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歴史が奏でた哀しみの歌

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どうも!流星仮面二世です。


さて、古来から現在まで、実に何千という数を誇るプロレスの技。そんなプロレス技の誕生には、実に様々な形がありますね。一念発起、考えに考え抜いて生まれた技もあれば、ふとした閃きから生まれた技もあります。


そんな中、偶然に、偶発的に生まれた技も、もちろんあります。海外武者修行時代、試合中にとっさに出たキックが代名詞となった馬場さんの16文キックに、エアプレーン・スピンを暴れられ、押さえようと無意識に顎を掴んだらギブアップを奪ってしまったアントニオ・ロッカのアルゼンチン・バックブリーカーなどがそれらです。


こういったようにレスラーがガンガン、バリバリに試合をこなしているうちに生まれた技は、本人の活性剤になり、そして機転になり、その後のレスラー生活を充実させていくものになりますが・・・一転して、プロレスの歴史上において、こんな哀しい物語を持った必殺技の誕生があったなんて・・・と思わず目頭を押さえてしまう、今回はそんなお話を76年の月刊ゴング6月号を参考とし、みさなんにご紹介したいと思います。


突然ですが、みなさんは“人種差別”と聞くと・・・何を連想するでしょうか?


人間が人間を捕らえ、そして人間を売って利益を得る。買われた先で、売られた人間は人間としての人格は否認され、労働などで所有者、奴隷主に絶対服する所有物として扱われる。権利も自由もない。もちろん無償・・・これらが16世紀末頃から始まったとされる“奴隷”の概要でした。


もし自分だったらと考えてみてください。ある日、突然捕らえられて知らない土地に連れてこられて、発言も主張も許されず休みもなく棒やムチで打たれながら、汗と血を流して働き続けるということになったらどうかと・・・



 

鞭打ちによる傷跡のある黒人奴隷(Wikipedia「奴隷 」より)


現在では考えられない人間への仕打ちです。こんなことが・・・と思って当然ですが、しかしながら恐ろしいことに、かつてはこれが長い間、身分や階級として奴隷制という社会制度として通っていたというから驚くしかありません。


この驚きの歴史は1862年、リンカーンの奴隷解放宣言、そして南北戦争終結後のアメリカ合衆国憲法第13修正承認による本土での奴隷解放で光を見ましたが、しかし様々な世の中の変化があったにしろ、1900年代半ばまでに奴隷はなくなっても貧困が多く、選挙権も与えられなかったなど黒人を下に見る、いわゆる人種差別という壁は消えることがありませんでした。


そんな・・・まだまだ人種差別が激しかった1900年代、ひとりの黒人が産声を上げました。


彼の名はジンミー・ミッチェルといいました。1909年にシカゴで生まれたミッチェルの時代は先に述べたように激しい差別が彼らを襲っていた時代の真っ只中でした(※1911年という記述もあり。シカゴは出身地と予想される)


そんな背景もあり、彼の家は裕福ではありませんでした。そのためミッシェルは13歳の頃から父親が働いていた缶詰工場へ働きに出ていたといいます。


そんな時代・・・一方、当時の世は禁酒法により酒が闇で動いていた時代でもありました。この酒を中心にアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノなど現世にまで名を残すほどのギャング達が席巻していた、まさにギャング全盛の時代でもあったのです。そんな時代背景もあり、少年にして社会へ出たミッチェルは差別という世の中の仕打ちに身を置く中、力を持っていたこのギャングにおおいに憧れていたといいます。


やがてミッチェルは、とうとう憧れのギャング組織に入ることになります。組織は当時シカゴで力を持っていたギャングスター、のちにアル・カポネによって一家と、その存在を追われてしまうダイオン・オバニオンのオバニオン一家でした。




ギャング全盛時代に暗黒街の帝王と呼ばれたアル・カポネ


憧れのギャングにして当時のシカゴでは大きな組織に入ったミッチェル。といっても当時は、まだ黒人への差別が大きく残っていた時代。ギャングといってもミッチェルは下っ端で、使い走りばかりいつもさせられていたといいます。


しかしこのギャングに入ったことでミッチェルの人生は変わることになります。そのミッチェルの入ったギャング組織こそ、ボクシングやプロレスが興行を行う興行面において大きな力を持っていた組織だったからです。


そんな組織の中で、それらの興行面を牛耳っていた男はジョーという名前でした。ジョーはミッチェルに目をつけ、彼をボクシングに誘いました。しかし始めて間もなくリーチがないとの理由で、今度はプロレスへの転向を進めてきました。こうしてミッチェルは、これまで経験したことのなかったプロレスの世界へ足を踏み入れることになったのです。


こうして1927年(1929年という記述もあり)11月、シカゴにおいては会場として名の通っていたアンフィ・シアターで、ミッチェルは黒人レスラー第一号として18歳頃、デビューを果たします。




ジンミー・ミッチェル。おそらく現存する唯一の写真と思われる


しかし、白人レスラーはミッチェルと試合が組まれるのを最初は嫌がりました。理由は黒人と肌を合わせるから、というものでした。


当時、ボクシングに黒人はいてもレスリング、プロレスには黒人がいませんでした。なぜか・・・それは“肌の色がうつるから”という理由でした。


ボクシングは拳をグローブ越しに合わせて戦うからまだいいが、しかしレスリングは常に肌を合わせる。肌を合わせると肌の色がうつる、だからイヤなんだというのです。我々日本人からしたら信じられない理由でした。


でもこれが当時の現実でした。もちろん興行側も、それはわかっていた話でした。ではなぜ試合を組んだのか・・・そう、興行面ででした。


興行側には白人が黒人を痛めつけ、やられるところを客に見せ、楽しませるような、そんな思惑があったのです。こうして嫌がる白人レスラーのギャラを吊り上げ、試合では徹底的に痛めつけるように仕向けたといいます。


178センチ、88キロという、けしてレスラーとして大きい方ではなかったミッチェルは試合の度、痛めつけられました。殴られ蹴られ・・・ひとりで控室に歩いて戻れなかったことも一度や二度ではなかったといいます。


ときはボディ・シザーズの名人の絞め殺し王ジョー・ステッカー、ルー・テーズの師であったエド・ストラングラー・ルイスの全盛時代。いつかおれも、ステッカーやルイスのようになってやる!!持ち前のガッツと黒人ならではのタフネスを武器に、ミッチェルはこの日々を耐え抜きました。


そして・・・ミッチェルに運命の日がやってきます。


その日の相手はトミー・マリオというレスラーだったといいます。マリオはミッチェルと何度か試合している、マリオからすればお得意さんでした。


マリオは試合が始まるといつものように殴りつけ、まるで楽しむかのように攻撃を加えていったといいます。しかし・・・その攻撃の刹那でした。マリオの攻撃に後ずさりしたミッチェルは少し後ろへ下がると、よろめいたか・・・そのままロープに寄りかかった形になりました。そしてその反動でミッチェルは勢いづき前へ突き出すと、マリオとミッチェルはぶつかり合いました。


次の瞬間、ミッチェルが見ると痛がり、リングに寝転んでいるマリオがいました。


やろぉ!!と苦しみながら怒ったマリオでしたが時すでに遅し・・・マリオはアバラを骨折し、とても試合のできる状態ではありませんでした。


「おれが・・・!?」


一体、何が起きたのでしょうか?


レスラーとしてはけして身長が高い方でなかったミッチェルは、相手と相対すると顔の位置が相手より低くなることが多かった・・・得てして頭も相手より低い箇所に位置することになります。この状態から、さらにマリオの試合でよろけた際にはダメージもあり下を向いていたと予想されます。その状態で反動がつき衝突すれば、ミッチェルの頭がマリオの胸部へ、当然ぶつかることになります。


こうしてぶつかった・・・しかし、普通ならお互いに衝撃が来るところ、そうはならずにマリオだけがアバラを骨折するという大けがを負ったのです。


翌日、ミッチェルは壁や板に向かって自分の頭をぶつけてみました。頭が、固い・・・おれは頭が固い!!これを武器にしたら!?


こうしてミッチェルは自身の頭を相手にぶつけるという攻撃を考案します。そのやり方は相手の間合いに飛び込んで首を取り、ジャンプして相手の頭、額を打ちつけ、そして態勢が低くなった相手に今度は頭頂部へ攻撃するというものでした。ヘッドバットが産声を上げた瞬間でした。


こうしてミッチェルはギャング時代に覚えたケンカ殺法と持ち前のガッツと共に、ヘッドバットを得意技として相手に向かっていきました。かつては白人の見世物のようだったミッチェルでしたが、ヘッドバットを手に入れたミッチェルは、もうやられ役どころか相手レスラーに恐れられる恐怖のレスラーとして、その名が知られる存在となったのでした。


その後・・・約20年後の1948年、40歳を前にしたミッチェルは、当時若手だったひとりの青年に会い、ヘッドバッドをコーチすることになりました。この青年の名はヒューストン・ハリスという24歳の黒人でした。


ミッチェルはハリスに自作のヘッドバット特訓機を与え、日々ヘッドバットを打たせました。ときには日に8時間というその練習でハリスの頭はいつも血まみれになったといいます。


しかしその結果、この黒人レスラーがプロレス史上、ルー・テーズのバックドロップ、力道山の空手チョップと並ぶ一撃必殺の技の使い手として世界に名を轟かせることになります。その必殺技の名はココバット・・・そう、ヒューストン・ハリスは黒い魔神として恐れられた、のちのボボ・ブラジルだったのです。




ボボ・ブラジル


ブラジルもまた裕福でない家庭に生まれ、若くから働きに出ていたといいます。1日中農作業で使われ、おなかがすくと腹ペコ鳥のボボリンク(スズメ目ムクドリモドキ科の鳥)が泣き出す。泣きながら、いつか人種差別のないブラジルへ、おれは行きたい!!と・・・ボボ・ブラジルの名前の由来、これが本当かどうか確認することは現在不可能となってしまいましたが、ジンミー・ミッチェルが黒人レスラー第一号となった時代から20年余り経過したこの時点でも、まだまだ黒人への人種差別が強く残っていたのは現実で、ブラジルもそれこそ身を持って知っていたことでした。


そんなブラジルがプロレスラーとなったこの1950年代は黒人社会にとって激動の年でした。


1955年にはアメリカではアラバマ州モンゴメリーで起きた、バスの運転手があとから乗ってきた白人客に席を譲れと黒人女性に指示、しかしこれに従わなかった為に通報され逮捕されるという事件、モンゴメリー・バス・ボイコットと呼ばれる出来事をはじめ、1957年にアーカンソー州のリトルロック高校で、9人の黒人の生徒が初めて通うことになったことから白人の反対運動を経て軍までが出動したというリトルロック高校事件、1962年にミシシッピ大学に黒人として初めて入学したジェームズ・メレディスをめぐり大学内で暴動が起き、やはり軍までも出動し死亡者も出たミシシッピー・ライオットなど、歴史に残る数々の事件が起きていました。


そんな中で始まったブラジルのレスラー人生も、苦難があったといいます。しかしブラジルもまた、負けてたまるか!!というガッツと、ミッチェルにはなかった2メートルにも届きそうな身長と跳躍力とパワーを利し、ミッチェル流の打ち方に加えて大きくジャンプし相手の頭頂部を打つ必殺ココバットを武器に、差別が続くアメリカで多くの人を認めさせ、やがてメインイベンターとして活躍することになります。



 
アイアン・ヘッドバットともいわれたココバット


こうして57年、ブラジルは日本へ初来日します。このとき33歳のブラジルは日本でも猛威を振るい力道山をも苦しめました。その後、海外では66年にキラー・バディ・オースチンを破りWWA世界王座を奪取。ベアキャット・ライトに次ぐ史上2人目の黒人レスラーとしての世界チャンピオンとなりました。




海外、デトロイト地区ではザ・シークと抗争し名を上げた


68年に日本へ再来日すると当時エースにして王座取得後負けなしで21回もの連続防衛を続けていた全盛期だった馬場さんを倒しインターナショナル・ヘビー級王座を奪取するという、当時の外国人レスラーが誰もできなかった離れ業をやってのけました。必殺のココバットを武器に力道山を苦しめ、馬場さん、猪木に勝利し・・・まさに黒人でもっとも有名で、もっとも活躍したレスラーとなったのです。


今回参考にした76年6月号のゴングによれば、筆者の団友太郎さんは来日当時のブラジルを東京慈恵会医科大学付属病院へ連れていき、整形外科医の鈴木孝雄博士にブラジルの頭の固さの秘密を診断してもらったといいます。


その記述によれば、人間の頭の固さを人種で見ると、我々日本人を含むモンゴロイド(東アジア、東南アジアなどいわゆる黄色人種)は、コーカソイド(ヨーロッパ、西アジアなどいわゆる白色人種)より固く、比べるとちょうど倍の固さなのだそうです。


これを基準にするとブラジルの頭は、驚くべきことにモンゴロイドの4倍、コーカソイドの8倍の固さという結果が出たというのです。しかも額の部分の皮膚は異常に硬くなっており、加えて皮下の脂肪層は軟骨化しているという恐ろしい事実が・・・ミッチェルに鍛えられて、まさに頭が凶器と化していたのです。


こうしてミッチェルからブラジルへと受け継がれていったヘッドバットはベアキャット・ライト、ルーファス・ジョーンズ、アブドーラ・ザ・ブッチャーなど、黒人レスラーが使う必殺技としてプロレス界に君臨してきました。




ブラジルよりも次世代だったが稲妻二郎ことジェリーモローもジャンプしてのヘッドバットを得意とした


しかし・・・確かに白人のレスラーでヘッドバットを使うレスラーは少なかったにしろ、黒人レスラーがヘッドバットを使ったのは、それは本当に人種として頭が固かったから、だったのでしょうか?ミッチェルは最初、相手の胸に当てたのに、頭に頭を当てるようにした。そしてブラジルは、頭を徹底的に鍛えた。それは単に、ヘッドバットを得意とするから・・・という理由だったのでしょうか?


およそ400年前に始まったアメリカの奴隷制度の歴史・・・それは多くの血と涙が流された、ぶつけようもない怒りと哀しみの歴史でした。そんな中で黒人たちは奴隷という状態に身を置かれながらも、日々向かった教会の中で神への歌を口ずさんだといいます。その歌はいつしか仲間同士で、世代から世代へ伝えられ黒人霊歌と呼ばれるようになりました。


1865年、ついに奴隷解放が行われました。これで黒人を取り巻く環境は大きく変化すると・・・そう思われました。しかし奴隷主の元を離れ自由を得たはずの彼らを待っていた現実は、奴隷主を離れたことで得るものがなくなり、経済面が苦しくなってしまうという皮肉でした。こうして多くの黒人たちは、また戻るしかありませんでした。


しかし、変わったものがありました。奴隷解放後の彼らには、奴隷時代にはなかった、仕事が終わったあとに自分の時間が持てるという自由が手に入ったのです。彼らはそこで、今度は教会での神への歌でなく、自分を相手を、想う歌を歌うようになりました。それが・・・ブルースでした。


「おれたちが、何をしたんだ!?自分や家族や、同志のされてきた仕打ちが、哀しみが・・・おまえらにはわかるのか」


そんな人種差別への思いを・・・彼らはヘッドバットとして、相手にぶつけていった。だからヘッドバットは黒人レスラーの得意技だったのではないでしょうか?黒人レスラーにとって、ヘッドバットはブルースだったのでは・・・ないでしょうか・・・


時代も変わり、現在は黒人レスラーも少なくなりました。またヘッドバットを得意とするレスラーも、あまり見かけなくなりました。そんな現在のプロレスシーンの中で、あたながもしヘッドバットを目にしたなら・・・今回のこのお話を少しでも思い出してもらえたなら、うれしく思います。





やっぱり好きだな~ その1

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どうも!!流星仮面二世です!!


先月、10月5日に放送された


NHKBSプレミアム アナザーストーリーズ 運命の分岐点「タイガーマスク伝説〜覆面に秘めた葛藤〜」


これを見て日本中の多くのプロレスファンが、いやプロレスファン以外でもですね。胸を打たれました。



NHKBSプレミアム『アナザーストーリーズ運命の分岐点』で泣いた  


お宝BD~アナザーストーリーズ part.2~  


真夜中のアナザーストーリーズ  

(以上3件 腕ひしぎ逆ブログ  紫レガさん)



いつまでも我々の記憶に残る男たち  

通りすがりの虎仮面  後乃祭さん)



アナザーストーリーズ、タイガーマスク伝説  

ローリング・ドリーマーのプロレス・ブログ  Bonzoさん)



理想と現実の狭間で~三沢光晴のアナザーストーリー/2代目タイガーマスク【俺達のプロレスラーDX】  

ジャスト日本のプロレス考察日誌  ジャスト日本さん)



もう2ヵ月にもなろうとしていますが、この日以来ボクはずっとタイガーマスク漬けの日々となっております。というわけで今回は初代タイガーマスク、ちょっと追いかけてみましょうか。

と言っても、あまりにも有名なタイガーマスク。もはやその経歴も知られるところです。なので今回は、ちょっと知られていないところ・・・タイガーマスクデビュー戦からシリーズにフルで正式参戦するまでの足跡を追ってみることにしましょう。

まずタイガーマスクの、その原点となった佐山サトルの原点、デビュー戦です。

ネットで調べてみると、76年5月28日、魁勝司と、というのが出てきます。しかしこれ以上の情報が出てこないので個人的に調べてみると、この日は後楽園ホールで行われたゴールデン・ファイト・シリーズの第1戦、つまり開幕戦の日だったようです。


ここで魁勝司、あれですね、リングスでレフリーをしていた北沢幹之ですね。を、相手に15分1本勝負を行った・・・これが佐山のデビュー戦だったようです。結果は9分44秒、エビ固めで敗れています。


で、このあとデビュー戦含め魁勝司との対戦が連続5回続き、いずれも敗れています。なるほど~佐山のプロレスのスタートは隠れシューター北沢幹之から始まったんですね。



 

こちらは同年10月7日、蔵前での闘魂シリーズ第1弾の最終戦、上田vs小鉄さんの乱闘を見る若き日の佐山

で、このデビュー戦から56連敗しまして、57戦目でようやく初勝利となります。これが同年11月30日、闘魂シリーズ第2弾、会場は不明(島根の木次体育館?)で相手は栗栖正伸だったようです。フィニッシュはキャメルクラッチとあります。このときデビュー半年後。あのマーク・コステロ戦の1年前のときですね。

そして遠征前最後となったのは78年5月19日、第1回MSGシリーズの決勝リーグの真っ只中の宮城県スポーツセンターでの試合のようでした。


相手は趙白山、これチョ・パクサンと読むそうなんですが、このシリーズのみ参戦していた韓国人レスラーだったようです。この趙を相手に佐山は15分1本勝負を行い11分34秒、逆エビ固めで勝利します。このあとメキシコ遠征、イギリス遠征へと続くことになるので、この試合が佐山サトルとして最後の試合となったわけなんですね。


こうして迎えた3年後、佐山にとってもプロレス界にとってもファンにとっても運命の日となった81年4月23日の蔵前国技館となるんですね。




この日から始まったんですねぇ~


これはもう、あまりにも有名な伝説の試合ですが・・・


世界を変えた569秒(1981)

腕ひしぎ逆ブログ  紫レガさん)


しかしこのあと、二戦目となるとみなさんいかがでしょうか?


この4月29日のあとの試合というと5月8日に川崎市体育館で行われたブラック・キャット戦(6分51秒、コブラツイストでタイガーが勝利)がそのようなのですが・・・



 
ブラック・キャット戦


しかし、実はこの二戦目の前にもう一戦あったというのは意外と知られていないです。


タイガーマスクは4月23日の試合後、5月7日、つまりこのブラック・キャット戦の前の日に再び日本へ姿を現し、東京の新宿・京王プラザホテルで行われた第四回MSGシリーズの前夜祭に、生みの親である梶原先生と共に登場。ここで記者会見が行われ、プロレスラー、タイガーマスクが正式に発表され、誕生と相成ったそうなんですね。


そしてこの日、同場所でタイガーマスクはエキシビジョンマッチを行ったそうです。相手は斎藤弘幸、若手時代のヒロ斎藤です。エキシビジョンではありましたが、これがタイガーマスクとしてリングに上がった2回目となりました。


試合の詳細は残念ながら詳しい資料がなかったのでわからなかったのですが、タイガーマスクはここでタイガー・スープレックス・ホールドを初公開したという記録が残っています。




これが初お目見えのタイガー・スープレックス・ホールド!!




別角度から。手の位置に注目だ




デビュー戦とはちがう、通称“ぬいぐるみマスク”での登場でした


で・・・翌日8日の川崎でのブラック・キャット戦、つまり第四回MSGシリーズ開幕戦へ参戦となる、という流れだったんですね。


さて、この試合含めデビュー戦からの試合を振り返ると・・・


4月29日 蔵前国技館 WWFビッグファイトシリーズ第2弾 最終戦(テレビあり) デビュー戦 

ダイナマイト・キッド(9分29秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)

※猪木がIWGP開催に向けタイトルを封印するためハンセンと最後のNWF戦。

5月7日 京王プラザホテル 第四回MSGシリーズ前夜祭 エキシビジョン・マッチ

斎藤弘幸(タイム不明 タイガー・スープレックス・ホールド)

5月8日 川崎市体育館 第四回MSGシリーズ開幕戦(テレビあり) 
ブラック・キャット(6分51秒 コブラツイスト)
※アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本初登場。

5月9日 焼津市スケートセンター 第四回MSGシリーズ
斎藤弘幸(5分46秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)

5月10日 後楽園ホール 第四回MSGシリーズ
ブラック・キャット(8分52秒 エビ固め)

5月12日 名取市民体育館 第四回MSGシリーズ(テレビあり)
クリス・アダムス(7分42秒 エビ固め)

5月13日 横浜文化体育館 第四回MSGシリーズ
斎藤弘幸(6分4秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)


という感じです。この期間ではデビュー戦仕様のマスクとぬいぐるみマスクがそれぞれ使われており、まだあの見慣れたタイガーマスクのマスクではなかったんですね。その為、本人も試合中マスクを気にする様子が伺えます。


こうしてシリーズ内で5戦を消化するとタイガーは5月15日にメキシコ遠征に出発。5月17日から5月25日まで全5戦に参戦し、メキシコマットでも人気の的となります。


が・・・この遠征では人気だけでなく、今となっては驚くべき出来事もありました。


まずこの初日の17日に行われたルチャリブレの総本山、メキシコシティにあるエル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスでの試合です。メキシコシティ、海抜2400mの高地にあるエル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス・・・という古舘さんの実況を思わず口ずさんでしまいますが、まあそれはさておき、このタッグマッチです。なんと!!




小林邦昭がタッグパートナー!!


この日、タイガーは小林、グラン浜田と組みエル・アニバル、ベビーフェイス、ペロ・アグアヨと対戦しています。結果は反則絡みながら日本チームが勝利していますが、タイガーになってから、のちにライバルとなる小林とタッグを組んでいたとは驚きですね。


そして翌日5月18日、メキシコシティーから東へ約130キロに位置するプエブラ州のアレナ・プエブラでの6人タッグです。ここでも行われたのは6人タッグマッチで、タイガーの相手はスコルピオ、ビジャノⅢ、エル・カネックという強豪チーム。相対するタイガー組はタイガーマスク、エル・ソリタリオと、誰だと思います?これびっくりですよ。なんとビル・ロビンソンですよ!!


この時代はロビンソンは全日本への参戦が主でしたが、この時期はちょうどメキシコ遠征中だったようで、5月31日にはエル・トレオでカネックの持つUWA世界ヘビー級王座にも挑戦しています。


なのでこのタイトルマッチの前哨戦としてのロビンソンとカネックのタッグマッチという意味もあったのかもしれませんが、それにしてもカール・ゴッチ門下のタイガーとキャッチの重鎮ロビンソンが同じマットに立っていたとは、これは驚きですね。試合の方は2-1でタイガー組が勝利という記録が残っています。が、残念ながら画像が出てきませんでした。いやぁ~見たかったなぁ~。


さて、こうしてメキシコ遠征が終わると帰国したタイガーは6月3日に愛知県体育館へ登場します。



 
新しいマスクで登場した


この日は試合は行わずリング上から凱旋のあいさつをし、今後は日本マットを主戦場にしていくと宣言しました。で、この日からマスクがボクらが見慣れている、あの形になります。


そして6月4日、第四回MSGシリーズの最終戦となる蔵前国技館に登場。藤波とタッグを組んでクリス・アダムス、マイク・マスターズと対戦します。




スピーディな好連係で勝利


初となるこのタッグ結成でしたが、息の合った連係を見せファンを虜にします。この当時の藤波はとにかく素早く身軽。そこにきてのタイガーだったので、これは素晴らしいタッグチームとなりました。ちなみにこの日のセミはバックランドvsホーガンのWWFヘビー級選手権という豪華なものでした。


さて、愛知県体育館では日本を主戦場にという挨拶がリング上からされたのですが・・・タイガーはこの6月4日の蔵前での試合から、また少しの間姿が見えなくなります。


どうやらタイガーはこの後、イギリスへ戻り、タイガーマスクとして急遽日本へ帰国してしまったため行えなかった新設のタイトルの王座決定トーナメントにサミー・リーとして出場していた?ようなんですね。



 

新設のタイトルマッチがあることを伝えたとされるチラシ。しかし日時は不明なのでこの遠征時のものなのかどうかは不明


ここでのちに初代ブラック・タイガーとなるマーク・ロコと決勝を行ったという話もあります。が、情報があまりになく真相はわかりません。このときは時期的にタイガーマスクになったばかり・・・なのでその正体と噂される人物の他の試合の記事を伝えるのはタブーだったのかもしれませんね。だから資料が残っていないのかもしれません。


その後・・・第四回MSGシリーズの最終戦となる蔵前で藤波とタッグを組んで試合へ出場した6月4日から20日後の6月24日、タイガーは姿を現し、蔵前国技館で行われた“3大スーパー・ファイト(谷津のデビュー戦の日)”という大会にワンマッチ参戦します。対戦相手はビジャノⅢでした。




メキシコのトップルード、ビジャノ相手に華麗な空中殺法を展開した


結果はエプロンからヒラリとトップロープに上がっての、振り向きざまのプランチャを炸裂させ15分55秒、リングアウトで勝利しています。


このあと、3大スーパーファイトのあとはサマーファイトシリーズでしたが、このシリーズにもタイガーはフル参戦せず・・・ビジャノⅢ戦から1ヵ月以上経過した後半戦からの登場となりました。


これも詳細はまったくわからないんですが、ビジャノⅢ戦のあと、どうやらもう一回イギリスへ戻っているようなんですね。もしかするとサミー・リーとしての試合契約が残っていたのか・・・それとも別な理由があったのか?真実はわかりませんが、何かあったのかもしれませんね。


こうして7月31日より終盤に差し掛かったサマーファイト・シリーズへ途中参戦します。ここでのカードを振り返ると・・・


7月31日 大阪府臨海スポーツセンター サマーファイトシリーズ

スコルピオ(8分32秒 両者リングアウト)

※ローランド・ボックが新日本マットに初登場。


8月2日 後楽園ホール サマーファイトシリーズ(テレビあり)

スコルピオ (8分55秒 ローリング・クラッチ・ホールド)

※テレビマッチでしたが、録画中継で最終戦の蔵前の次の週に放送された


8月3日 八戸市体育館 サマーファイトシリーズ

ブラック・キャット(8分41秒 リングアウト)

8月4日 盛岡県営体育館 サマーファイトシリーズ

●ブラック・キャット、スコルピオ(14分50秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド)

※タッグマッチ。パートナーは星野。


8月5日 須賀川市体育館 サマーファイトシリーズ

ブラック・キャット(8分13秒 コブラツイスト)


8月6日 蔵前国技館 サマーファイトシリーズ最終戦(テレビあり)

スコルピオ(10分18秒 タイガースープレックス・ホールド)

※猪木vsマスクド・スーパースターの覆面剥ぎマッチと同じ日。



 

最終戦はタイガー・スープレックスがテレビで初公開された日でした


で・・・8月21日、大宮スケートセンターでのブラディ・ファイト・シリーズよりフル参戦になると・・・うーん、なるほどなぁ~。


このタイガーマスク誕生から定着までの流れを見ると、シリーズ参戦定着までは国内では同じ相手と何度も当たるような、試運転的な試合が多かったですね。しかし、かと思えばメキシコ、イギリスを往復し大きな試合をこなしたり、また謎の時間帯があったりしました。ヒーロー、人気者になっていくその裏で、人知れない苦労、苦悩があっただろうな・・・そんなことを思いました。



さて、その2ではタイガーコレクションが登場します。よろしく~!!



やっぱり好きだな~ その2

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どうも!!流星仮面二世です!!


さぁーそんなわけで!その2です!!


今回は大人になっても頭が少年のまんまなボクが、タイガーマスク関係のコレクションあれこれを紹介します。以前にはアニメのやつ何点か紹介したことありましたが、今回は初代タイガーマスク関連です。またもや完全に自己満足な内容、スネオも逃げ出す状態ですが、よかったら最後までお付き合いください。


ではまず、フィギュアから行ってみましょう。


初代タイガーマスクといえばキャラクタープロダクト、キャラプロがボクは真っ先に思いつきます。様々なプロレスフィギュアを手掛けていますが、タイガーマスクのクオリティーは高いですね~。そんなキャラプロのフィギュアはこちら。




基準となる1st版です


これはWWFとNWAのジュニアのベルトが付属されているものです。購入したのはもう15、6年前にもなりますかねぇ~。


そしてこちら。




DXといったところですかね


こちらはマントと上半身の佐山が付属されたものになります。これも15、6年前かな~。


実はこの3点のフィギュア、初期製造分はマスクやマントの黄金色が緑色に変色し剝がれてしまうという現象がありました。




左が初期。こんなにちがいます


のちに改善されましたが、ボクは未開封品はこの初期のをキープしておりますよ。


ちなみに付属されたベルトは本物を忠実に再現です。




どうですか~?


82年5月25日の静岡産業館でのレス・ソントン戦でのNWA世界ジュニアヘビー級王座奪取、そして5月26日、大阪府立体育館でのブラック・タイガー戦でのWWFジュニアヘビー級王座奪取ですね!!栄光のジュニアヘビー2冠王がフィギュアで再現です!!


さて、続いてはこのシリーズのあとに出たこの品。




マスク付きです


これももう10何年か前ですね。これはマスクが、おそらくシリコン製なんですかね。柔らかい仕様で出来ていて、こう被せられるというものでした。でもすごく精巧に出来ていて・・・すごい技術だと思いましたねぇ。




マスクを拡大すると


デビュー戦仕様、牙付き、伝説、ヤギリと、まさにちがいの分かる男のゴールドブレンド状態。これだけでもいいですね~。なんて思ってたら、こんなのがすぐ後に出ました。




ストラップ4種


これはマスクの種類こそフィギュアのとまったく同じですが、上のがシリコン製に対しマスクのサイズが小さい、完全プラスチック製でした。こだわりますね!!この企画制作者の方に感謝と敬服です。




こんなのもありました


で、その頃、こんなのも出ました。これは先に出たものより小さいサイズでしたが関節が動くというものでした。これ、当時もうひとつ持ってて、それを同じくらいの大きさのなんかのフィギュアに技かけて飾っておいたんですが、小さかった頃の娘がおもちゃとして遊んでしまい、破壊されたという哀しいエピソードがあります。まあどうでもいい話なんですが・・・




プロレス消し


続いてはプロレス消し、というやつです。見た目はキン消しっぽいですが、キン消しより硬くてちょっと大きいですね。こちらは全30種で、そのうちタイガーマスクはこの3種類のみです。これ出すために2、30個買いました。若かったのでボクも勢いがありましたね~。


キャラプロ、最後はこちらです。




プロ各ヒーローズ


これはサンクスで売られていたものだったんですが、いろいろなレスラー他、シリーズもあってなかなか思ったものが出ませんでしたね。そんなわけでヤフオクで探したら、タイガーマスク系は特に人気があり1個5000円を超えたりしてしまい、入手困難で・・・未だコンプはできていません。ちなみにこちらは大きさは、そうですねぇ~親指程度でしょうかね。非常に小さいです。でも、高額でした。うむむ~です。


次は、こちら。エポック社のヘッドライナーズです。




大きさは10センチくらいかな?


このシリーズは大リーグやNBA、サッカーなど、いろいろなシリーズが出ています。プロレスは藤波やムタも出ていました。


タイガーマスクはご覧のように土台の色ちがいで2種類がありました。しかしこれ、未開封品かと思ってたら開封品しかなかった・・・どっかへしまい忘れてしまったのかな?

続いてはちょっと箸休め。4代目です。




ちょっと大きめ


まずはこれ、インスパイアのタイガーマスクのキーホルダーです。これはまだ4代目タイガーがみちのく所属の頃のですね。


実はこれ、同じシリーズでこの4代目の他にアニメ版のタイガーマスクとタイガー・ザ・グレートのもあり、大きさも一緒だったのですが・・・当時なぜか


「G.I.ジョーのフィギュアに被せられる」


という売り文句がありました。しかしなんでG.I.ジョーだったのかな?


続いて4代目、こちらです。




携帯ストラップです


これは2007年頃、新日本の会場で買ったものです。ものすごい低迷していた頃ですねぇ~。


しかし携帯ストラップという世界も今や絶滅の一途ですね。時代も変わるもんです。


さあ、箸休めも終わり、いよいよ佳境に入ってきますよ~。お次はこちた!!いや!こちら!!




タイガーマスク


出してしまいました伝家の宝刀。紫電一閃、抜けば飛び散る氷の刃!!やっぱり、いいなぁ~。


で、これ、あのときは触れられなかったんですが、お問い合わせ等も少々あったんでこの場を借りて・・・メーカーはこちら




OJISAN製です


OJISAN企画、もうプロレスファンなら知らない人はいない名称ですよね。ちなみにボクが中学校の時、初めて買ったマスクがスーパーストロングマシンのマスクでOJISAN製だったのですが、それはこのマークがタグじゃなくてスタンプでした。当時はスタンプ?と、複雑な気持ちになりましたが、あれも今となってはレアかな?


あさぁーそしてOJISAN企画が出ればもちろんこちらも!!




タイガーマスク


これもいいでしょ~伝説タイプ!!いいなぁ~。見ているだけでメシ何杯でもいけますね。


で、こちらは




SIMAスポーツです


SIMAスポーツ製です。しかも、豊嶋氏のサイン入り!!ふっふっふ・・・虎の穴を甘く見るなよ~!!


続いては直筆サインシリーズです。




まずは・・・


これは昔、9年か10年前にもなりますか・・・リアルジャパンプロレスを観に行ったとき会場で売っていたので購入したものです。このときは佐山タイガーが鈴木みのるとシングルやったんですが、それよりもレフリーがユセフ・トルコだったのが今となっては貴重でしたなぁ~。


さて、続いてはこちら!!




サイン入り生写真


これは昔、鑑定団マスク譲ってくれた方がボクにくれたものなんですが、これいいですよねぇー!!


その人曰く、この写真は読者の投稿ページでなんらかの雑誌に載った過去があるそうです。で、たまたま機会があって、それにサインをいただいたという一品です。




拡大すると


 ただ、その本の名前は不明なんです。当時はいろんな本でタイガー取り上げてましたから、どんな本だったのか?名前はわからず未だ確認は取れません。


マスクとこのベルトの選手権から撮影時期を予想すると83年2月7日の蔵前でのブラック・タイガー戦か、2月8日の大阪府立での小林戦のどちらかじゃないかなぁ・・・


ご存知の方、または写真から予想できる方はゼヒ!!ご一報よろしくお願いいたします。


お次は、これだーぁ!!




ザ・タイガーのポスター


ザ・タイガーのサイン入りポスターです。実はザ・タイガー名義で試合したのは旧UWFでの無限大記念日ですね。84年7月23日、後楽園ホールでの高田と組んでの藤原、前田とのタッグマッチ、そして翌日24日、同場所でのマッハ隼人とのシングルのみ。2試合しか行っておりません。活動期間が短い、ということで貴重~と勝手に自分に酔っております。




拡大すると

タイガーの筆記部分はタイガーマスク時代と同じ感じなんですね。


サインシリーズ、ラストはこちら!




シューティング・カレンダー


こちらはシューティング・カレンダーへの直筆です。


カレンダーと言いながら、実はこれ、この3月、4月の部分しかありません。なのでいつのカレンダーなのか・・・写真からすると、おそらくシューティング入門が出た頃だと思うので86、7年くらいのかなと思われます。




拡大すると


これ白黒というのが味があっていいですね。さらにサイン書いた場所がフラットでなかったのか、インクがあまりなかったのか?ちょっとギザッとしている字質がいいですね。


さーぁ自己満足もいよいよ最後です。最後は、これだー!!



タイガーマスク小銭入れ


これは中1のとき東京の上野にあったリングサイドというプロレスショップで買ったものです。気に入っていて、中学時代はこれに非常時用に何十円か入れていつも持ち歩いていました。


しかし、そのときは考えが至らなかったというか・・・気にもしなかったんですが、今にして思うと、これってどこで出してた小銭入れだったんでしょうね?


裏を見ると・・・




う~ん


「Ⓒ TOSHI & SEIKATSU. CO . LTD」


という文字があります。


Ⓒは著作権のマークなので、その辺はちゃんと通しているようです。が・・・


TOSHI&SEIKATSU?都市と生活?株式会社?


ネットで調べてみると「株式会社 都市と生活社」という会社が一件ありました。事業内容は印刷のようです。しかしプロレス関係のことはまったく関連性出ませんでした。


でも、もしかするとここの会社が大昔、印刷した品物・・・?ということなんですかね?それともまったく関連ないのかな?




中はこんな感じです(手を放すと閉まっちゃうんでテリーマンが押さえててくれました。さすがナイスガイ)


中を見ても、新日本プロレスを現すものは見受けられませんでした。


これ知ってます!!という方、もしいらっしゃいましたらご一報よろしくお願いいたします。



さて、2回にわたってお送りしましたタイガーマスク特集いかがでしたでしょうか?


大人になった、いや、それどころかもう40代も中盤・・・でもいつもタイガーマスクを見るといつも子供の頃のように戻ってしまう自分がいます。


だからあの日から、試合を見てはワクワクし、グッズを見ては喜んでいました。残業が終わって帰る人気のない通勤路を車で帰るときも、ローリング・ソバットを聴かなかった日はありませんでした。息子が行っている柔道場で、何十年ぶりにネック・スプリングをやってみて、そしたらまだできて・・・学校でいつも練習していて、初めてできた日はタイガーマスクと同じことできた!!と喜んだ・・・あの頃を思い出し、同じ気持ちになって、すごくうれしくなりました。


タイガーマスクを追いかけるということは、夢を追いかけるということだったんだなぁ~と・・・思いました。


いくつになっても、やっぱり好きだな~。


最後までありがとうございました。


魂の、ゴング!!

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どうも!!流星仮面二世です!!

さーぁ!!というわけで12月7日、新日本プロレス

戦国炎舞 -KIZNA- Presents WORLD TAG LEAGUE 2016 水戸大会

行ってまいりました。

今回は世界一のケンドーカシンファンのPなわ さん(プロレス2016.12.7水戸大会を生観戦(主に永田サン) )と会社の大先輩でいつも一緒にお仕事している、お世話になっているCさんと内藤の大ファンという娘さん。そしておなじみ先輩というメンツでの観戦です。


そして我が家からはボク流星仮面二世とご存じ息子の流星仮面三世。そして97年1月4日のWRESTLING WORLD in 闘強導夢以来、約20年ぶりのプロレス観戦になります、しゃべる核融合、肉体磁気嵐とも言われるウチの嫁、マスクド・スーパーマザー(三世命名)が満を持して参戦!とうとう親子での参戦が実現であります。

で・・・スリーショット撮ったんですが、嫁にマスクド・スーパースターの赤のマスク被せたら、どう撮影しても“赤く着色した妊婦の鏡餅”みたいにしか写らず・・・要するに、マスクが鬼のように似合わないということで、家族会議の結果、本人もどうしてもこれは見せられないということで自粛となりました。



まったくもう・・・


と、のっけから波乱のスタートとなりましたが、今回はここに至るまでが大変でした。


実はこの観戦日の前の週、三世が肺炎になってしまい1週間学校を休むという緊急事態が発生してしまいます。週明けも熱が下がらなければ、この観戦は万事休すといった状態だったのです。


しかし週明けから驚異の回復を見せ、月曜日には熱も下がり学校への登校許可が出るまでに漕ぎ着けました。こうして・・・体調は万全とは言えませんでしたが、この日の観戦は可能な状態となったのです。とはいうものの、並の小学生ならまだフラフラの状態だ。だがよー!!プロレス観戦の今日は、こうして来ることができた。体調不良だろうが、もう誰も三世を止めることはできねぇ・・・なぜだかわかるかオイ~?ヴ~ベルがちがうんだよこのやろぉ!!

しかし、心配事はそれだけではありませんでした。この日のためにチケットを、おなじみ先輩にお願いしたのが10月19日のことでした。で、当日は直接会場に行く方がいたので事前に受け取りたくお願いしたのですが、待てど暮らせど先輩のところにチケットが届かないという異常事態が・・・先輩も先方にマメに連絡入れてくれますが、なぜか送られてきません・・・これは一体!?

いくらなんだって時間かかりすぎじゃないか・・・一緒に行く人は有休、半日有休をわざわざ今日のために取って行くんだぞぉ・・・これで当日になって、チケットありませんよ♪なんてことになったらどぉーすっぺ!!水戸市民体育館の前を流れる那珂川に身を投げるしかねぇよぉ~・・・

16時過ぎ、現地に行くと一緒に行く方々はすでにいました。合流し、みんなと会場入りするレスラーを待ちながら話をします。家族もみんなも、なんてうれしそうな顔なんだ・・・本当に今日を楽しみに来たんだなということがわかりました。




続々と会場入りするレスラーに、ファンたちのボルテージも上がってきます。が・・・


しかし、まだそこに先輩の姿はありません。顔で笑ってはいましたが、ボクの頭の中はチケットが鳴門海峡の渦潮のように巡り、内蔵は内側からストマック・クローをされたよう・・・このみんなの笑顔が、もしかしたら数分後に阿修羅と化すかもしれない・・・あああ・・・


そこに!!17時を過ぎたとき、やっと先輩が!!だぁぁー先輩ぃぃぃー!!


急いでチケットを受け取りに行く先輩。そして、あ~チケットが、やっとみんなの手元に・・・


おれの仕事は、これで80%終わった。よかった~・・・

こうしてやっと中に入ります。入ると、嫁は飲み物を購入していくというのでボクと三世は先に席に向かいますが、入ってすぐのところで地方でよくやってる本間のサイン入りTシャツ販売が。

「お母さんはこういうの、必ず食いつくから」

と三世だけ席に向かわせ、ボクは入り口で待つことに。そして入ってきた嫁さんにここを指さすと

「あら、こけしの人!!」

と予想通り突入開始です。



書いてもらってます

で、最後、記念撮影です。ここでボクが嫁さんを撮影しようとしたんですが・・・このとき、お父さん!と、ボクを呼んだ嫁の声を聴いた本間が


「お父さんも一緒にどうぞ」


と、あの独特の声で呼んでくれました。いや、でもボクはTシャツ買ってないので・・・と、少々躊躇しますが、しかし、どうぞどうぞ!という笑顔の本間。そ、そうですか?




というわけで(嫁のマスクは合成です)


いやぁ~まさかボクまで本間と並んで写真撮れるとは・・・かつてジェラルド・ゴルドー、グレート小鹿を引き寄せた、これが嫁のパワーか!?


しかしながら本間、なんて優しい!!声もテレビみたいにわかりずらくなくて、丁寧な物腰柔らかい言葉使いでした。本当にありがとうございました(※タッグリーグ優勝おめでとうございました)


さて、試合です。まず、ざっとカードを振り返ると・・・


第1試合20分1本勝負
金光輝明、本間朋晃、真壁刀義vsデビッド・フィンレー、ビリー・ガン、ヨシタツ


第2試合20分1本勝負
タイガーマスク、永田裕志、柴田勝頼vsBUSHI、SANADA、キングオブダークネスEVIL


第3試合20分1本勝負
YOSHI-HASHI、石井智宏、後藤洋央紀、オカダ・カズチカvsBONE SOLDIER(ボーン・ソルジャー)、チェーズ・オーエンズ、バッドラック・ファレ、ケニー・オメガ

そしてここからは「WORLD TAG LEAGUE 2016」のAブロック公式戦で続きます。


30分1本勝負
ジュース・ロビンソン、棚橋vsヘナーレ、中西学


30分1本勝負
小島聡、天山広吉vsブライアン・ブレイカー、リーランド・レイス


30分1本勝負
ハンソン、レイモンド・ロウvsハングマン・ペイジ、高橋裕二郎

30分1本勝負

ルーシュ、内藤哲也vsタンガ・ロア、タマ・トンガ


この日、Aブロックの決勝進出チームが決まるとあって、まるでテレビマッチのような豪華なカードが連続しました。初参加のレスラーも多数で、思ったところもいろいろあったのですが、今回は我が家にとっては第3試合の、この試合がすべてでした。


ここでも何度か書いていますが、ボクが初めてプロレスを生で観戦したのは小学校6年生のときの新日本プロレスのサマーファイトシリーズでした。


猪木が藤波が長州が・・・いつもテレビでしか見れなかったレスラーが、本当に目の前にいる。あのときの感動は今でも忘れられない思い出です。


息子の三世は2013年にプロレスを知り、それからプロレスファンになりました。いや、正確にはオカダ・カズチカのファンになったんです。テレビは欠かさず、大きい試合は観に行くこともありました。それこそオカダに関しては一瞬画像を見ただけで、この試合はいついつのどの試合・・・と答えられるほどのファンになりました。


しかし、たったひとつ、三世がオカダに関して成しえていないことがありました。それは


“オカダに触る”


ということでした。


憧れのレスラーに触る。これまで叶わなかったこの夢を、なんとか三世が小学生のうちに実現させてあげたい。肺炎で熱を出し寝込んでいる際にも、うなされながらオカダの夢を見ていたというほどの三世に、なんとか・・・


大きな会場ではほとんど不可能なことです。しかし、地方ならば、もしかして!!ということもあります。この観戦が終われば、次に観に行くのは来年の1.4になってしまう・・・これが小学生でのラストチャンスだと思いました。


第3試合の始まりはあっという間に来ました。入場の場所はリングへ中央に伸びますが、ボクらのところからはまったく手が届きません。しかし退場は、レスラーにより目の前を通り過ぎます。退場時、もしこちらを通れば・・・この可能性にかけるしかありません。


1.4の前哨戦ということで8人タッグでオカダとケニーが絡みます。三世は目の前にいるオカダに歓喜し興奮度はマックスです。ボクは、とにかく退場はこっちに・・・と、それを願うばかり。いろんな意味で気になるのはオカダのみでした。




コーナーに立つオカダ


そんな状況の中、試合の中盤でした。各レスラーが場外でのファイトを開始しだしました。鉄柵へ、コーナーへ・・・その迫力にお客さんも興奮が増します。が・・・そのときでした。


なんと場外でオカダを攻撃していたボーン・ソルジャーが、まっすぐこっちに向かってきたのです!!




!!


さらに鉄柵を開け、通路にあった入退場用のサイドフェンスをも跳ね除けオカダをなぎ倒すと、その勢いは観客席に到達しました。ここでダメ押しとばかり椅子で攻撃を加えるボーン・ソルジャー。その迫力に周囲は圧倒されます!!


ひと通り攻撃を加えると、先にリングへ戻ったボーン・ソルジャー。しかしオカダはまだ、起き上がれません。


なんということだ・・・ボーン・ソルジャーがオカダをここまで痛めつけてしまったことが!?


いやちがう!!この一部始終が、この乱闘が実はすべて三世の目の前で展開されていたことがだ!!




お、オカダが目の前にいる!!


千載一遇とはまさにこのこと!!


「行こう!!行こう!!」


と言葉をかけるボク。関係者に怒られてもいい!!なんかあったら父さんがあとで謝りに行ってやるから、行くんだー!!

「オカダー!!」

という声と共に、若手レスラーのガードを掻い潜り三世が手を伸ばすと、あああ・・・ついに!!三世の手がオカダをとらえた!!


とうとう、三世がオカダに・・・ああ~おれ泣きそ~・・・


やがて、ようやく起き上がったオカダでしたが、途中、よろめき膝まづいてしまいました。これほどまでのダメージだったのか・・・と思ったが早く、なんと膝まづいたその位置が、これがまた三世の目の前でした。



なんという奇跡だ・・・


「オカダ、がんばれ!!オカダー!!」


タオルを振り、声を上げる三世。その声はオカダに届いたか!?


いや、聞こえたはずだ。オカダを見たい一心で今日に間に合ったんだ。場外乱闘も、この気持ちが引き寄せたんだ!!この3年間の思いが!!


平成のプロレスファンの生きざま、見せてもらったぞー!!


こうして・・・親子そろっての初めてのプロレス観戦は行く前から終わるまで本当にいろいろなことがあって、ひとりひとり、それぞれ忘れられないものになりました。


12月7日、実はこの日は三世の誕生日の前日でした。11歳最後の日に行ったプロレスで、この3年の願いが叶った三世。翌日は、我が家で三世の誕生日を祝ってお誕生会をしました。


昨日の余韻もまだ冷めない我が家のテーブルに、メインとなるケーキをニンマリとしながら取り出す嫁さん。


「どおぉ?」


とサプライズを見せつけます。


が・・・




んん!?


三世「・・・?」


ボク「お、お母さん、ここはオカダ・カズチカじゃなくてレインメーカーって入れるんじゃ・・・?」


嫁「あー・・・」


こうして、誕生日の夜は更けていったという・・・



さて、本年最後のプロレス観戦記、いかがだったでしょうか?


今回、近年テレビでもよく取り上げられる熱烈な女性プロレスファンも、もちろん会場には見えましたが・・・友達同士のグループで来ていた人たちや、幼稚園生くらいから小、中学生のお子さんと一緒に来ていた家族連れの姿も見ることができました。きっとあのグループも家族たちも、学校で職場で、帰りの車の中で、家での夕食で・・・観に行ったプロレスの話を、みんなでしていたんだろうなぁ~と思うと、なんだかとても心が暖かくなるのでした。


思えば、通信機器の発展・・・出初めはとぎれとぎれで話していた携帯電話が、今ではパソコン並みのスペックで能力を発揮する機器へと姿を変えていきました。ゲーム、動画、SNS、調べ事・・・便利になりました。しかしその分、日常ではコミニュケーション、会話が減ってしまったといいます。


同じものを見て、同じことに対して話をする。かつて日本で当たり前のようにあった光景は、確かに減ってしまったかもしれません。でも、プロレスを見に来たファンがそうだったように、いつか戻ってくる日がくると・・・今回プロレスを観に行って、そんなことを思いました。


今年もたくさんの思い出をありがとう、プロレス!!






同じ空の下で

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どうも!!流星仮面二世です!!

さて、もう1年以上も前ですが、こんな記事を・・・

父さんを超えてゆけ

みなさんにご紹介したことがありました。

その後、本年は新日本でファイトしているデビッド・フィンレーがデイブ・フィンレーの息子と知って驚きましたが、今年のWWE初観戦ではジム・ナイドハートの娘ナタリア、祖父がバイキングことラリー・ヘニングにして父がミスター・パーフェクトのカート・ヘニングというカーティス・アクセル、そしてあのリック・フレアーの娘シャーロットと・・・二世たちを目の当たりにし、文字通り仰天。これほど多くの二世がプロレスラーになり成功しているという事実に驚愕した次第です。

しかし・・・年末は新日本プロレスでのタッグリーグ戦が大変盛り上がりましたが、そこにもまさかの二世レスラー登場でびっくりでした。そう、タッグチームとして出場していたレスラーに、リーランド・レイスという名前があったのですが、これがあのハーリー・レイスの息子だったそうで・・・これは驚きましたね~。レイスの息子がプロレスやってるなんてまったく知りませんでした。

なんて感心していたら、タッグリーグも終わったついこの間、新日本プロレスで新しいバレットクラブのメンバーが発表されましたが・・・この選手がコーディ・ローデスという名前!まさかとは思いましたが、そう、あのダスティ・ローデスの息子なんだそうです。

これは驚きというか意外でした。ダスティの息子ってのちにゴールドダストもやったローデスJr、ダスティンしか頭になかったので・・・それにしてもずいぶん年齢が離れている兄弟じゃないか?と思って調べたら、どうもローデスJrとコーディは異母兄弟になるようです。なるほどなぁ~。

いやぁ~しかし・・・かつてのトップレスラーだったレイスとローデスの、その子供たちが大きくなり、我々の前でプロレスをするなんて考えてもみませんでしたよね。本当に時代の流れを感じます。あのレイスとローデスの、ですよ。そう、ハーリー・レイスとダスティ・ローデスです。


この名前を聞けば、79年から80年代のNWA黄金期をおいて語ることはできません。


ハーリー・レイス、みなさんもう十分知っていると思います。ご存じミスタープロレスですね。レイスは1958年頃、15歳のときに伝説のレスラー、スタニスラウス・ズビスコの下へ日本でいうところの押し掛け弟子としてプロレス修行に入ります。ここでレスラー修業を積むと、まずサーカスなどで力自慢の素人を相手にするカーニバル・レスラーとしてデビュー。その後60年に本格的にプロレスデビューすると着々と自身のスタイル、ポジションを確立し73年にミズーリ州で4年3ヶ月にも渡り王者に君臨していたドリーファンク・ジュニアを破りNWA世界王者を初栄冠。以後、同王座を通算8回獲得するという快挙を成しえました。




NWA初栄冠時の若き日のレイス。ハンサムのニックネームもうなずけるカッコよさだ


相手の技を真っ向から受け豪快に受け身を取りながら、対戦相手の良いところを引き出す技術は超一流。しかし最後はバーディカル・スープレックスと呼ばれたブレーンバスターとダイビング・ヘッドバットで自身の持ち味も十分に出し勝利するというスタイルが人気を博し、NWA黄金期の中心人物として活躍しました。日本でもジャンボ鶴田からUNを、馬場さんからPWFをと、その他数々のタイトルを手にしてきたまさに強豪でした。


ダスティ・ローデス、こちらもお馴染みだと思います。ローデスは1968年にテキサスのサンアントニオにて当時サンアントニオ地区でプロモーターをしていた、レスラーでもあったジョー・ブランチャード(タリー・ブランチャードの父親)のコーチを受けプロレスラーとしてデビューします。デビューまもなくディック・マードックとテキサス・アウトローズを結成すると"ダーティ"ダスティ・ローデスとしてヒールで活躍。NWA、AWAエリアを又にかけ暴れまわりました。74年よりベビーフェイスに転向するとダーティからアメリカンドリームへ変貌を遂げ人気上昇。79年の8月にはフロリダ州タンパでレイスを破りNWA世界王座を奪取しました。




配管工の息子から世界王者へ・・・まさにアメリカンドリームを掴んだ男だったローデス


以降、80年代のアメリカマットでナンバーワンの人気を誇り、アンドレ・ザ・ジャイアントと並んで"最も有名で客が呼べるレスラー"となりました。


こんなふたりの戦いはお互いに最もスイングし、実力を出し合えることができたことからアメリカで大変な人気を集めたドル箱カードでした。

しかしながら、海外でのドル箱にして黄金カードだったレイスとローデスの試合でしたが、日本マットでは双方、上がっているリングが全日本、新日本とちがっていたため、日本のファンがその対決を見ることができたのはわずかに2回だけでした。


ふたりの戦いが日本で唯一行われたのは今からおよそ42年前・・・レイスとローデスが、まだ激しい抗争を行う前の75年12月6日、東京・足立区体育館で行われた全日本プロレスの世界オープン選手権の開幕戦でのことでした。



今や伝説となったオープン選手権の開会式

このオープン選手権は、いやこれは説明しだすと本題に入れず終わってしまうので省略いたしまして・・・この日はドン・レオ・ジョナサンvsアントン・ヘーシング、アブドーラ・ザ・ブッチャーvsドリーファンク・ジュニア、馬場さんvsバロンフォン・ラシクなど公式戦が6試合行われました。

対戦カードのファン投票があり、その順位も試合に添えられ発表されたこのオープン選手権では、当日のカードではブッチャー、ドリー戦がファン投票第2位に位置する好カードだったため、この日のファンの興味をそそりました。そんな・・・ブッチャー、ドリー戦の試合の前に行われたのがファン投票第29位だった、このレイスvsローデス戦でした。

71年11月に国際プロレスに初来日した際はヒールの“ダーティ”ダスティ・ローデスといわれたラフ・ファイター。先にも出ましたがディック・マードックとのテキサス・アウトローズでヒールとして大暴れ。このオープン選手権の前のシリーズのジャイアント・シリーズ第2弾でも、このテキサス・アウトローズとして馬場さん、鶴田のインタータッグへ挑戦し大暴れしていました。

そんなヒールのローデスでしたが、このレイス戦ではレイスの攻めを自分のテンポで交わしつつ試合を進め、観客とのやり取りを見せながら試合をリードしていき好勝負を展開。会場からはレイス相手に奮闘するローデスに、まるで正統派のレスラーへのような声援が上がりました。



ローデスの攻めに会場も熱狂した

そう、それはそれまでの“ダーティ”ダスティ・ローデスのような試合運びではなく、のちの“アメリカンドリーム”ダスティ・ローデスの原型のようなスタイルとなったのでした。

しかしながら百戦錬磨な巧者のレイス。責め立てるローデスのスキを逃さず、最後はローデスのエルボードロップを自爆に誘い、得意技のダイビング・ヘッドバットを炸裂させ10分41秒、ピンフォール勝ちを納めています。


エルボー自爆のローデスにダイビング・ヘッドバットを狙うレイス。この時点では一枚上手だった

レイスの持ち味とローデスの覚醒がマッチし、ブッチャー、ドリー戦を前に会場が思わぬ盛り上がりを見せたこの対決。日本でのローデスのベストバウトと上げる関係者も多く、かくれ名勝負としてマニアの間では語り草となっています。

これが・・・のちのドル箱カードにして、ローデスがレイスからNWA世界王座を奪取する6年も前に日本で実現していた、日本マットでのたった一度だけのふたりの試合でした。

その後、日本では接点のなかったふたりでしたので、日本のマット上での対決が行われることはありませんでしたが・・・実は日本で、このカードを見る機会がもう一度だけあったのです。


それはこのオープン選手権での戦いから5年後の80年の元旦に放送されたワールドプロレスリングの「新春プロレススペシャル」ででした。そう、日本でファンが目撃した二度目のふたりの戦いは、驚くべきことに新日本プロレスでの放送でだったのです。

え!?80年に・・・!?ローデスはわかるけど、当時全日本プロレスで大物看板外人だったハーリー・レイスがテレ朝のワールドプロレスリングに出たんですか!?そんなことがあったの!?
と、そう思った方もいたと思います。確かににわか信じられませんが、しかしこれがあったようなんですよ。

この日、80年の1月1日に放送された新春プロレススペシャルは前年79年の12月17日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたWWFの定期戦の録画中継で、その内容はボブ・バックランドvsボビー・ダンカンのWWFヘビー級の王座決定戦からアントニオ猪木vsアイアン・シークのNWFヘビー級選手権、藤波辰巳vsジョニー・リベラのWWFジュニアヘビー級選手権、坂口征二、長州力vsバッドニュース・コージ(アレン)、ジョジョ・アンドリュースのNWA北米タッグ選手権と、当時の新日本の主力がごそって参加したものでした。

そのため、この年の元旦の特番としてこの試合の模様が放送されたわけなのですが、実はこの大会ではこれらの試合の他にNWA世界ヘビー級選手権も行われていたんです。それがレイスvsローデス戦だったのですが、これが当時この枠内で放送されたそうなんです。

当時すでに黄金カードとなっていたレイスvsローデス戦でしたが、この両者の戦いがMSGに初上陸したのがこの日だったそうで・・・ニューヨークのファンの熱狂ぶりはそうとうなものだったそうです。

試合の方はローデスが試合早々あの小気味いいパンチで先制し主導権を握り、アトミックドロップ、ドリルアホール・パイルドライバーで攻め優位に試合を進めていきます。



レイスのブレーンバスターを切り返しアトミックドロップに取るローデス

しかし後半、レイスのヘッドバット、額へのニードロップを受け大流血してしまったローデスは窮地・・・なんとか巻き返しますが、反撃も空しく13分21秒、レフリーストップで無念の敗北を喫してしまいました。


 
押し気味に攻めながらもあと一歩のところで・・・


またもレイスの巧妙さにやられてしまったローデスでしたが、MSGで初めて行われたレイスvsローデス戦を目の当たりにしたファンは大熱狂。次こそは!!そんな期待をローデスにかけ、黄金カードは益々輝きを増していくのでした。


その後、81年6月にローデスがレイスを破り2度目の王座に就きますが、この3ヶ月後の9月には着々と実力をつけてきたリック・フレアーが初栄冠。レイス、ローデスの抗争の輪に入った形になり、レイス、ローデス、フレアーと、まさに戦う三角関係抗争が勃発。ますますエキサイティングな流れとなりました。 


その歴史をNWA世界戦に絡め振り返ってみると・・・


第53代 ダスティ・ローデス 

79年8月21日 フロリダ州タンパ 

※レイスより奪取


 
まさか!?と周囲を驚かせたタンパでの王座奪取


第54代 ハーリー・レイス  

79年8月26日 フロリダ州オーランド 

※ローデスより奪取


第61代 ダスティ・ローデス 

81年6月21日 ジョージア州アトランタ 

※レイスより奪取


 

ローデスはアトランタで二度目の王座奪取


第62代 リック・フレアー  

81年9月17日 ミズーリ州カンザスシティ 

※ローデスより奪取



82年4月2日、テキサス州アマリロで行われたファンクス主催のビッグマッチ

“THE EVENT in amarillo”ではメインで激突した


第63代 ハーリー・レイス  

83年6月10日 ミズーリ州セントルイス 

※フレアーより奪取


第64代 リック・フレアー

83年11月24日 ノースカロライナ州グリーンズボロ 

※レイスより奪取


 

ノースカロライナで行われた金網でのNWA戦ではレイスが敗れた


 第65代 ハーリー・レイス

84年3月21日 ニュージーランド ウェリントン 

※フレアーより奪取→フォールカウントが早すぎたとして王座預かりとなる


 

ニュージーランドでのNWA戦はレイスがピンフォールで一旦は奪取するが、空位に・・・


第66代 リック・フレアー

84年3月23日(25日?) シンガポール カラン 

※前日22日(23日?)にレフリーのミスジャッジだったとしてフレアーにタイトルが戻る



改めてフレアー王者として行われたシンガポールでの戦いはフレアーが勝利


第69代 ダスティ・ローデス 

86年7月26日 ノースカロライナ州グリーンズボロ 

※フレアーより奪取


第70代 リック・フレアー

86年8月9日 ミズーリ州セントルイス 

※ローデスより奪取 


セントルイスでの防衛戦でフレアーに敗れたローデスは、これが最後のNWA王者姿となった


と、うーん、なるほど・・・ガンガンやり合い、白熱した戦いを繰り広げたのがよくわかります。加えて、画像を見るたびに、こういった試合を楽しみに会場に集まったファンの気持ち、ですねぇ~。今日はおれの街にローデスが出るんだぜ!!今日はレイスとフレアーがやるの観に行くんだ!!そうやって何日も前から楽しみにしていたワクワク感、そういうものが今、この30年以上も前の画像を見ていても伝わってきます。


NWA戦はもちろん、レイス、ローデス、フレアーだけではありませんでした。この他にも様々なレスラーと世界のいたるところで対決がありました。その勝負の数だけ、こういった楽しみがあったのです。そしてレスラー本人も、楽しかったにちがいありません。


NWAはWWFの全米侵攻のあおりを受け、88年11月にWCWに買収され名前こそあったものの事実上、同年崩壊してしまいます。81年から87年までのNWA最後の6年で夢をくれたレイス、ローデス。NWAはなくなってしまったけど・・・


当時を戦ったレスラーの、その息子たちがリングに上がることで、ボクらはこうして歴史を語ることができます。そして・・・そんな歴史のことなんて知らない、二世レスラーなんて意識もない。純粋に現在のプロレスラーの試合を見て、そのファイトに惹かれ熱狂し応援する世代のファンもいます。


時代も変わり、プロレスも変わりました。でも、今も昔も人間が住んでいるのは同じ空の下、世界中が繋がった空の下です。だから、レスラーを介して世代を超え、プロレスに向けられている思考があることって・・・こんな素晴らしいことはないですね。そんなことを考えると、これもまた楽しく、うれしい気分になります。



さて、今年も残りわずか・・・本ブログもこれで本年最後の更新となります。


今年も1年間、読んでくれてありがとうございました。



初詣だぜ!!

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どうも!!流星仮面二世です!!


みなさん、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします!!


さあーというわけで年明け一発目はもちろんこちら!!

戦国炎舞 -KIZNA- Presents WRESTLE KINGDOM 11 in 東京ドーム

いってまいりましたでございます。


さっそく行ってみましょう!!


さて、毎年恒例の東京ドーム、今回はボクと息子の三世、そして幼馴染という昨年と同じメンツであります。

と、ここでいつもなら記念写真を挟むところですが、着いてみたら、なぁんだぁ~この人は!!これみんなドームに来たファンか・・・多い、多すぎる!!ダメだ、直ちに並ばないと第0試合に間に合わない。というわけで、なぜかつくばエクスプレスで電車酔いしてしまい初期のグレート・ムタのような顔色のまま、崩壊しそうなストマックをなだめつつ苦しみをこらえ並んで約20分。会場にインします。

ようやく定位置に着くと、電車酔いも治まってきてリラックス。しかし、しばらくするとボクの周りをチケット持ちながらうろうろする家族が出現。案内のお姉さんに何かを聞き始めました。

ふむ~、ドームの座席がわからんとはまだまだだな~。と、余裕で見ていると、

「お客様?チケット拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」

という笑顔のキレイな案内のお姉さん。おいおい君、私はプロレスの他にも安室ちゃんやcomplexのライブでもここに来ている大ベテランなんだよ。それを君ぃ~私が席を間違えてると言うのかね?とチケットを見せると・・・

「お客様は、もっと前のお席ですね」

へ!?

こ、これはぁ!!

おれはチケットを見て23列目に座ったと思ったら、いつのまにか32列目に座っていた。な・・・何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった・・・と気分はすっかりポルナレフ(byジョジョ)

そういやあまりの気持ち悪さに早く座りたくて、ろくにチケット確認しないで座っちゃったからな・・・しかし23と32を間違えるとは、そうとうな電車酔いだ。この先大丈夫かな~?いや、きっと始まってしまえば大丈夫!!


さあ、試合です!!ワタクシ、テレビはまったく見てないです。会場で見たありのままで行きますよ~!!




第0試合 時間無制限1分時間差バトルロイヤル~ニュージャパンランボー~

はじめからクライマックス、流星仮面二世の最大の楽しみがこれです!!


初っぱなからマイケルエルガン!!そしてビリー・ガンが入場!!まさに筋肉の築地豊洲移転問題、はたまた戦うマグロの初競り状態か!!この時点で電車酔いもぶっとびます。


ビリー・ガン、いいですね~。53歳にしてこの肉体。味わいもあっていい選手ですね。その後、ボーン・ソルジャーを経て4人目、今年もチーズバーガーってのが出てきました。以前から思ってたんですが、この人はなんなんですかね?レスラーなんですか?続いてライガー、これが盛り上がります。やっぱり人気ありますね!!でも!!その次です!!東京ドームになつかしのザ・ルームのテーマが!!これは!!凱旋帰国第1戦の前田!?


いや!!小林邦昭!!

「小林ーぃ!!こぉーばぁーやぁーしー!!」

イントロと同時に叫ぶボクに周囲はドン引き。ふんっ、知ったことか!!おれは生きざまを見せるのみよー!!

リングインすると小林は不完全ながらライガーにあの独特の後ろ廻し蹴り!!うんォー!!これを見たらさらに叫ばずにはいられない!!

「小林!!フィッシャーマン!!」

御年60歳、正直どうかと思った。でもそのワードを叫ばずにはいられなかった。しかしその想いを覆すかのように小林はライガー相手にフィッシャーマンズ・スープレックスを繰り出した!!ブリッジは崩れたが、投げる際のあの足の開き方は昔と変わらなかった。ああ至福・・・さすがボクと同じ誕生日!!

続いてタイガーマスクが登場。小林のあとにタイガーマスクとはなかなか・・・なんて感心もつかの間、小林はライガーのときは崩れぎみだった後ろ廻し蹴りを、今度は蹴り足高々に完璧にタイガーマスク決め、そしてなんとマスクを剥ぎにかかった!!昔はあれほど憎らしかったマスク剥ぎだったが


「いいぞー!!破ってしまえー!!」


周囲はまたもドン引き。ふんっ!!何とでも思いやがれ!!おれは生きざまを見せるのみよぉぉぉー!!


その後、あまりの小林のテンションに13人目のヒロ斉藤にはなぜか安堵感にて冷静。だぁがぁ最後!!14人目!!東京ドームにオーバー・ザ・トップが!!

ぬんぉぉースコット・ノートンだ!!

忘れもしません、あれは96年の茨城県土浦市の霞ヶ浦文化体育館、サマーストラングル96というシリーズでした。試合開始前、ボクがトイレから出てきて廊下を歩いていると、やけにみんながじろじろとこちらを見るので「?」となっていたところ、背後に気配を感じ振り向いたらそこにいたのはスコット・ノートンだった!!大謝りで道を譲ると悠々と歩いて行ったあの日・・・おれはタイムスリップしてしまったんだろうか?というほどあの日と変わってない体の厚み、そして顔、頭の大きさ・・・NWO、T-2000、いやちがう・・・ジュラシックパワーズのノートンだよ~!!

ノートンがリングインすると対峙するはエルガン。こ、これは夢の新旧パワー対決ではないか!!このワクワク感は何年ぶりだ~と胸が踊ったが、ああ!?あれれ~・・・!?
向かい合った瞬間に目に入ってきたのはふたりの体格差でした。その身長差、ちょうど顔ひとつ分のちがいです。まるで84年高松での長州vsアンドレ戦を彷彿させる尺度に現実に戻されます。こ、こんなに差があるのかぁ・・・


しかし終わってみればエルガンが最初から最後まで残り優勝で幕を閉じました。ケガからの復帰を果たしての優勝。またワンダーな試合に期待大です。



第1試合 テレビアニメ「タイガーマスクWスペシャルマッチ」 60分1本勝負

タイガーマスクW vsタイガー・ザ・ダーク


さて、こちらも期待の試合です。カード発表後からずっと考えていたのはタイガー・ザ・ダークは誰がやるんだろうか?というところでした。そう、アニメでは準主役。デザインもいいのでヘタな選手にやられては困っちゃいます。


息子の三世はその正体に当初マット・サイダルという予想をしていました。なるほど、イメージも動きも問題なく、ぴったりきそうですね。しかし今、来日はきついか・・・一方、ボクと幼馴染は船木だったらいいな~なんて期待していましたが、これも今は正直きついかもしれません。


選手入場、さあどんな選手が出てくるかな?と注目すると、なんと黒人レスラーです。身長はそうでもないですが、体は相当パンプアップされていますね。特に下半身がかなりすごいです。が、うむ~・・・この時点ですでに原作とかけ離れてしまいました。これはどうでしょうねぇ・・・


続いてタイガーマスクW登場。っと、ここでタイガーを先導し現れたのは春奈ちゃんじゃないですか!!すごいかわいい人です。リングインするとアニメと同じくコールしました。これは声優ご本人だったのでしょうかね?うむ~すごいです。でもどうせならモノポリーのボイン、ミスXも呼んでほしかったな~。次回に期待しましょう。


試合の方はタイガーマスクW、マスクが改良されたようで試合中の動きが両国とは段違いでした。今回は助走してトップロープからのケブラータも見事にキメましたね。しかし全体的には技がちょっと単発で試合が淡白だったかな・・・試合に山場がなく終わってしまった感じが残念でした。


タイガー・ザ・ダークはポテンシャルはものすごく高い選手ですね。特に跳躍力は目を見張るものがあります。しかし、おそらく本人アニメはまったく知らない感じですね。申し訳ないですが全然タイガー・ザ・ダークとちがいました。選手としてはよかったですがタイガー・ザ・ダークとしては残念な結果だとボクは思いました。


タイガー・ザ・ダーク、幼馴染の話では試合で見せた背面飛びのプランチャに見覚えがあると・・・名前はわからないんですが、どうやらノアに来てた選手ではないかとのことでした。まだまだすごい選手がいるんですね~。



第2試合 IWGPジュニアタッグ選手権試合 60分1本勝負
ニック・ジャクソン、マット・ジャクソンvsバレッタ、ロッキー・ロメロ


これは、うーん・・・ちょっとどうかな?という感じですね。第1試合、第2試合ってその後に続く重要なところなんですよ。どういうことかというと、たとえばもしこれが地上波のゴールデンで中継があって、中継始まったときの最初の試合だったなら、多くの人がここでチャンネルを変えてしまっただろうな、と・・・試合を観てる、というより観せられている感じでしたね。



第3試合 NEVER無差別級6人タッグ選手権ガントレットマッチ 60分1本勝負
ディビット・フィンレー、リコシェ、小島聡

ウィル・オスプレイ、YOSHI-HASHI、邪道

 BUSHI、EVIL、SANADA

ハングマン・ペイジ、高橋裕二郎、バッドラック・ファレ

これは最初、どういう試合形式なのかわからなくて不安になってしまったんですが、勝ち抜き戦を連続でやるってことだったんですね。いやぁ~次々にいろんな選手が見れてお得感がありましたね~。特にオスプレイ、リコシェなんかは歓声も高かったです。


逆に試合とは関係ないんですが、ひとつ思ったのは裕二郎ですね。この入場スタイルやイメージはどうでしょう?ぶっちゃけもう飽きられていますよ。試合もCHAOS裏切った頃のような輝きがありません。何かもうひとつ、欲しいところですね。



第4試合 シングルマッチ 60分1本勝負
 ジュース・ロビンソンvs“The American Nightmare” コーディ


いやがうえにも期待のコーディが登場です。印象は、間や表情はさすが!いやらしく憎たらしいのがよかったですね!!しかし残念ながら技や動きには「これだ」というものが見られなく、会場ではインパクトを与えられなかった感があり残念でした。その証拠というわけではないですが、この試合ではトイレや買い物等で席に立つ人が多かったんですよ。アメリカではあのスタイルでもいいかもしれませんが、日本だとこの先、単にバレットクラブのひとりってだけのポジションになってしまい色褪せていってしまうのでは?と心配してしまいました。厳しいことを言ってしまいますが、それはローデスの子だからですよ。親の真似しろとは言いません。頑張ってほしいです。

ロビンソンはよかったですね!!試合運びもよく、相手を立てて自分も出すのができる、いいですね。ロビンソンはレッドデスマスクも一度やりましたが、スタイルを被ることなく使い分けができる器用さもあります。声援も多くなり、だんだんファンの支持が強くなってきていますね。きっと先月の観戦でウチの嫁と手を合わせたからですね(それは関係ないですね)いやしかし、この選手は将来大化けするかもしれませんよ。注目しましょう。



第5試合 ROH世界選手権 60分1本勝負
カイル・オライリーvsアダム・コール


アメリカのタイトルにして、このスタイルのカイル・オライリーが王者というのはうれしいことですね。ショルダーアームブリーカー、よかったなぁ~。しかし破れてしまいました・・・残念。どうせならこのスタイルで長期政権樹立してほしかったな~。アダム・コールは入場テーマ曲、耳について頭の中ぐーるぐるです。それこそ仕事中も呪文のように!困った・・・なんとかならないんでしょうか?


さて、ここで一旦トイレ休憩と小腹がすいたので食べ物を調達するため1階、2階をうろうろ・・・すると出てきたのは




プロレス神社!?


こんなのが設置されていたんですね。これはご利益ありそう!と三世とさっそく拝んでみます。どうやら熊本地震義援金の募金活動としての設置でもあるようですね。


神社への祈願も終わり、席へ戻ろうとするとなんだかすごい人だかりが。ところどころから


「方正、アウト」


なんて声も聞こえます。方正?アウト・・・!?


誰かいるみたいだよ!という三世の言葉に近づいてみると・・・



 
これはびっくり


まさかの蝶野!!これはテレビ用のあれだったんでしょうね。でも方正、アウトって・・・しかしノリノリのファンたちはその後もガッデム!!蝶野、アウト!!ともはやわけがわからない合いの手を連呼し勝手に盛り上がります。なんだかなぁ・・・


その後、一行は近くのエレベーターからアリーナへ降りていきました。蝶野はさすがに貫禄ありました。あと、サッカーの解説やる方!?名前わからないんですが、その方も降りていきました。それにしても最近新日本ってサッカー関係の解説者が多いですよね。なんでサッカーなんでしょうかね?あと、三世の話では名前わからないんだけど、近くに俳優さんがいたよ!!と言っていました。誰だったんでしょうかね?


さて、試合に戻ります。



第6試合 IWGP タッグ選手権3WAYマッチ 60分1本勝負
タマ・トンガ&タンガ・ロアvs真壁刀義&本間朋晃vs石井智宏、矢野通
 


この試合はノーコメントですね・・・タマ・トンガ、タンガ・ロアvs真壁、本間が見たかったです。すごく気分の悪い結果でした。



第7試合 IWGPジュニアヘビー級選手権 60分1本勝負
KUSHIDAvs高橋ヒロム


高橋ヒロムは初挑戦でいきなり王座奪取ですね。驚きました。技も、あのエプロンから場外へのパワーボムになるんでしょうか?すごい技ですねー!!あれまるで漫画のタイガーマスクの必殺技タイガーVですね!!でもちょっと危険なんじゃないんですかねぇ?大丈夫なんでしょうか?あと、足のモサモサしているところがペロ・アグアヨみたいでしたが、アグアヨみたいな強いヒールになってくれたらおもしろそうですね。キャラ的にロスインゴよりバレットクラブ向きじゃないかな?なんて思いました。



第8試合 NEVER無差別級選手権 60分1本勝負

柴田勝頼vs後藤洋央紀


後藤、勝ちましたね~。昨年はグレーな立ち位置でしたが、今後はNEVERの中心となっていくのでしょうか?そんな後藤、印象に残ったのは試合もピークの、あのタイミングでの印を結ぶ手を合わせるポーズですね。昨年はボクは後藤は荒武者スタイルは封印した方がいいんじゃないかなぁ~なんて思いましたが、あそこであのポーズを繰り出してくるとは・・・会場では、うわぁ!?何々!?後藤~なんだよ~って感じのリアクションでしたけど、その貫きっぷり!!こうなると逆によかったです。もうこのままで行っておくれー!!


柴田は負けてしまいました。ショックでしたが、考えようによってはNEVERに縛られなくなったので今年はIWGP挑戦、奪還!!とか鈴木秀樹戦とか実現したらうれしいなぁ~なんて勝手に夢を抱いています。またプロレスを見せてください!!ありがとう!!



第9試合 IWGPインターコンチネンタル選手権 60分1本勝負

内藤哲也vs棚橋弘至


この試合ではチームナックスの安田顕がリングアナで登場です!!ボク好きなんでこれはうれしかったですね~。と喜んでいたら三世が


「あーさっき見た俳優さん、この人だよ」


は、早く言ってよー!!安田顕、近くで見たかった・・・


棚橋は入場テーマ曲を変えたんですね。でも前のがあまりにもハマっていたせいでただでさえ違和感あるのに、新テーマ曲はやけにACE、ACEと連呼です。気持ちはわからなくもないんですが、あまり前面に押し出すのはどうでしょうかね・・・?


しかし試合が始まると、なんだかんだ言っても棚橋は観客の目をリングから離さないようにする技量がありますね。顔、体と昨年よりしまった感があり、技がキレていたように思えました。特に場外へのハイフライフローです。


あれテレビではどうだったか・・・多分またハンディカメラで下から撮った映像だったんだと思いますが、なんてもったいない!!ですよ。観客席から見たらとんでもない高さでしたよ!!棚橋の最大の見せ場、あの超飛行距離もハンディじゃ伝わらないですよ。本当にもったいない。棚橋は今、ちょっと微妙な立ち位置というか存在感というか・・・そんな感じですが、これ見たらまだまだやれるって思いますよ。でも、それを伝えられないのが残念です。これはなんとかならないんでしょうか・・・カメラワーク、本当に残念でなりません!!


内藤、勝って最後には頭を下げましたが、また戦ってほしいと思いましたねぇ~。前回レイスとローデスの記事で書きましたけど、今“ドル箱カード”とか“黄金カード”って言葉ですよね。これって現在ではプロレスからなくなってしまっているんですよ。理由は単純明快に、そういうカードがなくなってしまったからなんですよね。でも、これは久々にそういう言葉に見合った試合だったと思いました。



第10試合 IWGP ヘビー級選手権 60分1本勝負

オカダ・カズチカvsケニーオメガ

今年まだ始まったばかりですが、これ年間ベストバウトなんじゃないんですか?と思うくらいの激戦でした。試合時間46分45秒ですよ。しかし会場では30分経過のアナウンスの時点で


「え?もうそんなに経ったの!!」


という声が周囲からは漏れました。それくらいドーム全体が集中して見入っていた、時間を感じさせない戦いでした。


現在の新日本、三世とドームに毎年行くようになって今回で4回目、現場に復帰して3年あまり見てきましたが、近年の新日本はシングルでは自身のフィニッシュホールドを先に出した方が敗北を喫してしまうような・・・ジンクスといいますか、そんな流れがあるような印象を受けてきました。


今回はオカダが先にレインメーカーをキメて会場はもちろん盛り上がりましたが、ボクはこれはもしや!?という予感がしてしまいました。しかし終わってみれば、この試合は近年の新日本の試合とちがい、オカダが相手の得意技を出させませんでした。相手のフィニッシュをその都度防御し交わし、攻撃して最後に自身の技でフィニッシュというものだったのです。あくまでボクから見たらという前提のお話ですが、新しいものを見せてくれたと思いました。


その象徴的シーンともなった最後の旋回式ツームストーン、よかったです。こんな考えを持っていて、こうして試合で伝えるというその才に口あんぐりでした。


ケニーは、レッスルキングダム9のときですね~。ケニー・オメガvs田口の試合で初めてこのケニー・オメガを見て、この選手は何がやりたいのか?というのがまったく伝わらなくて腹立しさを感じました。それがこの1年で、今やこの人気と功績です。頑張ったんですよね。努力、本当に讃えたいです。しかし、この選手は・・・今はいいんですが、ファイトスタイルがファイトスタイルゆえ選手寿命が心配です。正直あまり長くファイトできないかもしれませんね。どうかお大事にやってほしいです。


オカダの最後のマイクにもあったように、昨年は新日本の核になっていた選手が相次いでいなくなった年でした。もしや低迷してしまうんではと・・・そんなことを考えてしまったファンも多くいたと思います。しかしこの東京ドーム、間違いなく昨年よりも多くのファンが会場でテレビの向こうで見つめていたことと思います。


イギリスの自然学者、あの進化論のチャールズ・ダーウィンは生物学の中で

「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは変化に最もよく適応したものである」


という言葉を残しました。


たとえ力が強くても、頭脳明晰であっても、その場、その状況にいち早く、臨機応変に対応していかなければ生きていくことはできない。学校でだって会社でだってそうですよね。


2016年、新日本はまさに変化に適応し、この2017年を迎えることができたんではないかなと・・・そう思います。


さらなる飛躍に期待しましょう!!




スーパーフライよ永遠に

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どうも!!ちょっと諸事情あって寝込んでる流星仮面二世です・・・


でも、これはやらないと・・・


もうみなさん知っていると思いますが、ジミー・スヌーカが15日、亡くなったそうです。


16日に独断小僧さんの彼女さんよりメールをいただき第一報を知りましたが、悲しいですねぇ・・・


スヌーカ、晩年はいい話が聞こえてこなくて寂しい限りだったんですが、また寂しい話が聞こえてきてしまい・・・なんとも残念です。



飛獣コンビは再会したかな・・・


どうか安らかに・・・



バタフライ・エフェクト

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どうも!!流星仮面二世です!!


お正月明け最初のお休み・・・9日の月曜日は祝日だったので、友達家族と自分のもうひとつの趣味である釣りに行ってきました。

この友達家族、このブログにもよく出てきますボクの幼馴染の妹さんのご家族なんですが、このお子さんがとにかく釣り好き。今年で中学2年生になるのですが、幼い頃から今日まで、たとえばドラゴンボールやデュエルなんとかのカードを集めたり、ニンテンドーDSやらプレステなんとかなどでゲームをしたり・・・現在の子供たちが通る道は一切やらないどころか、そういったものをほしいと思ったこともないという。当然、ネットでもユーチューバーなんぞに興味なく、それらの映像も見ない。見るは釣り関連のものばかり。休日は魚種、釣り方を問わず必ず釣りに行き、将来の夢は釣りの記者という筋金入りの無類の釣り好きなのです。


そのパワーたるや・・・幼少期、クリスマスにサンタさんにプレゼントは何お願いするの?と聞かれたところ

「魚群探知機」

と答え家族を震撼させたという伝説があるほど。釣りの技術や知識はもちろん、釣り場では他の釣り人にも話しかけてはすぐに仲良くなる人柄もあり、我が家ではリアル釣りキチ三平と呼んでいる次第なんです。




本当にそのままのイメージだ


そんな三平くんのお誘いで、三世と一緒に今回は海釣りに行ってきました。

三平くん情報では、その釣り場はお正月からイワシの群れが入ってきていていい状況とのお話でしたが、この日は風が強く寒さが強まりイワシは1匹だけ・・・そのかわりシャコが大量で、みんな盛り上がっていました。


しかしシャコってよく見ると絶対地球外生命だよなぁ~。これでも寿司屋で高級食材なんだよなぁ~。なんて思っていると、ボクの竿にシャコとはちょっとちがうアタリがきました。


合わせると、ブルっとしたあと、とんでもなく重くなりました。しかし引っ張られるような感じはしません。ときおり根掛かりのように止まり、でも引っ張ると動く・・・これエイかな?いや、それにしてはおとなしい。もしかしてタコかな?なんて寄せてくると姿を表したのは、なんと牡蠣(かき)がくっついた瓶ではないかぁ~。



 

な、なんだぁ~

最初は魚が引っ張ったのですが、きっとこの瓶の間に走って潜り、引っかかったんでしょう。いやぁそれにしても今年の初釣りなのに・・・まったくとんだ大物を釣ってしまった。


いやでも、この瓶・・・このロゴは最近のコーラの瓶じゃないよな?なにげにレトロだぞ。でもそれだけじゃない。この瓶、どこかで見たことがないか?

そりゃ~ワールドワイドな天下のコカ・コーラさ。みんな知ってるよ~。うん、確かにそれはそうなんですが・・・しかしボクが言いたいのはそこじゃないんだ。このコーラの瓶、コーラの瓶だよ・・・どこかで以前・・・

そうだ、これは!!



 

あああ!?

プロレス今昔物語~日本武道館~

これだ!!


でも、エリックと一緒に写ってるやつと同じ瓶ってことは相当古いんじゃないか?いや、ボクが釣った瓶はこれと同じものなのか?似てるけど・・・どうなんだ?


コカ・コーラ・・・その起源は今からおよそ130年前の1886年(85年説あり)のアメリカに遡ります。


アメリカのジョージア州アトランタ。ここで当時、薬剤師をしていたジョン・ペンバートン博士が1885年、アトランタで発令された禁酒法のおり、酒に変わる新しい飲み物であり、そして現在でいう滋養強壮剤のような、飲んだ人が気分がよく元気になれる飲み物は作れないだろうか?と自身の薬への知識を生かし、新しい飲料の開発に取り組んで完成させた薬剤が始まりと言われています。


そしてできあがった飲料はペンバートン博士の友人であったフランク・ロビンソンが“コカ・コーラ”と名付け、産声を上げたというわけです。


コカ・コーラの“コカ”は南アメリカ原産の樹木の葉から・・・そう、あの麻薬のコカインの原料で有名な葉のことを指し“コーラ”も実はアフリカの熱帯雨林に植生する植物のことで、こちらは数パーセントのカフェインを含有するものでした。コカ・コーラはこれらを名称としたんですね。名前の由来は原料の植物から、そしてお薬が起源だったとは驚きでした。


しかし最初は当然世界的に有名ではなく、当時アトランタにあったソーダファウンテン・・・あのバーのカウンターにあるコックをマスターがひねると飲み物が出てくる仕様の、ああいうフインキのお店で販売されたのが始まりだそうですが、はじめこのコカ・コーラを扱うお店はアトランタでその数わずか4軒だけだったそうです。


そんなお店の中の1軒が、ある日のこと・・・コカ・コーラのシロップ、当初は原液は水で薄め飲まれていたそうですが、間違えて水ではなく炭酸水と割りお客さんへお出ししてしまったそうな。ところがこの間違いが瓢箪から駒、お客さんにおいしい!!と気に入られ好評となり、以後、現在まで続くコカ・コーラの姿となったそうなんです。


その後、エイサ・G・キャンドラーなる人物が1891年にコカ・コーラの製造販売権を買い取り翌年にザ・コカ・コーラ・カンパニーを設立すると大々的な広報、販促活動が行われ、1895年にはいよいよ米国でコカ・コーラの販売がスタートすることになります。


こうして国外にも販売、生産を展開していくのですが、日本にはどうやら大正時代に入っていたようです。が、はっきりとした時期はわかっていません。記録として残っているのは1914年に詩人、彫刻家であったかの高村光太郎の“道程”にある“狂者の詩”の中にある一節


 「吹いてこい、吹いてこい秩父おろしの寒い風・・・コカコオラ、Thank you very much 銀座の二丁目三丁目、それから尾張町・・・しんみに己に意見する気だコカコオラもう一杯・・・」


です。


この時代、文献的な時期は不明にしろ、高村光太郎がその書に残していることで存在を確認することができます。普通ならお酒を思わせる哀愁のある文ですが、ここがお酒でなくコカコオラなのが味わいありますね。ニューヨークに留学経験もある高村光太郎。もしかすると日本での味でなく留学時代を懐かしんでいたのかもしれませんねぇ~。


さて、大正時代から昭和に入り32年が経った1957年、日本飲料工業株式会社、現・日本コカ・コーラ株式会社が設立されます。元来は輸入品だけでしたが、いよいよコカ・コーラが日本で生産されることになります。以降1962年、昭和37年にはテレビCMが開始され、瓶の自動販売機も市場へ導入。ますます庶民に近い飲料となっていくのでした。



 

70年11月ドリーと坂口のNWA世界ヘビー級選手権が行われたテキサス州のフェアパーク・コロシアムではリングライトに大きなコカ・コーラのロゴが。この時代からこの飲み物の知名度、人気がうかがえる


こうして身近な飲み物として定着していくわけなのですが、日本での生産開始から今日まで、このコーラの瓶は何度かモデルチェンジしているようなのです。


調べてみたところボクの釣り上げたこの便は、どうやら6代目のモデルのようで・・・6代目には前期と後期、しかも何タイプかあったようで、デザインが微妙にちがうそうで複雑だなぁ~と思っていたら、それらが同時期に発売されていたようでさらに調査は複雑になり困難でした。が、瓶の特徴からするとこれは6代目の後期モデルのになるようです。


特徴はプリント文字すべてが白文字で、ロゴが3mmと前期モデルよりも細字での表示です。そして最大のポイントは容量の表示です。前期モデルが“190ML”と単位が大文字なのに対し、後期モデルが“190ml”と小文字になったそうなんです。生産期間は1968年から1986年までの18年。長きに渡り世の人に親しまれたコーラの瓶だったのです。


さて、ボクが釣ってしまったコーラの瓶とエリックのコーラとの検証です。


まず、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックが来日した年と月を見てみますと・・・


1966年11月 プロレスの日本武道館初進出にてジャイアント馬場とインターナショナル選手権
1967年5月  ジャイアント馬場とインターナショナル選手権
1970年3月  BI砲とインターナショナルタッグ選手権
1971年9月  アントニオ猪木とUNヘビー級選手権
1973年4月  日本プロレスへ最後の来日

同年  12月  全日本プロレスへ来日。ジャイアント馬場とPWF選手権
1975年7月  ジャイアント馬場とNWA世界王座挑戦権をかけテキサス・デスマッチ
1979年1月  ジャンボ鶴田の試練の十番勝負の最終戦の相手として来日


と、この8回になります。


そしてモデルですが、エリックの画像とボクの瓶を比べてみると



これはぁ・・・


見ずらいですが、ロゴは細字の3mmで、190mlと単位も小文字です!!これは1968年からの・・・同じ時代のものです!!


エリックの画像は月刊ゴング昭和49年2月号のグラビアのものですが・・・おそらくその時のものではなく、エリックの手の大きさを伝えるため来日初期に撮影されたものなのではないでしょうか?このコーラのモデルとエリックの来日を照らし合わせてみると、多分70年の、3度目の来日時のものじゃないかなぁ?


いやぁ~でも、そうかぁ・・・そうだったのかぁ・・・


このコーラの瓶が何年製のものなのかはわかりませんが、最終生産年度の86年のものだったとしても31年もの長い間、海の中に沈んでいたことになります。当時、誰かが飲み捨てて、海の底で魚や貝の住処の一角となって・・・今年、たまたま釣りに行ったボクが釣り上げて、気がついたらいつのまにかプロレスのことを調べていました。


ブラジルでの蝶の羽ばたきは、テキサスでトルネードを引き起こすか?気象学者エドワード・ローレンツは、ほんの些細な出来事でも経過していくうちに大きな現象へと繋がっていくという考えを唱えました。のち、蝶の羽ばたきを取り、これをバタフライ効果(エフェクト)と呼ぶようになりました。


釣りからプロレスへ・・・バタフライ効果と呼ぶには規模は小さいものだけれど、本当に些細な事でも後々どうなるかわからないものですね。


2017年、あなたの身にも、ふとした小さな出来事が起きたら・・・大きな何かに変わるかもしれませんよ~。








チャンピオンベルト・ワールド~ロード・オブ・ザ・ベルト パート1~

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どうも!!流星仮面二世です!!


さあ久々のチャンピオンベルト・ワールドです。今回は歴史の節々でプロレス界に姿を現し謎を誘った、魅惑のベルトのお話です。ファンなら一度は考えたことのある、あのベルトの行方・・・あの探偵事務所が総力を挙げて謎に挑みます。さあ、おなじみの面々の声が聞こえてきましたよ。行ってみましょう!!


ここは茨城の某所にあるプロレス探偵事務所。プロレスを専門にいろいろな依頼に応えていく日本で唯一の探偵事務所だ。そんな事務所に所属する、新人の探偵君が今回担当することになった調査依頼とは・・・


探偵「失礼します」


所長「よう、来たか」


探偵「はい。今回はどんな依頼なん・・・なんすか所長、そのお子さんは?」


所長「フフフ・・・今回はこのベルトのことを調べて欲しいとの依頼だ」





探偵「あ、これはわかりますよ。20世紀最強のレスラーと言われた鉄人ルー・テーズのベルト、テーズ・ベルトです。でもなぜ同じベルトの画像が2枚あるんですか?」


所長「同じか・・・キミにはこれが同じものに見えるかね?」


探偵「同じに・・・いや、少しちがいますかね?同じタイトルの前期モデルと後期モデル?とかですか?」


所長「フフフ・・・これは上がキミの言う、旧NWAや統一王座といわれた通称テーズ・ベルトであるが、下は力道山の保持していたインターナショナル・ヘビー級のベルトなんだよ」


探偵「え!これは同じベルトじゃないんですか!?」


所長「さらに言えばWWA世界ヘビー級というタイトルのベルトもこの形だったのだ」


探偵「ちがう選手権なのに同じベルト!?どうゆうことなんですか!?」


所長「それを調べるのが今回の仕事じゃないか」


探偵「依頼、これが・・・わかりました。で、所長、そのお子さんは・・・?」


所長「今は気にするな。ではよろしく頼むぞ」


こうして調査を開始した探偵くんでしたが、やはりひとりではどうしようもなくなり頼りの先輩に協力をお願いします。


探偵「いつもすいません・・・」


先輩「いやいや。しかしこいつは難関だよ。果たして答えが出るかどうか・・・」


探偵「そうですね。かなり難しいと思います。ではまずは発祥からです。このベルトは一体いつ頃、プロレス界に出現したのでしょうか?」


先輩「このベルトの形が世に出たもので最も古いデータは、やはり1937年12月にルー・テーズがエベレット・マーシャルを破り王者になった際、贈られたもの・・・いわゆるテーズ・ベルトが最初のようだね」



 1937年12月に当時プロモーターだったトム・パックより渡される(ルー・テーズ自伝より)


探偵「歴代NWA世界王者を調べると、テーズはこのタイトルの第23代王者となっていますが・・・フランク・ゴッチの時代から(チャンピオンベルト・ワールド~運命のふたつ星 パート1  パート2  )テーズが王者になる以前は、名称自体が世界ヘビー級というものや旧AWA世界ヘビー級、MWA世界ヘビー級(というタイトルがあったようです)など、各・世界タイトル戦での王座遍歴も含め歴代NWA王者遍歴として表記していたんですね」


先輩「うん。しかしこのタイトルが出現以降はこのタイトルでの王座遍歴として歴代NWA王者遍歴の道筋が明確になったんだね」


チャンピオンベルト・ワールド~やり直し!!NWA世界ヘビー級~


探偵「こうしてテーズが1937年12月に王者になって以降はスティーブ・ケーシー、エベレット・マーシャル、ブロンコ・ナグルスキー、レイ・スチール、サンダー・ザボー、ビル・ロンソン、ユーボン・ロバート、ボビー・ナマコフ、ビリー・ワトソンらが王者として名を連ねます」



 ルー・テーズ


 レイ・スチール


 ホイッパー・ビリー・ワトソン


先輩「その後、1948年にNWAが発足されオーヴィル・ブラウンが王者に認定されると、テーズが保持していた旧NWAとされたこのタイトルとでの統一戦が行われることになったんだ。が、王者のブラウンが自動車事故に遭ってしまいリタイヤとなり、テーズは戦わずして統一王者となった。これによりこのベルトのポジションは、はっきりした感じだね」


探偵「この時代はとにかく世界タイトルが乱立していたようですから、こうした統一を理念とした流れはわかりやすくなっていいですよね」


先輩「しかしだ。その後、このタイトルを巡って事件がおきてしまうんだ。1957年6月イリノイ州でエドワード・カーペンティアがルー・テーズを破り王座を奪取したんだが・・・」


探偵「どうなったんですか?」


先輩「3本勝負で行われたこの試合、1-1で迎えた3本目にテーズが負傷により棄権(負傷により試合しようとせず消極性による反則との表記もある)でカーペンティアが勝利し王座移動となったはずだったが、この勝敗裁定に問題が生じ、あとから王座移動は無効となってしまったようなんだ」


探偵「勝利したのに無効ですか・・・」


先輩「おそらく勝っても2フォール奪わないと移動しないというものでの無効、だったんじゃないかな」


探偵「なるほど、やっぱり王者になると有利なルールもありますもんね」


先輩「ああでも・・・NWAからは無効の通達を受けたんだけど、各地のプロモーターはカーペンティアを王者として出場させるところも多かった、つまりカーペンティアが王者だとする方向が強かったようなんだ。このためある時期においてテーズとカーペンティアのふたりの世界王者が出現してしまう事態が起きてしまったんだ」


探偵「これは、うーん・・・今回はベルトのお話ですが、もうベルトの行方がおかしくなっていますよ。同時期にふたりが世界王者・・・これ、ベルトはどうしたのでしょうか?」


先輩「この時点で同じベルトがふたつあり、ふたりがベルトを保持していたのか?それともひとりはベルトがないまま王者を名乗っていたのか?このあたりは明確な資料かわないんで残念ながらわからないんだ」


探偵「うむ~さっそく謎か・・・で、その後1959年にテーズを破ったという実績が買われカーペンティアはNAWA、ノースアメリカン・レスリング・アライアンスという組織から、ここの王者に認定されるんですが、この団体こそ60年代にロスで猛威を振るうWWAの前身だったんですね」


先輩「そうそう。NAWA時代はこの初代王者のカーペンティア、2代目のフレッド・ブラッシー、そして3代目の力道山までになるようだ。62年3月28日に力道山がブラッシーから奪取したんだが、その力道山が王者だったときの5月にどうやらWWA世界ヘビー級へ名称が変わったらしい」


探偵「このベルトの時代に王者となったのはカーペンティアの他、フレッド・ブラッシー、力道山、ザ・デストロイヤーなどですね。画像が残っています。NWA王者に勝るとも劣らない強者が名を連ねていますね」


 エドワード・カーペンティア


 フレッド・ブラッシー


 力道山


 ザ・デストロイヤー


先輩「今回の主旨に戻ると・・・カーペンティアがテーズを破った後に巻かれていたこのベルト、テーズのものと見た目のちがうといえばベルト上部の王冠の部分だね。これがテーズ・ベルトにはあるけど、WWAの方にはない。ということはこれはテーズ・ベルトとは別物なのかな?」


探偵「そこなんですが、プロレス評論家の流智美氏によれば、この王冠部分は取り外しができるらしいのです。巻くと王冠部分がお腹に当たり壊れやすいとのことで、そういった構造になっていたのかもしれません。ということでこの部分での区別は難しい感じです。はたしてテーズ・ベルトとカーペンティアのベルトは同じものだったのでしょうか・・・」



 ベルトもさることながら団体のマークもほとんど一緒だった


先輩「では年代と出来事を照合してみることにしよう。テーズからカーペンティアへベルトが移動したのが1957年6月。そのあと同年の10月にテーズは世界王者として日本へ初来日し後楽園球場と大阪扇町プール特設リングで力道山と二度のNWA世界選手権を行っているんだ」


探偵「ふたりの王者が存在していた時期に来日?それはちょうどいい!まさか世界選手権をやるため日本に来たんだからテーズがベルトを持ってないわけがないですよ。やはりカーペンティア、テーズともベルトを持っていたということに」


先輩「ところが・・・驚くべきことに、このときベルトを持ったテーズの姿を捉えた写真、画像はいくら探しても出てこないんだよ」


探偵「え!!日本へプロレスの世界王者が初めて来日して初めて世界選手権試合が行われたのに、その象徴であるベルトを持ったテーズの写真、画像がないって、一体どういうことなんですか!!」


先輩「これが・・・わからないんだよ・・・」


 57年10月2日、ついに初来日したテーズ。向かって右は当時ハワイ地区のプロモーターだったアル・カラシック氏。世界戦の立会人として来日した


 翌10月3日には都内をパレードし、夜には東京会館で歓迎レセプションが行われた。テーズの隣がフレッダ夫人。向かって左から2番目の眼鏡をかけている人物は、あの浅沼稲次郎社会党委員長(浅沼稲次郎暗殺事件  Wikipediaより)パレード、歓迎レセプション、そして大物政治家。当時の世界王者来日がどれほどすごかったかがわかる。が、ベルトはなかった・・・


バーン!!


探偵・先輩「しょ、所長!!と、子供!?」


所長「はい、セリフ」


謎の子供「たったひとつの真実見抜く!見た目は子供、頭脳はおとま!そのなま、名探偵あ、間違えたもう1回やる!!」


先輩「な、なんだこれ!?」


探偵「名探偵コナンのようですよ・・・そうか、だから子供がいたのか」


所長「じゃもう1回最初から」


謎の子供「はいっ!たったひとつの」


探偵「いやボクもういいよ!!上手だったからね!!」


先輩「あー上手だった!!上手だったねー!!しょ、所長・・・お願いしますよホントに・・・」


所長「なんだせっかく覚えさせたのに。まず来日時のテーズのベルト姿の写真や画像がなかった、と言っていたが、それもそのはず。テーズはこのときベルトを日本へ持って来てなかったのだ」


探偵・先輩「な、なんですって!?」


所長「菊地孝氏によれば、テーズが世界王者なのにベルトを日本へ持って来なかったのは、このときテーズが保持していたNWAのベルトにはかなりの貴金属が装飾されていたから、だというのだ。というのも当時の日本では、このような仕様のものを国外から持ち込む際には高い税金がかかったそうなんだな。そのためだったとある」


探偵「税金!?」


先輩「確かに・・・テーズ・ベルトって離れてみるとそうでもないんだけど、アップで見るとなかなか綺羅びやかなんだよ。しかし、それにしても税金で・・・?」


所長「そうだ。そしてもうひとつ。この時代は王者になった者がその団体の保有するベルトを巻くのではなく、王者にはなるがベルトは自身で作成してもいいという権利が与えられた、ともある。つまり王者になれば名目はその団体のチャンピオン。だがベルトは好きなものを巻いていい、ということになるんだろうな」


先輩「そういわれれば1957年11月にはディック・ハットンがルー・テーズを破り第41代のNWA世界王者になったんだけど、実はこのディック・ハットンがNWA世界ヘビー級のベルトを持っていたり腰に巻いている写真、画像も、これまた探しても出てこないんだよ。だからもし・・・」


探偵「つ、つまり話を整理するとテーズがベルトを持って来なかったのは税金の関係。ハットンのベルトを確認できなかったのは自身のオリジナルのベルトを作成し持っていたから、だった!?」



 ディック・ハットン。このベルトはハットンのNWAベルトではないようだが、詳細は不明。そもそもハットンがベルトを本当に作成していたのか?ベルトがないまま王者となっていたのかがわからないので、なんとも言えない状態である


探偵「1959年1月にパット・オコーナーがハットンを破り第42代のNWA世界王者になりますが、オコーナーからはテーズ・ベルトの次のモデルのNWAのチャンピオンベルトが確認できますね」



 パット・オコーナー。オコーナーからはバディ・ロジャース、ドリーファンク・ジュニアらが巻いたこのNWAのベルトが見られる


先輩「そうそう、このベルトからははっきりしているよね。NWAはオコーナーから団体の管理するベルトにしたってことなんだろうね」 


探偵「で、でもハットンは自身のベルト持ってたとして・・・テーズは?カーペンティアがベルト持ってたから自分の手元になくて日本にベルト持って来れなかったと思ったら、実は税金の関係で持って来なかったという・・・てことは実際はテーズもベルトを持っていた。これはベルトは2本あった?ってことじゃ?」


先輩「いや、でも・・・本当はベルトがないのに、世界王者がベルトないなんて言うわけにいかないから税金対策って理由で持ってこれなかったことにした。つまり口実だったとしたら?」


探偵「口実ですか・・・」


先輩「だって考えてもみなよ。来日時はパレード、まあこれは当時は恒例で行われていたようだったけど、このときは通常の来日外国人選手のパレードとはちがうんだよ?世界王者が初来日してのパレードだったんだ。日本の政治家でも大物が呼ばれるような歓迎レセプションも行われていて、それにテーズの奥さんであるフレッダ夫人に立会人まで一緒に来日してるんだよ」


探偵「確かに価値観が高いのはわかります」


先輩「当時のプロレスの世界王者は、おれらの時代でいえばマイク・タイソンに匹敵するくらいのポジションだったんだよ。初来日もタイソンが初来日したときのような出来事だったんだよ。なのに、この状況下でベルトを持ってこられなかった?税金を理由に?いや、たとえテーズがそうだったとしても力道山の性格ならその税金を代わりに出すことくらいしたはずだよ。思わないか?」


探偵「それはあり得ますよね・・・」


先輩「当時のテレビっていうのは敗戦後の希望であり庶民が得た最初の娯楽だったんだ。だからプロレスに深く詳しくない人でも、みんな観ていたんだよ。そんな状況下で・・・日本の力道山が初めて世界選手権に挑戦!という出来事だったんだ。そこでだよ?知識がない人が観ても、それこそ子供でもわかる、何よりもわかりやすい伝わりやすい材料であるベルトを出さないっていうのは、おれには考えられないんだがなぁ・・・」


探偵「何の試合かわからない。でもこのベルトが世界一で、それに力道山が挑戦するんだ!!日本中が観ていたわけですから、このわかりやすさは必要だったと思います。でも、そうなるとますますテーズがベルトを持ってこなかったのかが疑問ですよ。なんで・・・あ!!」


先輩「そう、ひとつしかないベルトをカーペンティアが持っていたから・・・だとしたら?」




先輩「図を見ていくと、テーズがベルトを持っていないとされる57年6月のカーペンティア戦から11月のハットン戦まで5ヶ月、ハットンが57年11月から59年のオコーナー戦までおよそ1年2ヵ月、テーズとハットンはチャンピオンベルト未確認のNWA世界王者だった可能性が持てる。イコール、合わせて1年7ヶ月もの間、NWAでベルトが未確認だったことになる」


探偵「チャンピオンにベルトがない・・・考えてみれば不思議な話ですが、しかしカーペンティアはこの時期には様々な州でテーズから奪取したベルトを世界ヘビー級選手権とし試合を行っていますから・・・」


先輩「これはやっぱり、ひとつしかないベルトがカーペンティアのところに行っていたから起きた現象、と考えてもいいのもしれないな。で、それをさらに裏付けるような、こんなレスラーが同じベルトを巻いているものを見つけたよ」



 ターザン・タイラー


探偵「こ、これは密林王といわれたターザン・タイラーじゃないですか。って、このベルトは!!」


先輩「そう。実はタイラーがNWAやWWAの歴代王者だったという過去は存在しない」


探偵「なのにこのベルトを巻いている写真が存在するというということは・・・?」


先輩「ミック博士の昭和のプロレス研究所に記載されている情報によれば、このタイラーのベルトにはアトランタ版 世界ヘビー級 との記述があるんだ。そしてベルトはフレット・ブラッシーからエディ・グラハム、テーズと王座遍歴があるという情報が載っているんだよ」


探偵「ブラッシーは第2代の王者としてこのベルトを腰に巻いているけど、それとは別に、このベルトで世界ヘビー級王者だったことがある?ということなんでしょうか?」


先輩「これはおれの予想でしかないけど、WWAのベルトはこのベルトのあとモデルチェンジが行われているんだ。だからモデルチェンジ後、使用しなくなったこのベルトがアトランタ版の世界ヘビー級タイトルになり、ブラッシーが王者になって、そしてそのベルトは巡り巡ってテーズが獲得しテーズの元へ戻ってきた、ということが考えられるんじゃないかな?」


探偵「この時代ならあり得る話だ・・・なにより、ベルトがテーズの手から完全に離れていたのがわかる」


先輩「そう。もしベルトが1本であり、この仮説か正しければテーズ・ベルトの時間軸はこのようになるはずた」



先輩「こうでなければテーズの手元にあって、その後の日本のプロレスシーンでテーズ・ベルトと呼ばれ、ファンが目にすることはなかったかもしれないな」


探偵「そうですね・・・1979年10月、国際プロレスへ来日しニック・ボックウィンクルとタッグを組んでラッシャー木村、グレート草津組と試合を行いましたが、このときもベルトを披露しました」



 この前日にはニックvs木村のAWA世界戦のレフリーを務めたテーズ。実はニックのデビュー戦の相手でもあり、ニックの父ウォーレンとも深い付き合いだった


先輩「81年に国際プロレスので開催されることになったルー・テーズ杯争奪戦のため80年10月に来日し、優勝者へ贈るテーズ・ベルトを披露したりすることもなかっただろうし・・・」



 ベルトを持って来日したテーズ。しかし81年1月に新春パイオニアシリーズ、2月に81スーパーファイト・シリーズにて予選が行われるものの、同年秋に開催される優勝戦を前に国際プロレスが崩壊してしまったため、このベルトはテーズが保有したままとなった


先輩「そして92年9月21日に大阪府立体育館で行われたUWFインターナショナルでのプロレスリング世界ヘビー級選手権、高田延彦vsゲーリー・オブライトの勝者の腰に巻かれることもなかったわけだ」


チャンピオンベルト・ワールド(番外編)~プロレスリング世界ヘビー級 腕ひしぎ逆ブログ   )

 


 オブライトを破った高田の勝利を称えるテーズ


 高田もこのベルトを巻かなかったかも・・・


探偵「こうして見ると、このベルトはひとつだけだったのかもしれないですね」


所長「だが、まとめるのはまだ早い。ベルトの謎は残っているぞ」


探偵「そうだった。ここはまだ氷山の一角なんだ」


先輩「やってみよう」


パート2 へ続きます!!


※コメント欄はパート3に設けます。よろしくお願いいたします。

チャンピオンベルト・ワールド~ロード・オブ・ザ・ベルト パート2~

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探偵「さて、パート2はテーズ・ベルトの流れがわずかながら見えたNWAインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトです」


先輩「ああ、このタイトルは1958年6月、これまでNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行ってきたルー・テーズの実績、貢献度が評価されて新設され、初代王者に認定されその歴史がスタートしたものだ」


探偵「はい。そしてテーズが王者になった2ヶ月後の同年8月、カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムで力道山が挑戦。見事ルー・テーズを下し第2代王者となります。以降、日本の至宝として力道山から馬場さん、鶴田、ブロディから三冠ヘビー級へと歴史を刻んでいき、プロレスファンなら知らない人はいないと言っても過言ではないタイトルとなりました」


先輩「さて・・・パート1の冒頭で見たように、テーズ・ベルトとインターナショナル・ヘビー級のベルトは大変似ていたね。テーズ・ベルトの時間軸からこのベルトはひとつしかない可能性が一瞬は高まったけど、インターナショナル・ヘビー級のベルトに関してはどうだったのかな?」


探偵「とりあえず詳細から調べてみました。インターナショナル・ヘビー級、このタイトルが日本へ紹介されたとき・・・そのスタートはまさに「驚」でした」


先輩「やはりこのベルトには何かあるんだな~」


探偵「はい。このタイトルは58年8月、力道山がチャンピオンとなり帰国。敵地で、しかもあのテーズを破っての王座奪還劇だったこともあり大きな話題となりました。しかし帰国した空港で力道山に発っせられた言葉は、テーズとの試合は本当にタイトルマッチだったのか?でした」


先輩「タイトルマッチじゃなかったのか?」


探偵「いえ、これは当時アメリカの通信社がこの試合をノンタイトル戦と伝えてしまったためのようです。しかしちゃんと選手権試合をし王者になった力道山は、もちろんタイトルマッチでテーズを破り、タイトルを手にしたと主張したようですよ」


先輩「そりゃ当然だよな。あのテーズを破っての王座奪還劇だもんね」


探偵「そうなんです。で本来ならここでベルトを出し揺るぎない証拠を見せるのが流れのはずですが・・・なんと力道山は、ベルトは別に送らせたので今はない。あとで公開する、と言ったんですよ」


先輩「べ、ベルトがなかったのか!?」


探偵「そうなんですよ。こんな波乱のスタートを切ったインターナショナルヘビー級の初代ベルトでしたが、その後無事にお披露目となりました」


チャンピオンベルト・ワールド~インターナショナル・ヘビー級~


先輩「でもなぜ帰国した力道山とベルトは別々だったんだ?」


探偵「インターナショナル・ヘビー級というタイトルは元々存在せず、力道山がタイトルもベルトも作った・・・かつてはそんなウワサもありました。しかしテーズの自伝から、テーズがこの王座に認定されタイトルを保持し防衛戦も行っていた、つまり力道山以前よりタイトルが存在していた事実がはっきりしています」


先輩「なるほど、確かに自伝には防衛戦の地区や相手の名前まであるな。4月にフォートワースでフリッツ・フォン・エリック、5月にヒューストンでペッパー・ゴメス、それにニック・ボックウインクル、ブルー・カリーに・・・あれ!?因縁のエドワード・カーペンティアまでやってるじゃないか」


探偵「まさにそうそうたるメンツですね。で、こうして58年8月、テーズと力道山はインターナショナル・ヘビー級選手権をかけ試合を行い力道山が勝利し王座を奪取しました。しかし力道山は王者となってインターナショナル・チャンピオンの称号のみを得、そのベルトはテーズの元に残し、ベルトを自身で別に作成した、どうやらこれが流れのようです」


先輩「こうしてやっとベルトにたどり着くんだな・・・で、これが力道山の最初インターナショナル・ヘビー級のベルトだね」




力道山のインターナショナル・ヘビー級のベルト


探偵「そうです。日本では最初に作られた初代のインターナショナル・ヘビー級のベルトということになりますが、実際にはテーズが保持していたのから数えると2代目のモデルにあたるベルトになります」


先輩「なるほど、初代であり2代目か。しかしこれはどうだろう?大きさこそちがえど、これはテーズ・ベルトに非常によく似ているよ。テーズのインターナショナル・ヘビーのベルトもまた似ていたのかな?」


探偵「そこなんですが、これがまた謎なんですよ。というのは、王者に認定の経緯から防衛戦の記録もあるにもかかわらず、テーズがインターナショナル・ヘビー級のベルトを手にしている写真や画像というのはこれまでに・・・」


先輩「ないのか!?またこの流れか・・・」


探偵「そうなんですよ。なのでこのベルトが何のベルトを参考にし作られたのかはわからないんです。テーズ・ベルトだったのか?それともインターナショナル・ヘビー級のベルトだったのかは見当がつかないんですよ」


先輩「もしこれがテーズの持っていたインターナショナル・ヘビー級のベルトを参考に作られたなら、もうひとつ似てるベルトがあったかもしれないってことでまたややっこしくなるなぁ」


探偵「どうなんでしょうか・・・このテーズのインターナショナル・ヘビー級のベルトこそまったく形状不明、おそらく誰も見たことないんで、なんとも・・・」


先輩「とりあえず、そこはまたの機会にして本題に戻ろう」


探偵「そうですね。本題に戻って、で、次に日本では2代目、テーズが保持していたのから数えると3代目のインターナショナル・ヘビー級のベルトです」




次のモデルとなったインターナショナル・ヘビー級。このベルトは63年12月、力道山死去と共に封印され一代限りのタイトルとなった



しかし72年に馬場さんの全日本プロレス旗揚げ時、このベルトが百田家から寄贈されPWFヘビー級王座として復活する



のち、我々も馴染みのこの形になる。名前はPWFだが実際のインターナショナル・ヘビー級のベルトの形の流れを組んでいるベルトだ


先輩「そうこいつも謎だらけなんだよなぁ・・・」


探偵「このインターナショナル・ヘビー級のベルトのことを調べると、最初の方は力道山により作成されたことがはっきりわかるんですが、この次のモデルに関しては作成されたという話と、WWA世界ヘビー級を流用したという話のどちらも出てくるんです。しかし・・・」


先輩「しかし、どちらも確たる証拠がないわけか」


探偵「そうなんです」


先輩「では目線を変えて、また年代と出来事を交え、これまでの調査データに仮説も交えてやってみよう」


探偵「はい」


先輩「まず力道山が作成した説だ。テーズ・ベルトはひとつ。1937年、旧NWAからWWAを経てアトランタ版、そしてテーズに戻ってきた」


探偵「はい」


先輩「で、インターナショナル・ヘビー級。これは力道山が作成し1962年11月5日、沖縄県の那覇で行われたムース・ショーラック戦から使用される」


(注:Wikipediaのインターナショナル・ヘビー級王座の備考には、このベルトが1963年10月9日の防衛戦より使用とありますが、この日にインターの防衛戦が行われた記録は見つけられませんでした。なぜこの年月日なのか、ご存じの方いらっしゃいましたらご教示よろしくお願いいたします)


探偵「こっちの仮説だとかなりスムーズですね」


先輩「じゃ、今回はこれで・・・」


探偵「でもWWA流用の仮説も・・・」


先輩「わかったよ~。ちょっと複雑だが行くぞ。WWAのベルトをインターナショナル・ヘビー級に流用した場合、キーになる年代が1962年だ」


探偵「はい」


先輩「まず62年3月29日、力道山がロスでフレッド・ブラッシーを破ってWWAを奪取する。そして4月23日に東京体育館でブラッシーと初防衛戦をし力道山が防衛した」




4月23日、東京体育館での初防衛戦。ベルトが上下逆だが、まちがいない


先輩「次は7月26日、再び場所をロスに戻しブラッシーと対戦するが力道山は敗れてしまい王座を失う」


探偵「と・・・ここまではWWAのベルトはこのモデルのものが確認できますね」


先輩「そう。で、このあと、2日後の7月27日にサンディエゴでザ・デストロイヤーがブラッシーを破り王座につく」


探偵「デストロイヤー初栄冠。これもベルトが確認できます。パート1で出たデストロイヤーの画像ですよね」


先輩「そう。その後デストロイヤーは63年5月10日、ブラッシーに敗れるまでベルトを保持するが、この約10ヶ月の間に力道山がインターのベルトを変更するんだ」


探偵「その間に何があったのか?ですね」


先輩「そうなんだ。順にいこう。ブラッシーがデストロイヤーから奪取した5月10日から先のベルトの姿の写真や画像はあるのかもしれないが、ブラッシーのベルト姿って探すと結構あるのでどれがこの日のなのか日時が確定できないね。不明とするしかないな」


探偵「うーん、そうですね」


先輩「次はその3ヶ月後の8月23日、第7代王者になったベアキャット・ライトだが、ライトに関しては人種差別が止まなかったこの時代に黒人初の世界王者という快挙を成し遂げたにもかかわらず、例のごとくベルトを持った写真や画像がない」


探偵「ライトは一度の防衛戦も行わず、不戦敗でタイトルから陥落したとの話もあるんですね。いろいろ事情があったのかなぁ・・・」


先輩「続いて、同年12月16日にその不戦敗でエドワード・カーペンティアが第8代に、翌年64年1月30日にはフレッド・ブラッシーが第9代王者となっているが、こちらもベルト姿が詳細には確認できない。だが4月22日に第10代の王者となったディック・ザ・ブルーザーからはモデルチェンジしたWWAのベルトがハッキリと確認できる」




ブルーザーからはこのベルトがハッキリと確認できる


探偵「うーん、WWA流用説だとしたら、やっぱり62年7月26日にロスで力道山がブラッシーに敗れ王座を失った直後かデストロイヤーが王座に就いたあと・・・このあたりの期間が最も怪しいことになりますね」


探偵「インターを使いだしたタイミングでベルトが見られずモデルも変わっています」


先輩「だな。じゃ、まずブラッシーの方から考えてみようか」


コンコン、カチャ


謎の子供「こんにちは。ねえおじさんたち。ドアの向こうにこんなの落ちてたよ」


先輩「あ、キミは所長と一緒にいた子じゃないか?(おい、これは所長の仕込みだな)」


探偵「(そのようですね)しゃべり方までコナンくんなんだね。で、何が落ちてたのかな?ん!?これは!?」


先輩「これはさっき話してた62年7月26日にロスで力道山がブラッシーとWWAの選手権を行ったときの・・・プログラムと書いてあるなぁ。でもなんでこんなものが?」




これは・・・


謎の子供「わかんなーい。あれれー?英語で書いてあるからボク読めないや。おじさん、ここなんて書いてあるの?」


先輩「え?ここ?こ、これは!!」


探偵「どうしたんですか先ぱ・・・あー!!これ、力道山の方はWWAだけど、よく見るとブラッシーの方はNAWAになっているッ!!」



 力道山がWWAで・・・


 ブラッシーがNAWAだ!!


先輩「どうなってんだ!?NAWAはカーペンティアが初代王者に認定されて、そのあと第3代王者の力道山のときにWWAに変わって・・・名前はなくなってたんじゃなかったのか!?」


探偵「WWAになっても単体のタイトルとして残っていたってことじゃ・・・あれあの、団体名がWCWなのにNWA王座があったみたいな・・・」


先輩「だとしたらこれは相当な手掛かりだよ!このプログラムだが、ちがうタイトルがそれぞれ書いてあって、お互いにベルトをしている写真が載ってるじゃないか。これから何が推測される?」


探偵「これはまるでダブルタイトル戦か王座統一戦だった可能性が・・・」


先輩「そう!!そしてもう一度、思い出して考えてみよう。WWAではこのベルトでの王座遍歴がはっきり残っていた。にもかかわらず、WWAの王座遍歴には名前がないはずのターザン・タイラーがベルトを巻いていた画像があった」


 探偵「そうでした」


先輩「つまり、タイラーの巻いていたあのベルトがNAWAだったとしたら?」


探偵「あ!!ということは!!アトランタ版世界ヘビー級っていうのはNAWAのベルトのことだった!?」


先輩「そう!!同じなんだよ!!そしてこれがイコール、テーズ・ベルトだ!!」


探偵「テーズ・ベルトは初めこそWWAだったが、もう1本ベルトが作られたことでNAWAとなった。そして作られた方がWWAになり、のちインターナショナル選手権のベルトとなった。確かにそれならテーズ・ベルトもインターナショナル・ヘビー級のベルトも経緯の説明がつきますよ!!」


先輩「現在までにテーズ・ベルト、インターナショナル選手権のベルトはそれぞれ現存が確認できている。しかしWWAのベルトは今日までに、これがWWAのベルトです!と、レスラーや関係者など、誰かの手によって本や雑誌で紹介されたことが一度でもあっただろうか?」


探偵「ない、ないですよ!!そうだったのか・・・」

探偵「これならすべて説明がつ・・・」


所長「フッフッフ・・・だいぶがんばっているな」


探偵・先輩「しょ、所長!?」


所長「(早く、それで撃って、早く)」


探偵「所長、なにを・・・?」


謎の子供「プシュ!」


所長「う、う~ん・・・犯人がね、見つかったんですよ目暮警部(ボク、早く蝶ネクタイ口に当てて、早く)」


先輩「お、おいなんだこれ?この子、自分でプシュって言ったぞ?」


探偵「名探偵コナンの眠りの小五郎じゃないすか?自分でしゃべってますけど・・・」


所長「テーズ・ベルトにはテーズの名前が入っているのだが、ブラッシーが保持していたとき、ベルトに入っている名前のところをブラッシーが黒いペンキで塗りつぶし、白で自身の名前を入れていたそうなのだ。テーズはこの部分のペンキを剥がすのに苦労したという・・・そういう話が残っているんだよ」


探偵「ほ、本当ですか?先輩、ブラッシーがベルトをしている、載っている資料はありますか?」


所長「それなら私が持っている。下はちょっと切れているが文字は確認できるぞ」



 黒地に白で“FRED BLASSIE”の文字がはっきり見える


探偵「本当だ。テーズ・ベルトは金属のベースから直接文字が浮き出ている表記でしたが、ブラッシーのは金属ベースが黒で白い文字で表記されていますよ!!」


先輩「しかし所長、これは・・・」


所長「さすがだな。気がついたか」


探偵「え?な、なにがですか!?」


先輩「こいつは・・・テーズ・ベルトでもインターナショナル選手権に流用されたベルトでもないぞ・・・」


探偵「え!?」


ート3へ続きます!! 


※コメント欄はパート3に設けます。よろしくお願いいたします。

チャンピオンベルト・ワールド~ロード・オブ・ザ・ベルト パート3~

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探偵「テーズ・ベルトがブラッシーの手にあったとき、ベルトに入っている名前のところをブラッシーが黒いペンキで塗りつぶし、白で自身の名前を入れていた・・・そしてテーズのもとにベルトが戻ってきたとき、この部分のペンキを剥がすのに苦労したというお話を聞きました。そしてブラッシーがベルトをしている画像を見て、文字を確認しました。でも、その画像が・テーズ・ベルトでもインターナショナル選手権に流用されたベルトでもないって、一体!?」




こいつはちがうのか・・・?


先輩「所長が教えてくれた話は本当で、そういうことがあったのは間違いないと思う。しかし、それとは別に、このベルトに関してはどちらでもない、ってことなんだよ」


探偵「そんな・・・でもなぜ!?」


先輩「ベルトを3つ並べてみて、上から見比べてみよう」



画像1


先輩「左からブラッシーのベルト、中央がテーズ・ベルト、そして右がインターだ。まず・・・」


探偵「はい」


先輩「まず画像1だが、上の淵のラインだが、ブラッシーのは凹凸がなく一体型で流れているね。しかし真ん中のテーズ・ベルトと右のインターのベルトはは“HEAVY WEIGHT”の両側のところに凹凸がある。これは左側の“WORLDS”と右側の“WRESTLING”の間に、上にあとから乗せたように見える作りのレリーフだからなんだ」


探偵「本当だ・・・同じではないですね・・・」



画像2


先輩「そう、さらに・・・画像2だが、その“HEAVY  WEIGHT”と“CHAMPION”の上下の間だ。テーズ・ベルトはブラッシーのベルトに似てはいるが、同じではない。インターの方は明らかに幅がちがうね」



画像3


先輩「で、最後・・・ここが最も確証高いポイントだ。まず“CHAMPION”と書いてある左右のところだが、テーズ・ベルトとインターはこの部分が左右とも、ウイニング・ローレルと似ているデザインのものの端が渦を巻いているような形になっている。しかしブラッシーのはここが片側だけしか渦を巻いていない」


探偵「向かって左の黄色い矢印がある〇ですね。本当だ・・・これははっきりわかりますね」


先輩「そう。そして・・・レスラーの名前が入っているネームのところだ。ブラッシーのネームが書いてあるところ、向かって右下の黄色い〇の中。ブラッシーのとインターは、ここが同じようなデザインになっているが、インターがこの形が左右対称なデザインなのに対し、ブラッシーのは片側だけが同じなんだよ。同じ場所をテーズ・ベルトと比べると、テーズ・ベルトは同じところ、ネームの両脇が何もなくすっきりしているデザインなんだ」


探偵「この部分はテーズ・ベルトとインターのベルトの区別をつけるにも役に立ちますね」


先輩「そうだね。それにしても、この場所に関してはブラッシーのベルトは、そもそも形状がまったくちがうよ。全体的にテーズ・ベルトとインターは左右対称のデザインなんだけど、ブラッシーのベルトはあらゆるところが左右対象に作られていないようだ。」


探偵「よく見るとその他にもリングのレリーフとか、リングの周囲のレリーフも左右が異なった作りの箇所がたくさんある・・・細かなところにちがいがあります。ということは・・・」




こうするとよくわかる


探偵「カーペンティアの流用の件から、元々NAWA、WWAのベルトはテーズ・ベルトと同じという線は濃くて、これはまちがいないのかもしれませんが、、このベルトに関してこういう実態があったということは・・・実のところ、流用されたテーズ・ベルトは使用時期が短くて、早い時期にテーズのもとへ戻っていった可能性がありますね。得てしてNAWA、WWAでベルトが制作された時期は早かったのではと・・・・予想できます」


先輩「うん、つまりこういうことだったんじゃないかな・・・」




先輩「カーペンティアがベルトを流用してNAWA、WWAとなった。そのあとブラッシーがタイトルを手にした後に本筋となったWWAのベルトが作られた。この時点でベルトがふたつ。で、このふたつのうちのひとつがテーズのところに戻る」


探偵「はい。この辺は前回の話でも理解できています」


先輩「そう。で、このあとだ。テーズのもとへベルトが戻ってベルトがひとつになって、おそらくブラッシーのベルトが登場した。これでまたふたつになった。で、ここで力道山とブラッシーが統一戦を行う。ブラッシーが勝利してふたつのベルトを獲得したが、その後も使用していたのがブラッシーのベルト。残ったもう一本がインターへと流れたと・・・」





探偵「ということは、少なくとも・・・この形のベルトが3本あるということがわかりましたね!!しかし、そうなると今日までにまったく確認されていないこのブラッシー・ベルトです。これは今、一体どこに・・・」


先輩「うん、これはもう・・・残念ながら調べようがない。もしかするとブラッシー家にあるのかもしれないが、我々が調べるのはもうこの辺が限界じゃないかな・・・」


探偵「・・・」


先輩「これまでにテーズ・ベルト、インターのベルト、そしてブラッシー・ベルトと、この形状のベルトが最低3本はあったということがわかった。でも・・・プロレス書籍などでも資料的なものは出尽くしている感があるし、様々なシーンで登場するこのベルトは、当時の写真では写りがよくないものが多いので正確に見比べて判断ができるものが残念ながらない。所長・・・」


所長「キミたちの推理を総括すると、やはりテーズ・ベルトはひとつだけだったと言えそうだ。そしてインターナショナル選手権のベルトもブラッシー・ベルトも、このキミたちの推理でまちがいないだろう」


探偵「所長・・・」


所長「しかしだ、今回のこれらの調査結果は我々の推理でしかない。だから絶対正解とは言えないのだ。今日までにいろんな人が興味を持ち、このベルトのことを調べていった。有名なプロレス関係者からいちファンに至るまでな。だが・・・これが絶対という答えを出せた人はいない。このベルトは、それだけの価値と魅力を秘めているベルトということなのだ」


先輩「そうですね・・・」


所長「ただ・・・ひとつだけ、これだけは言えることがある」


先輩「え!?」


探偵「そ、それはなんですか?」


所長「力道山はこのベルトの形が、すごく好きだった・・・ということだ」


探偵「力道山が・・・」


所長「日本での世界戦ではベルトが見れなかったが、力道山は海外でNWAのテーズのベルトを見たことはもちろんあっただろう。そのとき・・・力道山は、あの形のベルトに一目惚れしてしまったのではないかなと私は思うのだ。ルー・テーズの持っていたインターナショナル選手権のベルトの形は謎だったが、私はテーズのインターナショナル選手権のベルトは力道山の作ったものとは似ていないかったと思っているんだよ。あれはあのベルトが好きだった力道山が、自身のベルトをテーズ・ベルトに似せて作ったのではないのかなと、そう思っているんだ。WWAの選手権も日本とロスとで盛んに行って、力道山はあのベルトを腰に巻いた。そのベルトは取られたが、すぐにインターナショナル選手権に姿を変え力道山の腰に巻かれたんだ。力道山はずっとこのベルトと一緒にいたかったんではないのかな」


探偵「ベルトが好き、かぁ・・・」


所長「見たまえ、この力道山の顔を」





所長「ベルトを巻いて、こんな素晴らしい笑顔をするレスラーを、キミたちは今までに見たことがあるかね?」


探偵「ないです・・・力道山が他のベルトをしている画像も見たことありますけど、こんな顔して写っているのはこのベルトの時だけですよ。なんて嬉しそうな顔なんだ・・・」


先輩「まるで欲しかったおもちゃを買ってもらった子供が、うれしそうに親やおじいいちゃん、おばあちゃんに見せているみたいな、とっても純粋な笑顔ですよ。心から喜んだときにしか出せない、素敵な笑顔です」


所長「うむ。今回は調査ご苦労様だった。あとはゆっくり休んでくれたまえ。では私は帰・・・」


コンコン


探偵「ん?誰かな?はい、どうぞ」


警察A「失礼します。こちらプロレス探偵事務所でよろしいでしょうか?」


探偵「は、はい・・・何かありましたでしょうか?」


警察B「実は昨日から行方不明になっている小学生の男の子とよく似ている子供と、誘拐の容疑のある50代の男性がこちらに入っていくのを見かけたという情報をいただいておりまして・・・」


探偵「子供と50代の男性・・・?」


先輩「誘拐・・・?」


所長「なんだ?どうしたんだ?」


警察A「あ!!子供が!!あー男も一緒だ!!」


所長「な、なんだ!?何事だ!?」


警察B「あなたに少年誘拐、並びに拉致監禁の容疑がかかっています。署まで来てもらいます!!」


所長「な、なんで私が誘拐犯なのだ!!私はコナンくんごっこを・・・」


警察B「抵抗するな!!公務執行妨害になるぞ!!おい、子供を保護して!!」


警察A「はい!!さあボク、こっちだよー!!」


所長「待て!!こ、コナンくんの声優の高山みなみは新間寿の姪なんだぞ!!なぁ!?」


探偵・先輩「・・・」


警察B「関係ない!!来ぉい!!」


バタン!!


先輩「・・・メシでも食って帰るか・・・」


探偵「はい・・・」



さて、所長は連行されてしまいましたが・・・いかがでしたでしょうか?


1937年、この形のベルトがプロレス界に現れて、今年で80年目。この長い時間の中で、鉄人ルー・テーズが、元祖STFのレイ・スチールが、巻投げの名人のホイッパー・ビリー・ワトソンが、空中殺法の祖のエドワード・カーペンティアが、噛みつき魔フレッド・ブラッシーが、白覆面の魔王ザ・デストロイヤーが・・・そして日本プロレス界の父・力道山が、世界の馬場さんが、プロレス最強の高田が・・・この形のベルトを腰に巻きました。


そして腰に巻きしそのレスラー達は、その時代の“王”として君臨したのです。


“王”が現れるたび、関係者がファンが、プロレスに関わるすべての人々が、そのベルトに迫りました。ある者は“王”自身に、ある者は歴史に、ある者はベルトそのものの謎に・・・人々は追いはじめます。しかしやっぱり・・・どこかで途切れてしまうのです。その頃、ベルトも姿を消してしまうのです。


しかし時を経て、やがて人々が忘れた頃にベルトは“王”と共に、また出現するのです。それを見て人々が追い始めると、やっぱりどこかで途切れ、そしてベルトも姿を消すのです。ベルトに惹かれ、ベルトを巡って旅をして・・・そして旅の途中で、そのベルトは幻のように姿を消してしまうのです。まるでベルトが意志を持っているように・・・


歴史の節々でプロレス界に姿を現し謎を誘った、魅惑のベルト。この先、またこのベルトがなんの前触れもなしに人々の前に“王”を従え、突然現れるかもしれません。そのときは一緒に、旅に出ませんか?ベルトを巡る旅に・・・


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





おお~っと!!合わせ鏡の戦い模様だ!!

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どうも!!流星仮面二世です!!


さて、以前このようなお話をしたことがありましたが・・・


プロレス都市伝説?


現在、SNSを介して自分と似ている人を見つけるのがひとつの流行りのようで・・・探して会い、一緒に写真に納まったり交流を持ったりする人がいるようなんですね。


その人たちはもちろん自分の血縁でもなければ国もちがう人なのに、単にそっくりというだけじゃなくて性格や嗜好も似ていたりすることが多いようです。本当に不思議なものです。


そんな似ている人、プロレス界ではどうでしょうか?今回はちょっと、そういうのを探してみましたので、よかったらお付き合いください。


では行きましょう。まずはこちらから。



第1試合 ヒクソン・グレイシーvsスタニスラウス・ズビスコ


ヒクソンはもう説明する必要はないですね。400戦無敗の男の異名をとる総合格闘技のレジェンドであります。


スタニスラウス・ズビスコは1878年ポーランド出身の伝説的なレスラーです。デビューからヨーロッパで無敵を誇り、1909年にアメリカに渡って1910年にフランク・ゴッチに敗れるまでなんと944戦無敗という強豪だったそうです。1921年5月6日に43歳にしてルー・テーズの師であるエド・ストラングラー・ルイスを下して世界王座を初戴冠。その後1953年、77歳の誕生日まで現役でやっていたという経歴を持ちます。


400戦無敗と944戦無敗の結末はいかに!?さあ見てみましょう。




ヒクソン・グレイシー(左) スタニスラウス・ズビスコ(右)


これはあれですね。お盆に親の実家に帰省したとき毎年目にする、壁に飾ってある自分の知らない先祖の写真を見て、この写真の人のことは知らないけど、自分と繋がっている人なんだろうなぁ・・・と回想していると、そこに、この人が気になるのかい?とおばあちゃん。この人はねぇ~おばあちゃんのお父さんの、そのまたお父さんのお父さんでね、日本がまだね・・・といった感じの似方ですね。


まあでもあの、体型はおそらくヒクソンの方がスマートだと思われますが、ご覧のようになかなか似ています。しかし容姿も然り、無敗伝説や長く格闘技をやっていけるための体、つまり自身の体調管理の配慮、コンディションキープなどが似ていたのかなと、そんな気がします。時代はちがえど強者の共通点はあったようですね。


お次はこちらです。



第2試合 カール・アンダーソンvsカール・フォン・ショッツ


現在のプロレスファンにはおなじみのカール・アンダーソンは2002年にプロレスデビューしているんですね。デビューからしばらくはインディ団体で活動していましたが2006年頃からロスに移り活動。そのとき当時あった新日本プロレスのロス道場でトレーニングを積んだようで、新日本にはこの辺りからのご縁だったのでしょうかね。そんな日本へは2008年に初マットを踏んで以来、タッグではIWGPタッグとGHCタッグの2冠王に輝いた時期もあり、また2012年にはG1クライマックスで決勝戦に進むなど新日本では重要なポジションで活躍してきました。現在はWWEで大活躍中です。


一方、カール・フォン・ショッツは1971年デビュー。元々カナダ出身で本名のジョン・アンソンのリングネームで活動していましたが72年に髪の毛を剃り上げナチス・ドイツ系のヒール、カール・フォン・ショッツに変貌を遂げます。そして間もなく同じナチス・ドイツ系のヒールだったクルト・フォン・ヘスとタッグを組み大暴れしました。日本へは74年にNWA北米タッグ王者としてヘスと共に新日本プロレスに最初で最後の来日。第1戦目になる5月24日の足立区体育館で星野、猪木組と3本勝負で対決し、ショッツは1本目を星野から、そして2本目は、なんと猪木からフォールを奪い、ひとりでツーフォール取っての大活躍を見せました。シリーズ中に行われた猪木、坂口の黄金コンビを相手にした北米タッグの選手権試合でも奮闘し新日黄金コンビ相手にタイトル奪取を許しませんでした。


この時点ではタッグというのが共通のワードですが果たしてどうでしょうか?では見てみましょう。




カール・アンダーソン(左) カール・フォン・ショッツ(右)


これは似・・・な、なんですと?ハゲでヒゲ面ならスティーブ・オースチンでもゴールド・バーグでも、はてはザ・ジャッカルでも同じだろうって?うむむ・・・


いえしかし、確かにハゲのヒゲ面は似るかもしれませんが、特にこのショッツは似ているんですよ。他の画像、これなんか見るとどうですか?




時空を超えた対決、猪木vsアンダーソン


一瞬ちょっと錯覚しますよね。


しかしながら、残念なことにショッツのこのスタイルは非常に短いものでした。来日した同年の8月に猪木、坂口と今度はロスで北米タッグ戦を行いましたが、このときにはショッツはコスチュームこそ同じでしたが、もう髪の毛を伸ばしスキンヘッドではありませんでした。この北米タッグ戦以降、ヘスとタッグは組んでいないようなんです。おそらくタッグチームを解散する方向でのイメージチェンジ中だったのかもしれませんね。


何度も日本へ来たアンダーソンに比べショッツが日本へ来たのは一度だけ。ショッツが引退した年アンダーソンはわずか3歳。出身地も時代もまったくちがい、しかもアンダーソンとちがい短い期間しかスキンヘッドでなかったショッツ。それを考えると、これほど似ているふたりを見れたのは奇跡だったのかもしれません。カールというリングネームも、そしてどちらも新日本とくると、やっぱり不思議な感じがします。


続いてはこちらです。


第3試合 AJスタイルズvsキング・クロー


ボクの持っている本には詳細なデータが載っているものがないので経歴などがご紹介できないんですが、UNヘビー級のタイトルの歴史を紐解いたとき必ず出てくるのがこのキング・クローです。72年1月に猪木が日本プロレスを除名されたことに伴い、UNヘビー級王座を返上した際に王座決定トーナメントがカナダのバンクーバー・オーデトリアムにて行われたのですが、そのときルーク・グラハム、カウボーイ・ビル・ワット、グレート・ボリス・マレンコなど総勢12名にもおよぶ強豪レスラーを押さえ優勝したのがクローでした。


一方のAJスタイルズは98年にデビューしているようですね。で、ボクは来歴、まったく知らなかったんですが調べたらなかなかおもしろいんですよ。まず名前、これなんでAJだと思います?これあれなんですよ。本名がアレン・ジョーンズだからなんですよ。これってマグナムTAのテリー・アレンと同じ感じですよね。おもしろいですね。で、プロレスの方ですが2001年2月にWCWに参戦、同年7月にはWWFに参戦して試合しているんですよ。このときの両団体でポジションはわかりませんが、デビュー3年ほどで当時のメジャーどちらも出ていたのはスゴいですね。その後、2002年6月からはTNAに参戦。このタイトルの初代王者となっているようです。日本へは初来日が2003年1月、なんとZERO-ONEに参戦だったんですね。で、2005年ビッグマウスのWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005に参戦。新日本プロレスには2008年1月に初めて参戦してきたというわけなんですね。以降の活躍はもうすっかりお馴染みですね。日本ではIWGP、アメリカでWWEの王者に登り詰めています。


さあ、AJは本当にザ・フェノメナール・ワンだったのか!?見てみましょう。




AJスタイルズ(左) キング・クロー(右)


似てますね~!!なんか、タイムスリップした主人公が若い頃の父さんとバッタリ会ってしまい、思わず、と、父さん!何言ってやがる!おれには子供なんかいねぇぜ!?誰なんだおまえは!?いや、その、ボクは未来から来たあなたの・・・的な似方ですよ。


こちらはロスで行われた坂口とのUN戦ですが、横顔や全体的なフインキも似ているように見えます。




時空を超えた対決パート2、坂口vsAJ


AJスタイルズ、現在プロレス界では一番名前が知れている文字どおりのトップ・レスラーです。一方、キング・クローはカナダを主戦場にしていたようですが、このUNの歴史以外に本などでその名を見ることはありませんでした。坂口に奪われたUNを追ってやってきた、日本へのたった一度の来日。もし猪木が除名されずUN王者のままだったらボクらは名前すら聞くことがなかったかもしれません。そう考えるとアンダーソンとショッツ同様、これほど似ているふたりを見れたのは奇跡だったのかもしれませんね。


続いてはこちらです。



第4試合 ポール・エラリングvs松岡昌宏(TOKIO)


さあポール・エラリングです。エラリングは1978年にプロレスラーとしてデビュー。鋼鉄の鷲といわれるほど、その全身の筋肉は隆々でパワーファイターとして活躍しました。日本へは81年に国際プロレスに初来日しています。このときはテリー・ラザンとのコンビでラッシャー木村、マイティ井上に勝利し第24代のIWA世界タッグ王座を獲得しました。しかしその後、体調面での不調を理由にマネージャーに転向。ジョージアでヒールのユニット、リージョン・オブ・ドゥームを結成。ここにザ・ロードウォリアーズも加わり人気が上昇するとウォリアーズの専属マネージャーになりブレーンとして大活躍。85年3月8日、全日本プロレスの激闘! エキサイティング・ウォーズの船橋大会にてザ・ロードウォリアーズのマネージャーとして国際プロレス以来の来日をし、以降お馴染みの存在となりました。


松岡昌宏はご存じTOKIOのメンバーです。これはもう説明いらないですね~。


かたやリージョン・オブ・ドゥーム、かたやジャニーズ。まさに異種格闘技戦!!見てみましょう。




ポール・エラリング(左) 松岡昌宏(右)


これはなんてアメリカンな松岡くん!!似てますね~!!


ちなみにこちらはウォリアーズのマネージャーのときのエラリングです。




似てるなぁ


うーん、やっぱり目や鼻など個々のパーツが似ている気がします。松岡くんは顔の彫りが深く目鼻立ちがハッキリしてますから、外国人の顔と比べても見劣りしないんでしょうねぇ。


ちなみにボクと松岡くんは誕生日が一緒ですが残念ながら似てはいません。あんなかっこよけりゃな~人生も変わってただろうな・・・


さぁ次はこちらです。



第5試合 スパイロス・アリオンvs大葉健二


ギリシャの英雄のニックネームを持つアリオンは61年、パリでデビュー。デビュー後はヨーロッパ圏でファイトしていましたが4年後にオーストリアに渡り65年7月にIWA世界ヘビー級(国際プロレスのとは別)を、あのキラー・コワルスキーから奪取します。その後このタイトルのチャンピオンとして防衛戦を行い人気を上げます。その防衛戦の相手にはカール・ゴッチも名を連ねていたそうですが、アリオンはゴッチ相手にもタイトルを防衛しているようで、その実力も伺えます。66年にはWWWFに参戦。ここで人気が爆発し、その活躍は日本でも注目され、71年に日本プロレスに初来日時は大きな期待が持たれました。しかしこのときは同じく初来日だったミル・マスカラスに押され気味になり本領発揮できずに終わってしまいました。日本へは2度来日しています。


で、大葉健二さんです。これはボクらの年代なら知ってますね!!宇宙刑事ギャバンの烈さんですよ!!ボク大好きでしたねー!!バトルケニアもデンジブルーももちろん好きでした。こうね、大葉健二さんはけして二枚目役とかじゃないんですけど、とにかく動きと、あと存在がかっこよかったんですよ。敵が現れたときの身構え方なんか最高でしたね。今の戦隊モノとか特撮ヒーローって主人公がイケメンばかりで、まあそれはそれでいいことなんですが、やっぱり本来子供が求めるヒーローってギャバンの烈さんみたいな感じの方が・・・って、話が終わらなくなりそうなんでこの辺で締めます。なはは・・・


ではギリシャの英雄vs宇宙刑事!!見てみましょう。




スパイロス・アリオン(左) 大葉健二(右)


んぉぉー蒸着!!これはそっくり!!


眉と目と、鼻から顎のラインが・・・いや、というか全体的に似ています!!


の上の画像は80年代後半のスパイロス・アリオンなんですが、下の60~70年代の若いときのもまた似てます。




これも似てんなぁ~


やっぱり眉と目が特に似ていますね。これは遺伝子レベルで調べればなんかあるような、そんな似方に感じます。


それにしても・・・小学4年のときはギャバン見てエンディングの星空のメッセージ聴いて、次回の予告見て・・・で、そのあとワールドプロレスリングが始まるわけなんですね。よかったなぁ・・・あの頃に戻りてぇ・・・


さあ次です。いよいよ佳境に入ってまいります。行ってみましょう。



第6試合 木戸修vsフランク永井


木戸はもうプロレスファンなら説明いりませんよね!現在は娘さんがプロゴルファーとして活躍していますが、時折一緒にテレビなんか出てますよね。


一方、対しますはフランク永井さんです。昭和の「ミスタームード歌謡」と言っても過言ではない、世界最強レベルの甘ぁい低音の声を持ったフランク永井さん。1957年「有楽町で逢いましょう」が大ヒット。59年には今なお歌われますデュエット「東京ナイト・クラブ」がヒット。61年には「君恋し」で第3回日本レコード大賞を受賞。日本レコード大賞で大賞1回、歌唱賞2回、特別賞を3回!NHK紅白歌合戦には連続26回出場!!ボクの歳でも口ずさむことができる「おまえに」など、後世にまでその歌声を残した偉大なる歌手でした。


そんなふたり、いぶし銀vsムード歌謡の帝王、どうでしょうか?見てみましょう。




木戸修(左) フランク永井(右)


いやぁこれは・・・親戚の結婚式や法事に呼ばれ、普段付き合いのない親戚と初めて遭遇し、こういう親戚いたんだなぁ。似てんなぁ~と感じるような・・・そんな血縁を感じる似方ですよ。


顔の特徴、左右の目、見てくださいよ。瞼の開き具合、右瞼がちょっと下がり気味で左瞼は開き気味というのが一緒です。輪郭も非常に似ていますね。これも遺伝子レベルかもしれませんね。


木戸修とフランク永井。今回は似ているレスラーとして上げましたが、考えてみると木戸のようなレスラー、フランク永井のような歌手・・・今いませんよね。ファンに対し表面からだけでなく、内側からも魅了する、そんな人物の出現に夢を見ている次第です。


お次はこちらです。



第7試合 木村健吾vs菅原洋一


木村健吾、こちらも説明はいりませんよね。数々の伝説を残してきた名レスラーです。


一方の菅原洋一さん。歌手である菅原洋一さんは澄みきった伸びのあるボーカルで1968年に「誰もいない」で第10回日本レコード大賞歌唱賞、70年には「今日でお別れ」で第12回日本レコード大賞を受賞。NHK紅白歌合戦には連続22回出場という、こちらもフランク永井同様、歌謡界のビッグネームであります。


木村は現役時代より歌唱力が高くレコードを出していたのは有名でしたよね。というわけで今回はレコードのジャケットで見てみましょう!こちらです!!




木村健吾(左) 菅原洋一(右)


おぉぉー稲妻・・・これ、今まではこの人とこの人が似てるって概念でしたけど、これはひとりの人の若い頃と現在を比べてますよ、と言ってもわからないような、同一人物的な似方ですね。


それであれですね。よく顔が似ている人は声も似るなんて言いますが、木村と菅原洋一さん。普段の声こそ似ていませんでしたが、歌うと木村の声がしゃべっているときの声よりも低くて、ちょっと菅原洋一さんに似ていたんですよ。そして抜群の歌唱力ですね。似ていると、こういう共通点もあるのかもしれませんね。


いよいよ最後になります。最後はこちらです。



第8試合 豊登vsオカリナ(おかずクラブ)


豊登です。豊登は1954年、日本プロレスに入団。60年には力道山とのタッグでパワーが炸裂。第3代アジアタッグ王者に輝きます。力道山の死後は日本プロレスのエースとして活躍。1964、65年とワールドリーグ戦を連覇します。同年12月には東京都体育館でザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級を奪取します。国際プロレス時代にはTWWA世界タッグ王座、IWA世界タッグ王座の初代王者チームにもなりました。72年3月からは軌道に乗るまでとの理由で新日本プロレス旗揚げ戦に登場し以降、約1年参戦。テレビ中継が付くまでの間、猪木以外は知名度が少なかった新日本のレスラーと共に戦い観客動員に大きく貢献しました。現役時代、真骨頂はその怪力で、握力は120キロを超えていたという話が。かつて腕相撲世界一の人と対戦し右で勝利、左では引き分けしたという伝説があります。


オカリナさんはお笑いコンビのおかずクラブのひとりで、本名は稲尾真季というそうです。お笑いながら、元看護師という経歴を持つ異色の存在なんですね。で、なんか柔道の経験もあるようです。お笑いをやってるがゆえにあんな感じなだけで、実はまじめでしっかり者なのかもしれませんね。


では通常ではありえない超異次元な顔合わせ、見てみましょう。




豊登(左) オカリナ(右)


これは、職場の同僚とスーパーでばったり。娘さんも一緒で、あら~お父さんに似てるわね~。いえ、母に似ているとよく言われます。あらそうなのぉ~。お母さんの方は見たことないから、お母さん見たらそっちに似ているのかしらねぇ?でもお父さんにも似てるわよ~って感じの似方ですね。


いやしかし、本当に親子が似るような似方ですね。まんべんなく似ているというか・・・目はお母さんだけど、輪郭とかはお父さん?みたいな感じですよね。それにしても、これほどリンクしない顔合わせもないですね。豊登は98年に亡くなっていますし、オカリナさんが生涯で豊登の存在を認識する日もないでしょうからね~。これまた不思議ですね。


さて、お送りしてまいりました似ている特集、いかがでしたでしょうか?


現在70億人を超える地球人口。これだけの人がいるなら、自分とそっくりな人がいても何ら不思議ではありません。生まれたところも人種もちがうのに似ているという不思議。でも本当にたまたま似ているだけなんでしょうかね?人間が生まれることに意味があるなら、遠く離れた場所で自分に似ている人がいることには一体どんな意味があるのかな・・・人はそれを知るために、似ている人を探して、会っているのかもしれませんね。


最後まで読んでいただきありがとうございました。



タイムスリ~ップ・ザ・87年度

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どうも!!流星仮面二世です!!


さて、遅くなってしまいましたが、3月12日(13日になってしまいましたが)ですねぇ~。老若男女、新旧問わずの期待の中、プロレス総選挙が放送され、みなさんの間で話題沸騰になりました。


遅ればせながら・・・いやぁこれは、まずやってくれたことがよかったですね。放送されると知ってから、何日も前から友人、知人、家族とで予想しあって、放送日を楽しみにして待ちました。こんな風にプロレスの放送を心待にしたの何年ぶりだったかな。なつかしく、うれしい感覚でした。


しかし、当日は放送時間がね・・・残念なことになってしまいました。あれがゴールデンだったらなぁと悔やまれてなりません。次回がもしあればバッチリなゴールデンに期待したいと思います。


ランキングのおさらいです。


20位アンドレ・ザ・ジャイアント

19位真壁刀義

18位ハルク・ホーガン

17位蝶野正洋

16位橋本真也

15位ケニー・オメガ

14位天龍源一郎

13位小橋建太

12位武藤敬司

11位長州力

10位スタン・ハンセン

9位三沢光晴

8位獣神サンダー・ライガー

7位ジャンボ鶴

6位棚橋弘至

5位力道山

4位オカダ・カズチカ

3位初代タイガーマスク

2位ジャイアント馬場

1位アントニオ猪木


うん、これはなかなか奥が深い、見事なランキングでしたね。一方で、言いたいことは山ほどあるんですが、長くなっちゃうんでそれはまたの機会ということで・・・


さて、このように今回2017年に記念すべき地上波テレビでのプロレス総選挙が行われたわけですが・・・実はかつても、プロレスにはこういうものがありました。もうピンと来ている方もいらっしゃると思います。そうですね、いろんなプロレス雑誌で行われていたプロレスラー・ランキングです。


今回は、年度末に合わせて時代はちょうど今回のプロレス総選挙から30年前の87年度にタイムスリップです。当時、週刊ゴングに掲載されたプロレスラー・ランキングにスポットを当ててみたいと思いますよ。


ではまず、ランキングに行く前に87年度の世の中の出来事を少々。


この年は国鉄が民営化、名称がJRに。それから大韓航空機爆破事件。金賢姫という名前をよく耳にしましたねぇ。耳にしたといえば俵万智のサラダ記念日もこの年でした。スポーツはマイク・タイソンがWBA、WBC、IBFの統一王者に。それから広島カープの鉄人・衣笠祥雄が引退。横綱の双羽黒、北尾が廃業。陸上のベンジョンソンが100mで世界新を出しながらドーピングにより記録が無効に。ありましたね~。芸能はマイケル・ジャクソンが来日。ソロとしては日本初公演を行いました。あと石原裕次郎が死去。尾崎豊が逮捕と・・・こういう感じであります。


続いて87年度の当時のプロレス界の出来事を振り返ってみましょう。



87年度プロレス史


87年4月

・ギブアップまで待てない!!ワールドプロレスリングがスタート

・猪木とマサ斉藤が両国国技館でプロレス史上初のノーロープ手錠マッチ

・上記の試合を長州、マシーンなどが観客席から観戦。新日本復帰を思わせた



ギブアップまで待てない・・・当時はイヤだったが、今となってはなつかしい



おれたちがテメェたちを折ってやる!!興奮したっけなぁ


6月

・馬場さんがラジャ・ライオンと最初で最後の異種格闘技戦

・天龍が原とタッグ結成。天龍革命が烽火を上げる

・長州が2年8ヵ月ぶりに新日本復帰。新日本のリングで試合を行う

・猪木がIWGP大会4連覇。この大会を最後にIWGPがタイトル化。優勝した猪木が初代王者となる

・上記の試合後、長州がリングに上り藤波、前田らに呼びかけ世代抗争が勃発する



どんな試合になるのか?興味を持って見入った結果は驚きの裏十字固めだった



天龍があらゆるレスラーに刺激を与えた革命のスタートだった。原がよかった



今しかないぞ!!おれたちがやるのは!!長州の言葉はいつもファンの心を掴んだ


8月

・新日本が19、20日と両国国技館でサマーナイト・フィーバーIN国技館(2日連続)開催

・日本武道館で天龍革命後、初めての天龍vs鶴田のシングル戦が行われる。天龍がリングアウトで勝利

・アニマル浜口が引退



天龍vsジャンボの、この頃の全日本を見てプロレスファンになったという人は多かった。納得だ


9月

・ギブアップまで待てない!!ワールドプロレスリング終了

・ジャパンプロレスが完全消滅。谷津嘉章らジャパンの残留組は全日本プロレス入り


10月

・猪木とマサ斎藤がプロレス史上初の巌流島決闘

・日本武道館で革命後、二度目となる天龍vs鶴田戦。天龍が反則勝ち



何がふたりを動かしているのか・・・今までにない戦いを見せるふたりから目を離せず、すっと見入っていた。思い出す・・・



11月

・長州顔面蹴撃事件が起き、前田が無期限出場停止になる

・新日本プロレスのリングにたけし軍団登場。TPG(たけしプロレス軍団)として猪木へ挑戦状

・全日本プロレスにブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーが復帰。世界最強タッグへ出場

・ハンセンとブロディがタッグで対決



プロレスの“夢の対決”という言葉の最後が、この対決だったのかもしれない



何がどうなってしまったのか・・・まだ中学生だったボクには難しい問題だった



12月

・ビートたけしが87イヤーエンドIN国技館に登場。TPGの刺客としてビッグバン・ベイダーが日本初登場

・同日、国技館で暴動が起きる

・ハル薗田が飛行機墜落事故により死去



ついにリングに登場したビートたけし。今考えるとすごいことだ



薗田の奥さんへのプロポーズの言葉は「残りの人生、僕に下さい」だったという。当時、悲しかった・・・



88年2月

・ダンプ松本、大森ゆかりが引退

・前田が新日本解雇処分



クラッシュと天を二分した存在だったダンプの引退。時代が大きく動いた日だった


3月

・スタン・ハンセンが試合中に天龍の蹴りを食らい失神

・全日本のインター、PWF、UNの三冠タイトル統一の流れが強くなる



外国人トップレスラーが全日本のマットの上で失神する。広い意味でこれまでにない出来事にはおどろかされた


この他に天龍が試合で輪島への妥協なき攻撃を展開したり・・・



86年はいい年だったが、打って変わって87年にはこれでもかというほど苦汁を飲まされた輪島。なんかかわいそうな気がした


あと謎の海賊男出現など、思い起こせばいろいろありました。



手を変え品を変え出現しまくった海賊男。結局なんだったんだろうか・・・


はい、というわけでございます。


それではこの辺を頭の片隅に入れながら87年度のランキングを振り返ってみましょう。ランクは日本人部門、外国人部門とありましたので一緒にご紹介します。同率の場合はその前後が該当なしになっています。画像はなるべく87年度内の様子をと思い収めましたが、どうしてもないものがあり多少前後しています。



87年度プロレスランキング

20位


日本人部門

藤原喜明


外国人部門

ボブ・バックランド(同率20位)



ロックンロール・エキスプレス(同率20位)


世代抗争ではナウ・リーダーの位置だった藤原が日本人部門で20位。外国人部門では、87年の時点ではプロレス界から身を引き実業家になっていたバックランドだったが20位。そしてこの時点でまだ未来日だったロックンロール・エキスプレスも、こちらも20位と健闘しました。



19位


日本人部門

キューティ鈴木


外国人部門

リック・マーテル


日本人部門にはジャパン女子プロレスのキューティ鈴木がランクイン。いやぁ~19歳の頃のキューティ、かわいいなぁ~。ものすごくかわいい。外国人部門では87年は日本ではそこまで目立った活躍はしてなかったような記憶なんですがマーテルもランクインしています。



18位

日本人部門

阿修羅・原


天龍革命で男を上げた原が18位に。外国人部門は17位が同率の為いませんでした。



17位


日本人部門

風間ルミ


外国人部門

ケリー・フォン・エリック(同率17位)



ディンゴ・ザ・ウォリアー(同率17位)


日本人部門には、こちらもジャパン女子プロレスのセクシーパンサーこと風間ルミがランクイン。デビュー以来キューティ人気が急上昇し忘れ去られてしまってましたが、実は風間ルミの方が当初アイドルレスラーとして売り出され、都会の流星というレコードデビューまでしていました。外国人部門ではエリックファミリーのケリーと、のちのアルティメット・ウォリアーのディンゴ・ザ・ウォリアーがランクイン。この時点ではまだ未来日だったことを考えると大健闘でしたね



16位


日本人部門

木村健吾


外国人部門

TNT


87年初め、藤波との抗争で名を上げた木村が16位。外国人部門では87世界最強タッグでブッチャーのパートナーとして活躍したTNTが初来日ながら高評価を得ました。トラースキックはプロレス史上最高でしたね。



15位

日本人部門

マサ斎藤


外国人部門

リック・フレアー


アントニオ猪木との数々の激闘や世代抗争での活躍が評価されたマサ斎藤がランクイン。リック・フレアーはさすが王者の貫禄といったところでしょうか。そういえばこのベルトに変わったのは86年か87年ですね。最初は評判悪かったベルトですがNWAからWCW、そしてWWFと渡り歩き、価値が上がりました。



14位


日本人部門

武藤敬司


外国人部門

バズ・ソイヤー


ペースローンウルフ時代の武藤がランクイン。この頃の武藤はとにかく動きがよかったですね。体もよかったなぁ。ソイヤーはパワースラムの名手でしたね。いいレスラーでしたが、あんなに早く逝ってしまうとは・・・



13位

日本人部門

スーパー・ストロング・マシーン


新日本へカムバック後、世代抗争を挟みながらも前田と戦いたいと対戦を直訴。好勝負を展開し評価を上げました。なんでも万能にこなすレスラーでしたね。外国人部門は12位が同率の為いませんでした。



12位

日本人部門

山田恵一


外国人部門

ドリー・ファンク・ジュニア(同率12位)



クラッシャー・バンバン・ビガロ(同率12位)


対UWFや船木との骨法コンビで人気だった山田が12位にランクイン。ドリーはこの87年でもこのランク。根強い人気でした。そしてこの年、一大センセーショナルを巻き起こしたのはビガロでした。当時デビュー2年弱でありながら、その試合運びはベテランも真っ青のテクニック。猪木をはじめ日本陣営をおおいに苦しめました。



11位

日本人部門

高田伸彦(延彦)


外国人部門

テリー・ゴディ


IWGPのジュニアヘビーで活躍していた高田でしたが、87年はIWGPタッグ王者として活躍。87ジャパン・カップ争奪タッグリーグ戦では武藤と組みスピーディーな連携でファンを魅了しました。ゴディは最強タッグでのハンセンのパートナーとしての活躍が評価され11位。この後、全日本でトップとして君臨していく、まさに布石の年でした。


10位


日本人部門

タイガーマスク(三沢)


歴代タイガーマスクの中で唯一ヘビー級となった三沢タイガー。天龍革命に対抗しながら87年度は自身の猛虎7番勝負でフレアー、天龍、デビアス、ジャンボと好勝負を展開。88年にはAWA世界タイトルにも挑戦し活躍しました。外国人部門は9位が同率の為いませんでした。



9位


日本人部門

長与千種


外国人部門

ミル・マスカラス(同率9位)



ダイナマイト・キッド(同率9位)


クラッシュの人気に気を取られがちですが、魅せるという点でもレスラーとしてトップクラスだった長与千種。この人のスープレックスは本当に素晴らしかったですね。覆面のまま飛行機登場可能、パスポート所持可能という伝説を持つ世界的知名度だったマスカラスは87年度は一度も来日していませんでしたが(全日本へは86年が最後の来日)9位と、ベスト10入りはさすがです。キッドはWWFで86年末の試合中に椎間板を損傷する極度の重傷を負い、普通なら引退しなければならないところを3か月で復帰し周囲を驚かせましたが、これが祟ってか選手生命に影響が出てしまいました。キッド、立っている姿を見ているだけで吸い込まれてしまいますね。カッコよかった。



8位


日本人部門

ジャイアント馬場


外国人部門

オーエン・ハート


87年度は49歳という年齢でしたが、今に思えば49歳であれだけ動けていた馬場さんはやはり偉大でした。この辺の現役としての凄さとプロモーターとしての顔、力が評価されてのこの順位だったのでしょうね。外国人部門は87年は天才児といわれたオーエンが待望の初来日を果した年。確かこのときはデビューして2年に満たない頃でしたが、素晴らしい動きでファンを魅了しました。しかしこのとき、オーエンがあんな壮絶な最期を送るとは誰が予想したでしょうか・・・



7位


日本人部門

谷津嘉章


外国人部門

テリー・ファンク


ジャパンプロレスの騒動で所属選手がいなくなった中、ジャパンの火を守るべく孤軍奮闘。そして全日入りし鶴田と組んで支持を得た谷津が7位。テリーは世界最強タッグへファンクスとして出場し全日本へUターンしてきたブッチャー、ブロディらと激闘を繰り広げ根強い人気を誇ってランクインを果しました。


6位


日本人部門

藤波辰巳(辰爾)


外国人部門

ハルク・ホーガン


飛龍革命の前年のこの年は全日本から戻ってきた長州軍迎撃、そして世代闘争ニューリーダー軍のリーダーとして活躍していた藤波。いつの時代も藤波がいた。だからプロレスを安心して見れたんですね。ホーガンはこの頃には日本とは疎遠になっていましたが、それでも人気は高く、6位という順位でした。



5位


日本人部門

ジャンボ鶴田


外国人部門

ディック・マードック


天龍、ブロディとの戦いで力を発揮した鶴田。全日本に鶴田ありをおおいに見せつけました。マードックはUWF勢、長州軍がいて世代抗争している最中でも薄れぬ存在感で魅了。外国人でありながら新日本での年末のジャパンカップ争奪タッグリーグでは猪木と組むなど活躍しました。それにしても格闘技が強いレスラーは今でもいるかもしれませんが、ケンカに強いレスラーって聞かなくなりました。マードックのようなレスラー、また見たいですね。


4

日本人部門

アントニオ猪木


外国人部門

スタン・ハンセン


新世代の頭角と自身の体力の衰退を隠せなかったこの頃の猪木ですが、それでも人気は健在の4位。世代抗争でのマイクアピール、巌流島で戦いをしようという発想。ああ~猪木やっぱり猪木だなぁ~と思うときが多々ありました。偉大なレスラーです。ハンセンはマードック同様、天龍革命やブッチャー、ブロディらのUターン組がいる中でも色あせず、不動の外国人エースとして君臨しました。



3位


日本人部門

前田日明


外国人部門

アブドーラ・ザ・ブッチャー


長州軍のUターンで影が薄くなってきてしまっていた前田でしたが妥協なくファイトは支持を受け、中でもUWF派のファンの熱狂ぶりは絶大でした。年末は長州顔面蹴撃事件で新日本を追われる結果となってしまいましたが、これが新生UWFへと続いていくことを考えると、この年度前田のターニングポイントでしたね。一方、新日本参戦時は初めこそメインのレスラーでしたが、徐々にブラウン管から姿を消していったブッチャーも全日本Uターンで再ブレーク。馬場さんのライバルとして強くれ悪くてかっこいいブッチャーが復活。人気が大爆発しました。ブッチャーにとってもターニングポイントになった年度でありました。



2位


日本人部門

長州力


外国人部門

ザ・ロードウォリアーズ


全日本から新日本へ・・・年度初めから話題をさらった長州が2位。新日本のベースに全日本のノウハウを身に着けた長州のUターンは、その後の新日本のカラーに大きく影響しました。外国人部門では87年初めにインターナショナルタッグ王座も奪取、プロレスファン以外にも知られる圧倒的人気を誇った暴走戦士がランクイン。この年はハードスケジュールながら3度来日。この辺りもランクングに影響したようです。



1位


日本人部門

天龍源一郎


外国人部門

ブルーザー・ブロディ


この87年度は天龍革命で大活躍した天龍と、全日本にUターンして同じく大活躍したブロディが1位でした。これは当然だったと思います。とにかくアツかったですよ。よかったなぁ・・・


いかがでしたでしょうか?う~ん、なるほど!!っと、こうね、今見てみて当時のことを思い出しながら、こう唸っているファンの方、多いと思います。かと思えば、現在プロレスを見ているファンは、多くがまだ生まれていないか、小さい頃だったのではないかな・・・そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。


しかし、30年ですよ。こんな長い時間を挟んでいるのに、ひとつのものを見続けているなんて、素晴らしいことなんでしょう。ボクはこれが趣味で、本当によかったと思います。


最後まで、どうもありがとうございました。

夢は悪夢か吉夢か

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どうも!!流星仮面二世です!!


気がつけば4月・・・早いなぁ・・・


この3月は娘が高校を卒業、息子が小学校を卒業と慌ただしく、あっという間に1ヵ月が過ぎてしまいました。


そんな卒業も迫った1月末のこと・・・


「卒業記念に・・・プロレス観に連れてってよ~」


と息子の三世。卒業記念ってな、どうせ卒業しても行くんだろ?とも思ったが、まあこれは仕方がない。そういえば、三世はまだ聖地・後楽園ホールでプロレスを観たことがなかったので、じゃあ後楽園にするか?と半ば決めていたところ、数日後に突然


「やっぱり4.9の両国が・・・」


りょ、両国!?あれだって、両国は今年は使えないんじゃなかったっけ?と思ったら・・・あれ、使える・・・


そういうことなら両国にするか、と決め発売日を待つ間。これも虫の知らせだったのか?ある日、三世が


「あ~どうしよう・・・お父さん、柴田がIWGPのベルトを巻いている夢を見たんだよ・・・」


この時点ではまだ2月の頭。柴田はブリティッシュ・ヘビー級王者だったので・・・この時点で両国のカードはまったく決まっていませんでしたが、ひとつタイトルを保持している柴田が他のタイトルでチャンピオンシップを行うのは考えられませんでした。


その後・・・今の新日本は高い方からチケットが売れていくほどの人気なので、一般発売当日の2月14日でしたでしょうか?この日に即、チケットを購入しました。


チケットも買ってプロレスだーと喜びながら三世と話していましたが、4月9日はオカダの相手は誰なんだろうね?と言うと、どうも三世の表情は晴れません。


このブログを長く読んでくれている方はご存知かと思いますが、三世はオカダの大ファン。いつもこういうときは大喜びなんですが、やっぱり夢のことが気になっているのか・・・


「なんかイヤな予感がするんだよなぁ・・・」


そして迎えたニュージャパンカップ。柴田の1回戦が3月12日、尼崎で鈴木と知ると、少し安どの表情の三世。それはどういう心理なのか・・・しかしながら1回戦、柴田の勝利を知るとまた少し表情が曇る。そして2回戦がジュース・ロビンソンと知るとさらに曇る・・・


「ジュースじゃ・・・」


予感は的中。3月15日、松本で柴田がジュースに勝利。3月17日、所沢で石井がSANADAを下し3回戦へ上がってくると


「以前やったときは石井がこうで、こうだったから・・・柴田だよなぁ」


と予測すると3月19日、浜松ではこれまた予想通り・・・ついに柴田が決勝にコマを進めた。相手はファレだ。


「でも両国でファレはないよね。柴田勝っちゃうよ・・・あー」


門前の小僧、習わぬ経を読むとは言ったものだが、フ・・・言うようになったな三世。


こうして決勝、通常ありえない体格さの相手に激戦を繰り広げついに勝利した柴田。そしてついにIWGPへの挑戦を表明した。


「柴田、両国だ・・・やばいよぉ~」


三世は幼稚園の年長から柔道を習っていたんですが、今年から中学に上がることもあり、今年に入ってからは寝技で締め技を体験させてみたり、プロレス見ていることもあり関節技も遊びながら寝技に取り込み体験させてきました。


こういった経験からか、柴田の技の恐ろしさを自分なりに理解して、オカダに危機感を抱いているようなのです。加えて、なんの前触れもなく見た、柴田のIWGPベルト姿の夢・・・


春休み最後の日、正真正銘小学生最後の日!!オカダが三世の悪夢をひっくり返すか!?それとも柴田の恐怖が正夢となるか!?


んぉぉー両国は、すぐそこだー!!




桜の花の咲く頃に

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どうも!!流星仮面二世です!!

さあ4月9日、両国国技館

「戦国炎舞-KIZNA- Presents SAKURA GENESIS 2017」

行ってまいりました。

前回、ブログでも書きましたが(
夢は悪夢か吉夢か)この日を迎えるまで、プロレス観戦に行くまでがこんなにも心配で緊張したのは・・・これまでにあったでしょうか?

それまでの三世は、試合をどう予想する?と聞けば

「たまにやっちゃうときあるから心配なんだけど、オカダが勝つかな」

とにこやかに語るのがほとんどでした。しかし今回は

「うーん・・・オカダに勝ってほしいな・・・」

勝ってほしい、か・・・

前哨戦のタッグでの対決は、どちらかが取ったり、または取られたりするのが必ずあるそうなんですが、今回はそれがまったくなかったそうなんです。そういう経緯 もあり読めないのもあるのかもしれませんが、でも2年くらい前なら、こんな言葉はけして発しませんでした。しかし自身が、わずかながら「技」を知り、先の札幌決戦での鈴木戦で何かを感じた三世には、柴田は脅威でしかありませんでした。

加えて、あの夢です。かつて肺炎で高熱を出し寝込んでいたときでもオカダの夢を見たほどの男の夢の中に出てきた、ベルト姿の柴田の意味とは?

しかし、そんな不安も安堵に変わる出来事が。試合の2日くらい前の日だったでしょうか?ボクが帰宅すると、見たことないオカダのTシャツを手に持ち、うれしそうに見せてきました。なんと三世の一番仲のいい友達が、出先で見つけて買ってきてくれたそうなのです。

その友達はプロレスをまったく知りません。レスラーの名前もほとんどです。でもオカダは知っていて、そして三世がオカダという人を好きということは知っていました。

「今日はこれ着てくんだ」



顔は合成です

遠出しても友達の好きなものを覚えてて、しかも自分の小遣いで買ってきてくれるなんて。12歳の3000円って大変じゃないか・・・

オカダに勝ってほしい・・・響く言葉だ。しかし、どうなるんだろう?

当日は朝から大雨でした。現地もどうやら雨なので、並ばないで入れるようにといつもより遅めに着する予定でしたが、着いてみるとあらら?なんと両国駅の外側まで微動だにしない人の列。両国は開いちゃえばけっこうわさわさ入れるんだけど、な、なんだこれは?どうやら、理由はわかりませんが定刻の14:30に開場しなかったようで、こんな珍しい現象が起きてしまったようなのです。




雨の中を進む人の群れ。思えばこれが波乱の予兆だったのか・・・


では試合です!!今回もテレビ、動画はまったく目を通しておりません。会場で観たまま振り返ります。


 第0試合15分1本勝負

デビッド・フィンレー、獣神サンダー・ライガー、中西学vs北村克哉、岡倫之、川人拓来


これはヤングライオン3人がよかったですね。岡のスロイダーはもうちょっと反ってほしかったけど、でもいい技を使うと思いました。北村は体、すごいですね!!中西との対決は肉vs肉という感じで見ごたえありました。川人はドロップキック、いいですね。しばらく外国人や、日本人でもジュニアクラスが多かったヤングライオンでしたが、岡、北村とヘビー級が入って、これはこの先が楽しみになってきました。

第1試合20分1本勝負

タイガーマスク、タイガーマスクW、永田裕志、真壁刀義vsチェーズ・オーエンズ、高橋裕二郎、タマ・トンガ、タンガ・ロア

これは以前にも書きましたが、裕二郎の入場はもういいんじゃないですかね?マンネリですよねぇ・・・試合も、これだ!!というものが最近なく、ちょっと残念な感じです。で、本試合とはまったく関係ないですが、アニメのタイガーマスクWに、とうとうタイガー・ザ・グレートと同じ姿をしたザ・サードというのが出てきましたね。これはね、今後実際にリングに出すならタイガー・ザ・ダークのときみたいに絶対にハズさないでほしいですね。

第2試合20分1本勝負
ロッキー・ロメロ、バレッタ、YOSHI-HASHIvsTAKAみちのく、エル・デスペラード、鈴木みのる

すいません、ここ腹痛のためトイレで見ておりません・・・すいません。

第3試合 IWGPジュニアタッグ選手権試合60分1本勝負
タイチ、金丸義信vs邪道、外道

これも入場が、どーも・・・どうなんですかね?正直おもしろくもなんともないですよね。しかしあべみほちゃん?ていうんですか?いやぁちゃんと役割、ポジション心得てますね。間もうまいと思いました。こういうのってどうしてるんですかね?自身でエリザベスの映像とか見て研究してるのかな?

第4試合30分1本勝負
矢野通、石井智宏 vs バッドラック・ファレ、ケニー・オメガ

この試合ばかりとは限らないんですが、ファレ、もったいないですよね。せっかく体があるのに生かしてないですよね。ぶっちゃけ、どんくさいと感じます。今ってちょっとね、正直プロレスラーとしては小さい選手が多いですよね。そこにきて、あれだけの身長と体重を持っている存在なんですから、もっとアグレッシブに、ガンガン動いてほしいですね。そしたらハンセン、ブロディ、ベイダー級のレスラーになりますよ。本当にもったいない。せっかくIWGPとかにも挑戦できるんですからね。期待してるんですよー。がんばってください!!

第5試合30分1本勝負
リコシェ、田口隆祐、ジュース・ロビンソン、棚橋弘至vsBUSHI、EVIL、SANADA、内藤哲也

内藤人気すごいですね!!なんで・・・これだけ人気あるのに総選挙でランクインしなかったのか、不思議になります。試合は、これはおもしろく楽しい試合でした。田口はドン荒川を彷彿させますね。ドン荒川をさらにパワーアップさせたような感じですね。試合は内藤がジュースに負けるという波乱でしたが、ジュースはウチの嫁さん曰く、あたしと手を合わせたから出世する、だそうです。ああ・・・そうなんすかぁ・・・

第6試合 IWGPヘビータッグ選手権試合60分1本勝負
天山広吉、小島聡vs ハンソン、レイモンド・ロウ

これ、このハンソンとロウ、うまいですね!!昨年のタッグリーグでも見ましたが、試合巧者ですね。巨体ながらのトぺなどが先行しがちですが、試合の流れを作ったり技の繋ぎがうまいんですよ。ふたりのタッグは、なんかマードック、スーパースター組を彷彿させますね。いいタッグチームですよ。IWGPも取ったし、楽しみなチームです。

第7試合 NEVER無差別級選手権試合60分1本勝負
後藤洋央紀vs ザック・セイバーJr

ザック・セイバーJr、これは近年からするとかなりおもしろい選手ですね。いろいろな技を使うので、なかなか見入ります。でも・・・なんていうんですかね?この選手は出す技がですね、まだ意識してやっているところがあるようにボクには見えるんですよ。たとえば、さあ腕を取って、この技をかけよう!次は足を取って、これやろう!という感じなんですね。だからちょっと流線に欠けるというか・・・スティーブ・ライトやピート・ロバーツみたいな滑らかさがないように見えるんですよ。腕を取ったらひとりでに体が動いて、抜けてキメるような、相手が手を出して来たらスッと、この態勢になったらこう、こう、というのが無意識に出るような、そういう動きがもっとあれば、これはいいと思いますね。

第8試合 IWGPジュニアヘビー級選手権試合60分1本勝負
高橋ヒロムvs KUSHIDA

この試合が終わったあと三世が

「自分からケンカ売っといてこの負け方って、一番カッコ悪くない?」

ごもっともです・・・

ここまで振り返って、全体的にはどれもおもしろかったです。ドームのときみたいに、なんだかなぁ・・・というのがありませんでした。特に観客に楽しませるという意味ではいいのが多かったと思いますね。タグチジャパン?ですか?あれなんか本当におもしろかったです。本道としては、ボクはやっぱりハンソン、ロウのタッグですね。このふたり推したいです。 

ちょっとなぁ・・・と思ったのは、タッグでですね。コーナーに相手振っておいて、そこで順番に相手に走っていって当てるという攻撃が多すぎかなと思いました。相手がコーナーにいて、ホイップして突っ込んでいくやつですね。これ、やっている本人はノリノリでいい気持ちなのかもしれませんけど、思いっきり助走つけて対角線上に走って行って突っ込んでいくわりには、当てる技が中途半端なエルボーだったりラリアートだったりで・・・言葉悪いかもしれませんが、インパクトがしょぼいんですよ。そう多発しなくてもいいんじゃないのかなぁ・・・と思いました。

さて、いよいよメインです。

第9試合 IWGPヘビー級選手権試合60分1本勝負
オカダ・カズチカvs 柴田勝頼

前の試合が予想だにしないタイムで終わり、騒然とした空気が流れた後、間もなくして会場の空気が一変しました。このソワソワ感、これは猪木と天龍がドームでやったときの、あの試合直前に似ています。異様な興奮の、空気です。そんな中、ついにゴングが鳴りました。

“オカダはレインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい”

と柴田は言いました。そしてオカダは逆に柴田に

“俺こそ、昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかな”

と言いました。

ボクは4年ほど前、何十年ぶりに観戦したドームでオカダのドロップキックを見て刺激され・・・そしてその日から息子がプロレスファンになり、現在の新日本を本格的に一緒に観るようになりました。

初めは今のプロレスに戸惑い、なんだかわからないことも多かったですが、いろいろわかってくるとおもしろくなり、家族でテレビ観るのが楽しくなりました。ビッグマッチ前はチェックを入れ、家庭でこの試合は、この選手はね、と話すのがうれしかったです。生観戦も数を増し、やがて家族で観戦にも行きました。その試合はレベルが高く、ドキドキしながら興奮しながら観ては、結果に喜び悲しみ、いろいろな思いを巡らせました。そしてそれを同じファン同士で話し合うことが、またできるようになりました。それは本当にうれしいことでした。

でも・・・本当に、ほんの小さな隙間なんですが、心にそれがありました。うれしく楽しいはずなのに、その隙間は・・・なんなのか?

知ってのとおり、ボクは古いプロレスのファンです。そんなこともあり柴田の試合を見るたび、ああ、プロレスを見た・・・と、何度も胸を熱くしたことがありました。オカダによって門を開いてもらい、柴田によって通されたんです。

しかしながら、やはり親、なんでしょうね。この日は会場で息子が好きなオカダに勝ってほしくて声を張り上げていました。

でも、初めこそそうだったのですが・・・グランドの展開、寝そべってのアリ戦法、足4の字、リバースのインディアン・デスロックから弓矢固め、コブラ、卍・・・倒れた相手に、来い!!という、その手、腕、表情。その動きひとつひとつに自分の体が反応し、いつしかオカダと叫べなくなっていました。

そして過った、出かける前の三世の言葉

「お父さんは柴田のTシャツ、着ていかないの?」

柴田の・・・そうだおれは今、何をしているんだ?

そんな思いの中、柴田のパンチ、それは髪の毛を鷲掴みにし眼光をくれる弓を引く右ストレート、ナックル・アローでした。その攻撃を背中から観るボクの目に飛び込んできたのは「闘魂」の2文字でした。体から青白き炎を出しながら背中に浮き出た闘魂の2文字・・・これだ・・・ボクの心の隙間・・・闘魂だ!!これが、おれが知ってるプロレスだ!!柴田、勝ってくれ!!

しかし、その闘魂を真っ向から受けるはオカダ。闘魂のヤドカリを吹き飛ばすかのような攻防を見せます。だが技を出し、受けきって、また技を出して受ける柴田。もはや意志とは別のものが柴田を動かしているように見えました。何が体を動かしているのか・・・そう、闘う魂なんだ・・・

スリーパー、そして柴田の腕を持ったままのオカダへのキック。周りには目を塞ぐ人もいた。悲鳴も聞こえた。オカダが、負ける・・・

「オカダー!!がんばれー!!」

三世の声・・・なんて試合なんだ・・・

しかしオカダは何かを持っていました。反撃・・・でもレインメーカーが打てず、前のめりに。しかし最後、まさに力を振り絞っての、あれは形こそレインメーカーでしたが、ボクにはレインメーカーには見えませんでした。オカダが腕で、意地でぶん殴ったように見えました。そしてその腕は柴田の首を横からぶん殴ったように、こちらからは見えました。

寒気がしました。首の横、頸動脈を締めれば頭への血流が止り脳への酸素不足で気を失います。落ちるというやつです。しかしそれは絞め技の限りではありません。打撃でも首、頸動脈に入れば血流が一瞬絶たれ気を失います。あの技が柴田に決まったときは、まさにその状態ではなかったかと思います。なんて凄まじい・・・

レインメーカーというマスクを被っている。俺はそのマスクの下のオカダを引き出して闘いたい。昔の新日本プロレスのレスラーだ、というようなマスクを被ってるような気がする。それを剥がしてやろうかと・・・だが、オカダも柴田もマスクを剥がし合わなかった。生まれ持った真のストロングスタイルとプロレスのメーンカレント(本流)を行くお互いのスタイルが、最大限でぶつかり合った。純粋にプロレスラーふたりが戦った、それがオカダvs柴田でした。

柴田が、負けた・・・半ば呆然・・・そして涙が溢れんばかりでした。

その横で、三世。オカダが勝てば、いつもは大喜びの三世ですが、この日は

よかったぁ~勝てたぁ~」

と、安堵の表情でした。

そう、三世はそれでいい、本当にいい!!本当に心の底からオカダを応援する、その気持ち。それでこそ真のファンだ。

しかし、おれは・・・

家に帰ると嫁さんが

「子供の手前、言えなかったけど、あたしテレビの前で柴田勝って~!!って泣きそうになりながら祈ってたよ」

そうか、そうだよな・・・

マスクを剥がされたのは・・・ボクらだったのかもしれないな。

松尾芭蕉の詩に

花の雲 鐘は上野か浅草か

というものがあります。

遠くを見渡せば、雲と見まちがえてしまうほどの桜の花。そんな桜を見ていると、どこからか鐘の音が聞こえてくる。隅田川を渡り聞こえてくるその鐘は、上野の寛永寺の鐘か、はたまた浅草の浅草(せんそう)寺の鐘か・・・という詩です。

東京の桜が満開だったあの日。聞こえた鐘の音は上野でも浅草でもありませんでした。そうそれは両国から聞こえた、ゴングの音色でした。今までになかった戦いを制したオカダと、全身から闘魂を出して戦った柴田へのゴング・・・でした。

この試合を見れたことを誇りに思います。ありがとう・・・

※後日、柴田のニュースを知りました。とても胸が痛くなりました。回復を願うばかりです。早くよくなりますように・・・





なんということだ・・・

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どうも!!流星仮面二世です!!


金曜日の夜。さあ週末、ブログやるどー!!と電源を入れたところ、あれれ・・・な、なんだ?立ち上がらないぞ!!


ノートなのでそのままお店へ持っていくと、どうもPCのプログラム異常ではないかとの事。なんという・・・そのままPCは入院してしまいました。


今はPC自体は保証もあって、まあ壊れることもそうないようなんですが、OS、マイクロソフトというのはPC買ったときに入れたきりで、あとは自動更新でいろいろやるしかないというのですが・・・このプログラムの自動更新が多いそうなんですけど、この更新中に何らかの原因で通信遮断などがあるとこうなってしまうんだとか。


店員さんに、こういうのもう何回もあって、そのたびこうして持ってくるしかないんですが、何か家で異常発生を防ぐ、自分でできる対策法はないんですか?と、聞いてみたところ、PCが自動でやる動きなので家庭で自分ができる対策、対策法は事実上ないとの事。つまり、どうしようもないそうなんです。


このPC、買ってまだ1年も経ってないのですが、機種の古い新しいは関係ないみたいです。1ヵ月くらいは修理にかかるそうな・・・


PCの異常、このブログ始まって、これで何回目になるんだろう?いい加減、イヤになりますよ・・・


というわけでしばらくは濃い内容ができなそう・・・無念です。


でも、よろしくねぇ・・・



駄文ダブン3話

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どうも!!流星仮面二世です!!


さあゴールデンウィークですね。みなさんはいかがお過ごしでしょうか? 


今回はPC修理中によりプロレス以外なことを書いてみてます。かなり私的な内容ですが、よかったら暇つぶしにでもご覧になってくださいね~。


◎第1話 茨城の・・・?

さて、みなさんは、芸能人のブログなどはご覧になりますかね?芸能人のブログってボクは読まないのですが、同じ茨城のお笑い芸人の赤プルさんのブログとTwitter


オフィシャルブログ 赤プルの「調子んのってんじゃねぇかんな!!」 Powered by Ameba


赤プル※常総市ふるさと大使・いばらき大使‏


は共々、よく読んで楽しんでいます。赤プルさんのご実家は、どちらかといえばボクの実家方面なので親近感といいますか・・・読んでいると、こう、うれしくなることが多くていいんですね。


そんな赤プルさんのTwitterですが、最近、ん?となるようなことが・・・どうも、何かのセリフ?なんでしょうか?しかも茨城訛りの文面をつぶやくことが多々見られるようになりました。で、最後に・・・“♯ひよっこ”というタグが。


ひよっこ?ひよっこ・・・



 

デメタン?


その後、会社内で誰かが休憩中に


「ひよっこで・・・」


「訛りがねぇ・・・」


なんて話を聞いたりすることもあり、ボクは益々困惑しだしてしまいました。ひよっこ・・・なんだか気になるなぁ・・・


やがて、ここにコメントを下さるヨンペイさん(サトウヨンペイの「S・D・ジョーンズ48(フォーティーエイト)がブログで話題にしているのを発見。


そ、そうだったのか。これは茨城を舞台にしたNHKの連続テレビ小説の題名だったのか・・・


NHK連続テレビ小説 ひよっこ


ていうか何?知らなかったの?と言われそうですが、普通にサラリーマンやってたら、この時間は家にいないからわからないんですよ。加えて、そもそも連続テレビ小説って見ないからなぁ。はね駒(はねこんま)は大好きな斉藤由貴が出てたから見れるときは見ていたけど、それ以来、気にしたこともなかった。あれ中2だったよなぁ。かれこれ30年近く意識したことなかったわけか・・・

まあ、そんなひよっこ。物語のよさもさることながら、どうやらこのドラマで話される茨城弁には、良くも悪くも注目が集まっているようです。


他の方のTwitterを拝見すると、いいなぁ、心にきますねぇ~というようなご意見や、茨城出身者であれば、なんだかなつかしいなぁ~という意見も拝見します。


一方で、同じ県民でも


「茨城あんなに訛ってないよ~」


という意見も、こうあるようです。このこれ、実は深いんですよ。


ボクは小学校へ上がった頃からですね、


「すごく訛ってるねぇ~」


「なんでそんなに訛ってんの?」


って、年代問わず、ほとんどの人に言われる人生を送ることになります。


両親が共働きだったこともあり、混じりっけなしの純おばあちゃん子だったんですね。ということで大正、昭和初期の田舎の茨城弁で育てられたわけなんですよ。言ってみれば原語を英才教育されたわけですよ。ただ、当時そういう意識はなく、これが普通の言葉だと思っていましたね。


ところが、いざ話すと、聞いていると思わず笑ってしまうような言葉なんで、小、中、高は特に笑われることが多かったですね。


そのピークを見たのは、19歳の頃でしたでしょうか?飲み会があり、行ったんですよ。で、そこに来ていた女性陣が関東以西の方々で・・・このうちのひとりがとにかく話すと笑うんですよ。


特に話がおもしろいからとかじゃなく、話すこと自体に笑うんですよ。しかも明らかに馬鹿にした笑いです。あんまり笑うんでしゃべるのを控えたら、なんでもいいから話してよっていうんですよ。で、イヤだったんですが話してたら


「チョ~訛ってる~。おっかし~♪」


あ、あんだとこのぉ!!


そのな、キミの出身地でなら言われても仕方ないがな、ここは茨城なんだぞ?茨城で茨城弁しゃべってなんで、おっかし~♪なんだ?キミがやっているのはな、アフリカ東岸部に行って現地の人に向かって


「チョ~スワヒリ語~。おっかし~♪」


っていうのと一緒なんだぞ!!


25年も前だが、いまだにこの女のツラはよく覚えています。もし今度会うときあったら背骨をヘシ折ってやるからな。


でも、こう他県の方に言われるのは、これは仕方ないかなと思います。なんせ聞きなれない珍しい話し方ですもんね。


ところがですね、この茨城県民というのは同じところに住んでいながら、訛っている人のことを訛ってるね~と言うことがあるんですよ。


このですね、実際地域差がすごくて、地域によってこの辺は標準語寄りなのに、この辺は訛り全開なんだ~っていうところが多々ありますね。本当に、地域と地域はほんのちょっとしか離れてないのに、まったくちがうんですよ。


そういった意味で訛りに驚いて言う人がいますね。特に千葉寄りとか、現在東京のベッドタウンとして発展したところに住んでいる方などはこういう反応する方いますね。


それを身を以て体験したのは、これも19歳の頃でしたかね。やはり飲み会に呼ばれて行ったときですね。で、このときは友達が事前にボクのような人が行くのを話されたようで、事前情報があったんですね。だからだったんでしょう。行ってさっそく言われたのが


「今日は正しい茨城弁が聞けるって聞いて、楽しみにしてたんです」


な、なんだぁ正しい茨城弁って?茨城弁て正しいとか正しくないとか、生や湯通しや昆布締めとかあんのか!?訛りでは過去にいろいろ言われたことありましたが、こいつは完全に出鼻を挫かれましたね。


しかし、こういったのはまだいい方で・・・中には明らかに、こう上から目線で馬鹿にしたりする人もいますね。


自身を基準に訛っているかいないかで、自身の住んでいるところが田舎かどうか?を見る傾向があったり、誰かが話していて訛っていると、田舎だと思われるだろ~みたいな節をかましてくる傾向があったりしますね。


おそらく相手が訛っている方を田舎とし、自分はそこより進んでるよ~っていう優越感に浸りたいんでしょうけど、まぁよく言いますよね。Googleマップで上から見たら目くそ鼻くそを笑う、ですよ。


なので


「茨城あんなに訛ってないよ~」


これは実にいろんな意味を持った言葉だと思いますね。



◎第2話 日曜の風景

さて、前日録画したタイガーマスクWとワールドプロレスリングを息子と観るのが日曜日の恒例となっている我が家ですが、日曜日の朝、息子がまだ寝ている間に娘が自分で録画したテレビを再生して見ています。これもまた日曜日の朝の我が家の風景。


娘はアニメ、特撮ヒーローが大好きで、そういった番組は必ず録画しチェックします。中でも、もっとも好きなのが平成からのウルトラマン・シリーズ。これが大ファンで、テレビ関係はすべてチェックし、YouTubeでは新規テーマ曲や公式チャンネルの更新確認も欠かしません。


ウルトラマンのイベントには市販のアイテムに加え自身で作成したウルトラマンの格好(詳細は知識不足でわからないんですが)で出陣するほどのマニアぶりなんです。平成ウルトラマン・シリーズであるなら、それこそワンショット見ただけで何がどうとかわかってしまうくらいなんです。って、あれ?このくだりはどっかで聞いたことあるなぁ。そうか三世か・・・趣味はちがえど娘も三世も、お父さんのマニアの血を引いてしまったんだなぁ。


そんな娘、日曜日のウルトラマンをチェックし終わると、すると次に見始めたのは・・・ボクの視界に入ってきたのは、プロレスの?ドラマ?これは・・・?


娘がアニメや特撮以外のを録画して見るなんて、なんて珍しい。しかしこれはなんなんだろう?


そのドラマの話の道筋はわからないのですが、プロレスが主体になっているのは確か。なので少し一緒になって見ていると・・・


なんてプロレスが下手なんだ・・・


けど、それは仕方ないのかもしれません。プロレスファンにしたって、いきなりチョップ打ってみろと言われたら、みんながみんなレスラーのようにできるはずもないですもんね。


しかしプロレス以外のドラマも・・・その演技は、セリフは棒読み気味で動きもこう、腰を据えてないというか、重みがないというか・・・まるで学芸会を見ているような、そんな感じに見えました。なので次も見よう!という気には、残念ながらボクはなれませんでした。


それにしても、なんというドラマなんでしょう?娘にこれなぁに?と聞くと


「豆腐プロレスっていうんだよ」


と・・・豆腐!?プロレス!?ああ、これが!?


そう、遡ること今年の1月4日の新日本のドーム。ボクと三世はドームで遠目ながらテレビ用のオープニングの撮影をしていたのに出くわしました。で、あとから本放送にてこの場面をテレビで観て知ったのですが、そのときここにAKB48系列の方が一緒にいたと知り、大変驚いたんですよ。テレビの向こうの、あの華やかなシーンを彩っている人が、まさかプロレス会場にいるとはと・・・おかしな表現ですけど、本当にいるんだ~と関心してしまいましたね。


で、その人達がプロレスのドラマをやるって言ってたんでした。これがそうなのか・・・


AKB48に代表される


「○○フォーティーなんとか」


このグループ名を聞いたことのない人は、おそらく日本人にはいないと思います。テレビついていると、どこかしらで見かけるし、曲なんか故意に聞いたことなんか一度もないのに、なんとなく知っていたりします。ネットのエンタメのニュースでは日々必ずその名を見かけますし、意識してなくとも情報が入ってくるような存在です。


また発売されればCDは売れ、ダウンロードされと、売り上げやヒットのチャートを変動させ影響力を発揮しますしコンサートをすれば大会場でもフルハウスにするし、イベントをやればイベントそのものの他、開催地の経済効果をも上げます。すごいんだと、これは認めざるを得ません。国民的アイドルという表現は正しいかどうかわかりませんが、多くの国民に認識されているのは確かです。


しかし・・・なんですよ。こうして日頃、無意識でありながら耳にし目にし、ボクのようにまったく知識がない人でも認識するようになったAKBに代表される○○フォーティーなんとかですが・・・ふと我に返ると、重大なことに気づかされます。


そう、メンバーの顔がわからないんですよ・・・


あの指原という方はわかりますね。あの子はこう、ボクは大仁田厚そのものだと思ってるんですよ。無名からスキャンダラスによって表に出てきて、で、普通ならそれで終わってしまうんですが、これに乗っかって、その後もこう自分の見せ方や言葉ですね。そういうのがうまくて・・・こう才があったんでしょうね。こうして印象に残って、現在でもボクのような人にも認識されてるんだと思います。同じスキャンダラスで表に出たのでも、頭を坊主にした子なんかはそのときだけでしたもんね。そう考えると、この指原という方は何か持ってるんだなぁと思いますね。


でも、あと誰かって言われると、もうわかんないですね。そりゃ、熱烈なファンやメンバーの中にご贔屓な子がいる人なら認識できるかもしれません。しかし特別好きなわけではない、とりあえず知ってるだけという人にとったら、誰が誰なのか全然わからないんですよ。おそらく同じ感覚の人、いるんではないですかねぇ?


だってね、ちょっと見てくださいよこれ。AKB系列のグループの人数調べてみたんですよ。いきますよ?


AKB48

チームA  13人

チームK  15人

チームB  14人

チーム4  18人

チーム8  47人

研究生  23人 

計127人


SKE48

チームS 16人

チームKⅡ 19人

チームE 16人

研究生 20人

計71人


NMB48

チームN 14人

チームM 15人

チームBⅡ 14人

研究生 12人

計55人


HKT48

チームH  17人

チームKIT  14人

チームTⅡ 10人

研究生 10人

計52人


NGT48  

チームNⅢ 16人

研究生 9人 

計25人


JKT48

チームJ 20人

チームKⅢ 24人

チームT 18人

研究生 4人 

計65人


STU48

計33人


乃木坂46

計46人


欅坂46

計32人


けやき坂46

計12人


トータル518人(2017年5月現在)




って、日立製作所のCMか!!


いや、多い・・・それにしても、500人超え、主力のAKBにして127人とは・・・


これじゃもしメンバーの誰かが


「私はAKB48の○○です」


って一般の人の前で突然名乗ったとして、はたして何人の人が、あ~ホントだ~と認識することができるんだろうか・・・ってレベルなんじゃないんですかねぇ?


もしかしたらコンビニのレジで働いてても、ちょっとかわいい子がいるなぁくらいで、メンバーだなんて気がつかないかもしれませんよ。


日本一有名なグループなのに、顔を知られない、かぁ・・・過ぎたるは猶及ばざるが如しって言葉がありますけど、足りたるは猶及ばざるが如し、といった感じなんですかねぇ・・・



◎第3話 おれはオカダに似ているのか?

さて、まったく根拠のないところには噂はたたないことを、火のないところに煙は立たぬ、なんて言いますね。他に、ない名は呼ばれず、蒔かぬ種は生えず、田園調布に家が建つ、など・・・(それは星セントルイス)


しかしながら最近のこれは、それらに値するんでしょうか? 親バカと言われること必至かと思いますが、息子がファンということがあり、昨年からInstagramとTwitterを始めオカダをフォローし日々情報をチェックしております。そんなある日、昨年の11月でしたか・・・更新されたオカダのInstagramを見ると




あれ?これはおれ?


https://www.instagram.com/rainmakerxokada/


写真というのは光の加減や対象物との距離、被写体の角度など、とにかく条件により様々変化し写し出されます。なので、これはたまたまそうなったんだろうと思ったんですが、それにしても・・・ボクと会ったことある人なら、あれ!?ってなるくらい、いや自分で見てもこの画像に限り似ているんです。


あまりにソックリでおもしろかったので、嫁に画像を送ってみました。すると・・・


「え、これお父さんじゃないの?これ?」


さらにそれを見た、ボクの母親の旧姓が岡田なだけで、え~いいなぁ~と本気で言う息子、三世は


「うあ、似てる・・・ずるい!!いいなぁ・・・」


大丈夫、三世もお父さんに似ているんだから将来はオカダだよ~と、とりあえずわけのわからないフォローを入れます。まあ、この画像限定だからね似ているのは。


しかし・・・かつて宮崎県串間市の幸島に棲息するサルが、芋を海水で洗い食べるようになった幸島のサルは有名な話ですが、これが幸島で見られるようになってから、距離を隔てた大分県高崎山のサルも同じことをやるようになったという「百匹目の猿現象」というのがありました。


これは遠く離れていても、行動が一定の数を超えると同じ種には伝わるという現象を説いたものですが、実のところ幸島以降、高崎山のサルが芋を洗った事実はなく・・・この話は生物学者のライアル・ワトソンの創作だったことがのちに判明。生物学からオカルト話へと華麗に転身(?)を遂げてしまうのでしたが・・・


でも「遠く離れたところにいる種に、何かが伝わる」というのがまったくない、というのは、果たして絶対なんでしょうか?その後、そんなことを思わせるようなちょっとした異変が起き始めました。


このオカダ話が出たあと、プロレスの予備知識がない、清木場俊介・命の嫁さんのお姉さんから突如


「前から似てると思ってたんだけど、言われるのイヤかなと思って言わなかったんだよ。なんていうの?種類が一緒!?なんだよねきっと」


と言われ、うむぅ・・・


そしてそのあとに更新したブログで(おお~っと!!合わせ鏡の戦い模様だ!! )でみーさん、亀熊さん、Hさんにもブログ上で言われ・・・そして迎えた衝撃の日。それはなんと三世の卒業式でした。


式まで時間があったので座って待ちながら三世と仲良しの子のお母さんと話していると、突然思い出したかのように


「そういえば、オカダに似てるよね~」


と言われ、んんん!?


このお母さん、高校時代は県内の柔道の強豪校に在籍しのちに全女のオーディションを受けたほどのプロレスファンなんですが、ボクがブログをやっていることも先のInstagramのくだりもまったく知りません。まさに唐突・・・これには驚いてしまいました。


ちなみにこのお母さんは棚橋に似ていますが、棚橋とオカダだからってチャンピオン?エース?とか、IWGPは遠いぞ!!ごっこはしておりません(このくだりはいらないか)


と、そこへ今度は加藤茶の奥さんに似ている別の仲良しのお母さん登場。この方はプロレスまったく知らないんですが、え~誰に似てるの?オカダって誰~?とスマホ画像を覗くと


「これ三世くんのお父さんじゃないの?」


そ、それは言い過ぎじゃ・・・いやしかし、どうなっているんだ?


そして三世が中学へ入ってからのこと。友達の家へ大所帯で遊びに行ったそうなんですが・・・何もすることがなくなっちゃったので、三世が友達にユーチューブでプロレス見せたそうな。いいことするね~。おれもそういうことやったっけな。しかし、すると言われたのが


「このオカダって○くんのお父さんに似てるね」


という・・・むぅ、これは・・・


あのInstagramの画像はさておき、自分ではまったく似てると思ったことはなかったが・・・おれって実はオカダに似ているのか?いや、ということは、おれってもしかしてイケメンなのか・・・は!!ということは、ということはもしかして!?


おれは女子アナとも付き合えるってことなのかぁー!!


そうだな、女子アナなら日テレの尾崎里紗アナがいいなぁ~。もし尾崎アナと付き合えたら毎晩ZIP!ってね、するね。特に後ろからね、こうなでるようにZIPをね、へっへっへ・・・


って、なんの雨を降らす気でぃ!!


しかしです。意識がないにしろ、そういわれると意識してしまうのが人間。最近は鏡を見て顔を似せようとしてみたり、入場からリングイン、マイクまでフルコンプの三世にコーチを受けマネしてみたりします。


自分で言うのもなんですが、ボクはプロレスものまねレパートリーはかなり豊富な方なんですよ。でもオカダのものまねって難しいですね。オカダ特徴あるようでないんですね。マネできないなぁ~。


というか、マネ云々の前に、よく見るとやっぱり似ていないし、似ない。おれはやっぱり似てないと思うなぁ・・・


「どこが似ているか言えと言われると、言い表せないんだけど・・・」


家族に言わせても、ボク単体だけ見ると似ているとは言えないようです。でも、オカダを見ると似てるとフッと思うときがあって、そう思うようなんです。


ボクは小学生のとき、先生など大人からは、いわゆる力道山の世代の方から似ているね~と一番よく言われたのは、実は豊登だったんですよ。


この頃、この年代の人、当時の40、50代の人ですね。あの当時、この年代とプロレス話すると必ず力道山の頃のプロレス話を教えてくれたものでしたが、話ながら、そういえば・・・と気づいたように続くと


「○○くんは豊登に似てるなぁ」


と、ニコニコしながら肩や腕を撫でられるのが多くありました。それは顔より体つきなのか・・・よくはわかりませんが、当時は母親からも言われましたね。で、いまだに高齢の方からは言われることがあります。


そしてその後、中学からはマスクド・スーパースター、元・横綱の隆の里、燃えよドラゴンに出てたボロ(ヤン・スエ)と似ていると言われ・・・って、そりゃ似てるの顔じゃなくて僧帽筋だけじゃねーか・・・


しかしこれはまだマシ。その後はガンダムのビグザム、キン肉マンのサンシャイン、北斗の拳の山のフドウ、となりのトトロと・・・似てるっていうか、でっけぇのばっかしすべてお任せされた。


それにしてもトトロはまだ印象いいけど、ビグザムに似てるってなんなんだ・・・?




これ似てるかぁ?


じゃあ何か?男女間で彼氏、彼女の紹介するとき、事前に話する仲介役が


「今度紹介で来る男の人って誰かに似ている?」


って女性側に聞かれたとき、


「あ、あのね~ビグザムに似てていいヤツなんだよ」


で、当日会って


「ホントだ~めっちゃビグザムじゃん」


って、脛椎ヘシ折られたいか!!


で、高校を経て社会人になった頃に言われたのが佐々木健介。この頃は体も顔もパンパン。目元なんか特に張ってたんでそれっぽかったんですね。それこそ、その頃、後楽園ホール前に立ってたら、どこかの小学生ふたり組に


「あ、あいつ新日本にいる若手で佐々木健介っていうんだよ」


と指をさされたこともありました。


「似ているかもしれない。本人かもしれない。でも、おれは、似てるだけ!!」


と健介風には言いませんでしたが、その場からは逃げましたねぇ。


まぁ・・・過去には、どちらかというと顔よりイメージ優先な似ている発言をされていたんですよ。なのでねぇ~今回のこの一連の事態にはびっくりなんですよ。


でも、うれしいですね。ボクが似ているって言われるのももちろんうれしいですが、プロレスが表に出てきたからこそのことだと思うんですよ。こういうのも世の中に知れてこその話ですもんね。


お粗末なお話、最後までありがとうございました。では連休、楽しんでくださいね~。





運命の流星仮面~第五話~

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どうも!!流星仮面二世です!!


さあ5月・・・今年も、記念日がやってきました。


運命の流星仮面~第二話~


運命の流星仮面~第三話~ 


運命の流星仮面~第四話~


あの日、あのときマスクド・スーパースターがいなかったら、ボクらは出会えなかった・・・


7月4日、ボクはボクに会いに行った 前編


7月4日、ボクはボクに会いに行った 後編 


流星より愛を込めて 前編


流星より愛を込めて 後編 


マスクドにリスペクトを込め、そしてこの出会いに感謝を込め、今回も相模原サミット、やってまいりました。


今年の開催は5月4日。そう、ゴールデンウィークも真っ只中の日です。渋滞を視野に入れ、今年も早めに家を出ます。何も問題なければ2時間で到着するのですが・・・東京出るまでは実にスムーズだったのですが、東名高速に入った途端、な、なんだ!?さっぱり車が動いてないぞ?




うむぅ・・・


しかし帰省のとは逆方向なので、これは行楽へ向かう車の渋滞か?ラジオで交通情報を確認すると、厚木で事故で渋滞という。みんな、このときの渋滞、どれくらいだか、知ってる?


28キロ♪


ぶ、ブルゾン・・・


しかしジワジワと牛歩に前進し、なんとか目的地へ到着です。ここでまず独断小僧 さんと1年ぶりの再会。ご挨拶もそこそこに、我慢できない我々は早くもプロレストーク炸裂です。その後、亀熊さん、彼女さんと再会。今年も始まりました~。そのノン・リミッターな会話の内容は・・・



亀熊さん、前日にまさかのキラー・カーン

国際プロレスDVD鑑賞

ヘイスタック・カルホーンが思ってたより動きが早かった件

テーズのSTFが他のレスラーにはできないほどスゴすぎる件

寺西パンツ上すぎる件

鶴見テーズに遠慮気味な件

ファンクス、ブッチャー人気全盛時に裏でこのカードをやっていた国際はすごかった件

チャンピオン太(ふとし)をチャンピオン太(た)だと思ってた

猪木の死神酋長

エロビデオ今昔

アンダーテイカー?が、なんだキミは?に聞こえる

マスクド・スーパースターの近状

マスクドは相当なジェントルマン

マスクドが話したプロレス裏話

マスクドが最も強いと言った意外なレスラーとは?

ケンカに強いレスラーというのを聞かなくなった

マスクド・スーパースターと我々の出会いの話

ストロング小林のボディスラムを受けたレスラーの弁

ストロング小林の口調は素ではどうなのか?

ストロング小林が猪木戦で打撃を受けたときの仕草

バッドニュース・アレンとトム・ジンクとちくわぶ

願いが叶うという通販品を買った若き日

ビガーパンツは今

ビガーパンツの仕組みは?

ビガーパンツとちくわぶ

亀熊さんとレガ軍団

いつか流星仮面一派とレガ軍団で会いたい

ヤロウ、オホーツク海にぶん投げてやる

絵に心得のある独断さんが、ささのっちさんの絵を初めて見る

サクマシンさんやPなわさんのような熱烈ファンの伝説

彼女さんの従姪(従妹の子供)と現在のアイドル事情

独断さんブログの復活に期待

女子プロレスラー誰が好きだった?

元・女子プロレスラー達のお店いろいろ

いなくなったコワいヒゲのハゲ・レスラー

いなくなったモンゴリアン・レスラー

いなくなったインディアン・レスラー

流星仮面二世の新ネタは真壁

独断さんは真壁と同じ大会に出ていたことがある

独断さんの彼女さんと真壁の話


こうしてあっという間に4時間が経ち、このあとを実家で過ごすという亀熊さんが帰宅の途に。お忙しい中、本当にありがとうございました。

その後、残った我々は場所を移動し3人で第2ラウンドへ突入します。その後の内容は・・・


亀熊さんともっと話したかった

本間はリアルに優しい

彼女さんに接してくれた本間が優しいと本当にわかるエピソード

そこいくと○○は気分屋だ

しょこたんの父と彼女さん

しょこたんはちがいのわかる女

私のハートはストップモーションが、私のハートはスコット・ノートンだったら

宇宙戦艦ヤマトの歌が、さらば~ヤマトよ~だったら

キャンディ・キャンディが、バンディ・バンディだったら

アルバートさんはアルバート・ウォール

テリーはテリー・ファンク

ニールとイライザはシン、上田

アンソニーはどうする?

ベルサイユの薔薇はアンドレまんま


こうして止まらないトークのまま、場所を移動して食事し、気がつけば11時間近くが経過いていました。しかしそんな時間は感じず・・・もっともっと話していたかったという気持ちでした。

本当に、何もないところから始まって・・・何年経っても、こうして会って話ができる。なんてすごいことなんだろう。みんなとの友情。そしてその始まりをくれたマスクド・スーパースター・・・

亀熊さんが極秘に見せてくれた最近のマスクドの画像を見て、胸がいっぱいになりました。今日、この時があるのもマスクドが縁をくれたからなんだ。マスクドに会いたいな・・・このメンバーで会いたい。

思えば、このメンバーでの再会も奇跡でした。でも、実現しました。だからいつか、マスクドにも会える日がくればいいな・・・帰りの車でそう考えていました。

そしてなにより、みんなに会えてよかったと、本当に思いました。

た会いましょう!!どうもありがとう!!


 









目に青葉 山ホトトギス プロレスだ!!

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どうも!!流星仮面二世です!!

さあ今回はですね、5月27日に茨城県のつくばカピオアリーナで行われました新日本プロレス

鉄拳7 Presents BEST OF THE SUPER Jr.24」

行ってまいりましたので、その模様をお伝えしたいと思いますよ~。 

さて、昨年は小学生最後の地方興行、最後のチャンス(魂の、ゴング!! )で、オカダに触れることができた三世でしたが、今回は中学生になって初めてのプロレス観戦。小学生最後、春休み最後の日に目にしたあの両国(桜の花の咲く頃に )から早や2ヶ月が経ちました。

新天地中学では仲いい友達を次々と柔道部に引き込み、同時にプロレスファンにしてしまった上に、筆入れに新日ライオンマークを付け日々ファンぶりをアピールした結果、それを見た理科の先生が反応。プロレスファンだったことを発見し、まさかの教員にて新たなファンを発掘するという、まさに新間寿なみの過激な仕掛人ぶりを発揮した三世。そんな三世が今回は会場でどんなドラマを見せてくれるのか?と期待したそのとき、三世にプロレスファン歴が始まって以来の史上最悪の事態が襲う・・

今回は、オカダが来ない!!

「おれ、行かない・・・」

わかったよ・・・父さんはなにも言わん。というわけで今回の観戦記、いかがでしたでしょうか?みなさんもう6月です。梅雨に入ると体調崩しやすくなるので、体調管理ですね、気をつけて楽しいプロレスを見ていきましょう!!

最後までありがとうございました。

いや!!

そりゃ対戦カードはチケット購入時では未発表だったのでわからなかったが、しかしエースで核のオカダが来ないとは・・・日程を見てみると、この週は22日の後楽園ホールから28日の群馬までオカダの名前がない。Twitter見ると、どうらや九州あたりでオフを楽しんでいるようだ。レスラーにはオフは必要。しかし、このタイミングとは、こいつは読めなかったなぁ・・・

しかしまいった。この4年間は観戦でもテレビでもオカダを見るためにプロレスを見ていたんだ。見てください。小学校時代には工作も・・・


三世特製、これを使えばヘビーレインでも剝がれないレインメーカーセロテープ

卒業記念品もオカダなんだよ。


三世特製、音色が金の雨のようにあなたに優しく降り注ぐレインメーカーオルゴール

中学入って教室に貼り出す自己紹介のカード。好きなスポーツの欄、プロレス。好きなテレビ番組の欄、ワールドプロレスリング。趣味の欄、プロレス観戦。そして尊敬する人の欄!両親やお母さんとみんなが書く中、三世のその欄はオカダカズチカ!!尊敬する人がオカダカズチカですよ!!素晴らしい・・・涙が溢れんばかりです(おれも同じ時期はアントニオ猪木って書いてたもんな)

これだけの、その最大の楽しみが来ないんだから痛い。仕方がないことなんだか、でもこのヘコみようは見ていて気の毒だなぁ・・・

でもほらぁ~三世の好きなリコシェが来るよっ♪内藤も最近はかなりお気に入りじゃないかっ♪ついでにお父さんの好きなウォーマシンも来るよ♪ と励ましてみる。

「ウォーマシンはどうでもいいんだけど、そうだなぁ~。内藤来るから行くかなぁ」

テンション、低い・・・っていうか何だ!?どさくさに紛れてウォーマシンがどうでもいいとはどういうこった!!

まあ、しょうがない。こうして(?)なんとか行く運びとなりました。

というわけで、こちらです。


三世オカダロズによるメンタル低下により撮影拒否のため、OPはひとりです・・・

回はこちら、つくばカピオアリーナ、この後ろの建物なんですね。こちらは1996年7月に、このつくば市の竹園というところに出来た、スポーツや演劇などに使用される多目的な文化施設になります。今でこそつくば市は他県にも知られるほど発展しましたが、この竹園はまだつくば市が全国区になるはるか昔から、早くからつくば研究学園都市として発展してきた場所です。そんな竹園に20年前にできたのがここつくばカピオアリーナなんですね。

実はここ、ボクの実家から車で数十分の位置にあるところで、しかも母親の実家がつくば市ということで小さい頃からの馴染みな土地でした。しかし久々に来たら多数の巨大マンションが立ち並び、ショッピングモールや飲食店が軒を連ねていてびっくりというかア然。あまりに変わりすぎてて完全に浦島太郎状態に陥ってしまいました。これだもん、おれなんか同じ茨城に住んでても訛ってるって言われちゃうわけだ。

今回の観戦メンツは三世と前回の水戸大会から現場復帰した、しゃべるブラックホール、肉体暗黒物質といわれるマスクド・スーパーマザーことウチの嫁。そして今回初登場は以前の記事で(駄文ダブン3話 )ボクをオカダに似てると言ってくれた棚橋に似ているお母さんと三世の同級生であるその息子さん。このお母さん、高校時代は県内の強豪校で柔道に打ち込み、かつては全女のオーディションにも挑んだことがあるほどのプロレスファン。さらになんと、あの桜井マッハ速人の先輩で現在でも交流があるというある意味筋金入りの方です。そしておなじみボクの先輩と、同じ会社のIさんと世界一のケンドー・カシンファンのPなわ  さんです。


先頃、あの
サクマシンさんとも同盟を結んだPなわさんです

では試合です。この日はジュニアのリーグ戦中とあり通常の試合の他、Bブロック公式戦が4試合行われました。印象に残った試合を振り返ります。


第1試合20分勝負
岡倫之、川人拓来(かわと ひらい)vs北村克哉、海野翔太

まず個人的に注目していたのが川人。初めて見たのは昨年の12月の水戸でなんですが、この選手のドロップキック、跳躍力、滞空時間がとにかくすごいです。まだ形や当りにぎこちなさがありますが、これがまたフレッシュでいいですね。しかし将来、このぎこちなさも消えモノにしたときはオカダのドロップキックを超える可能性大ですよ。期待大です。

あと、圧倒的だったのが北村です。技云々ではありません。動くたび館内がどよめきます。見る気はなくても見てしまう、そして一度見たら忘れられなくなる。意識せずとも見た者をすべてすごいと思わせてしまうその肉体は、無意識なクリックひとつでパソコンに入り込んでしまうコンピューターウィルスにも似た、まさに筋肉のルウェア、肉体サイバーテロだ!!この筋肉は、ウィルス対策不能だー!!

ヤングライオン同士の試合は、いつの時代も一生懸命さがいいですね。ただ、ボクはもう少し感情出してやりあってもいいと思いました。膝まついた岡に北村が頭を何度もひっぱたく場面があったのですが、そういうときどうするか?なんですよね。近年はちょっと小柄が多くなった新日本に久しぶりに入った、北村と岡。いいヘビー級です。本当に楽しみ。特にボクは岡に期待してます。がんばって~。


ボクは岡派です。がんばれ~


3試合30分1勝負Bブロック公式戦
ACHvsエル・デスペラード

三世曰くACH、このレスラーがタイガー・ザ・ダークだったそうな。なるほど、そういえばそんな感じもしますね。試合はデスペラードがラフ攻撃で攻めます。デスペラード、場外でなんと我々の一団のところまでACHをぶっ飛ばし(南側5列目まで)膝に強烈なイス攻撃敢行!!周囲の席はめちゃくちゃ、荷物はぐちゃぐちゃの大惨事。ボクのスマホも彼方へ飛んでいってしまいました。

この突然の乱闘に驚き迫力に押され目が点になる周囲の客たち。しかし!!この状況下でただひとり、スタッフ、若手レスラーを掻い潜り、あの雪の札幌テロリスト事件の藤原のように、だが笑顔でACHに忍び寄る人物が・・・おおっとこれは?ウチの嫁ですね!!

「さわっちゃった!あたしだけ~」

この大惨事に歓喜を奮う嫁。うぬぅ~。しかし、このあと選手がリングに戻ったあと、嫁が駄目押しに伝家の宝刀を抜きます。

ところで、あの黒人は誰?」

やっぱり知らなかったのか・・・


第5試合30分1勝負
デビッド・フィンレー、獣神サンダー・ライガー、ハンソン、レイモンド・ロウvsマーティ・スカル、高橋裕二郎、タンガ・ロア、タマ・トンガ

さあお待ちかね!!ここはおれの出番!!こんな昭和なファンのボクにしてツボったハンソンとロウのお出ましです!!ゴングを待たず、思わず

「ハァンソォーン!!」と

声を張り上げます。すると負けじと声を張り上げたのは満を持して登場の先輩。

「マぁーティー!!」

その咆哮に先輩の前の席で観ていた中学生ふたり組が、まるで電流でも流されたかのようにビクッ!!っと驚きイスから10センチほど飛び上がる。漫画だったらマユ毛も顔から飛び上がっただろうこの事態を、中学生は苦笑いでごまかしこちらを見る。しかしな中学生たち、会場に来たら声出さないと楽しめないぞ~。さあ一緒にやるんだ。マーティーって・・・ん?マーティって、レフリーじゃ!?

試合は巧者のライガーが軸となりファンを魅了しました。入場から退場までとにかくライガー人気はすごいですね。ご本人も楽しんでいる様子が伺えて、見ていて本当に楽しかったです。でもボクはやっぱりハンソンですねぇ。どうすかこれ?


いいでしょ~

マッチョ体型でないがパワーがあって、で、そこにきて昔のレスラーみたいなリングコスチュームです。ツボります。ZZ Topみたいなヒゲもたまりません。ボクはこういうタイプたまんないです。昨年の水戸に次いで近くで見れてよかったです。


第8試合30分1勝負
ドラゴン・リー、リコシェ、ジュース・ロビンソン、小島聡vs高橋ヒロム、“キング・オブ・ダークネス”EVIL SANADA、内藤哲也

さて、ここまで・・・第6試合あたりからオカダロスもピークに達してしまった三世は第7試合には半目を瞑りぼーっ・・・もはやかける言葉すら見つかりません。こんな気の毒なプロレス観戦が今までにあっただろうか・・・

この日、メインで出るはずだった棚橋も欠場になってしまい、よりによって代役が小島という事態(ボクと三世は小島が好きではないのです)やはりテンションは上がらなかった。お気に入りのリコシェを目の前にしてもあまり変わらず、一方でジュースの入場にひとりリオのカーニバルと化し盛り上がる嫁を尻目に益々うつむいてしまった三世。

やがて内藤の入場になるが、この精神状態では・・・とふと横を見ると

の?ノリノリじゃねぇか!!


しかもいつの間にロスインゴの帽子を!?

「おれは絶対オカダファンだけど、これだけ一度やってみたかったんだ」

というと三世は、ロスインゴの入場が終わるとすぐに帽子を終います。そうか、普段はオカダ仕様で一筋だからオカダ以外を応援することはない。得てして他の選手のグッズを身に着けることはないもんな。まさに今日だけしかできないことだ。

「いい帽子だ~。もう被ることはないけどね」

そうかぁ~。その瞬間だけのために帽子を・・・父さんはうれしいぞ~。

さて試合です。思わず目を見張ったのは高橋ヒロムですね。この選手、近くで見るの初めてだったんですが、あれですね、動きが「速い」ですね。

それはジュニアだからでしょ~?と思うかもしれませんが、そういう速いではなくてですね、動きといっても動作が速いんですよ。リングを走ったり次の動作へ入ったりという、そういう足を使って動く動作ですね。この動きが他のジュニアの選手より段違いに速いと感じました。

たとえばリコシェやオスプレイって、動きどうですかね。すごいですよね。これは動いているとき、動体がよかったり技の高さ、跳躍力や技のポテンシャルが高いからそう思えるんだと思います。身体能力の高さですね。それとテンポですね。技と技、相手との交差ですね。このテンポがいい、こういう動きが優れている選手もいます。でも高橋ヒロムで今回言いたいことは、こういった動きのことではなく瞬発力、機敏性の面ですね。こう瞬間瞬間でパッと体を動かす力を出すというですね、これに優れているという点なんですよ。そういうのがすごいと思いました。きっと他の競技やってもいいとこ行ったと思いますね。まあ何よりですね、高橋ヒロムがチャンピオンになってからジュニアの試合も見れるようになったんで、これから楽しみです。

あと、もうひとつ。SANADAです。正直、SANADAは今のポジションに満足しきっちゃってる感じで新日本来てから発展や進歩が見られていないんじゃないかなと思いますね。技もフィニッシュも単調で、自己主張も感じられません。単にロスインゴのひとりで無難にやってるだけにしか見えませんよ。いいんですかそれで?もっとできるはずですよ。体もあるし動きも本来もっとすごいはずです。もっとね、対戦相手はもとより内藤に逆らうくらいの勢い持ってやってもいいと思いますね。


全体を振り返ると、地方ですが公式戦とあり、ジュニアの試合はどれも大技が出て見ごたえがありました。またオカダ、棚橋不在でも会場にはたくさん人が入っていて、このあたり見ると新日本も安定したんだな~と感じましたね。


最後は地方では珍しく内藤が最後を締めました

試合も終わり、出口付近に行くとフルコンプリートのライガーコスチュームを身に纏った熱烈なライガーファンの方が。あのライガーさん、よく会場やテレビで見かけるね~と三世と話ししてたんですが、一緒に行ったPなわさんとは同じマスクマン同士で顔馴染みだそうな。ここでこのライガーさんとファンの方々が記念写真撮ってます。それじゃ~この機会にとボクも一緒に写真撮らせていただきました。


おおお

Pなわさんに聞いたところ、ライガーいるところその姿ありといわれた世界一のライガーファンで、りんざいさんというお方だそうです(獣神さんのブログ

このりんざいさん、ボクのマスクを見るなり、お、マスクド・スーパースターですね!と即反応してくれました。ブログやTwitterはライガーど真ん中ですが、あの即答ぶりはプロレス全般でもいろいろ知っているベテランファンに間違いないです。お会いできてよかったです!!

その頃、表では三世と嫁がなにやら・・・何かをしていたようです。戻ってきた三世、

 「今、そこに北村がいたから握手したよ!!腕も触らせてもらった!!すげぇ太かったよー!!」

そうかぁ!!よかったなぁ~。と話していると今度は嫁が戻ってきて

「今、そこに北村がいたから」

ああ、今三世に聞いたよ。握手してもらったんだっぺ?

「ちがう、抱きつかせてもらった」

だ・・・さ、さすがはあのジェラルド・ゴルドーをも手に取った女、最後まで破壊力がちがうな・・・

さて、三世の初めてとなったオカダのいない新日本でのプロレス観戦。確かに、三世にとってはいつもより面白さには欠けてしまったかもしれません。しかし、好きな選手だけを見て楽しむだけでなく

"プロレス自体を楽しむ"

ということをわずかでも体感できたなら、広くプロレスを見るということが感じられたなら何よりだったと思いました。

そして・・・あの暗黒期、先輩とふたりで観に行った2007年の新日本。空席がたくさんあって・・・半ばファンとは呼べない人がいて、歓声もありませんでした。あれから10年。見渡せば、会場には家族連れが多く、ブカブカのおっきなタイガーマスクを被り、お父さんに抱っこされた男の子や小さなライオンマークのシャツを着てトコトコ歩く女の子など、2、3歳くらいの小さなお子さんを連れた家族から小学生連れ、中学生など幅広い層のお客さんが多数見られました。ボクの周りも、気がつけば並びの席には家族に同じ会社の人に、子供の友達までいます。そして会場で偶然会った知り合いも嫁の方にはいたようでした。

明日、どこか行くの?と聞かれ

「プロレス観に行くんだよ」

と答える。そんな会話に、かつてはなんの反応もありませんでした。でも今は、いいな~。おれも一回行ってみたいなぁ。今度は声かけてよ!という人が多くなり、息子にも、今度この友達が一緒に行きたいから連れてってよ!と言われるようになりました。

プロレスファンは、プロレスが好き。それだけでいい。でもボクは、こうしたプロレスに至るまでの流れを実感できることも大好きです。これからも、もっと、ずっと・・・だからまた行こう。

どうもありがとうございました。





輝けエメラルド

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どうも!!流星仮面二世です!!


相変わらずパソコンが修理中ですが、スマホでがんばって参ります。


さて、今日はですね、6月17日に茨城県の土浦市にあります霞ケ浦文化体育館で行われましたプロレスリングノアの


「Navig. with Emerald Spirits 2017」


行ってまいりましたのでそちらの模様をお送りしたいと思います。


まず場所ですが、こちらは霞ケ浦水郷公園と敷地を共有しております非常に大きな施設になります。茨城県土浦市でかつてプロレスといえばここという、土浦スポーツセンターがなくなった後、90年代に新日本、全日本が茨城の県南に来た際にはよく使用されていたところなんですね。実はボクの母校が目の前でありまして、高校時代は朝練で周囲を走らされた自分にとっては非常に悲しい思い出のある・・・いえいえ、なつかしい場所であります。


霞ケ浦文化体育館は大体育館と小体育館とありまして、大体育館は固定の観客席もあり3000~4000人は収容できる非常に大きなところです。で、今回は収容人数で行くと500人くらいの小体育館の方ですね、こちらで行われました。


三沢が亡くなって今月13日で8年の月日が流れました。その間いろいろなことがあった団体です。新日本との提携もなくなり、鈴木軍も去ったノア。現在はどんな感じなのでしょうか?さっそく行ってみましょう。


試合開始前、会場にファンが入ってきますが、まず驚いたのがファン層です。この日、一番多かった層、なんとボクよりも年上の層なんですよ。おそらく60代くらいですね。この層が選手入場側の方の席を特リンからです。つまりプロレス会場で一番いいとこですよ。ここにずらっと並んでいました。もちろんその他の席にも結構います。50代、40代もいますが、いやぁ~これはちょっと意表を突かれましたね。昨年の新日本のG1のときはノアの選手出たときはノアのタオルとか持った女性ファンがちらちら目についたので、今回も女性ファン多いのかな?なんて思っていたんですが、地方はまた事情がちがうんでしょうかね?


そして次いで多かったのは女性ファンですね。でも割合的には3割ちょっとくらいでしょうか。そして次いで家族連れです。それも小さいお子さん連れが多かったですね。中学生同士のグループなんてのもいて、なかなかバラエティ豊かな会場です。


開始30分くらい前ですかね、まず小学生以下のお子さんがリングに上がって写真撮影などができるファンサービスがありました。小さい子は大喜びでリングに上がりロープに走ったりコーナーを触ったりと笑顔が絶えません。これはいいですねぇ。


そして、次いでこちら。NPO日本移植支援協会からご挨拶がありました。

 


 
ご挨拶をしてくれた支援協会のみなさん

 

こちらは文字通り日本での臓器移植を支援する活動を行っている団体なんですね。この普及啓発活動にノアは三沢のいた時代から応援しているということです。

 


 
会場内には三沢の意思も飾られていました


HPはこちらです。


NPO日本移植支援協会 


ボランティアで非常に重みのある活動、本当に頭が下がります。みなさんも一度HP覗いてみてください。どうぞよろしくお願いいたします。


さあ、では試合行きましょう。



第1試合 15分1本勝負 


大原はじめvs井上雅央


これはまず井上雅央にびっくりですよ。今日、見るとは思わなかったのでびっくりしましたね~。


試合の方は、ごめんなさい。第1試合、この日一番おもしろくなかったです。ボクはこの大原という選手、初めて見たんですが試合中にとにかくしゃべるんですよ。試合前から終わりまで何かあるたびいろんなことをしゃべるんです。対戦相手にだったりレフリーにだったり、客席にだったり・・・これが耐えられなくイラつきました。で、井上も言葉発するんですが、この掛け合いもおもしろくなかったです。第1試合目、掴みですよ。いいんでしょうか?ボクは、この先の試合みんなこんな感じなのかな?とこの時点では不安になりましたね。



第2試合 20分1本勝負

 

小川良成、諸橋晴也vs原田大輔、YO-HEY

 

いやぁ~小川良成ですよ。2年前の天龍の引退試合で見ましたが、近くで見るのは20数年ぶりです。小川、見かけも変わってなくて動きもよくて、なんだかうれしくなりました。小川は地元茨城ですしね、ファイト見れてよかったです。


で、実のところ、小川以外はごめんなさい。知らないレスラーです。諸橋、原田、YO-HEYは今日初めて見ました。が、第1試合目では不安になりましたが試合の方はここからはレスラーのおしゃべるもなく激しくなってよかったです。


しかし・・・ちょっとどのレスラーも小粒ですね。ジュニアなんでしょうけど・・・特にYO-HEYという選手。あまりに細いんで調べてみたら75キロしかないそうです。昔、新日本に来たネグロカサスより軽いのか・・・と思いましたが、実際はもっと軽そうですねぇ。こういうの気にしちゃうボクの価値観は古くてだめなのかな?

 

第3試合 30分1本勝負

 

熊野準vsコーディ・ホール

 

ええ!?っと思った方も多いと思います。そう、新日本のバレットクラブでやってたコーディ・ホールですよ。まさかこんなところでコーディに会うなんて夢にも思いませんでした。というか、いつからここにいるんでしょうか・・・確か新日本で首痛めて欠場してたんじゃ?


ボクはちょっとよくわからないんですが、とにかく元気そうでよかったです。ファイトスタイルは相変わらず。パワーもあるし動きも大きさの割に軽いですね。しかしちょっと大味かなぁ。でも、やっぱり親子とも知っているレスラー。ボクはここぞとばかり声張り上げてました。そしたらリング上から、ちゃんと応えてくれました。

 

この試合後、コーディのサイン会あったので行きました。

 


 
ちょっとピンボケしちゃいましたがコーディでしょ?

 

コーディ、小さなお子さん抱っこしてあげたり日本語での対応もしたりでとにかくすごいファンサービスぶりです。ボクもサインいただいて・・・この日のフィニッシュがラリアートだったので


「レイザーズエッジ、OK?」


と言ったら、オオオーイエス!!とフルスイングで握手してくれました。負けじとボクもスイングさせましたが、手、痛かったぁ・・・でも、うれしかったなぁ。サイン大事にします。いつかオヤジのようにビッグになっておくれ。応援しているよ~。



第4試合 30分1本勝負 

 

HAYATA、タダスケvs石森太二、Hi69


第4試合に出場したレスラー、申し訳ないですが知っているレスラーがひとりもいませんでした。


しかし石森は、家で三世がカレールーと呼んでおり・・・カレールー?昔、キン肉マンにカレクックってのいたけど、なんか関係あるのかな?と思ったら腹筋が鍋で溶かす前のカレールーのように割れているのでそう呼んでいるそうな。そういわれると、確かにすごい腹筋。いや、体がすごい。全盛のジミー・スヌーカを思わせる体です。


この石森、ジュニアのタッグチャンピオンなんだそうですが、このタッグチーム同士の試合はよかったですね。ジュニアなんですけど、飛んだり跳ねたりばかりでない、リングでの攻防が多かったのは感心しました。しかし、ジュニアにしてもみんな小柄ですね・・・今はどこのジュニアも小さいんでこれは仕方ないのかなぁ~。



第5試合 30分1本勝負

 

小峠篤司、潮崎豪vs拳王、清宮海斗


この日、一番よかったのがこの試合でした。とにかくどの選手も攻撃に妥協がないんですよ。特に打撃技がすごい。中でもすごかったのはやっぱり潮崎のチョップでした。打つと冗談抜きで会場が揺れるんですよ。音もすごい。でも、この拳王というレスラーが打たれながら負けじと胸へミドルキック打っていくんですね。これがまたすごい。このやりあいが、とにかくすごいんです。そこから大技出して、スリーカウントギリギリで返してと・・・見ていたら地方興行なんてこと忘れてしまうような、ビッグマッチ見ているような感覚になるくらいでした。とにかく激熱でした。


そんな中で、この大会で一番印象に残ったのがこの清宮という選手でした。この選手はまだキャリアはそうない若い選手なんだと思いますが、いいですね。初めて見たんですが、おもいきりがあっていいです。技はちょっとばらつくところもあるんですが、何をするにも全開、一生懸命でよかったです。これからノア内はもちろん、可能であれば他の団体とかにも出ていろんなレスラーとファイトして、いろんなものを吸収してほしいですね。そうすれば必ずいいレスラーになれますよ。



第6試合 60分1本勝負

 

中嶋勝彦、マサ北宮、斎藤彰俊vs丸藤正道、マイバッハ谷口、モハメドヨネ


メインは知っているレスラー勢揃いです。


まず、いやぁ~久々に斎藤彰俊、見ましたよ。斎藤彰俊も2年前の天龍の引退試合以来です。今回はちょっとおとなしめでしたね。蹴りもスピンキック1発のみで、あとはまったく出しませんでした。だいぶ太ったように見えましたし・・・あまり動けないのかなぁ?斎藤の蹴り、見たかったなぁ。


丸藤は昨年の10月のオカダ戦以来で見ました。調子よさそうで動きよかったですね。でも、なんか持て余している感じしました。見合う対戦相手が今いないんでしょうかね。ほしいところですね。


現在は中嶋がGHCの王者なんだそうですが、ちょっとこう、うーん・・・チャンピオンとしては、やっぱりインパクトに欠けるかなぁ~という感が拭えない感じしました。三沢、小橋が巻いたベルトのチャンピオンだから、というわけでなく、ベルトを持つ者としての貫録というんでしょうか、こう、どっしり感がないんですよね。昨年のG1のときも書いたんですが、技も蹴り、なんですよ。攻めも反撃も蹴りなんですね。もうひとつほしいなぁ~と・・・思いました。




試合全体を見て思ったのは、まず、ノアはエルボー、チョップ、顔面へのキックなどの打撃技が強くてエグかったという点でした。特にエルボーの当たりは、誰が特にというわけではなく、使う人みんな当たりが強く、角度もあってよかったですね。でも、けして乱打、乱発ではありません。三沢のエルボーが生きているんだなと思いました。本当に見入りました。


それと、ひと試合ひと試合ごとでレスラーの技、動きが被ってなくて、これはよかったと思いました。たとえば新日本なんかは同じ技や動きが各試合で見られることがありますよね。例のタッグでコーナーへ相手を置いておいて代わる代わる走っていき突っ込んでいくやつとか、ロープに走った相手に合わせて交差して一緒に走って攻撃するとか・・・そういうのを第2試合でも誰かがやって、第3試合でも誰かがやってっていうのがありますが、ノアでは各試合が確固されていて、これがなかったです。すごくいいことだと思いました。


あとタッグは、コーナーにタッグロープが付いていて、タッチの際にみんなこれを持って、ちゃんとタッチしていました。もしかすると今のファンはタッグロープすら知らないかもしれません。そんな中でこういうところをきちんとやるの、すごく素晴らしいことだと思いました。


残念だったところは、個々の試合はよかったのですが、団体を代表するこれだ!!という決定的なレスラー、いわゆるエースがいなかった・・・いや、いたのかもしれませんが、感じることができなかった点です。


試合は予想していたよりもおもしろく、楽しめました。正直、会場は大きくなく、観客も150人くらいだったと思います。でも、レスラーはみんな全力ファイトでいい試合を提供していました。地方でもこれだけやるとは・・・もっと大勢に見てほしい!!とボクは思いました。本当によかったです。でも、そういう中にあって最後、エースのレスラーは他の試合とはちがう何かを見せ、残さないと・・・ボクはダメだと思いますね。


今回、現在のノアを見て、2007年に行った低迷しているときの新日本を思い出しました。空席が多くて、静かで・・・レスラーがいい試合するのに反応がなくて。でも、そんな中で必死に応援するファンもいて・・・試合後、棚橋がみんなと手を取り合って・・・本当に似ていると感じました。


新日本は今のように復活しましたが、ボクはノアも、やり方次第でその未来はあると思います。がんばれ!!


最後までありがとうございました。




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