どうも!!流星仮面二世です!!
さて、以前このようなお話をしたことがありましたが・・・
現在、SNSを介して自分と似ている人を見つけるのがひとつの流行りのようで・・・探して会い、一緒に写真に納まったり交流を持ったりする人がいるようなんですね。
その人たちはもちろん自分の血縁でもなければ国もちがう人なのに、単にそっくりというだけじゃなくて性格や嗜好も似ていたりすることが多いようです。本当に不思議なものです。
そんな似ている人、プロレス界ではどうでしょうか?今回はちょっと、そういうのを探してみましたので、よかったらお付き合いください。
では行きましょう。まずはこちらから。
第1試合 ヒクソン・グレイシーvsスタニスラウス・ズビスコ
ヒクソンはもう説明する必要はないですね。400戦無敗の男の異名をとる総合格闘技のレジェンドであります。
スタニスラウス・ズビスコは1878年ポーランド出身の伝説的なレスラーです。デビューからヨーロッパで無敵を誇り、1909年にアメリカに渡って1910年にフランク・ゴッチに敗れるまでなんと944戦無敗という強豪だったそうです。1921年5月6日に43歳にしてルー・テーズの師であるエド・ストラングラー・ルイスを下して世界王座を初戴冠。その後1953年、77歳の誕生日まで現役でやっていたという経歴を持ちます。
400戦無敗と944戦無敗の結末はいかに!?さあ見てみましょう。
ヒクソン・グレイシー(左) スタニスラウス・ズビスコ(右)
これはあれですね。お盆に親の実家に帰省したとき毎年目にする、壁に飾ってある自分の知らない先祖の写真を見て、この写真の人のことは知らないけど、自分と繋がっている人なんだろうなぁ・・・と回想していると、そこに、この人が気になるのかい?とおばあちゃん。この人はねぇ~おばあちゃんのお父さんの、そのまたお父さんのお父さんでね、日本がまだね・・・といった感じの似方ですね。
まあでもあの、体型はおそらくヒクソンの方がスマートだと思われますが、ご覧のようになかなか似ています。しかし容姿も然り、無敗伝説や長く格闘技をやっていけるための体、つまり自身の体調管理の配慮、コンディションキープなどが似ていたのかなと、そんな気がします。時代はちがえど強者の共通点はあったようですね。
お次はこちらです。
第2試合 カール・アンダーソンvsカール・フォン・ショッツ
現在のプロレスファンにはおなじみのカール・アンダーソンは2002年にプロレスデビューしているんですね。デビューからしばらくはインディ団体で活動していましたが2006年頃からロスに移り活動。そのとき当時あった新日本プロレスのロス道場でトレーニングを積んだようで、新日本にはこの辺りからのご縁だったのでしょうかね。そんな日本へは2008年に初マットを踏んで以来、タッグではIWGPタッグとGHCタッグの2冠王に輝いた時期もあり、また2012年にはG1クライマックスで決勝戦に進むなど新日本では重要なポジションで活躍してきました。現在はWWEで大活躍中です。
一方、カール・フォン・ショッツは1971年デビュー。元々カナダ出身で本名のジョン・アンソンのリングネームで活動していましたが72年に髪の毛を剃り上げナチス・ドイツ系のヒール、カール・フォン・ショッツに変貌を遂げます。そして間もなく同じナチス・ドイツ系のヒールだったクルト・フォン・ヘスとタッグを組み大暴れしました。日本へは74年にNWA北米タッグ王者としてヘスと共に新日本プロレスに最初で最後の来日。第1戦目になる5月24日の足立区体育館で星野、猪木組と3本勝負で対決し、ショッツは1本目を星野から、そして2本目は、なんと猪木からフォールを奪い、ひとりでツーフォール取っての大活躍を見せました。シリーズ中に行われた猪木、坂口の黄金コンビを相手にした北米タッグの選手権試合でも奮闘し新日黄金コンビ相手にタイトル奪取を許しませんでした。
この時点ではタッグというのが共通のワードですが果たしてどうでしょうか?では見てみましょう。
カール・アンダーソン(左) カール・フォン・ショッツ(右)
これは似・・・な、なんですと?ハゲでヒゲ面ならスティーブ・オースチンでもゴールド・バーグでも、はてはザ・ジャッカルでも同じだろうって?うむむ・・・
いえしかし、確かにハゲのヒゲ面は似るかもしれませんが、特にこのショッツは似ているんですよ。他の画像、これなんか見るとどうですか?
時空を超えた対決、猪木vsアンダーソン
一瞬ちょっと錯覚しますよね。
しかしながら、残念なことにショッツのこのスタイルは非常に短いものでした。来日した同年の8月に猪木、坂口と今度はロスで北米タッグ戦を行いましたが、このときにはショッツはコスチュームこそ同じでしたが、もう髪の毛を伸ばしスキンヘッドではありませんでした。この北米タッグ戦以降、ヘスとタッグは組んでいないようなんです。おそらくタッグチームを解散する方向でのイメージチェンジ中だったのかもしれませんね。
何度も日本へ来たアンダーソンに比べショッツが日本へ来たのは一度だけ。ショッツが引退した年アンダーソンはわずか3歳。出身地も時代もまったくちがい、しかもアンダーソンとちがい短い期間しかスキンヘッドでなかったショッツ。それを考えると、これほど似ているふたりを見れたのは奇跡だったのかもしれません。カールというリングネームも、そしてどちらも新日本とくると、やっぱり不思議な感じがします。
続いてはこちらです。
第3試合 AJスタイルズvsキング・クロー
ボクの持っている本には詳細なデータが載っているものがないので経歴などがご紹介できないんですが、UNヘビー級のタイトルの歴史を紐解いたとき必ず出てくるのがこのキング・クローです。72年1月に猪木が日本プロレスを除名されたことに伴い、UNヘビー級王座を返上した際に王座決定トーナメントがカナダのバンクーバー・オーデトリアムにて行われたのですが、そのときルーク・グラハム、カウボーイ・ビル・ワット、グレート・ボリス・マレンコなど総勢12名にもおよぶ強豪レスラーを押さえ優勝したのがクローでした。
一方のAJスタイルズは98年にデビューしているようですね。で、ボクは来歴、まったく知らなかったんですが調べたらなかなかおもしろいんですよ。まず名前、これなんでAJだと思います?これあれなんですよ。本名がアレン・ジョーンズだからなんですよ。これってマグナムTAのテリー・アレンと同じ感じですよね。おもしろいですね。で、プロレスの方ですが2001年2月にWCWに参戦、同年7月にはWWFに参戦して試合しているんですよ。このときの両団体でポジションはわかりませんが、デビュー3年ほどで当時のメジャーどちらも出ていたのはスゴいですね。その後、2002年6月からはTNAに参戦。このタイトルの初代王者となっているようです。日本へは初来日が2003年1月、なんとZERO-ONEに参戦だったんですね。で、2005年ビッグマウスのWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005に参戦。新日本プロレスには2008年1月に初めて参戦してきたというわけなんですね。以降の活躍はもうすっかりお馴染みですね。日本ではIWGP、アメリカでWWEの王者に登り詰めています。
さあ、AJは本当にザ・フェノメナール・ワンだったのか!?見てみましょう。
AJスタイルズ(左) キング・クロー(右)
似てますね~!!なんか、タイムスリップした主人公が若い頃の父さんとバッタリ会ってしまい、思わず、と、父さん!何言ってやがる!おれには子供なんかいねぇぜ!?誰なんだおまえは!?いや、その、ボクは未来から来たあなたの・・・的な似方ですよ。
こちらはロスで行われた坂口とのUN戦ですが、横顔や全体的なフインキも似ているように見えます。
時空を超えた対決パート2、坂口vsAJ
AJスタイルズ、現在プロレス界では一番名前が知れている文字どおりのトップ・レスラーです。一方、キング・クローはカナダを主戦場にしていたようですが、このUNの歴史以外に本などでその名を見ることはありませんでした。坂口に奪われたUNを追ってやってきた、日本へのたった一度の来日。もし猪木が除名されずUN王者のままだったらボクらは名前すら聞くことがなかったかもしれません。そう考えるとアンダーソンとショッツ同様、これほど似ているふたりを見れたのは奇跡だったのかもしれませんね。
続いてはこちらです。
第4試合 ポール・エラリングvs松岡昌宏(TOKIO)
さあポール・エラリングです。エラリングは1978年にプロレスラーとしてデビュー。鋼鉄の鷲といわれるほど、その全身の筋肉は隆々でパワーファイターとして活躍しました。日本へは81年に国際プロレスに初来日しています。このときはテリー・ラザンとのコンビでラッシャー木村、マイティ井上に勝利し第24代のIWA世界タッグ王座を獲得しました。しかしその後、体調面での不調を理由にマネージャーに転向。ジョージアでヒールのユニット、リージョン・オブ・ドゥームを結成。ここにザ・ロードウォリアーズも加わり人気が上昇するとウォリアーズの専属マネージャーになりブレーンとして大活躍。85年3月8日、全日本プロレスの激闘! エキサイティング・ウォーズの船橋大会にてザ・ロードウォリアーズのマネージャーとして国際プロレス以来の来日をし、以降お馴染みの存在となりました。
松岡昌宏はご存じTOKIOのメンバーです。これはもう説明いらないですね~。
かたやリージョン・オブ・ドゥーム、かたやジャニーズ。まさに異種格闘技戦!!見てみましょう。
ポール・エラリング(左) 松岡昌宏(右)
これはなんてアメリカンな松岡くん!!似てますね~!!
ちなみにこちらはウォリアーズのマネージャーのときのエラリングです。
うーん、やっぱり目や鼻など個々のパーツが似ている気がします。松岡くんは顔の彫りが深く目鼻立ちがハッキリしてますから、外国人の顔と比べても見劣りしないんでしょうねぇ。
ちなみにボクと松岡くんは誕生日が一緒ですが残念ながら似てはいません。あんなかっこよけりゃな~人生も変わってただろうな・・・
さぁ次はこちらです。
第5試合 スパイロス・アリオンvs大葉健二
ギリシャの英雄のニックネームを持つアリオンは61年、パリでデビュー。デビュー後はヨーロッパ圏でファイトしていましたが4年後にオーストリアに渡り65年7月にIWA世界ヘビー級(国際プロレスのとは別)を、あのキラー・コワルスキーから奪取します。その後このタイトルのチャンピオンとして防衛戦を行い人気を上げます。その防衛戦の相手にはカール・ゴッチも名を連ねていたそうですが、アリオンはゴッチ相手にもタイトルを防衛しているようで、その実力も伺えます。66年にはWWWFに参戦。ここで人気が爆発し、その活躍は日本でも注目され、71年に日本プロレスに初来日時は大きな期待が持たれました。しかしこのときは同じく初来日だったミル・マスカラスに押され気味になり本領発揮できずに終わってしまいました。日本へは2度来日しています。
で、大葉健二さんです。これはボクらの年代なら知ってますね!!宇宙刑事ギャバンの烈さんですよ!!ボク大好きでしたねー!!バトルケニアもデンジブルーももちろん好きでした。こうね、大葉健二さんはけして二枚目役とかじゃないんですけど、とにかく動きと、あと存在がかっこよかったんですよ。敵が現れたときの身構え方なんか最高でしたね。今の戦隊モノとか特撮ヒーローって主人公がイケメンばかりで、まあそれはそれでいいことなんですが、やっぱり本来子供が求めるヒーローってギャバンの烈さんみたいな感じの方が・・・って、話が終わらなくなりそうなんでこの辺で締めます。なはは・・・
ではギリシャの英雄vs宇宙刑事!!見てみましょう。
んぉぉー蒸着!!これはそっくり!!
眉と目と、鼻から顎のラインが・・・いや、というか全体的に似ています!!
この上の画像は80年代後半のスパイロス・アリオンなんですが、下の60~70年代の若いときのもまた似てます。
これも似てんなぁ~
やっぱり眉と目が特に似ていますね。これは遺伝子レベルで調べればなんかあるような、そんな似方に感じます。
それにしても・・・小学4年のときはギャバン見てエンディングの星空のメッセージ聴いて、次回の予告見て・・・で、そのあとワールドプロレスリングが始まるわけなんですね。よかったなぁ・・・あの頃に戻りてぇ・・・
さあ次です。いよいよ佳境に入ってまいります。行ってみましょう。
第6試合 木戸修vsフランク永井
木戸はもうプロレスファンなら説明いりませんよね!現在は娘さんがプロゴルファーとして活躍していますが、時折一緒にテレビなんか出てますよね。
一方、対しますはフランク永井さんです。昭和の「ミスタームード歌謡」と言っても過言ではない、世界最強レベルの甘ぁい低音の声を持ったフランク永井さん。1957年「有楽町で逢いましょう」が大ヒット。59年には今なお歌われますデュエット「東京ナイト・クラブ」がヒット。61年には「君恋し」で第3回日本レコード大賞を受賞。日本レコード大賞で大賞1回、歌唱賞2回、特別賞を3回!NHK紅白歌合戦には連続26回出場!!ボクの歳でも口ずさむことができる「おまえに」など、後世にまでその歌声を残した偉大なる歌手でした。
そんなふたり、いぶし銀vsムード歌謡の帝王、どうでしょうか?見てみましょう。
木戸修(左) フランク永井(右)
いやぁこれは・・・親戚の結婚式や法事に呼ばれ、普段付き合いのない親戚と初めて遭遇し、こういう親戚いたんだなぁ。似てんなぁ~と感じるような・・・そんな血縁を感じる似方ですよ。
顔の特徴、左右の目、見てくださいよ。瞼の開き具合、右瞼がちょっと下がり気味で左瞼は開き気味というのが一緒です。輪郭も非常に似ていますね。これも遺伝子レベルかもしれませんね。
木戸修とフランク永井。今回は似ているレスラーとして上げましたが、考えてみると木戸のようなレスラー、フランク永井のような歌手・・・今いませんよね。ファンに対し表面からだけでなく、内側からも魅了する、そんな人物の出現に夢を見ている次第です。
お次はこちらです。
第7試合 木村健吾vs菅原洋一
木村健吾、こちらも説明はいりませんよね。数々の伝説を残してきた名レスラーです。
一方の菅原洋一さん。歌手である菅原洋一さんは澄みきった伸びのあるボーカルで1968年に「誰もいない」で第10回日本レコード大賞歌唱賞、70年には「今日でお別れ」で第12回日本レコード大賞を受賞。NHK紅白歌合戦には連続22回出場という、こちらもフランク永井同様、歌謡界のビッグネームであります。
木村は現役時代より歌唱力が高くレコードを出していたのは有名でしたよね。というわけで今回はレコードのジャケットで見てみましょう!こちらです!!
木村健吾(左) 菅原洋一(右)
おぉぉー稲妻・・・これ、今まではこの人とこの人が似てるって概念でしたけど、これはひとりの人の若い頃と現在を比べてますよ、と言ってもわからないような、同一人物的な似方ですね。
それであれですね。よく顔が似ている人は声も似るなんて言いますが、木村と菅原洋一さん。普段の声こそ似ていませんでしたが、歌うと木村の声がしゃべっているときの声よりも低くて、ちょっと菅原洋一さんに似ていたんですよ。そして抜群の歌唱力ですね。似ていると、こういう共通点もあるのかもしれませんね。
いよいよ最後になります。最後はこちらです。
第8試合 豊登vsオカリナ(おかずクラブ)
豊登です。豊登は1954年、日本プロレスに入団。60年には力道山とのタッグでパワーが炸裂。第3代アジアタッグ王者に輝きます。力道山の死後は日本プロレスのエースとして活躍。1964、65年とワールドリーグ戦を連覇します。同年12月には東京都体育館でザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級を奪取します。国際プロレス時代にはTWWA世界タッグ王座、IWA世界タッグ王座の初代王者チームにもなりました。72年3月からは軌道に乗るまでとの理由で新日本プロレス旗揚げ戦に登場し以降、約1年参戦。テレビ中継が付くまでの間、猪木以外は知名度が少なかった新日本のレスラーと共に戦い観客動員に大きく貢献しました。現役時代、真骨頂はその怪力で、握力は120キロを超えていたという話が。かつて腕相撲世界一の人と対戦し右で勝利、左では引き分けしたという伝説があります。
オカリナさんはお笑いコンビのおかずクラブのひとりで、本名は稲尾真季というそうです。お笑いながら、元看護師という経歴を持つ異色の存在なんですね。で、なんか柔道の経験もあるようです。お笑いをやってるがゆえにあんな感じなだけで、実はまじめでしっかり者なのかもしれませんね。
では通常ではありえない超異次元な顔合わせ、見てみましょう。
豊登(左) オカリナ(右)
これは、職場の同僚とスーパーでばったり。娘さんも一緒で、あら~お父さんに似てるわね~。いえ、母に似ているとよく言われます。あらそうなのぉ~。お母さんの方は見たことないから、お母さん見たらそっちに似ているのかしらねぇ?でもお父さんにも似てるわよ~って感じの似方ですね。
いやしかし、本当に親子が似るような似方ですね。まんべんなく似ているというか・・・目はお母さんだけど、輪郭とかはお父さん?みたいな感じですよね。それにしても、これほどリンクしない顔合わせもないですね。豊登は98年に亡くなっていますし、オカリナさんが生涯で豊登の存在を認識する日もないでしょうからね~。これまた不思議ですね。
さて、お送りしてまいりました似ている特集、いかがでしたでしょうか?
現在70億人を超える地球人口。これだけの人がいるなら、自分とそっくりな人がいても何ら不思議ではありません。生まれたところも人種もちがうのに似ているという不思議。でも本当にたまたま似ているだけなんでしょうかね?人間が生まれることに意味があるなら、遠く離れた場所で自分に似ている人がいることには一体どんな意味があるのかな・・・人はそれを知るために、似ている人を探して、会っているのかもしれませんね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。