どうも!!流星仮面二世です!!
さて前回はプロレス最古の記憶のお話をしましたが(アンフィニッシュ~記憶の旅~)
名前が出ましたパク・ソンですね。ボクの記憶の中で馬場さんに変換されてしまっていましたが、そんな話のダシにしてしまったんではパク・ソンにあまりに申し訳ないので、今回は名レスラー伝としてパク・ソンを振り返っていきます。
パク・ソン(パク・ソンナン:朴松男)は韓国が"日本統治時代の朝鮮"のときの慶尚南道(キョンサンナムド けいしょうなんどう)出身、とあり、一般的に出回っているプロフィールによれば生年月日は「1943年4月11日生まれ」となっています。
しかし1941年生まれ、1945年生まれという説があり、はっきりしていないところがあります。連動して「1984年1月没」となっているこの没年にも諸説あり、生死に関しては謎が多く残されています。このあたりはパート2で触れることにします。
さて、先に"日本統治時代の朝鮮"出身という言葉が出ましたが、1940年代前半生まれということは第二次世界大戦中ということになります。察するとおり、世の中がとても混濁していた、大変だった時代です。
そういった時代背景からか・・・パク・ソンが出生からプロレスの世界に入るまで、どこでどのような生活を送っていたのか?幼い頃や学生時代はどうだったのか?家族や両親は?徴兵はしていたようですが、五段を有するというテコンドーや経験があるという韓国相撲シルムに関する明確な経歴情報もなく、このあたりは謎だらけです。しかし、どうやら1963年に大韓プロレス協会の張永哲(チャン・ヨンチョル)にスカウトされプロレスの世界に入りデビューしたのは明らかのようです。
この張永哲、チャンはプロレスラーでもありましたが、韓国のプロレス界においてはその世界を牛耳るひとりだったようで、あの大木金太郎とは勢力を二分していた存在だったようです。
パク・ソンが、そんな確執に巻き込まれ事件にあってしまったのはデビューしてわずか2年目の1965年のことでした。
いくら自身の思いどおりにいかないからと、餓死も十分あり得た、いわば殺人未遂事件ともいえる行為を実行してしまうとは・・・チャンと当時の韓国プロレス界の一部の人間は、気がちがっていたとしか思えません。心底、怖くなります。
しかし、常人なら死亡してしまうか精神障害になってしまうであろうこの強固な修羅場を耐え抜いたパク・ソンは、晴れて大木金太郎の元に着きます。こうしてこの事件の1年後の1966年の9月に日本プロレスのダイヤモンドシリーズに大木の門下の留学生として初来日をします。
その後、アメリカに渡り巨体を生かしたダイナミックなファイトで活躍。1970年からテキサスを主戦場に"韓国空手テコンドーの武道家"と扮し、テレビで板割りやレンガ割りなどを披露しては、試合では豪快な逆水平チョップと各種のクロー攻撃を武器に「コリアン・アサシン(韓国の暗殺者)」の異名を取り絶大なヒール人気を得ることになります。
当時の主戦場であるテキサスでは様々なレスラーと連日ファイトしていたパク・ソン。画像は日本プロレスに来日経験のあるウッディ・ファーマーとの試合。ベアフットが印象的だ
同じテキサスのエリアでファイトし行動を共にしていた大熊元司、マシオ駒と。1971年頃の移動の合間のスナップ
私生活では71年4月に結婚していたというパク・ソンは夫人と共に海外で生活していた。夫人の名前は「李」とのことだが、詳しくは不明
この1970年代はパク・ソンの全盛期と言っていい時期で、それを最も象徴するのが1970年から1972年までにドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した試合の数々です。そのシングル戦績があったので掲載してみます。
1970年
6月18日 テキサス州アマリロ
3本勝負で2-1ドリーの勝利
8月20日 テキサス州アマリロ
3本勝負で2-1ドリーの勝利
10月19日 テキサス州エルパソ
60分フルタイムドロー
12月7日 テキサス州アビリーン
3本勝負で2-1ドリーの勝利
11月16日 テキサス州エルパソ
試合時間36分でドリーの勝利
1971年
8月22日 ニューメキシコ州アルバカーキ
勝敗不明
8月25日 テキサス州ラボック
ドリーの反則勝ち
9月13日 テキサス州エルパソ
3本勝負で2-1ドリーの勝利
1972年
2月1日 テキサス州オデッサ
3本勝負で2-1ドリーの勝利
3月16日 テキサス州アマリロ
10分53秒 両者リングアウト
4月3日 テキサス州エルパソ
3本勝負で2-1ドリーの勝利
5月14日 ニューメキシコ州アルバカーキ
勝敗不明
5月20日 コロラド州ヘレフォード
ドリーの勝利
6月7日 テキサス州ラボック
3本勝負で2-1ドリーの勝利
一応、これがすべてドリーとのNWA世界ヘビー級選手権と思われる試合になりますが、データが鮮明でないところもあるのでノンタイトル戦も含まれているかもしれません。しかしノンタイトル戦を含めてるとしてもNWA王者時代のドリーを相手に14戦ですね。これだけの試合をメインでしていたことを見れば、ドリーとパクの試合がいかに人気カードであったか?ドル箱カードであったかがよくわかります。
また、この時代はタッグでも活躍を見せます。1970年6月17日、テキサス州ラボックにて空位になっていたNWAウェスタンステーツ・タッグ選手権を大木金太郎と組んでルーファス・ジョーンズ、ゴージャス・ジョージ・ジュニア(ゴージャス・ジョージとは血縁はないらしい)と決定戦を行い勝利。わずか1週間後にテリー・ファンク、リッキー・ロメロ(ヤングブラッド兄弟のお父さん)に敗れ王座から転落してしまいますが海外で師とのタッグで王座を保持しました。
そしてこの時期は日本から遠征していた坂口征二と日韓大型コンビを結成。1970年10月21日にテキサス州ラボックで初タッグ。リッキー・ロメロ、サンダーボルト・パターソン組と対戦し勝利すると翌月11月19日、テキサス州アマリロでジェリー・コザック、ニック・コザックを下し"テキサス地区 USタッグ選手権"を奪取したと、いうことなんですね。
で、これですね、実はFacebookにあります「坂口征二公認ファンクラブ荒鷲」にですね、この"テキサス地区 USタッグ選手権"を奪取したときの東京スポーツの記事が紹介されていまして、そこでこの試合このとを知ったのですが、このパク・ソンと坂口征二がコザック兄弟から奪取した
"テキサス地区 USタッグ選手権"
ですね。これ当時のNWAの地区のタッグタイトルすべて調べたんですが、どのタッグタイトルにも歴代王者のところにパク・ソンと坂口征二の名前がないんですよ。探してもですね、ちょっと出てこなかったんですね。これは正式には何と言うタイトルだったんでしょうかね?ご存じの方おりましたらご教示よろしくお願いいたします。
お話を戻しまして、こうしてタッグタイトルの王者となることがあったパク・ソンは1971年8月5日にはテキサス州アマリロでテリー・ファンクを敗りシングルタイトルとなるNWAウエスタンステーツ・ヘビー級王座を獲得。ドリー、テリーとシングルを多数行い、タッグでもファンクスと戦うなどテキサス地区ではまさに中枢人物となっていたと、いうことなんですね。
さらに、1970年代中盤からはロサンゼルス、フロリダにも転戦。戦いの場を広げます。
1973年11月16日にはカリフォルニア州ロサンゼルスでジョン・トロスからNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取。1973年から1974年にかけてロスマットではトロスとタイトルを巡っての対決が人気となっていたようです。
画像は74年2月22日、ロサンゼルス・オリンピックオーデトリアムでのジョン・トロスとのアメリカス・ヘビー級選手権
またロス地区ではタッグでも、1973年8月15日、カリフォルニア州ロサンゼルスでミスター・レスリングと組みビクター・リベラ、ラウル・レイズ(メキシコ出身で170センチ、100キロに満たないくらいの小柄なレスラーだったようだが詳細は不明)からNWAアメリカス・タッグを奪取。わずか数日天下でしたが当時のロスマットのシングル、タッグの看板タイトルをどちらも手にします。
そして同年10月4日、テキサスに戻りアマリロでカンフー・リー(グレート小鹿)と組みザ・ファンクスの持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦します。60分3本勝負で行われたこの試合は2-1で敗れはしましたがパク・ソンはテリーに必殺のストマック・クローを決め、わずか3分53秒でテリーから1本目を先取。2本目もテリーの喉へ直接空手チョップを入れ反則負けになるなど大暴れしました。
そしてテキサスからフロリダへ転戦。ここでもヒールとして活躍します。
ときにダスティ・ローデスといえば、日本での評価は知ってのとおりですが、アメリカでは「アメリカン・ドリーム」と呼ばれ象徴に位置していました。当時のアメリカマットではアンドレ・ザ・ジャイアントと並ぶ人気と知名度で、どのテリトリーに行っても会場を満員にすることのできるトップレスラーでしたよね。
そのローデスのベビーフェイス転向、つまり「アメリカン・ドリーム」の始まり、出発点となったレスラーこそ当時タッグを組んでいたパクでした。
その当時、ローデスとパク・ソンはゲーリー・ハートをマネージャーにヒールのタッグチームとして試合していましたが1974年5月14日にフロリダ州タンパでマイク・グラハム、エディ・グラハムとの試合中に誤爆から仲間割れを起こすことになります。
仲間割れの試合となった1974年5月14日フロリダ州タンパでの試合
ローデスがグラハムを羽交い締めにしたところへパク・ソンが逆水平チョップを見舞いますがグラハムが避けたためローデスに誤爆。もんどり打って場外へ転げ落ちたローデスでしたがパク・ソンはグラハム兄弟をひとりで粉砕。怒ったローデスがリングに復帰し、なんと見方であるパクにエルボーを放つんですね。これに会場は割れんばかりの大歓声が起きましたが、ゲーリー・ハートも加わると、やがてローデスは反撃されてしまうんですね。
映像はそこで終わりですが、このあとパク・ソンとゲーリー・ハートに怒った観客が暴動を起こしてしまい警官隊が出動する騒ぎとなったとの情報もありました。会場内はかなりの混乱があったようです。
かくして、パク・ソンとの仲間割れを発端に、この日からローデスがベビーフェイスへ転向。アメリカン・ドリームが誕生すると、ふたりはさっそく抗争へと突入します。
こちらは歴史的仲間割れから1週間後に行われたパク・ソンとローデスの遺恨マッチのチラシ。意外なことにローデスでなくパク・ソンが大きく扱われている
ローデスを頸動脈クローに取るパク・ソン。その表情はまさにコリアン・アサシンだ
その1ヶ月後となる1974年6月にはアメリカ遠征をしていたジャイアント馬場と"ジャイアント・タッグ"を結成。同月20日にはテキサスに飛び、アマリロでザ・ファンクスの保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦。6日後の26日にはフロリダ州マイアミに戻り因縁のダスティ・ローデス、ドン・ムラコ組と、6月27日にはフロリダ州ジャクソンビルでダスティ・ローデス、マイク・グラハムと対戦します。
6月27日のチラシ。マイク・グラハムはローデスとパク・ソンが仲間割れしたときの対戦相手なので、この遠征は馬場さんも"ヒール"だったということになる。ヒールのジャイアント・タッグは、どんなファイトをしたのだろうか?興味が尽きない
そして同年7月25日には、フロリダ州ジャクソンビルで抗争の続くダスティ・ローデスからNWAサザン・ヘビー級王座を奪取。翌月8月29日には同タイトルをジェリー・ブリスコから奪っており好調ぶりを見せます。
その後、1975年1月に全日本プロレスの新春ジャイアントシリーズに参加します。
このシリーズはザ・デストロイヤーの覆面世界一決定戦十番勝負が行われていた真っ只中。他にアントン・ヘーシンクが所属していた時代で柔道ジャケットマッチも行われていました。参加外国人ではまだデビュー2年目だった若き日のボブ・バックランドが2度目の来日。参戦となっています。パク・ソンは特別参加ということでしたが、どうやら開幕戦から最終戦までフルで参加したようです。気になるところを見てみましょう。
◎新春ジャイアントシリーズ
1975年
1月3日 後楽園ホール (開幕戦)
30分1本勝負
パク・ソン(12分51秒 体固め)ホセ・ゴンザレス
このシリーズは日本陣営側として参戦したというパク・ソン。開幕戦はあのホセ・ゴンザレスと対戦。勝利しています。
そして同日行われた全日本プロレスの新春恒例のバトルロイヤルへも参加しています。
☆100万円争奪バトルロイヤル
出場選手
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンク、グレート小鹿、カリプス・ハリケーン、レッド・バスチェン、ザ・バラクーダ、ジム・デュラン、ボブ・ブラウン、ホセ・ゴンザレス、ボブ・バックランド、サンダー杉山、パク・ソン
デストロイヤー(10分43秒 体固め)バスチェン
※デストロイヤーが優勝
残念ながら写真は発見できませんでしたが、ヘーシンクとパク・ソンが同じリングに立っていたことがあるというのには驚かされますね。
1月9日 広島県立体育館 (第5戦)
タッグマッチ 30分1本勝負
パク・ソン、グレート小鹿vsボブ・ブラウン、ホセ・ゴンザレス
パク・ソン(14分32秒 体固め)ゴンザレス
こちらはグレート小鹿とのタッグですが、先にご紹介したとおり、ふたりは1973年10月4日にテキサスでファンクスのインターナショナル・タッグ王座へ挑戦しています。ふたりの日本での最初で最後のタッグ。このあたりは馬場さんの計らいだったのではないかなと思いました。
1月10日 山口県・宇部市体育館 (第6戦)
6人タッグマッチ 60分3本勝負
ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー、パク・ソンvsカリプス・ハリケーン、レッド・バスチェン、ジム・デュラン
①ハリケーン(8分49秒 体固め)パク・ソン
②パク・ソン(11分59秒 体固め)ハリケーン
③デストロイヤー(8分32秒 4の字固め)デュラン
こちらも先に海外で馬場さんとタッグを組んでいたのをご紹介しましたが、日本でパク・ソンが馬場さんと組んだのはこの試合のみになります。日本でのジャイアント・タッグ、見てみたかったです。ちなみにこのシリーズでパク・ソンがタッグマッチを行ったのは9日の広島のグレート小鹿のと、この6人タッグのみ。あとはシリーズ中は、すべてシングルマッチとなっています。
1月14日 長崎県・佐世保市体育館 (第10戦)
30分1本勝負
パク・ソン(11分58秒 体固め)ボブ・バックランド
で、これですね。なんとパク・ソン、まだグリーンボーイの時代のバックランドと対戦していました。バックランドはデビューの翌年の1974年にテキサス州に転戦しているのですが、その頃パク・ソンはメインイベンターとしてテキサス、フロリダを往き来していたので接点はなかったのではないかなと思います。なのでシングルはこれが初対決だったのではないでしょうか?ちなみにパク・ソンとバックランド、シリーズでは1月25日の横浜市文化体育館、1月28日 静岡駿府会館も30分1本勝負で対戦していますが、どちらも10分台でパク・ソンがフォール勝ちしています。当時のバックランドが世界のトップ相手にどんな戦いを見せたのか?見てみたかったです。
1月27日 茨城県・水戸市民体育館 (第19戦)
30分1本勝負
パク・ソン(12分12秒 体固め)ジム・デュラン
これは個人的に気になったんですが、会場ですね。いやぁ~まさかパク・ソンが茨城県の水戸に来てたとは夢にも思いませんでした。パク・ソンも那珂川を見たのかなぁ~?
1月29日 東京体育館 (第21戦 最終戦)
30分1本勝負
パク・ソン(6分39秒 体固め)ホセ・ゴンザレス
開幕戦と同じ相手であるホセ・ゴンザレスと戦い最終戦を終えます。このシリーズでは日本陣営側ということで鶴田やヘーシンクとの絡みはなく、そして途中参加となったハーリー・レイスとの絡みもありませんでした。海外での活躍とは一転、無難にシリーズを終えた印象です。日本プロレス以来、2度目の来日となりましたが、結局これが最後の日本となりました。
さて、このように日本でプロレスを行ったのがわずかなため、ほとんど日本のファンには印象がないパク・ソンですが・・・この1975年のアメリカでの年収入は15万ドルだったそうです。当時のNWA世界王者クラスの年収が20万ドル。日本では当時のレートが1ドル平均で約297円。大卒の初任給が約9万円という時代なので・・・こうして見るとアメリカでのパク・ソンがいかにすごい位置にいたのか?おわかりになると思います。
しかしながら、自家用車を自宅に止めておけばタイヤが刃物で引き裂かれていたり、穴を開けられていたり。家には卵や物が常に投げつけられたりも日常だったようで・・・トップヒールであるがゆえの苦労が絶えなかったようです。
そして1976年です。この年は3月17日、フロリダ州マイアミでサンダーボルト・パターソンに勝利しフロリダ・ヘビー級王座を獲得。その後もアメリカマットで、これまでと変わらない活躍を見せますが10月に韓国へ凱旋すると9日に大邱(テグ)で対戦。10日のソウルではアントニオ猪木のNWFヘビー級選手権に挑戦します。
ソウルでの猪木vsパク・ソン
で、この試合に関しては現在ネットで検索すればいろいろ情報が出てきますし、それらの内容はボクの好きなプロレスではないのでここでは書きませんが・・・少しだけ言わせていただけば猪木もパク・ソンも当時の韓国プロレス界の古い価値観に振り回され、犠牲にされてしまったんだなぁと、そう思いました。アリと戦った猪木の韓国マット登場とアメリカでトップとして活躍していたパク・ソンの凱旋だったんですよ。タッグ組ませてジェットシンあたりとやればよかったんですよ。そう思います。
明けて1977年です。この年は、このブログでもよく登場しますマスクド・スーパースターの主戦場でありましたジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでファイト。9月16日にトミー・リッチ、トニー・アトラスからNWAジョージア・タッグを奪取しますが2ヶ月足らずで同チームに王座を明け渡すと1978年後半からは再びフロリダに戻りダスティ・ローデスとの抗争が再熱します。
再熱した抗争でもコリアン・アサシンぶりを発揮したパク・ソンは鬼の形相でローデスにクロー攻撃
さらに10月14日、フロリダ州レイクランドではエリック・ザ・レッド と組みスティーブ・カーン、マイク・グラハムからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取しトップヒールとしての凄みを見せます。しかしタッグパートナーであったエリック・ザ・レッドが翌月11月16日に自動車事故により死去してしまいます。そのためサイクロン・ネグロがマスクを被りミスター・ウガンダと名乗って新パートナーとなりNWAフロリダ・タッグ王座として継続します。
1979年1月9日のフロリダ州タンパでの試合のチラシ。パートナーのミスター・ウガンダことサイクロン・ネグロはパク・ソンが1975年の全日本プロレス来日時に同じシリーズに参加したカリプス・ハリケーンである。ミスター・ウガンダ時もカリプス・ハリケーンと同じマスクをしていた
ミスター・ウガンダとのタッグののち、同年3月19日にフロリダ州パームビーチでバグジー・マグローと組みスティーブ・カーン、マイク・グラハムからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取し、このタイトルに返り咲きます。
その後、場所、日時は不明ですがジョー・ルダックとのタッグでキラー・カール・コックス、ジム・ガービンからフロリダ版NWA・USタッグ王座を奪取。その後、王座転落しないまま同年の3月31日にフロリダ州セントピーターズバーグでパートナーがキラーカーンとなり王者として続行となっています。なぜジョー・ルダックからキラーカーンに変わったのかはわかりませんでしたが、馬場さんとのタッグ同様、大型のいいタッグだったんだろうなと思えます。
また、この時期はカムバックを果たした"ネイチャーボーイ"バディ・ロジャースの相手に抜擢。大役も務めます。これらの実績からわかるように、韓国での猪木戦のあともアメリカでの評価は変わらず。トップレスラーとして活躍し続けました。
さらに同年後半からはフロリダからテキサスのダラスに転戦しデビッド・フォン・エリックやマーク・ルーインと抗争。1980年に入るとミズーリ州、カンザス州、アイオワ州からなるNWAセントラル・ステーツ地区に参戦しますが・・・この1980年代を最後にパク・ソンの戦績、試合記録は、まったく見られなくなってしまいます。
1980年以降、煙のように消えてしまったパク・ソンのプロレスキャリア。一体、何があったのでしょうか?
パート2に続きます。