思わせる感じだがマディソンはまた一味ちがう感じだね」
3代目マディソン・スクエア・ガーデン
通りから入口を眺める。初代、2代目に比べると近代感溢れる風景だ
探偵「はい。しかし外観だけでなく中身もグレードアップしました。注目すべきは座席数です。現在でいう、いわゆるスタンド席の部分ですね。これが3代目マディソンは、それまでになかった3段階座席となり、より多くの観客が収容できるようになりました。アイスホッケーやバスケットボールのようにアリーナを使わないプロレスやボクシングであればマックスで約19000人を収容できる巨大会場となったわけです」
先輩「19000人とはすごい。2013年5月11日に日本武道館で開催された小橋健太の引退試合「FINAL BURNING in Budokan 小橋建太引退記念試合」が武道館のプロレス興行じゃマックスの17000人だそうだから、その規模が伺えるなぁ」
探偵「しかし問題もまだあったようで・・・当時は場内で喫煙が許可されていたそうなんですが、場内は換気が悪かったため、イベントになると会場上部に煙が留まってしまい曇みたいになっていた、なんて記述も見られました」
先輩「なるほど。ステッカーvsキャドックの試合映像でも観客席が映ったときは白っぽい霧みたいなのが見えたときがあったが、このせいだったんだな。この時代は空調設備自体の性能もまだよくなかったんだろうしね」
探偵「そうですね」
先輩「まあでかい会場は仕方ないところがあるよ。今の時代ですら日本武道館なんか1階席と2階席でぜんぜん温度ちがうもんな。夏場なんか特に。でも、なんかこういうの味わいあっていいよ」
探偵「ところで先輩、3代目マディソンでのプロレスは、どんな感じでしたか?」
先輩「ああ。興味深いところがあったよ。まず1925年。日時は不明だが、ビンス・マクマホンの祖父であるジェス・マクマホンがボクシングの興行をプロモーターの初仕事として行っている記録が残っていたんだ」
探偵「ま、マクマホン!!とうとうMSGの歴史にマクマホン一族が現れるんですね!!」
先輩「ああ。で~・・・マクマホン、一応経歴を調べたんだが、なんせ英文の資料しかなかったんで訳がまちがってるかもしれない。そのあたりは了承した上で聞いてくれ」
探偵「わかりました」
先輩「ロデリック・ジェームズ・マクマホン、通称ジェス・マクマホンは1882年5月26日、ニューヨークでホテルのオーナーをしていた父・ロデリック・マクマホンと母・エリザベス・マクマホンの間に4人兄弟の末っ子として生まれたそうだ」
ジェス・マクマホン
探偵「この時代でホテルのオーナーですか。マクマホン家は富裕層だったんですかね?」
先輩「ああ~だろうなぁ。ちなみに両親は、かつてアイルランドのゴールウェイからニューヨーク市に引っ越してきた様子が伺える記述があった」
探偵「へぇ・・・今やニューヨークの帝王と言ってもいいマクマホン一家のルーツはアメリカでなくアイルランドにあったとは意外ですね」
先輩「そうだなぁ~。で、ジェスの兄弟は皆、マンハッタン大学に通ったようで、ジェスも商業学位を取得したようだ。しかし商業系の仕事よりスポーツに興味があったようで1909年、27歳のときには兄弟でニューヨークアスレチッククラブで管理職か何かをしていたようだよ」
ニューヨークアスレチッククラブ、N.Y.A.Cは1868年に設立されたスポーツクラブ。トレーニングフロアにはスカッシュコート、バスケットボールコート、プールの他、ボクシング、レスリング、柔道、フェンシングの各フロアがある他、施設には高級レストラン、カクテルラウンジ、ボールルーム(舞踏室)、ビリヤードルーム、屋上サンルーム、図書室、会議室があり、メンバーとゲスト用に8階建のホテルも完備されている。会員になるには厳しい審査があり、会員は年間60万円の費用がかかるという。このように対象としては富裕層が占めるグレードの高いスポーツクラブだ。しかし、これまでに金メダル119個、銀メダル53個、銅メダル59個というオリンピックのメダリストを輩出している実績があり、各スポーツ界の選手の練習施設としても評価が高い
先輩「そこで・・・1911年になるとジェスは業務を拡大し、当時存在していた黒人だけのメジャーリーグ"ニグロリーグ"に着手し「リンカーン ジャイアンツ」というチームを設立。また1922年には"ブラックファイブズ時代"と言われていたプロバスケットボール界で「コモンウェルス・ビッグ5」というバスケットボールチームを設立するなどスポーツ面の運営に力を入れていたようだ」
ニグロリーグでも原動力が最も高かったというリンカーンジャイアンツ
バスケットボールチームのコモンウェルス・ビッグ5。5人制で、どのチームも5人すべてが黒人というところから“ブラックファイブス時代”と呼ばれるようになった。全米バスケットボール協会が人種的に統合された1950年までがこの時代にあたるという
探偵「先輩、先ほどから野球もバスケットも黒人だけの、という言葉が出ていますが、これには理由が?」
先輩「うん。1900年代に入るとアメリカの南部の田舎からアメリカ北部へ黒人たちが移動するようになってきたんだ。これはアメリカ史では"アフリカ系アメリカ人の大移動"と呼ばれ歴史に残っている出来事で・・・要因としては奴隷解放宣言、人種差別などに対し、その対応で南部から北部に移動した、と・・・大きく言えばそんな感じになる」
探偵「はい」
先輩「そんな"アフリカ系アメリカ人の大移動"の流れの中のひとつに、多くのアフリカ系アメリカ人がニューヨークのマンハッタン北部、ハーレムにやってきた、というのがあって・・・ハーレムはニューヨークきっての黒人街になった、というわけなんだ」
探偵「なるほど。つまりニューヨークの黒人人口が増したから黒人によるビジネスが増えた、というわけですね」
先輩「そう。1930年代、マクマホンはハーレムのイースト135番街でカジノも運営していたそうなんだ。これはおれの予想でしかないんだか、マクマホンはすでにニューヨークにいる白人はもちろん、人口が増加した黒人が興味を持ったりできるようなことをやったら様々なことが活性化するし儲けも出るんではないかと・・・そういう点に着眼したんじゃないのかな」
探偵「なるほどなぁ~。マクマホン一族は先代からエンターテイメントのパフォーマーだったんですね。とにかくニューヨーク、MSGの歴史にマクマホンが出現したのは、なんかうれしいですね」
先輩「ああ。ボクシングながら当時43歳のジェス・マクマホンがMSGで初めて興行を手掛けたというのはプロレスファンとしてグッとくるね。さて、この時代のMSGでの主なプロレスを見てみよう」
探偵「はい」
先輩「1933年2月20日、ジム・ブラウニングがエド・ストラングラー・ルイスを下し世界ヘビー級王座を奪取する。だが、これはステッカーが保持していたそれでなく、ニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級王座だったようだ」
探偵「ニューヨーク体育協会版、ですか。このあたりは以前、先輩が言っていた"この時代は認定される先々で"世界"と冠するタイトルがたくさんあって、なかなか混乱する"ってやつですね」
先輩「そうだね。このニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級タイトルはペンシルバニア州でも認定されていたそうでルイスの他にはガス・ソネンバーグ、ディック・シカット、ジム・ロンドス、ダノ・オマホニーなどが歴代王者として名を連ねている」
探偵「先輩、このジム・ブラウニングというレスラーはどんな選手だったんですか?ステッカーと激戦を繰り広げたルイスを破るくらいですから相当な猛者だったと予想しますが」
先輩「いやこれが・・・ニューヨークのプロレスの古い歴史を遡れば必ず名前を目にするレスラーではあるんだが、これまた情報がなくてね。いろいろ漁って、また英文からの情報はわずかに得られた。でもおれの訳なんで、そのつもりで聞いてな」
探偵「はい」
先輩「ジム・ブラウニング、本名ジェームズ・オービル・ブラウニングは1903年3月31日、ミズーリ州ローレンス出身。1917年、14歳のとき父親が肺炎で亡くなったため、家計を支えるため早くから働きに出たという。そこで大人に交じり建設業、油田採掘業と肉体労働に勤しんだそうだ。これらの仕事で体も心も鍛えられたブラウニングは、やがてレスラーになるためのトレーニングを開始し、プロレスの門を叩いたと、いうことらしい」
探偵「うーん、これまではレスリング経験者やカーニバル・レスラー出身など、そのような経緯からレスラーとなった話がほとんどでしたが、ブラウニングの場合はバックボーンは肉体労働で得た筋肉と精神で、生きていくためにプロレスの道を選んだ、そんな感じなんでしょうね」
先輩「ああ、おそらく・・・14歳から過酷な労働に出なくてはならなかったんだから、学校へは行けなかっただろうからなぁ。遊びはもちろんスポーツをやる時間なんてなかっただろうな」
探偵「ですねぇ・・・プロレスで活躍すれば大金を稼げ家族を幸せにできると、そんな思いからだったのかもしれませんね。まさしく裸一貫ですね」
先輩「だなぁ~。で、そのプロ入り後だが、ジム・ロンドス、ジョー・ステッカー、エド"ストラングラー"ルイス、エド・ダン・ジョージ、ジョー・サボルディ(必殺技を語ろうスペシャル!!第三回 ~ドロップ・キック~)など当時の有名どころと対戦しては名を上げたという。ニックネームはジェントルマンで、エアプレーンスピンとステッカーのようなシザースからのホールドが得意技だったようだ。1933年、ルイスを破り世界ヘビー級王者となったが、しかしその3年後の1936年6月19日、ミネソタ州ロッチェスターの病院で肺塞栓症のため33歳の若さで亡くなっているそうだ。情報同様、写真もなく見つからなかったが、多分これだ」
![]()
ジム・ブラウニング(と思われる)

ジム・ブラウニング(と思われる)
探偵「これがブラウニング・・・つらい少年時代を経てレスラーとなり、やっとスポットライトを浴びて、これからというときに亡くなってしまうなんて悲しい運命ですね。しかし、短期間ながら世界タイトルを保持し、マディソン以外でも試合をしていたのに本当に情報がないんですね」
先輩「ああ。でも、写真こそないが、この1933年2月20日のルイスとの試合は映像が残っているんだ。カットが多く時間が短いし、顔もハッキリはわからないがブラウニングの動く姿が見れるよ」
探偵「この映像だけ見ると、強い弱いより必死さっていうんでしょうか?一生懸命さがすごく伝わってきますね。あと、ステッカーvsキャドックから13年しか経っていないのに、こんなに試合の仕方に変化が出ていることに驚きました。ルイスはヘッドロックからの投げ、そして打撃であるエルボースマッシュを使っていますね」
先輩「そうだな。そして最後、ルイスのフルネルソンをブラウニングがコーナーを蹴って弾きフォールにいくなんて、なんとも近代的だ。そしてそれらを見ている観客の反応もいい」
探偵「1920年代から1930年代の間に、プロレスがレスリング的からプロレスリングになっていく過程にも興味が湧きますね」
先輩「だなぁ。いつか調べてみたいもんだな。では、その後だ。同年12月18日にニューヨーク体育協会版の世界ヘビー級王者だったこのジム・ブラウニングとAWAボストン版の世界ヘビー級王者だったエド・ダン・ジョージが対戦する」
エド・ダン・ジョージ
先輩「エド・ダン・ジョージ、本名エドワード・ナイ・ジョージ・ジュニアは1905年6月3日、ニューヨーク出身。セントボナベンチャー大学とミシガン大学の両方で勉学に励み学位を取得するほどのインテリにして1928年のアムステルダムオリンピックではレスリングのフリースタイルでアメリカ代表として出場し、+87キロ級で4位を獲得するという超エリートだった。ちなみに日本では昔からエド・ダン・ジョージと記されるが、エド・ドン・ジョージが正しいと見られる記述もあった」
探偵「勉強もスポーツも万能だったんですね。それにしても、這い上がってきたブラウニングと超エリートのエド・ダン・ジョージのマディソンでの対決。これまた興味が湧きますね」
先輩「そうだね。まるで梶原一騎作品に出てきそうなシチュエーションのふたりの対決だ。結果は時間切れ引き分けとなっている。おそらく統一戦だったのではないかと思うが、そのあたりの詳細は不明だ」
探偵「そういえば先輩、これまた"世界"と冠するタイトルですが、これはAWAなんですね」
先輩「なんだけど、これはバーン・ガニアのAWAとは別物なんだ。しかしこのAWAは当時乱立した"世界"と冠するタイトルではかなり価値が高かったようだよ。歴代王者にはルイス、ガス・ソネンバーグ、ダノ・オマホニー、スティーブ・ケーシーなどがいる。後年にはルー・テーズも王者となっているよ」
探偵「うーん、3代目マディソンの時代にはプロレスも変化を見せ、いろんなレスラーも出てきて"世界"と冠するタイトルの統一も進み出した。そんな感じがしますね」
先輩「まさしくだ。プロレスの変化もそうだし個性あるレスラーも多くなってきた。また、ニューヨーク以外でも世界と冠するタイトルの統一戦は盛んに行われるようになったんだ。しかし1938年、マディソンではある異変が起きてしまうんだ」
探偵「異変!?それは一体・・・!?」
先輩「プロレスが、行われなくなってしまうんだ」
探偵「ええっ!?」
その4 ②に続きます
↧
プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ② 3代目マディソンの時代 1925~1968年~
その4 ①からの続きです。
探偵「先輩、マディソンでプロレスが行われなくなるって、一体どういうことなんですか!?こんなに盛り上がってきたのに・・・」
先輩「確かに新しいマディソンも安定していてプロレスも充実してきた。個性あるレスラーもたくさん現れてきたよ。しかし、1938年3月30日にダノ・オマホニーとスティーブ・ケーシーが対戦した日を最後に、以降1949年2月22日までの11年間、マディソンでプロレスは行われなかったんだ」
探偵「じゅ、11年も!!一体何があったんですか!!」
先輩「それは・・・」
探偵「それは!?」
先輩「・・・」
探偵「あの~・・・先輩!?」
先輩「・・・」
探偵「どうしま・・・」
先輩「・・・」
探偵「せん」
先輩「あぁぁぁぁぁー!!」
探偵「なっ!?」
先輩「なんだ!!人がいっつもなんでもわかると思って!!おれだってわかんないことだってあんだよぉー!!」
探偵「せ・・・」
先輩「毎日毎日、時間が少しでもあればマディソンのこと調べて控えて、少しでも情報載ってる本を見つけりゃ買って・・・夕飯食べながらだって、明日はあれ調べられるかな!?って!!布団に入って寝る直前だって、なんか思いついたら起き出して下書きして!!毎日毎日マディソンのことばっかり考えて、あー!!」
探偵「ああ・・・」
先輩「あー!!あ、じゃあ何か!?「気がつくとマディソンのことばかり考えてます」って渡したくても渡せない手紙を夜な夜な書くか!?マディソンが自分以外の異性と話してるだけでヤキモチを焼くか!?用もないのに校門で時間稼いでマディソン来たら出てって「あ、あれ今帰り?」って偶然を装うかよ!?あ!?片想いか!?おれはマディソンに片想いか!?桃色片想いかよぉ!!」
探偵「も、桃色片想いって・・・でもあの・・・1939年から1945年は第二次世界大戦が行われていましたから、それが原因だったというのは・・・だいたい時系列も合いますし・・・ど、どうですかね?」
先輩「ふん。まあ、第二次世界大戦、それは影響あったとは思うよ。でも完全にそれが原因か?と言われれば、これが疑問なんだよ」
探偵「と、いうと・・・!?」
先輩「この11年はマディソンでこそプロレスが行われなかったが、アメリカ全体でプロレスが衰退していたわけじゃなかったんだ。他の州じゃ盛んにプロレスは行われていたんだよ。特に必須るは中部地区で最強と言われていたオービル・ブラウンというレスラーだ」
探偵「オービル・ブラウン!?」
先輩「そう。オービル・ブラウンは1940年代にアイオワ州版の世界ヘビー級タイトル、カンザス州版の世界ヘビー級タイトルの王者になっており、そしてカンザス州カンザスシティに本拠地を置いていたミッドウェスト・レスリング・アソシエーションの世界ヘビー級タイトル(MWA世界ヘビー級)戦線で王者となっては、その名を残したレスラーなんだ。特にこのMWA世界ヘビー級王座はオービル・ブラウンの歴史そのものと言っていいほどで、1940年から1948年までに防衛戦はもちろん11回戴冠という記録も残っているくらいなんだよ」
探偵「うーん、1940年6月にMWA世界ヘビー級の初代王者のボビー・ブランズ(のち力道山をコーチしデビュー戦の相手を務めたレスラー)から王座を奪取し初栄冠。1942年11月、カンザス州カンザスシティではエド"ストラングラー"ルイスとタイトル戦を行った記録も残っていると・・・なるほど・・・」
先輩「うん。かくしてオービル・ブラウンは1948年、その実績から新しく創設されたナショナル・レスリング・アライアンス、NWAの初代世界ヘビー級王者に認定されるんだ。同時に自身がこれまでに手にしたタイトルも含め当時各地に存在していた"世界ヘビー級タイトル"をこの新しいNWAに統一するため動いた重要な人物だったらしい」
探偵「驚きました。強豪にして左翼的というか・・・こんなレスラーが歴史に埋もれてしまっていたとは・・・」
先輩「そして迎えたのが、このNWA初代世界ヘビー級王者のオービル・ブラウンと、1948年7月20日にインディアナ州で"ワイルド"ビル・ロンソンからナショナル・レスリング・アソシエーション、全米レスリング協会の認定するNWA世界ヘビー級王座を奪い王者となっていたルー・テーズとの間で行われることになった王座統一戦だったんだ」
探偵「同じNWAという名称の世界タイトルがふたつあって、その統一戦だったわけですね」
先輩「そう。その決戦は1949年11月25日に行われるはず、だったんだ」
探偵「はず?」
先輩「ああ。決戦の14日前の同月1日、オービル・ブラウンは交通事故に遭ってしまい、その怪我が原因で試合には出られず・・・やがて引退となってしまうんだ。このため統一戦は行われずテーズがNWAの統一王者に認定された、というわけなんだ」
探偵「これがドリー、レイス、フレアーらに続く、ボクらの知ってるあのNWAの始まりなわけですよね。しかし、うーん、その始まりにはそんなことがあったんですか・・・」
先輩「そう。1940年代はアメリカに数多く点在していた"世界ヘビー級タイトル"の試合が盛んで、後半には統一への動きが見られたってわけさ」
探偵「なるほど。こうして見ると、確かにこの11年間でプロレスが衰退した様子は伺えないですね」
先輩「それに1945年に第二次世界大戦が終結したあとは、戦地に赴いていた人々が帰還してきて・・・この帰還兵の受け皿としてプロスポーツ界はかなり活性化したんだ。特に団体競技はアメリカ各地でプロのスポーツチームが続々誕生してはリーグが賑わいを見せていたという。先にちょっと触れたバスケットボールは1949年にNBAの前身、BAA(バスケットボール・アソシエーション・オブ・アメリカ) が誕生したりしたくらいなんだよ。だからなぜ、この11年間にマディソンで試合が行われなかったのか、わからないんだ」
探偵「うーん・・・マディソンだけが、かぁ。プロモーター、政治面、興行面で何かあったんですかねぇ?」
先輩「そうだな。そういうのもあったのかもしれないなぁ。たとえば・・・1930年代初め、黄金のギリシャ人といわれたジム・ロンドスというレスラーがマディソンのリングに上がっていたんだ」
探偵「黄金のギリシャ人!?」
ジム・ロンドス
先輩「そう。ロンドスは1930年6月にフィラデルフィアでニューヨーク州体育協会世界ヘビー級を奪取すると、世界恐慌の真っ只中のこの時代にしてマディソンの定期戦で毎回超満員、つまり毎回約2万人の観客を動員するほどの人気を誇ったんだ。ピークは1931年6月29日にニューヨークのヤンキースタジアムで行われた元祖STFのレイ・スティールとの対決で、この試合では4万人を動員したという。まったく文句のつけようのないスーパースターだったんだよ」
探偵「ロンドスのレイ・スティール戦、すごいですね!!殴り合いながらもレスリングの攻防もあるエキサイティングな試合ですよ!!まるでUWFからキックを排除したような戦いです。なぜスーパースターだったのかがよくわかります」
先輩「しかし1932年後半になるとロンドスのマネージャーと当時ニューヨークの大プロモーターだったトゥーツ・モントの間でトラブルが発生してしまい、モントの圧力もあってロンドスはニューヨーク州体育協会世界ヘビー級を返上させざるを得ない状況になり、マディソンからも姿を消すことになるんだ」
探偵「うむぅ・・・これだけ人気のあった看板レスラーが、わずか2年でいなくなってしまうなんて・・・恐るべしはトゥーツ・モントですね」
先輩「そう。トゥーツ・モントは元はレスラーで、1920年代にルイスとビリー・サンドウと3人でレスラー兼プロモーターの派閥"ゴールドダスト・トリオ"を組むんだ。これが前々回に話したルイスのプロレスマーケティングの話と繋がるんだ。モントはルイスと一緒に現在に続くプロレスリングのビジネス形態を作った人物でもあったんだよ(プロレス研究所~MSGとプロレス その3 ② 2代目マディソンの時代 1890~1926年~)」
探偵「なるほど・・・黒幕的な存在だったんですね」
先輩「そうだね。しかし1930年代になるとモントは、それまでゴールドダスト・トリオを解散し、ゴールドダスト・トリオとは対抗的派閥であったプロモーター同士の組織"トラスト"に入り、その能力を発揮していくんだ。ロンドスがニューヨークを追われる際はモントが牛耳るこのトラストの圧力がかかったらしいから・・・」
探偵「ちがう場所に行ったとしても、そこのプロモーターがトラストのメンバーだったなら、あいつはニューヨークでこうだったから・・・という情報共有が行われており使われない可能性があった、というわけですね」
先輩「そう。ロンドスは人気があったので、その後は別の州で活躍したが・・・結局ロンドスのあとニューヨーク州体育協会世界ヘビー級はルイスが王者となる。これは昔からルイスと馴染みのモントの策略だったんだろう。しかし、レスリングの実力では申し分なかったが当時の人気からするとロンドスの穴をルイスで埋めるのは難しかった。そこで新しい看板レスラー、マディソンの新しいスターが欲しくなったわけだ」
探偵「そこでルイスからタイトルを奪ったのがジム・ブラウニング・・・前回見た試合というわけですか」
先輩「しかしブラウニングもロンドスにはなれなかった。マディソンの空白の11年の一番の原因は、もしかしたら"スターの不在"だったのかもしれないな・・・」
探偵「もしロンドスが2年で去らず、ずっとマディソンにいたなら・・・その後の歴史は変わっていたんでしょうねぇ」
先輩「そうだな~。少なくとも11年空白というのは、なかったかもしれないな」
探偵「しかし先輩。1949年2月22日、ここからまたマディソンでプロレスが行われるようになるんですよね?この試合はどういうものだったんですか?」
先輩「うん。まず・・・第二次世界大戦後、敗戦に打ち拉(ひし)がれる日本に夢と希望を与えたのは誰が何と言おうと力道山のプロレスだった。これはわかるよな」
探偵「はい。日本で初めてテレビ放送が開始されたのが1953年2月1日、NHKで・・・同年2月19日に日本初となるプロレス国際試合、力道山、木村政彦組vsシャープ兄弟の世界タッグ選手権者が行なわれ、この日は日本テレビとNHKが同時中継し、日本中がプロレスに熱狂。以後プロレス中継は継続され戦後の日本を盛り上げていきました。グレート東郷のとき調べましたよ。(名レスラー伝~地獄の大悪党!!グレート東郷 その3 やって来た大悪党~)」
先輩「そう。日本がそうだったように、第二次世界大戦後はアメリカでもテレビでプロレスが中継されるようになりブームとなったんだ。しかも日本よりも早くて第二次世界大戦の終戦直後からプロレスの全米中継は開始されたという」
探偵「この頃は、テレビの開発や普及が日本より早かったでしょうからね。それで、アメリカのテレビ事情はどんな感じだったんですか?」
先輩「先駆けとなったのは1949年9月17日からイリノイ州シカゴのテレビ、デュモンテレビネットワークで"レスリング・フロム・マリーゴールド"という番組名で放送されていたものだ。これは全米に放送されたそうだ」
探偵「マリーゴールド!?なんで花の名前が!?」
先輩「シカゴにマリーゴールド・アリーナというのがあり、そこからの放送がメインとされていたらしい。だからこの名前だったんだろう。番組は毎週土曜日の21時から90分~120分という時間で放送されていたという。プロデューサーはプロレスでもプロモーターで、のちにNWA会長にもなったフレッド・コーラーが務めていた。全米中継は1955年で打ち切りになったがローカル放送では1957年まで放送されていたそうだよ」
探偵「ここではどんなレスラーが活躍していたんですか?」
先輩「シカゴではバディ・ロジャースやルー・テーズの試合を中継し人気となり、かなりのプロレスブームを起こしていたようだ」
"ネイチャーボーイ"バディ・ロジャース。ラフでダーティなファイトで、ヒールにして"強くてワルくてカッコいい"レスラーとして絶大な人気を誇った。1961年6月にパット・オコーナーを破りNWA世界王者になった試合ではシカゴのベースボールスタジアムであるコミスキー・パークに38622人の観衆を動員した。当時、全米で最も観客動員数を稼ぐレスラーだった
若かりし日のルー・テーズ。もはや何の説明もいらない20世紀最強のレスラー
探偵「世界王座を統一した圧倒的な実力者のNWA世界ヘビー級王者のテーズに、リック・フレアー、ニック・ボックウィンクルのスタイルの原点となった名レスラー、バディ・ロジャースとくればアメリカ中も夢中にもなりますね。ありがたいことにそのテレビ中継のおかげで、このあたりの試合映像は現在まで結構残っていますね」
先輩「そうだな。一方、西海岸ではカリフォルニア州ロサンゼルスのテレビ局、こちらは番組名など詳細はわからなかったんだが、やはりプロレス中継があり壮大な人気を得ていたんだ。こちらで中心となったのがゴージャス・ジョージだったんだ」
探偵「ゴージャス・ジョージ?うーん、テーズやロジャースはボクですら名前を聞いたことあるレスラーですが、これはわからないですね・・・ずいぶんヘンテコな名前ですが」
先輩「ははは。確かに、いきなり聞いたらそう思うのも仕方ないかもしれないな。しかし、このレスラーがいなかったら・・・というところが実際のところだ。現在に繋がるプロレスにまで多大なる影響を及ぼしたレスラーだからね。写真がある」
ゴージャス・ジョージ
探偵「へ!?これ!?なんですかこの格好!?」
先輩「貴族さ。しかし格好だけじゃないぞ。ゴージャス・ジョージは、まず執事のジェフリーズ・ブラウンにリングにカーペットを敷かせ、エドワード・エルガーの威風堂々に乗り、客とやり取りしながらゆっくり悠々と入場するんだ」
探偵「ちょ、ちょっと待ってください。執事にカーペット!?それに威風堂々ってランディ・サベージの!?この時代にもう入場テーマ曲を使っていたんですか!?このレスラーは一体!?」
先輩「ゴージャス・ジョージはプロレスのショーマンスタイルの祖。ショーマンの始まりなんだよ」
探偵「ショーマンの祖!!」
先輩「そう。貴族に扮したジョージが執事のジェフリーズを先頭に優雅に入場してきて、髪にしてあったピン止めを取らせ、ロープを開けてもらい入場する。やがてリングの隅々には香水が撒かれリング上はジョージの世界となっていくんだ」
探偵「本当に執事だ・・・」
先輩「試合前のボディチェックになってもまだガウンを脱がず、レフリーが試合だと手を伸ばせば汚い手で触るなと拒否。そのあとゆっくり脱いで丁寧に畳んで執事に渡す。試合が始まってもなかなか組まず、客席とやりあっては相手を焦らす。始まれば、こズルい攻めでブーイングを受け、ジョージがやられたなら観客は大喜び。大歓迎を受ける。そして、ときにはリングからマイクでアピールすることもあって・・・」
探偵「そうか・・・今日はどんな入場シーンを見せてくるのかな?どんなことをしゃべるのかな?どんなプロレスするのかな?素敵なジョージが見たい!!キザ野郎がやられるところが見たい!!プロレス中継があるたび人々はジョージを見たくてテレビの前に釘付けになったというわけですね。これは驚きました」
先輩「あのモハメド・アリもジョージのファンだったというからな。ヒールにしてヒーローのゴージャス・ジョージだったというわけさ」
奥さんであるベティ・ワーグナーにトレードマークのプラチナブロンドの髪を整えてもらうゴージャス・ジョージ。試合前はもちろん、日常でもいつも身だしなみを整えていた。そういえば今の新日本にも映画に出演したり、髪を常に整えては身だしなみの素敵なレスラーがいるが、よく見ると顔もジョージに似てるような!?
探偵「しかし先輩。ゴージャス・ジョージがすごかったのはわかりましたが、ゴージャス・ジョージは西海岸のヒーローですよね?マディソンがあったニューヨーク、つまり東海岸とは関係ないのでは!?」
先輩「ところが、この1949年2月22日の11年ぶりのマディソンでのプロレスこそ、このゴージャス・ジョージの試合だったんだよ」
探偵「そうだったんですか!!西海岸のヒーローが東海岸に初見参という流れだったんですね。これは相当センセーショナルだったのではないですか」
先輩「それが・・・西海岸で絶大な人気を誇ったゴージャス・ジョージの東海岸、ニューヨークでの試合は11年ぶりのマディソンでのプロレスに華を添えると思われていたが・・・」
探偵「ええ!?」
先輩「この日、マディソンの観客動員数はわずか4197人という信じがたいものだったんだよ」
探偵「2万人近く収容できるマディソンに4197人!?」
先輩「そう。この日、ゴージャス・ジョージはアーニー・デューセック(NWA世界タッグ王座のセントラルステーツ版、サンフランシスコ版、ロサンゼルス版でタッグ王者としてその名が見れるが詳細は不明)というレスラーと対戦したんだが・・・」
探偵「はい」
先輩「西海岸を席巻したショーマンスタイルをそのまま披露したが予想に反しニューヨークのファンは失望。ニューヨークタイムスをはじめマスコミは酷評し評判は最悪だったんだ」
探偵「で、でも西海岸のロサンゼルスのプロレスも全米中継されていて、東海岸でもゴージャス・ジョージの名は知れ渡っていたはずじゃ!?なぜこんなことが!?」
先輩「土地柄・・・だったんではないだろうか?」
探偵「土地柄・・・」
先輩「確かにゴージャス・ジョージの試合は全米中継されていたから東海岸でも知られてはいただろう。しかし約1300キロの距離があるとはいえロサンゼルスに比べたらニューヨークはシカゴに近かったからね。ファンにはシカゴのテーズやロジャースのファイトの方が軸となっていたんだろう」
探偵「圧倒的な実力で展開されるテーズのファイトと、ラフとダーティさで魅了したロジャースのファイトを見てプロレスが根付いたファンにとったらジョージのショーマンは受け入れられなかったという感じなんですかね」
先輩「ああ。おれらの世代だったら・・・たとえば新日本時代のダスティ・ローデスは確かに人気はあったが、でも日本じゃハンセンの方がダントツな人気者でローデスはかなわなかった。しかしアメリカじゃハンセンはそこまで支持を得ていなかった。一方のローデスは全米どこへ行っても必ず会場を満員にできるほどのスーパースターだった。それと同じなんだろうな」
探偵「なるほど。ここで人気があるからちがうところでも人気があるとは限りませんもんね。知名度と人気は必ず表裏一体ではない、かぁ・・・それにしてもショーマンなしでは語れないWWE発祥の地が、かつてはショーマンが受け入れられなかった地だったというのは不思議でなりませんね」
先輩「そうだな」
探偵「しかし、11年ぶりに開催されたプロレスがこうなってしまっては、このあとのマディソンでのプロレスの運命、不安が立ち込めることになってしまいましたね」
先輩「いや、ところがこのあとマディソンに救世主が現れることになるんだよ」
探偵「救世主!?それは!?」
その4 ③へ続きます。
↧
プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ③ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~
その4 ②からの続きです。
探偵「先輩、マディソンの救世主とは一体!?」
先輩「アントニオ・ロッカさ」
探偵「アントニオ・ロッカ!!ボクですら名前を知っている伝説のレスラーですよ。ロッカがいよいよニューヨークに現れるんですね」
先輩「そう。前回イリノイ州シカゴのテレビ局がバディ・ロジャースやルー・テーズの試合を、西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスのテレビ局がゴージャス・ジョージの試合を放送していたことに触れたが、ニューヨーク州もプロレスの放送をしていたんだ。そこでテレビと共にマディソンで主役となったレスラーこそロッカだったんだ」
アントニオ・ロッカ
先輩「今回はマディソン自体の話に行く前に、このマディソンの伝説のレスラーのことについてちょっと調べてみようと思うんだ。なんせ謎だらけなんでね」
探偵「はい」
先輩「現在までに一般的に流れているロッカのプロフィールに基づけば、アントニオ・ロッカ、本名アントニーノ・バイアセットンは1927年4月13日、イタリア・トレヴィーゾ出身。青少年期はレスリング、ボクシング、陸上などをしており、1940年初め頃にアルゼンチンでプロレスデビューした後、アメリカへ渡ってテキサスからニューヨークへ転戦し多彩な飛び技で一世を風靡しマディソンで大人気となる。特にイタリア系、ヒスパニック系(スペイン語を母国語とするラテン・アメリカ)の移民からの支持は絶大で1949年から1962年までの約13年間に渡りマディソン・スクエア・ガーデンの帝王と呼ばれ不動のメインイベンターをつとめた・・・という感じだ」
探偵「はい」
先輩「現在までに一般的に流れているロッカのプロフィールに基づけば、アントニオ・ロッカ、本名アントニーノ・バイアセットンは1927年4月13日、イタリア・トレヴィーゾ出身。青少年期はレスリング、ボクシング、陸上などをしており、1940年初め頃にアルゼンチンでプロレスデビューした後、アメリカへ渡ってテキサスからニューヨークへ転戦し多彩な飛び技で一世を風靡しマディソンで大人気となる。特にイタリア系、ヒスパニック系(スペイン語を母国語とするラテン・アメリカ)の移民からの支持は絶大で1949年から1962年までの約13年間に渡りマディソン・スクエア・ガーデンの帝王と呼ばれ不動のメインイベンターをつとめた・・・という感じだ」
探偵「う~ん、これだけ確固たる経歴がわかっているのに謎が多いとは・・・」
先輩「ああ、とにかく多い。まず生年月日だが、ロッカには1927年の他、1921年、1925年、1928年と計4つの生年月日説が存在している」
探偵「4つ!?そりゃ過去にもそういうレスラーいましたけど生年月日説はあってもふたつでしたよ。これほどの説があるレスラーは見たことないです」
先輩「そう、悪役のような"ギミック"を操るならプロフィールが複数あっても不思議ではないけど、ロッカのようにベビーフェイスで主戦場も変わらないレスラーならなおさらだ。妙だよな」
探偵「うーん・・・」
先輩「そしてスポーツ歴は先にあげた他、サッカーやラグビーをもやっていたという情報もあった。そして田鶴浜弘さんの手記によれば父親からフェンシングとサバテ、おそらくこれはサバットのことだろう。この手ほどきを受けたという話があった。また別のところではサーカスチームでアクロバットの経験があったという経歴も見られた」
探偵「サバットはフランス発祥の護身術、格闘技でジェラルド・ゴルドーもやっていたというキックボクシングに似ているというあれですね。しかしサーカスのアクロバットは体操と似ているからって気もしますが、ちょっと突拍子がないですね」
先輩「そうだな~。まあこれらスポーツ歴には正確性はなく不明な点ばかりでわからないんだ。たた、とにかくスポーツをやらせたら何をやっても万能だったのはまちがいなかったようだよ」
探偵「なるほど。プロレスへはどのように?」
先輩「プロレス入りは1940年代初めとあるが、調べていくとアルゼンチンで1941年、1942年と、それぞれデビュー説があり、場所はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスだったというものが見られた。しかしどのようなきっかけでプロレス入り、いつ、どこでデビューしたのかはわかっていない」
探偵「うーん、本当に謎だらけですね。しょっぱなからわからないことばかりですよ。それにしても一般的なプロフィールにある1927年生まれが正しいとするなら、デビューが1941年、1942年だったなら14、5歳ということになりますから、かなりプロレスデビューが早かったことになりますね」
先輩「そうなんだけど・・・」
探偵「どうしました?」
先輩「おれらはマディソンを軸にして、マルドゥーンの時代からこうして調べてきてさ、ヨーロッパやアメリカのプロレス史こそ歴史があり、現在にまでわかっていることが多いということが理解できたよな?」
探偵「そうですね」
先輩「でも、この時代のアルゼンチンのプロレス事情ってどうだったんだろうなぁ?思わないか?」
探偵「そういえば・・・これまで、恐怖のトルコ人ユーソフやハッケンシュミットのようにヨーロッパ圏から海を渡りアメリカに来て試合したとか、逆にジェイキンスのようにアメリカからヨーロッパ圏に行って試合したとか。日本人でもソラキチ・マツダのように海を渡って活躍した人がいたとか、ありましたが・・・」
先輩「そうなんだよ。でも南米から誰かが来てタイトル戦やったとか、逆に南米に行ってタイトル戦やったとか。南米で活躍したレスラーがいたとかプロレスが行われていたとか・・・そういうのって聞いたことないんだよ。この南米ってとこは調べてもプロレスの記録が出てこないんだ」
探偵「確かに南米は格闘技こそ古くから歴史が見れど、プロレスは出てこないですね。1958年の力道山のブラジル遠征以降はプロレスという単語も見るようになりますが・・・」
先輩「そうなんだよ。こうなると1940年代にロッカがプロレスデビューしてプロレスするところが、はたしてアルゼンチンにあったのか?って話なんだよね」
探偵「そうかぁ・・・これは確かに疑問点だ。あ、でも、もしかしたら歴史には残らないようなすごく小さなローカル団体は存在していたのかもしれないですよ。そういったところで始まった可能性はあるんじゃないですかね?」
先輩「それはあるかもしれない。でも、そうだとしたらスポーツ万能のロッカが、まったく世に知れてないような小さな団体でプロレスをやる理由はあったのかな?わずか14、5歳でさ」
探偵「ロッカほどの身体能力の人間なら、収入が多いとは思えない小さなローカル団体にわざわざ入るメリットはない、かぁ・・・」
先輩「うん。で、そこで引っ掛ったのが"スタニウスラウス・ズビスコがロッカのコーチをしていた"という情報なんだ」
探偵「ズビスコがコーチを!?」
先輩「そう。調べていたら出てきた。そしてピーンときたのが以前ちょっと触れたヴラディック・ズビスコが1934年7月28日にブラジルで行われたレスリング(キャッチ)とブラジルの格闘技であるルタ・リーブリの対抗戦に出場していたという話さ」
探偵「以前に話したあれですか(プロレス研究所~MSGとプロレス その3 ② 2代目マディソンの時代 1890~1926年~)」
先輩「うん。で、ここからはおれの完全な仮説なんだけど・・・アルゼンチンのプロレス史は不明だが、もしかするとズビスコは南米に遠征していくことで当時の南米を新しいプロレスのマーケットとして開拓し、プロレスを普及させようとしていたんじゃないだろうか?」
探偵「北米に次ぐ市場の発掘。南米でのプロレス・マーケティングというわけですか」
先輩「そうそう。南米にプロレスはなかったが、アメリカから一団として行き南米で興行として行えば・・・」
探偵「WWEの日本公演だったり、今の新日本プロレスがやっている海外進出のような、そんな感じを目指したのかもしれないですね」
先輩「そう。で、そういった関係でアルゼンチンで何かのきっかけで少年ロッカの動いているところを目にし素質に惚れスカウトしたとか?あるいは誰かに"いい若者がいるんだが"と紹介されプロレスに引っ張ってきたとかね」
探偵「なるほど。そして、ひとまずアルゼンチンで試運転させ、ゆくはアメリカで本格的にやらせようという・・・そういう流れだったかもしれないと。現にズビスコはプロモーターもしていたようですし、ハーリー・レイスやジョニー・バレンタインを見出だした、いわゆる素質を見抜く目を持っていた人のようですから、あり得る話かもしれません」
先輩「うん。アメリカではプロレスは最も稼げるコンテンツだ。キミほどの身体能力ならプロレスで必ず成功できる。面倒はすべて見るよ。と・・・ズビスコからロッカへ、そんな口説きもあったのかもしれない。事実、ロッカがアメリカに渡ってきたのは1948年頃と推測されているんだが、このときアメリカに渡る手立てをしたのはズビスコとニック・イーリッチというレスラーだったらしいからね」
探偵「ズビスコの育成説。これはあるかもしれないですね」
ガチャ。
所長「ところがどっこいよ」
探偵・先輩「しょ、所長!!」
所長「1975年10月9日、 蔵前国技館で行われた猪木vsテーズの特別レフリーとして来日したロッカのインタビューが昭和50年12月号の月刊ゴングに載っているの。ここでは一般的に流れているロッカの情報とはちがう話を本人が多々しているわ」
探偵「え!!本当ですか!!」
所長「ふふふ・・・読んで、すったもんだしてちょうだい」
探偵「ありがとうございます!!先輩、さっそく読んでみましょう」
先輩「あ!?ああ。ありがとうございます」
バタン。
先輩「・・・」
探偵「先輩?どうしました?」
先輩「(このタイミングにあのセリフ・・・ステッカーvsキャドックの映像のときもそうだったが、おかしい。所長はまるで前の所長のことを知っているような動きを)」
探偵「先輩!?」
先輩「あ!?そうだな、見てみよう」
探偵「はい」
昭和50年12月号の月刊ゴングより一部抜粋(原文まま)
─さっそく伺いたいのだがまず、あなたは何歳なのかということだ。いろいろ資料によって違うし、六十歳という人もいれば五十五歳というひともいる。
ロッカ:いきなり年を聞くのは失礼だな・・・昔のわたしならば一発お見舞いしているところだが(笑い)・・・。五十とか六十とかいわれたんじゃ、とてもがまんできない。パスポートをみせてやる。一九二七年生まれとなっているだろう。正真正銘の四十八歳だ。わたしは他の人と違って年はごま化さない。まだ若いんだ。わたしは青年だよ。六十なんていわれたんじゃ本当に泣けてくるよ。
─なるほど、ところであなたはいま国籍は何国人なんですか。
ロッカ:アルゼンチンだ。アメリカに住んでいてアメリカの市民権と永住権を持っているが、ナショナリティはアルゼンチンだ。もっとも生まれたのはイタリア・・・イタリアのベニスで生まれて九歳の時、アルゼンチンへ行った。それから一九五一年、二十四歳の時までアルゼンチンで育っている。アルゼンチンのサンタフェというところでね。両親は牧場をやっていた。わたしは牛が嫌いでね。デル・リトラール・アン・ロザリオ大学に入った。
─大学を出ているんですか。
ロッカ:馬鹿にしたことをいうな。わたしのレスリングがサイエンティフィックなのは、わたしが大学で科学的な思考法を身につけているからだ。こう見えて、わたしは大学時代電子工学を専攻した電気の専門家だぜ。
─なぜプロレスラーになったんですか?
ロッカ:大学で陸上競技と体操の選手だった。アメリカで一九五〇年にパンアメリカンの陸上大会があって、わたしはアルゼンチン代表で出た。初めてそのときニューヨークを見た。ニューヨークがすっかり気に入ってしまった。そのとき知り合った友人がアメリカのボルチモアの人間で体操教師の仕事を世話してくれた。それで一九五一年にアメリカに出てきたんだが、体操教師ではもうからない。その頃プロレスを見て、トーツ・モントという男にプロレスラーにならないか──といわれてトレーニングを受けた。わたしも血の気は人一倍多い方だったので、面白い商売だと思ってレスラーになった。
─最初の試合を覚えていますか。
ロッカ:覚えている。わたしはマジソン・スクエア・ガーデンでデビューしたかったんだがデビューしたのはマイアミで、相手はアート・ネルソン・・・確か15分くらいでドローだったと記憶している。
先輩「な、なんだこれは・・・どこにも知られてないような話ばかりだぞ」
探偵「本当だ。いわゆる一般的に流れているプロフィールと合わないものばかりですよ。とりあえず噛み砕いていきましょう。まずロッカは1927年生まれと言っています。半信半疑な記者にパスポートを見せて話しているので、これはまちがいなさそうですね」
先輩「ああ。しかし生まれはロッカの一般的なプロフィールにあるイタリアのトレヴィーゾではなくベニス、つまりヴェネチアと言っている。トレヴィーゾからヴェネチアは約30~40キロほどの距離だから近いといえば近いが、イタリア本土のトレヴィーゾと離島のヴェネチアが情報として交錯するとは、なんとも妙だな」
探偵「馬場さんの出身地でたとえるなら、新潟県の三条市を佐渡島というくらいの感覚ですよ。トレヴィーゾ生まれのヴェネチア育ちってことなんですかね?」
先輩「うーん、わからない・・・」
探偵「でも9歳のときにアルゼンチンに行ったというのは、年齢から換算すると1936年になりますから、こちらは第二次世界対戦前といことになります。これは合っていますね」
先輩「だが他は理解不能だよ。1951年までアルゼンチンにいたなんて・・・」
探偵「1941年、1942年に14、5歳でプロレスデビュー説が一転して大卒、24歳までアルゼンチンにいたとは・・・この10年の開きには確かに面食らいますが、検索したところロッカの言うデル・リトラール・アン・ロザリオ大学はロザリオ国立大学・・・現存する大学です。1653年に建設されていてアルゼンチンでは名門大学のようで、もちろん電子工学部も存在しています。それと・・・」
探偵「でも9歳のときにアルゼンチンに行ったというのは、年齢から換算すると1936年になりますから、こちらは第二次世界対戦前といことになります。これは合っていますね」
先輩「だが他は理解不能だよ。1951年までアルゼンチンにいたなんて・・・」
探偵「1941年、1942年に14、5歳でプロレスデビュー説が一転して大卒、24歳までアルゼンチンにいたとは・・・この10年の開きには確かに面食らいますが、検索したところロッカの言うデル・リトラール・アン・ロザリオ大学はロザリオ国立大学・・・現存する大学です。1653年に建設されていてアルゼンチンでは名門大学のようで、もちろん電子工学部も存在しています。それと・・・」
先輩「うーん・・・」
探偵「デビュー地もアルゼンチンでなくフロリダ州のマイアミと言っています。ということは、このインタビューからすればロッカのデビュー戦は1951年以降ということになりますね。しかもトーツ・モント、これはトゥーツ・モントですね。名前を上げています。モントが関わっていたんですね」
探偵「デビュー地もアルゼンチンでなくフロリダ州のマイアミと言っています。ということは、このインタビューからすればロッカのデビュー戦は1951年以降ということになりますね。しかもトーツ・モント、これはトゥーツ・モントですね。名前を上げています。モントが関わっていたんですね」
先輩「うーん・・・」
探偵「検索したところロッカがデビュー戦の相手として名前を上げたアート・ネルソンは実在するレスラーでDVD"流智美の黄金期プロレス50選 vol.6 鉄人テーズ&野生児ロジャース"で1954年にタッグでロッカと対戦している貴重な映像を見ることができます(表記はアート・ニールスン)67年には一度だけ日本にも来日しています」
先輩「いや、ちがうんだよ・・・ロッカがアメリカのテキサスに渡ったとされる1948年はテキサスで試合した記録が残っているんだよ。これをどう説明すればいいんだ!?」
探偵「ええ!?」
先輩「1948年の8月6日にヒューストンでディジー・デービスというレスラーからテキサスヘビー級のタイトルを奪取。そして同年11月12日に流血王といわれたダニー・マクシェーンにタイトルを奪われるが30日にダラスで奪還。明けた1949年1月1日にテキサスのウェーコでディジー・デービスに破れタイトル転落というものが残っているんだ」
探偵「本当だ。アルゼンチンにいたはずの時代にテキサスでの記録が・・・」
先輩「その後のテキサスでの足取りは掴めなかったが、しかしこの3ヵ月後の4月20日、ニューヨークで同じイタリア出身の"動くアルプス"プリモ・カルネラと対戦したという記録も見られたんだ」
探偵「それはマディソンでですか!?」
先輩「いや・・・これはマディソンかどうかはわからなかったし勝敗も不明だった。でもニューヨークだったという点から、この1949年の1月1日以降から4月20日までがロッカがマディソンに登場した可能性が非常に高いんだ。確実にマディソンに出て日にちまでがわかるものであれば1949年12月12日にジン・スタンレーと対戦したのがそうだ。これがロッカが初めてマディソンでメインイベントで試合をした日だとされている」
探偵「でも、それじゃ辻つまが合わないですよ!?おかしいじゃないですか!?説とかじゃなくて本人が1951年の24歳までアルゼンチンにいたと言っているんですよ!?」
先輩「確かにそうなんだが、だとしたら1948年から1951年までの3年間をどう説明すればいいんだ!?同じ人物なのに居た場所もやってることも、まったくちがうんだぞ!?」
探偵「それは・・・そうだ!!ロッカはインタビューで1950年にアメリカでパンアメリカンの陸上大会があってアルゼンチン代表で出て、そのときはじめてニューヨークを見たと言ってたじゃないですか。現在でも行われているパンアメリカン選手権なら正式な記録が残っているはずですよ。それで調べれは何かわかるはずですよ!!」
先輩「ところがな・・・パンアメリカン選手権が始まったのは1950年ではなく1951年からなんだよ。それに、もし仮にロッカが出場した年を1年勘違いしていたとしても第1回大会の開催地はアルゼンチンのブエノスアイレスだったからロッカがニューヨークを見ることはあり得ないんだ。大会は1959年にシカゴで行われた第3回までアメリカ本土では行われていないし、現在に至るまでニューヨークで行われたことは一度もないんだよ・・・」
先輩「ところがな・・・パンアメリカン選手権が始まったのは1950年ではなく1951年からなんだよ。それに、もし仮にロッカが出場した年を1年勘違いしていたとしても第1回大会の開催地はアルゼンチンのブエノスアイレスだったからロッカがニューヨークを見ることはあり得ないんだ。大会は1959年にシカゴで行われた第3回までアメリカ本土では行われていないし、現在に至るまでニューヨークで行われたことは一度もないんだよ・・・」
探偵「そんなバカな!!それじゃロッカがインタビューで話したことって一体!?」
先輩「試合やタイトル遍歴の記録が誤ってるとは思えないし、だからと言ってロッカが西暦や日付まで交え(※インタビューでは過去の試合のことに西暦や日付も含め明確に話している)これほどスラスラとウソを語れるとも思えない。もしかすると・・・いや、そんなはずは・・・」
探偵「なんですか!?そのもしかするというのは!?」
先輩「メン・イン・ブラックって映画、見たことある?」
探偵「え!?ええ知ってますよ。地球にある宇宙人を監視する秘密組織MIB、メン・イン・ブラックの話です。シリーズ全作見てますよ。でも、それが何か?」
先輩「実は75年10月にロッカが来日した際、ロッカの世話役として宿泊先に起居したミスター高橋の体験した話を田鶴浜弘さんが81年5月に出たゴング増刊号"THE WRESTLER BEST100"に載せているんだ」
探偵「それがMIBと何の関係が!?」
先輩「とりあえず読んでみてくれ」
81年5月ゴング増刊号THE WRESTLER BEST100より一部抜粋(原文まま)
ある日突然、血相変えたロッカが頭を抱え、ベッドの隅に逃げ込み、おびえ切って口走る。「とうとう来たのか、お前はFBIか?」といったようでもあるし語尾が「UFOか?」といったようでもあった。そして、はっきり「まだ俺を連れていくな・・・」と──そして、うつろな目で窓外の上方を指差した不気味さにミスター高橋はぞっとしたが、それっきりあんなそぶりは2度と見せなかった。
ある日突然、血相変えたロッカが頭を抱え、ベッドの隅に逃げ込み、おびえ切って口走る。「とうとう来たのか、お前はFBIか?」といったようでもあるし語尾が「UFOか?」といったようでもあった。そして、はっきり「まだ俺を連れていくな・・・」と──そして、うつろな目で窓外の上方を指差した不気味さにミスター高橋はぞっとしたが、それっきりあんなそぶりは2度と見せなかった。
(中略)
ロッカが没する2週間前、ロスでミスター土門がヘルス・ジムで会ったときはまるで筋肉の化物、場合によっちゃあマットにもう一花──というくらいだった。ミスター土門の奥さんの親友がロッカの死んだ病院の婦長さんで、後年、彼女の話だと、ロッカの遺体は、まるで空気の抜けた風船みたいにしぼんでいた──というのだから、いかにも腑に落ちない話である。
探偵「ま、まさか!!ロッカは宇宙から来た宇宙人で、力が尽きたから体がしぼんでしまったっていうんですか!!」
確かに帰ってきたウルトラマンはカラータイマーを取られ、しぼんでしまったことがある
先輩「そう。そして地球にはMIBのような組織が本当にあって、若き日に何か重要な秘密を知ってしまった宇宙人のロッカに"ピカッ"をして記憶を消し、ちがう記憶を入れたんだ。だからデビュー説に10年の開きが生じたり、1948年から1951年の3年間に異変が生じてしまったんだよ」
探偵「そんなバカな・・・」
先輩「なんてな。だったら辻つまは合うんだけどな」
探偵「でも冗談でもない気がしてきましたよ。ロッカって一体、何者だったんでしょうか・・・」
先輩「わからない。でも、ロッカの時代にもう少し付き合ってもらうよ」
続きます。
↧