その3 ①からの続きです。
先輩「さて、前回はマディソンを介したゴッチ、ジェンキンス、ハッケンシュミットの、大戦前のプロレスのピークを話したわけだが・・・かくして1914年7月から世は第一次世界大戦に突入する。ということで、ここを一区切りとし、ここからは大戦後のプロレス史として進めていこうと思う」
探偵「はい」
先輩「まず1911年にゴッチと2度目の対戦を行ったハッケンシュミットだが、この試合以降リングに上がることはなく、これが事実上の引退試合となった」
探偵「うーん、結局ハッケンシュミットは33歳で引退となってしまったわけですね。引退後は哲学書を数々出版し、ベストセラーを連発。晩年は哲学者として活動したと・・・いうわけですか。まったく人生が方向転換してしまった感じですが、ゴッチとの戦いでプロはイヤになってしまったんですかね?」
先輩「哲学を持ってるくらいだからね。バーンズを筆頭としたゴッチ陣営のやり方に、何か感じるものがあったのかもしれない。ハッケンシュミットは生涯、このアメリカでの試合のことは口をつぐんで語らなかったそうだからね」
探偵「そうなんですか・・・先輩、ゴッチの方はどうだったんですか?」
先輩「ゴッチの方は、このあたりから1915年にかけ、ほぼ毎年のペースで引退、復帰を何度も繰り返しては、あまりリングに上がれない状態となってしまったようなんだ」
探偵「先輩、この時代に"引退ビジネス"があったとは思えません。ゴッチに何があったんでしょうか?」
先輩「はっきりとした詳細はわからないんだが、健康状態に問題があったのではないか?という説が有力だ。で、それが直接の原因どうかは定かではないが・・・ゴッチはハッケンシュミットとの対決からわずか6年後の1917年末に39歳という若さで亡くなってしまうんだ。死因は胃ガン説から尿毒症説、性病説と、いろいろ残っている。体調がよくなかったのは、まちがいなかったみたいだね」
探偵「人知れず、ゴッチにもいろいろあったんでしょうね。戦前の3人、残るひとりはジェンキンスですが、ジェンキンスはどうなったんですか?」
先輩「ジェンキンスもゴッチとハッケンシュミットの対決が行われた翌年の1912年に引退となっている。運命なんだろうか・・・1900年代初期に一時代を築いたレスラー達は、この大戦を境にリングから姿を消していってしまったんだ」
探偵「うーん、なんだかなぁ・・・」
先輩「しかし、新しい波もやってくる。マディソンでのプロレスも変化を見せてくるんだ。まずは1915年、6月25日。スタニスラウス・ズビスコの弟のヴラディック・ズビスコとアレックス・エイバーグがマディソンで世界グレコローマンというタイトルをかけ対戦している。結果は3時間45分でドローとなっている。そして同年10月25日には、同じくマディソンで世界グレコローマンのタイトルをかけて再戦も行っているんだ。フィニッシュは不明たが、このときはエイバーグが勝利している」
探偵「先輩、この世界グレコローマンというタイトルはハッケンシュミットのものとはちがうんですか?」
先輩「ああ、この世界グレコローマンというタイトルは、どうやらアメリカ版のタイトルのようだ。実はこの時代は認定される先々で"世界"と冠するタイトルがたくさんあって、なかなか混乱するんだよ」
探偵「◯◯版・世界ヘビー級みたいな遍歴は現在でも多く見かけますが、そんな感じですか」
先輩「そうなんだ。調べてると結構出てくるんだが・・・実のところ把握しきれないので、このあと出てきても深く考えないで聞いててくれれば」
探偵「はい」
先輩「で、ヴラディック・ズビスコだが・・・このレスラーは、この当時のマディソンやニューヨーク地区のプロレスを調べていくと、それこそ頻繁に名前を目にするんだが、不思議なことに写真はおろかイラストすら、まぁ~出てこない。詳細も出てこないんだ。だからどんなレスラーか、ぜんぜんわからないんだよ。アレックス・エイバーグもしかりね」
探偵「でも、兄のスタニスラウス・ズビスコは情報があるんですね」
先輩「ああ。マディソンではもちろん試合をしているし、統一世界ヘビー級王者としても名を残している。インドのグレート・ガマと伝説的な戦いをしたとか77歳まで試合をやったとか、ハーリー・レイスのコーチをしたとか、いろいろわかることがる。それにプロレスだけでなくプロモーターとしても活動していたし、映画にも出演したことがあるそうだから、当時の活躍や知名度が今なお伺えるんだよ」
スタニスラウス・ズビスコ
探偵「確かに、わかることがたくさんありますね」
先輩「加えて、おれらの世代なんかは・・・昔のプロレス百科的な本にはズビスコは結構出てくる存在だったんだ。だから詳細はわからずとも名前は知っているってことが多かった。でも、弟の話はまったく出てこなかったね。今回調べるまで、いたのすら知らなかった」
探偵「う~ん。しかしヴラディック・ズビスコは実際には後年までニューヨークで活躍したレスラーだったわけですよね。マディソンでメインを張るほどの」
先輩「そうなんだ。だから今回、可能な限りヴラディック・ズビスコのことを調べてみたよ」
探偵「何か掴めましたか?」
先輩「わかったことは、1891年11月20日生まれ。ポーランドのクラクフ出身。父親はオーストリア政府の役人で、スタニスラウス・ズビスコ他、5人兄弟のひとりだったということだ。いつ、どういう経緯でプロレスを始めたのかは不明。しかしクラクフ大学で学び、ウィーン大学で法におけるなんらかの学位を取得していたという記述があった。それとピアノの演奏に優れ、かなり優秀なピアニストだったとの記述も見られた。これが写真だ。おそらくはっきりと写ってるのは、これしかないと思う」
ヴラディック・ズビスコ
探偵「これが・・・すごい!!なんて上腕の太さだ。マディソンでメインを張るのも納得です。しかし父親が政府の役人で、学位取得にピアニストとは・・・失礼ながら、写真からは結び付きませんね」
先輩「ああ、確かに・・・ピアノとはとても一致しないね。それにしても目が行くのは、やはりこの肩から上腕、前腕。そして手の大きさだ。この時代にこんなレスラーがいたとは驚きだよ。しかもレスリング出身とかカーニバル・レスラー出身という経歴が多いこの時代にして、大学で学位まで取得していたんだから、異例だっただろう」
探偵「インテリ・レスラーの第一号かもしれないですね」
先輩「そうだなぁ。で、どうやら1910年代にアメリカに移住。アメリカでの初試合は1913年1月17日にシカゴで"アレクサンダー・アンジェロフ"というレスラーとの対戦だったらしい。結果はヴラディック・ズビスコが勝利している」
探偵「うーん。年代から言うと、アメリカ初戦で勝利して、この2年後にはマディソンでメインに出ているわけですよね。ヨーロッパでのキャリアは結構あったということなんでしょうか?」
先輩「そのあたり、ヨーロッパでの実績は不明なんだが・・・少なくとも大学でレスリング系の何かをやっていて実績もないと、この短期間でメインに躍り出るのは難しいだろうからね」
探偵「やはりレスリング経験者だったのかなぁ?」
先輩「このあたりは謎だなぁ・・・しかしキャリアの点において、ひとつ興味深いことがあった。記述は1934年7月28日のものだ。このときブラジルでレスリング(キャッチ)とブラジルの格闘技であるルタ・リーブリの対抗戦が行われたようなんだが、このときヴラディック・ズビスコが出場し、なんとエリオ・グレイシーと対戦しているんだよ」
探偵「エリオ・グレイシー!?あのヒクソンやホイスのお父さんの!?」
先輩「そう。グレイシー柔術のね。で、このときのルールなどはわからなかったんだが、ヴラディック・ズビスコはエリオと引き分けしているんだ」
探偵「すごい!!やはり何かしら実績があり、実力のあったレスラーだったんですね。しかし、これだけの経歴がありながら、ほとんど世に知られていないとは・・・こんな強豪が歴史に埋もれていたなんて」
先輩「ヴラディック・ズビスコは、確認できる範囲では1938年までマディソンでの試合に名前が見られるから、ニューヨークでは相当長く試合に出ていたんだと思う。実力もあったようだし、それに・・・兄弟レスラーってのが当時はいなかったはずだから、そういう意味でも後世に知られてていいと思うんだけどなぁ・・・」
探偵「本当に不思議ですね・・・」
先輩「ちなみに昔、全日本プロレス中継で解説をしていたライターでプロレス評論家だった、おなじみ田鶴浜弘さんはヴラディック・ズビスコの試合をマディソンで観ているようだが、詳しいことは残念ながらわからなかった。このレスラー、個人的にはもっと調べてみたいが、おそらく資料がな、出てこなそうだな」
探偵「そうですね。今後、なにか発掘されればいいですね」
先輩「そうだな。さて・・・その後の流れに移行しよう。明けて1916年になるとマディソンにまた新しい波が起きる。"胴締めの鬼"と呼ばれたジョー・ステッカーが登場するんだ」
ジョー・ステッカー
探偵「胴締めの鬼?」
先輩「そう。ステッカーは1893年、ネブラスカ出身。フランク・ゴッチと同じく農民の子として8人兄弟の末っ子として生まれ、小さい頃からトウモロコシ畑で手伝いをして育ったという。傍ら、レスリングと水泳を行っては万能だったそうだ。やがて18歳でローカルでプロデビューすると、フランク・ゴッチの師でもあったファーマー・バーンズがレスラーを引き連れネブラスカにやってくるんだが・・・」
探偵「何かあったんですね」
先輩「そう。バーンズはそのとき連れていたレスラー、ベンジャミン・フランクリン・ローラーの挑戦者を募ったんだ。ステッカーは、これに名乗りを上げ対戦する。若きステッカーは、のちにそのニックネームにもなる胴締め、ボディシザースを相手に決め45分にも渡り動きを封印。どうしようもなくなったローラーがステッカーの足に噛みついて反則負けになるという異例な結果となった。こうして、すごいのがいたとバーンズに見出だされ、ニューヨークに進出。1920年代を代表するレスラーとなるわけさ」
探偵「農民の子からレスラーになり、地元に来ていたレスラーと戦い名を上げ、バーンズに見出だされやがて世界に・・・本当にフランク・ゴッチに似てますね。しかし恐るべしはこのボディシザースですね」
先輩「ああ。ステッカーは自分の家で扱っていたトウモロコシなどの穀物を詰めた麻袋を足で挟んで、締めつけ破裂させるのが特技だったらしいんだ。おもちゃや娯楽がない時代だから、おそらく小さい頃から袋で遊んでいるうちに強靭な脚力を持つこととなったんだろう。しかしこれがレスラーとなり活かされ、強烈なボディシザースを生む結果となったわけだね」
探偵「こ、これは!!足で挟んで腕で引っ張ったなら麻袋は横に破けるはずですが、これは縦に破けていますよ!!本当に足の挟む力だけで破裂させたってことじゃないですか!!胴締めの鬼・・・うなずけます」
先輩「そう、まさにこの必殺のボディシザースを武器にステッカーは1915年7月、ゴッチ引退表明から統一世界ヘビー級タイトルの暫定王者となっていたチャーリー・カトラーを下しタイトルを獲得するんだ」
探偵「なるほど。こうして王座を引っさげ堂々マディソン初登場というわけですね」
先輩「そう。こうして1916年1月27日、ジョー・ステッカーがマディソンでマスクド・マーベルという覆面レスラーと統一世界ヘビー級選手権を行うんだ」
探偵「え!?覆面レスラー!?この時代に覆面レスラーがいたんですか!?」
先輩「うん。今回の話の一番最初のマディソン創世記の項でほんのちょっとだけ触れたけど、プロレス史上、最も古い覆面レスラーの記録は1873年、フランスのパリで試合に出場した"ザ・マスクド・レスラー"とされている」
探偵「はい」
先輩「で、このマスクド・マーベルは"ザ・マスクド・レスラー"に次ぎ、プロレス史上2番目にプロレスに現れた覆面レスラーにして、アメリカのプロレス史上初のマスクマンだったんだ」
1915年頃に突如に現れた、アメリカのプロレス史上では初となるマスクマンのマスクド・マーベル。正体はモート・ヘンダーソン(向かって右)というレスラーらしい
全体像を見比べると、なで肩でリーチにもちがいがあるように見えるが・・・詳しいことは謎である
探偵「驚きました。こんなレスラーがいたことも驚きましたが、アメリカ初のマスクマンがマディソンで統一世界ヘビー級に挑戦していたとは・・・」
先輩「しかし、このマスクマン、マスクド・マーベルの歴史的出場の経緯は、まさに瓢箪から駒というか、意外な展開からだったんだ」
探偵「意外!?」
先輩「うん。発端となったのが1915年11月から1916年1月まで、ニューヨークのマンハッタン・オペラハウスというところで開催されたインターナショナル・トーナメントという大会だったんだ」
探偵「オペラハウス?マディソンではなかったんですか」
先輩「ああ。この大会はサム・ラックマンという人物をプロモーターに、ヨーロッパで行われるレスリング・トーナメントのアメリカ版のような大会としたようだったんだ。出場者は先にも出た、世界グレコローマンのタイトルを争っていたヴラディック・ズビスコとアレックス・エイバーグ。前・統一世界王者のチャーリー・カトラー。のちにルー・テーズの師となるエド"ストラングラー"ルイス。スッテカーを見出したきっかけとなった、当時の人気レスラーだったベンジャミン・フランクリン・ローラーなど。当時の有名選手が集結したすごい大会だったようだよ」
インターナショナル・トーナメントの出場レスラーの記念写真
探偵「すごい人数ですね。しかもみんな強そうですよ」
先輩「しかし、この強そうなメンバーの集う大会の開幕戦に、なんとマスクド・マーベルが突然に姿を現し参加を表明したらしいんだ」
探偵「開幕戦に謎の覆面レスラーが!?これは驚きました。この時代のプロレスに、そういうことがあったとは・・・」
先輩「この写真からもわかるように、まだまだレスリング色は濃く残っていた時代だからね。こういう出来事があったと知ると本当にびっくりするよ。で・・・」
探偵「はい」
先輩「このインターナショナル・トーナメントも大詰めを迎えようとしていた1916年1月26日。公式戦でエド"ストラングラー"ルイスとヴラデッィク・ズビスコの試合があったんだが、なんとステッカーが、この試合の勝者と統一世界ヘビー級のタイトル戦を行う意思があると発表したんだ」
探偵「他に行われていた大会の勝者に現・統一世界ヘビー級王者が対戦を迫ったわけですか。うーん、でも、この時代のこれまでの流れから察するに、これはあり得る話ですよね。おそらくこの公式戦の勝者が優勝を決めるような状況で・・・だからトーナメント優勝者と統一世界ヘビー級王者が対決して一番を決めようじゃないかって流れですよね」
先輩「まさしく大会は3日後の1月29日にグレコローマン部門がエイバーグ、キャッチ部門がルイスの優勝で幕を閉じているんだ。ルイスはデフェンディングチャンピオンだったから決勝のみという記録も見られたので、ルイスとズビスコの勝者に挑戦というのはイコール優勝者との対戦ってことになるだろうから、流れ的には考えられると思う。しかし、この場合は主催がちがったわけだから・・・」
探偵「今で言うならチャンピオン・カーニバル優勝者に対し、IWGPヘビー級王者が戦う準備があると発言するような感じでしょうか」
先輩「ニュアンス的には近いものがあるね。だからか・・・そのときのことがこう残っている」
探偵「はい」
先輩「この表明を受けてインターナショナル・トーナメントのプロモーターだったサム・ラックマンとマディソンのプロモーター、つまりステッカー側のプロモーターのジャック・カーリーが協議して、ニューヨークの地方裁判所へ調停を申請したとあるんだ」
探偵「調停申請・・・」
先輩「うん。で、これを受けて裁判所から、ステッカーはマスクド・マーベルと対戦してはという仲裁案が提案されたという」
探偵「そんな経緯からだったんですか・・・」
先輩「結局こういった流れから1916年1月27日、ジョー・ステッカーがマディソンでマスクド・マーベルと統一世界ヘビー級選手権を行う運びとなった、というわけなんだ。結果はステッカーが勝ちタイトルを防衛している」
探偵「うーん。本当に予想外の、意外なところから発生した試合だったんですね」
先輩「で、ちょっと話は脱線するんだけど・・・」
探偵「なんですか!?」
先輩「実はマディソンって、かつてはマスクマンの出場は禁止されていたんだよ。過去に、覆面レスラーは覆面を脱いで素顔で出場しなければならないっていうのがあったんだ」
探偵「そうなんですか!?」
先輩「うん。それで、それが初めて解かれたのがミル・マスカラスで、1972年12月18日のザ・スポイラー戦から、となっている」
探偵「確かに・・・ネットなんかで調べるとそう出てきますね。Wikipediaにもそう載ってますよ。これが何か?」
先輩「気づかないか?」
探偵「・・・何にですか?」
先輩「覆面レスラーさ」
探偵「あー!!こ、これって!!」
先輩「そう。実際には、マスカラス登場から遡ること56年も前にマディソンのリングに覆面レスラーが上がっていたってことさ」
探偵「厳密に言えばマスカラスはマディソンの歴史上、2番目に登場した覆面レスラーということだったのか!!マスカラスは"覆面を被ったままMSGに登場した初の人物である"というのは誤りだったんだ。こ、これは歴史的発見じゃないですか!!」
先輩「そうだね。これは今までプロレス史で取り上げられなかった、いわば盲点に入ってしまっていた事実だと思う。今回マディソンのことを調べなければ、わからなかった新発見だ」
探偵「テーズベルトのブラッシーモデルの存在、そしてグレート東郷の日本プロレス乗っ取りは陰謀説、以来の発見ですね!!」
流星仮面二世「ホントですね!!でも発見したところで認識はされませんけどね~」
探偵「ん?誰ですか今のは?」
先輩「ああ。気にするな。今のは手塚治虫作品でいうとこのヒョウタンツギみたいなもんだから」
探偵「そうですか。しかし、うーん。話を戻して、裁判やら調停やらと聞いて、いろいろなことを予想してしまいましたが、このあたりになると至るところ"プロモーター"の存在が気になってきますねぇ」
先輩「そう。この頃になってくると、レスラーの他にプロモーターという言葉を多く目にするようになってくるんだ。プロモーター同士の仲間派閥で力のあるところが出現したり、その派閥の中からまた分派ができたりして・・・プロレス興行では、この派閥が相当な影響力を発揮していたようだよ」
探偵「うーん、なんだか現在にも精通する話ですね」
先輩「ははは、そうだな。で、この時代から1920年代は、プロレス界はスタニスラウス・ズビスコ、ジョー・ステッカ一、エド"ストラングラー"ルイスの3人が3強としてプロレス界で軸となる時代、いわゆる"3強鼎立(ていりつ)時代"と呼ばれるものとなるんだが、このときニューヨーク地区はプロモーターのジャック・カーリーの力とカーリーの派閥力で、かなりの勢力となりマディソン以外の会場でも盛んにプロレスが行われていたんだ」
探偵「プロレスがひとつのカテゴリーとして完全に成り立ってきた、そんな感じであったんですね」
先輩「ああ。プロレスがひとつのカテゴリーとして成り立ち、そしてプロモーターを介し、プロレスがアメリカ中を回る形ができてきたのもこの時代からなんだ。このステッカーとルイスの対決は、その流れを作って行った対決でもあったんだよ」
探偵「なるほど。プロレス・マーケティングって感じですね」
先輩「そう。マーケティングとは"顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその価値を効果的に得られるようにするための概念とあり、 また顧客のニーズを解明し、顧客価値を生み出すための経営哲学、戦略、仕組み、プロセスを指す"とある。ふたりの対決は、このあたりを理解し成り立っていったのかもしれないね。各地区のプロモーターがウチでやってくれと誘致し、入札合戦も盛んだったようだからね」
探偵「どこでやっても必ず観客が入る、いわゆる"ドル箱カード"だったわけですね」
先輩「うん。そんなふたりの対決は1915年の初対決から1930年まで全米を又にかけ、実に19回行われていたんだ。しかし単にドル箱というだけでなく、試合はステッカーが6勝、ルイスが9勝し4つの引き分けという激しいものだったようだよ」
探偵「そういえば先輩、先ほどから名前が出ているエド"ストラングラー"ルイスですが、ルー・テーズの師であるというのはボクもわかるんですが・・・ルイスとはどんなレスラーだったんですか?」
エド"ストラングラー"ルイス
先輩「エド "ストラングラー" ルイスは1891年、ウィスコンシン州出身。1905年頃、14歳のとき一般の力自慢などを相手に戦うカーニバル・レスラーに挑戦しデビュー・・・これが一般的となっているが、14歳でフレッド・ビールを相手にデビューという説もあり、また14歳でなく13歳でデビューだったという説もあって、このあたりは謎が多く実はよくわかっていない。しかし1910年頃にカーニバル・ショーを行う一団と何年か地方巡業していたという記録があるので、どうやらレスラーとしてのルーツはこのあたりにあるようだ」
探偵「13、4歳で大人相手に戦ってたんですか・・・すごいなぁ」
先輩「その後、22歳のとき"絞め殺し"の異名をとったイヴァン"ストラングラー"ルイスというレスラーにあやかり本名のロバート・ハーマン・ジュリアス・フリードリックからエド"ストラングラー"ルイスに改名。統一世界ヘビー級王者として長きに渡り活躍したのはもちろん、プロモーターとしても活動し、派閥も持っていたんだ。とにかく当時プロレスへの影響力を持った人物だった。先に話したプロレス・マーケティングで言えば、現在に続くプロレスリングのビジネス形態を作った人物でもあったんだよ」
探偵「へぇ・・・レスラーでプロモーター、派閥もあって、そして人気と知名度は当時の大リーガーのベーブ・ルースと並ぶ存在だったんですね。しかしステッカーがボディシザーズで胴締めの鬼というのに対し、ルイスは"ストラングラー"ですか」
先輩「そう、ストラングルは絞めころす、窒息させるという意味を持つから絞め殺し人、ということになるが、ルイスはヘッドロックを得意としていたところから"絞め殺し屋"と呼ばれていたんだよ。こんな写真がある」
探偵「こ、これは!?」
!?
先輩「これは木製の人の形の頭に強力なスプリングをいくつも仕込んだルイス特製のヘッドロックのマシーンだ。ルイスは、これを絞めつけるトレーニング、そしてデモンストレーションをよく披露していたそうだよ」
探偵「なるほど・・・作物の袋を脚力で破裂させる胴締めの鬼vsヘッドロックのマシーンで力を誇示する絞め殺し屋。こういったパフォーマンスからも人を魅了する力、ファンを引き付ける力があったのが想像できますね。ドル箱になるわけだ」
先輩「そのドル箱カードだが、そのうちの2回を、ふたりはマディソンで戦っている。試合記録は、まず1918年4月26日。このときは2時間ドローで引き分け。そして同年11月3日。このときはステッカーが勝利し統一世界ヘビー級王者となる。ただし統一世界ヘビー級タイトル遍歴には、この日時の移動が見られないため・・・これは別の世界タイトルだったかもしれないな」
探偵「なるほどなぁ~。ゴッチ、ハッケンシュミット、ジェンキンスが去り、マディソンでのプロレスも変化を見せ始めた、いやプロレスが変化をし始めたという感じだったんですね。こうやって知っていくと、この時代のプロレスが本当に見てみたくなります」
先輩「そうだなぁ~。しかしこのときはまだテレビ自体が発明段階だし、プロレスがテレビと共に歩み出すのはまだ先。1920年代ではなぁ・・・おそらく映像は残ってないだろうなぁ」
ガチャ
所長「ふふふ・・・ところがどっこいよ」
探偵「え!!」
先輩「なっ!?」
所長「1920年1月30日にマディソンで行われたジョー・ステッカーとアール・キャドックの統一世界ヘビー級選手権は映像が残っているの」
探偵「ええ!!映像が!?」
先輩「本当ですかっ!?」
次回、プロレス名勝負伝へと続きます。