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Takeover

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どうも!!流星仮面二世です!!

さて、いつもアツき魂を伝えてくれる柴田ファンの駒沢シバティストこと駒シバさん。


その駒シバさんが今回ブログへ書き記した柴田vsオカダへの布石。








素晴らしい。この試合にはボクも特別な思いがあるので、そこに辿り着くまでのこの流れには、胸を打たれました。

あの日のことが思い浮かびます。

『前の試合が予想だにしないタイムで終わり、騒然とした空気が流れた後、間もなくして会場の空気が一変しました。このソワソワ感、これは猪木と天龍がドームでやったときの、あの試合直前に似ています。異様な興奮の、空気です。そんな中、ついにゴングが鳴りました。

“オカダはレインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい”

と柴田は言いました。そしてオカダは逆に柴田に

“俺こそ、昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかな”

と言いました。

ボクは4年ほど前、何十年ぶりに観戦したドームでオカダのドロップキックを見て刺激され・・・そしてその日から息子がプロレスファンになり、現在の新日本を本格的に一緒に観るようになりました。

初めは今のプロレスに戸惑い、なんだかわからないことも多かったですが、いろいろわかってくるとおもしろくなり、家族でテレビ観るのが楽しくなりました。ビッグマッチ前はチェックを入れ、家庭でこの試合は、この選手はね、と話すのがうれしかったです。生観戦も数を増し、やがて家族で観戦にも行きました。その試合はレベルが高く、ドキドキしながら興奮しながら観ては、結果に喜び悲しみ、いろいろな思いを巡らせました。そしてそれを同じファン同士で話し合うことが、またできるようになりました。それは本当にうれしいことでした。

でも・・・本当に、ほんの小さな隙間なんですが、心にそれがありました。うれしく楽しいはずなのに、その隙間は・・・なんなのか?

知ってのとおり、ボクは古いプロレスのファンです。そんなこともあり柴田の試合を見るたび、ああ、プロレスを見た・・・と、何度も胸を熱くしたことがありました。オカダによって門を開いてもらい、柴田によって通されたんです。

しかしながら、やはり親、なんでしょうね。この日は会場で息子が好きなオカダに勝ってほしくて声を張り上げていました。

でも、初めこそそうだったのですが・・・グランドの展開、寝そべってのアリ戦法、足4の字、リバースのインディアン・デスロックから弓矢固め、コブラ、卍・・・倒れた相手に、来い!!という、その手、腕、表情。その動きひとつひとつに自分の体が反応し、いつしかオカダと叫べなくなっていました。

そして過った、出かける前の三世の言葉

「お父さんは柴田のTシャツ、着ていかないの?」

柴田の・・・そうだおれは今、何をしているんだ?

そんな思いの中、柴田のパンチ、それは髪の毛を鷲掴みにし眼光をくれる弓を引く右ストレート、ナックル・アローでした。その攻撃を背中から観るボクの目に飛び込んできたのは「闘魂」の2文字でした。体から青白き炎を出しながら背中に浮き出た闘魂の2文字・・・これだ・・・ボクの心の隙間・・・闘魂だ!!これが、おれが知ってるプロレスだ!!柴田、勝ってくれ!!

しかし、その闘魂を真っ向から受けるはオカダ。闘魂のヤドカリを吹き飛ばすかのような攻防を見せます。だが技を出し、受けきって、また技を出して受ける柴田。もはや意志とは別のものが柴田を動かしているように見えました。何が体を動かしているのか・・・そう、闘う魂なんだ・・・

スリーパー、そして柴田の腕を持ったままのオカダへのキック。周りには目を塞ぐ人もいた。悲鳴も聞こえた。オカダが、負ける・・・

「オカダー!!がんばれー!!」

三世の声・・・なんて試合なんだ・・・

しかしオカダは何かを持っていました。反撃・・・でもレインメーカーが打てず、前のめりに。しかし最後、まさに力を振り絞っての、あれは形こそレインメーカーでしたが、ボクにはレインメーカーには見えませんでした。オカダが腕で、意地でぶん殴ったように見えました。そしてその腕は柴田の首を横からぶん殴ったように、こちらからは見えました。

寒気がしました。首の横、頸動脈を締めれば頭への血流が止り脳への酸素不足で気を失います。落ちるというやつです。しかしそれは絞め技の限りではありません。打撃でも首、頸動脈に入れば血流が一瞬絶たれ気を失います。あの技が柴田に決まったときは、まさにその状態ではなかったかと思います。なんて凄まじい・・・

レインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい。昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかと・・・だが、オカダも柴田もマスクを剥がし合わなかった。生まれ持った真のストロングスタイルとプロレスのメーンカレント(本流)を行くお互いのスタイルが、最大限でぶつかり合った。純粋にプロレスラーふたりが戦った、それがオカダvs柴田でした。

柴田が、負けた・・・半ば呆然・・・そして涙が溢れんばかりでした。

その横で、三世。オカダが勝てば、いつもは大喜びの三世ですが、この日は

よかったぁ~勝てたぁ~」

と、安堵の表情でした。

そう、三世はそれでいい、本当にいい!!本当に心の底からオカダを応援する、その気持ち。それでこそ真のファンだ。

しかし、おれは・・・

家に帰ると嫁さんが

「子供の手前、言えなかったけど、あたしテレビの前で柴田勝って~!!って泣きそうになりながら祈ってたよ」

そうか、そうだよな・・・

マスクを剥がされたのは・・・ボクらだったのかもしれないな。

(プロレス観戦記:桜の花の咲く頃により)』

この気持ちを引き出してくれた駒シバさんには、もう長く楽しませてもらっています。

ボクが駒シバさんの存在を初めて知ったのは2014年1月28日、レガさんが書いた素敵な記念日という記事でした。

そこから駒シバさんのブログに行き文章を読んだときは「なるほどなぁ~」という言葉が、とまりませんでした。

それまでブログというものには、どこか"形"というものがあるものと思っていました。しかしそれはそういうものを感じさせず・・・たとえばそれは、通常を知りながらもちがう表し方で表してみたり、あるいはその物事に到達するまでにとんでもない角度からやってきてみたり。でも伝えたい真はしっかり通っているという奥深さを感じるものでした。

しかし、なんといっても感じられたのは"愛"でした。やはり、ここに尽きると思いました。

そんな駒シバさんとレガさんはブログを奏でる遥か以前から運命が始まっていたといいます。それは誕生間もない地球に火星ほどの大きさの巨大隕石が衝突し砕け、やがて月を形成したジャイアント・インパクト説のように、原始の惑星レガから誕生した月、シバとの物語だったのかもしれません。

ボクはその歴史には到底及ぶことはできませんが・・・ボクが駒シバさんの存在を知った2014年1月は、奇しくもボクにとってもプロレスが動いた日。運命があった日でした。

アントニオ猪木が引退した1998年4月。以降、ボクの中のプロレスは徐々フェイドしていきました。もちろんプロレスは好きなままでしたので、かつての映像や本は見ていましたが、リアルタイムではテレビはちょっと。たまに観戦こそしていましたが"あまりにもプロレスから遠くなってしまったプロレス"に嫌気が差し、やがて追うことをしなくなっていってしまったのです。

そんな状態になり何年も過ぎた頃。幼馴染みの誘いで、当時小学校3年の息子を連れ15年ぶりに1.4の東京ドームへ観戦に行きました(謹賀新年!!)

初めはなんだかわからず、観戦に苦戦していました。しかし、先にも書いているように、そこでオカダが門を開け、そしてその門の中にいた柴田がプロレスへと通してくれたのです。

こうしてまたプロレスを追うようになりました。それは本当に楽しく、うれしいものでした。新日本プロレスが続いていたから柴田やオカダを見ることができたんだ。だからボクのような古いファンでも、こういう思いができたんだ。こればかりは棚橋に感謝しなくてはならないなぁ・・・とにかくプロレスがこの世にあってよかった。ファンでよかったなぁと・・・日々、そう思えました。

でもボクの心には隙間がありました。満たされているはずの心にほんのちょっとだけ・・・少しだけ隙間があったんです。楽しいはずなのに、何かが、なかった。足りなかったんです。

思えば家族全員プロレス大好きだった生家。金曜8時は必ず茶の間を囲んでいました。だから母親のお腹にいる頃からテレビからのプロレスが聞こえ、生まれて間もない頃からプロレスが見える空間にいました。物心ついたときには、テメェこの野郎!!と闘志を露にし、流血しながら立ち上がり怒りの鉄拳ナックルパートをし、リバースのインディアン・デスロックに己を鼓舞し、トップロープから鷹が獲物を捕るようなニードロップをし、そして、ダァー!!と歓喜するあの姿に心を踊らせていました。それは何年も過ごして、自身の身体に刻み込まれたものでした。

足りないもの・・・それは"闘魂"でした。

いくら投げられても立ち上がる。打たれたら打ってこいと顔を出す。効いているはずなのに、効いてないように相手に立ちはだかる。そういうことをするレスラーは他にもいました。でも、何かがちがっていました。動きひとつひとつに何かが宿っている。肉体とちがう何かがこのレスラー、柴田を動かしているんだ。満たされ、アツくなりました。あの頃に戻ったような気持ちになりました。プロレスに純粋な自分に戻ったような気持ちになれたんです。

こうして3年が経ったとき、ついに柴田とオカダのIWGP戦が実現することになりました。しかし結果は柴田の敗北でした。そしてそれは命に関わる事態となってしまいました。

とっても、やりきれない気持ちでした。当時ボクはTwitterをやっていましたが、駒シバさんは落胆の色が隠せない状態だったように見えました。何かのやり取りで、ボクは「ファンがいれば、いつでも甦りますよ」と入れたことがありました。

しかし駒シバさんはTwitterからもブログからも忽然と姿を消してしまいました。理由はわかりませんでしたが、そのとき、こんなことになるならもっとやり取りしておけばよかった。聞いておけばよかった・・・そう思うことが日を増すごとにボクには沸いてきました。10代、20代、30代。そして40代、50代、60代、70代のファン。層によって、それぞれ思うことがあると思うけど、駒シバさんほどのファンだったなら、あの試合の一番のシーンはどこだったんだろう?と・・・

それは、どんなファンに言われようが、これだけは!!というシーンが自分にあったからでした。それを確かめたかったからでした。

それは"卍固め"でした。

これまでに卍固めを使うレスラーはいました。しかし卍固めを"本当に使えていた"レスラーは正直いませんでした。それは卍固めが形だけでは成り立たない技だったからです。

オカダとの試合前、柴田が煽りVで話した言葉に

「オカダからしたら 俺は時代おくれの存在だから だけど俺は今の新日本プロレスとも勝負しているよ」

というのがありました。

あの試合の柴田には、技、表情ひとつひとつに、その言葉の意味が込められているように感じられました。ハッタリやカッコつけでもなければ、イメージのためなんかじゃない。柴田は今の新日本プロレスとも勝負している。その言葉が本能のまま現れたんだと、そう感じました。

だから・・・あの試合はスリーパーホールドからのペナルティキックではダメだった。卍固めでなければダメだったんです。

「おおっと延髄斬りもう一回!!雀百まで踊り忘れず、三つ子の魂百までも!!長州も本能で返す!!しかし猪木も徹底して攻撃を緩めないっ。傷ついても立ち上がってくその両雄の、戦う男の本能だっ!!さぁーもう一回、卍だー!!(1984年4月19日 蔵前国技館 アントニオ猪木vs長州力)」

「さあパンチ攻撃猪木ーっ!!この辺は猪木ケンカ殺法、インサイドワーク、さあ鬼になった猪木、鬼になった猪木の卍だー!!さぁー卍固めーっ!!猪木の卍固めオクトパスホールドー!!猪木の二十数年間にわたる、その過激なプロレスの原点、卍固めーっ!!(1985年9月19日 東京体育館 アントニオ猪木vs藤波辰巳)」

「さあどうだどうだロープに飛ばしておいてからの卍固めー!!卍固めです!!幾多のレスラーを、エンブレム、勲章ともいうべき卍固めで仕留めていった!!まいったはしていない藤波!!ここが分かれ目だ!!(1988年8月8日 横浜文化体育館 藤波辰巳vsアントニオ猪木)」

だからボクは発せずにはいられませんでした。

「そうですね~!!そして右足をフックしてー!!さぁー卍ー!!乾坤一擲の卍固めだー!!


日本プロレスから新日本創世記、70年代、80年代。大一番、この卍固めで相手を倒すプロレスが、そこにはありました。そんな様々なシーンを、我々は今、柴田によって見るのかリング上!!卍が柴田の体を介して、自らの意思を持ったかのように、オカダに絡みついていきます!!(プロレス名勝負伝~オカダカズチカvs柴田勝頼~パート3より)」

小さな頃から本物の卍固めをその目で見てきた柴田でなければならなかった。新日本プロレスの中で育った柴田でなければならなかった。今の新日本で卍固めは、柴田でなければ意味がなかった、卍固めの意味がなかったんだ。確かに猪木には及ばないかもしれない。でも、闘魂を受け継いだのは柴田しかいない。だから卍固めに意味があった。その卍固めには、闘魂があったんです!!

「やっぱりプロには、世界一の柴田勝頼ファン集団にはかなわねえや」

そんなことはないんですよ。今、好きと思えるなら、そのときその人が世界一なんですよ。だから世界一の柴田ファンとして、あの試合の一番のシーンを、今度、聞かせてくれますか?

受け継がれし者の言葉が聞けるその日を、楽しみに待っています。


プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ④ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~

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その4 ③からの続きです。

先輩「さて、前回はロッカの謎に迫り、いろいろな説が飛び交ったが・・・ここからは試合記録に基づき辿っていこうと思う」

探偵「はい。前回も話した1949年4月20日、ニューヨークで"動くアルプス"プリモ・カルネラと対戦。そして同年12月12日にマディソンで初めてメインに立ちジン・スタンレーと対戦した、この年をロッカのマディソン登場の年として辿っていくわけですね」

先輩「そう。ということでまずは・・・試合自体は直接マディソンに関連しているわけではないが出来事に所縁がある話からさせてもらうね」

探偵「はい」

先輩「1948年。ロッカがアルゼンチンのブエノスアイレスでディック・シカットを破りタイトルを手にした記述があるんだが、このタイトルが当時のニューヨークで"インターナショナル・ヘビー級"という名称になっているんだ」

探偵「それは、あの!?」

先輩「そう。このタイトルが82年8月30日に藤波がマディソンで獲得したWWFインター、ロッカ・メモリアルということになる」

探偵「これがWWFインターナショナル・ヘビー級の起源ですか」

先輩「そうなんだけどね。しかし実のところ1948年にアルゼンチンのブエノスアイレスで試合が行われた確たる証拠はなく、その後の防衛記録も発見されていない。一部ではロッカを王者にするための架空の試合なんて情報もあってね・・・真実は謎なんだ」

探偵「やっぱりロッカと謎は常にセットなんですね・・・」

先輩「だなぁ。ちなみに前回紹介したゴングのロッカのインタビューによれば1958年にブラジルのサンパウロでマリオ・デ・サウザという南米の有名なレスラーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級王者になったと語っている。観衆は10万人だったそうだが会場名は言っていないので不明。このときは中南米をサーキットし22試合を行ったとロッカは述べているが、公式な記録などはこれまた謎なんだ」

探偵「マリオ・デ・サウザは力道山がブラジル遠征をした1958年と1960年に、それぞれシングルで対戦している記録がありますね(etsujikoizumiさんのブログ:続プロシタン通信 ブラジルでの力道山、清見川 ※表記はマリオ・デ・ソーサ)力道山のブラジル遠征とロッカの中南米サーキットはどちらも1958年と年が被ってますので可能性はあるのかもしれません。しかし、また謎かぁ~。本当にやれやれって感じですね」

先輩「ははは。本当にまいっちゃうな。だが、これがなければ藤波、長州がやりあった我々の知るWWFインターはなかったわけだからね」

探偵「そう考えると大事な歴史ですね」

先輩「ああ。その大事な歴史なんだが・・・WWFの名が出てきたが、このあたりからはWWEにとっても大事な歴史が出てくるんだ」

探偵「WWE!?」

先輩「そう。ジェス・マクマホンが1925年にボクシングの興行をプロモーターの初仕事として行っていたことは以前に話したが、以降もジェスはプロモーターとしてボクシングやプロレスの興行を行っていたんだ」

探偵「はい」

先輩「しかし1954年11月22日にジェス・マクマホンは72歳で死去してしまう。これにより息子のビンセント・ジェームス・マクマホン。つまりビンス・マクマホン・シニアが、興行会社キャピトル・レスリング・コーポレーション(Capitol Wrestling Corporation)で1956年からニューヨーク、マディソンで活動をし始めることになるんだ」

若き日のマクマホン・シニア

探偵「マクマホン・シニア!!今のマクマホンのお父さんですね。とうとうマクマホン・シニアがマディソンに登場かぁ~。あ、ということはつまり、キャピトル・レスリング・コーポレーション、これがジェスが作った会社でWWEの前身ってことなんですね!?」

先輩「そう、察するとおりこれがWWEの前身になるが・・・キャピトル・レスリング・コーポレーションは1953年1月7日に立上がったとされるがジェス・マクマホンが設立したのかマクマホン・シニアが設立したのか!?本当のところ創設者はわかっていないんだ」

探偵「しかし、どちらにしてもマクマホン一族なんですよね?」

先輩「とは思うんだけどね。とにかく設立間もなくトゥーツ・モントが参加しNWAにも加入。他の地区より安定した集客もあったということで、かなりの"支配力"があったそうだ」

探偵「なるほど~。トゥーツ・モントが一枚噛んでる可能性があるわけですね。本当に狸親父たなぁ」

先輩「ははは。だな。ま、かくして1956年11月26日。この日、キャピトル・レスリング・コーポレーションのマクマホン・シニアとして記念すべきマディソン初プロモート興行が行われたんだ。カードはアントニオ・ロッカvsディック・ザ・ブルーザー。観衆は14000人とあるから、大成功と言えただろうね」

探偵「ロッカvsブルーザーとはすごいですね。オールドファンならヨダレが出そうなカードです」

先輩「でも、さらにヨダレが出そうなのは1957年2月4日。アントニオ・ロッカとバーン・ガニアが組み、ハンス・シュミット、カール・フォン・ヘスと対戦したカードだ。このときは観衆19300人のソールド記録を作ったそうだよ」

探偵「まだミネソタの帝王以前のガニアとロッカのタッグですか。これは人気があるのがわかります」

先輩「登場レスラーも聞き覚えのある名前が増えてきたしね。モントの存在感とマクマホン・シニアの手腕から来るブッキングの力を感じずにはいられないよな。それに"タッグマッチ"という言葉が出てくるようになった。タッグがメインイベントで入場がソールドアウトとは、これは大きな変化と言えるだろうな」

探偵「そういえば昔、ボクらタッグのことを調べたはいいが一回で終わってしまったことがありましたね(タッグのことを話そうよ パート1)」

先輩「ああ、せっかく画像やら文献やらまとめたのに、パソコン壊れちゃって終わっちゃったあれな」

流星仮面二世「そうそう。あれも大作になる予定だったんだけどねぇ~。跡形もなく消えて心が折れたよね」

探偵「はいはい。しかしながら、やはり13年もトップに君臨したロッカが気になります。これだけの集客力を誇ったロッカのプロレスとはどのようなものだったんですか?」

先輩「ロッカは、それまでのレスラーとちがうプロレスを展開したことで爆発的な人気を得た。当時は誰もやっていなかった連続ドロップキックや、とんでもないところから飛んできては一瞬にして相手の肩に乗り転がしてしまうフライング・ヘッドシザースなどを繰り出す一方、ハイジャンプやネックスプリングや側転などで間を繋ぎ、プロレスに立体的な動きを持ち込んで大人気となったんだ」

グレート東郷をジャンプして撹乱するロッカ

代名詞アルゼンチン・バックブリーカーはロッカの完全オリジナル。前回紹介したゴングでのロッカのインタビューによれば1953年にマサチューセッツ州にあったボストン・ガーデンでボブ・レビンスキーというポーランド系レスラーにエアプレーン・スピンを掛けた際、暴れたのでとっさに押さえたところこの技になった、とのことである

先輩「写真の他、ロッカの試合映像はわりと残っているので現在でも見ることができる。ルー・テーズとのNWA世界ヘビー級なんかも残っているが、オススメしたいのは1950年2月3日にイリノイ州シカゴのシカゴ・スタジアムで行われた(と思われる)ベニート・ガルディーニというレスラーとの対戦だ」

探偵「シカゴ?マディソンではないんですか?」

先輩「うん。このベニート・ガルディーニというレスラーは日本ではまったく知られていないが、当時マディソンをはじめアメリカ各地でファイトしていた有名なレスラーだったようなんだ。悪役レスラーだったようだが、試合では相手のいいところを引き出しては観客の目を引いたり、観客とのやり取りが抜群にうまかったという」

探偵「うーん、170センチ、135キロという体型。けして主役ではなかったが引き立て役の試合から世界タイトル戦まで広くこなしていたと・・・今の芸能人でいうと、ちょうど出川哲朗みたいな感じなんですかね」

先輩「ああ、まあそんなところだな。で・・・ロッカの試合は何試合か見たんだけど、このベニート・ガルディーニ戦が短時間にして一番ロッカのプロレスがわかると思ったのでね」

https://www.youtube.com/watch?v=OqtOxbtGzfY

探偵「こ、これは・・・すごい。知られているロッカの技ももちろんですが、まず驚いたのがリング上でフットワークを使い前蹴りやハイキックで相手を攻撃しているところです。1950年代に、もうこんなことをしていたなんて」

先輩「プロレスの源流は各種のレスリング。だから元来、組むことを基本としてきたから、このロッカの動きはセンセーショナルだっただろう。それにしてもロッカは、どこからこの動きに至ったんだろうなぁ?前蹴りも独特だし、ハイキックは空手でいう外回し蹴りみたいだし・・・それに他の映像ではソバットを使っているものもあったし」

探偵「前回、田鶴浜さんの手記にサバットの経験とありましたが、それかもしれないですね」

先輩「そうなんだけど、どうもなぁ・・・」

探偵「何か、思い当たるところが!?」

先輩「ああ。このロッカの蹴りは、もしかするとカポエイラなんじゃないだろうか?」

探偵「カポエイラ!?」

先輩「ああ。サバットを調べても、この形の蹴りが出てこないんだよ。しかしカポエイラには、ロッカのあの前蹴りならマルテーロ、外回し蹴りならメイアルーアジフレンジと呼ばれる酷似した蹴りが存在するんだ。だから、もしかしたらカポエイラを習った過去もあったんじゃないかなって」

探偵「そうか!!確かにロッカはブラジルではなくアルゼンチンですが、南米ということでカポエイラに触れる機会があったのかもしれないですよね!!ロッカのカポエイラ説。もしこれがはっきりわかったなら、これまた大発見ですね!!」

先輩「そうだな。現在はMMAでもカポエイラ使う選手がいるけど、一番最初にプロのリングに持ち込んだのは実はロッカだった、なんてなったらおもしろいだろうね」

探偵「そうですね。あと、一番最初という点で言うならこれも触れておきたいんですが、ロッカがリープ・フロッグを使って相手を交わし、返ってくるところにカウンターのドロップキックをやってます。これも印象的でした。リープ・フロッグがこの頃に存在していたとは・・・」

先輩「うん。当時の映像だとテーズもやってるシーンが見られたが・・・おれが知る限りプロレスでリープ・フロッグを使用している様子が見られる最も古いシーンはロッカのじゃないかなと思う。ただ、全部調べたわけではないので絶対とは言えないけどね」

探偵「ロッカが考案者だった可能性もあるということですね。だとすれば、これも今回の新たな発見ですね!!とにかくロッカの試合は常に動きがあるのでずっと見ていられます。それに、次はどんな動きをするのか?なんの技が出るのか?と思うと期待感が増して目が離せなくなります。引き込まれますよ」

先輩「そう、このロッカのプロレスは見る者をそういう気持ちにさせ、テレビを通し、より多くの人々の目をもプロレスへと導いた。そしてプロレス自体にも影響を与え、その後のプロレスの"形"に大きな変化をもたらしたんだ。もちろんおれらはその現象は体感はできなかったが、きっと初代タイガーマスクが現れたときのような感覚だったんだろうな」

探偵「初代タイガーマスクかぁ・・・ですね。もしプロレスの世界に現れなかったら、その後のプロレスはどんなふうになっていたんだろう!?というのはまったく共通すると思います。影響力を感じましたよ」

先輩「だが、そんなロッカのプロレスも1960年からは運命に誘(いざな)われるようになる」

探偵「運命!?それは・・・?」

先輩「バディ・ロジャースのマディソン登場だ」

探偵「ロジャースが!?」

先輩「そう。1950年代。ロジャースが最も観客を動員するレスラーだというのは以前に話したが、ロジャース推しだったマクマホン・シニアは自身がプロモーターになると早くからニューヨーク、マディソンにロジャースをブッキング。登場させていたんだ」

探偵「なるほど。空中戦のロッカにラフ・ファイトのロジャースとくればマディソンのプロレスも磐石ですもんね」

先輩「ああ。各々の試合はもちろん、ふたりの直接対戦はエキサイティングで人気があったようだよ。で・・・そんなロジャースがNWA世界王座を手にしたのは1961年6月30日、シカゴでのことだった」

探偵「パット・オコーナーと戦った、コミスキー・パークに38622人の観衆を動員した試合ですね」

先輩「そうそう。で、ここからはちょっと政治的な話が含まれていて複雑なんだが、話の進行上、交えて話すね」

探偵「はい」

先輩「NWA発起人で創設者だったミズーリ州セントルイスのプロモーター、サム・マソニックはテーズ推しのプロモーターだった。だからテーズ以降もディック・ハットン、パット・オコーナーのような技巧派を王者としていたんだ」

探偵「はい」

サム・マソニックとルー・テーズ

先輩「しかし実力は申し分なくてもロジャースのようなスター性に欠けていたハットンやオコーナーでは興行的面において苦戦を強いられる点があり、NWA内で不平の声が上がってきていたんだ」

探偵「つまり客の呼べるレスラー、ロジャースを王者に置いた方が賢明と・・・」

先輩「そう。しかし、ご覧のようにマソニックは、まったくロジャース推しではなかったわけだ」

探偵「なるほど・・・プロレスは強さやテクニックがあってこそ。でも興行収入がなければプロレスが継続もできないし、なによりレスラーが食えない。これは悩むところですね」

先輩「そう。だが悩むところはそこだけじゃなかった」

探偵「え!?それは!?」

先輩「1961年6月。マソニックが推していなかったロジャースがついに王者となるわけだが、このときロジャース推しではなかったマソニックもNWA世界戦のプロモート権を失うことになるんだ」

探偵「た、タイトル移動でプロモート権も移動!?一体、誰にですか!?」

先輩「マクマホン・シニアと共にずっとロジャース推しだったシカゴのプロモーター、フレッド・コーラーだ。コーラーはNWA世界戦のプロモート権を握り、8月にはNWAの会長にもなったんだ」

探偵「うむぅ~・・・」

フレッド・コーラーとバディ・ロジャース

先輩「そしてマクマホン・シニアはロジャースの個人マネージャーになる。もちろんマクマホン・シニアのバックには狸親父のトゥーツ・モントもいたから・・・」

探偵「圧倒的な観衆動員数を誇るロジャースをNWA世界王者としてプロモートできるようになったコーラー、マクマホン、モントが独占する形になったというわけですか」

先輩「その通りだ。こうしてNWA世界戦は自身のエリアであるシカゴ、ニューヨークを中心とするようになった。マソニック派のNWA側がちがうところで防衛戦を要求しようが対戦相手を指名しようが跳ね除けんばかりにプロモート力を発揮し続けたんだ」

探偵「それでロジャースがマディソンに世界王者として登場するようになると・・・」

先輩「そう。で・・・話をロッカに戻すと、ロジャースがNWA王者になる5ヶ月前の1961年1月23日。ロッカは、ジョニー・バレンタインとのタッグでカンガルーズと対戦したあと一旦ニューヨークを離れ同年の6月23日まで全米サーキットに出るんだ」

探偵「マソニックとコーラー、マクマホン、モントのNWA内紛のその騒動の火蓋が切られた頃、ロッカはニューヨークを一旦離れるわけですか」

先輩「そうなんだ。これまでにもニューヨーク以外で試合することはあったが、それらは単発での出場だったので・・・ロッカが完全にニューヨークを離れサーキットすることは初めてだっただろうね」

探偵「ということは、鬼の居ぬ間にナントカじゃないですが、ロッカがマディソンにいなかったこの5ヶ月のサーキットの間にロジャースがニューヨーク、マディソンに定着し始め状況が変わり出してきた、ということなんですね」

先輩「ああ。ロッカは1961年6月23日にマディソンに復帰。メインでアルゼンチン・アポロと組んでロジャース、ボブ・オートン組と対戦し引き分けこそしたが、翌月の7月28日の定期戦では1ヶ月前にロジャースが奪取したNWAの防衛戦がメインとなり、ロッカはセミファイナルでの出場となった。マディソン登場以来11年ぶりにもなろうメイン以外での出場と相成ったんだ」

探偵「マディソンの主役はロジャースに変わりつつあったのか・・・」

先輩「降格なんて言葉は使いたくないが、しかしメインから外されてしまったのは事実。1961年9月からニューヨーク地区へ転戦してきた海外武者修行中の馬場さんが、ここマディソンでロッカとのシングルやマンモス鈴木とのタッグで相当数対戦できたのは、あるいはこのためかもしれないなぁ」

探偵「そうかぁ・・・いくら馬場さんが逸材だったといえ、デビュー1年にも満たない時期にマディソンでロッカと何度も対戦できたのは、ロッカがメインイベンターから一歩引いていた時期だったから、かもしれないと・・・それで先輩、その後ロッカはどうなるんですか?」

先輩「うん、結論から言うと、マディソンを去る」

探偵「あー・・・」

先輩「順を追って説明すると、まず・・・さっき1961年6月にロジャースが王者となった際、コーラー、マクマホン、モントがNWAの要求に従わず自身のエリアであるシカゴ、ニューヨークを中心とした興行を展開したことを話したが、半ば王者を独占されたマソニックはその後、NWAをセントルイスに奪還しようと乗り出したんだ」

探偵「でも・・・コーラーやマクマホンがマソニックに従うとは思えませんが・・・」

先輩「その通り。そこでマソニックは当時NWA王者になると発生するボンド金システムの発動に踏み出したんだ」

探偵「ボンド金!?」

先輩「そう。ルー・テーズ自伝によれば、当時NWAには王者になるとNWAに一定の金額を"預ける"システムがあったというんだ」

探偵「え!?王者がお金を預ける・・・!?」

先輩「これは王者でなくなると返金してもらえるが、王者中にNWAの規定や指示に従わなかった場合、それならば"預かっている"金額を没収します等、強権のように発動できたシステムだったようなんだ。これにより王者ロジャースを引きずり出す作戦に出たらしい」

探偵「そうか・・・こうして引きずり出したところで、マソニックは確実に勝利できるレスラー、ルー・テーズを挑戦者に抜擢。半ば引退状態だったテーズに直訴し挑戦者としてぶつけ、NWA奪回を目論んだわけですね。それにしてもすごいシステムですね。まるで人質ですよ」

先輩「ははは。人質とは物騒だが、ちょっと通ずるかもしれないな。で、こうして1963年1月24日。カナダのトロントでロジャースとテーズのNWA世界戦が実現。テーズが勝利し46歳にして6度目の王座返り咲きとなりNWA世界戦のプロモート権もセントルイスのマソニックに戻った、というわけだ」

探偵「しかしこれではコーラー、マクマホンは納得いかないですよね?」

先輩「まさしく。この行動に不満を持ったマクマホン・シニアは、この王座移動は無効だと主張。反発する形で同年3月に試験的にワールド・ワイド・レスリング・アソシエーション(World Wide Wrestling Association)WWWAを組織し、同年5月にはついにNWAを脱退してワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション(World Wide Wrestling Federation)WWWFを設立することになる」

探偵「WWWF(スリーダブリューエフ)!!WWEの原点が!?」

先輩「そう。そしてWWWF設立と同時にロジャースが初代WWWF王者に認定される・・・と、いうわけなんだが、この一連の流れが始まった1963年に入るとすぐ、ロッカはマディソンから離脱してしまうんだ。詳しい原因はわからないが、1962年頃から、どうもマクマホン・シニアと何かあったらしい。ケンカ別れしたなんて記述もあったからなぁ」

探偵「うーん、何かがなぁ・・・確執なのか、別のことなのか?最後はこう、なっちゃうもんなんですかねぇ・・・」

先輩「まぁなぁ・・・人間同士だからなぁ・・・どうしようもないところはあるよな・・・」

探偵「結局ロッカは離脱するわけですが、マディソン以降は他の地区でプロレスを!?」

先輩「その後、同年の9月末にロッカはニューヨークに戻ってくるんだ。しかしこれはマクマホン・シニアの管轄でのことではなく、個人的に新団体を設立、旗揚げするためだったようだ」

探偵「なるほど。他団体とはいえ、長年ファイトしていたニューヨークならロッカの知名度も手伝って新団体もうまくいくと考えたわけですね」

先輩「多分そういう見込みはあったんだろう。でも団体は翌1964年6月に崩壊してしまったらしい。その後のロッカはオーストラリアやプエルトリコなどでファイトしていた記録も見られたが、副業がうまくいっていたという話もあり、プロレスはリタイヤ状態という話も見られた。晩年にはWWWFでコメンテーターをしていたなんて情報もあったよ」

1975年10月14日。日本で猪木vsテーズを裁いたわずか5日後、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでアーニー・ラッドを相手に現役カムバックの試合を行ったロッカ。プロレスラー姿のカラー写真はかなり貴重だ

イワン・プトスキーにインタビューをする若き日のマクマホン・ジュニア(現ビンス・マクマホン)とコメンテーターのロッカ

探偵「これはすごい。猪木vsテーズ戦のあとカムバックしていたことや若き日のビンスと行動していたことにも驚きましたが、離れたはずのWWWFにロッカが戻ってきていたとは・・・」

先輩「のちにマソニックと和解しNWAに加盟したりして・・・マクマホン・シニアは、他団体とも友好的だった寛大なイメージがあるんだよ。だからロッカがコメンテーターとして登場していたのはマクマホン・シニアのはからい。器なのかもしれないな」

探偵「しかし、ニューヨークにWWWFが誕生しましたがプロレスラー、アントニオ・ロッカは去ってしまいます。このあとニューヨーク、マディソンはどうなっていくんですか?」

先輩「10年の空白からロッカの登場で甦ったマディソンは、また新しいスターと共に新時代へと進んでいくわけさ」

探偵「さらなる新時代かぁ~」

その4 ⑤へ続きます。

お知らせ

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どうも。流星仮面二世です。

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プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ⑤ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~

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その4 ④からの続きです。

探偵「さて、10年の空白からロッカの登場で甦ったマディソン。ロッカが去り、また新しいスターと共に新時代へと進んでいく・・・まさにさらなる新時代へと向かっていく状況ですが、ここは1960年代前半のアメリカとマディソンにもちょっと触れておきたいと思います」

先輩「そうだね、世もだいぶ変化があっただろうからね」

探偵「はい。まず・・・第二次世界大戦で本土に被害がなく、あまり影響を受けなかったアメリカは"復興"という面で早かったので世界経済の面で優位に立ち、1950年代から繁栄をしていきました。しかし、1960年代に入るとイギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパや日本が台頭してきたので、その状況が揺らぎ出すことになります」

先輩「そうかぁ。プロレスを追ってきたから見えなかったが、1950年半ばなら日本は高度経済成長の真っ只中にいたわけだからなぁ」

探偵「はい。そんな時期、アメリカ国内はデモや抗議運動が盛んに見られるようになります。社会的な不平等、不正に対する抗議運動、ベトナム戦争へ軍事介入したことによる反戦抗議。そしてキング牧師を指導者とする黒人差別廃止運動、公民権運動です」

1963年8月28日。この日、公民権運動のピークとなった"ワシントン大行進"が行われた。当日は30万人と言われる参加者がリンカーン記念堂前のワシントン記念塔広場に集結。その群衆を前にマーチン・ルーサー・キング牧師は「私には夢がある」という人生差別撤廃を求める歴史的演説を展開した

先輩「1963年8月28日は、リンカーン大統領の奴隷解放宣言から100年目でもあったんだな。公民権運動、黒人レスラーが多かったプロレス界も例外ではない出来事だ(歴史が奏でた哀しみの歌)」

探偵「はい。他には、1961年1月20日。アメリカ民主党のジョン・F・ケネディの第35代アメリカ合衆国大統領就任です。大統領挙では"ニューフロンティア精神"を掲げ、史上最年少の43歳での就任となりました」

大統領選での大統領就任では最年少となったジョン・フィッツジェラルド・ケネディ。副大統領からの繰り上げを含めるとセオドア・ルーズベルトの42歳に次ぎ史上2番目の若さの大統領となる

先輩「平和と戦争、貧困と豊かさ、無知に偏見・・・当時のこの時代背景に掲げた概念、ニューフロンティア精神かぁ」

探偵「はい。これをもって就任後は冷戦下だったソ連と展開していた宇宙開発競争において、就任4ヶ月後の1961年5月にして"1960年代中に人間を月に到達させる"という"アポロ計画"を発表するなど活気を見せていましたが1962年2月10日には、あわや米ソが全面核戦争寸前にまで至った"キューバ危機"に直面するなど深刻な事態にも見舞われました。しかし就任3年目、46歳になろうとしていたケネディに人生最大の事態が起きてしまいます」

先輩「暗殺事件か・・・」

探偵「そうです。1963年11月22日、テキサス州ダラス市内をパレード中に銃撃され死亡してしまうという"ケネディ暗殺事件"が起きてしまいます」

パーレドにて、暗殺される直前のケネディをとらえた写真。多くの群衆が見守る中、血しぶきを上げ倒れたシーンに全世界が震撼した。この事件のわずか1時間後、元・海軍で射撃経験があったリー・ハーヴェイ・オズワルドが犯人として逮捕されたが、逮捕2日後、ダラス警察署の地下駐車場でオズワルドの移送がテレビ中継されている中、ジャック・ルビーなる人物が現れオズワルドを射殺。事件は衝撃の展開となった。結局、事件はオズワルドの単独犯行とされたが、不鮮明な状況が多く今なお謎が残る事件である

先輩「1960年代、ケネディに・・・公民権運動のキング牧師も1968年に暗殺されてしまうんだったな。歴史的大事件がこれほどまでに起きた、まさに激動の年代だよ」

探偵「しかし明るい話題もあります。一番の話題は、ビートルズのアメリカ進出ですね」

先輩「ああ、山田隆夫とか江藤博利のやってたやつな」

探偵「え!?なんですかそれは?笑点の座布団配りと・・・江藤?誰ですか?」

先輩「知らない?三波伸介の凸凹大学校で変な絵描いてたさ・・・あ、ドレミファドンは?それならわかるだろ?」

探偵「いえ、何を言っているのかすらわからないんですが・・・それがビートルズと何の関係が?」

先輩「なんでもないです。進めてください」

探偵「は、はい・・・ビートルズに関しては、もはや説明もいらないと思うので省略することにして、このときのアメリカでのビートルズの出来事を・・・」

先輩「はい」

探偵「ビートルズがアメリカに進出したのは1964年2月7日。その第一歩を踏みしめた地こそジョン・F・ケネディ空港・・・つまりニューヨークでした」

ケネディ空港に降り立ったビートルズ。空港にはマスコミ、ファンを合わせ1万人もの人々が押し寄せた

先輩「ビートルズが最初に来たアメリカの地はニューヨークだったのか」

探偵「ええ。この来日と合わせたアメリカでのデビューシングル「抱きしめたい」が爆発的なヒットとなったこともあり、とにかく異様な人気だったそうで・・・来日2日後の9日に出演した人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」は視聴率72パーセントという脅威の数字を記録。ビートルズ演奏中はニューヨークの青少年犯罪が起きなかったという話もあるくらいです」

先輩「視聴率72パーセントというのがスゴすぎて見当もつかないんだが・・・とにかくみ~んな、ビートルズを見ていたってことだよな?すごいなぁ」

探偵「恐ろしさすら感じますね。で、このエド・サリバン・ショー出演2日後の11日にビートルズはワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演。そして翌12日はニューヨークのカーネギー・ホールで2回目の公演を行うんですね」

先輩「カーネギー・ホール!?2代目マディソン建設のとき名前が出てきた鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーが建てたやつか(プロレス研究所~MSGとプロレス その3 ① 2代目マディソンの時代 1890~1926年~)」

探偵「そうです。ホールは、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団が本拠地としている格式高いコンサートホールだったので、もちろんロックが行われるのは初。異例のことでした」

先輩「ビートルズは1966年には日本へも来日するわけだが・・・今でこそいろんなアーティストがコンサートを行っている日本武道館も、このビートルズが初。異例だったそうだからな」

探偵「当時は日本武道館の使用には右翼団体の反対に国会での議論と、かなり世を巻き込んだようでしたからね」

先輩「ああ~。それに・・・おれはファンというわけじゃなかったから、ビートルズを専門的に聴いたことは一度もないし、楽曲もほとんど知らないんだけど、でもなぜかビートルズの曲は事前に「これビートルズの曲ですよ」と言われなくても、耳にすると不思議とビートルズとわかるんだよ。それだけ浸透している、有名ってことなんだろうなぁ。レコード売り上げや人気だけじゃない。やはり歴史を塗り替えるだけの力、とんでもない影響力を持っていたグループだったんだろう」

探偵「そうですね。今なお熱烈な指示を受けている理由がわかりますね。では、ここからマディソンです」

先輩「ああ」

探偵「1924年にティックス・リカードがマディソンの権利を取得。オーナーとなり、着工からわずか1年後の1925年1月15日に会場と運営を管理する"マディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーション"を新しくスタートさせたお話は以前にしましたが、1960年からは、こちらにも変化が見られます」

先輩「そうか。ティックス・リカードから36年にもなるからな」

探偵「はい。まず・・・グラハム・ペイジという自動車メーカーのお話です」

先輩「ん!?自動車メーカー!?マディソンに関係するのか!?」

探偵「そうです。自動車製造業のグラハム・ペイジ・コーポレーションはジョセフ、ロバート、レイのグラハム三兄弟が1927年に創立されたアメリカでは有名な自動車メーカーでした」

1929年のグラハム・ペイジのモデル621セダン。そのデザインに古き良きアメリカの歴史を感じる

探偵「しかし経営不振が続いたこともあり、第二次世界大戦前の1937年には日本の日産自動車へ自動車製作図面に加工や工作の機械をほぼ工場まるごと売却したりと、かなり苦戦が続いていたようなんですね」



グラハム・ペイジのクルセイダー・セダンをベースとして誕生した日産・70型。これがダットサンでなく"日産ブランド""として初の自動車となった

先輩「うむ~。第二次大戦前に日本でこんな車が作られていたのにも驚いたが・・・しかしこのグラハム・ペイジがマディソンと、どう絡んでくるんだ?」

探偵「はい。先にお話したように、グラハム・ペイジは経営状態がよくなかったので、時代の流れと共に自動車製造から撤退するんです。で、1952年からは不動産業へとシフトし、1959年にマディソン・スクエア・ガーデンの40パーセントの株式を購入する、というわけなんですね」

先輩「ふぅ~ん、株式をねぇ・・・」

探偵「そして1960年4月7日にマディソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションと、大株主となっていたこのグラハム・ペイジは合併することになります」

先輩「なるほど・・・」

探偵「その後、1960年11月。合併したグラハム・ペイジ・コーポレーションの主宰者であり3代目マディソン・スクエア・ガーデンの立ち上げと運営でも名を連ねていたアーヴィング・ミッチェルフェルトがペンシルベニア駅を所有するペンシルバニア鉄道から、ペンシルベニア駅に"建設"する権利を購入することになります」

先輩「建設!?そうか!もうこの時点から4代目マディソンの建設を計画していたってことなんだな」

探偵「その通りです」

先輩「しかし妙だな?新しいマディソン建てるのに、なんでわざわざペンシルベニア駅の権利なんだ!?駅の近くっていうならわかるけど・・・」

探偵「それは、ペンシルベニア駅を取り壊し、その場所に4代目となる新しいマディソン・スクエアガーデンを建設するからです」

先輩「な!?ペンシルベニア駅はグランドセントラル駅と並んでニューヨークの中心の駅だぞ!?それをぶっ壊すってのか!?」

探偵「そうです。実は第二次世界大戦後、自動車の普及による交通網の発展と、飛行機ですね。航空が発展して路線が広がったことにより鉄道の利用者が急激に減少してしまったんです。さらにニューヨークを含めた東部地区の経済的低下により鉄道での貨物輸送にも影響が出始めていました。このためペンシルバニア鉄道も安定した収益を上げられず、かなり苦しい経営となってしまったんです。そのため鉄道以外の手段で収益を増やす必要があった、というわけなんです」

先輩「それで駅の権利を売却したのか・・・」

探偵「はい。この"建設"する権利を売却したペンシルバニア鉄道は、これにより地下に作られる冷暖房完備の新しいペンシルベニア駅と、その上に建設される4代目マディソン・スクエア・ガーデンの株式25パーセントを手に入れることになるんです」

先輩「それでニューヨーク、マンハッタンの一等地をねぇ・・・グラハム・ペイジもペンシルバニア鉄道も、皮肉にも不振からの方向転換で成功するってわけか。わからないもんだなぁ・・・って、何!?今なんて言った!?」

探偵「え!?」

先輩「地下に作られる新しいペンシルベニア駅だよ。どういう意味だそりゃ!?廃駅にして駅を更地にして、そこにマディソン建てんじゃないのか!?」

探偵「いえ、この計画では地下は地下鉄と郊外通勤電車を有するペンシルベニア駅。そしてその上に我々の知るマディソン・スクエア・ガーデンを建てる、ということなんですよ」

先輩「な、なんだってぇ!!つまり上はマディソン、下が駅ってことなのか!!そんな造りを1960年代にやろうっていうのかよ!?」

探偵「そうなんです。構想図があります」

4代目マディソン構想図

先輩「こ、これは驚いた・・・駅だけじゃない。おれらが認識しているアリーナの他、5000人収容できるサブアリーナみたいなのとかボウリング場とか展示場とかもあるじゃないか。日本で言うなら東京ドームシティの下に水道橋駅を作るってことだろこれ!?」

探偵「そうですね~。かなり壮大な計画ですよ」

先輩「でも、これは実現は一筋縄じゃいかなかったんじゃないのかぁ!?」

探偵「そうなんですよ。まず・・・ペンシルベニア駅は1910年にマッキム、ミード・アンド・ホワイトという20世紀の初めに有名だったアメリカの建築会社が建てたボサール様式、これはヨーロッパの古典様式のことだそうなんですが、大理石で作られた宮殿のような佇まいが見事で、歴史的にも価値のある建造物だったんです」

1910年頃のペンシルベニア駅。圧倒的美観のその造りは、まるで神殿のよう

駅構内もまた幻想的。中央の時計が銀河鉄道999を彷彿させる。ロマンに溢れた駅だ

探偵「このため1961年7月、ミッチェルフェルトがウェスト33ストリートと7番街にあるペンシルバニア駅を解体し、敷地内に新しいマディソン・スクエア・ガーデンを建設するという計画が発信されると、取り壊しには非難と抗議が集中。歴史的建造物保存の声が上がり強烈な反対運動のデモが起こったそうです」

取り壊しが決まってからは駅周辺で連日デモが繰り返された。「SAVE OUR HERITAGE 」は"私たちの遺産を救え"といったところだろうか

先輩「うん、わかる。この駅を見たら壊されたくない気持ちになるよ。だからまず、この歴史的建造物を取り壊すということをクリヤーしなきゃならないよ。大変だ」

探偵「はい」

先輩「次に、いざ取り壊すとなったときの駅の状態だよ。工事中は当然、駅としての機能を止めなきゃならなくなる。でも、いくら鉄道需要が減少してきた時期だったと言ってもニューヨークの中心の駅をそう簡単に止められないだろ!?」

探偵「そうです。1962年3月9日。マジソン・スクエア・ガーデン・コーポレーションは"マディソン・スクエア・ガーデン・カンパニー"に名称変更されると反対派の声もまだ残る中、1963年10月28日、ついに解体作業が開始されます。しかし先輩が察しているように、鉄道の方は簡単には止められませんから解体しながらも駅はしばらく動いていたそうなんです」

解体されるペンシルベニア駅。奥には、あの時計が見える

上の画像と同じ日に同じ構図を中から撮影したもの。外は解体中だが中には通常通り、たくさんの利用者が溢れている

先輩「外じゃ解体してるのに中じゃ時間待ちって、こりゃ末恐ろしい風景だな・・・」

探偵「今だったらコンプライアンス違反で工事ストップになりかねませんよね。しかし解体は進み、ついにペンシルベニア駅は跡形もなく消え・・・いよいよ4代目マディソンが建設され始めます」

建築中のマディソン。世界にも類を見ない壮大なスケールには完成前から驚かされる(1966年10月25日の様子)

先輩「うーん、マクマホン・シニアを軸にWWWFが発足し、ロッカ、ロジャースに揺れ動く、まさに波乱にまみれていた頃・・・3代目マディソンの裏では、すごいことが起きていたんだなぁ」

探偵「そうですね」

先輩「だかな、そんな波乱な1960年代の中、強大な"運命"を持ったレスラーはひっそりと産声をあげていたんだ。そして3代目マディソンと4代目マディソンを跨ぎ、新しい時代をもたらすことになるんだよ」

探偵「新しい時代をもたらすレスラーかぁ・・・」

続きます。

ある夏の日の思い出

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どうも!!流星仮面二世です!!

気がつけば6月も終盤に差し掛かり、また暑い暑い日々を過ごさなければならない季節も間近となってきました。

そんなこの時期。会社で仕事をしていての、ちょっと一息というとき・・・梅雨空の合間、青い空に映える真っ白な雲を眺めると、ふと、かつての暑い日々の仕事での思い出が頭を過ります。そう、あの日は、暑かったっけなぁ・・・

今から約10年前。ボクは不景気の煽りで長年いた会社を退職し、紆余曲折を経て現在の会社にたどり着いたわけなんですが・・・その間となった約10ヶ月間は"トラックでの配送"を仕事としていました。

その仕事は住宅建材を新築の建設現場にトラックで配送し搬入する、という言葉にすると単純明快なものでしたが、これがとにかく大変でした。

配送ではシステムバス(一般家庭などの戸建住宅のお風呂)、ユニットバス(アパートなどの集合住宅のお風呂)、システムキッチン、そして各種建材を扱っていましたが、荷は基本、手積み手降ろし。積込みはバスとキッチンが前日の夕方からで、建材が当日の朝の3時、4時からというものでした。配送エリアは関東一円。朝早く始まり、そして遅くに終わりまた明日という無限ループがキッチリ1週間。日曜日は休みですが、結局のところ月曜日の朝が早いため休みとは言いがたい、それは気の休まるときはない地獄のローテーションでした。

それは、そんな仕事をして半年が過ぎた7月のことでした。この2010年の夏は当時の観測史上で最高となる猛暑の年にして30年に一度の異常気象といわれたときだったので、とにかく暑い日が続いた時期でした。そんなある日の仕事は、ユニットバスを某県の新築中アパートへ配送、搬入する仕事でした。

普段は単独での配送でしたのでバスの搬入は1日でやっても二戸でしたが、このアパートは大手建築業社が手掛ける3階建ての大型なものだったので、ユニットバスの数も相当なものでした。なのでこの日は自分の会社と他社の運送屋さん2社と分割しての配送になりました。

当日、朝早くに出発。現地に向かい、まずは広くて家が少ない場所を見つけてトラックを止め、搬入場所を探します。

というのも・・・ここでちょっと話は脱線しますが、実は新興住宅などで作られる新築、いわゆる"新しい家"は、新しいあまり地図やナビに住所が載っていないんです。つまり、場所がわからないんですよ。でも、だからって会社に問い合わせても「探して行け」で、指定時間必着だ!!絶対に遅れるなよ~!!なんですよ。おかしいでしょ~?配送が仕事なのに配送先がわからない。のに、行け~。ホント真っ黒なんです。

で、どうしましょう?となります。こういうときは昔からある近くの住所を検索し、まずそこに行くんですね。で、現地を歩きながら目で新築中の家を探すんです。新築中の家を探し家の前に来ると、家の前には建築基準法ナントカとか建築許可ナントカとかが表記されている看板が必ずあり、そこに"◯◯◯◯様邸"と書いてあるので、そこで初めて「ここか~」と、まあなるわけなんです。搬入は施工の開始に合わせるので、だいたい朝の8時から8時半に行われます。なので、もちろんそれ以前の時間に探し始めます。通勤、通学の時間帯は身動きが取れませんので、こうして朝の5時半か6時には見つけておく感じなんですね。

しかしこの新しい住所というのは本当にクセモノで・・・だいたい家というのは番地で並んでたり、1ヶ所にまとまってたりで建っているものんですが、新しい住所になるとまっっったく、見当ちがいな別の場所にあったりもするんです。これに当たっちゃうと、まぁ~見つからないので大変です。

最後にトラックの待機場所です。トラックは2~3.5トン車なので、そこまで大きくはありません。しかし自動車に比べればはるかに大きいので、現地で搬入するまでの間、停めておく場所が行く先々にいつもあるとは限らないんです。田舎はこのあたりの心配はないんですが、東京区内は、まずないですね~。主道路以外は、とにかく狭いんです。ちょっとだけ広い裏の道路や小さな公園周りなどがあれば横付けもできいいんですが、だからと言って堂々はいられません。場合によっては、誰が停めていいと言った!!どこの運送屋だ!!道を塞ぐな!!どけ!!なんて声がすぐに飛んできます。さらに停めれていたとしても、子供が寝てるんで静かにしてください!!家が揺れるんですよ!!という感じになるので、暑くても寒くてもエンジン音が響くのでエンジンはかけられないんです。まぁ~、けちょんけちょんなんですよ。

朝の通勤時、普段は見かけないトラックが荷を積んだ状態で道端に停車しているときがあります。なんでこんな車の通りが多いとこに停まってんだ!?こんな歩行者が多いとこに停めてジャマだなぁ~。迷惑だと思わないのかなぁ!?本当に、まったくもってその通りです。ボクも、朝からこんなとこ停めやがって~ジャマだよ~と思います。でも、あの人たちが停車している裏には、こういうドラマがあるんです。あの人たちがいなければ新築やリフォームは成り立たないんですよ。え~、ということで今後そういうシーンを見かけましたらですね、少しでもですね、あ、このトラックはそういう理由で停まっているんだなと、お気持ちわかっていただければなぁ~と、思う次第です。ということで長くなりましたが、今日は最後までありがとうございました。

いや!!まだです!!

話を戻しまして・・・というわけで、この日は少し離れてはいますがトラックを停める場所に恵まれたので、そこで搬入指示があるまで待機します。やがて他社の運送屋さんも来たので場所や搬入口、搬入順を話し合いました。そして、その後しばしの雑談タイムとなりました。

この日はトラック4台口。1階7棟、3階で21棟。これを手作業ですべて搬入するのは、かなりの仕事量、重労働です。大変だなぁ~と話していると、ある運転手が苦笑いしながら言いました。

「しかも今日は◯◯住設だってよ・・・」

その言葉で周囲は重い空気に包まれました。

今日の現場の搬入の指示をする施工業者、いわゆる施工屋の◯◯住設は、この某県での配送では有名な4人組。スーパー高圧的態度の上から目線で迫っては問答無用。それこそ「おはようございます」という挨拶にすら血相変えて怒り怒鳴りだすくらいなので、通常の会話すら成り立たない人たちです。あまりに無茶させるので運送会社から仕事を断られた過去もしばしば。それは有刺鉄線でも究極とされるカミソリワイヤーを人間の形にしたような一味でした。


これが人の形をしているんだから始末が悪い

「今日はただでさえ暑いのに、キツい仕事な上に最悪な施工屋相手とはなぁ~」

こうして憂鬱な待ち時間を過ごしていると、やがて若いふたりの男が現れました。カミソリワイヤーでしょうか・・・いや、あの施工屋ではありません。それは若いふたりの男でした。

「降ろし屋で来ました。よろしくお願いします」

降ろし屋とは、こうした物量が多い現場のとき臨時に雇われる、荷降ろしと搬入だけを行う日雇いのアルバイトのことです。手配先のちがいからか?単に知らせてもらえないだけなのか・・・運転手に降ろし屋が来る等の事前連絡はまず来ないので、現地で初めて知るのがほとんどです。そうか、降ろし屋が来たんじゃ、助かるなぁ~。と、みんなの顔にほんの少しだけ安堵感が漂います。が、気になったのは、その降ろし屋のふたりのうちのひとりの体つきでした。

身長は170センチくらいですが、シャツから半分だけ覗く丸々とした上腕二頭筋に、発達した首周りの筋肉、胸鎖乳突筋、僧帽筋。そして潰れた耳。その表情は、にこやかで爽やかですが、ただならぬオーラが漂っていました。

「いい体してるねぇ。なんかやってたの?」

というある運転手の問いかけに

「ちょっと、格闘技を・・・」

と照れ笑う男。そしてボクと目が合い、男の目線はボクの潰れている耳に向けられました。いや、これはちがうんです。CGです。許してください、すいません・・・と心で呟くと

「入れるぞー!!トラックをつけろー!!」

と遠くからカミソリワイヤーの声が響きました。

こうして通勤、通学もひと段落した道路の前の建設中アパートにトラックが並ぶと搬入が始まりました。

おまえはこっちだ!!◯◯を先に降ろせ!!通路を塞ぐな!!なにやってんだー!!こんな声が飛び交う中、みんな一心不乱に搬入していきます。

しかし、この仕事は単に設置場所にドサドサ置いていけばいいという、いわゆる力だけあればできるというものではありません。搬入するものは組み立て前のユニットバス、お風呂なんです。だからキズをつけてはダメなんです。特に浴槽と壁は絶対です。

だいたいのものはひとりで運べますが、浴槽のみふたり作業です。浴槽は慎重に声を掛け合い、持ち上げて階段を登ります。ひとりは後ろ向きなので躓いたら一巻の終わり。ゆっくりと進みます。踊り場でのターンは久々の平らな面。一旦降ろし一息入れたいところですが、そんなスペースはありませんし、あとから次の荷が来るので進まなければなりません。一度始まったら搬入する部屋までノンストップで向かうしかないのです。

階段を上がり室内に入ると、建設中とはいえ、もう柱や仕切りで形はできているのでここからも一筋縄ではいきません。間取りに応じ、浴槽を縦にしたり横にしたり斜めにしたりして家の形に沿いながら浴室の位置へと進まなければならないのです。浴室は浴槽の向きも決まっているので、最後の最後にまちがうとやり直さなければならず、これも気にしなければなりません。力を維持しながら慎重に行います。でも、急がないとカミソリワイヤーの怒鳴り声が飛んできます。なかなかの地獄です。

しかし、そんな中で、まるでシャア専用ザクのように通常の人間の3割増しで動き回る男が・・・そう、それは格闘技の男でした。

「なんか、すげぇぞあいつ・・・」

静かにしてパワフル、そして丁寧でスピーディー。それは思わず我々の手も止まってしまうほどでした。この機動力・・・一体何者なんだ!?

こうしてやっとこ半分が終わると一旦休憩となりました。みんな尋常でない大汗をかき、息を切らし座り込んで飲み物を飲みます。中には完全な熱中症になり、動けなくなっている運転手もいました。

しかし

「みんな汗すごいですね。ゲリラ豪雨を受けたみたいですね~」

と、清々しく飲み物を飲みながら登場したのは、あの格闘技の男でした。な、なんという・・・この暑さの中、あれだけの力仕事をしておいて、いい運動した的な空気を醸し出すとは・・・これにはさすがのカミソリワイヤーも

「おまえは何かやってたのか?」

と、問います。

「ちょっと、格闘技を・・・」

と、相変わらず照れ笑い。きっと、行く先々でいつも聞かれるからなんだろうが、それにしても・・・スタミナもとんでもないこの男は一体!?

短い休憩が終わると後半戦が始まりました。気温はぐんぐん上がってきており、早く終わらせないと本当にヤバい状況になってきました。そんな中、あの格闘技の男が視界に入ってきました。みんなようやくやっているのに、最初のときからまったくペースが落ちていません。テキパキと搬入をこなしていきます。

やがて搬入も、ようやく底が見えてきました。残るは壁です。

壁は寸法が縦は2メートルくらい、横は80センチくらいでしょうか・・・重さこそ1枚10数キロなのですが、裏が石膏ボード、表が金属製パネルとなっている作りで、完成した際に人目に触れるこの金属製パネル面の品質がとにかく厳しい品物です。表面への干渉は絶対にNG。角の曲りや小さな擦り傷さえも許されないため最も気を使うところです。このため基本的には施工屋のみが運ぶことになっているくらいシビアで、本来は運転手は触るのもダメなんです。でも、おかまいなしにやらされてましたけど・・・

そんな壁をトラックの荷台上から出そうとしたそのときでした。やってきたのはあの格闘技の男でした。

「それ、やります。渡してください」

というので荷台上から1枚を引き出し、渡そうとしたそのときでした。

「いえ、4枚、大丈夫です!!」

4枚!?バカな!?壁は基本1枚づつで、一戸建てのときで一度にやっても2枚だ。それを今日のような階上げがあるときに一度に4枚とは無理というか、危ない。キズ発生のリスクだってあるし・・・

「下からだとさすがに持ち上げられませんが(トラックの)上から渡してもらえれば大丈夫です」

ニヤリとしながら見上げる格闘技の男の押しに負け、ボクもパワー全開で4枚を持ち上げ言われるように渡しました。格闘技の男は腕をいっぱいに広げ抱くように受けとると、そのまま歩きだし階段を上がって行きました。そしてそれを何往復もこなしました。こう言ってはなんですが、ボクも柔道、レスリングでは重い級だったので普通の人に比べれば多少力はある方ですし、ボクなんかよりもはるかにすごい、いろんなヤツも見てきました。しかしこれほどのパワーとバランス、スタミナを持った人間は、見たことがありません。

仕事を終え、帰るまでのつかの間。格闘技の男とふたりきりになりました。聞いておきたい。そう思い話しかけました。

「格闘技は一体、何を・・・!?」

きっと、ボクがそっち方面を好きなのを感じたんでしょう。格闘技の男は遠回りな説明は一切せずに言いました。

「おれ、実はパンクラスでやっているんですよ」

「パンクラス!!そうでしたか・・・どうりですごいと思いましたよ」

お互い次の仕事があるので1、2分だけ話をし、そしてお疲れ様でしたと帰っていきました。

帰り道、ハンドルを握りながら思い返します。パンクラスのすごさをこんな形で知ることになるとは夢にも思わなかったなぁ。やっぱりあそこはすごい。トータルで鍛え上げられているんだな。すげぇなぁ~。

しかしその半面、思いました。プロの格闘技で、ファイトマネーだけで食っていくのは至難だとは聞いていましたが、これが現実なんだなぁと・・・そう思いました。

あれから10年。あの男は、今はどうしているのかな?格闘技で食えるようになったかな?それともまだ、働きながら強さを夢を・・・追いかけているんだろうか?

10年かぁ・・・年が経つのは本当に早いなぁ・・・

Photo Exhibition 12 ~プロレス~

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プロレスが好きで本当によかった。ありがとう、プロレス!!

presented by masked-superstar2

プロレス研究所~MSGとプロレス その4 ⑥ 3代目マディソンの時代 1925~1968年~

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その4 ⑤からの続きです。

探偵「先輩、新しい時代をもたらすレスラーとは!?」

先輩「ブルーノ・サンマルチノだ」

ブルーノ・サンマルチノ

探偵「人間発電所ですか!!」

先輩「おっ、よく知ってるじゃないか。そう人間発電所だ。ということで、ここではブルーノ・サンマルチノについて見ていこう。まずは生い立ちからWWWF王者になるまでを振り返ってみる」

探偵「はい」

先輩「ブルーノ・サンマルチノ、本名ブルーノ・レオバルド・フランセソ・サンマルチノは1935年10月6日、イタリアの・・・昔の書物にはイタリアのフオレットー、またはフォレットー。それとカブール地方ピアザ・ヴェルダッドというのが出身地として出てくるんだが、調べたところイタリアにこのような地名の場所は存在しないんだ」

探偵「ええ!?まさかサンマルチノもロッカと同じく宇宙人だったって言うんですか!?」

先輩「いや、これは多分ね・・・ひとつ出てきた出身地にイタリアのアブルッツォ州キエーティ、ピッツォフェッラートというのがあったんだが、これが唯一実在する地名だったから、おそらくフオレットー、フォレットーはフェッラート、ピアザ・ヴェルダットはピッツォフェッラートを聞きまちがいしたか記載ミスしたか、だったんじゃないかなと思う。なのでアブルッツォ州キエーティ、ピッツォフェッラートでまちがいないと思うよ

探偵「なるほど。イタリアまではわかりますが、詳細な地名となると日本では馴染みないですからね。当時は誤認もあったんでしょうね。それにしても、宇宙人でないにしろサンマルチノもロッカと同じくイタリア出身とは驚きです」

先輩「ああ。実はそのあともちょっと似ていてな。ロッカもイタリアからアルゼンチンに移住した一家だったが、サンマルチノ家も1950年2月に家族でイタリアからアメリカのペンシルベニア州ピッツバーグに移住した一家だったんだよ」

探偵「へぇ・・・」

先輩「"G SPIRITS Vol.49 追悼ブルーノ・サンマルチノ 未発表ロングインタビュー 第1回 初めて「ボーナス」をもらうまでの25年間"によれば、サンマルチノの父親であるアルフォンソは鉄工、鍛冶の職人で第二次世界大戦前の1936年頃からピッツバーグへ出稼ぎに来ていたらしいんだ。つまりアメリカとイタリアを行き来していたんだね。しかし、やがて大戦へ突入すると帰還できなくなった父親と合流する形で移住となったようなんだが、この当時の情勢により、父親はサンマルチノが生まれて間もない頃にはアメリカにいて、やがて帰れなくなってしまったから・・・合流した1950年、つまり14歳になるまでサンマルチノは父親の顔を知らなかったそうなんだ」

探偵「大変な時代だったんですね」

先輩「本当にそのとおりでね。イタリアに残されていた母親と兄、姉、サンマルチノの一家は戦時中ということもあり裕福ではなかったようで・・・サンマルチノは少年期は小柄だったらしく、ある海外のサイトによれば、移住した14歳の時点で体重がわずか80ポンド、つまり36、7キロくらいしかなかったなんて記述もあったんだ」

探偵「あのサンマルチノが、そんなに痩せていたんですか!?」

先輩「おそらく身長もまだなかった頃なんだろう。で、それが移住した3年後には200ポンドで約90キロ、10年間で275ポンド、約125キロにまで達したというんだ

探偵「確かに中学のとき小柄だったやつが、高校生になってすごい久々に会ったら背が伸びて大人びちゃってて、別人みたいになってて驚いた・・・なんてことはよくありますもんね。それにしても3年間で約50キロも増したサンマルチノの変貌ぶりはすごいですね」

先輩「ああ、まさしく。高校に入ったサンマルチノは運送屋で荷揚げ、荷降ろしのアルバイトをするんだが、このバイト先で面倒を見てくれていた人がトレーニング施設があったYMCA(Young Men's Christian Association キリスト教青年会)を紹介してくれて、そこでウェイト・トレーニングと出会うことになるんだ。さらに幸運にもそこにはレスリング場もあり、ピッツバーグ大学のレスリング選手が練習に来ていたのでサンマルチノも一緒にレスリングを練習したというから・・・ここで体も心も大きくなっていったってわけだね

探偵「運命なんでしょうねぇ・・・もうプロレスラーへと導かれていってる感じがします」

先輩「そうだよなぁ。ピッツバーグにこなければウェイト・トレーニングにもレスリングにも出会わなかっただろうからね。で、その後、高校を卒業すると父親の紹介で建築会社に就職。同時に18歳からは州兵に志願することになる」

探偵「州兵?」

先輩「ああ、州兵とは文字通り州政府の管轄で州の治安維持や災害時の活動を行うアメリカの軍事組織のことなんだ。サンマルチノは建設会社の仕事をしながら、この州兵として生活をしていたらしい」

探偵「でも軍にいて普通の仕事って持てるんですか?」

先輩「うん、ニュースなどで目にするアメリカ軍は連邦政府下の軍だから、それがイコール職業となる。でも州兵というのは州知事の指揮下になるので"パートタイム"になるそうなんだ。だから仕事をしながら定期的に義務付けられている訓練に参加していく形になるそうだよ」

探偵「へぇ~なるほど」

先輩「で、サンマルチノは、この州兵での活動は1955年までのようで以降は建設会社の仕事だけに絞ってたようだ。しかしトレーニングは怠らなかったようで、1959年、24歳のときにアメリカで行われたパワーリフティングの大会に出場するとベンチプレスで565ポンド、約256キロを挙げ当時の世界記録を更新。大会を優勝する」

探偵「に、256キロ!?全盛期のアンドレ・ザ・ジャイアントくらいあるじゃないですか!!」

先輩「そう考えると戦慄だな。で・・・この優勝が前回話したWWWFの前身のキャピトル・レスリング・コーポレーションのペンシルベニア州ピッツバーグの担当だったプロモーター、ルディ・ミラーの目に留まり・・・」

探偵「そしてプロレスデビューへ、となるわけですね」

先輩「そう。サンマルチノのプロレスへの道筋は、この流れでほぼまちがいない。でも、このサンマルチノのプロレスへの流れには、もうひとつ・・・こんな話もあるんだ」

探偵「え!?それは!?」

先輩「サンマルチノが通っていたトレーニング・ジムというのがあったそうなんだが、ここが有名スポーツ選手が来るところだったそうで・・・そのうちのひとりにソニー・リストンがいたらしいんだ」

探偵「ソニー・リストン?」

先輩「そう。モハメド・アリ以前のボクシングの世界ヘビー級王者だよ。資料がある

ソニー・リストン

探偵「えーっと・・・親が出生届を出さなかったため正式な生年月日は不明。極貧で教育が受けられず、父親にはひどい虐待を受けて育った。幼い頃から犯罪に手を染め19回も逮捕されたが、しかし刑務所でボクシングと出会い1953年にプロデビューする。身長185センチだったがリーチは213センチあり、そのパンチは強烈で54戦50勝4敗のうち39KOを納めている、と・・・すごい経歴ですね」

先輩「リストンはその人生経験から肝が据っていたし、裏社会とも繋がりがあったことから凄みもあったんだ。リストンというとモハメド・アリが世界王座初奪取したときの対戦相手というのが真っ先に来てしまうが、全盛期はテクニックを効かせた接近戦からのパンチが素晴らしいボクサーだったんだよ」

探偵「なるほど。で、このリストンがサンマルチノに目をかけ、プロレスを紹介したと!?」

先輩「いや、リストンはこのジムでサンマルチノにボクシングのトレーニングを指導するようになったというんだ」

探偵「サンマルチノがボクシングを!?しかしそれではプロレスへは・・・」

先輩「そう。だがこの頃、このジムには他にも有名スポーツ選手が来ていたんだよ」

探偵「それは・・・?」

先輩「アントニオ・ロッカさ」

探偵「ろ、ロッカが!?じゃサンマルチノをプロレスに導いたのはロッカだったっていうんですか!?」

先輩「この話はロッカのときにも紹介した81年5月に出たゴング増刊号"THE WRESTLER BEST100"のサンマルチノのページで原康史、つまり桜井康雄さんが書いているんだ。詳細を見てみよう」

81年5月ゴング増刊号THE WRESTLER BEST100より一部抜粋(原文まま)

スチルマン・ジムの帝王は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのソニー・リストンでリストンは「おい、そこのイタリアーノ・・・ここへきて打ってみろ」とサンドバッグをサンマルチノに打たせ「なかなかいいパンチを持っている。本気でやってみるがいい」とサンマルチノに小使いを与えてトレーニングさせたという。

このジムにはプロレスラーもよく出入りしており(いってみればプロ格闘家のたまり場であった)当時ニューヨーク・プロレスの帝王といわれたアントニオ・ロッカが、ここでボクシングの練習をしているサンマルチノに目をつけ「おい、ボクシングなんかやめちまえ。おまえはプロレスラーになったら稼げるぜ」とサンマルチノをプロレス界へ引っ張った。ソニー・リストンが怒ってアントニオ・ロッカに文句をいったが、サンマルチノはイタリア人の先輩であるロッカにひかれ、ロックの紹介でプロモーターのルディ・ミラーを訪ねることになる。

探偵「うむぅ・・・もしこの説が正しいとしたなら、1950年代の帝王が1960年代から帝王になるサンマルチノに声をかけていたことになります。こんな運命はちょっとないですよ。すごい」

先輩「もはや事実関係は確認できない話だけどね。でも、夢のある話はいいもんだよな」

若き日のサンマルチノとロッカの貴重なショット。新旧ふたりの帝王が並ぶシーンは、見ていると本当に不思議な気持ちになる

先輩「かくして・・・1959年10月20日。ピッツバーグ郊外のペンシルバニア州アリクイッパでサンマルチノはタイガー・ジャック・バンスキーなるレスラーと対戦、プロレスラーとしてデビューする。ただし10月23日、ニューヨーク州ホワイトプレーンズでミゲル・トーレスというレスラーとデビュー戦を行った記録もあり、このあたりは定かではない。が、まあデビューはこのあたりでまちがいないだろう」

探偵「はい」

先輩「その後、翌1960年1月2日には早くもマディソンに初出場しブル・カリーと対戦。カナディアン・バックブリーカーでこれを勝利。マディソンの第一歩を踏み出したわけだ」

探偵「デビューして約2ヶ月でマディソンのリングに上がっていたわけだすね」

先輩「ああ。そして初登場から4ヶ月経った1960年5月21日。サンマルチノは体重が270キロ以上あった人間空母ヘイスタック・カルホーンと対戦するんだが、ここでプロレス史上において現在にまで語り継がれるマディソンの伝説を生むことになる」

探偵「ここ、これは!!」

!!

先輩「そう。この日、それまでどんな対戦相手が何をしようがビクともしなかった体重270キロ以上ある人間空母カルホーンを、サンマルチノが持ち上げてしまったんだ」

探偵「な、なんというパワー・・・なぜ人間発電所と呼ばれるようになったのかわかりましたよ」

先輩「そう。この時点ではグリーン・ボーイだったサンマルチノだったが、これによりパワーハウス、パワーステーションと呼ばれるようになり、注目を集めることになるんだ」

探偵「まだラフのロジャース、空中戦のロッカがいたマディソンにパワーファイターという新しい風が吹き出した瞬間ですね」

先輩「そうだったんだが・・・」

探偵「ええっー!!」

先輩「ま、まだ何も言ってないぞ・・・」

探偵「すいません、いつもの流れから察しがついてしまいまして、つい・・・」

先輩「な、なんだぁもう・・・で、こうしてマディソンでファイトするようになり名前も知られていったサンマルチノだったが、あるときマクマホン・シニアとの間に重大な問題が生じてしまい、ニューヨークでは出場停止。圧力もかけられ、他のエリアのリングにも上がれなくなってしまうんだ。こうしてサンマルチノは一旦はプロレスから完全に離れてしまうことになる」

探偵「やっぱりなぁ・・・またプロモーターとレスラーの確執ですか。しかし、まったくリングに上がれなくなるとは、よほどのことがあったんですね」

先輩「うん。ここは"G SPIRITS Vol.49 追悼ブルーノ・サンマルチノ 未発表ロングインタビュー 第2回 ビンス・マクマホン・シニアの非情な仕打ち"を参考にまとめるね。いろいろ調べたんだが、やっぱり本人のインタビューが一番鮮明だったので・・・」

探偵「はい」

先輩「デビュー後のサンマルチノはマクマホン・シニアの団体であるWWWFでファイトはしていたが、プロモートやマネージメントをしていたのはマクマホン・シニアではなく、ロッカのプロモート、マネージメントもしていた"コーラ・クワリヤニ"なる人物だったらしいんだ」

探偵「つまり・・・サンマルチノはマクマホン・シニアの下でファイトはしていたがマネージメントは"コーラ・クワリヤニ"がしていたのでマクマホン・シニアと個人契約している直属の専属選手ではなかった。立場的には"フリー"だった、ということですね

先輩「そう。しかしこの"コーラ・クワリヤニ"とマクマホン・シニアの間で何かがあり"コーラ・クワリヤニ"はニューヨークから撤退してしまうんだ。すると、それまでは試合順もメイン近くの後半出場でギャランティーもよかったサンマルチノが、やがてメインから外れ、だんだんと第2、第3試合なんてのが多くなり、ギャラも15~25ドルと安くなっていってしまったらしいんだ」

探偵「そんな金額で・・・」

先輩「それで、サンマルチノは、プロレス入りのキッカケにもなったルディ・ミラーに他のエリアのプロモーターを紹介してくれと頼んだんだ」

探偵「それはわかります。カルホーンを持ち上げて人気となり、以降は集客にも貢献していたサンマルチノに、こんな仕打ちはないですよ。もっとギャランティーがいいところに、そりゃ行きたくなりますよ」

先輩「ということで、ルディ・ミラーからデトロイトのプロモーター"ジョニー・ドイル"に話が通された。そこで"ジョニー・ドイル"がサンマルチノに言ったのがサンフランシスコ遠征だった。サンマルチノはマクマホン・シニアにもその旨を伝え、ニューヨークで組まれた試合を消化したのち遠征に出たわけだ

探偵「うむ~。個人でプロモーターに掛け合い、今いるテリトリーからちがうテリトリーに行く・・・これは昔のアメリカのプロレスにはよくあった話ですよね?しかも個人契約もしてなかったし、黙って出ていったわけではなかったわけですから、何も問題なさそうですけど・・・」

先輩「だがしかし、この一連の行動がマクマホン・シニアの逆鱗に触れてしまったようなんだ。マクマホン・シニアからしたらグリーン・ボーイの自分が、ニューヨークで試合が出来てギャラも出て、何が不満なんだ!?と言ったとこだったのかな・・・」

探偵「すれちがいというかコミュニケーション不足というか、そんな感じだったんですかねぇ・・・」

先輩「確かに、それはあったかもしれないな。かくしてサンフランシスコに遠征。無事に第1戦を終えたサンマルチノだったが、その第1戦を終えたとたん。現地のプロモーターから、その場で出場停止処分を言い渡されてしまうんだ」

探偵「プロモーター間の圧力が掛けられたと」

先輩「そう。サンマルチノがサンフランシスコにいることを知りながら、マクマホン・シニアは同日にメリーランド州ボルチモアでサンマルチノの試合を組むというダブルブッキングを仕掛け、試合に出場できない状態を作り上げ"試合を無断欠場した"としてサンマルチノを干しにかかった、というわけさ」

探偵「マクマホン・シニア、相当頭にキテたんですね・・・」

先輩「ああ。その後、サンマルチノは出場停止がかかっていなかったインディアナ州インディアナポリスでファイトしたが、ここでのギャラもニューヨークと同じく2桁のドルしかもらえなかったから、とても生活していけないと腹を決め、プロレスを諦め6月にピッツバーグの家に帰るんだ。手持ちがなかったサンマルチノの帰宅方法、その手段は、なんとヒッチハイクだったそうだよ」

探偵「インディアナポリスからピッツバーグまで360マイル、約580キロをヒッチハイクとは・・・日本で言ったら東京から岩手県の盛岡までくらいの距離ですよ。当時の状況が目に浮かびますね・・・で、その後、サンマルチノはどうなったんですか?」

先輩「プロレスは引退。実家へ戻り、再び建築関係の仕事に就いたようだ。しかし働きだして20日もしないうち、サンマルチノのところに電話してきた人物がいたという」

探偵「それは?」

先輩「トゥーツ・モントだよ」

探偵「た、狸親父が!?」

トゥーツ・モント

先輩「サンマルチノの家のあったピッツバーグ地区のプロモート権を持っていたモントは、ピッツバーグは出場停止が掛かってないからパートタイムででもやらないか?と誘い、しばらくファイトさせたのち「キミが戻りたいならマクマホン・シニアに頼み出場停止処分を解除するよう頼むよ」と言ってきたそうなんだ」

探偵「胡散臭・・・だってマクマホン・シニアとトゥーツ・モントはキャピタル立ち上げからの馴染みでツウツウじゃないですか。サンマルチノを戻すための策略ってことが見え見えですよ」

先輩「だなぁ。で、こうして1961年8月25日にサンマルチノはマディソンに復帰。同年11月にはマディソンで海外武者修行だった馬場さんとの初対決も実現。一見すると順調に見えたが、しかしファイトマネーは変わらず・・・状況は変わらなかった」

探偵「うーん・・・」

先輩「状況に耐えられなくなったサンマルチノは62年1月に、ついに辞意をマクマホンに伝える。そして辞意と一緒に、出場する試合はいつまでで、以降はキャピタルの所属ではありません、という文面を渡すんだ」

探偵「前回のようなことがないように念を押したわけですね」

先輩「ああ。こうして・・・翌月の2月26日。ビットリオ・アポロと組んでアル・コステロ、ロイ・ヘファーナンの初代カンガルーズとの対戦を最後にニューヨークを離れることになる」

探偵「今回は遠征でなく離脱ですから、だいぶ意味がちがいますよね。それでニューヨークを離れ、どこへ?」

先輩「サンマルチノはニューヨークでのことを知人であり理解者であったユーコン・エリックに相談していたんだ。事情を知ったエリックはカナダのプロモーターだった"フランク・タニー"へ口を利き・・・これによりサンマルチノはカナダのトロントでファイトできることになったんだ」

探偵「ユーコン・エリック、まさに恩人ですね。そういえば、このレスラーは・・・」

先輩「そう。キラー・コワルスキーのフライング・ニードロップで耳を削がれてしまったことで、現在にまで知られることになってしまったレスラーだ。しかし本来はカナディアン・バックブリーカーの考案者であり、ベア・ハッグなど怪力殺法で人気のあったランバージャックスタイルのレスラーだったんだよ」

ユーコン・エリック

先輩「サンマルチノの一件でもわかるようにエリックはマジメで義理堅く、温厚で人望が厚い人物だったそうだ。だが、ゆえに家庭で離婚問題となったときに悩みをひとりで背負ってしまい、1965年1月に自殺してしまったそうだがな・・・」

探偵「そうなんですか・・・サンマルチノを導いた人物だけに残念ですが、でもサンマルチノがカナディアン・バックブリーカーやベア・ハッグなどの技を使っていたのは、どこかユーコン・エリックへのリスペクトが感じられていいですね」

先輩「そうだね。まあ、こうしてサンマルチノはカナダのトロントでファイトするようになったわけだが・・・やっぱり、サンマルチノは"持っている男"だったんだろう。ここでのファイトが思わぬ事態を巻き起こすことになる」

探偵「思わぬ?それは?」

先輩「当時カナダのトロントには、その数40~50万人とも言われるイタリアからの移民がいたんだが、このイタリア移民たちがイタリア出身のレスラー、サンマルチノの活躍を新聞などで知るようになるんだ。やがて活躍の噂は広がっていき、イタリア移民からのサンマルチノへの支持は絶大になっていったんだよ」

探偵「なるほど。同郷を応援したいのは心情ってもんですもんね。サンマルチノの人気が上がっていったというわけですね」

先輩「そう。で、1962年8月2日。サンマルチノはついにトロントのメープルリーフ・ガーデンズでバディ・ロジャースの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦することになる」

探偵「サンマルチノがロジャースとNWA戦!!どうなったんですか!!」

先輩「ああ。3本勝負で行われたこの試合は1-1から決勝の3本目をロジャースの負傷による試合放棄でサンマルチノが拾い勝利するんだ」

探偵「ロジャースに勝利!!すごい!!でも・・・NWA王座遍歴にサンマルチノの名はなかったような・・・?」

先輩「そう。NWAルールでは2フォールでないとタイトル移動とはならないから、残念ながらこの試合はロジャースの防衛となったんだ。だが、この一戦がまたもサンマルチノの運命を動かすことになる」

探偵「そうか、イタリア移民の同郷のレスラーがデビュー3年にも満たない状況で、あのバディ・ロジャース相手に堂々渡り合ったとなれば・・・サンマルチノの人気がさらに急上昇したということですね」

先輩「その通りだ。サンマルチノの人気は、まさに爆発したかのように世に広がり、知名度はカナダで絶大なものになったんだ。そして、この噂はニューヨークのマクマホン・シニアの耳に入るのにも時間は掛からなかった」

探偵「え!?まさか!?」

先輩「そのまさかさ。マクマホン・シニアはサンマルチノを再びニューヨークへと誘ったんだ。昔のことは水に流して、また一緒にやらないか?とね」

探偵「それはあんまりですよ。出場停止にしたり圧力をかけ追いやったりしたわけじゃないですか?そのおかげで一時はプロレスを引退もしたんですよ!?それが人気が上がったら、また戻ってこいだなんて・・・」

先輩「もちろんサンマルチノも断固として断ったそうだ。でも、マクマホン・シニアはギャランティーの格上げと最高の舞台を用意することを条件に出しサンマルチノに復帰を承諾させる」

探偵「最高の舞台!?それは!?」

先輩「順を追って話そう。まずサンマルチノはカナダのトロントからマクマホンのWWWFのところへ復帰するわけだが、その最初の試合は1963年2月4日、ペンシルベニア州ピッツバーグで行われたものだと思われる。記録によれば、この復帰戦の対戦相手はなんとバディ・ロジャースだ」

探偵「サンマルチノの家があるピッツバーグでロジャースと復帰戦ですか!!」

先輩「ああ。時間軸で追うと、前回も話したカナダのトロントでロジャースとテーズがNWA世界戦を行いテーズが勝利。46歳にして6度目の王座返り咲きとなった試合が1963年の1月24日。そして王座遍歴を確認するとNWA王座転落の翌日1月25日にロジャースがWWWF世界ヘビー級の初代王者として認定されているから・・・」

探偵「これはサム・マソニックのNWA戦強行と王座移動をフレッド・コーラーとマクマホン・シニアが認めず、ロジャースを新たな王者と認定したから、ですね」

先輩「そのとおりだ。ということでサンマルチノの復帰戦となった1963年2月4日の時点でロジャースはWWWF王者だったから、このサンマルチノの復帰戦はロジャースとのWWWF世界ヘビー級選手権だった可能性が高い」

探偵「すごい。サンマルチノは復帰戦でWWWF世界ヘビー級に挑戦していたのか。それにしても先輩、もしこれがWWWF世界ヘビー級選手権でなかっとしても、前年にトロントで行われた白熱のNWA戦の再現がまた見れるとあってはイタリア移民始めファンは大興奮。うれしかったでしかったでしょうね」

先輩「そう、このあたりは、客の心情を理解し好むものを提供するというマクマホン一族の"業"であり、代々受け継がれる無形資産と言えるだろうな」

探偵「無形資産、なるほどなぁ・・・ただ復帰させて試合するだけじゃなく、流れをよく理解した上でストーリーを受け継ぐというのは、確かに今も続いていますもんね」

先輩「プロモーターとしてレスラーや団体を見るから、そりゃ厳しいところもあるし、嫌われることもある。でもそうしてレスラーを確保しファン目線でモノを考え現在にまで興行を継続してきたわけだからね、マクマホン一族はやっぱりすごいよ」

探偵「そうですね」

先輩「で、話を戻して・・・こうしてWWWFへ復帰したサンマルチノは、その後2月25日にマディソンに再登場。ボボ・ブラジルと組んでジョニー・バレント、マグニフィセント・モーリスと対戦し2-1で勝利している。その後、マディソンを含め翌3月からのサンマルチノのWWWFでの試合は以下のようになっている。可能な限り調べたが試合の記載漏れがあるかもしれないし、試合タイム、フィニッシュ、勝敗はわかる範囲でしか記載できてないので、そのあたりは容赦してくれ」

1963年
3月2日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
イワン・コロフ●

3月9日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
イワン・コロフ●

3月11日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
会場不明
バディ・オースチン●

3月18日 ペンシルベニア州ピッツバーグ
シビック・センター(シビック・アリーナ?)
バディ・オースチン●

3月25日 ニューヨーク州
マディソン・スクエア・ガーデン
ボボ・ブラジルvsブルート・バーナード、スカル・マーフィー●

3月26日 コネチカット州ブリッジポート
ブリッジポート・アリーナ(ただし、この会場の過去の存在は確認できず)
ボリス・マレンコ●

3月29日 ニューヨーク州ウエスト・ヘンプステッド
会場不明
ジョニー・バレント●

4月1日 ニューヨーク州キングストン
会場不明
ビットリオ・アポロvsザ・ファビラス・カンガルーズ(アル・コステロ、ロイ・ヘファーナン)●

4月4日 ワシントンD.C
ワシントン・コロシアム
ゴルドチワワ、トミー・オトゥール●
(※1vs2 ハンデキャップマッチ)

4月11日 ワシントンD.C
会場不明
バディ・ロジャース▲
ノーコンテスト

5月13日 ワシントンD.C
ワシントン・コロシアム
ジョニー・バレントvsマグニフィセント・モーリス、ザ・シャドー(ミスターアトミック)●

探偵「4月11日にはロジャースと3度目の対戦をしているんですね」

先輩「そう、この日はふたりは対戦しているが、復帰後の大会はロジャースのWWWF戦がメイン、サンマルチノがセミファイナルという形が多く見られ、サンマルチノ単独メインというのもあったから二大看板的扱いってとこだったんだろう」

探偵「なるほど。結果もサンマルチノは負けなしで勢いがありましたね」

先輩「ああ。そして、こうして迎えた1963年5月17日。サンマルチノの復帰ロードは佳境を迎える。マディソンのリングで、ついにバディ・ロジャースとブルーノ・サンマルチノがWWWF世界ヘビー級王座をかけて戦うんだ」

探偵「マクマホン・シニアが用意した最高の舞台が、これだったんですね!!」

先輩「そう。チャンスを与えられたサンマルチノは試合開始直後からロジャースに付け入る隙を与えさせずパワーで圧倒的に一気に攻め、カナディアン・バックブリーカーを決めて、わずか48秒でロジャースからギブアップを奪い勝利。WWWF世界ヘビー級の新王者となったんだ」

フィニッシュとなったカナディアン・バックブリーカー

倒れるロジャースと勝ち名乗りをあげるサンマルチノ。それはあまりにも象徴的なシーンだった

先輩「これがニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンに新しい時代をもたらすレスラーが誕生した瞬間、というわけさ」

探偵「伝説の始まりかぁ・・・」

続きます。

アントニオ猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド

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どうも!!流星仮面二世です!!

さあ、久々の必殺技を語ろう!今回はですね、アントニオ猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドでございます。

ボクがプロレスの技で最も好きな技がジャーマン・スープレックス・ホールドなんですが、その中でも一番好きなのがアントニオ猪木のなんです。投げる際に反りを効かせるブリッジ。その様は力強く、でもしなやかで美しい。そして他のレスラーには真似のできない投げている瞬間の表情ですね。これがとにかくカッコよくて最高にシビレるんですよ~。

ということで今回は、この猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドの歴史を戦績と共に振り返ります。それではいってみましょう。

◎1969年
6月12日 秋田県立体育館 (初)
タッグマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木、ジャイアント馬場vsスカル・マ ーフィ、クルト・フォン・ストロハイム
①ストロハイム(体固め 13分22秒)猪木 
②馬場(片エビ固め 7分3秒)マーフィ 
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 2分55秒)ストロハイム

初公開の猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド。見事!!

6月19日 千葉県体育館 (2)
シングルマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木vsクルト・フォン・ストロハイム
①ストロハイム(体固め 17分36秒)
②猪木(コブラツイスト 5分26秒)
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 3分17秒)

7月3日 蔵前国技館 (3)
アジアタッグ選手権試合 60分3本勝負
アントニオ猪木、キム・イルvsブルート・バーナ ード、クルト・フォン・ストロハイム
①バーナード (体固め 15分5秒)猪木
②キム(体固め 6分7秒)バーナード
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 6分30秒)ストロハイム

同年7月3日、蔵前での3回目のジャーマン・スープレックス・ホールドは猪木には珍しいベタ足だった

7月10日 タイ バンコク市 ナショナルスタジアム (4)
シングルマッチ 45分3本勝負
アントニオ猪木vsクルト・フォン・ストロハイム
①ストロハイム(体固め 13分2秒)
②猪木(コブラツイスト 7分17秒)
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 6分12秒)

7月12日 シンガポール シンガポール市 ガイア ワールドスタジアム (5)
シングルマッチ 45分3本勝負
アントニオ猪木vsクルト・フォン・スタイガー
①猪木(コブラツイスト 17分13秒)
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 4分21秒)

9月28日 大阪府立体育会館 (6)
インターナショナルタッグ選手権試合 60分3本勝負
アントニオ猪木、ジャイアント馬場vsザ・デスト ロイヤー、ブラック・ゴールドマン
①馬場(コブラツイスト 14分30秒)デストロイヤー
②デストロイヤー(体固め 6分8秒)馬場
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 4分20秒)ゴールドマン

11月5日 横浜文化体育館 (7)
6人タッグ 60分3本勝負
ザ・デストロイヤー、ミスター・アトミック、ブラッ ク・ゴールドマンvsアントニオ猪木、ミツ・ヒライ、星野勘太郎
①アトミック(体固め 21分32秒)星野
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 7分13秒)ゴールドマン
③デストロイヤー(体固め 2分40秒)ヒライ

ということで初公開年です。猪木がジャーマン・スープレックス・ホールドを初公開したのは今から51年前の1969年6月12日。26歳のときでした。この技は1961年の5月にカール・ゴッチが日本において試合で初公開し、次いで1966年5月にヒロ・マツダが日本人レスラーとして初公開して以降、その難易度から使い手が現れませんでした。しかしゴッチ公開から8年後、マツダ公開から3年後に猪木が3人目の使い手として公開したことで注目を集めることになりました。

ゴッチにブリッジを指導される若き日の猪木。この鍛練が幾多の名勝負を彩ったジャーマン・スープレックス・ホールドを生むこととなった

その注目の1発目、初公開となった対戦相手はナチの残虐者ことクルト・フォン・ストロハイムでした。ストロハイムは身長190センチ、体重は120キロあった大型のレスラーでしたが、猪木は失敗することなく見事に決め勝利を飾っています。しかし驚くべきは、その後の戦績です。なんと猪木は初公開から4回連続で同じ相手となるストロハイムに決めていたのです。初公開がストロハイムなのは知っていましたが、4回連続で同じ相手だったとは・・・これは今まで知りませんでした。

そして5回目の対戦相手で初めてストロハイム以外の相手、ナチの禿鷹ことクルト・フォン・スタイガーに決めていました。これ、ここまですべてナチスドイツ系のレスラーへなんですね。ドイツ式のスープレックスをナチスドイツに連続で決めていたというのは興味をそそられます。そして最後は2回連続で同じ相手、ブラック・ゴールドマンと、いうことでした。

猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド創世記はストロハイムに4回、スタイガーに1回、そしてゴールドマンに2回と全部で7回の使用でしたが、特徴として同じ相手に連続してという傾向が見られました。当時は技自体が珍しく、そして受け身の仕方も未知だったので、猪木にすると実戦での試運転的なところですね、もしかしてあったのかもしれないですね。

◎1970年
3月2日 広島県立体育館 (8)
アジアタッグ選手権試合 60分3本勝負
アントニオ猪木、吉村道明vsフリッツ・フォン・エリック、ジム・オズボーン
①猪木組(反則勝ち 16分21秒)エリック組
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 10分32秒)オズボーン

ジム・オズボーン相手に気迫漲(みなぎ)る一撃!!

5月13日兵庫県・姫路市厚生会館 (9)
タッグマッチ 60分3本勝負 
アントニオ猪木、ジャイアント馬場vsクリス・マルコフ、ターザン・タイラー
①猪木組(反則勝ち 20分7秒) マルコフ組 
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 3分20秒)タイラー

6月8日 愛知県体育館 (10)
アジアタッグ選手権試合 60分3本勝負
アントニオ猪木、吉村道明 vsジ・アサシンズA、B
①吉村(エビ固め 6分10秒)B
②A(体固め 17分39秒)吉村
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 3分45秒)A 

8月2日 福岡スポーツセンター (11)
NWA世界ヘビー級選手権試合 60分3本勝負
ドリー・ファンク・ジュニアvsアントニオ猪木
①ドリー(体固め 30分38秒)
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 7分4秒)
③時間切れ引き分け

NWA世界王者から一本を奪った渾身の一発!!

9月30日 広島県・福山市体育館 (12)
NWAタッグリーグ戦 45分3本勝負
アントニオ猪木、星野勘太郎vsフランキー・レイ ン、バッド・ラーテル
①ラーテル(体固め 15分41秒)星野
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 7分41秒)レイン
③星野(体固め 0分55秒)ラーテル

フランキー・レインには高さのあるジャーマン・スープレックス・ホールド

10月9日 鹿児島県立体育館 (13)
シングルマッチ 30分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 9分53秒)ジョニ ー・クイン

続いて70年です。先ほども触れましたが、使い始めた69年当初から70年中盤までは試運転的な感じもありました猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド。しかし70年8月は福岡でのドリー・ファンク・ジュニアとのNWA戦で炸裂し、いよいよビッグマッチで初使用となりました。このドリー戦は3本勝負で2本目を取り返した起死回生、魂の一撃となりました。

さて、ドリー戦を含め、ここでは3つの画像で猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドをご紹介しましたが、どれも投げる瞬間の闘志に満ちあふれた猪木の表情が必ず見えていますよね。この表情こそ猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドを象徴する姿であり、数々の名勝負、戦いにドラマを生んできた源となったわけです。でも、この猪木の表情が見えるということ・・・実はこれは表現という意味だけではない、投げの理論に基づいた歴とした技術、なんです。

投げているとき表情が見えているということは体、特に首が反っている、ということになります。

このブログで何度かお話しているように、ジャーマン・スープレックス・ホールドは重心の使い方が大事です。重心はちょうど膀胱のあたり、ここに鉄の玉があると考えていただければわかりやすいと思います。バックに回り、しっかりクラッチをし膝を曲げ腰を沈める、自分の重心を相手の重心より引くするわけですね。そして、ここから重心を重心で跳ね上げながら体を真後ろに反らせると、いうわけです(注:女性の重心は男性よりうしろ、尾てい骨付近になるそうです)

しかし、ここで首の反動を使わない、首が反っていないと相手の背中に顔やアゴが着いたままの状態になります。これだと首の振りによる反動が生かせないので反りが不十分になり、ブリッジが成り立たず自分の顔や頭が潰れたり、首を痛めたりすることになります。姿勢も足しか立ててない、いわゆる腰砕けの状態になってしまうわけですね。

と言っても、わかりずらいと思うので・・・ここは簡単な動作でみなさんにも体験してもらいましょう。

まず、いわゆる「ヤンキー座り」をします。ベタ足でもつま先でもいいので、この状態から自分が背筋を伸ばせる方にしてください。で、この姿勢から背筋を伸ばし、二通りの立ち上がり方をします。

やり方は

①真っ正面を向いたまま立ち上がる
②立ち上がるのと同じタイミングで、せえーので顔を天井に向けながら立ち上がる

です。

さあ、どうでしたでしょうか?

①は普通に立つ感じですが、②は立ち上がりに軽さを感じ、中にはやや後ろにフラッとした感覚になった方も、いたのではないでしょうか?

①は下半身、足だけで立ち上がった状態、つまり何もしてない上半身を下半身でスクワットした状態になります。対して②は下半身の動きに上半身の動きを乗せた動き・・・つまり下半身が上半身を持ち上げるのではなく、上半身と下半身を連動させた、全身を使って立ち上がった状態になるわけです。後ろにフラッとなった方は、顔を上に向けたことにより反動が起きた、つまり"反り"が発生したから、なんですね。

では、これをジャーマン・スープレックス・ホールドに置き換えてみましょう。

①は、相手の背中に顔やアゴが着いたままの状態。後ろに持っていけば足だけはジャーマン・スープレックス・ホールドみたいになりますが、上半身が使われていないので単に"持ち上げて落とすだけ"の形のものになってしまうのが体験からも明らかですね。当然、これだと投げたあとのブリッジは成り立ちませんから"ホールド"を成立させるのは難になります。

②は、下半身で重心を上げながら、この首の動き、首の振りで体を反らせるので首から背中、腰も連動し体が反り、胸も連動されて引っ張られるのでクラッチを組んだ腕も強く引かれることになります。体全体が統率され反り投げるということになるわけです。バックに回りしっかりクラッチ。重心位置。そして全身を使って反る!!これがジャーマン・スープレックス・ホールドなんです。

で、それを踏まえた上でです。ファンには知られているように、猪木はテクニックだけでなく全盛期はパワーファイターでも通用するくらいの力、筋力がありました。そして他のレスラーにはちょっとない、類稀なる体の柔軟性も持っていました。猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは、確固たる投げの技術にパワーと柔軟性が乗る、しかも表情にはドラマがある"至極"の必殺技だったんだと、言えると思いました。

70年はドリー戦後、NWAタッグリーグ戦でフランキー・レインに一度決め、70年最後となったジョニー・クイン、のちのビッグ・ジョン・クインですね。身長195センチで体重は135キロ以上あったというクインは、ここまでで一番大型のレスラーとなりましたが、猪木はこの素晴らしいジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利しています。この年は6回の使用でした。

◎1971年
1月31日 愛知県・西尾市体育館 (14)
シングルマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木vsリッキー・ハンター 
①猪木(体固め 11分42秒)
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 8分24秒)

8月5日 愛知県体育館 (15)
UNヘビー級選手権試合 60分3本勝負
アントニオ猪木vsジャックブリスコ
①ブリスコ(体固め 21分2秒)
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 7分6秒)
③猪木(コブラツイスト 1分37秒)

10月18日 長崎県・長崎国際体育館 (16)
NWAタッグリーグ戦 45分3本勝負
アントニオ猪木、坂口征二vsネルソン・ロイヤル、ポール・ジョーンズ
①坂口(体固め 12分35秒)ジョーンズ
②ロイヤル(体固め 8分0秒)猪木
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 4分56秒)ロイヤル

さて、71年です。この年は年明けの1月末に氷上鬼といわれたリッキー・ハンターへ。そしてその約5ヶ月後には猪木史上、一番の完成度と言われたジャック・ブリスコ戦がありました。

1970年のところで解説をしましたが、このブリスコ戦では先に述べた"確固たる投げの技術にパワーと柔軟性が乗る"というジャーマン・スープレックス・ホールドに、猪木ならではのオリジナリティーな技術が加えられた強烈な一撃となりました。

そう、それは「高角度」でした。

この日は、後ろに反るところを一旦上に上げ、そこから反りをかけてジャーマン・スープレックス・ホールドに持っていっています。通常のジャーマン・スープレックス・ホールドの"バックに回り反る"がワン・モーションだとすると、これは"バックに回り上げてから反る"という、いわばツー・モーションの投げ、と現すことができるかなと思います。

では、ちょっと見てみましょう。


まずバックに回りますが、バックに回ったあとの、この猪木の腰の落とし方に注目です。相手の重心より遥かに下に持ってきていますね。ちょうど猪木の胸にブリスコのお尻が乗っている状態になっています。で、ここから、このまま後ろには反らず、上に上がります


通常は反るところを、胸の位置にブリスコをキープしながら高々と上に上げながら反り始めてます。この高さと角度!!すごいです!!


そしてブリッジで弧を描かせ下に落とします。見事!!!

高く上げて反る、高角度のジャーマン・スープレックス・ホールド。それは本家のゴッチにも先駆者のマツダにもなかった新しいものでした。現存する技に新しいムーブを加えオリジナリティーを出し、技の意気をさらに高めていく・・・つくづくアントニオ猪木なんだなぁと思うばかりでした。それにしてもこのジャーマン・スープレックス・ホールド、見てください。本当に素晴らしい形です。ああ、すごいなぁ~やっぱり・・・

さて、この71年はブリスコ戦の約2ヶ月後の10月18日、長崎でのタッグマッチでネルソン・ロイヤルに決めたジャーマン・スープレックス・ホールドが最後となりましたが、12月13日に日本プロレスを追放されてしまうことになる猪木にとってはこのネルソン・ロイヤルへの一撃が日本プロレス時代の最後ともなりました。この年は3回の使用となっています。

◎1972年
11月13日 滋賀県・大津市皇子山体育館 (17)
タッグマッチ 60分3本勝負
 アントニオ猪木、柴田勝久vsフランク・モレル、ロナルド・パール
①柴田(体固め 14分40秒)パール
②パール(体固め 3分55秒)柴田
③猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 3分42秒)モレル

72年、日本プロレスをあとにし新日本プロレスを旗揚げしての最初にして唯一の使用はネルソン・ロイヤル以降、約1年ぶりとなる11月で、相手は身長190センチ、体重120キロある大型のレスラー、フランク・モレルでした。

このフランク・モレル、ボクは知らないレスラーだったんですが、新日本ではこのように猪木と対戦し、78年は全日本プロレスの第6回チャンピオン・カーニバルへ参戦し馬場さん、鶴田とシングルで対戦し、84年10月には驚くべきことに旧UWFへ参戦し山崎、高田、前田とシングルで対戦しているというすごい経歴の持ち主だそうなんです。少ない来日で、これだけ日本のトップと当たっているレスラーは、まずいないと思います。わからないもんですね。

◎1973年
7月23日 愛知県・名古屋市体育館 (18)
シングルマッチ 30分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 5分36秒)ターザン・ジャコブス

8月16日 東京都・足立区体育館 (19)
シングルマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 23分25秒)シーン・リ ーガン

73年です。この年は、まずはターザン・ジャコブスです。ターザン・ジャコブスはボクが姿を知っているのは恒文社から出ていたプロレスアルバム「超大技からオモシロ技まで必殺技大集合!」で小鉄さんにサソリ固めのような技をかけるシーンのみでしたが、当時は身体中に鎖を巻き入場してきた怪力派、筋肉マンタイプのレスラーだったそうです。

そしてシーン・リーガンです。イギリス出身。ヨーロッパ・スタイルの超実力者で、この猪木戦は隠れ名勝負として現在でも一部マニアの間では語り草になっているそうです。で、ボクは見たことがないんですが、このときの猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは猪木には珍しい、カール・ゴッチのようなベタ足の踵付けだったと伺ったことがあります。ボクは本とかでも見たことがなくて、映像も・・・残ってないですかね・・・これはちょっと見てみたかったです。この年は2回の使用でした。

◎1974年
1月11日 山口県・徳山市体育館 (20)
タッグマッチ 60分3本勝負
アントニオ猪木、山本小鉄vsマイティ・カランバ 、ピート・ロバーツ
①猪木(コブラツイスト 13分29秒)カランバ
②猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 3分47秒)ロバーツ

3月19日 蔵前国技館 (21)
NWF世界ヘビー級選手権試合 90分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 29分30秒)ストロン グ小林

第1回の東京スポーツ・プロレス大賞の年間最高試合を獲得したストロング小林戦の伝説のジャーマン・スープレックス・ホールド。まさに鬼気迫るシーンだ

74年は、まずはタッグマッチにてピート・ロバーツへ放っています。猪木vsロバーツという職人対決だけで、どんなプロレスが展開されたのかな!?とワクワクしてしまうのに、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めたとなればさらに興奮してしまいます。ちなみに話はまったく無関係ですが、この日はボクの1歳の誕生日だった日なので、うれしいです。

さて、そして伝説のストロング小林戦です。猪木は、この試合ではヘッドロックにきた小林をバックドロップで投げつけ、フラフラで立ち上がったところへジャーマン・スープレックス・ホールドを爆発させるという大技連携を見せていました。テーズ、ゴッチの得意技を連続して見せる・・・猪木からすると無意識だったかもしれませんが、自然と発せられるこのあたりのセンスには脱帽するばかりです。

大技は、流血の中でバックに回り腰を深く落とし、そのまま反る形となったので入りが深くなり猪木のブリッジが先行。小林があとからついてくる形となったため猪木の足が浮き、首だけで支える伝説のジャーマン・スープレックス・ホールドとなりました。

団体と団体のトップ同士の対決。力道山vs木村以来の超大物・日本人同士の対決。そして昭和の巌流島など数々の話題を振りまき、一般社会にまで報道され多大なる影響を与えた一戦となったこの試合。猪木の過激なセンチメンタリズム発言「こんな試合を続けていたら10年もつレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない」という言葉で後世にまで語り継がれてきたわけですが、この試合の真は、やはりフィニッシュにあったのではないかなとボクは思います。鬼気迫る一撃の、あのシーン。そしてこれが、それまで外国人レスラーへだった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドが、初めて日本人レスラー相手に使用された試合となったことも大きかったのではないかなと・・・あのとき、もしジャーマン・スープレックス・ホールドでなかったら、これほどまで伝えられていただろうか?そう思うばかりです。

◎1975年
3月7日 横浜文化体育館 (22)
タッグマッチ 60分3本勝負 タイガー・ジェット・シン、マイティ・ズールvsアントニオ猪木、星野勘太郎
①猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 13分35秒)ズール
②シン(体固め 6分44秒)星野
③シン(体固め 4分16秒)猪木

4月11日 福島県・会津市体育館 (23)
ワールドリーグ戦 30分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 10分16秒)星野勘太郎

ストロング小林に次ぎ日本人レスラー2人目のフォールとなった星野へのジャーマン・スープレックス・ホールドは余裕すらただよう素晴らしいブリッジ

75年です。ストロング小林戦の余韻も残る75年は、まずは3月にマイティ・ズールに炸裂。このマイティ・ズールは本来このシリーズに来日予定だったマグニフィセント・ズール、あの戦闘種族として有名なズール族の血を引く、のちのヘラクレス・ローンホークの来日中止に伴い代打で来日したレスラーでした。

ズールは来日もこのときのみ。特に抜きに出たレスラーではありませんでしたが、これが猪木が黒人レスラーへジャーマン・スープレックス・ホールドを使用した唯一の試合となったことで貴重な存在となりました。

星野は小林に次ぎ日本人で2人目に猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドを受けたレスラーとなりましたが、同門レスラーとしては初。のちの新日本の師弟対決には欠かせなくなるシーンの、これが始まりだったと思うと深いものを感じます。この年は2回の使用となっています。

◎1978年
5月20日 秋田県立体育館 (24)
MSGシリーズ決勝リーグ 45分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 11分43秒)藤波辰巳

久々に見せた猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドはベタ足!!表情もいい!!

75年の4月に星野に使用してから76年、77年と、まったく見られなくなってしまった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドでしたが78年5月の藤波との初の師弟対決で約3年ぶりに火を吹くこととなりました。

それは、この年の1月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでWWWFジュニア・ヘビー級王座を奪取しドラゴン・ブームを巻き起こしていた藤波に、藤波の得意技でもあったジャーマン・スープレックス・ホールドを、こうやるんだ!!と言わんばかりに放った一撃でした。

しかし10年後、これが戦いのシルクロード、のちに88年8月のふたりの最後の対決へと続く物語の始まりとなるとは・・・プロレスは本当にロマンがありますね。ちなみに、この日のジャーマン・スープレックス・ホールドは、猪木が69年に初使用したときと同じ会場、秋田県立体育館でした。

◎1981年
8月6日 蔵前国技館 (25)
賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 12分16秒)マスク ド・スーパースター

大型のマスクドに見事な"人間橋"が爆発!!実はストロング小林戦以来の足が浮く"首で支える"ジャーマン・スープレックス・ホールドだった

さあ、ここからの猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドはボクもリアルタイムです。

78年の藤波との初の師弟対決後、またも79年、80年と封印状態となったジャーマン・スープレックス・ホールドでしたが、マスクド・スーパースターとの賞金3万ドルと覆面をかけての大一番で、この81年に3年3ヶ月ぶりに復活となりました。

この試合の日の朝にカール・ゴッチの夢を見て、ゴッチに喝を入れられて早朝5時に目が覚めたという猪木の話を桜井康雄さんが解説で披露。久々にジャーマン・スープレックス・ホールドが出るのでは!?と予感させる試合展開の中での一撃。実況の古舘さんがジャーマン・スープレックス・ホールドをいつも呼んでいたとおりの、まさしく"人間橋"が架かった瞬間でした。

マスクドのファンであるボクですが、猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドをテレビでリアルタイムで初めて見れたことには、うれしさが隠せませんでした。その後、子供向けのプロレス本にですね、あれは確か小学舘でしたかね?「レッツ・ファイト!プロレス」というのがあったんですが、これにこのマスクド戦のジャーマン・スープレックス・ホールドの連続写真が載ってましてですね、買って読んだ記憶があります。豪快で思い出に残る一戦でした。

◎1983年
9月16日 埼玉県・吉川町体育館 (26)
シングルマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 7分36秒)アニマル浜口


浜口戦の一撃は、あまり知られていない幻のジャーマン・スープレックス・ホールドか

81年のマスクド戦以降、82年は使われませんでしたが、83年の長州率いる維新軍との抗争にてアニマル浜口相手に2年1ヶ月ぶりの復活のジャーマン・スープレックス・ホールドとなりました。

この日は試合前に襲撃された前田に変わり高田が急遽試合に出場。張り手で活を入れる猪木に礼をする姿に、プロレスって厳しいんだなぁ・・・と子供心に思ったのを思い出します。その後、セミでテレビ初登場だった藤原を初めて見ます。コーナーの金具(だったと思います)へカチン!!とすごい音がするほど頭を打ちつけられてるのに平然としていている藤原を見て、本気で怖くなったのも覚えています。

と・・・当日のテレビのことをいろいろ覚えているんですが、実はこの猪木vs浜口だけは試合前に出る対戦の字幕スーパーしか記憶がないんですよ。おかしいんですよねぇ・・・猪木がジャーマン・スープレックス・ホールドを使った試合なら忘れるはずないんですが・・・

単なる自分の記憶の欠落か?それとも放送時間のうちに終わらなかったから見た記憶がないのか・・・もしかしたら高田の登場や藤原のカチン!!も、ボクが放送日をかんちがいしているのかな!?もしわかる方いましたら、ご教示よろしくお願いいたします。

◎1984年
8月2日 蔵前国技館 (27)
シングルマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(グランドコブラツイスト29分39秒)長州力


老朽化により取り壊しが決まっていた思い出の蔵前で最後に行われたプロレス。そこで猪木が見せたのは"神業"だった

浜口戦以来、約1年ぶりとなった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは84年8月2日でした。長州の新日本離脱前の最後のシングルマッチとなったこの一戦は、それまで勝率100%だった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドが初めてカウント・ツーで返された、フィニッシュにならなかった試合となりました。しかしながら、それはこれまでに見せたジャーマン・スープレックス・ホールドとは異質にして、最も神秘的で華麗なものとなりました。

そう異質なんです。このジャーマン・スープレックス・ホールドは、どういう理屈で成り立っているのか、わからないんですよ。100キロ以上ある人間に対し、まったく抵抗を発生させずフワッと、まるで地球の重力がここだけ無重力になったかのように力や重さを感じさせず浮かせて、とても柔らかい弧を描いて・・・しかも、バーン!と相手をマットに叩きつかることなくスッとフォールへ持っていっているんです。これはできないですよ。どうすればこんなジャーマン・スープレックス・ホールドになるんでしょうか?あまりにも神懸った猪木の神業。蔵前の神が最後に猪木に降りてきた・・・そんな気持ちにすらさせる一発でした。

◎1985年
9月19日 東京体育館 (28)
シングルマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(レフェリーストップ35分29秒)藤波辰巳


潰れながらもブリッジに持っていった気合いの一発

85年です。84年の長州戦から約1年後に炸裂した猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは、前回の長州への神秘的なシーンから一転。反った瞬間、体が先にいってしまったため腕が伸びてしまい、体が藤波から離れてしまったことで猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド史上、初めて反りきれず"崩れる"ものとなりました。しかし崩れたのは一瞬。藤波の体が横にずれていたので猪木はダメージを負うことなく、このあと即座にブリッジで押し上げ見事な人間橋を完成させました。威力は半減してしまいフォールは奪えませんでしたが、猪木の勝負感の強さを改めて知ることができた一戦でした。

猪木vs藤波は8.8が名勝負として有名ですが、この9.19も名勝負でした。当時、まだ我が家にビデオデッキがなかったので、この試合はカセットテープに音だけ録音したんですよ。そして何回も聞いて、そこで古舘さんが実況で言っていた「出藍の誉(しゅつらんのほまれ)」という言葉を覚えたものでした。クラブ活動の時間に先生が理科室にこの試合のビデオ持ってきて、こっそり一緒に見たのも今となってはいい思い出であります。まさに戦いの学舎でありました。

◎1986年
3月14日 鹿児島県立体育館 (29)
シングルマッチ 60分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 8分44秒)ビリー・ジ ャック

当時アメリカン・プロレスの象徴的レスラーのひとりだったジャック相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを見せたのは意外だったが・・・

6月12日 大阪城ホール (30)
IWGPヘビー級王座決定リーグ 30分1本勝負
アントニオ猪木(ジャーマン・スープレックス・ホールド 14分14秒)藤原喜明

久々にパーフェクト決まった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは、かつての幾多の名勝負を彷彿させる見事な美しさだった

6月19日 両国国技館 (31)
IWGPヘビー級王座決定戦 時間無制限1本勝負
アントニオ猪木(体固め 30分7秒)ディック・ マードック

藤原戦での華麗さとは打って変わり、豪快に叩きつける大迫力のジャーマン・スープレックス・ホールドをマードックへ決めた猪木。その柔軟さを物語る、このブリッジ!!やっぱり猪木はすごい!!

75年の2回を最後に78年5月の藤波戦で約3年ぶり、81年にマスクド戦で3年3ヶ月ぶり、83年のアニマル浜口戦で2年1ヶ月ぶりと使用頻度が年々低くなっていった猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドでしたが84年、85年は年に1回見られるようになり、この86年は71年以来、実に15年ぶりに年3回の使用となりました。

まずは前年の藤波戦から半年後。相手はなんとビリー・ジャックでした。この日は、両腕を広げワーッと迫ってきたジャックを掻い潜り、バックに回ると一気にジャーマン・スープレックス・ホールドへ持っていきましたが、投げる段階で反りきることができなかったためジャックの体重を顔、頭、首でモロに受ける形となってしまいました。すぐブリッジで立て直しフォールを奪いはしましたが・・・試合後もしばらくうずくまるような状態でした。もう猪木にはジャーマン・スープレックス・ホールドは無理なのか・・・そんなことか囁かれた試合でした。

しかし3ヶ月後、猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは藤原喜明を相手に復活します。それはジャック戦がうそのような、きれいで、まったくブレのない安定した見事なブリッジ。かつての猪木の全盛期、幾多の名勝負を思い起こさせるようなパーフェクトな一撃でした。スリー・カウント直後の、坊主頭が若々しい猪木のうれしそうな表情が今でも忘れられません。こうして見事に復活を成し遂げた猪木の人間橋でしたが、しかし結局これが猪木がジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利した最後の試合となりました。

そして藤原戦から1週間後のIWGP優勝決定戦。藤原戦で手応えを得た猪木はディック・マードックに渾身の一撃を炸裂させます。当時125キロはあったマードックを豪快に、まさに"投げつけた"ジャーマン・スープレックス・ホールドは猪木のレスラー生活の中で最も迫力のあるものとなりました。試合はこれでスリー・カウントかと思われましたが、猪木の腕のクラッチが外れてしまい、残念ながらフォールは奪えませんでした。しかし"アントニオ猪木ここにあり"を見せつけた素晴らしい一戦となりした。

さあ、猪木のジャーマン・スープレックス・ホールド、いよいよ次が最終章です。

◎1988年
7月22日 札幌中島体育センター (32)
IWGP挑戦者決定リーグ戦 45分1本勝負
長州力(体固め7分55秒)アントニオ猪木

札幌で最初で最後のジャーマン・スープレックス・ホールドは勝負をかけた決死の一撃となった

8月8日 横浜文化体育館 (33)
IWGPヘビー級選手権試合 60分1本勝負
藤波辰巳(時間切れ引き分け)アントニオ猪木

そして最後のジャーマン・スープレックス・ホールドは8.8の藤波戦だった。このとき45歳6ヶ月・・・まさに猪木の肉体がレクイエム、猪木の攻撃がゴスペルだ、そして戦い模様がバラードだ!!

86年には3回繰り出したジャーマン・スープレックス・ホールドもマードック戦を最後に87年は見られず。復活となったのは約2年1ヶ月後、88年の長州戦でした。

飛龍革命の真っ只中に行われたIWGP挑戦者決定リーグ戦で、長州のラリアートを交わしバックに回った猪木が勝負をかけて起死回生のジャーマン・スープレックス・ホールドを敢行。しかし長州にスリー・カウントギリギリで返されてしまいます。カウントはスリーではないのか!?とレフリーに迫る猪木に長州の背後からのラリアートが炸裂。猪木、無念のフォール負けとなりました。

この日は仕掛け、技の勢い、タイミングこそ抜群でしたが、インパクトの瞬間にブリッジが左横に傾いてしまい、残念ながらバランスを崩してしまいました。それでも両足を浮かせてバランスを取りながら執念のホールドを見せ「あわや!!」と思わせたジャーマン・スープレックス・ホールドにファンにはうれしい限りでした。しかしこの敗北により"落日の闘魂"という言葉が囁き出され、衝撃とせつなさを残してしまった一戦もとなりました。

こうして長州に完膚なき敗北を喫した猪木でしたが、この札幌から17日後、猪木はIWGPヘビー級タイトルへ挑戦者としてリングに上がります。これが最後の試合になるかもしれない・・・猪木の現役生活最後のジャーマン・スープレックス・ホールドは、そんな引退をかけた大一番ででした。

それは試合時間が30分に差し掛かろうというときでした。グランドでの藤波の背後からのネックロックを立ち上がって回避すると「ジャッ!!」という掛け声と共に気合い一番、ショルダー・アーム・ブリーカーの体勢に切り替えます。そして腕折りに行こうかという刹那、スルリとバックに回ったが早く一気に爆発させました。

最後のジャーマン・スープレックス・ホールドは17日前の長州戦と同じく、カウントが進むにつれ、今度はブリッジが右横に傾いてしまう形となりました。しかし両足でバランスを取りながら最後までホールドする猪木の姿。そして

「アントニオ猪木のひとつひとつの大技、かつての名勝負が思い起こされるー!!」

という古舘さんの実況で気づかされます。猪木がやれば、この技に崩れるとか失敗とか、そんな文字なんかそもそもなかったんだと・・・

そう、それはドリー戦に代表される乾坤一擲の正攻法型。ブリスコ戦で見せた、高く上げて反る高角度型。小林戦やマスクド戦で見せた、足が浮く、首で支える伝説型。そして長州戦で見せた神業、神秘の人間橋。ビリー・ジャック戦もマードック戦も、最後の長州戦も藤波戦も・・・みんなそうでした。

試合ひとつひとつにジャーマン・スープレックス・ホールドというドラマがあり、ファンひとりひとりに、それぞれ猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドがあったんです。そのとき、その形が「猪木のジャーマン」だったんです。

1969年から1988年まで延べ19年。使用回数33回。こんなに長い間、それを見てこれた我々は本当に幸せ者だったんだと、つくづく思いました。

さあ、今日は8月8日。あの試合を見る日です。猪木の最後のジャーマン・スープレックス・ホールド、しかと見ようと思います。

最後までありがとうございました。


暗闇の虎ブラック・タイガー追悼

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どうも、流星仮面二世です。

遅くなってしまいましたが・・・先月7月30日にブラック・タイガー、ローラーボール・マーク・ロコが亡くなりました。まだ69歳・・・なんとも言葉になりません。本当に残念ですが、悲しむことより、ここは日本での活躍をみなさんと一緒に振り返り、追悼したいと思います。

さて、突如として日本に現れ全国のプロレスファンを震撼させたブラック・タイガー。その正体、マーク・ロコは1970年2月にデビュー。イギリスを主戦場にヒールとして活躍していたといいます。日本へは1979年9月に国際プロレスに初来日。このときは阿修羅・原の持つWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦していると、いうことなんですね。

そして初来日から約2年半が経った82年4月21日。新日本プロレスに登場するわけなんですが、これが衝撃だったわけですね。

ということで今回は82年から83年に行われた初代タイガーマスクとのシングル、タッグ全戦とシリーズ参戦中に行なわれたブラック・タイガー関連の気になったカードをピックアップしながら振り返っていきます。では、見ていきましょう。

1982年
◎難民義援金募集チャリティ特別試合
4月21日 蔵前国技館 (水曜スペシャルで生中継)
WWFジュニアヘビー級級選手権試合 60分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
タイガー(14分17秒 両者リングアウト)ブラック・タイガー

さあ、まずは衝撃の初登場からです。これはボクが小学4年生になったばかりのときでしたね~。とにかく鮮烈でした。このときは次週登場するというような形で、前の週にテレビにほんの数秒だけ映し出されたんですね。しかしこれがこう、あまりはっきり見えないものだったんですよ。わかることはタイガーマスクと同じマントに同じマスク、そして同じコスチューム。で、黒い!!ということでした。

くっ、黒いタイガーマスク・・・何!?何なんだ!?何このタイガーは!!子供心にビーンときましたね。学校でも「来週、黒いタイガーマスクが出るんだよ!!」と夢中でした。

で、当日です。ブラウン管に映し出されたのがこれでした。

こ、これがブラック・タイガー!!(紫レガさんのブログ「追悼・暗闇脳天!」より画像をお借りしました)

初めて見るブラック・タイガーに、本当だ!!タイガーマスクと同じだけど、黒い!!と身を乗りだしたのを覚えています。そして試合が始まればタイガーマスクが大苦戦。まったくいつもの動きができず攻められっぱなしとなり、その様子には子供ながらに異様さを感じてました。

ボディスラムじゃないのかっ!!いきなり軌道を変え放ったように見えたパイルドライバーに、ただただ驚いた・・・それが恐怖の暗闇脳天を初めて見た感想だった

こんなにタイガーマスクが攻められたのはエル・カネック戦以来だ。でもカネックのときとはなんかちがう・・・ブラック・タイガーに与えられるものは、なんというんでしょうか?あれは不安感、ストレスだったんですかねぇ~。プロレス見てて初めての感覚でした。

しかしそんな中でも、子供のボクにとって一番それを感じた、衝撃だったのはこれでした。

なっ!!

ジャーマン・スープレックス・ホールド防ぐなら、普通はロープに逃げるか足をフックするかなのに!!ずるい!!とテレビの前で憤慨したものでした。

結果は、あのタイガーマスクが押され気味で両者リングアウト・・・いや、実際にはタイガーマスクがリングアウト負けを取られてもというギリギリな両者リングアウトでした。

終始、完全に主導権を握られていたタイガーマスクにショックが隠せなかった

急所をやられてなければ!!と思いましたが、しかしこの日まったくいいところがなかったタイガーマスクの姿に、ブラック・タイガーの衝撃は強くなるばかりなのでした。

こうして、このあとブラック・タイガーは日本に残留し次期シリーズへフル参戦となります。続けて見ていきましょう。

◎ビッグファイトシリーズ
4月23日 大宮スケートセンター(開幕戦)
ブラック・タイガーvs星野勘太郎
ブラック・タイガー(8分42秒体固め)星野

4月21日の衝撃の蔵前参戦からビッグファイトシリーズに残留。シリーズフル参戦となったブラック・タイガー。これがそのシリーズ第1戦目になります。シリーズ中の地方でのシングルでは、この星野、寺西との対戦が非常に多く見られました。

4月25日 山形県・川西町民総合体育館
タッグマッチ45分1本勝負
タイガーマスク、グラン浜田vsホセ・ゴンザレス、ブラック・タイガー
タイガー(12分18秒体固め)ゴンザレス

この日は4月21日にタイガーマスクと対戦して以来、シリーズで初めての絡みとなりました。新日本プロレスの時代背景としては猪木が右膝半月板損傷のため、この次の大会からシリーズ欠場。藤波、タイガーマスクが奮闘することになります。

4月28日 長野県・長野市民体育館
6人タッグマッチ60分3本勝負
タイガーマスク、グラン浜田、藤波辰巳vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ペロ・アグアヨ、ブラック・タイガー
①(9分12秒 両軍リングアウト)
②藤波(4分40秒 体固め)エストラーダ

こちらは6人タッグマッチですが、このシリーズでブラック・タイガーがペロ・アグアヨ、古舘さん風に言えばペーロ・アグアイヨですね。こちらと組んでいる試合が何試合かみられましたが、これはいいタッグですね~。ブラック・タイガーの攻撃はみなさん知ってのとおりですが、このアグアヨの攻めもとにかくキツいんですよ。流血は朝飯前。本当にルチャリブレなのか!?というくらいの荒っぽさで、ラフファイトではブラック・タイガーを凌ぐほどの勢いです。そんな攻撃の手を緩めない、荒々しく、しかも休まずガンガン攻めてくるというタイプのふたりが手を組んでいたとは・・・プロレスの過去を調べるのは本当におもしろいですね。

また81年末にヘビー級に転向し82年1月から飛龍十番勝負を展開していた藤波とブラック・タイガーの絡みも見応えがありました。ヘビー級のパワーを身に付けながらスピーディーな試合展開で躍動する藤波とブラック・タイガーの対決・・・ぜひシングルで見てみたかったです。

そして、かつてその藤波とWWFジュニアヘビー級王座を争ったカルロス・ホセ・エストラーダですが、いやぁ~いいレスラーですね。エストラーダ、とにかく"試合で相手を引き立たせる"というですね、これが本当にうまいですね。パフォーマンスやアクションしながら、そういう中でちゃんと試合の流れが見えているんですね。その上でうまく動いて、いいところを相手に出させるんですね。自身は勝つことはなくても、必ず試合で相手を光らせる・・・こういういいレスラー、今いなくなりましたね。学ぶべきところだと思いました。

4月29日 埼玉県・熊谷市体育館
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、グラン浜田vsホセ・ゴンザレス、ブラック・タイガー
浜田(8分48秒 体固め)ゴンザレス

4月30日 神奈川県・大和市車体工業体育館 (テレビ生中継)
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs星野勘太郎
ブラック・タイガー(11分33秒 体固め)星野

4月25日の山形県の川西町民体育館を最後に猪木か欠場してからの初めてのテレビマッチとなったこの日は、地方で数多く組まれていたブラック・タイガーvs星野がテレビ初お目見え。星野は元気いっぱいなときでしたので、ブラック・タイガーの相手にはまさにうってつけでした。ボクはこの頃に星野がリング内で見せるトペが好きでしたね~。

一方、ライバルのタイガーマスクはこの日、グラン浜田と組んでペロ・アグアヨ、レス・ソントンと対戦しますが、この翌日5月1日より右膝内側靭帯損傷のため欠場となってしまいます。新日本は猪木、タイガーマスクが不在となり大変なシリーズとなっていきました。

5月6日 福岡スポーツセンター (5月7日テレビ録画中継)
WWFジュニアヘビー級王座決定戦 60分1本勝負
ブラック・タイガーvsグラン浜田
(11分31秒 両者リングアウト)

延長戦 30分1本勝負
ブラック・タイガー(6分35秒 リングアウト)浜田

タイガーマスクが負傷による欠場でWWFジュニアヘビー級選手権を返上。空位となったため、この日はブラック・タイガーとグラン浜田で決定戦が行われました。試合は一度は両者リングアウトでの引き分けとなりましたが、延長戦を制したブラック・タイガーが新王者となりました。

浜田を下し第7代目のWWFジュニアヘビー級王者となったブラック・タイガー。これが日本での最初で最後のタイトル栄冠だった

タイトルを奪取し勢いにのるブラック・タイガーは負けなしでシリーズを爆進します。そして王座に就いたことで、こんなカードも実現しました。

5月7日 鹿児島県・出水市総合体育館 
タッグマッチ 30分1本勝負
ブラック・タイガー、レス・ソントンvs星野勘太郎、木戸修
ブラック・タイガー(12分45秒 体固め)木戸

5月8日 福岡県立久留米体育館
タッグマッチ 30分1本勝負
ブラック・タイガー、レス・ソントンvs寺西勇、アニマル浜口
ブラック・タイガー(10分55秒 体固め)寺西

こちらの2試合はNWA、WWFの両ジュニアヘビー級王者がタッグを組むという非常に珍しいものになります。すべて調べたわけではないので絶対とは言えないんですが、両ジュニア王者がタッグを組んだのは歴史上、おそらくこれだけだったんじゃないかなと思います。ちなみにブラック・タイガーとレス・ソントンが日本で同じシリーズに参戦したのはこのときのみなので、ふたりの日本でのタッグもこのときのみとなります。

5月21日 高松市民文化センター(6月4日テレビ録画中継)
タッグマッチ45分1本勝負
ブラック・タイガー、ペロ・アグアヨvsグラン浜田、星野勘太郎
(13分14秒両者リングアウト)

先にもお話しましたが、これがまさにブラック・タイガー、ペロ・アグアヨの暗闇の虎と山犬の強力タッグですね。レス・ソントンと同じく、ブラック・タイガーとアグアヨが新日本で同じシリーズに参戦したのもこれのみなので本当に貴重なタッグがいろいろ組まれていたんですね。それにしてもこれはいいタッグです。ヨーロッパとメキシコの軽量級のトップ同士のタッグチームですから、このクラスの最強チームと言っても過言ではないと思いますね。

さて、5月1日より負傷欠場していたタイガーマスクですが、この日より復帰となります。実はYouTubeでタイガーマスク、木戸修vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ホセ・ゴンザレスというタイガーがオレンジ色という珍しいカラーのマスクで試合している映像があるんですが


あれがおそらくこの復帰戦の試合だと思います。この方は9年前にこの動画をYouTubeへアップしていますが、映像の説明には、なんと30年間ビデオに保存していたものだとありました。スゴいですね!!しかし、ということはブラック・タイガーとアグアヨのタッグの映像もどこかにあるのかなぁ?あるなら見たいなぁ~。

5月22日 徳島県・徳島市体育館
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、グラン浜田vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(8分51秒 体固め)エストラーダ

5月24日 京都府立体育館
タッグマッチ 30分1本勝負
ブラック・タイガー、レス・ソントンvs寺西勇、アニマル浜口
ブラック・タイガー(10分48秒 体固め)寺西

これもNWA、WWFの両ジュニアヘビー級王者のタッグとなりましたが、ソントンはこの翌日25日に静岡県の静岡産業館でタイガーマスクとNWA世界ジュニアヘビー級選手権を行い王者から転落。ブラック・タイガーはNWA世界ジュニアヘビー級王者となったタイガーマスクとWWFジュニアヘビー級王座をかけ激突しますので、この試合が両王者最後のタッグとなりました。

5月26日 大阪府立体育会館 (5月28日テレビ録画中継)
WWFジュニアヘビー級級選手権試合 60分1本勝負
ブラック・タイガーvsタイガーマスク
タイガー(14分15秒 体固め)ブラック・タイガー

ということで前日に静岡産業館でレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取したタイガーマスクとWWFジュニアヘビー級王者のブラック・タイガーの対決です。もはや"栄光のジュニアヘビー2冠王"といえば有名な試合ですが、初代タイガーマスクが挑戦者として選手権試合を行ったのは先のレス・ソントン戦と、このブラック・タイガー戦のみ。王者ブラック・タイガー側からすれば、まさに虎の子タイトルの初防衛戦となりました。

試合では、いつもならのラフファイトで攻め、最後は暗闇脳天からトップロープ、フィニッシュを狙ったダイビング・エルボードロップを敢行しますが交わされ自爆。逆にツームストーン・パイルドライバーを食らい初公開にして新兵器のムーンサルト・プレスを受け、残念ながら敗れてしまいました。

しかし試合後、納得のいかないブラック・タイガーは「もう一度挑戦させろ!!」と、感情を露にマイクアピールし迫ります。そして、このあとタイガーマスクに襲いかかります。

激しく捲し立てたブラック・タイガーは激昂しタイガーマスクに突進しますが・・・

ガイン!!「ブギャ!!」


いや、ここは一応ね、やっておきませんとね・・・

5月27日 兵庫県・丹波篠山温泉(最終戦)
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(11分50秒 体固め)エストラーダ

ということで大阪での決戦を終えた翌日。ブラック・タイガーが初めて新日本のシリーズにフル参戦したビッグファイトシリーズも最終戦を迎えます。最後は兵庫県の丹波篠山温泉でタイガーマスクとのタッグ対決で終了と、いうことでした。

ところでこの最終戦会場となった丹波篠山温泉ですが、実はこれ、どこだかわからないんですよ。というのも丹波篠山温泉というのは固有の温泉宿やホテルを指す言葉ではでなく、温泉地帯、温泉郷一帯を指す呼び名のようなんですね。なので丹波篠山温泉の何温泉だったのかは特定できなかったんです。

観衆は2600人とあったので、どこか大きいホテルの大ホールだったのか?それとも温泉宿の駐車場の特設リングだったのか・・・もはや調べることは不可能ですが、最終戦ということで試合が終わったあとはこの温泉郷でそのまま一泊。日本での長くハードなシリーズ参戦を終えたブラック・タイガーも温泉の湯船に浸かり、疲れを癒したのかもしれないですね。

◎ブラディファイトシリーズ
8月27日(金) 後楽園ホール (開幕戦)(地方のみテレビ中継)
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、藤波辰巳vsピート・ロバーツ、ブラック・タイガー
藤波(10分47秒 回転足折り固め)ロバーツ

さて、衝撃の初登場から4ヶ月が過ぎた8月末。ブラック・タイガー2度目のシリーズ参戦となりましたブラディファイトシリーズが開幕します。開幕戦では、まずはタッグでピート・ロバーツと組んでタイガーマスク、藤波と対戦します。

ピート・ロバーツはご存知のとおりイギリス出身でイギリスが主戦場。ブラック・タイガー、マーク・ロコとは同じ時代を経ており対戦経験もあるとのことですが、日本でふたりが同じマットに顔を揃えたのはこのシリーズのみ。今に思えば大変貴重なシリーズでした。

なぜ入ってくるんだ!?試合開始早々、ブラック・タイガーのカットに不満を露にしたピート・ロバーツはこの表情。口論となり、一瞬ヒヤリとなった

ボクあれなんですよ、ピート・ロバーツも好きなんですよ。腕を取って足を取って、その過程がとにかく滑らかで、細かいところが丁寧でうまいんですね。かつては藤波と、そしてタイガーマスクとも戦いました。ブラック・タイガーとの試合は日本では実現しませんでしたが、実現したらおもしろかっただろうなと思いました。

そしてヘビー級のパワーを身につけた藤波と荒ぶるブラック・タイガーの絡みも興味津々

そして藤波ですね。ブラック・タイガーとはタッグのみで、この時代にシングルは実現しませんでした。ジュニアヘビーのスピードをそのままにヘビー級のパワーを身につけた藤波に、全盛期のブラック・タイガーの猛攻・・・このあたりゼヒ見てみたかったです。

8月28日 神奈川県・大井町スーパーマーケット・ヤオヤサ広場
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsルイス・マリスカル、ブラック・タイガー
タイガー(10分42秒 体固め)マリスカル

開幕戦からシリーズ2戦目では、ブラック・タイガーはメキシコのルイス・マリスカルと組んでのタイガーマスクとの対戦となりました。このパートナーのルイス・マリスカルはメキシコ出身のレスラーのようなんですが、詳しい資料がなく詳細はわかりませんでした。

代わりといってはなんですが、会場となった大井町スーパーマーケット・ヤオヤサ広場について調べましたのでご紹介します。ここはヤオヤサ株式会社として大正8年創業、昭和51年設立という神奈川県小田原市を中心に11店舗を構える地域の老舗有名スーパーと、いうことなんですね。で、この会場となった場所はヤオヤサ大井町店としてスーパーとTSUTAYAを共有し現在も地域の幅広い年齢層から指示され、暮らしを支える重要な場所となっているそうです。お近くの方はお買い物ついでにゼヒですね、ああ~今日車を停めたこの駐車場に昔タイガーマスクとブラック・タイガーが来て戦ったんだなと、思っていただければうれしく思います。

8月29日 田園コロシアム
WWFジュニアヘビー級級選手権試合 60分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
タイガー(18分3秒 リングアウト)ブラック・タイガー

さて、プロレスの世界には"幻の田コロ決戦"という言葉がありますが・・・この試合は人気絶頂のタイガーマスクがブラック・タイガーとシングル対戦するという超人気のゴールデン・カードにしてWWFジュニアヘビー級選手権試合だった、にもかかわらず!!なぜかノーテレビで試合映像も残っていないという、本物の"幻の田コロ決戦"となった大会でした。

真夏の野外試合ながら試合開始時間が13時という異例の興行だったが、観衆10800人(満員)を動員した

当時はまだ使い手が少なかった雪崩式ブレーンバスターを対タイガーマスク戦の秘密兵器として使用していたブラック・タイガー。この日もタイガーマスクを追い込んだ

しかし、やはり世の中マニアがいるんですね~。この映像が後年発掘されたというんですね。ボクはずっと見ることはできなかったんですが、数年前にここにコメントくださいますaliveさんよりこの秘蔵映像をいただき拝見できた次第です。こういうプロレスファンの力、探求心にはいつも驚かされます。

9月2日 茨城県・笠間市民体育館
45分1本勝負
タイガーマスク、木村健吾vsルイス・マリスカル、ブラック・タイガー
タイガー(9分22秒 体固め)マリスカル

9月4日 熊本県・玉名市寿屋駐車場
タッグマッチ45分1本勝負
タイガーマスク、藤波辰巳vsピート・ロバーツ、ブラック・タイガー
藤波(11分50秒 逆エビ固め)ロバーツ

9月6日 熊本県・熊本市体育館
30分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
(11分22秒 両者リングアウト)

で、こちらはですね、注目していただきたい熊本市体育館なんですが、なんとノンタイトル、ノーテレビでありながらタイガーマスクvsブラック・タイガーのシングルが組まれていました。言うまでもなくゴールデン・カードのこの対決。この日、この試合を見れたファンはラッキーでしたね~。うらやましい!!

9月8日 長崎県・大村市民体育館
ブラック・タイガーvs藤原喜明
ブラック・タイガー(12分29秒 体固め)藤原

先にも触れましたが、ブラック・タイガーの地方でのシングルは星野、寺西と組まれることが多かったんですが、この日のみ藤原とのシングルが行われていました。まだ藤原はブレーク前。おそらく最初で最後のシングル対決と思われます。貴重な一戦でしたね。

9月9日 長崎県・佐世保スポーツランド
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsビジャノⅢ、ブラック・タイガー
タイガー(12分34秒 体固め)ビジャノ

イギリスが主戦場だったブラック・タイガーでしたので、これまで縁がなかったメキシコのアグアヨとの貴重なタッグも実現しましたが、このビジャノⅢとのタッグも貴重でした。ふたりが同じシリーズに参戦したのはこれのみになりますので、このタッグもこのときのみ。マスクマン同士とはいえ異色タッグですね。

9月15日 長野県・穂高町民会館
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsクリス・アダムス、ブラック・タイガー
タイガー(9分47秒 体固め)アダムス

この日のタッグ・パートナーのクリス・アダムスもイギリス出身ですが、78年にイギリスでデビューし、3年後の81年にはアメリカに渡っているのでブラック・タイガーとのイギリスでの接点はいかに・・・これはわかりませんでした。しかしピート・ロバーツやビジャノと同じく、ふたりが日本で同じシリーズに参戦したのはこれのみなので日本ではここだけになります。ブラック・タイガー参戦のシリーズは貴重の宝庫ですね。

9月18日 宮城県・気仙沼市朝市広場
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、木戸修vsピート・ロバーツ、ブラック・タイガー
タイガー(10分27秒 回転エビ固め)ロバーツ

9月19日(日) 後楽園ホール(地方のみテレビ中継)
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsビジャノⅢ、ブラック・タイガー
タイガー(15分54秒 体固め)ビジャノ

10日前に長崎でタッグを組んだブラック・タイガーとビジャノⅢが、この日もタッグ結成。9日と同じ相手のタイガーマスク、星野組と対戦となりました。

試合はこの2日後に大阪で行われるタイガーマスクとブラック・タイガーのWWFジュニアヘビー級選手権の前哨戦ということで両者の意識が高い一戦となりました。そして先にも述べたようにブラック・タイガーとビジャノⅢが同じシリーズに参戦したのはこれのみなので貴重なタッグですが、この試合は映像がありましたので前哨戦とビジャノⅢとのタッグの様子を合わせて知ることができました。

ブラック・タイガーは、試合では細かなラフファイトを重ねながら休むことなく連続で攻めては、タイガーマスクがバックに回れば得意の急所蹴りで即対応と相変わらずの荒々しさを見せていました。

星野を得意のロープ拘束刑ドロップキックへ持っていかんとアピールするブラック・タイガー。相手を選ばず、いつ何時もアグレッシブに攻めるファイトスタイルは本当に手強い

そんな果敢に攻めるブラック・タイガーのタッグパートナー、ビジャノⅢですが、得意のメキシカン殺法を繰り出しながらも一歩引いた感じでブラック・タイガーをうまくサポートし、試合を引き立たせていました。

ブラック・タイガーのファイトを支える形となったビジャノⅢ。ツープラトンやタッチワークも多く、意外なほど好連携を見せた

序盤から息の合った攻撃を見せて試合をリードしたブラック・タイガーとビジャノⅢ。年間試合数で圧倒的な数のタッグマッチを行うメキシコ、ルチャリブレ。そんな中でもタッグ、トリオのタイトルを数多く獲得しては活躍してきたビジャノⅢだからこそ、場所、相手を選ばない"うまい"タッグマッチを展開できたんだなと思いました。

9月21日 大阪府立体育会館(10月1日テレビ録画中継)
WWFジュニアヘビー級級選手権試合 60分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
タイガー(19分8秒 エビ固め)ブラック・タイガー

このシリーズ2度目の王座挑戦となった大阪決戦。王座奪還を狙うブラック・タイガーは、この日も得意のラフファイトで攻めまくります。

パンチにキック、そしてエルボーと細かな技を連続し、常に攻勢を取るブラック・タイガー。絶対にペースを握らせない・・・これが最も恐ろしいところだ

そしてタイガーマスク必殺のジャーマン・スープレックス・ホールドも、あの急所蹴りで返し追い詰めますが・・・

正確に決まるジャーマン・スープレックス・ホールド封じの急所蹴りは、反則ながら納得すら覚えてしまうほど見事。その完成度には驚かされるばかりだ

しかし、この急所蹴りからブレーンバスターで勝負に出た直後、体勢を入れ替えたタイガーマスクに後方から飛び付かれ、エビに丸められて無念のフォール負けとなってしまいました。

攻め込みながらも一瞬のスキをつくエビ固めに敗れた

急所蹴りで優位に立ったことで油断したのか・・・タイガーマスクのあまりの電光石火にフォールされたことが一瞬わからないほどのブラック・タイガー。気がつけば王座返り咲きはなりませんでした。

9月23日 群馬県・館林分福ヘルスセンター大駐車場(試合開始12時15分)
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsビジャノⅢ、ブラック・タイガー
タイガー(13分12秒 体固め)ビジャノ

9月23日 大宮スケートセンター(最終戦)(試合開始18時30分)
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、木戸修vsクリス・アダムス、ブラック・タイガー
タイガー(12分52秒 体固め)アダムス

そして昔話の「ぶんぶく茶釜」由来のお寺、茂林寺のお膝元の館林分福ヘルスセンターと最終戦の埼玉県の大宮スケートセンターとなるわけなんですが・・・この2大会、対戦カードこそシリーズ中はよく見られたものだったんですが、不思議なことに、どちらも日付が一緒なんですよ。

今回、試合結果を2冊の本を用い調べていたのですが、最初これは片方の本の印刷ミスだと思ったんですよ。でも、もう1冊の本も同じ日付になってるんですね。2冊どちらも印刷ミスというのは、どうもおかしいなぁと・・・

で、試合開始時間を見たらですね、かたや12時15分、かたや18時30分なんですよ。ということはこれ、1日2回興行だったんじゃないかなと・・・

確かに群馬の館林から埼玉の大宮だと高速使えば1時間くらい、下道で行って少々渋滞見込んでも2時間以内には着くはずなので1日2回興行も不可能ではないとは思います。この日の詳しい事情はわかりませんが、あの頃の新日本は年間200~220試合を行っていましたから1日2回興行が行われていても不思議ではないんですよね。可能性は高いんじゃないかなと思います。アツい時代でしたね。

1983年
◎新春黄金シリーズ(開幕戦)
1月1日 後楽園ホール
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、グラン浜田vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(10分26秒 体固め)エストラーダ

さて、ブラック・タイガー初参戦から明けた83年。この新春黄金シリーズがブラック・タイガーとタイガーマスクが対峙した最後のシリーズになります。

このシリーズでは前年の髭ありマスクから口開きタイプ、初代タイガーマスクでいうところの"伝説タイプ"の形に一新し、全体のデザインも新たに登場となったブラック・タイガー。シリーズでは前回同様にタイガーマスクとの対決が軸になると思われましたが・・・この開幕戦後、タイガーマスクはエル・シグノ、エル・テハノ、ネグロ・ナバーロのロス・ミシオネロス・デ・ラ・ムエルテ、地獄の伝道師トリオとの対戦が続くことになり、ブラック・タイガーとタイガーマスクとの絡みは一旦見られなくなります。しかし、そのかわりブラック・タイガーとあのレスラーとの対決が目を見張るようになります。

1月8日 千葉県・松戸市運動公園
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
(8分30秒 両者リングアウト)

1月10日 京都府立体育館
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
(8分26秒 両者フェンスアウト)

そう、虎ハンター小林邦昭です。ブラック・タイガーが82年9月末にブラディファイトシリーズを終え帰国すると、まさに入れ替わるように同年の翌月10月に凱旋してきた小林。このため、お互い未知の存在でしたが、このシリーズで遭遇すると打倒タイガーマスクを狙う者同士として初対決が実現。以降も戦いを重ねて行くことになります。

1月11日 兵庫県・姫路市厚生会館
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、グラン浜田vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(10分17秒 メキシカン・ローリングクラッチ)エストラーダ

1月14日 山口県・徳山市体育館 
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
(9分47秒 両者リングアウト)

1月15日 宮崎県・西都市民体育館
タッグマッチ30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(13分50秒 体固め)エストラーダ

1月17日 熊本県・熊本市民体育館
30分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
(11分57秒 両者リングアウト)

で、これですね・・・前年の82年9月6日に熊本市体育館でタイガーマスクvsブラック・タイガーのゴールデン・カードが組まれていたことに触れましたが、そのわずか4ヶ月後のこの年。驚くべきことに熊本市民体育館でもノンタイトル、ノーテレビでありながらシングルが組まれていました。なぜ熊本では、こんな高確率でこのシングルが実現していたのでしょうか・・・気になりますね。

1月20日 大分県立荷揚町体育館(1月21日テレビ録画中継)
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
(9分44秒 両者リングアウト)

このシリーズから激しい対決を展開していた暗闇の虎vs虎ハンターが4度目のシングルでテレビ初登場です。残念ながらボクには当時この試合をテレビで見た記憶は残っておらず、試合展開はわからないんですが・・・ブラック・タイガーの覆面を剥ぐ小林なんて想像しただけでワクワクしてしまいます。どんな試合だったんでしょうかね~。当時は目をキラキラさせながら見てたんだろうなぁ~。

1月21日 岡山県・岡山市総合文化体育館
45分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
タイガー(11分48秒 回転エビ固め)ブラック・タイガー

前年から続けて2回の熊本でのノーテレビでのシングルに驚いたのも束の間。なんと岡山市でもタイガーマスクvsブラック・タイガーのノーテレビのシングルが行われていました。しかも熊本市の2回では引き分けだった決着が、ここではタイガーマスクがピンフォールで勝利しています。これは意外な事実発覚ですね。

1月25日 埼玉県・志木市民体育館
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
(9分8秒 両者リングアウト)

1月27日 静岡県・浜北市民体育館
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
ブラック・タイガー(9分43秒 反則勝ち)小林

岡山でのタイガーマスクとのシングルのあとは暗闇の虎vs虎ハンターが続きます。ブラック・タイガーvs小林、ここまで5戦して5引き分けとデッドヒートでしたが、6回目のシングルで反則ながらブラック・タイガーが勝利。初めて勝敗が着きました。どのような状況だったのか気になりますね。

1月28日 茨城県・古河市立体育館(テレビ生中継)
タッグマッチ 45分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(11分19秒 体固め)エストラーダ

ここではですね、すいません。本当に私的なことなんですが・・・80年代、小学生時分に茨城県民のボクが思っていたことを、どーしても吐き出したいんですよ。積年の想いを、この機会に・・・申し訳ないですが言わせてもらいます。

なんでいっつも古河はテレビでやるんだよー!!

同じ茨城なのに、古河ばっかりぃー!!

81年の新春黄金シリーズは開幕戦が生中継でジ・エンフォーサーvs木村健吾、ケン・パテラvs長州やったんだよ!!メインは猪木、藤波vsサモアンズだよ!!うぉーいいなぁーエンフォーサーいいなぁー!!

83年はこれ、生中継でタイガーマスクとブラック・タイガーがタッグでやって、メインで猪木、藤波vsマスクド・スーパースター、マイク・ジョージやったんだよ!!マイク・ジョージは1月14日の山口県の徳山市の試合で、はぐれ国際軍団入りなんていって国際軍団と大々的に乱入してタイガーマスク攻撃したわりに、シリーズではこの古河と最終戦の愛知県の蒲郡市民体育館しかテレビ出てないんだよ。だから貴重なんだよー!!そんなの見れていいなぁー!!

84年3月9日のビッグファイトシリーズも開幕戦で生中継だったんだよ!!この日は若き日の高田と小林邦昭がシングルやって、テロリスト後の藤原が猪木と初タッグでメインで出たんだよー!!で、そのわずか21日後の30日には全日もテレビ!!スタン・ハンセンとバグジー・マグローのPWF戦やったんだよ!!ハンセンが6日前に馬場さんに左腕痛めつけられてたから左腕が使えなくて、ハンセン史上、初めて右腕でラリアート出した試合なんだよ!!ていうか1ヶ月に2回もプロレスいいなぁー!!

85年4月は藤波、木村vsマードック、アドニスだよ!!マードック、アドニスだって!!いいなぁー!!で、メインでは猪木組とストロング・マシーンズで新日本プロレス史上初めての8人タッグやったんだよー!!マシーンズ4人が初めて同時にリング上がって試合したんだよー!!そんなの見れて、いいなぁー!!ちなみにテレビはなかったけど、この85年の6月は全日がここでダイナマイト・キッドと小林邦昭のインタージュニアやってて、小林がタイトル奪取したんだよ。キッドvs小林戦でタイトル移動だよ!?いいなぁー!!ついでにこの日のセミは長州、谷津vsウォリアーズだったんだよ!!ノーテレビで地方でこんなカード普通やる!?やらないよー!!あああーっ!!

うらやましかったなぁ・・・でも、今でも新日本って古河に定期的に来るんだよな。おかしいよなぁ?なんかあるのかな?

1月29日 静岡県・富士市吉原体育館
30分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
(9分31秒 両者リングアウト)

先ほどから紹介しています熊本、岡山と地方にて行われていたタイガーマスクvsブラック・タイガーの一連のノーテレビでのシングルですが、またも発掘。静岡でも実現していました。しかし、この静岡が最後になります。結局、田コロでのノーテレビを除けば地方で4回も実現していたというこのシングル。テレビで高視聴率、観客動員数も高かったゴールデン・カードが、なぜ人知れず頻繁に行われていたのか・・・興味がつきません。

1月31日 東京・福生市民体育館
タイガーマスク、星野勘太郎vs小林邦昭、ブラック・タイガー
(11分40秒 両者リングアウト)

ここまでタイガーマスクとの対決と並んで小林邦昭との対決もご紹介してきましたが、ここにきてびっくり。なんとこの日はブラック・タイガーと小林邦昭がタッグを組んでいます。敵の敵は味方・・・一度組んでタイガーマスクを潰しておこうという魂胆だったのでしょうか?それにしてもタイガーマスクにとってはまたとない対戦相手、最強タッグとなりましたね。

2月5日 青森県・三沢市民体育館
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(11分58秒 体固め)エストラーダ

2月6日 福島県・双葉町民体育館
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs小林邦昭
ブラック・タイガー(10分00秒 反則勝ち)小林

さて、月が変わって新春黄金シリーズも東北エリアを南下しながら、いよいよ終盤です。

5日、青森はタッグでブラック・タイガーとタイガーマスクが激突。2日後の天王山、蔵前でWWFジュニアヘビー級選手権を争う両者の最後の前哨戦となりました。

そして6日は、一度はタッグを結成も再び対峙した暗闇の虎vs虎ハンターの7度目のシングルとなりました。結果は6戦目と同じくブラック・タイガーの反則勝ちとなりましたが、真の決着はまだ先のようです。

2月7日 蔵前国技館(2月11日テレビ録画中継)
WWFジュニアヘビー級級選手権試合60分1本勝負
タイガーマスクvsブラック・タイガー
タイガー(15分18秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)ブラック・タイガー

初登場から1年2ヶ月、9度目のシングルで5度目の選手権試合となったこの日は、いよいよ手の内を熟知したタイガーマスクがブレーンバスターに見せかけて前方へ倒しロープへ腹部を叩きつけるブラック・タイガーの得意な攻撃を逆に仕掛け精神的圧力をかけます。しかしそこは百戦錬磨のブラック・タイガー。キック、パンチを細かく入れてペースを見出だし対タイガーマスク戦用の必殺の雪崩式ブレーンバスターで追い込みます。

ラフばかりに目が行くが、そこはイギリス出身のブラック・タイガー。グランドレスリングも巧みだ

この日もブラック・タイガーが新日本へ登場し、初めてプロレス界に披露されたジャーマン・スープレックス・ホールド封じの急所蹴りがヒット。チャンスと見るや、そこから得意のロープ拘束刑ドロップキックで駄目押しに出ます。

迫力のあるドロップキックで勝負に出たが・・・

しかし2度目のジャーマン・スープレックス・ホールド封じの急所蹴りを脛(スネ)で2度に渡ってガードされたブラック・タイガーはジャンピングしてのスピンキックを後頭部へ浴び、ついにジャーマン・スープレックス・ホールドを許してしまいます。大きく項を描いたジャーマン・スープレックス・ホールドに、ついにスリーカウントが入ってしまいました。

試合数、起き上がれずブラック・キャットに担がれて戻っていったブラック・タイガー。タイガーマスクがブラック・タイガー戦でジャーマン・スープレックス・ホールドを成功したのは最後のシングルとなったこの試合のみ。ブラック・タイガーはタイガーマスクのジャーマン・スープレックス・ホールドのこの威力を知っていたからこそ、これまで警戒し食わないように阻止してきたんだなと思いました。初対決からの長きに渡る、素晴らしい攻防戦でした。

2月9日 三重県・四日市市体育館
タッグマッチ 30分1本勝負
タイガーマスク、星野勘太郎vsカルロス・ホセ・エストラーダ、ブラック・タイガー
タイガー(11分51秒 体固め)エストラーダ

2月10日 愛知県・蒲郡市民体育館(最終戦)
30分1本勝負
ブラック・タイガーvs栗栖正伸
ブラック・タイガー(8分54秒 体固め)栗栖

この年の8月にタイガーマスクは新日本を去ってしまうので2月7日の蔵前での対戦が最後かと思っていたのですが、2日後の2月9日に三重県の四日市市体育館でタッグで対戦している記録が見られました。ということで、これがタイガーマスクとブラック・タイガーの最後の対戦ということになります。そして最終戦。タイガーマスクとブラック・タイガーが同じシリーズにいて行われた最後の大会での試合は2月10日の栗栖正伸戦と、いうことでした。

昔はテレビ中継が入るビッグマッチの大会が必ず最終戦ではなく、そのあと1、2日があって最終戦というの、ありましたよね。こういう時代背景がタイガーマスクvsブラック・タイガーの人知れぬ最後の対決を生んだのかもしれませんね。

さて、ライバルとの激しい激闘を経たのち、そのライバルが突如いなくなってしまったブラック・タイガー。去りゆく虎の後ろ姿に自分がブラック・タイガーである意味を考えていたのでしょうか・・・このあとブラック・タイガーは新日本マットに現れることはありませんでした。

しかし約1年後、タイガーマスク去りし新日本のリングにブラック・タイガーは姿を現し、以降も参戦していくことになります。日本で新たなライバルとなりマディソン・スクエア・ガーデンのリングでWWFジュニアヘビー級選手権を行うまでになったザ・コブラとの対決。UWF相手にも己のスタイルで真っ向戦った高田とのIWGPジュニアヘビー級選手権。海外から日本へと舞台を移しながら白熱の勝負を展開した素顔での山田恵一との戦い・・・思い出される数々の名勝負は尽きることがありません。

でもタイガーマスクが去ったあとのブラック・タイガーは、何かがちがう感じに見えました。姿やファイトスタイルこそ変わりませんが、やっぱり何かがちがう。見ていて・・・そう、どこか"さみしかった"んです。

タイガーマスクと戦っていたときは、ブラック・タイガーのせいでタイガーマスクがいつものように動けなくなってるのを見てイライラしたり、悲しくなったり。「ずるい!!」と、頭にきたりしたりしてたのに、それがなくなってしまったことが、見ていてさみしく感じたんだなと・・・そこまで思わせるほど激しい戦いだったんだなと・・・そう思いました。

見る者の感情を揺さぶる戦いを展開してきたふたり。それは最も強く輝いていた時代ではわからなかった、居なくなり、離れて初めてわかるさみしさ。戦いながら成り立っていた「友情」が招いた"さみしさ"だったのかもしれません。そう思えば思うほど、やっぱりブラック・タイガーにはタイガーマスクだったんだなと強く思えるのでした。

ブラック・タイガーが残してくれたタイガーマスク幾多の名勝負。いつまでも忘れません。夢を、本当にありがとう!!

暗闇の虎よ、安らかに・・・

暗闇の虎ブラック・タイガー追悼(コメントよりエピソード紹介です)

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どうも!!流星仮面二世です!!
 
さて、前回更新しましたブラック・タイガー追悼の記事で、Mr.プロレスさん(Mr.プロレスさんのブログ:ミスター・プロレス・アワー)よりコメントいただきました、

「ピート・ロバーツとブラックというと、熊本かどこかでタイガーとロバーツのシングルがありましたよね?
試合前にブラックが乱入してタイガーを挑発。
タイガーとロバーツが「俺たちの試合邪魔するんじゃない」とばかりにブラックを追い出して大喝采。このシーン印象的です。
お書きになられてる開幕の後楽園のロバーツとブラックの不穏な空気が伏線になっててるんでしょうね。
英国紳士ピート・ロバーツ、英国のダーティファイターのブラック(一応正体不明ですが)というすみ分けがなされていて面白かったです。」

という一幕なんですが、この乱入したブラック・タイガーをタイガーマスクとピート・ロバーツが蹴散らした試合ですね。映像を持っていましたのでご紹介します。
 
この試合は熊本県の宇土市(うとし)で行われましたタイガーマスクとピート・ロバーツの試合になります。
 
9月10日熊本県・宇土市体育館(テレビ生中継)
45分1本勝負
タイガーマスクvsピート・ロバーツ
タイガー(15分44秒 ジャパニーズ・レッグロールクラッチ・ホールド)ロバーツ
 
この日、ブラック・タイガーはビジャノⅢと組んで星野、木戸と対戦。わずか十数分で木戸を葬っていますが、テレビマッチはありませんでした。
 
しかしプロレスさんのコメントのようにブラック・タイガーはタイガーマスクとピート・ロバーツの試合前になると割り込む形で突如乱入。タイガーマスクを襲撃します。

タイガーマスク入場直後、まさにズカズカと入ってきたブラック・タイガー。この後ロバーツをコーナーへ突き飛ばしタイガーマスクに突っかかっていきますが・・・

勢い空しくローリング・ソバットからのキックで迎撃されてしまいます。そしていよいよ堪忍袋の緒が切れたロバーツに・・・

外へブッ飛ばされます!!

手をパンパンと払い「どうだ!!」と言わんばかりのロバーツに会場からは大歓迎です

これに怒りが収まらないのはブラック・タイガー。ゴングをリングへ放り投げ、盛んに叫びアピールを繰り返します。しかしブラックキャットと平田に抑えられ控室へと連れ戻されてしまいました。
 
プロレスさんのコメントを読んで、この日テレビを見ていて、やられるブラック・タイガーを見て「ざまーみろー!!」と心が晴れ晴れした子供の頃を思い出しました。素晴らしい思い出を思い起こすことができました。
 
プロレスさん、本当にありがとうございました。
 

受話器の向こうで

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どうも!!流星仮面二世です!!

やれやれ、またかかってきたか・・・まったくこのテのは後を絶たないんだなぁ~。

ああ、失礼。え、何の話かって?いやぁ~あれですよ。電話勧誘販売とよばれるアレです。ほら、みなさんとこにもよく電話でかかってくるでしょ?

「こちら○○○○○○の代理店なんですが」

なんていうね、アレですよ。

"大手の会社の代理店"という言葉を聞いて、なんとなく納得してしまったり、あるいは逆に半信半疑になってしまっていたり・・・そんな、まだ電話の向こうの相手に対し、こちらの判断がよくできていない状態のときに、電話代やインターネット接続料などが安くなるという話をこれでもかと展開。それこそ相槌程度しか打たせず話を進めていっては、契約に結びつけてしまうというものです。

実は近年、この電話での会話中に契約の意思がない状態だったにもかかわらず、気がつくと契約していく話になっていたり、あるいは契約されたことになっていることが数多く発生。トラブルが多発化したため、事業者は氏名や名称、商品の種類、詳細を明示する、執拗に勧誘することの禁止、契約内容やクーリングオフの説明がある書面の交付などの項が特定商取引法において改正され、これらが義務付けられたほど、なんだそうです。

しかし、いやぁ~それにしても・・・今回はドコモコンサルティングセンターというところからかかってきたんですが、驚いたことに自宅ではなく直接スマホにかかってきましてね。これはちょっと驚きました。やはり知らない番号は出ないのがいいのかもしれないなぁ。

しかし、どうしても出なくてはならない電話もありましてね・・・そう、会社で持たされてる電話なんですが、これに知らない番号から判断に困るときありますね。

会社の電話はだいたい話す相手は決まってるものなんですけど、初めての相手とか急な問い合わせの場合には当然番号が登録されてない人からもかかってくるので、知らない番号にも出るしかありません。で、そうやってると忘れた頃にかかってくるのが「投資しませんか?」なんていう「不動産販売業者の勧誘」というやつなんですよ。

この勧誘は自宅とちがい勤務先をメインに電話をしてくるのがそもそもの手法らしいんですが、これがリアル。それこそ勤務時間の真っ只中に堂々、電話がかかってきては一方的に話をし出すんです。その頻度は、この10年間で平均したなら年に1、2回くらいのになるでしょうか。内容は投資用マンション、アパートなどの物件を進めるもので、これがなかなか厄介。話が長く、とにかく電話を切らせないようにする性質が見られます。それこそ感情たっぷりに

「お願いします!!もう少しお話を!!」

なんて、お涙頂戴。お情けで迫るヤツもいれば

「勤務中お電話無理でしたら、お仕事何時に終わりますか?あなたの会社の門のところで待ってますので!!なんとか!!」

なんていう鬼気迫るヤツもいました。こういう会社だから、おそらくノルマ達成を強いられていて、会社から散々な目に合わされるんでしょうね。そう思うと、なんだか気の毒な気もします。

と、まあ昨今はこんな勧誘電話が多くなりましたけど・・・内容こそちがえど、昔からこういうのは存在していましたよね。

実はボクには、勧誘電話がかかってくるたびに思い出す出来事があります。

それはまだウチが黒電話だった頃・・・


今からざっと30年前。高校を卒業し、社会人となり1年が過ぎた平成4年。スマホどころか、まだ携帯電話もネットもなかった19歳の頃です。

この頃になるとボクのところにいろんなところから、それはそれは勧誘電話がかかってくるようになりました。

まず多かったのが、資格を取るための教材販売で"資格商法業者"からの勧誘というものでした。

売り込まれる資格は、なぜか行政書士(※「行政書士法」に基づく国家資格で、行政に関する書類、法律的な権利義務、事実証明に関する書類の作成や手続を行ったり、その手続に関する相談を行ったりすることができるもの。合格率は10パーセント台とかなりの難易度を誇る。その他、興味がある方は調べてみてね)のがほとんで、実にいろいろな事業所から(と言っても架空の会社でしょうけど)それこそ自宅、職場を問わないほど頻繁にかかってきていました。

酸いも甘いもわからないこの年齢の頃は、勧誘電話なんて存在をまだよく知りませんでしたから・・・電話口ではどう対応していいかわからず、真剣に話を聞いてしまったりすることも多くありました。なので、その様子を見ていた当時いた会社の係長からは

「今日もか?一体なんの電話だ?サラ金か?借金あるなら相談乗るぞ」

なんて、変な誤解を招いてしまうこともありました。

で、その頃というのは、この資格の勧誘の電話とはちがうものもよくかかってきていました。それは会社にはなく、自宅のみにかかってくるもので・・・あなたが選ばれましたとか、当たりましたとか言って会う約束を取りつけ、そこから商品などを購入させるという、いわゆる「アポイントメント商法」というやつでした。

しかしボクのところに当時かかってきた電話の内容は、こうした当選やプレゼントものではなく

「若い人を対象にお声をかけているんですが、あなたも対象になりますので来ませんか?」

というニュアンスのものがほとんどでした。

若い人を対象にお声をかけている。だからあなたも対象。なんという安易さだろう。いくら若くて世の中のことよくわかってないにしても、知らない人が唐突にこんな電話してきたら不審に思うに決まっているじゃないか。そんなことで相手が動くと思ってるんだろうか?

ところが、当時はこういった勧誘にも引っ掛かってしまう人がいました。それはまさしくレトリック。相手側の電話口での言葉巧みな対応にありました。

相手は明るい雰囲気を全面に出しながら、好感を持たせつつ話を進めていきます。しかし一見、会話しているように感じますが、実はこちらには話をさせないしゃべり方で主導権を握り進行していき、やがて会う約束へと取りつけていってしまうのです。

勧誘は世の中では我々の"敵"となるものですが、敵ながら、この相手をコントロールするしゃべりの技術というのは唸るものがあります。これだけのことができるのに、なぜこれをいい方に使わないのかなぁ?と、今でも思うばかりです。

さて、そんなテレフォン・アポイントメンターですが、やはり対象相手には異性が効果的のようで、だいたいは女性がしてきていました。ボクは電話だけでしたが、昔ボクがいた会社には相手が女性ということで気分がよくなり、つい話に乗ってしまい実際に行ってしまったことのある人(つまり引っ掛かってしまった人)がいました。その人から話を聞いたことがあります。

その人は会う約束をして、後日待ち合わせの場所に行くと、その電話の女性の他にちがう人がもうひとりいて、この方はですね~と、唐突に紹介されたそうです。そして、ここでは何なんでちょっと落ち着いた場所で話をしましょう、となったそうです。移動すると、そこで最初に挨拶代わりに何か貰えたらしいんですね。しかしそこから話は始まり、言葉巧みに高額商品の購買契約へと誘導がはじまり、そっち方面に向かわされてしまった・・・ということです。その人は断ったらわりとすぐ解放されたそうですが、ここからしつこく迫られて厄介な展開になることが、この勧誘には多かったみたいです。

で、その日も・・・そんなアポイントメント式の勧誘からボクのところに電話がかかってきました。

先ほども説明したように、現在では勧誘側もまず事業所名を名乗らないといけない部分も出てきたわけですが、当時は相手が自分の名前すら名乗らないのがほとんどでした。

なので資格の勧誘もこのアポイントメント式の勧誘も電話口、開口一番放たれる言葉は

「○○さんのお宅ですか?○○さんいらっしゃいますでしょうか?」

という、相手に向かってまっしぐらなものでした。

この頃は、このテの電話が本当に何度もかかってきていたので、こんな受け答えの電話のときは、そっち方面と見抜くことができるようになっていました。

相手が勧誘とわかれば早々お断りしてもいいし「今いないです」と言ってもよかったんですが・・・しかしこの日の電話の向こうが女性ではなく、珍しく男性だったので妙に気になってしまったのです。

しかもこの男性、露口茂(太陽にほえろ!の山さん)そっくりな声と語り口だったのです。


ボクはこの事実に興味を押さえられず・・・

「○○は自分ですが」

と、つい答えてしまいました。

すると山さんは落ち着いた態度で

「○○さんですか。私は山村(仮名)と申しますが・・・」

と、名乗り、最近このあたりに若い人を対象にした云々という、この勧誘でよくある話をしてきました。

「おいくつですか?19歳ですか。ボクよりかなりお若いですが、お声かけてるのは同じくらいの方でしてね。みなさん、たくさんいらっしゃいますよ」

いつもなら、妙なテンションの女性テレフォン・アポイントメンターの声に「ありきたりなこと言いやがって~」と鼻で笑ってしまうところなんですが、推測するに10~15歳くらいは年上の山さん。紳士的で親しみの湧くその声に、思わず「そうなんですか」と、聞き入ってしまいます。

「本当にね、○○さんくらいの方、多いですよ。男性も女性も来ますよ。どうですか?よかったら一度、来ませんか」

胡散臭いのは重々承知。しかし声が、あの"落としの山さん"だと思うと・・・なんかこう、どんどん断りづらくなっていくのです。

(注:太陽にほえろ!は再放送で夕方見てたから知ってるんですからね)

断りづらい・・・これはやばい。わかっているのに流されてしまっている。ボクは今、相手に乗ってきてしまっているんだ。あまりいい状況じゃない。ホント、もうそろそろ断って電話切ろう。と思い始めた頃でした。

「ご趣味なんかは?何かあるんですか?」

と、山さんは聞いてきました。

ボクは物腰柔らかいこの言葉に思わず

「あ、プロレスが・・・」

と、言ってしまったんです。

趣味が共通など、話を合わせて相手と同調、共感し、親近感を持たせる。こうすることで相手との距離を縮め交渉をスムーズにすると共に"断りづらい状況"を作るというこれは、交渉術などでもよく使われる心理的な手法です。

だから相手はこちらの趣味が何であれ、共感と親近感を持たせようと知ってる知識総動員で小さく僅かなことも「あー○○が趣味ですか」と話を合わせてくるのです。おそらく山さんもそれを・・・と、思うが早く、返ってきた言葉は意外なものでした。

「え!?本当ですか!?」

さっきまでの会話とは明らかに声のトーンもしゃべり口調も変わった山さん。そう言うと間髪入れず続けました。

「あれですか?どこの~団体が好きなんですか?」

誰のファンですか?ではなく、どこの団体が好きですか?とは・・・これは話を合わせている感じじゃない。何か団体でプロレスにこだわりがあるんだ。ボクはそう思い、とりあえず

「いろいろ好きですよ」

と濁しました。

もしかしたら本当にプロレス好きな人かもしれない。話してみたい。しかし相手は、あくまで勧誘が目的で電話してきているアポイントメントのプロです。もうこれ以上、油断はできません。プロレスという言葉には後ろ髪を引かれますが、このまま話していたらまちがいなく流される。そう思い、もう断って切ろうとしました。

ですが、このあと山さんから思いもよらぬ言葉が発せられたのです。

「いえね、私は新日本が好きだったんですよ。昔、藤波と長州の試合を観に行きましてね~」

なっ!?藤波と、長州ぅ!?

もはや勧誘ということを完全に忘れプロレスを切り出した山さん。そのあまりの唐突さとテンション、そして勧誘電話の向こうから聞こえてきた"藤波"と"長州"という絶対にあり得ないワードに、ボクはあることを考え込んでしまい、少しの間、言葉を発することを忘れてしまいました。

「もしもし!?○○さん!?」

つい、この間だ・・・

そう、ときは1992年。この年、1月4日に東京ドームで行われた超戦士IN闘強導夢でのIWGPヘビー級とグレーテスト18クラブの両タイトルをかけた藤波vs長州戦をボクは生観戦して、このときはそれからまだ日も経っていないときだったのです。そのため、かつての藤波vs長州戦をビデオで見たり、本で読んだばかりのときでした。つまり82年10月、あの「噛ませ犬」に単を発する名勝負数え歌。そして87年に新日本へ復帰し再び相まみえると、世代抗争を経て、やがてIWGPを軸に飛龍革命へと続いていったふたりの対決の数々が、鮮明に再確認されていた直後だったのです。

「あの~・・・どうしました!?」

ひと通り頭の中が整理でき、我に返ったボクは、そういうことなら!!と、スイッチを入れました。

「それは、いつの藤波vs長州ですか!!」

しばらくの沈黙のあとトーンを変え、いきなり質問したボクに一瞬たじろいだ山さんでしたが

「え?ええ・・・ああ、何回か行きましたが、よく覚えているのは長州がフォール勝ちしたときの蔵前ですかね。あれはよかったですね」

と、答えました。

く、蔵前!?長州がフォール勝ちしたときの蔵前だって!?それは83年4月3日の蔵前じゃないか!!

ボク「長州がリキ・ラリアートでなぎ倒して頭を押さえながらフォールしたやつでしょ!!あれを生で観たんっ、んですかっー!!」

山さん「そうです!!長州がWWFインターヘビー初栄冠しましてね~。まだ浜口が維新軍入りする前でしたよね。試合後、マサ斎藤と抱き合いましてね」


ボク「すごい!!あれを生で・・・いいですね~!!そういえば浜口といえば、この日のメインは猪木とはぐれ国際軍団。ラッシャー木村とのシングルでしたね」


山さん「そうです!!試合後、浜口がマイクアピールしましてね~。でも、あれは浜口、国際軍団最後の頃でしたね。あと小林邦昭とダイナマイト・キッドがNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦やりましたね」


ボク「やりました!!ちなみにこのときのテレビはスペシャルだったんですよね。キッドが試合前にインタビューに出てきたんですよ!!ミカンみたいなの食べながら!!」

山さん「そうでしたね!!インタビューの女の子、ちょっと怖がってましたね!!お詳しいですね!!」

こうしてその後、猪木とタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンとのNWF戦。タイガーマスク、ダイナマイト・キッド、小林邦昭、ブラック・タイガーのジュニアヘビー級大戦争。IWGP、ハルク・ホーガン。新日正規軍vs維新軍と・・・電話は80年代の新日本プロレスを山さんが語りつくすものとなりました。

プロレスの知識はもちろん、新日黄金期を語る山さんの熱の入れ具合。その様は、あのセルジューク朝期ペルシアの学者、詩人であるウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の一説にある『戸惑うわれらをのせてめぐる宇宙は、たとえてみれば幻の走馬燈。日の燈火を中にしてめぐるは空の輪台。われらは、その上を走りすぎる影絵のようだ』の言葉のように、かつての思い出の数々がまさに走馬灯のように甦る、壮大なスペクタクルと化していました。

しかし・・・30分くらい話したでしょうか?ある程度したところで山さんは、急に改まり

「あの、実はですね・・・まあ今回はこうしたお誘いということでですね、お電話したわけだったんですが、こういう電話は(対象相手にかけるのは)1回だけ、なんですね。1回で話す時間もだいたい決まっているんです。ということで、このあたりでね、そろそろ・・・ということになります」

と、言ってきました。

あまりのプロレス話に忘れてしまっていましたが、そうだ。これはそもそも勧誘電話で、山さんはおれを引っ張り出すアポイントメンターだったんだ。その言葉で、それを思い出しました。

しかし、こういう電話は1回とか、話す時間とか、このあたりでそろそろ、とは・・・そう、それは断って電話を切ろうとしても執拗(しつよう)に攻める、それこそ受話器を置く寸前までしゃべり続けるような、これまでの勧誘電話にはあり得なかった

"勧誘する側が電話を終わりにする"

という信じがたいものでした。

短い間ではありましたが打ち解けて話をしたボクと山さん。だから
、こんな普通ではあり得ない幕引きをしようとしているのか・・・

なら、山さんなら教えてくれるのではないか?と咄嗟に思い、あと少し、いいですか?聞きたいことがありまして・・・とボクは言ってみました。

「少しなら大丈夫ですよ。何ですか?」

その言葉に、ボクはためらうことなく質問をぶつけました。それは気になっていた、この勧誘電話のことでした。

「今年に入ってから、自宅、会社と、こういう電話や資格取りませんかって電話がすごく多いんです。急にです。なぜなんでしょうか?」

と・・・

すると山さんは

「一度勧誘に引っ掛かるとリストに載ってしまい、それが業者間で動くので、動くたびかかってくるようになります。勧誘に引っ掛かかる人は断るのが苦手、飲まれやすいんで、また引っ掛かかることありますからターゲットにされるんですよ」

と教えてくれました。

なんということだ・・・一度被害にあったが最後。被害者は"逆・常習犯"にさせられて、ずっと勧誘され続けてしまうのか・・・

しかし引っ掛かったことがない、身に覚えがないボクのところに、なぜこんなにも勧誘電話が?

「何かで情報が漏れたため、あなたの情報がリストアップされてしまっているからです。情報は勧誘に引っ掛かった人のばかりじゃないですからね。学校のアルバムとかね・・・そのへんはどうにでもなっちゃいますからね」

そうか。当時の卒業アルバムは全員の住所が記載されていたから、人数の多い高校のとかなら1冊あればとんでもない情報量になる。そういったものから流れ、いつの間にか悪徳商法の勧誘リストに名を連ねてしまっていたということだったんだろう。なんと恐ろしいことだろう。

でも、ということは今後もかかってくるということなんですか?

「そうですね。ただ・・・こういう勧誘は本人と繋がらなければ何度かかけけるってありますが、本人と繋がれば話すのは1回なんです。断られても、うまくいってもね。なので・・・」

なので?

「とにかく、こういう電話がかかってきたときはハッキリ断って、すぐ電話を切ってください」

な!?なんだって!?

山さんから発せられた「ハッキリ断って、すぐ電話を切って」という勧誘側においてのあるまじき発言に、ボクはキツネに摘ままれながら鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまいました。

しかし山さんは話を続けます。

「万が一、会う約束をしてしまっても絶対に行かないようにしてください。その日は「来ないのか?」的な電話がかかってきますが、絶対出ないことです。大丈夫です。ただ会う約束しただけで、何か契約したわけじゃないですからね。とにかく、関わらないでください」

他にも山さんは、この頃はまだあまり知られてなかったクーリングオフの話や、教材を買ってしまったときのクーリングオフなしでの撃退法なども教えてくれました。

そして最後に念を押すように

「いいですね。ハッキリ断る。そして電話をすぐ切る。ですよ。では・・・楽しかったです。ありがとう」

と言葉を残し、そそくさと電話を切りました。

電話が終わったあと、少しボーッとして・・・そして考えていました。

あのプロレスの知識。そしてプロレスの話をしていたときの純粋さ、うれしそうな声。山さんは、つい何年前かまでは心ときめかせプロレスを見ていた、ボクと同じプロレスファンだったはずだ。それが・・・なぜ悪徳商法に分類されてしまう、こんな仕事をするようになってしまったんだろうか?

悪徳商法は、まさしく"悪"です。人の不幸は蜜の味。他人くたばれ我繁盛。相手の気持ちなんか微塵(みじん)も考えない、いやそもそもそんな設定がない人間。自分がよければそれでいい。自分の欲のことしか頭にない人間の集まりです。

そんな人間が、こういうことを生業とするのは理解はできます。でも、山さんは・・・はたして生粋な"悪"を持った"悪党"だったんだろうか?

あの頃は、相手の電話番号も表示されなければ名前すらよく名乗らない。名乗られたところで調べようもないという、悪徳商法に関する情報が簡単に得られない、あまりに情報がない時代・・・困っても不安になっても、すぐに解決へと向かえない、困難な時代でした。

そんな時代に、タブーなはずの電話勧誘の裏側や「ハッキリ断れ、電話をすぐ切れ」と、つまり「引っ掛かるんじゃないぞ」と教えてくれた山さん。

あの日以来ボクは、ずっと山さんの言ったことを守り続けています。だから勧誘電話がかかってくると、山さんを思い出すんです。

あれから30年・・・こんな仕組みの仕事が何十年も続くはずはありません。だから、あのあと山さんはどうなったのかな?と考えるときがあります。山さん、ちゃんとした仕事に就いて、好きだった80年代の新日本を見れてればいいなぁ・・・そう思い、そう願っています。

Takeover

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どうも!!流星仮面二世です!!

さて、いつもアツき魂を伝えてくれる柴田ファンの駒沢シバティストこと駒シバさん。


その駒シバさんが今回ブログへ書き記した柴田vsオカダへの布石。








素晴らしい。この試合にはボクも特別な思いがあるので、そこに辿り着くまでのこの流れには、胸を打たれました。

あの日のことが思い浮かびます。

『前の試合が予想だにしないタイムで終わり、騒然とした空気が流れた後、間もなくして会場の空気が一変しました。このソワソワ感、これは猪木と天龍がドームでやったときの、あの試合直前に似ています。異様な興奮の、空気です。そんな中、ついにゴングが鳴りました。

“オカダはレインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい”

と柴田は言いました。そしてオカダは逆に柴田に

“俺こそ、昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかな”

と言いました。

ボクは4年ほど前、何十年ぶりに観戦したドームでオカダのドロップキックを見て刺激され・・・そしてその日から息子がプロレスファンになり、現在の新日本を本格的に一緒に観るようになりました。

初めは今のプロレスに戸惑い、なんだかわからないことも多かったですが、いろいろわかってくるとおもしろくなり、家族でテレビ観るのが楽しくなりました。ビッグマッチ前はチェックを入れ、家庭でこの試合は、この選手はね、と話すのがうれしかったです。生観戦も数を増し、やがて家族で観戦にも行きました。その試合はレベルが高く、ドキドキしながら興奮しながら観ては、結果に喜び悲しみ、いろいろな思いを巡らせました。そしてそれを同じファン同士で話し合うことが、またできるようになりました。それは本当にうれしいことでした。

でも・・・本当に、ほんの小さな隙間なんですが、心にそれがありました。うれしく楽しいはずなのに、その隙間は・・・なんなのか?

知ってのとおり、ボクは古いプロレスのファンです。そんなこともあり柴田の試合を見るたび、ああ、プロレスを見た・・・と、何度も胸を熱くしたことがありました。オカダによって門を開いてもらい、柴田によって通されたんです。

しかしながら、やはり親、なんでしょうね。この日は会場で息子が好きなオカダに勝ってほしくて声を張り上げていました。

でも、初めこそそうだったのですが・・・グランドの展開、寝そべってのアリ戦法、足4の字、リバースのインディアン・デスロックから弓矢固め、コブラ、卍・・・倒れた相手に、来い!!という、その手、腕、表情。その動きひとつひとつに自分の体が反応し、いつしかオカダと叫べなくなっていました。

そして過った、出かける前の三世の言葉

「お父さんは柴田のTシャツ、着ていかないの?」

柴田の・・・そうだおれは今、何をしているんだ?

そんな思いの中、柴田のパンチ、それは髪の毛を鷲掴みにし眼光をくれる弓を引く右ストレート、ナックル・アローでした。その攻撃を背中から観るボクの目に飛び込んできたのは「闘魂」の2文字でした。体から青白き炎を出しながら背中に浮き出た闘魂の2文字・・・これだ・・・ボクの心の隙間・・・闘魂だ!!これが、おれが知ってるプロレスだ!!柴田、勝ってくれ!!

しかし、その闘魂を真っ向から受けるはオカダ。闘魂のヤドカリを吹き飛ばすかのような攻防を見せます。だが技を出し、受けきって、また技を出して受ける柴田。もはや意志とは別のものが柴田を動かしているように見えました。何が体を動かしているのか・・・そう、闘う魂なんだ・・・

スリーパー、そして柴田の腕を持ったままのオカダへのキック。周りには目を塞ぐ人もいた。悲鳴も聞こえた。オカダが、負ける・・・

「オカダー!!がんばれー!!」

三世の声・・・なんて試合なんだ・・・

しかしオカダは何かを持っていました。反撃・・・でもレインメーカーが打てず、前のめりに。しかし最後、まさに力を振り絞っての、あれは形こそレインメーカーでしたが、ボクにはレインメーカーには見えませんでした。オカダが腕で、意地でぶん殴ったように見えました。そしてその腕は柴田の首を横からぶん殴ったように、こちらからは見えました。

寒気がしました。首の横、頸動脈を締めれば頭への血流が止り脳への酸素不足で気を失います。落ちるというやつです。しかしそれは絞め技の限りではありません。打撃でも首、頸動脈に入れば血流が一瞬絶たれ気を失います。あの技が柴田に決まったときは、まさにその状態ではなかったかと思います。なんて凄まじい・・・

レインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい。昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかと・・・だが、オカダも柴田もマスクを剥がし合わなかった。生まれ持った真のストロングスタイルとプロレスのメーンカレント(本流)を行くお互いのスタイルが、最大限でぶつかり合った。純粋にプロレスラーふたりが戦った、それがオカダvs柴田でした。

柴田が、負けた・・・半ば呆然・・・そして涙が溢れんばかりでした。

その横で、三世。オカダが勝てば、いつもは大喜びの三世ですが、この日は

よかったぁ~勝てたぁ~」

と、安堵の表情でした。

そう、三世はそれでいい、本当にいい!!本当に心の底からオカダを応援する、その気持ち。それでこそ真のファンだ。

しかし、おれは・・・

家に帰ると嫁さんが

「子供の手前、言えなかったけど、あたしテレビの前で柴田勝って~!!って泣きそうになりながら祈ってたよ」

そうか、そうだよな・・・

マスクを剥がされたのは・・・ボクらだったのかもしれないな。

(プロレス観戦記:桜の花の咲く頃により)』

この気持ちを引き出してくれた駒シバさんには、もう長く楽しませてもらっています。

ボクが駒シバさんの存在を初めて知ったのは2014年1月28日、レガさんが書いた素敵な記念日という記事でした。

そこから駒シバさんのブログに行き文章を読んだときは「なるほどなぁ~」という言葉が、とまりませんでした。

それまでブログというものには、どこか"形"というものがあるものと思っていました。しかしそれはそういうものを感じさせず・・・たとえばそれは、通常を知りながらもちがう表し方で表してみたり、あるいはその物事に到達するまでにとんでもない角度からやってきてみたり。でも伝えたい真はしっかり通っているという奥深さを感じるものでした。

しかし、なんといっても感じられたのは"愛"でした。やはり、ここに尽きると思いました。

そんな駒シバさんとレガさんはブログを奏でる遥か以前から運命が始まっていたといいます。それは誕生間もない地球に火星ほどの大きさの巨大隕石が衝突し砕け、やがて月を形成したジャイアント・インパクト説のように、原始の惑星レガから誕生した月、シバとの物語だったのかもしれません。

ボクはその歴史には到底及ぶことはできませんが・・・ボクが駒シバさんの存在を知った2014年1月は、奇しくもボクにとってもプロレスが動いた日。運命があった日でした。

アントニオ猪木が引退した1998年4月。以降、ボクの中のプロレスは徐々フェイドしていきました。もちろんプロレスは好きなままでしたので、かつての映像や本は見ていましたが、リアルタイムではテレビはちょっと。たまに観戦こそしていましたが"あまりにもプロレスから遠くなってしまったプロレス"に嫌気が差し、やがて追うことをしなくなっていってしまったのです。

そんな状態になり何年も過ぎた頃。幼馴染みの誘いで、当時小学校3年の息子を連れ15年ぶりに1.4の東京ドームへ観戦に行きました(謹賀新年!!)

初めはなんだかわからず、観戦に苦戦していました。しかし、先にも書いているように、そこでオカダが門を開け、そしてその門の中にいた柴田がプロレスへと通してくれたのです。

こうしてまたプロレスを追うようになりました。それは本当に楽しく、うれしいものでした。新日本プロレスが続いていたから柴田やオカダを見ることができたんだ。だからボクのような古いファンでも、こういう思いができたんだ。こればかりは棚橋に感謝しなくてはならないなぁ・・・とにかくプロレスがこの世にあってよかった。ファンでよかったなぁと・・・日々、そう思えました。

でもボクの心には隙間がありました。満たされているはずの心にほんのちょっとだけ・・・少しだけ隙間があったんです。楽しいはずなのに、何かが、なかった。足りなかったんです。

思えば家族全員プロレス大好きだった生家。金曜8時は必ず茶の間を囲んでいました。だから母親のお腹にいる頃からテレビからのプロレスが聞こえ、生まれて間もない頃からプロレスが見える空間にいました。物心ついたときには、テメェこの野郎!!と闘志を露にし、流血しながら立ち上がり怒りの鉄拳ナックルパートをし、リバースのインディアン・デスロックに己を鼓舞し、トップロープから鷹が獲物を捕るようなニードロップをし、そして、ダァー!!と歓喜するあの姿に心を踊らせていました。それは何年も過ごして、自身の身体に刻み込まれたものでした。

足りないもの・・・それは"闘魂"でした。

いくら投げられても立ち上がる。打たれたら打ってこいと顔を出す。効いているはずなのに、効いてないように相手に立ちはだかる。そういうことをするレスラーは他にもいました。でも、何かがちがっていました。動きひとつひとつに何かが宿っている。肉体とちがう何かがこのレスラー、柴田を動かしているんだ。満たされ、アツくなりました。あの頃に戻ったような気持ちになりました。プロレスに純粋な自分に戻ったような気持ちになれたんです。

こうして3年が経ったとき、ついに柴田とオカダのIWGP戦が実現することになりました。しかし結果は柴田の敗北でした。そしてそれは命に関わる事態となってしまいました。

とっても、やりきれない気持ちでした。当時ボクはTwitterをやっていましたが、駒シバさんは落胆の色が隠せない状態だったように見えました。何かのやり取りで、ボクは「ファンがいれば、いつでも甦りますよ」と入れたことがありました。

しかし駒シバさんはTwitterからもブログからも忽然と姿を消してしまいました。理由はわかりませんでしたが、そのとき、こんなことになるならもっとやり取りしておけばよかった。聞いておけばよかった・・・そう思うことが日を増すごとにボクには沸いてきました。10代、20代、30代。そして40代、50代、60代、70代のファン。層によって、それぞれ思うことがあると思うけど、駒シバさんほどのファンだったなら、あの試合の一番のシーンはどこだったんだろう?と・・・

それは、どんなファンに言われようが、これだけは!!というシーンが自分にあったからでした。それを確かめたかったからでした。

それは"卍固め"でした。

これまでに卍固めを使うレスラーはいました。しかし卍固めを"本当に使えていた"レスラーは正直いませんでした。それは卍固めが形だけでは成り立たない技だったからです。

オカダとの試合前、柴田が煽りVで話した言葉に

「オカダからしたら 俺は時代おくれの存在だから だけど俺は今の新日本プロレスとも勝負しているよ」

というのがありました。

あの試合の柴田には、技、表情ひとつひとつに、その言葉の意味が込められているように感じられました。ハッタリやカッコつけでもなければ、イメージのためなんかじゃない。柴田は今の新日本プロレスとも勝負している。その言葉が本能のまま現れたんだと、そう感じました。

だから・・・あの試合はスリーパーホールドからのペナルティキックではダメだった。卍固めでなければダメだったんです。

「おおっと延髄斬りもう一回!!雀百まで踊り忘れず、三つ子の魂百までも!!長州も本能で返す!!しかし猪木も徹底して攻撃を緩めないっ。傷ついても立ち上がってくその両雄の、戦う男の本能だっ!!さぁーもう一回、卍だー!!(1984年4月19日 蔵前国技館 アントニオ猪木vs長州力)」

「さあパンチ攻撃猪木ーっ!!この辺は猪木ケンカ殺法、インサイドワーク、さあ鬼になった猪木、鬼になった猪木の卍だー!!さぁー卍固めーっ!!猪木の卍固めオクトパスホールドー!!猪木の二十数年間にわたる、その過激なプロレスの原点、卍固めーっ!!(1985年9月19日 東京体育館 アントニオ猪木vs藤波辰巳)」

「さあどうだどうだロープに飛ばしておいてからの卍固めー!!卍固めです!!幾多のレスラーを、エンブレム、勲章ともいうべき卍固めで仕留めていった!!まいったはしていない藤波!!ここが分かれ目だ!!(1988年8月8日 横浜文化体育館 藤波辰巳vsアントニオ猪木)」

だからボクは発せずにはいられませんでした。

「そうですね~!!そして右足をフックしてー!!さぁー卍ー!!乾坤一擲の卍固めだー!!


日本プロレスから新日本創世記、70年代、80年代。大一番、この卍固めで相手を倒すプロレスが、そこにはありました。そんな様々なシーンを、我々は今、柴田によって見るのかリング上!!卍が柴田の体を介して、自らの意思を持ったかのように、オカダに絡みついていきます!!(プロレス名勝負伝~オカダカズチカvs柴田勝頼~パート3より)」

小さな頃から本物の卍固めをその目で見てきた柴田でなければならなかった。新日本プロレスの中で育った柴田でなければならなかった。今の新日本で卍固めは、柴田でなければ意味がなかった、卍固めの意味がなかったんだ。確かに猪木には及ばないかもしれない。でも、闘魂を受け継いだのは柴田しかいない。だから卍固めに意味があった。その卍固めには、闘魂があったんです!!

「やっぱりプロには、世界一の柴田勝頼ファン集団にはかなわねえや」

そんなことはないんですよ。今、好きと思えるなら、そのときその人が世界一なんですよ。だから世界一の柴田ファンとして、あの試合の一番のシーンを、今度、聞かせてくれますか?

受け継がれし者の言葉が聞けるその日を、楽しみに待っています。

受話器の向こうで

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どうも!!流星仮面二世です!!

やれやれ、またかかってきたか・・・まったくこのテのは後を絶たないんだなぁ~。

ああ、失礼。え、何の話かって?いやぁ~あれですよ。電話勧誘販売とよばれるアレです。ほら、みなさんとこにもよく電話でかかってくるでしょ?

「こちら○○○○○○の代理店なんですが」

なんていうね、アレですよ。

"大手の会社の代理店"という言葉を聞いて、なんとなく納得してしまったり、あるいは逆に半信半疑になってしまっていたり・・・そんな、まだ電話の向こうの相手に対し、こちらの判断がよくできていない状態のときに、電話代やインターネット接続料などが安くなるという話をこれでもかと展開。それこそ相槌程度しか打たせず話を進めていっては、契約に結びつけてしまうというものです。

実は近年、この電話での会話中に契約の意思がない状態だったにもかかわらず、気がつくと契約していく話になっていたり、あるいは契約されたことになっていることが数多く発生。トラブルが多発化したため、事業者は氏名や名称、商品の種類、詳細を明示する、執拗に勧誘することの禁止、契約内容やクーリングオフの説明がある書面の交付などの項が特定商取引法において改正され、これらが義務付けられたほど、なんだそうです。

しかし、いやぁ~それにしても・・・今回はドコモコンサルティングセンターというところからかかってきたんですが、驚いたことに自宅ではなく直接スマホにかかってきましてね。これはちょっと驚きました。やはり知らない番号は出ないのがいいのかもしれないなぁ。

しかし、どうしても出なくてはならない電話もありましてね・・・そう、会社で持たされてる電話なんですが、これに知らない番号から判断に困るときありますね。

会社の電話はだいたい話す相手は決まってるものなんですけど、初めての相手とか急な問い合わせの場合には当然番号が登録されてない人からもかかってくるので、知らない番号にも出るしかありません。で、そうやってると忘れた頃にかかってくるのが「投資しませんか?」なんていう「不動産販売業者の勧誘」というやつなんですよ。

この勧誘は自宅とちがい勤務先をメインに電話をしてくるのがそもそもの手法らしいんですが、これがリアル。それこそ勤務時間の真っ只中に堂々、電話がかかってきては一方的に話をし出すんです。その頻度は、この10年間で平均したなら年に1、2回くらいのになるでしょうか。内容は投資用マンション、アパートなどの物件を進めるもので、これがなかなか厄介。話が長く、とにかく電話を切らせないようにする性質が見られます。それこそ感情たっぷりに

「お願いします!!もう少しお話を!!」

なんて、お涙頂戴。お情けで迫るヤツもいれば

「勤務中お電話無理でしたら、お仕事何時に終わりますか?あなたの会社の門のところで待ってますので!!なんとか!!」

なんていう鬼気迫るヤツもいました。こういう会社だから、おそらくノルマ達成を強いられていて、会社から散々な目に合わされるんでしょうね。そう思うと、なんだか気の毒な気もします。

と、まあ昨今はこんな勧誘電話が多くなりましたけど・・・内容こそちがえど、昔からこういうのは存在していましたよね。

実はボクには、勧誘電話がかかってくるたびに思い出す出来事があります。

それはまだウチが黒電話だった頃・・・


今からざっと30年前。高校を卒業し、社会人となり1年が過ぎた平成4年。スマホどころか、まだ携帯電話もネットもなかった19歳の頃です。

この頃になるとボクのところにいろんなところから、それはそれは勧誘電話がかかってくるようになりました。

まず多かったのが、資格を取るための教材販売で"資格商法業者"からの勧誘というものでした。

売り込まれる資格は、なぜか行政書士(※「行政書士法」に基づく国家資格で、行政に関する書類、法律的な権利義務、事実証明に関する書類の作成や手続を行ったり、その手続に関する相談を行ったりすることができるもの。合格率は10パーセント台とかなりの難易度を誇る。その他、興味がある方は調べてみてね)のがほとんで、実にいろいろな事業所から(と言っても架空の会社でしょうけど)それこそ自宅、職場を問わないほど頻繁にかかってきていました。

酸いも甘いもわからないこの年齢の頃は、勧誘電話なんて存在をまだよく知りませんでしたから・・・電話口ではどう対応していいかわからず、真剣に話を聞いてしまったりすることも多くありました。なので、その様子を見ていた当時いた会社の係長からは

「今日もか?一体なんの電話だ?サラ金か?借金あるなら相談乗るぞ」

なんて、変な誤解を招いてしまうこともありました。

で、その頃というのは、この資格の勧誘の電話とはちがうものもよくかかってきていました。それは会社にはなく、自宅のみにかかってくるもので・・・あなたが選ばれましたとか、当たりましたとか言って会う約束を取りつけ、そこから商品などを購入させるという、いわゆる「アポイントメント商法」というやつでした。

しかしボクのところに当時かかってきた電話の内容は、こうした当選やプレゼントものではなく

「若い人を対象にお声をかけているんですが、あなたも対象になりますので来ませんか?」

というニュアンスのものがほとんどでした。

若い人を対象にお声をかけている。だからあなたも対象。なんという安易さだろう。いくら若くて世の中のことよくわかってないにしても、知らない人が唐突にこんな電話してきたら不審に思うに決まっているじゃないか。そんなことで相手が動くと思ってるんだろうか?

ところが、当時はこういった勧誘にも引っ掛かってしまう人がいました。それはまさしくレトリック。相手側の電話口での言葉巧みな対応にありました。

相手は明るい雰囲気を全面に出しながら、好感を持たせつつ話を進めていきます。しかし一見、会話しているように感じますが、実はこちらには話をさせないしゃべり方で主導権を握り進行していき、やがて会う約束へと取りつけていってしまうのです。

勧誘は世の中では我々の"敵"となるものですが、敵ながら、この相手をコントロールするしゃべりの技術というのは唸るものがあります。これだけのことができるのに、なぜこれをいい方に使わないのかなぁ?と、今でも思うばかりです。

さて、そんなテレフォン・アポイントメンターですが、やはり対象相手には異性が効果的のようで、だいたいは女性がしてきていました。ボクは電話だけでしたが、昔ボクがいた会社には相手が女性ということで気分がよくなり、つい話に乗ってしまい実際に行ってしまったことのある人(つまり引っ掛かってしまった人)がいました。その人から話を聞いたことがあります。

その人は会う約束をして、後日待ち合わせの場所に行くと、その電話の女性の他にちがう人がもうひとりいて、この方はですね~と、唐突に紹介されたそうです。そして、ここでは何なんでちょっと落ち着いた場所で話をしましょう、となったそうです。移動すると、そこで最初に挨拶代わりに何か貰えたらしいんですね。しかしそこから話は始まり、言葉巧みに高額商品の購買契約へと誘導がはじまり、そっち方面に向かわされてしまった・・・ということです。その人は断ったらわりとすぐ解放されたそうですが、ここからしつこく迫られて厄介な展開になることが、この勧誘には多かったみたいです。

で、その日も・・・そんなアポイントメント式の勧誘からボクのところに電話がかかってきました。

先ほども説明したように、現在では勧誘側もまず事業所名を名乗らないといけない部分も出てきたわけですが、当時は相手が自分の名前すら名乗らないのがほとんどでした。

なので資格の勧誘もこのアポイントメント式の勧誘も電話口、開口一番放たれる言葉は

「○○さんのお宅ですか?○○さんいらっしゃいますでしょうか?」

という、相手に向かってまっしぐらなものでした。

この頃は、このテの電話が本当に何度もかかってきていたので、こんな受け答えの電話のときは、そっち方面と見抜くことができるようになっていました。

相手が勧誘とわかれば早々お断りしてもいいし「今いないです」と言ってもよかったんですが・・・しかしこの日の電話の向こうが女性ではなく、珍しく男性だったので妙に気になってしまったのです。

しかもこの男性、露口茂(太陽にほえろ!の山さん)そっくりな声と語り口だったのです。


ボクはこの事実に興味を押さえられず・・・

「○○は自分ですが」

と、つい答えてしまいました。

すると山さんは落ち着いた態度で

「○○さんですか。私は山村(仮名)と申しますが・・・」

と、名乗り、最近このあたりに若い人を対象にした云々という、この勧誘でよくある話をしてきました。

「おいくつですか?19歳ですか。ボクよりかなりお若いですが、お声かけてるのは同じくらいの方でしてね。みなさん、たくさんいらっしゃいますよ」

いつもなら、妙なテンションの女性テレフォン・アポイントメンターの声に「ありきたりなこと言いやがって~」と鼻で笑ってしまうところなんですが、推測するに10~15歳くらいは年上の山さん。紳士的で親しみの湧くその声に、思わず「そうなんですか」と、聞き入ってしまいます。

「本当にね、○○さんくらいの方、多いですよ。男性も女性も来ますよ。どうですか?よかったら一度、来ませんか」

胡散臭いのは重々承知。しかし声が、あの"落としの山さん"だと思うと・・・なんかこう、どんどん断りづらくなっていくのです。

(注:太陽にほえろ!は再放送で夕方見てたから知ってるんですからね)

断りづらい・・・これはやばい。わかっているのに流されてしまっている。ボクは今、相手に乗ってきてしまっているんだ。あまりいい状況じゃない。ホント、もうそろそろ断って電話切ろう。と思い始めた頃でした。

「ご趣味なんかは?何かあるんですか?」

と、山さんは聞いてきました。

ボクは物腰柔らかいこの言葉に思わず

「あ、プロレスが・・・」

と、言ってしまったんです。

趣味が共通など、話を合わせて相手と同調、共感し、親近感を持たせる。こうすることで相手との距離を縮め交渉をスムーズにすると共に"断りづらい状況"を作るというこれは、交渉術などでもよく使われる心理的な手法です。

だから相手はこちらの趣味が何であれ、共感と親近感を持たせようと知ってる知識総動員で小さく僅かなことも「あー○○が趣味ですか」と話を合わせてくるのです。おそらく山さんもそれを・・・と、思うが早く、返ってきた言葉は意外なものでした。

「え!?本当ですか!?」

さっきまでの会話とは明らかに声のトーンもしゃべり口調も変わった山さん。そう言うと間髪入れず続けました。

「あれですか?どこの~団体が好きなんですか?」

誰のファンですか?ではなく、どこの団体が好きですか?とは・・・これは話を合わせている感じじゃない。何か団体でプロレスにこだわりがあるんだ。ボクはそう思い、とりあえず

「いろいろ好きですよ」

と濁しました。

もしかしたら本当にプロレス好きな人かもしれない。話してみたい。しかし相手は、あくまで勧誘が目的で電話してきているアポイントメントのプロです。もうこれ以上、油断はできません。プロレスという言葉には後ろ髪を引かれますが、このまま話していたらまちがいなく流される。そう思い、もう断って切ろうとしました。

ですが、このあと山さんから思いもよらぬ言葉が発せられたのです。

「いえね、私は新日本が好きだったんですよ。昔、藤波と長州の試合を観に行きましてね~」

なっ!?藤波と、長州ぅ!?

もはや勧誘ということを完全に忘れプロレスを切り出した山さん。そのあまりの唐突さとテンション、そして勧誘電話の向こうから聞こえてきた"藤波"と"長州"という絶対にあり得ないワードに、ボクはあることを考え込んでしまい、少しの間、言葉を発することを忘れてしまいました。

「もしもし!?○○さん!?」

つい、この間だ・・・

そう、ときは1992年。この年、1月4日に東京ドームで行われた超戦士IN闘強導夢でのIWGPヘビー級とグレーテスト18クラブの両タイトルをかけた藤波vs長州戦をボクは生観戦して、このときはそれからまだ日も経っていないときだったのです。そのため、かつての藤波vs長州戦をビデオで見たり、本で読んだばかりのときでした。つまり82年10月、あの「噛ませ犬」に単を発する名勝負数え歌。そして87年に新日本へ復帰し再び相まみえると、世代抗争を経て、やがてIWGPを軸に飛龍革命へと続いていったふたりの対決の数々が、鮮明に再確認されていた直後だったのです。

「あの~・・・どうしました!?」

ひと通り頭の中が整理でき、我に返ったボクは、そういうことなら!!と、スイッチを入れました。

「それは、いつの藤波vs長州ですか!!」

しばらくの沈黙のあとトーンを変え、いきなり質問したボクに一瞬たじろいだ山さんでしたが

「え?ええ・・・ああ、何回か行きましたが、よく覚えているのは長州がフォール勝ちしたときの蔵前ですかね。あれはよかったですね」

と、答えました。

く、蔵前!?長州がフォール勝ちしたときの蔵前だって!?それは83年4月3日の蔵前じゃないか!!

ボク「長州がリキ・ラリアートでなぎ倒して頭を押さえながらフォールしたやつでしょ!!あれを生で観たんっ、んですかっー!!」

山さん「そうです!!長州がWWFインターヘビー初栄冠しましてね~。まだ浜口が維新軍入りする前でしたよね。試合後、マサ斎藤と抱き合いましてね」


ボク「すごい!!あれを生で・・・いいですね~!!そういえば浜口といえば、この日のメインは猪木とはぐれ国際軍団。ラッシャー木村とのシングルでしたね」


山さん「そうです!!試合後、浜口がマイクアピールしましてね~。でも、あれは浜口、国際軍団最後の頃でしたね。あと小林邦昭とダイナマイト・キッドがNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦やりましたね」


ボク「やりました!!ちなみにこのときのテレビはスペシャルだったんですよね。キッドが試合前にインタビューに出てきたんですよ!!ミカンみたいなの食べながら!!」

山さん「そうでしたね!!インタビューの女の子、ちょっと怖がってましたね!!お詳しいですね!!」

こうしてその後、猪木とタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンとのNWF戦。タイガーマスク、ダイナマイト・キッド、小林邦昭、ブラック・タイガーのジュニアヘビー級大戦争。IWGP、ハルク・ホーガン。新日正規軍vs維新軍と・・・電話は80年代の新日本プロレスを山さんが語りつくすものとなりました。

プロレスの知識はもちろん、新日黄金期を語る山さんの熱の入れ具合。その様は、あのセルジューク朝期ペルシアの学者、詩人であるウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の一説にある『戸惑うわれらをのせてめぐる宇宙は、たとえてみれば幻の走馬燈。日の燈火を中にしてめぐるは空の輪台。われらは、その上を走りすぎる影絵のようだ』の言葉のように、かつての思い出の数々がまさに走馬灯のように甦る、壮大なスペクタクルと化していました。

しかし・・・30分くらい話したでしょうか?ある程度したところで山さんは、急に改まり

「あの、実はですね・・・まあ今回はこうしたお誘いということでですね、お電話したわけだったんですが、こういう電話は(対象相手にかけるのは)1回だけ、なんですね。1回で話す時間もだいたい決まっているんです。ということで、このあたりでね、そろそろ・・・ということになります」

と、言ってきました。

あまりのプロレス話に忘れてしまっていましたが、そうだ。これはそもそも勧誘電話で、山さんはおれを引っ張り出すアポイントメンターだったんだ。その言葉で、それを思い出しました。

しかし、こういう電話は1回とか、話す時間とか、このあたりでそろそろ、とは・・・そう、それは断って電話を切ろうとしても執拗(しつよう)に攻める、それこそ受話器を置く寸前までしゃべり続けるような、これまでの勧誘電話にはあり得なかった

"勧誘する側が電話を終わりにする"

という信じがたいものでした。

短い間ではありましたが打ち解けて話をしたボクと山さん。だから
、こんな普通ではあり得ない幕引きをしようとしているのか・・・

なら、山さんなら教えてくれるのではないか?と咄嗟に思い、あと少し、いいですか?聞きたいことがありまして・・・とボクは言ってみました。

「少しなら大丈夫ですよ。何ですか?」

その言葉に、ボクはためらうことなく質問をぶつけました。それは気になっていた、この勧誘電話のことでした。

「今年に入ってから、自宅、会社と、こういう電話や資格取りませんかって電話がすごく多いんです。急にです。なぜなんでしょうか?」

と・・・

すると山さんは

「一度勧誘に引っ掛かるとリストに載ってしまい、それが業者間で動くので、動くたびかかってくるようになります。勧誘に引っ掛かかる人は断るのが苦手、飲まれやすいんで、また引っ掛かかることありますからターゲットにされるんですよ」

と教えてくれました。

なんということだ・・・一度被害にあったが最後。被害者は"逆・常習犯"にさせられて、ずっと勧誘され続けてしまうのか・・・

しかし引っ掛かったことがない、身に覚えがないボクのところに、なぜこんなにも勧誘電話が?

「何かで情報が漏れたため、あなたの情報がリストアップされてしまっているからです。情報は勧誘に引っ掛かった人のばかりじゃないですからね。学校のアルバムとかね・・・そのへんはどうにでもなっちゃいますからね」

そうか。当時の卒業アルバムは全員の住所が記載されていたから、人数の多い高校のとかなら1冊あればとんでもない情報量になる。そういったものから流れ、いつの間にか悪徳商法の勧誘リストに名を連ねてしまっていたということだったんだろう。なんと恐ろしいことだろう。

でも、ということは今後もかかってくるということなんですか?

「そうですね。ただ・・・こういう勧誘は本人と繋がらなければ何度かかけけるってありますが、本人と繋がれば話すのは1回なんです。断られても、うまくいってもね。なので・・・」

なので?

「とにかく、こういう電話がかかってきたときはハッキリ断って、すぐ電話を切ってください」

な!?なんだって!?

山さんから発せられた「ハッキリ断って、すぐ電話を切って」という勧誘側においてのあるまじき発言に、ボクはキツネに摘ままれながら鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまいました。

しかし山さんは話を続けます。

「万が一、会う約束をしてしまっても絶対に行かないようにしてください。その日は「来ないのか?」的な電話がかかってきますが、絶対出ないことです。大丈夫です。ただ会う約束しただけで、何か契約したわけじゃないですからね。とにかく、関わらないでください」

他にも山さんは、この頃はまだあまり知られてなかったクーリングオフの話や、教材を買ってしまったときのクーリングオフなしでの撃退法なども教えてくれました。

そして最後に念を押すように

「いいですね。ハッキリ断る。そして電話をすぐ切る。ですよ。では・・・楽しかったです。ありがとう」

と言葉を残し、そそくさと電話を切りました。

電話が終わったあと、少しボーッとして・・・そして考えていました。

あのプロレスの知識。そしてプロレスの話をしていたときの純粋さ、うれしそうな声。山さんは、つい何年前かまでは心ときめかせプロレスを見ていた、ボクと同じプロレスファンだったはずだ。それが・・・なぜ悪徳商法に分類されてしまう、こんな仕事をするようになってしまったんだろうか?

悪徳商法は、まさしく"悪"です。人の不幸は蜜の味。他人くたばれ我繁盛。相手の気持ちなんか微塵(みじん)も考えない、いやそもそもそんな設定がない人間。自分がよければそれでいい。自分の欲のことしか頭にない人間の集まりです。

そんな人間が、こういうことを生業とするのは理解はできます。でも、山さんは・・・はたして生粋な"悪"を持った"悪党"だったんだろうか?

あの頃は、相手の電話番号も表示されなければ名前すらよく名乗らない。名乗られたところで調べようもないという、悪徳商法に関する情報が簡単に得られない、あまりに情報がない時代・・・困っても不安になっても、すぐに解決へと向かえない、困難な時代でした。

そんな時代に、タブーなはずの電話勧誘の裏側や「ハッキリ断れ、電話をすぐ切れ」と、つまり「引っ掛かるんじゃないぞ」と教えてくれた山さん。

あの日以来ボクは、ずっと山さんの言ったことを守り続けています。だから勧誘電話がかかってくると、山さんを思い出すんです。

あれから30年・・・こんな仕組みの仕事が何十年も続くはずはありません。だから、あのあと山さんはどうなったのかな?と考えるときがあります。山さん、ちゃんとした仕事に就いて、好きだった80年代の新日本を見れてればいいなぁ・・・そう思い、そう願っています。

涙の暴走戦士~アニマル・ウォリアー追悼~

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どうも。流星仮面二世です。
 
さて、先月になりますが9月22日、ザ・ロードウォリアーズのアニマル・ウォリアーが亡くなりました。人間、生きていれば仕方がないことですが、60歳とは・・・悲しいです。早いですよ。なんだかなぁ・・・
 
遅くなってしまいましたが、今回はザ・ロードウォリアーズの思い出を振り返ってみたいと思います。
 
ザ・ロードウォリアーズ。ボクにとってそれは、ほろ苦いものでした。あれはウォリアーズ人気も全盛の頃・・・
 
チケットを買ったら必ず会場に行く。それがプロレスファン。

徳光康之先生の「最狂超プロレスファン烈伝3」より
 
84年の初観戦から今日まで、ボクもこれをずっと守ってきました。しかし、過去に一度だけ・・・この禁を破ってしまったことがあります。忘れもしません。あれは新しいクラスにも慣れた中学2年の5月でした。
 
「プロレスが、来る!!」
 
それは1986年6月3日、全日本プロレスのスーパーパワーシリーズでボクの地元の茨城県の土浦スポーツセンターで大会が行われるというものでした。
 
それまでに生涯初のプロレス観戦となった84年のサマーファイトシリーズ、85年のチャレンジスピリット85と土浦スポーツセンターで行われた新日本プロレスの観戦には行けたのですが、この時点で全日本プロレスは一度も生観戦したことがありませんでした。なので、次こそは!!という思いはボクの中で募っていました。
 
そのスーパーパワーシリーズは、まだ長州率いるジャパンプロレス勢の猛攻がすさまじいときにして、参加外国人レスラーはテリーゴディ、タイガー・ジェット・シン、ミル・マスカラス、ハーリー・レイスという豪華な面々でした。
 
しかし、それだけではありませんでした。この、ただでさえすごいメンバーに加え、シリーズ途中の5月30日の札幌大会からザ・ロードウォリアーズが特別参加となっていたのです。このわずか2ヵ月前、アメリカのニューオリンズのスーパードームで開催された世界タッグ五輪で優勝し、名実共にタッグチームのトッブとなっていたウォリアーズ。ここで観戦に行ければ、全盛のウォリアーズを生で体感できるというタイミングだったのです。
 
わずかな小遣いをコツコツと貯めた、なけなしの1万円を手に母親に直訴。プロレスの来る日は平日でしたが、なんとか連れていってもらえることになりました。
 
こうして日に日にワクワク感が増してきた頃。プロレスの日も近づいてきた、あれは4日前のことでした。朝起きると、なんだか顔の皮膚が全体的に厚ぼったくなったというか・・・妙な感覚になっていました。でもその日は、それほど気にならなかったのでそのまま過ごしました。
 
しかし翌日になると前日の厚ぼったさに加え、ちょっと顔が火照る感じが出てきて熱っぽくなりました。そして、同時に鼻とオデコ、そして手の甲に小さなニキビのようなものがひとつ、ふたつと見られるようになりました。
 
「これはニキビか!?」
 
体質だったのか、実はボクは思春期にニキビができるということがほとんどありませんでした。できても、当時大ファンだった島田奈美ちゃんがCMに出演していたクレアラシルをチャンスとばかり、これ見よがしに塗っていたので目立つニキビは出たことがなかったのです。なので、熱は高熱じゃないし、ニキビならクレアラシルで・・・と、そのときもさほど気にしませんでした。
 
しかし、さらに翌日。その日は明らかに体調が変でした。顔がとにかく厚ぼったくて、熱い。熱もまちがいなくありました。でも休むほどの高熱じゃないと、とりあえず様子を見ながら学校に行きました。
 
学校へ行っても相変わらず顔は変な感覚でしたが、通常の授業は座っているだけなのでとりあえず大丈夫でした。でも体育の授業はできそうになかったので見学を申し出ました。
 
実はこの症状が出る前日に、部活中に足の親指の爪を剥がしてしまっていたので、それを知っていた体育の先生は顔を会わすなり
 
「ああ、足だったな」
 
と言ってくれました。そこで
 
「足もなんですが、実は・・・」
 
と、この熱っぽさとニキビのことを先生に話してみました。先生はそこで異常を察したのか
 
「これは・・・ちょっと保健の先生に診てもらおうか」
 
と言い、こうして一緒に保健室へ行くことになりました。すると保健の先生から発せられたのは意外な言葉でした。
 
「これは水疱瘡(みずぼうそう)かもしれないね」
 
み、水疱瘡!?
 
「小さい頃に水疱瘡やらなかったかな?」
 
小さい頃に!?そういや・・・確か小学1年のとき流行ってて、ひとりなったら次々となりだして、かなり大勢が休んでた時期があったっけ。でも、そんな中にいても、おれはなぜか水疱瘡にはならなかったんだ。
 
「それじゃ可能性ありますね。今日はすぐ帰宅して病院に行って診てもらってください」
 
こうして学校を早退し病院に行くと、保健の先生の言うとおり、ボクは水疱瘡と診断されました。
 
寝耳に水もいいところでした。今、中学校では誰ひとり水疱瘡になってない。まったく流行っていないのに・・・なんだっておれがこの歳のこのタイミングで水疱瘡なんかに・・・!?と、思うが早く、ハッ!!と気づきました。
 
プロレスは!?どうすればいいんだ・・・!?
 
学校はこの日から出席停止。家から一歩も出ないようにという状態はもちろんでしたが、このときには体温も高熱になり水痘の数も学校で保健の先生に診てもらったときの比ではなくなっていました。正直、自身でも動けない状態でした。
 
しかしどうしてもロードウォリアーズが見たかったボクは、ちょっとだけでも!!と母親にお願いします。そうだ、こんなことで休んでたまるか!!なにが水疱瘡だ。暴走戦士だけに水疱瘡だなんて上等じゃねーか!!母ちゃん、おれは行くぜー!!
 
「いげるはずあんめぇ!!」
 
だよなぁ・・・
 
当日。ボクは布団に入り天井を眺めながら当日の時間経過を想像していました。
 
3時かぁ。もう入り口前に行って会場入り見てるよなぁ。5時半だ。中に入って席に座り、リング見てる頃だな~。6時半、試合が始まったな。マスカラスがコールと共にオーバーマスク投げるとこ見たかったな。レイスの生シェッシェッシェッ、聞きたかったな~。そしてザ・ロードウォリアーズ。アイアンマンに乗って、あの土浦スポーツセンターの独特の螺旋階段を降りてきて、短い花道をリングに向かって突っ走って入場してくるウォリアーズ、見たかったなぁ・・・
 
枕元に置いてあった財布から入場券を取り出すと、スーパーパワーシリーズの文字はみるみるうちにぼやけて見えなくなりました。拭っても拭っても・・・それが見えるようになることはありませんでした。

それから9年後。それは95年の新日本プロレス1.4東京ドーム「闘強導夢BATTLE7」でのホーク・ウォリアーとスコット・ノートンの試合でした。ホークが登場すると、Tシャツ、ジーンズ姿のアニマルが現れ一緒に入場してたのです。アニマルはセコンドでしたが、この日、ボクはついにふたりそろったロードウォリアーズを見ることができたのです。

ホークとアニマル。やはり、これだ

アニマルはセコンドながら、試合ではノートンとやり合い、元気なところを見せてくれました。それは本当にうれしいことでした。
 
でも・・・やはり、ふたりが戦っている姿が見てみたい。しかし今の状況だと難しいよなぁ。やはりもう、叶わぬ夢なのかな・・・そう思っていました。
 
ところが明けた96年。 4月29日 の東京ドーム「96BATTLE FORMATION」で、ついに夢が叶う日が来ました。
 
その日は、ヘルレイザースにアニマルが加わり、トリプル・ウォリアーズとして試合が組まれたのです。今回はアニマルはセコンドではありません。レスラーとして戦うのです。ついにザ・ロードウォリアーズの動いている姿を見ることができるのです。それは天にも昇る気分でした。
 
やってきた試合前。対戦相手のスタイナーブラザースとスコット・ノートンが先にリングインすると、ケロちゃんの口上が場内に響きました。
 
「この東京ドームに、あの曲が復活!!パワー・ウォリアー、アニマル・ウォリアー、ホーク・ウォリアー入場!!」
 
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ・・・というイントロ。それはまるで自身の心臓の鼓動と同調するかのように、ひとつ鳴るごとにあの勇姿をフラッシュバックさせ、気持ちを高ぶらせていきました。やがて前奏に入ると、80年代の会場の興奮がそのまま甦ったかのように、ドーム内が「ウォー!!」と沸き上がりました。

アイアンマンで、ふたりが入場してくる!!

パワーを中央、先頭に、並んで悠々とドームの花道を歩くふたり・・・これがあの日、涙で見えなかったザ・ロードウォリアーズか!!

長い間、思い焦がれたシーンでした
 
至福でした。全盛期ではなかったけど、アニマルとホークが同じリングで戦ってる姿を見れたことが本当にうれしかった日でした。
 
この年の10月、ボクは結婚したのですが、その結婚式のとき引出物に一緒に入れる新郎新婦のプロフィールの写真は、嫁と記念に撮ったこの日の観戦のときものでした。今月、結婚して24年が経ちました。つまり、あの日から24年が過ぎたということになります。
 
あれから月日が過ぎて、ふたりとも天に召されました。夫婦で、あの日の観戦のことを語りながら、今はきっと天国でタッグ結成しているんだろうな、と・・・在りし日のザ・ロードウォリアーズを思い返した次第です。いつまでも忘れません。夢をありがとう。
 
~ザ・ロードウォリアーズ アニマルの足跡~
 
1982年11月
オレイアンダーソンによりNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)でデビュー。デビュー戦の日時、対戦相手は不明。リングネームはザ・ロード・ウォリアーだった。

デビュー当時のアニマル。なんとコスチュームはデニムだった
 
1983年6月
ポールエラリングをマネージャーにホークと共にザ・ロードウォリアーズとしてNWAナショナル・タッグ王座を引っ提げGCWに現れる。

アメリカン暴走族スタイルで登場すると、あっという間に注目されるようになった

まだペイントがない暴走族スタイルの時代の試合風景。当時、日本へはアニマル、ホークではなく1号、2号と紹介されたこともあった

ジョージア時代はスタン・ハンセンとも激戦を展開していた。ウォリアーズの得意技であるラリアートは、この時代のハンセンとの戦いで身に付いたものかもしれない
 
8月
暴走族スタイルから暴走戦士ザ・ロードウォリアーズにイメージチェンジ。画像NWAナショナル・タッグのベルトを巻く初期のウォリアーズ。まだペイントがシンプルなのが印象的だが、このイメージチェンジにより注目度はさらに上がっていった
 
12月
プロレスリング・イラストレーテッド誌(1979年創刊のアメリカのプロレス月刊誌で現在も存在している)で年間最高タッグチーム賞を受賞。
 
1984年5月6日
ジョージア州アトランタでキングコング・バンディ、マスクド・スーパースターにNWAナショナルタッグ王座を奪われるが、20日に返上されたため王座決定トーナメントが行われる。ここでジャンクヤード・ドッグ、スイート・ブラウン・シュガーを破り王座奪取となる。
 
6月15日
オハイオ州コロンバスでロニーガービン、ジェリーオーツに破れNWAナショナル・タッグ王座から転落。
 
8月25日
ネバダ州ラスベガスのショーボート・パビリオンでクラッシャー・リソワスキー、バロン・フォン・ラシクからAWA世界タッグ王座を奪取。
 
10月
プロレスリング・イラストレーテッド誌で年間最高タッグチーム賞を受賞。2年連続の受賞となる。

独特の髪型は、お互いに切ってやっていたという。ペイントのうまさといい、実はウォリアーズは器用だった!?
 
12月29日
テレビ東京「世界のプロレススペシャル」でスティーブ・カーン、スタン・レーンのザ・ファ ビュラス・ワンズとの試合と"10組20人10万ドルタッグバトルロイヤル"の試合にてザ・ロードウォリアーズが登場する。これが日本の地上波でウォリアーズの動いている姿が映し出された初めての日と思われる。以降85年は世界のプロレスにほぼ毎回登場し話題となっていった。

世界のプロレスにプロレス・スターウォーズ・・・少年ファンの幻想は無限に広がっていった
 
1985年1月6日
ノースカロライナ州グリーンズボロでダスティ・ローデス、マニー・フェルナンデスの持つNWA世界タッグ王座とウォリアーズの持つAWA世界タッグ王座のダブルタイトル戦が行われる。両者反則でそれぞれが防衛。
 
3月8日
全日本プロレスの「85激闘!エキサイティング・ウォーズ」に特別参加で初来日。千葉県の船橋市運動公園体育館でアニマル浜口、キラー・カーンを相手に来日第1戦を行い、わずか3分39秒で圧勝。ついに日本でそのベールを脱いだ。

AWA世界タッグ王座のベルトを巻くウォリアーズ。ちなみにこの画像は初来日に伴い85年に双葉社から発売された「来日記念 緊急発売!! 暴走戦士 ザ・ロード・ウォリアーズ」の応募者全員プレゼントの生写真でもあった。キミも、もらったかい?
 
3月9日
新設されてから初のプロレス興行となった両国国技館にてジャンボ鶴田、天龍源一郎が保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦。3本勝負で行われたこの試合では1本目にホークが鶴田をフォール。ウォリアーズの圧勝となったが2本目の不本意なフォールでホークが取られ暴走。これにより3本目は放棄し、ファンに不満を残す結果となった。

ファン待望のロードウォリアーズ初来日のビッグマッチにして両国国技館のこけら落としとなった記念の大会だったが残念な結果となってしまった
 
3月14日
愛知県体育館にて長州力、キラー・カーンを相手にAWA世界タッグ王座の防衛戦が行われる。5分35秒、両チームリングアウトとなったが、アニマルが140キロのカーンをリフトアップ。プロレス史上最高の名シーンが生まれることとなった。

「おーすごい!!キラーカーンの140キロを持ち上げたー!!」5日前の両国のウサを晴らすような素晴らしい試合だった
 
7月6日
ノースカロライナ州シャーロットで行われた「NWAアメリカンバッシュ」でイワン・コロフ、クラッシャー・クルフチェフの持つNWA世界タッグ王座に挑戦。ラシアンズの反則により反則勝ちとなるが王座は移動せず。
 
9月2日
フロリダ州タンパのユニバーシティ・オブ・サウス・フロリダ サン・ドームでスタン・ハンセン、ハーリー・レイスとAWA世界タッグ選手権にて激突。壮絶な試合となった。この試合は10月13日に「世界のプロレススペシャル」で放送されたが、通常は海外からの試合映像にあとから実況、解説を入れる形の世界のプロレスが、この試合はテレビ東京スタッフと杉浦滋男アナ、門馬忠雄さんが現地に行き放送席を取り、実況、解説を行った。

試合前からやり合うアニマルとハンセン。とにかく激しい一戦となった
 
9月29日
ミネソタ州セント・ポールでジム・ガービン、スティーブ・リーガルに敗れAWA世界タッグ王座から転落。12分4秒、ガービンがアニマルをフォールしての勝利だったがフリーバーズの乱入があってのフォールということで大荒れとなった。

ちなみにミスターTとは昔からの馴染み。会えばこのとおりだ
 
1986年4月19日
ルイジアナ州ニューオリンズのスーパードームで開催された「世界タッグ五輪」に出場。1回戦シード、2回戦でワフー・マクダニエル、マーク・ヤングブラッドにフォール勝ち。準決勝でデニス・コンドリー、ボビー・イートンのミッドナイト・エキスプレスに反則勝ち。決勝、マグナムTA、ロニー・ガービンと対戦。マグナムをフォールに下し連続3試合となるハードな決戦を制し優勝を果たした。翌日20日はAWAのレッスルロック86に出場。2日連続のビッグマッチとなったが疲労感を見せず、金網デスマッチでマイケル・ヘイズ、ジム・ガービンを破った。

タッグ五輪に優勝し、ついに名実共にタッグ世界一となった
 
5月17日
メリーランド州ボルチモアでダスティ・ローデスと組みイワン・コロフ、ニキタ・コロフ、バロン・フォン・ラシクとNWA世界6人タッグ選手権を行い勝利。王者となる。

試合ではローデスがペイントすることも。トリプル・ウォリアーズの起源は実はローデス!?
 
7月9日
オハイオ州シンシナティのリバーフロント・スタジアムでアニマルがシングルにてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦。11分50秒、フレアーが反則勝ちにより防衛。
 
1987年3月12日
日本武道館にてジャンボ鶴田、天龍源一郎の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦。場外で天龍にツープラトンのパイルドライバーを決め11分17秒、アニマルがリングアウトで勝利し第39代王者となる。

日本の至宝であるインターナショナル・タッグ王座を奪取したウォリアーズ。翌年タイトルはPWF世界タッグ王座と統一され"世界タッグ王座"となるため、事実上ウォリアーズは純粋なインターナショナル・タッグ選手権の最後の王者となった
 
4月10日
メリーランド州ボルチモアで行われた「世界タッグ五輪2」に出場するが準々決勝でミッドナイト・エキスプレスに反則負けし2連覇ならず。
 
7月19日
イリノイ州シカゴでアニマルがリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に2度目の挑戦。しかし、わずか12秒で無効試合となる。
 
1988年4月22日
バージニア州グリーンビルで行われた「世界タッグ五輪3」に出場。2回戦でパワー・オブ・ペインに敗退し王座返り咲きならず。
 
6月10日
日本武道館でウォリアーズの持つインターナショナル・タッグ王座とジャンボ鶴田、谷津嘉章持つPWF世界タッグ王座のダブルタイトル、王座統一戦が行われる。ホークが鶴田からフォール勝ちしウォリアーズの勝利となったが、ホークがレフリーのジョー樋口に暴行したあとサブレフリーの和田京平が入りカウントを入れたため、カウントより先に反則負けの裁定が成り立っていたということになり鶴田、谷津の反則勝ちでウォリアーズがインターナショナル・タッグ王座から転落。またも不満が残る結果となった。

最後のインタータッグ戦では、なんとモンゴリアン・ベアハッグを繰り出したアニマル。それにしても、最後のインタータッグがこんな不本意な結果で終わるとは、なんとも言いがたい気持ちになる
 
7月9日
イリノイ州州シカゴで空位となっていたNWA世界6人タッグの王座決定戦をローデスと組みリック・フレアー、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャードと行い勝利。王者となる。しかしウォリアーズとローデスがのちに仲間割れをしたため12月7日にテネシー州チャタヌーガで天龍源一郎を新パートナーに指名。のち89年2月15日、オハイオ州クリーブランドでの防衛戦を最後に王座は封印された。

NWA6人タッグ王座を巻くウォリアーズとローデス。しかし仲間割れとなり天龍が王者となる。このタイトルもウォリアーズが最後の王者であった
 
10月29日
ルイジアナ州ニューオリンズでミッドナイト・エキスプレスを破りNWA世界タッグ王座に初栄冠。

AWAに次ぎNWA世界タッグ王座をも奪取したウォリアーズ。これで世界三大タイトルのうちふたつを制した

ロードウォリアーズとアニマルの兄弟であるジョニー・エース、ザ・ターミネーター。みんなとても仲がよい
 
1989年2月15日
オハイオ州クリーブランドで行われた「クラッシュ・オブ・チャンピオンズ」でマイケル・ヘイズ、ジャンクヤード・ドッグ、スティングの持つNWA世界6人タッグ王座へ天龍源一郎と組んで挑戦。13分19秒、両者反則となりタイトル奪取ならず。
 
4月2日
ルイジアナ州ニューオリンズでスティーブ・ウィリアムス、マイク・ロトンドに破れNWA世界タッグ王座から転落。
 
12月13日
ジョージア州アトランタで行われた「スターケード89」でワンナイト・キング・オブ・ヒル・タッグリーグで優勝。
 
1990年6月25日
ザ・ロードウォリアーズからリージョン・オブ・ドゥームに改名。オハイオ州デイトンでのWWFのテレビ・テーピングにてWWFに初登場する。
 
7月20日
新日本プロレスに初参戦。シリーズ「レスリング・スクランブル」の大宮スケートセンター大会に初登場し長州力、佐々木健介と対戦。ホークがわずか2分12秒で佐々木健介から勝利。
 
7月22日
北海道の月寒グリーンドームで武藤敬司、蝶野正洋と対戦。ホークが暴走しイス攻撃により反則負けとなる。

ついに新日本に初登場したウォリアーズは武藤、蝶野と夢の対決を展開した
 
1991年3月30日
SWSで行われた「レッスルフェストin東京ドーム」でハルク・ホーガン、天龍源一郎と対戦。ホーガンとウォリアーズの初対決となったこの試合は超ド迫力の肉弾戦となったが、最後はウォリアーズがリングアウトで勝利。

ホーガン、天龍を相手にダブル・ボディリフトを見事に決めたウォリアーズ。真骨頂を存分に発揮した
 
8月26日
マディソン・スクエア・ガーデンで行われた「サマースラム」でナスティ・ボーイズを破りWWF世界タッグ王座を獲得。これによりNWA、AWA、WWFの世界三大タイトルのタッグ全制覇を成し遂げた。

チーム結成して8年。プロレス史上、最初で最後の快挙となった
 
1992年2月7日
テッド・デビアス、IRS(マイク・ロトンド)のマネー・インコーポレーテッドに敗れWWF世界タッグ王座から転落。9月WWFを離脱。アニマルは脊椎を負傷して長期欠場となる。
 
11月
新日本プロレスでホーク・ウォリアーがパワー・ウォリアーとタッグチーム、ヘルレイザーズを結成。IWGPタッグ戦線で活躍。
 
1995年1月4日
東京ドームで行われた「闘強導夢 BATTLE7」のホーク・ウォリアーとスコット・ノートンの試合にセコンドとして登場。
 
1996年1月
アニマルが復帰しWCWにてザ・ロードウォリアーズが復活。スタイナーブラザースと夢の対決も実現。
 
4月29日
東京ドームで行われた「96BATTLE FORMATION」に参戦。ヘルレイザースと合体しトリプル・ウォリアーズを名乗り、6人タッグマッチでスタイナーブラザース、スコット・ノートンと対戦する。
 
1997年2月
WWFに復帰。
 
10月7日
ヘンリー・O・ゴッドウィン、フィニアス・I・ゴッドウィンのザ・ゴッドウィンズを破りWWFタッグ王座を再び獲得。
 
11月24日
ロード・ドッグ、ビリー・ガンのニュー・エイジ・アウトローズに敗れWWFタッグ王座から転落。
 
1998年3月29日
チーム名をLOD2000とし「レッスルマニアXIV」に参戦。タッグチーム・バトルロイヤルで優勝。
 
1999年4月
WWFを離脱。
 
5月2日
全日本プロレスで行われた東京ドーム「ジャイアント馬場追悼興行」に出場。弟のジョニー・エースと組んで小橋健太、秋山準、ハクシーと対戦。小橋と見応えある勝負を展開した。

ウォリアーズと兄弟タッグで久々の全日本プロレス参戦となった
 
10月28日
東京・国立代々木競技場第2体育館で行われたリングス「WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT~King of Kings」にブラッド・コーラーのセコンドとして登場。コーラーはアイアンマンで入場。アニマルはペイント姿だった。
 
2001年1月
WCWに復帰。
 
3月
WCWが崩壊しWWFに吸収合併される。これによりアニマルはセミリタイア状態となり、単発でインディー団体に出場する形となっていく。
 
12月9日
ZERO-ONEの大阪城ホール大会「真撃」に出場し大谷晋二郎、田中将斗と対戦。アニマルが大谷にラリアートを決め15分6秒、レフリーストップで勝利。
 
2002年12月18日
TNAに初登場。
 
2003年3月1日
横浜アリーナで行われたWJプロレス旗揚げ戦「ワールド・ジャパン・プロレス MAGMA01旗挙戦」に参戦。トッド・シェーン、マイク・シェーンのザ・クラッシャーズの持つ IPWハードコアタッグ選手権試合に挑戦。ダブルインパクトを決め11分4秒、フォール勝ち。
 
5月12日
WWEの「RAW」でケイン、ロブ・ヴァン・ダムと対戦。これがアニマル、ホークがそろってのオリジナルのザ・ロード・ウォリアーズとして最後の「RAW」登場となる。
 
7月11日
WJプロレスの新潟県新潟市体育館大会 でトッド・シェーン、マイク・シェーンのザ・クラッシャーズと対戦。ホークがトッドにフライング・ラリアートを決め7分35秒、フォール勝ち。これがザ・ロード・ウォリアーズの日本での最後の試合となった。
 
10月19日
ホーク・ウォリアーが心臓発作のため46歳で死去。
 
2005年7月24日
WWEの「グレート・アメリカン・バッシュ」にハイデンライクと組みLOD2005としてジョーイ・マーキュリー、ジョニー・ナイトロのMNMとWWEタッグ王座をかけ対戦し勝利。ホーク以外のパートナーでの初栄冠となった
 
2007年9月1日
ディファ有明で行われた健介オフィス自主興行「Take The Dream vol.2~新たなる夢~」に参戦し、パワー・ウォーリアーとヘル・ウォリアーズを結成。YASSHI・ウォーリアー、近藤・ウォーリアーと対戦する。ダブルインパクトを決めパワーがYASSHIを6分11秒でフォール。勝利した。
 
2011年4月2日
アニマル、ホーク、ポール・エラリングがWWE殿堂入り。ジョージア州アトランタのフィリップス・アリーナにて表彰式が行われた。インダクターはダスティ・ローデスが務めた。
 
2017年2月23日
DSWの「NWA-DSW 新木場1stRING大会」で行われたNWA世界タッグ選手権試合 ロブ・コンウェイ、マット・リビエラvsロブ・テリー、宮本和志戦でロブ、宮本側のセコンドとして登場。場外でNWA会長のブルース・サープと乱闘。流血に追い込む攻撃をするなど元気な姿を見せた。24日から27日はファンイベントでステーキハウス・リベラをはじめ日本各地を回った。
 
10月10日
新宿FACEで行われた「DSW旗揚げ1周年大会」のメインイベントの宮本和志、牙城、TAJIRIvsブロディ・スティール、カウボーイ・マイク・ヒューズ、ショーン・ヘルナンデス戦でTAJIRI組のセコンドとして登場。この来日では6日から日本に滞在し11日までファンイベントで日本各地を回った。最終日11日はキラーカーンのお店、居酒屋カンちゃんでイベントを行った。
 
2020年9月22日
アニマル・ウォリアーが60歳で死去。

ご冥福を御祈りします。安らかに・・・
 

発掘!!これが猪木の幻のジャーマン・スープレックス・ホールドだ

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どうも!!流星仮面二世です!!
 
さて、今年の8月にですね、
 
 
やりましたが、この中で1983年の9月16日、埼玉県・吉川町体育館で行われたアントニオ猪木vsアニマル浜口の一戦でのジャーマン・スープレックス・ホールドですね。ご紹介しました。
 
で、この日の放送ですが、試合前に襲撃された前田に変わり高田が急遽試合に出場。猪木に張り手で活を入れられるシーンや、セミでテレビ初登場だった藤原がコーナーへ金具攻撃され平気だったシーンなど、いろいろ覚えているんですが、この猪木vs浜口だけはどういうわけか見た記憶がないと、そういうお話をしました。
 
そしたらですね、我々のプロレス仲間であります"優しさの燃料気化爆弾"と言われる亀熊さんが、なんとこの日の放送の映像を持っていますと!!で、送ってくださいました!!
 
これですよ

 

これ

 

すごい!!

 

これ、まずですね、この猪木vs浜口戦なんですが、調べたところ2010年12月にビデオ・パック・ニッポンから発売された「アントニオ猪木デビュー50周年記念DVD-BOX(20枚組)」に唯一収録されているということらしいんですが、今回送っていただいたのはですね、当時の放送回か余すところなく!!そのまま、コマーシャルも入っているというものでですね、かなり貴重なものでした。

 
ということで晴れてこの日の浜口戦での猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドを見ることができたわけですが、これがですね~やっぱり何も思い出せず・・・記憶が甦るどころか、まったく見た記憶がありませんでした。見たのを忘れてしまったんではなく、はっきりと確信すらした次第なんです。

というのもですね、これは見ていたなら絶対に忘れるはずがないもの、なんですよ。覚えているはずなんです。なぜかと言うと、猪木のこんなジャーマン・スープレックス・ホールドは、これまで一度も見たことないからです。

これまで猪木がやったことのない、そしてその後もやっていない形。映像も本でも取り上げられることのなかった、まさに幻のジャーマン・スープレックス・ホールド・・・それは一体どんなジャーマン・スープレックス・ホールドだったのでしょうか!?
 
では、見ていきましょう!!
 

試合は浜口が長州の得意技であるスコーピオン・デスロックを猪木に見舞い主導権を握りますが、ブレーク後に場外からエプロンへ上がった猪木が浜口を張り手で奇襲。ショルダースルーから延髄斬りと繋ぎ、そしてバックを伺うという展開です。

 

延髄斬りを食らい、朦朧と立ち上がる浜口の背後から猪木が忍び寄ります

 

猪木は浜口の左腕を上げ頭を潜らせます

 

これは通常なら猪木得意のバックドロップの体勢ですが・・・

 

ところが、この状態から通常のバックドロップにはあり得ないほど腰を深く沈め・・・

 

そこから後方へ!!

 

反ります!!

 

かなりの高速で弧を描いていき

 

その衝撃で一旦は沈みますが

 

ブリッジで立て直します

 

ということで、この日の猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは、なんとバックドロップの体勢から仕掛けるというもの、だったのです。

 

しかし疑問が残ります。なぜ猪木は、バックドロップの体勢からジャーマン・スープレックス・ホールドをしたのでしょうか?

 

まず、猪木はバックドロップの体勢に入りました。左腕で相手の左腕を上げ脇の下に頭を潜らせる・・・これはいつもの猪木のバックドロップの入り方です。ここから相手を体に乗せ、反り上げて落とすと、あの猪木の素晴らしいバックドロップになるわけですね。

 

なので、猪木は始めはバックドロップをしようとしたと。しかし投げる段階で頭が相手の左腕、脇の下から外れてしまったので途中からジャーマン・スープレックスへ変化させたんではないか?と考えた方もいたと思います。

 

しかしこの日はバックドロップの体勢に入りながらも、画像にもありますように通常のバックドロップにはない腰の沈め方をし、最後まで反る体勢、つまりジャーマン・スープレックス・ホールドの軌道で技に入っているんですね。


ということで、この日の猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドとバックドロップを見比べてみましょう。

 

まずバックからですが、この時点ではバックドロップとまったく同じです

 

しかし投げる体勢に入ると腰の沈め方がちがうのがよくわかります

 

前回も説明したようにジャーマン・スープレックス・ホールドは首を振り背中を反らせブリッジを効かせるので、腹部に相手が乗っていれど顔と胸は相手から離れるタイミングがあります


バックドロップも、もちろん反りは重要ですが、反りきるジャーマン・スープレックス・ホールドとはちがい「反り上げて落とす」のが主要となります。そのため画像のように自分の上半身を相手の上半身から離さないのが極意となります。昔から言われる「ヘソで投げる」とは、まさにここ、なんですね


そしてインパクトです。真後ろにいくのがジャーマン・スープレックス・ホールド、対してバックドロップは自分の体がやや相手の方へ向く、ということがわかると思います

 

と、いう感じでですね、ジャーマン・スープレックス・ホールドとバックドロップはそもそもの技の質、技の軌道にちがいがあるので体の使い方もちがってくると、然り技に入る段階で決まっていないと成り立たないわけなんですね。なので・・・こういう点からボクは、変化したとは思えないんです。これは故意にバックドロップの体勢からジャーマン・スープレックス・ホールドをしたとしか考えられないわけなんですよ。


それにしても、バックドロップにしてジャーマン・スープレックス・ホールドとは・・・どういうことだったのでしょうか?

 

それは、たとえばジョン・トロスに決めたウラカン・ラナ。ルー・テーズにはブロックバスター・ホールドを見せ、エル・ゴリアスにはニューオクトパス・ホールドを、ザ・モンスターマンにはリバース・スラムからのギロチン・ドロップを、レフトフック・デイトンにはヘッドバットを放ちました。スタン・ハンセンには相手の得意技であるウェスタン・ラリアートを0.1秒の差で叩きつけ、アンドレ・ザ・ジャイアントには腕固めでギブアップを奪いました。そしてスピニング・バックブリーカー、アントニオ・ドライバーと・・・そうです。アントニオ猪木の幾多の戦いには、ある一定の期間しか使用しなかった技や、ここ一番だけの新必殺技、生涯ただ一度しか出さない技が存在していました。

 

これは、そういった技のひとつで・・・もしかしたらバックドロップをブリッジで固めホールドするという、猪木が考案した新しい技、だったのではないでしょうか?

 

耐えに耐え、体勢を逆転させてから待ちに待った得意技でフィニッシュが決まるのは、見るものにとって至福の瞬間。プロレスの醍醐味のひとつです。しかし、ときにはいつもとちがう戦いや技を見せ、アッと言わせてはファンの脳裏に焼きつかせたり探究心を持たせたりする、いつまでも人の記憶に残るようなシーンを見せるのもプロレスで、それができてこそ名レスラーだと思います。

 

37年前、ただ一度だけ放たれた猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドは、そんな忘れ去られてしまったプロレスを思い出させてくれた、長い間眠っていて発掘された"宝物"だったんではないかなと・・・思いました。

 

その"宝物"を送ってくれた亀熊さん、本当にありがとうございました。

 


ブログ生活15周年~ご挨拶~

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どうも!!流星仮面二世です!!
 
さて、本日11月27日、団塊Jrのプロレスファン列伝が12周年、そして今年9月を持ちましてボクのブログ生活が15周年となりました。

こんなに長い間ブログ生活が続けてこれたのは、ボクなんかのブログでも読み続けてくれた皆様がいたからこそです。皆様のおかげに他なりません。心から感謝しております。皆様、本当にありがとうございます。

振り返れば15年。いろいろなことがありました。ブログを通してインターネットという世界のことを、いろいろ目にしてきました。自分なんかは・・・本当にわずかな、広い広いインターネットという世界では点にも及ばない存在ですが、それでも、長くネットに関わってきたということで、振り返るといろいろ思うところがあります。

特に感じるのは、このブログが展開されているインターネットという世界の変化です。

ボクがブログを知り、ブログを始めた頃というのは日本のブログ文化の創世記と言っていい時期でした。

パソコンの普及、ネットワークの強化でインターネットが盛んに利用されるようになるとブログの存在が認識され始め、誰でも簡単に始められるという理由も手伝って、あっという間に爆発的な広がりを見せました。百花撩乱、同床異夢。老若男女を問わず一般人から芸能人まで、実にさまざまなブログが世に発生したのです。それは地球に様々な生物が誕生したカンブリア紀のごとく、まさにブログの「カンブリア大爆発」と言っていい時代でした。

しかし多くのブログは、その姿を消しました。我々一般人のものならば、単に流行りで始められたようなブログはもちろん、大人気となり書籍化まで至ったものも、現在では振り返る人すらおらず、その多くに見る影はありません。

芸能人のものでも・・・そう、かつてトラックバック最高3000超えを記録し、ブログ記事をまとめた書籍は20万部を突破しベストセラーにまでなった"ブログの女王"眞鍋かをりの「眞鍋かをりのココだけの話」は2010年10月に終了し、今では読むことすらできず。そして、日に短い文章で何度も更新する新しいスタイルで1日で最高に450万件のアクセスを記録し"新ブログの女王"と呼ばれた中川翔子の「しょこたんブログ」も、現在も存在こそしますが更新は少なく、ときおりスタッフが更新を行っているような状態です。

あれだけの繁栄を見せていたブログ。しかし現在はTwitterにInstagram、そしてYouTubeに押され、その存在は粛としていると言っていいかもしれません。

しかし、繰り返されるのが歴史です。流行、繁栄しているときは感じなかったものも、必ず過去のものになっていく。ブログがそうだったように、TwitterやInstagram、YouTubeにも、もしかしたら・・・そんな日が来るかもしれません。今はみんながやってても、いくら話題の芸能人が始めようとも・・・巡り行く時代のように、移り変わっていくのかもしれません。

そして、そういう変化と共に、世の中もまた変わっていき、変わっていくのかもしれません。良くも悪くも、今まで常識だと思っていたものが常識でなくなっていく。通用していた認識が通用しなくなっていく。今は・・・そんなふうになってきた気がします。

そう思うのは、自分がひと時代しか見つめられない人間だから、なのかもしれません。時代遅れな人間だからなのかもしれません。柔軟じゃないのかもしれません。でも、なら!!それで行こうと・・・世の中が、ネットがどんなに変わろうが、変わることなく、自分の目で見、聞き、調べ・・・流行りに惑わされることなく、これからもずっと書き続けていこうと、これまで以上に思った次第です。

今はいろいろあって頻繁な更新ができなくなってしまっていますが、どうぞ皆様、これからも変わらぬお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


謎の映像を解析する その4 ~発掘編~

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どうも!!流星仮面二世です!!

 

というわけで久々の謎の映像解析シリーズなんですが、今回は謎ではなく、いわば発掘編になります。

 

前記事でですね、ご紹介しました

 

発掘!!これが猪木の幻のジャーマン・スープレックス・ホールドだ

 

なんですが、このいただいだ映像をですね

 

「当時の放送回か余すところなく!!そのまま、コマーシャルも入っているというもの」

 

と、こうご説明したんですが、そのコマーシャルの中にすごいお宝コマーシャルが入っていましたので取り上げさせていただきます。


何かと言いますと、ずばり釣り餌の大手メーカー、マルキューのコマーシャルです。

 

マルキュー株式会社

 

ボクは釣りも趣味で、釣り歴も約36年になります。釣りを始めた頃から、その真は「延べ竿で鯉釣り」ですが、いろいろな釣りを知るのが好きなので当時からテレビの釣り番組は欠かさず見ていました。でも、そういった釣り番組においても、そもそもコマーシャル自体がそれほど作られなかったマルキューのそれは、あまり流れなかったと記憶しています。


そこにきて、当時の釣り番組といえば「ごきげんよう。大平透です」のナレーションで始まる「THEフィッシング」とか、おりも政夫が司会の「とびだせ!釣り仲間」。そして知る人ぞ知る、もはや伝説の「われら釣り天狗」でしたが、これらの釣り番組はテレビ東京が東京12チャンネルの頃。つまりローカル放送だったため、一部地域しか放送されていなかったわけです。


なので全国にマルキューのコマーシャルが流れていたのは釣り番組よりワールドプロレスリングで・・・釣りが趣味の人よりもプロレスファンに馴染みであり、釣りに興味がなくてもプロレスファンの方が見た記憶がしっかりあるという、摩訶不思議な現象が今なお人々の脳裏に焼きついているというわけなんですね。


ということで、釣りが趣味の人はもちろん現在のマルキューの社員も知らないのではないか?と思われるほど貴重と言っていい、そしてプロレスファンにはなつかしのこのコマーシャルを、今回はこちらをブログ上で再現し、語っていこうと思います。

 

では見ていきましょう。初めは提供テロップです。

 

オールドファンにはなつかしい風景ですが

 

この提供の上から2番目の「小口油肥」が小口油肥株式会社、当時のマルキューになります。小口油肥はこの年、84年の12月に社名をマルキュー株式会社に変更するので、このテロップも実は貴重なシーンになります。

 

続きましてコマーシャルです。

 

①「マルキューの猫八・子猫です。毎度ご愛好いただきましてありがとうございます」

 

②「おかげさまを持ちまして、新工場が完成」

 

 

④「常に良い釣り麻を目指して努力しております」

 

⑤「今年から皆様への謝恩事業として養魚池を確保」

 

 

⑦「年間を通じて50トンの自主放流を行います」

 

 

⑨「さらにマルキューの心でもあるクリーン作戦によって釣り場の環境づくりを勧めます。マルキューを、これからもよろしく!!」

 

⑩「がんばりまーす!!」

 

と、いうことなんですが、これ、すごいですね~。

 

まず①ですが江戸家猫八(三代目・江戸家猫八)と江戸家小猫(四代目・江戸家猫八)が出演しています。ボクらの世代でしたら説明無用ですが、ふたりは親子で物真似師(ものまねし)という、鳥や昆虫の鳴き声を真似する名人でしたね。

 

こう小指を咥えてやるウグイスの鳴き真似がなつかしいなぁ~と調べたんですが、残念なことに猫八さんは2001年に80歳で、小猫さんは2016年に66歳でお亡くなりになっていました。しかし虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。名人芸は絶えず・・・三代目・猫八さんの娘さんの江戸家まねき猫、そして小猫さんの長男が二代目・江戸家小猫として現在も活躍しているそうです。いやぁ~うれしいことですね。

 

そしてシーン変わって②ですが、ここでは当時の新工場、③にはマルキューの当時の製造ラインが映っています。これは今は移転してしまい、ない工場なのでマルキューの会社的に貴重映像なんじゃないでしょうかね?


ちなみに製造ラインに登場している練り餌の赤い袋は「鯉三昧」というですね、高級中華風志向なスタイルで出た練り餌でした。ちょうど明星のインスタントラーメンの「中華三昧」が流行っていた頃だったので、ちょっと似ていますよね。ボクも使ったことあります。しかしこの餌、すぐ生産終了になっちゃったみたいで、早々となくなっちゃったんですよね。


と、この鯉三昧は記憶にあるんですが、しかしこの④の画像の白と黒の袋の方の練り餌は・・・これは思い出せないですね~。これ何という名前だったかなぁ?もし知っている方いらっしゃいましたらご教示よろしくお願いいたします。

 

続いて⑤養魚池、⑥⑦は自主放流ですね。⑥にチラッと映ってるトラックは三代目のいすゞエルフじゃないですかね。ヘッドライトの上にウインカーがあったので眉毛エルフなんて呼ばれてた型ですね。これまたなつかしいですね~。

 

そして⑧⑨のクリーン作戦です。これはですね、すいません、実は一番っ、思い出あるんですよ。これ、クリーン作戦の一環で当時マルキューのエサの袋にある九ちゃんマークを20枚集めてマルキューに送ると、マルキューの商品券がもらえるキャンペーンというのをですね、やっていたんですね。で、幼馴染みの流星仮面2号と一緒にですね、競うように集めてましてね~。自分の使ったエサの袋だけでは足りなくて釣り場に捨ててあるマルキューの袋を拾って集めたりしてましたね。当時は気づいてなかったんですが、今に思えばああいう行動が自動的にゴミ拾いになってたんですよね。いい思い出です。

 

そして⑩従業員一同と、いうことなんですね。


さて、ということでコマーシャルを画像で見ていただきましたが、最初にも述べたように、当時はローカルが多かった釣り番組だったので全国にマルキューのコマーシャルが流れていたのは釣り番組よりワールドプロレスリング。釣りが趣味の人よりプロレスファンの方に記憶があるという、そういう不思議な現象があると、お話をしました。


なぜこのようなことが起きたのかというと、釣り餌メーカーの「マルキュー」や釣具メーカーの「がまかつ」が釣り番組ではない番組にスポンサーとしてついていたからに他なりません。


実はこの点が、すごいところでして・・・そもそも「釣り関係のメーカーが釣り番組以外でスポンサーになる」ということがあり得ないと言っていいこと、なんですよ。ボクの知る限りでは、これまでに前例、いやあとにも先にも実例がないことだと思います。なので釣具メーカーがプロレスのスポンサーにつくということは当時のワールドプロレスリングの人気、視聴率がいかにすごかったか?というところが伝わってくる出来事だと思います。


でも実はマルキュー、単に当時のワールドプロレスリングが人気、視聴率があったからスポンサーについていた、というだけではなかったのです。実はマルキューとプロレスには、今だ深い関係があったのです。


マルキューでは、毎年「マルキュー感謝祭」が行われています。これはマルキューの敷地内で開催されるもので、地域住民が無料参加できる、大人から子供まで楽しめるイベントとして行われている夏祭り的なもの、なんですね。釣り餌メーカーならではの金魚釣りコーナーや縁日的な出店、盆踊り、それに各地から踊りのチームを招待しての舞台披露など、とにかく見所がたくさんの感謝祭なんですが・・・そのひとつに、実はプロレスもあったんです。





ボクが釣りを始めた年に放送されていたワールドプロレスリングでのマルキューのコマーシャル。あれから約36年が経ちましたが、いまだにマルキューとプロレスに接点があるなんて・・・本当にうれしく思います。


静かな湖面に釣糸を滴し、浮きに魚とのやり取りを感じる。そんな、プロレスとはまったく関係のない世界に、実はプロレスが息づいている。ボクの趣味である釣りとプロレス。このふたつをずっと続けられてきた裏には、目には見えない、心の繋がりのようなものがこのふたつにあったからなんじゃないかなと・・・ふと、思いました。


つらいときや、悩んだときには励みになり、日々の清涼剤になり、人と人とを繋ぐ架け橋になる。人間だけが持っている素晴らしき"趣味"という世界。これからも大事に、そして楽しんでいきたいと思います。


本年はこれが最後の更新となります。今年も1年、ありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。


本年も!!

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どうも!!流星仮面二世です!!

皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします!!

さて、まずはお知らせなんですが、今年からですね、ブログの文字を大きくすることにしました。

ご存知のとおり自分のブログは文字がびっしりになってしまうので、これまではひと記事1ページで収まるよう文字を一番小さくして書いていたのですが、いやぁ~老眼ですよ。おそらくここ読んでくれている方は同年代か、それより上の方ですね。多いと思うんですが、この老眼、このハルク・老眼がですね~、みなさんにも牙を剥いていることと思うんですよ。ということでですね、文字を大きくすることにしましたので、よろしくお願いいたします。

さあ、そんなわけで今年一発目の当ブログなんですが、本来ならば毎年恒例となっている新日本プロレスの東京ドームの観戦記をやるところなんですが・・・ご存じのように世の中の状況他、昨年の春から高校に上がった息子の三世の部活が忙しく、プロレス観戦どころかテレビでもご無沙汰な環境となってしまい、観戦記はしばらくお休みと、いうことにしてます。

そういうわけで今年は家でみんなで久々のテレビでのプロレス観戦となりました。いやぁ~みんな揃ってプロレス、やっぱりいいですね。家族でいろいろ言いながら観ましたよ~。楽しかったです。

で、今回は観戦記ではないのですべての試合を振り返りませんが、ちょっとだけ語らせていただきますと・・・

まずオカーン、いいですね。ベースの強さがあってのあのキャラと攻め。これはいいですよ~。地獄突きやキラーカーンばりの奇声を上げてのモンゴリアン・チョップには、なつかしさも感じました。久々におもしろいレスラー出てきたとうれしくなりました。ただ、一点だけ言わせていただければ、攻めはいいんですが受けですかね。ちょっと淡白かなと思いました。もうちょっと受け方ですね、オーバーにしたり「ちょっと待って」みたいなジェスチャー入れたりして間を持たせれば、相手を引き立たせられることができるいいヒールになると思いました。

あとオスプレイですね。以前は、やんちゃと言いますか、こう勢いにまかせて無茶したりして危ないところあったんですが、そういう無駄がなくなって、大技小技の強弱がついて試合運びがよくなりましたね。ジェイ・ホワイトあたりとやったらおもしろい試合になるんじゃないですかね~。オカーンとオスプレイは先々が楽しみです。

逆に、うーん・・・と首を傾げてしまったのは飯伏ですね。まず技が単発すぎかなと・・・で、以前も書いたことあるかもしれませんが、その単発な技と技の間が、ちょっと長すぎですね。で、その長い間で、技を出しても受けても、そのあと視線を浮かせたり、なかなか起き上がらなかったり、でも観客席は煽ったり・・・これが何回もあり、かなりモヤモヤしましたね。観ていてすごいストレスになりました。試合時間も長くなったので会場のお客さんも、もしかするとこのあたりに結構モヤモヤ、ストレス覚えたんじゃないのかな・・・そんなことを思いました。飯伏は技単体のポテンシャルは初代タイガーマスクにも劣らない、いやそれ以上かもしれないレスラーです。あとは試合の組み立てだけなんですよ。観る方が引きつけられるような試合の流れ、ですよね。それができたなら煽りVで飯伏が言っていたとおり、プロレスは広がりますよ。とんでもなく広がります。なので、なんとか、ね・・・なるといいなぁと・・・思いました。

ということで、コロナ禍の中でいろいろなことが遠い夢になっていく今日この頃ですが・・・国破れて山河あり。しかし破れしは国ではなくウイルスです。その終息の先には以前と変わらない日常の風景が広がっていて、そこで「コロナの頃は大変だったなぁ」と、話しているボクらが必ずいるはずです。だから、希望を持って日々を過ごしていきましょう!!

ブログは、またゆっくりな更新になってしまいますが例年どおり、お送りしていく次第です。よろしくお願いいたします。

フィッシャーマンズ・スープレックスを辿る旅~祖先編~

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どうも!!流星仮面二世です!!
 
というわけでございまして必殺技を語ろう!今回はフィッシャーマンズ・スープレックスでございます。
 
プロレス界で長きに渡り、団体、男女問わず、いろいろなレスラーに使われている技なのでプロレスファンなら知らない人はいないと思います。今回はこの技を祖先編、小林邦昭編とし、2回に渡りお送りします。
 
さてフィッシャーマンズ・スープレックス。名を聞けば、もはや条件反射で思い描かれるのはもちろん小林邦昭のそれなんですが、まずはですね、小林のフィッシャーマンズ・スープレックス以前に存在した"フィッシャーマンズ・スープレックスの祖先"の技のお話をしたいと思います。
 
それは1984年6月。この年に発売された恒文社のプロレス・アルバム「超大技からオモシロ技まで 必殺技大集合!」を当時、買ったときのことでした。

超大技からオモシロ技まで 必殺技大集合!

技好きのボクは、知っていた技の他、これまで見たことのない技がたくさん載っていたこの本の内容は衝撃的で、買ってきた日はそれはそれはうれしく、ページをめくる度に目をキラキラさせ「すげぇ~」と子供心を踊らせたものでした。
 
そんなトキメキが溢れんばかりのこの本でしたが、当時ひとつだけ気になったことがありました。そこには、こんな写真が載っていたからです。

これは・・・!?

この写真の説明には
 
「日本では小林邦昭の専売特許のようなフィッシャーマンズスープレックスは、すでに昭和55年ミスター・レスリングが初公開していたのでした(原文まま)」
 
とだけありました。なんだか、やけに知ったかぶった、ちょっと上から目線の失礼な説明文にイラっときましたが、見ると確かにフィッシャーマンズ・スープレックスの形ではあります。これは一体、なんなのでしょうか?
 
というわけで、まずはこの積年の謎を紐解いてみます。
 
この技を使用していたミスター・レスリングは1934年、アメリカ、ニューヨーク出身。本名はジョージ・ウッディン。日本ではティム・ウッズの表記で馴染みのマスクマンでした。

ミスター・レスリング
 
ミスター・レスリング(以下ウッズとします)はプロレス入り以前はコーネル大学、オクラホマ州立大学、ミシガン州立大学の3つの大学に在籍し、なんと農業工学と機械工学の学位を取得していたという、大変に頭脳明晰な方だったようです。

そして同時に大学でやっていたレスリングでは強豪選手で、その実績は1955年と1957年にAAU(アマチュア運動連合)の全米選手権をフリースタイルで2度優勝(3度との記述もあり)1958年と1959年はNCAA( 全米大学体育協会)のレスリング選手権でフリースタイルで2年連続で準優勝という輝かしいものだったということです。うーん、学業もスポーツも優秀というスーパーマンだったんですね。
 
その後、1963年。28歳頃にプロレス入りし、素顔でファイトしていたそうですが1965年にネブラスカのプロモーターの発案でマスクマンのミスター・レスリングに変身。この年代のマスクマンというのは必ずヒール、悪役だったんですが、ウッズは実績のあるレスリング技術を武器に反則をまったくやらない正統派マスクマンとして活躍し、大変に人気があったと、いうことなんですね。

ジョージア地区では同じく正統派マスクマンのミスター・レスリング2号(ジョニー・ウォーカー)との正義のマスクマン・タッグも人気だった
 
そんなウッズの現役時代の日本への来日は全日本プロレスへ4回で、そのうち最後に来日したのが昭和54年。1979年の世界最強タッグになりますので・・・話を戻しますと、最初にあった「超大技からオモシロ技まで 必殺技大集合!
」の画像の説明文は80年ではなく、79年のもの、ということになります。
 
で、技の方です。改めて見てみても形はフィッシャーマンズ・スープレックスですが、よく見てみると我々の知っているフィッシャーマンズ・スープレックスとちがい、投げる段階から首と足がガッチリとクラッチされています。それに、相手の頭の位置も我々が知っているそれより低い感じに見受けられますね。
 
この技は、どういったものだったのか・・・一見したかったのですが映像はなく、内容が記してあるものも残念ながら見つけられませんでした。
 
そんな中、わずかながら詳細が見られたのが2011年5月に発売された「発掘!日本プロレス60年史 凄技編 時代を創った必殺技」 でした。

発掘!日本プロレス60年史 凄技編 時代を創った必殺技

そこにあった
 
「流智美の幻の凄ワザ大発掘!」
 
のコーナーで、この技を流さんが解説していましたので抜粋してみます。
 
「この技は1979年11月に来日したときのミスター・レスリング(正体はティム・ウッズ)が全日本のリングでよく出していたが相手の脚を両手グリップで固めたままの危険な投げ技で、フィニッシュ・ホールドとして使われたことはなかった」
 
なるほど・・・どうやらこの技は、ウッズが過去に来日した4回のうち、最後に来日したこのシリーズだけに何度か使用が見られた技のようです。しかしながらこの79年の世界最強タッグは開催期間が11月30日~12月13日のわずか14日間しかなかったので、実際に見れた回数は、そう多くはなかったのではないかなと予想されます。
 
また、本文では他に小林のフィッシャーマンズ・スープレックスと比較すると「ゴツゴツ感」という言葉で表されており、ブリッジを効かせたスープレックスというよりは、この形で上げて落としていたような感じが伺えました。
 
このあたり・・・実は89年4月に全日本プロレスの「89チャンピオン・カーニバル」にハーリー・レイスがプロレスラーとして最後の参戦をしたとき、独特のフィッシャーマンズ・スープレックスをフィニッシュとして使っていたのですが・・・

レイスの得意技のブレーンバスターの軌道で上げて落とし、そのままフォールするこの技は「フィッシャーマンズ・バスター・ホールド」と表記されることもあった
 
もしかしたらウッズの技は、こんな感じだったのかな?と想像してみたりもしましたが、やはり真意は謎のまま・・・あまりに資料がなく解明が困難です。しかし、この形を見てしまっては、どうしてもその真意が知りたくなります。
 
ということで、ここで視点を変え、ウッズ最後の来日となった1979年より以前の技に何か解明のヒントはないか調べてみます。すると、この写真から5年前の1974年に全日本プロレスで行われた「第2回チャンピオンカーニバル」に初参戦したとき、こんな技を使っていたことがわかりました。

首と足をクラッチし、倒立してフォールする片エビ固め
 
芸術的フォルムがテクニシャンな空気を漂わせる見事な技ですが、見方によれば、このままブリッジしたならまさにフィッシャーマンズ・スープレックスです。その入り方は一体どのようなものだったのでしょうか?
 
この技は1976年7月号の別冊ゴングのミニ・ページ「新・プロレス殺人技300写真解剖」に「ローリング・ネック・クラッチ(回転首固め)」という名前で解説が載っていましたので読んでみます。

別冊ゴング 1976年7月号

「ミスター・レスリングことティミー・ウッドが考案した新型のエビ固め。これは相手をロープに飛ばし、リバウンドで戻ってくるところを狙ってサッと首と片足を取り、そのまま ローリング(回転)しながらマットに引き倒し、フォールの格好に決めると同時に自分の体を垂直に立て……ちょうど逆立ちでもしているような格好のままフォールするもの。レスリング自身は「これはレスリング・スペシャルだ!」と称している(原文まま)」
 
なるほど。おそらくこれは、ロープから返ってくる相手にカウンターで足を入れないスモール・パッケージ・ホールド、首固めをし、そこで倒立するような・・・そんな形の技だったと想像できます。

かつてはネック・クラッチと呼ばれていたスモール・パッケージ・ホールド
 
そこでピンときたことがあるんですが・・・
 
レスリングにはプロレスでいうところの「片エビ固め」のような、首と足を取りクラッチしてフォールする技があります。やり方としては、ガブって相手のサイドに回りながら相手の片足に手を掛けて転がしながらクラッチしフォールに持っていったり、腹ばいの相手のバックを取った状態で首と足を取り、相手をコントロールしながら丸めていきクラッチしフォールに持っていったり・・・簡単に言うと、そんな感じになります。また、自発的でなく、グラウンドの動きの中の流れでクラッチが取れ、そこからフォールになる場合もあります。技名はなく、ボクらの頃はクラッチしてフォールするので単に「クラッチ」と呼んでいました。
 
それと、これもあまり知られていませんが、レスリングには「パンケーキ」という技があります。いやいや、いくらなんでも、そんなおいしそうな名前の技あるわけないでしょ。と思うかもしれませんが、これは片足を取られたときのカウンター技で・・・たとえば左の片足を取られた状態なら、そのまま自分の左腕で相手の首を巻き込み、右腕で相手の左足を取りながらクルンと回転させ丸め込むという、まさしくスモール・パッケージ・ホールドのような技なんですね。
 
これらの技は、元々頻度が高くはなかったので、おそらく今では使われるどころか知っている人も少ないんじゃないかなと思います。そんな「クラッチ」や「パンケーキ」なんですが・・・もしかするとウッズはレスリング時代、こういった丸め込む技が得意だったんじゃないのかな?と思ったんですよ。
 
28歳という遅い年齢でのプロレス転向だったので、デビュー後もレスリングベースで勝負していて・・・そのためプロレス転向後も、こういったテクニックを使用していましたが、単にそれだけでは地味だったため、これに回転や倒立、投げを加え、プロレス流にアレンジして得意技として使っていたのではないかなと・・・そんなことがちょっと頭を過ったんです。
 
しかし、それはあくまでボクの仮説なので、その真実はわかりません。でも、小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックスが「投げ技系」とするなら、ミスター・レスリングのは「丸め込み系」であると、こう言えるのは確かだと思います。
 
結局、その後ミスター・レスリング、ティム・ウッズが来日することがなかったので、このフィッシャーマンズ・スープレックスの祖先は日本では見られなくなってしまいますが・・・もしウッズが80年代も来日し続けていたなら、プロレス界での丸め込み技の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
 
さて、ミスター・レスリング、ティム・ウッズの技を見てきましたが、ウッズ最後の来日から3年後の1982年10月。いよいよ小林邦昭によってフィッシャーマンズ・スープレックスが公開されることになります。
 
次回へ続きます。

フィッシャーマンズ・スープレックスを辿る旅~小林邦昭編~

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さて、祖先編ではミスター・レスリング、ティム・ウッズの技を見てきましたが、ここでは小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックスの全貌を振り返っていきます。
 
小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックス。その歴史の始まりは1982年10月8日。闘魂シリーズ開幕戦に80年6月より2年4ヶ月間に渡りメキシコ、アメリカと海外武者修行に出ていた小林邦昭が凱旋帰国することから始まります。

この凱旋帰国第1戦目を木戸修と組みジョニー・ロンドス、シルバー・ハリケーンと行った小林は、ここでハリケーンをブレーンバスターの態勢に取ったと思いきや、右手で足を取り、そのまま後方へ投げつけブリッジで固めるという技を見せました。
 
これが小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックス初公開シーンだ
 
掲載があった82年12月号のビッグレスラーによれば、技は「変形ブロックバスター」と称されていました。さらに試合の様子をレポートから読み取ると、なんとフォールではなく「ギブアップ」と取った内容になっていました。

そのためか、公式記録ではフィニッシュは「背骨折り」となっており、また別冊ゴングの方では「脳天砕き固め」つまりブレーンバスターをホールドしたもの、となっており、このあたりから当初は技名もなく、そしてまったく未知の新技だったことが伺えました。
 
かくして小林邦昭のフィッシャーマンズ・スープレックスは日本で初めて公開されたわけですが、ではその考案に至った経緯とは一体何だったのでしょうか?そして、名前のなかったこの技が、いつからフィッシャーマンズ・スープレックスと呼ばれるようになったのでしょうか?ここからは、このあたりを探っていくことにしましょう。
 
まずは技の発祥ですが、かなり以前にですね、何で読んだかちょっと忘れてしまったんですが・・・フィッシャーマンズ・スープレックスは小林がメキシコで試合を見ていたとき、この技を使っていたレスラーがいて、それを見て「これだ」と感じ使い始めたと、そういう始まりだったと記されているのを読んだ記憶があったんですよ。。
 
ただ記憶がどうも曖昧だったので調べてみたところ、昨年スポーツ報知のWeb版に連載された
 
「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」
 
の10回目
 
 
で、小林が改めてフィッシャーマンズ・スープレックスを使い始めた経緯を詳しく語っているのを発見しましたので、ここでの小林の話を抜粋してみます。
 
「フィッシャーマンはメキシコへ行って2年目で覚えました。エルトレオっていうドーム型の会場の第1試合で若い選手の試合を見ていたんです。まるっきり名前も知らない下の下の下の選手だったんですが、そうしたら、その選手がフィニッシュで使っていたのがフィッシャーマンだったんです。正直言いますけど、それを見て“この技いいな。日本じゃ誰も使ってないぞ”ってパクったんです(笑)。それで、練習して次の日の試合でやったのが初めてのフィッシャーマンでした。それで、フォール取りましたよ(笑)」
 
なるほど。まず「メキシコへ行って2年目で」と言っています。小林のメキシコ遠征は1980年6月からで、82年からはアメリカへ転戦しているので・・・この技はメキシコ遠征が終わりに近い頃に習得したと、いうわけですね。
 
そして、気になるのが次です。ここで「まるっきり名前も知らない下の下の下の選手がフィニッシュで使っていた」と、そして「パクった」と言っています。なんとびっくり。フィッシャーマンズ・スープレックスは名もなきメキシコの無名レスラーが考案した技で、それを小林が使ったのが始まりだった、ということだったんですね。

しかしながら、初代タイガーマスクのキーロックを片腕で持ち上げてしまうほどのパワーと、当時の新日本で鍛え上げられた筋金入りのブリッジを持つ小林が使ったなら、破壊力も安定感も別物。もはや技そのものがちがってきますから、これはもうオリジナル・ホールドと言っても異論はないかなと思います。

さて、こうして小林がメキシコから持ち帰り日本で陽の目を見いだしたフィッシャーマンズ・スープレックスですが・・・先にも触れたように、このときはまだ「フィッシャーマンズ・スープレックス」という名称はありませんでした。
 
先に上げた「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」によれば、技名を付けたのは当時実況をしていた古舘伊知郎さんということなので、今度はフィッシャーマンズ・スープレックスのテレビ初公開の様子と技名の発祥を見ていってみましょう。
 
背骨折り、脳天砕き固めと言われたこの技が、いつからフィッシャーマンズ・スープレックスとなったのか・・・その道すじを辿ると、同シリーズの後半戦である10月29日放送のワールドプロレスリング、10月26日に大阪府立体育会館で行われたWWFジュニアヘビー級選手権、タイガーマスクとの一戦にて、実況していた古舘さんが試合の終盤、
 
「この、チャレンジャー小林邦昭は、フィッシャーマンズ・スープレックス、漁師が、網打ちを豪快に行うときに、見舞ったこの、豪快に行うときのその仕草に似ているという、フィッシャーマンズ・スープレックスも持っています」
 
と言っているのを確認できました。
 
実はこの闘魂シリーズで、開幕戦から10月26日のタイガーマスク戦までの18日間でフィッシャーマンズ・スープレックスがフィニッシュで使用されたのは凱旋帰国第1戦となった10月8日の後楽園ホールでの試合と10月10日に神奈川県の平塚市・平果青果市場(現在の平塚中央青果卸売株式会社の平果地方卸売市場と思われる)で行われた第3戦でのブラックキャット戦の2回のみ。加えてテレビは10月22日に広島県立体育館で行われたタイガーマスクvsレス・ソントン戦の前に乱入したのを除けば(小林邦昭さんのブログ:小林邦昭より 懐かしのフォト。)10月8日の闘魂シリーズ開幕戦の生放送から、この10月29日の放送分まで週にして4週。意外なことにシリーズも終盤に差し掛かったこの日まで、小林の試合は一度もテレビで放送されていなかったのです。
 
ということは、この10月29日が小林が凱旋帰国後に初めてテレビマッチ登場にした日であり、初めて古舘さんが「フィッシャーマンズ・スープレックス」という言葉を全国の電波にて発した日、ということになります。
 
プロレス実況時代、実況の中で様々なストーリーを奏でていった古舘さんは名言やレスラーのキャッチフレーズだけでなく、その実況の中でレスラーの技名も考案しては世に送り出してきました。おそらく開幕戦でこの技を見た古舘さんの頭に、漁師の手元から投網がワァっと広がっていく、あの網打ちのイメージが浮かび、この技にはこれしかないとネーミングし・・・そして、この日ついに小林の試合を実況することで、初めてそのフレーズを世に出したのでは?と想像できます。

しかし「フィッシャーマンズ・スープレックス」という言葉こそ出ましたが、この試合はあの衝撃のマスク剥ぎにより小林の反則負けとなり、残念ながら技は出ず・・・その全貌を見ることはできませんでした。

判定後には解説の桜井さんが
 
「(場外戦後)上がってきたところをフィッシャーマンズ・スープレックスで勝負するべきでしたねぇ」
 
と言っており、技名を認識していることがわかります。フィッシャーマンズ・スープレックスの地上波初登場はお預けとなりましたが、放送席はこの日、技名に対しては一丸。満を持していたのかもしれませんね。
 
そして迎えた翌週11月5日のワールドプロレスリング。11月4日に行われた蔵前国技館でのNWA、WWFのジュニアヘビーのベルトがかけられたタイガーマスクとの一戦で、ついにフィッシャーマンズ・スープレックスが、そのベールを脱ぎます。
 
この日の実況は保坂アナウンサーでしたが、試合開始後、古舘さんのサイドリポートが入ります。
 
「え~チャレンジャーコーナーですがね、この小林邦昭、長州力と二人っきりの控室を取りましてですね、明かりを消して真っ暗な片隅でですね、じーっと精神統一を試合前しておりました。そしてですね、非常に鬼気迫るものがあったんですが、一言聞きますとですね、フィッシャーマンズ・スープレックスを狙いたいと。これはあの自分のオリジナルテクニックでメキシコで開発した技だと。まあ先だっての戦いはですね、マスクを破ったけれども、今日はその本体をですね、このフィッシャーマンズ・スープレックスで潰してやると、強気な発言を一言漏らしました」
 
そして、それを受けた保坂アナが
 
「フィッシャーマンズ・スープレックス、これは小林邦昭がメキシコから持ち帰ったオリジナルテクニックであります」
 
と述べています。この時点では、まだ多くのプロレスファンがこの技を知りません。しかし放送席から頻繁に名前が出ているということで、その期待度は膨らみ出します。
 
そんな実況のすぐあと、試合序盤で小林がブレーンバスターの態勢にいくと・・・
 
 
保坂アナ「さあこれからフィッシャーマンズ・スープレックスにいくか!?山本さん、これが彼のオリジナルテクニックなんですけどね」
 
小鉄さん「そうですね」
 
と対話しているのが確認できます。これにより前週の桜井さんに続き、小鉄さんも技名を認識していることがわかります。このときプロレス誌上ではそれぞれちがう技名で表している段階でしたが、これで古舘さん、保坂アナ、桜井さん、小鉄さんと、放送席では技名が「フィッシャーマンズ・スープレックス」で完全に一致していたことが伺えました。
 
結局ここはタイガーマスクがこらえたので何も起きませんでしたが、フィッシャーマンズ・スープレックスはブレーンバスターのような技なのか?というさらなる期待が高まることとなりました。
 
こうして、やがて試合も佳境に入った頃。タイガーマスクはダイビング・ヘッドバット。小林はこれを交わしますがタイガーマスクは飛び込み前転でさらに交わすという目まぐるしい展開から、タイガーマスクがショルダーアタック。そしてロープに飛ぶと、ついにその瞬間が訪れました。
 
まず、ロープから返ってきたタイガーマスクに小林がカウンターでボディにサイドキック
 
キックで前屈みになったタイガーマスクにブレーンバスターか?と思うと、同時に足に手を伸ばします
 
これに対し、投げられまいと腰を落とすタイガーマスクですが、この行為が体を丸めることとなり足を取りやすくさせる結果に。ここから小林が踏み込み、そして・・・
 

 
 
 
まさに投網が広がっていくかのような綺麗な弧を描いて見事に炸裂したフィッシャーマンズ・スープレックス。これがテレビ初公開シーンです!!
 
そして、このとき保坂アナは
 
「フィッシャーマンズ・スープレックスにいくか!?おっとこれはフォールの態勢!!」
 
と実況。初めて言葉として出したのは名付け親である古舘さんでしたが、初めて実況で発したのは保坂アナだったんですね。
 
で、このあと我々が見てきたフィッシャーマンズ・スープレックスなら、すぐにフォールカウントが入りますが・・・実況で保坂アナが「おっとこれはフォールの態勢」と言っているように、このときまず映し出されたのはレフリーの柴田勝久のフォールカウントではなく、タイガーマスクに近寄りギブアップかどうかを聞くという動作でした。
 
タイガーマスクに確認する柴田レフリー
 
やがて、少ししてタイガーマスクの肩が着いたのを確認すると、ここで初めてカウントを入れました。ギブアップを確認してからのフォールということで出た保坂アナの「おっとこれは」という想定外を表す言葉と、ギブアップを確認したことでフォールカウント開始まで間ができたため、カウントはツーで返されてしまいましたが抗議することなく悔しさを露にした小林を見ると・・・

悔しがる小林
 
ビッグレスラーの開幕戦の記事にあったように、フィッシャーマンズ・スープレックスは最初はギブアップを奪う技として認識されていたことがわかりました。
 
これまでの経過と合わせれば、この技の名前は実況、解説陣の連携により放送席から世へ発信されたことがわかります。当時の放送席がいかに素晴らしかったかがよくわかる発祥だったと思いました。

この日の模様を伝える昭和57年12月号の別冊ゴングでは「ブレーンバスター固め」となっていたことからも、放送席のチームワークが伺える
 
しかし一番素晴らしかったのは、やはりこの日のフィッシャーマンズ・スープレックスです。豪快な引っこ抜きと叩きつけにして、しなやかで強力なブリッジ。そして決まった形・・・もし初公開が小林でなかったら、技がその後に続かなかったかもしれませんし、名称も変わっていたかもしれません。この日このとき、小林邦昭がやったからこそフィッシャーマンズ・スープレックスなんだと思いました。

その後、幾多の対決で名シーンを展開してきたフィッシャーマンズ・スープレックス。83年6月2日の蔵前国技館でのタイガーマスクとのNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦ではタイガーマスクが小林へ、まさかの掟破りの逆フィッシャーマンを敢行し・・・
 
マジック・ドラゴンやディビーボーイ・スミスに自身の技をされた小林だったが、初めて小林にフィッシャーマンズ・スープレックスを仕掛けたのは実は初代タイガーマスクだった
 
85年6月21日の日本武道館での2代目タイガーマスクとのNWA認定インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権試合ではフィッシャーマンズ・スープレックスを仕掛けられた刹那に足を切り、すぐさまフィッシャーマンズ・スープレックスで返すカウンターを見せました。
 
まさにフィッシャーマン返しというべき妙技を見せ本家の貫禄を見せつけた
 
85年の週刊プロレス105号ではジュニア統一の夢を語り、その切り札になると秘密兵器"フィッシャーマン85"を公開。
 
 
腕折りを加えたそれは、このままでもギブアップが取れそうな凄まじさ。投げたなら一体どうなっていたか・・・その破壊力ゆえ、ついに実戦で使われることはなかった
 
86年11月23日の後楽園ホールでの世界ジュニア・ヘビー級王座に挑戦した際はヒロ斉藤にニュー・フィッシャーマンズ・スープレックスを見舞い勝利します。
 
 
幻のフィッシャーマンズ・スープレックスは相手の腕を抱えて投げるフォールを重視した形だった

こうして初公開から今日に至るまで、様々なドラマを生んできたフィッシャーマンズ・スープレックス。小林の初公開から38年。ときには掟破りに合い、ときには姿を変え・・・そして現在までに、団体、レスラー問わず、世界中のプロレス界で様々なレスラーに使われてきました。しかし、いかに優れた使い手が現れても、やっぱり小林のそれとは何かがちがう気がしました。それは、なぜだったのでしょうか・・・

日本三大河川のうち最長を誇る信濃川は新潟県から長野県に入ると千曲川と名を変えます。小林の出身地である長野県小諸市を流れるその千曲川は、5月を迎えると産卵期のウグイを捕るため、江戸時代からの伝統漁法「つけ場漁」が始まります。これは人の手で川の底にウグイの産卵床を作り、そこに産卵にやってきたウグイを捕まえるというものだそうなのですが、その漁具こそ投網での網打ちなのです。

遥か昔から受け継がれてきた伝統の漁法。しかしそれは漁法だけでなく、先人達の記憶もまた、末裔の潜在意識へと受け継がれていきました。

その末裔である小林がレスラーになり、やがてメキシコへ行き・・・そこで目にした、のちのフィッシャーマンズ・スープレックスを使っていたレスラー。小林が、この名もなきレスラーを見なかったなら、フィッシャーマンズ・スープレックスは今この世になかったかもしれないわけです。

しかし、そのレスラーは本当に存在したレスラー、だったのでしょうか?

これだけ世界中に知れている技にして、これだけのネットの時代なのに、未だにそのメキシコ人レスラーは誰なのか?わかっていません。いくら「まるっきり名前も知らない下の下の下の選手がフィニッシュで使っていた」としても、たとえばそのレスラーが自ら名乗ることをしなくとも、そのレスラーから技を受けたことがあるレスラーは何人かいたはずですし、レスラー仲間もいたはずです。それに、小林のようにそのレスラーの試合を見たレスラーだっていたはずなのです。なのに今日まで、情報がまったく出てこないというのは・・・なんだか腑に落ちないのです。

もしかするとこのメキシコ人レスラーは、そもそも存在しておらず・・・小林が見たものは、千曲川の先代達から受け継がれた遺伝子、潜在意識が、この技を使わさるべく小林に見せた"幻影"だったのでは・・・なかったのでしょうか?

そして日本で公開され、古舘さんに「網打ち式」のインスピレーションを与え・・・こうして運命に導かれて、フィッシャーマンズ・スープレックスはこの世に生を受けたのではないでしょうか?

異国の地メキシコで見た考案者不明の技が、日本の自身の故郷を流れる川の伝統漁法と繋がる・・・これらが単なる偶然だったとはボクには思えないのです。今回、この技を調べていき、小林がこの技を使うのは生まれ持っての運命であり、天命だったのではなかったのかなと・・・感じた次第です。

いまだに全盛期を思わせる見事な筋肉を維持し、そしてブログでは、なつかしい写真で楽しませてくれる小林邦昭さん。今日はそんな小林さんの65回目のお誕生日です。お誕生日、おめでとうございます。いつまでも虎ハンターでいてくださいね~!!
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