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Channel: 団塊Jrのプロレスファン列伝
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名レスラー伝~韓国の巨人!! パク・ソン パート2~

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パート1からの続きです。
 
この1980年代を最後に煙のように消えてしまったパク・ソンのプロレスキャリア。一体、何があったのでしょうか?現存する情報を追いながら考察してみます。
 
1980年の4月17日。パク・ソンはカンザス州のカンザスシティでザ・グレート・カブキになる前の高千穂とタッグを組みディック・マードック、ボブ・ブラウンからセントラル・ステーツ・タッグを奪取しています。このタイトルは2ヶ月後の6月18日にアイオワ州デイモンでパット・オコーナー、ボブ・ブラウンに敗れるまで保持していたという記録があります。
 
タイトルからわかるパク・ソンの足跡はここまでですが、8月8日、ミスター・ヒトと試合をしている映像が残っていました。
 
試合前、マネージャーのゲーリー・ハートとテレビインタビューに出演するパク・ソン。インタビューはヒューストン・レスリングのポール・ボッシュ
 
ミスター・ヒトを追い込むパク・ソンだが・・・
 
 
見てお気づきになった方もいたと思いますが、このミスター・ヒト戦のパク・ソン。ボクがパート1で上げた1970年代の画像のものに比べると顔も体も異様なほど痩せているのです。
 
胸や肩、腕の筋肉は落ち、肋骨も浮き出ているのがわかる(画像は80年5月23日に行われたホセ・ロザリオ戦のもの)
 
実は1976年10月の韓国ソウルでの猪木戦の際、解説席に座った坂口征二が、この時点で「体が小さくなった」とすでに言っていたのですが、どうやらパク・ソンはダスティ・ローデスと仲間割れした74年頃から体調に何かしらの異変が出はじめたようなのです。
 
一番最初に触れましたが、一般的に出回っているパク・ソンのプロフィールによれば1943年4月11日生まれで1984年1月没となっており、その最期は
 
「1980年内に引退し韓国に帰国し持病である糖尿病の治療に専念。闘病生活を送っていたが1984年1月にソウル市内の病院で41歳で死去」
 
となっています。
 
しかし1980年内に韓国に帰国後、
 
「糖尿病と闘病中であった1982年10月24日 、ソウルの汝矣島広場アパートの自宅で39歳で死去(死因記述なし)」
 
「糖尿病と闘病中であった1982年11月24日、糖尿病に起因する合併症により自宅で37歳で死去」
 
と情報が複数あり、実際には謎だらけなのです。
 
しかし、これらの記述より信憑性があり、でも謎めいている、という奇妙なことがあります。
 
日本には家系、家族で登録されている「戸籍」があるのはご存じと思いますが、アメリカの場合は「戸籍」はなく、かわりに個人を登録する「Social Security Number(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー 通称:SSN 社会保険番号)」というのがあるそうなんです。
 
アメリカで日本の戸籍にあたるこのSSN、社会保険番号はアメリカの社会保障法の205条C2に定められており、市民、永住者、外国人就労者に対して発行される9桁の番号なんだそうです。
 
その取得方法は、最寄りのソーシャル・セキュリティー・アドミニストレーションオフィス(社会保障局)というところに「グリーンカードか滞在ビザ、有効期限内のパスポート、労働許可カード、出入国滞在記録カードを持参し申請用紙を記入して申請する」とあり、氏名、国籍、出生地、生年月日、死亡年月日、住所などを登録するという・・・日本でいう戸籍の役割はもちろん、住居やアパート、電気、ガス、水道などの契約。銀行口座の開設やローンなど、実に様々なシーンで必要となる重要なものなんだそうです。まさにアメリカで生活する上ではなくてはならないものなんですね(そういえば日本でも近年、似たようなことが始まってますね)
 
で、発行条件に"外国人就労者"とありましたが、パク・ソンは韓国出身の韓国人ですが、アメリカでファイトしていた、つまりアメリカで"就労していた"ことから、このSSN、社会保険番号に登録をしていたそうなんです。
 
発行はミズーリ州となっており・・・どうやらこれはパク・ソンがミズーリ州に本部を置くNWAのエリアを本拠地としてファイトしていたため、そこで登録、発行されたということになるようです。
 
で、そのパク・ソンのSSN、社会保険番号です。これには死亡年月日も記されるのですが、その登録簿の記述が、
 
「1941年12月14日生まれで1980年9月に死亡」
 
となっているそうなのです。
 
驚くべきことに一般的なプロフィールと比べ生年月日で1年4ヶ月、死亡年月日で3年4ヶ月の開きがあり、年齢では38歳9ヶ月で亡くなっていることにるのです。
 
しかしながら、この信憑性はどうなのでしょうか?
 
まずSSN、社会保険番号申請、登録においてビザ、パスポートを持参とありますが、ご存じのとおりビザやパスポートに誤った情報が記載されるということは、まずあり得ません。
 
なのでパスポートのように厳密に情報証明がされているものを元に申請、登録されたSSN、社会保険番号の情報に誤りがあるということは考えられません。なのでパク・ソンの誕生日である「1941年12月14日生まれ」というのはパスポートに記載されていた正確な生年月日であったと言えることになるのです。
 
そして1980年9月に死亡という点ですが・・・
アメリカで働く場合には雇用主を通してソーシャル・セキュリティータックス、税金の支払いが定められています。日本と同じく、給料をもらい税金が天引される、ということですね。で、これがSSN、社会保険番号で管理され、税金を払った年数に応じて老後に年金が支給される仕組みがあるそうなんです。そして年金支給対象者が亡くなれば死亡一時金の受け取りと、身内でも60歳からは年金の受給が可能な場合があるとのこと、なんですね。
 
で、ですよ。こういうふうに国が管理しているもので仕組みがしっかりしているものでですよ?正確な死亡日が申請されていないなんてこと、あり得るのでしょうか・・・?
 
一般的なプロフィールや他の情報にあったように、アメリカでファイトしていたパク・ソンが
 
「1980年にプロレスから引退し韓国に帰国。糖尿病により闘病生活していた」
 
という情報。これを真実として、SSN、社会保険番号の登録簿の死亡日も真実とするなら、パク・ソンは社会保障局に虚偽の死亡日申請をし、生きているのに死亡一時金を受け取り年金の受給資格を得、韓国に密に帰国したということになってしまいます。つまり犯罪を犯したことになるのです。
 
確かにアメリカで10年以上も"就労"し年収も相当あったのですから相当な税金を納めているはずです。なので死亡一時金、年金の額は相当なものになるはずです。でも、だからと言って、これだけ存在が知れていたパク・ソンが、そんなたちどころにバレてしまうようなことするでしょうか?
 
ボクにはちょっと考えられません。なので、これらを総括するに、パク・ソンは韓国でなく1980年9月にアメリカで亡くなったとは・・・言えないでしょうか?
 
ということで1980年9月没として考えてみます。先ほども上げたようにパク・ソンはミスター・ヒトと1980年8月8日に試合をしています。ということはこの試合の約1ヶ月後に亡くなったということになります。
 
しかし、これだけでは何とも言えません。そこでこれ以降の試合記録を調べてみると1980年9月28日にビッグタイムレスリング(BTW)主催でテキサス州ダラスのレユニオン・アリーナで行われた大会にパク・ソンが出場している記録がありました。この日、パク・ソンはテッド・ヒース(詳細不明)というレスラーと対戦し反則負けとなっています。
 
これで少なくとも9月28日までは生存していたことがわかりました。しかし9月は30日までしかないので9月に亡くなったとすると、かなりシビアになります。試合当日か試合後の2日間、29日か30日のうちのどちらかの日にパク・ソンは「急死」した、ということになるからです。
 
ということで、ここで注目したいのが患っていた病気です。亡くなった場所に年齢、没年こそちがえど「糖尿病」という点は共通していたパク・ソン。確かに糖尿病が何かしらの影響を与えたのはまちがいないと思うのですが、しかし・・・直接の死因が糖尿病ではなかったとしたら、どうでしょうか?
 
実はパク・ソンの死因は糖尿病による合併症の他「マルファン症候群」だったのではなかったか?との見解があるのです。
 
マルファン症候群は遺伝子の変異によって細胞と細胞を繋ぐ組織、つまり身体の結合組織に障害がある「遺伝性結合組織疾患」なんだそうです。
 
その症状は異なり、骨格の症状では高身長となり四肢、指が長くなる。胸の骨の変形や背骨が曲がる(脊椎側弯症)、関節の異常など。心臓の血管の症状では血管が太く弱い、動脈瘤になり裂ける(大動脈解離)など。眼の症状では水晶体のズレ、近視など・・・軽い場合から重い場合まであり、他にも症状はあるようです。
 
実はかつて、こんな出来事が日本でありました。
 
カリフォルニア州イングルウッド出身の女子バレーボール選手にフローラ・ジーン・ハイマンという人がいました。
 
ハイマンは1984年のロサンゼルス・オリンピックに出場。銀メダルを獲得後、日本のダイエーの実業団バレーボールチームである「オレンジアタッカーズ」に所属。日本でプレーしていましたが、1986年1月24日。島根県の松江市総合体育館で行われた日本リーグでの日立製作所のバレーボールチーム、日立ベルフィーユとの試合中にベンチで倒れ、病院へ搬送されましたが、そのまま亡くなってしまいました。
 
このとき、死因は急性心不全と発表されましたが、アメリカでの検査によりこの死因がマルファン症候群により引き起こされた大動脈解離であることがわかったのです。
 
自覚症状がなく発症するまで気づかないことが多いという大動脈解離。それを引き起こしたマルファン症候群ですが、ハイマンは自身がマルファン症候群であったことを知りませんでした。
 
マルファン症候群はその特性から、高身長に高い割合で潜在するためバレーボール、バスケットボールの選手に症状が見られることがあるといいます。このため現在では定期検診やメディカルチェックが厳重に行われていますが、まだ事故防止の対策が完全ではなかった時代。症状が判明しなかったことで起きてしまった悲劇だったのです。
 
話をパク・ソンに戻します。
 
もしパク・ソンが
 
1.マルファン症候群だった
2.没年が1980年の9月であった
3.最後の試合記録が9月28日のテキサス州ダラスのレユニオン・アリーナで行われたテッド・ヒース戦であった
 
なら、試合後にマルファン症候群が原因の何らかの症状が現れ「急死」してしまったという結果までが、ひとつの線で繋がることになります。
 
そう、つまり・・・パク・ソンは9月28日のテキサスでの試合で大動脈解離を起こし死亡してしまった・・・とは予想できないのでしょうか?
 
アメリカではSSN、社会保険番号に登録されていて、2007年までは戸籍制度もあった韓国の出身だったパク・ソン。しかし、これだけハッキリと証明できるものがありながら謎だらけの晩年となり・・・時が経ち、もはや真実を知るのは不可能となってしまったのかもしれません。でも1981年からの戦績が見つからなかったことをみると、やはりこの1980年に何かがあったのは、まちがいないと思われます。
 
パク・ソン。その名を聞いたなら、ある時期から日本ではアントニオ猪木との試合が真っ先に思い浮かんでは、それ以上でもそれ以下でもない存在となってしまっていると思います。
 
しかし実際には悲劇と成功、喜びと悲しみに溢れた、そして謎に満ちた波乱万丈のものだったのです。
 
今回ここを読んでくれた方が、もし今後パク・ソンの名を見たなら、猪木との試合は・・・と思う前に、アメリカで成功したプロレスラーだったんだよと、同じアジア人として振り返っていただけたならと思うばかりです。
 

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