どうも!流星仮面二世です。
さて、古来から現在まで、実に何千という数を誇るプロレスの技。そんなプロレス技の誕生には、実に様々な形がありますね。一念発起、考えに考え抜いて生まれた技もあれば、ふとした閃きから生まれた技もあります。
そんな中、偶然に、偶発的に生まれた技も、もちろんあります。海外武者修行時代、試合中にとっさに出たキックが代名詞となった馬場さんの16文キックに、エアプレーン・スピンを暴れられ、押さえようと無意識に顎を掴んだらギブアップを奪ってしまったアントニオ・ロッカのアルゼンチン・バックブリーカーなどがそれらです。
こういったようにレスラーがガンガン、バリバリに試合をこなしているうちに生まれた技は、本人の活性剤になり、そして機転になり、その後のレスラー生活を充実させていくものになりますが・・・一転して、プロレスの歴史上において、こんな哀しい物語を持った必殺技の誕生があったなんて・・・と思わず目頭を押さえてしまう、今回はそんなお話を76年の月刊ゴング6月号を参考とし、みさなんにご紹介したいと思います。
突然ですが、みなさんは“人種差別”と聞くと・・・何を連想するでしょうか?
人間が人間を捕らえ、そして人間を売って利益を得る。買われた先で、売られた人間は人間としての人格は否認され、労働などで所有者、奴隷主に絶対服する所有物として扱われる。権利も自由もない。もちろん無償・・・これらが16世紀末頃から始まったとされる“奴隷”の概要でした。
もし自分だったらと考えてみてください。ある日、突然捕らえられて知らない土地に連れてこられて、発言も主張も許されず休みもなく棒やムチで打たれながら、汗と血を流して働き続けるということになったらどうかと・・・
鞭打ちによる傷跡のある黒人奴隷(Wikipedia「奴隷 」より)
現在では考えられない人間への仕打ちです。こんなことが・・・と思って当然ですが、しかしながら恐ろしいことに、かつてはこれが長い間、身分や階級として奴隷制という社会制度として通っていたというから驚くしかありません。
この驚きの歴史は1862年、リンカーンの奴隷解放宣言、そして南北戦争終結後のアメリカ合衆国憲法第13修正承認による本土での奴隷解放で光を見ましたが、しかし様々な世の中の変化があったにしろ、1900年代半ばまでに奴隷はなくなっても貧困が多く、選挙権も与えられなかったなど黒人を下に見る、いわゆる人種差別という壁は消えることがありませんでした。
そんな・・・まだまだ人種差別が激しかった1900年代、ひとりの黒人が産声を上げました。
彼の名はジンミー・ミッチェルといいました。1909年にシカゴで生まれたミッチェルの時代は先に述べたように激しい差別が彼らを襲っていた時代の真っ只中でした(※1911年という記述もあり。シカゴは出身地と予想される)
そんな背景もあり、彼の家は裕福ではありませんでした。そのためミッシェルは13歳の頃から父親が働いていた缶詰工場へ働きに出ていたといいます。
そんな時代・・・一方、当時の世は禁酒法により酒が闇で動いていた時代でもありました。この酒を中心にアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノなど現世にまで名を残すほどのギャング達が席巻していた、まさにギャング全盛の時代でもあったのです。そんな時代背景もあり、少年にして社会へ出たミッチェルは差別という世の中の仕打ちに身を置く中、力を持っていたこのギャングにおおいに憧れていたといいます。
やがてミッチェルは、とうとう憧れのギャング組織に入ることになります。組織は当時シカゴで力を持っていたギャングスター、のちにアル・カポネによって一家と、その存在を追われてしまうダイオン・オバニオンのオバニオン一家でした。
ギャング全盛時代に暗黒街の帝王と呼ばれたアル・カポネ
憧れのギャングにして当時のシカゴでは大きな組織に入ったミッチェル。といっても当時は、まだ黒人への差別が大きく残っていた時代。ギャングといってもミッチェルは下っ端で、使い走りばかりいつもさせられていたといいます。
しかしこのギャングに入ったことでミッチェルの人生は変わることになります。そのミッチェルの入ったギャング組織こそ、ボクシングやプロレスが興行を行う興行面において大きな力を持っていた組織だったからです。
そんな組織の中で、それらの興行面を牛耳っていた男はジョーという名前でした。ジョーはミッチェルに目をつけ、彼をボクシングに誘いました。しかし始めて間もなくリーチがないとの理由で、今度はプロレスへの転向を進めてきました。こうしてミッチェルは、これまで経験したことのなかったプロレスの世界へ足を踏み入れることになったのです。
こうして1927年(1929年という記述もあり)11月、シカゴにおいては会場として名の通っていたアンフィ・シアターで、ミッチェルは黒人レスラー第一号として18歳頃、デビューを果たします。
しかし、白人レスラーはミッチェルと試合が組まれるのを最初は嫌がりました。理由は黒人と肌を合わせるから、というものでした。
当時、ボクシングに黒人はいてもレスリング、プロレスには黒人がいませんでした。なぜか・・・それは“肌の色がうつるから”という理由でした。
ボクシングは拳をグローブ越しに合わせて戦うからまだいいが、しかしレスリングは常に肌を合わせる。肌を合わせると肌の色がうつる、だからイヤなんだというのです。我々日本人からしたら信じられない理由でした。
でもこれが当時の現実でした。もちろん興行側も、それはわかっていた話でした。ではなぜ試合を組んだのか・・・そう、興行面ででした。
興行側には白人が黒人を痛めつけ、やられるところを客に見せ、楽しませるような、そんな思惑があったのです。こうして嫌がる白人レスラーのギャラを吊り上げ、試合では徹底的に痛めつけるように仕向けたといいます。
178センチ、88キロという、けしてレスラーとして大きい方ではなかったミッチェルは試合の度、痛めつけられました。殴られ蹴られ・・・ひとりで控室に歩いて戻れなかったことも一度や二度ではなかったといいます。
ときはボディ・シザーズの名人の絞め殺し王ジョー・ステッカー、ルー・テーズの師であったエド・ストラングラー・ルイスの全盛時代。いつかおれも、ステッカーやルイスのようになってやる!!持ち前のガッツと黒人ならではのタフネスを武器に、ミッチェルはこの日々を耐え抜きました。
そして・・・ミッチェルに運命の日がやってきます。
その日の相手はトミー・マリオというレスラーだったといいます。マリオはミッチェルと何度か試合している、マリオからすればお得意さんでした。
マリオは試合が始まるといつものように殴りつけ、まるで楽しむかのように攻撃を加えていったといいます。しかし・・・その攻撃の刹那でした。マリオの攻撃に後ずさりしたミッチェルは少し後ろへ下がると、よろめいたか・・・そのままロープに寄りかかった形になりました。そしてその反動でミッチェルは勢いづき前へ突き出すと、マリオとミッチェルはぶつかり合いました。
次の瞬間、ミッチェルが見ると痛がり、リングに寝転んでいるマリオがいました。
やろぉ!!と苦しみながら怒ったマリオでしたが時すでに遅し・・・マリオはアバラを骨折し、とても試合のできる状態ではありませんでした。
「おれが・・・!?」
一体、何が起きたのでしょうか?
レスラーとしてはけして身長が高い方でなかったミッチェルは、相手と相対すると顔の位置が相手より低くなることが多かった・・・得てして頭も相手より低い箇所に位置することになります。この状態から、さらにマリオの試合でよろけた際にはダメージもあり下を向いていたと予想されます。その状態で反動がつき衝突すれば、ミッチェルの頭がマリオの胸部へ、当然ぶつかることになります。
こうしてぶつかった・・・しかし、普通ならお互いに衝撃が来るところ、そうはならずにマリオだけがアバラを骨折するという大けがを負ったのです。
翌日、ミッチェルは壁や板に向かって自分の頭をぶつけてみました。頭が、固い・・・おれは頭が固い!!これを武器にしたら!?
こうしてミッチェルは自身の頭を相手にぶつけるという攻撃を考案します。そのやり方は相手の間合いに飛び込んで首を取り、ジャンプして相手の頭、額を打ちつけ、そして態勢が低くなった相手に今度は頭頂部へ攻撃するというものでした。ヘッドバットが産声を上げた瞬間でした。
こうしてミッチェルはギャング時代に覚えたケンカ殺法と持ち前のガッツと共に、ヘッドバットを得意技として相手に向かっていきました。かつては白人の見世物のようだったミッチェルでしたが、ヘッドバットを手に入れたミッチェルは、もうやられ役どころか相手レスラーに恐れられる恐怖のレスラーとして、その名が知られる存在となったのでした。
その後・・・約20年後の1948年、40歳を前にしたミッチェルは、当時若手だったひとりの青年に会い、ヘッドバッドをコーチすることになりました。この青年の名はヒューストン・ハリスという24歳の黒人でした。
ミッチェルはハリスに自作のヘッドバット特訓機を与え、日々ヘッドバットを打たせました。ときには日に8時間というその練習でハリスの頭はいつも血まみれになったといいます。
しかしその結果、この黒人レスラーがプロレス史上、ルー・テーズのバックドロップ、力道山の空手チョップと並ぶ一撃必殺の技の使い手として世界に名を轟かせることになります。その必殺技の名はココバット・・・そう、ヒューストン・ハリスは黒い魔神として恐れられた、のちのボボ・ブラジルだったのです。
ブラジルもまた裕福でない家庭に生まれ、若くから働きに出ていたといいます。1日中農作業で使われ、おなかがすくと腹ペコ鳥のボボリンク(スズメ目ムクドリモドキ科の鳥)が泣き出す。泣きながら、いつか人種差別のないブラジルへ、おれは行きたい!!と・・・ボボ・ブラジルの名前の由来、これが本当かどうか確認することは現在不可能となってしまいましたが、ジンミー・ミッチェルが黒人レスラー第一号となった時代から20年余り経過したこの時点でも、まだまだ黒人への人種差別が強く残っていたのは現実で、ブラジルもそれこそ身を持って知っていたことでした。
そんなブラジルがプロレスラーとなったこの1950年代は黒人社会にとって激動の年でした。
1955年にはアメリカではアラバマ州モンゴメリーで起きた、バスの運転手があとから乗ってきた白人客に席を譲れと黒人女性に指示、しかしこれに従わなかった為に通報され逮捕されるという事件、モンゴメリー・バス・ボイコットと呼ばれる出来事をはじめ、1957年にアーカンソー州のリトルロック高校で、9人の黒人の生徒が初めて通うことになったことから白人の反対運動を経て軍までが出動したというリトルロック高校事件、1962年にミシシッピ大学に黒人として初めて入学したジェームズ・メレディスをめぐり大学内で暴動が起き、やはり軍までも出動し死亡者も出たミシシッピー・ライオットなど、歴史に残る数々の事件が起きていました。
そんな中で始まったブラジルのレスラー人生も、苦難があったといいます。しかしブラジルもまた、負けてたまるか!!というガッツと、ミッチェルにはなかった2メートルにも届きそうな身長と跳躍力とパワーを利し、ミッチェル流の打ち方に加えて大きくジャンプし相手の頭頂部を打つ必殺ココバットを武器に、差別が続くアメリカで多くの人を認めさせ、やがてメインイベンターとして活躍することになります。
こうして57年、ブラジルは日本へ初来日します。このとき33歳のブラジルは日本でも猛威を振るい力道山をも苦しめました。その後、海外では66年にキラー・バディ・オースチンを破りWWA世界王座を奪取。ベアキャット・ライトに次ぐ史上2人目の黒人レスラーとしての世界チャンピオンとなりました。
68年に日本へ再来日すると当時エースにして王座取得後負けなしで21回もの連続防衛を続けていた全盛期だった馬場さんを倒しインターナショナル・ヘビー級王座を奪取するという、当時の外国人レスラーが誰もできなかった離れ業をやってのけました。必殺のココバットを武器に力道山を苦しめ、馬場さん、猪木に勝利し・・・まさに黒人でもっとも有名で、もっとも活躍したレスラーとなったのです。
今回参考にした76年6月号のゴングによれば、筆者の団友太郎さんは来日当時のブラジルを東京慈恵会医科大学付属病院へ連れていき、整形外科医の鈴木孝雄博士にブラジルの頭の固さの秘密を診断してもらったといいます。
その記述によれば、人間の頭の固さを人種で見ると、我々日本人を含むモンゴロイド(東アジア、東南アジアなどいわゆる黄色人種)は、コーカソイド(ヨーロッパ、西アジアなどいわゆる白色人種)より固く、比べるとちょうど倍の固さなのだそうです。
これを基準にするとブラジルの頭は、驚くべきことにモンゴロイドの4倍、コーカソイドの8倍の固さという結果が出たというのです。しかも額の部分の皮膚は異常に硬くなっており、加えて皮下の脂肪層は軟骨化しているという恐ろしい事実が・・・ミッチェルに鍛えられて、まさに頭が凶器と化していたのです。
こうしてミッチェルからブラジルへと受け継がれていったヘッドバットはベアキャット・ライト、ルーファス・ジョーンズ、アブドーラ・ザ・ブッチャーなど、黒人レスラーが使う必殺技としてプロレス界に君臨してきました。
ブラジルよりも次世代だったが稲妻二郎ことジェリーモローもジャンプしてのヘッドバットを得意とした
しかし・・・確かに白人のレスラーでヘッドバットを使うレスラーは少なかったにしろ、黒人レスラーがヘッドバットを使ったのは、それは本当に人種として頭が固かったから、だったのでしょうか?ミッチェルは最初、相手の胸に当てたのに、頭に頭を当てるようにした。そしてブラジルは、頭を徹底的に鍛えた。それは単に、ヘッドバットを得意とするから・・・という理由だったのでしょうか?
およそ400年前に始まったアメリカの奴隷制度の歴史・・・それは多くの血と涙が流された、ぶつけようもない怒りと哀しみの歴史でした。そんな中で黒人たちは奴隷という状態に身を置かれながらも、日々向かった教会の中で神への歌を口ずさんだといいます。その歌はいつしか仲間同士で、世代から世代へ伝えられ黒人霊歌と呼ばれるようになりました。
1865年、ついに奴隷解放が行われました。これで黒人を取り巻く環境は大きく変化すると・・・そう思われました。しかし奴隷主の元を離れ自由を得たはずの彼らを待っていた現実は、奴隷主を離れたことで得るものがなくなり、経済面が苦しくなってしまうという皮肉でした。こうして多くの黒人たちは、また戻るしかありませんでした。
しかし、変わったものがありました。奴隷解放後の彼らには、奴隷時代にはなかった、仕事が終わったあとに自分の時間が持てるという自由が手に入ったのです。彼らはそこで、今度は教会での神への歌でなく、自分を相手を、想う歌を歌うようになりました。それが・・・ブルースでした。
「おれたちが、何をしたんだ!?自分や家族や、同志のされてきた仕打ちが、哀しみが・・・おまえらにはわかるのか」
そんな人種差別への思いを・・・彼らはヘッドバットとして、相手にぶつけていった。だからヘッドバットは黒人レスラーの得意技だったのではないでしょうか?黒人レスラーにとって、ヘッドバットはブルースだったのでは・・・ないでしょうか・・・
時代も変わり、現在は黒人レスラーも少なくなりました。またヘッドバットを得意とするレスラーも、あまり見かけなくなりました。そんな現在のプロレスシーンの中で、あたながもしヘッドバットを目にしたなら・・・今回のこのお話を少しでも思い出してもらえたなら、うれしく思います。