※今回はシリーズ全9回になります。コメント欄は最終回で開きます。よろしくお願いします。
海外武者修行時代の馬場さん。不敵な笑みを浮かべながら着物で入場する・・・まさに日本の悪役レスラーという感じだ
先輩「さて、前回からの続きだが・・・力道山の死を境に東郷の身にいろいろなことが起き出すが、ここはまず力道山の殺傷事件について簡単に説明しておこう」
探偵「お願いします」
先輩「力道山は飲みに行ったニュー・ラテン・クォーターで、トイレに行った際に暴力団員であった村田勝志と、すれちがい様に足を踏んだ、踏んでないで激しい口論となった。やがて口論は喧嘩に発展。力道山が村田を殴打したところ、力道山は村田が持っていたナイフで刺される形となった」
探偵「はい」
先輩「力道山は刺された後、すぐ病院に行かず、また店で酒を飲み続けたという。しかし、出血が止まらなかったため帰宅。応急処置こそしたものの結局この日は病院には行かなかった」
探偵「いくらプロレスラーがタフでも、これは無謀すぎますよ・・・」
先輩「だよね・・・力道山は傷が治るのが早い体質だったそうなんだけど、いくらなんでもこれは自身の肉体を過信しすぎてしまったよね。で、翌日、東京・赤坂の山王病院へ入院する。すぐに手術をし、このときは手術に成功し回復の兆しを見せたが、ちょうど1週間後に腹膜炎による腸閉塞を起こしたため再手術を行った。この再手術は一旦は成功したと報告されるが、この手術からわずか約6時間後に力道山は死亡した・・・という経緯だ。今回の本題ではないのでかなり説明は省略したが、こんな感じだ」
探偵「戦後の日本に夢と希望を与えた、国民全員が知っていたヒーローの突然の死・・・想像もできないような衝撃だったでしょうね」
先輩「ああ、今にしたって、これだけの衝撃はないだろうね」
探偵「そこで気になるのが東郷です。力道山は生前は、ほとんどの人に自分のことを先生と呼ばせていたそうです。が、東郷だけは“リキさん”と呼んでいた、呼べたんです。そして力道山も、日本のプロレス界では誰も力道山には頭が上がらないほどの、そんなすごい存在なのに東郷のことだけは"東郷さん"と呼んでいたそうです」
先輩「たとえば北島三郎を“サブちゃん”て呼べる芸能人がリアルに何人いるか?って話だよね 」
探偵「そうなんです。他にも、ブッキングはもちろん、こういうときはどんな風にすればいいか?こういうときはどんな試合を組めばいいか?など、思うところはすぐ東郷に相談していたそうですからね。日本に東郷がいないときはそれこそ国際電話をして話していたそうなんで、ふたりの信頼、信用がどれほどだったかがわかります。そんな関係の力道山が亡くなったとき、東郷の気持ちはどんなだったかなぁと・・・」
先輩「それを思いながら、力道山死後の東郷の動向を辿ってみよう」
探偵「はい。前回も触れましたが、事件の翌日、このとき東郷は本来帰国するはずだった予定を変更し日本に残留していました。そして15日、力道山が亡くなるわけですが・・・力道山の葬儀も行われていない翌16日に日本プロレスはレスラー、関係者を招集し今後について話し合いを行っています。そして翌17日、日本プロレスは今後の運営について発表します。内容は、今後の日本プロレスは豊登、遠藤幸吉、吉村道明、芳の里を軸に4人の合議制でやっていくというものでした」
先輩「日本プロレスは早急な対応をしたわけだが、日本に残っていたにもかかわらず、ここに東郷の名前はなかったわけか・・・」
探偵「そうですね、完全に蚊帳の外状態です。この流れを見ると口出しする隙さえ与えてない感じです」
先輩「まるで力道山の死が合図のような日本プロレスの東郷への対応だよ」
探偵「まったくですね。そして20日、力道山の告別式の日にリキ・スポーツパレスで行われた追悼試合で、メインで行われた豊登vsバディ・オースチンの試合のセコンドに東郷がつきます。結局これが東郷の日本プロレスでの最後の姿となり・・・そして24日、クリスマス・イブの夜に東郷は帰国してしまうわけなんです」
先輩「当初は東郷がバディ・オースチンと試合するはずだったが、日本プロレス側が東郷にやらせたくないので変更させた、なんて話もあるんだね。それにしてもクリスマス・イブの夜というのが・・・なんだかせつないね」
探偵「ですねぇ・・・力道山が亡くなったあとのこの日本プロレス側の対応。東郷に対する手のひら返しが見え見えです。守銭奴、銭ゲバ、嘘をつくなど、とにかく日本プロレスや関係者の人間からの東郷の評判は圧倒的に悪かった。嫌がっていた人が多かったわけですね。しかしプロレス界で絶対的な存在だった力道山が東郷を親っていたことで、そこは誰にも突っ込めない点だったのでしょう。その反動なんでしょうけど・・・」
先輩「欲しい外国人レスラーがいれば、それが大物でもすぐに来日を実現してくれた。そして困ったときにはいつも相談に乗ってくれた頼りになるパートナーだった。ブッキング料やギャランティーは確かに高くついたが、それは仕事に対する当然の金額で問題ない点だった。力道山からすれば、なくてはならない存在だったんだよね。しかし他の日本人レスラーからすれば、そここそ不愉快この上ない点であり、おもしろくなかった点だったんだ。なんで力道山はあんな東郷を親い、言いなりになり大金を落としているんだ?と」
探偵「他から見れば、そんな感じだったんでしょうね。しかし、その力道山が亡くなったことでタガが外れ、東郷を排除する動きが加速したのでしょう。でも力道山の死去の翌日とは早すぎる気がしますね」
先輩「待ってました!!と言わんばかりだよなぁ」
探偵「いくら東郷でも、ちょっと可哀想な気がします。しかしその後、まさに追い払われたかのように24日にひっそりと帰国した東郷でしたが、この帰国後に東郷らしいといえば東郷らしい行動に出ます。馬場さんアメリカ定着計画、いわゆる馬場さん引き抜き工作ですね」
先輩「そうか、このときは力道山からの頼みで東郷が海外で世話をしていたんだね。弾かれながらも、切り札のカードは東郷が持っていたわけか」
探偵「そんな感じですね。馬場さんはワールド大リーグ戦が終わった後、再び海外武者修行に出ていたので、力道山が亡くなったときは海外にいました。海外で東郷のマネージメントの元、プロレスをしていたわけなんですね。で、東郷はこのときはフレッド・アトキンスの元に馬場さんを預けていました」
先輩「アトキンスは力道山が海外武者修行時代に勝てなかったレスラーのひとりだね。コーチとしてはトレーニングがとにかく厳しかったそうで、ついていけなくて逃げ出したレスラーは何人もいたそうだ」
探偵「まさしく言われ通りの頑固オヤジだったんですね。で、馬場さんは力道山の訃報をこのアトキンスの元、当時の遠征先だったカナダのオンタリオ湖畔のクリスタルビーチで聞いたそうです。その後、クリスマスが過ぎた頃から馬場さんは、アトキンスからアメリカ定着を進められることになるんですね」
先輩「やがて馬場さんと東郷は会って直接契約の話をすることになるわけだね。力道山がいなくなったから日本のプロレスはもうだめだ、終わりだ。力道山が死んで、日本のプロレスはだめになったからアメリカに残れと・・・ちょうど東郷が帰国して、馬場さんに伝えられて・・・クリスマスがターニングポイントだったんだなぁ」
探偵「当時、海外では東郷、力道山以上に有名だった馬場さんは力道山が亡くなった翌年の2月8日にはデトロイトでルー・テーズのNWA世界ヘビー級へ、17日にはニューヨークでブルーノ・サンマルチのWWWF世界ヘビー級へ、28日にはロサンゼルスでフレッド・ブラッシーのWWA世界ヘビー級へそれぞれ挑戦するほどになっていました。当時の世界3大タイトルに1ヶ月内で挑戦するなんてことはまずありません。いわゆる“客の呼べるレスラー”トップの証明ですね」
先輩「着物に下駄。当時はヒゲも蓄えていて、試合前には相撲の四股も踏んだことがあったという。まさに東郷スタイルを出しつつ、でも試合は外国人でも見当たらないような大きな体ながら素早く技を繰り出して、その姿はダイナミックそのものだった。東郷の全盛時に劣るどころか上回っていたほどの人気と知名度だったそうだよ」
探偵「確かに、それまでの日系人レスラー、日本人レスラーにはないものが馬場さんにはありましたからね」
先輩「そうだね。だから・・・東郷は日本プロレスに追い払われたこともあり面白くなかったのは、これは事実。だから馬場さんをアメリカに定着させ、日本プロレスに大打撃を与えてやろうとしたと・・・そして馬場さんを専属でマネージメントして収入を得たかったというね、こういう話はよく出る。でもそこは置いといて。実際、馬場さんにとってはアメリカでやっていくというのはどうだっただろう?」
探偵「自分も思います。金銭や確執の問題は別にして、力道山がいなくなったから日本のプロレスはもうだめだ、終わりだ、だからこっちに残れというのは、あながち間違いではなかったと思います。日本では力道山は知名度が段違いだったし、人気も力道山に及ぶレスラーは誰ひとりいなかった。カリスマ性もかなうレスラーいなかったし・・・国民はプロレスを"観て"いましたが"見て"いたのは力道山でしたからね。そんな力道山がいなくなったプロレスを、国民は見続けたかどうか・・・」
先輩「力道山亡きあと、日本のプロレスを国民に見続けてもらうには馬場さんの凱旋しかなかった。しかし、もうすでにアメリカではトップで名が通っていて安定していた馬場さんは“力”のあった東郷のマネージメント下でやるなら、日本へ帰らず定着しても実はよかったのかもしれないよね」
探偵「それは言えると思いますね」
先輩「そんな馬場さんが東郷に呈示された契約書の内容は、契約金が16万ドル、年収が27万ドルというもので、契約期間10年というものだったんだ。この数字を見てどう思う?」
探偵「当時のレートで1ドル360円、かける27万ドルだから・・・9720万円。あれ?確かに高額ですがトップアスリートにしては、なんかあんまり・・・」
先輩「ふふふ・・・この頃の大卒のサラリーマン初任給はいくらだか知ってるか?」
探偵「いえ・・・」
先輩「平均で約2万円だよ」
探偵「に、2万円!?ということは年収が12ヵ月で単純に24万円だから・・・一般人の年収の、よ、405倍!!」
先輩「馬場さんが呈示された年収は今で言えば、サッカーのロナウドやメッシの年棒を見て、すげ~!!って言ってるような感じなんだろうな」
探偵「す、すごい・・・」
先輩「しかし、これだけの金額を呈示されながらも馬場さんはこの契約をしなかった。トレーナー役のアトキンスは、東郷もそう言っているからと言って、こちらの話は聞かない。直接東郷と話しても、力道山が死んだから日本のプロレスはもうだめだと口にするばかりだった。馬場さんは力道山死後の日本で東郷がどんな扱いをされたのか知らなかったが、ふたりに何か異様さを感じて、その場で決断しなかったんだ」
探偵「すごいですよ。いくら異様に感じても・・・これだけの金額を提示されたら普通ならほとんどの人間の気持ちはグラつきますよ。しかしここは馬場さんの直感と、慎重でクレバーな点が出たわけですね」
先輩「ああ。しかし、馬場さんが決断をしなかったのは、それだけではなかったんじゃないのかな」
探偵「と、いうと?」
先輩「馬場さんが初めて海外遠征した61年はマンモス鈴木と芳の里との2人が一緒だったが、このとき馬場さんはキャリアが浅かったので、海外ではすぐに試合は組まれなかったんだ」
探偵「確かに芳の里はもう数年のキャリアでしたし、マンモス鈴木も馬場さんより4年先輩でした。馬場さんはまだデビューしてから1年未満でしたからね」
先輩「そうなんだ。なので渡米したばかりは、ふたりは試合、馬場さんは休み、というのがよくあったらしくてね。で、そこで馬場さんが言われたのが、試合のない日は寝ていろ。練習すると腹が減って、その分食事代が高くつくから、なんだよ。実際にはユーは試合がないから寝ていなさい、みたいな感じだったようだけどね」
探偵「海外武者修行時代の初期に言われたんですね」
先輩「うん。馬場さんの著を見る限りね。このときの遠征組3人は海外で東郷が手配した一緒の部屋に住み、食糧も毎日、東郷自ら車で来て支給していたそうなんだが、レスラー3人が食べるわけだから食糧はいっぱいいっぱいだったようなんだよ。で、そこにきて試合のなかった馬場さん。東郷にしてみれば、ファイト・マネーもまだなのに食事代が付きすぎだ・・・って感じだったんだろう」
探偵「働かざる者食うべからずとは言いますけど、でも、これは仕方ないんじゃ・・・だって試合組まれないのは馬場さんのせいじゃないし、だからってひとりだけ食べないわけにもいかないですよ」
先輩「確かにね。しかし馬場さんはトイレのトイレットペーパーも使いすぎると怒られてたそうだからね」
探偵「と、トイレットペーパーを使いすぎ!?」
先輩「そうそう。試合でもね、試合に出始めた頃はヘマした日には大勢のレスラーがいる控室で、誰が見ていようが人目もはばからず、あの下駄で頭をボコボコに殴られてたそうだんだよ」
探偵「そんなことが!?」
先輩「うん。でね、ここなんだよ。これさ、おれ思うんだけどね・・・」
探偵「なんですか?」
先輩「東郷は馬場さんのことキライだったんじゃないかなって」
探偵「あ~それは感じずにはいられないです。そりゃ東郷はお金に関しては細かくてケチなところが多かったようですけど、馬場さんに対するこれは倹約家がどうのという範疇じゃないですよ。完全にキライな人に対する当て付け、イヤミと受け止められても仕方ない。大体キライじゃなきゃトイレットペーパーなんて、そんなわかりずらいアラ拾えないですよ」
先輩「そうだな。トイレットペーパーも、さすがに1回で1個なくなっちゃうんならわかるけどね。まあ、東郷は金額面でいろいろ言われてるけど、プロレス以外の、そういう生活の細かな点でも金銭に繋がることには気を張るって話も実際出てくるから、仕方がなかったのかもしれない。そしてそこをまた嫌う人もいっぱいいるわけなんだが・・・でも海外で東郷の世話になった人や関係者には、東郷の温厚さを語る人もいるんだよ」
探偵「温厚さ?ですか?」
先輩「よくしてもらって、食事をごちそうになったり、葉巻をプレゼントされたりしたというね。新日本プロレスで解説をしていた桜井康雄さんなんかは親っていた方で・・・レスラーでも関係者でも、そういう人は結構いたようなんだ」
探偵「東郷が食事をごちそうする・・・うーん、想像がつかないなぁ。でも、温厚といえば馬場さんは温厚で優しい性格だったので、嫌う人は少なかったとよく聞きますが・・・東郷は馬場さんには生理的に無理な何かがあったんでしょうか?」
先輩「うん。というか、馬場さんが悪い訳でもなく東郷が悪い訳でもなく・・・ふたりはきっと相性が悪かったんだと思うんだよ。職場や学校にひとりはいるような、いわゆる"合わないヤツ"だったんだとおれは思うんだ。ホラ、いるだろ?別になんかされてるわけでもないのに、なんかこいつは話しづらい、一緒にいづらい、いたくないってヤツ」
探偵「いますね。普段なんかされてるとか、イヤミや悪口言われてるとかはまったくないんですけど、なんかとっつきにくい相手。生理的に無理というんでしょうかね。明らかに合わない人います」
先輩「そう、だから・・・馬場さんは東郷と契約をしなかったんだと思う。馬場さんは東郷を好きになれなかったんだよ。2度目の海外武者修行のときは東郷も下駄で殴ったり食費のことも言わなくなったどころか、ロサンゼルスで試合のときには東郷が自宅に泊まらせ面倒見るほどの立場になった。認められたんだと思う。でも、合う合わないのは別だし、一度イヤだと思ったり嫌いになったら、人間はずっとイヤで嫌いなもんさ」
探偵「でも職場にイヤで嫌いなヤツがいても仕事は簡単に辞められないです。仕方ないことですから・・・だから遠征中は一緒に"仕事"していた。しかし決断時には拒んだと」
先輩「うん。まあ、おれの個人的な考えだから本当のとこはわかんないけどね」
探偵「なるほどなぁ・・・」
先輩「馬場さんみたいな人、義理堅い人っていうのはね・・・義理堅い人ってのは恩を忘れないんだよ。だから義理堅いんだ。だから裏を返せば、嫌な目に遭わされたこと・・・恨みも忘れないんだよ」
探偵「なるほど・・・」
先輩「だから・・・東郷と馬場さんが気の合う同士だったとしたらね、プロレス界の歴史が変わっていたかもしれないね。今、現在の日本のプロレスがどうなっていたかわからないよ」
探偵「そうか。もし馬場さんが東郷と力道山みたいに馬が合っていたらすんなりアメリカに定着していて、そこで以降のプロレス史が続いていたということか・・・馬場さんのいなかった日本プロレスは豊登で終わってしまい、日本のプロレス自体が、そこで消滅していたかもしれないってことですよね」
先輩「そうだね。アントニオ猪木ほどのレスラーならそのままアメリカで通用し定着しただろうけど・・・でも、そうなると日本プロレスでBI砲は誕生しなかっただろうし新日本も全日本もできなかっただろうなぁ」
探偵「そうなると他の日本人レスラーの運命は正直どうなったか?これはわからないですしね・・・プロレス自体はアメリカには残っただろうからNWAやWWEはあったかもしれないけど、きっとアメフトみたいな感じにアメリカ独特のプロレスになっていたかもしれない。馬場さんが日本プロレスに戻って来なかったら・・・これは本当に運命の別れ道だったと」
先輩「馬場さん様様だよ」
※だからこのブログでは開設以来、馬場さんを必ず"さん"付けで表記しているのです。けして元子さんにラブだからではありませんよ。流星仮面二世(談)
先輩「結局、馬場さんは東郷と契約をせず日本へ戻ってきた。力道山亡きあとエースとなり日本のプロレスの火を守ったんだ。しかし・・・力道山の死を境に、激変した東郷の運命。その運命はこのあとだ」
その7に続きます。