紫レガさんのブログで拝見した前田と高田の驚異の三部作
いやぁ・・・素晴らしいなぁ・・・
今までボクはブログでU系を取り上げたことはなかったんだけど・・・でも、このレガさんのブログにすっかり魅了されてしまったので、ボクもちょっとちがう視点で、U系のお話を三回に分けてしようかなと思いました。
よかったら・・・お付き合いしていただけますか?
さて、Uを語るとき、確執という言葉が避けられなくなってしまった昨今。旧、新生を問わず、なぜこれほどまでのカリスマと、これほどまでに非凡で強烈なイデオロギーを持った男たちが集まってしまったのか・・・
否、本当はその逆で、Uで過ごしていくうちに心を燃やすエネルギーが大きく強靭になっていってしまったのかもしれない。
そんなイデオロギーのぶつかりあいともいえる時代。旧UWF・・・

前田と佐山
Uにおいて語られるとき“あのときは・・・”を求められるこの男達。何かと対比され、語り語られ、そして・・・今では顔を合わせることすら難しくなってしまった。その歴史、生きざまはみなさんご承知の通りだと思う。強烈なエネルギーを持って、いや、持ちすぎていたお互いだから、前田と佐山、前田と高田・・・今なお、語り継がれているのだと思う。
でも、佐山と高田・・・
このふたりのことが語られたということは・・・はたして、これまでにあったのだろうか?
初代タイガーマスクとしてボクらに夢を与えてくれた佐山聡は75年に新日本プロレスに入門し76年にデビューするが、持って生まれた天賦の才と、早くから打つ、蹴る、投げる、極める、を主体とした新しい格闘技の思想を描き、若手レスラーながらも異質な存在感を放っていた。
やがて、こっそりとキックを練習していた行為がきっかけとなり、77年に全米プロ空手のミドル級1位であるマーク・コステロとの対戦相手に抜擢されキック・ルールで対決。判定で敗れはしたが、その評価は急上昇した。
翌78年にはメキシコへ渡りサトル・サヤマとしてファイトする。ここでは空中戦主体のルチャ・ドールの中にその身を置きながらも素晴らしき適応力を発揮して活躍。NWA世界ミドル級王座を奪取するほどのレスラーになった。
メキシコでサトル・サヤマ時代の佐山
80年にはイギリスに渡り、サミー・リーとしてファイトするようになる。今日はサミーの試合がある!!その日は表の人通りが少なくなるほど・・・人々はテレビの前に釘付にされ、会場は収容人数を超え入れない人も出たという。イギリスマットで、佐山はまさに一大旋風を巻き起こしていたのだ。
イギリスでサミー・リー時代の佐山
高田が新日本の門を叩いたのはちょうどその頃だった。だからこの時点で、佐山と高田には面識も接点もなかった。おそらくお互いを知らなかったほどでは・・・ないだろうか?
だがそれから約1年後・・・それは遠回りな運命の始まりだったのか?初代タイガーマスクがボクらの前に衝撃的に表れた81年4月23日からわずか15日後の5月9日、奇しくも高田はデビュー戦を行っている。そして同年11月には徳島で、新日本で唯一となるふたりのシングルマッチも行われている。
画像は82年11月の蔵前での保永戦
このとき、タイガーマスクとして凱旋した佐山が、高田の目にはどのように映っていたのであろうか?その心中を知ることはもはやできないが・・・かくして、スーパーヒーローとデビューしたての新人、という図式ではあったが、佐山と高田はこうして同じ組織の中で流れていく時間を共有していくことになる・・・はずだった。
だがその時間はわずか2年4ヶ月で唐突にピリオドを迎えた。佐山が新日本を離れてしまうという事態が起こったからだ。
これを受け、83年、カナダで行われるはずだった試合にタイガーマスクは突然の欠場をする。人気絶頂のまま、タイガーマスクが新日本プロレスを離脱するという衝撃。タイガーマスク、どうしちゃったんだろ?なんで出ないんだろ・・・そんなファンの思惑の中、高田に思わぬ出来事が起こった。なんとピンチヒッターとしてアントニオ猪木の付き人として同行していた、高田に白羽の矢が立ったのだ。
こうして高田は急遽、タイガーの代役としてカナダマットに立つことになった。
急遽試合を行うことになった高田
タイガーマスクの代役にして、しかも海外で、さらにセコンドに猪木が立つという異例尽くしの試合であったが、高田はフィニッシュをジャパニーズ・レッグロール・クラッチで決め、ストロングスタイルの継承を見せつけた。そしてこれが・・・記念すべき高田のテレビ初登場のシーンとなった。
その後、高田は佐山去りしあとのジュニア戦線や、長州率いる維新軍との対抗戦などでテレビに登場するようになった。それこそ試合はもちろん、高田が急遽タッグマッチに抜擢され、リングサイドで猪木に張り手をもらってから一礼しリングインした・・・そんなシーンを覚えているファンも多いかもしれない。プロレスの世界、厳しいんだな・・・と子供心に思ったものである。
こうして・・・その卓越されたプロレスセンスと努力で急成長し、加えて甘いマスクが手伝って脚光を浴び人気も上昇していった高田は、新日本を背負って立つに十分な器を見せつけていったのだった。
だがそんな矢先、高田は猪木の負債から端を発し、新日本プロレス内クーデター問題、猪木のテレビ局移籍問題など、結果的にゴタゴタの問題の中から発生した団体、ユニバーサル・レスリング・フェデレーション、旧UWFへと運命的に導かれていくことになる。
佐山が去り、高田も新日本を去った。これでふたりの接点は、もはやこれまで・・・と思われたが、あの日、新日本を去って行った佐山が、ザ・タイガーとして旧UWFへ参戦してくることにより再び接点が生まれる。
そして迎えた旧UWF旗揚げ戦の84年7月。オープニングとなった無限大記念日で新日本では実現することのなかったタッグのパートナーとして、佐山と高田は同じリングに立つことになったのだった。
無限大記念日
こうして同じ団体で、佐山と高田は再び同じ時間を共有するようになるのだった。
しかし・・・ざっとここまでを振り返り考えたとき、新日から旧UWFと見て、このふたりには接点というものは、はたしてあったのだろうか?
今回、このお話をするにあたり、ボクの持っている約500冊にもなる古いプロレス雑誌をすべて見ていったが、新日本から旧UWFという経過の中では、意外なことにこのふたりが、ふたりだけで同じフレームに収まっているシーンというのはほとんど存在しなかった。
パンタロン・スタイルになったばかりのタイガーマスクに、イベントか何かでドロップキックを受ける新日時代の高田・・・なんていうのはあったのだが、旧UWFにおいてもプライベートや練習風景でのそれは、集団で撮影されているものばかりで・・・ふたりだけでのシーンは、その中の一角のカットがわずかにみられるのみだった。個人的にフレームに収まっているものと言えば、高田は前田、藤原とのものが多く、佐山は山崎とのものが多く見られた。
もちろん、単に同じフレームに収まっているものがないだけで、実際にふたりが交わることがなかったわけではない。ないはずだ。はずなのだ・・・でも、ふたりだけのシーンがこうも見あたらないのは、なぜなんだろう?
疑問も募るところだが・・・でもそんなふたりにも、過去に確実なふたりだけのシーンが存在していた。
対決だった。
新日本プロレス時代にたった一度だけ実現していた佐山と高田の対決。あれから3年の月日を経て、それは旗揚げ間もない旧UWFで行われていた。
84年のUWFストロング・ウィークス・・・このシリーズで、若く期待度の高い高田に用意されていたのは“格闘技地獄変”と名を打たれた試練の7番勝負の決行であった。
旧UWF内のレスラーと一戦一戦、勝負していく・・・その第1戦がスーパー・タイガー、佐山であった。
10月6日、東京世田谷区用賀駅前特設リング。そう、そこは体育館や施設ではなかった。ある程度の敷地を薄い仕切り板で覆っただけのような、入場券を買わなくてもちょっと高いところから除けば見えてしまうような・・・そんな場所での試合だった。
しかしそれは注目の対決。そしてメインという大舞台に変わりはない。こうして運命のゴングが鳴り響いた。
ゴング後、5分あまりの長い牽制ののち、佐山の早い蹴りが高田を襲った。
まだガードが・・・
蹴りに押されながらも、若さとできるかぎりの技術で応戦していく高田は、組みついてはグランドでは腕を狙い、スタンドでは盛んに蹴りに行く。
蹴りを見舞う
やはりこのときは、まだ打撃の技術では佐山が上。蹴りはことごとくガードに阻まれてしまった。その後、高田は逆に、佐山の蹴りで防戦一方になってしまう・・・
容赦ない佐山の蹴り
バク転 キックまで繰り出す
ハイ、ミドル、ロー。ソバットにバク転キックと繰り出す佐山。だが、それでも向かっていく高田はソバットや蹴り、そしてグランドで食付き応戦するが、20分11秒の激闘の末、チキンウイング・フェースロックの軍門に下った。
高田は深々と頭を下げた
それは名勝負だった。雑誌では高田は大健闘と称され、観戦していたファンの間では、どうしてこんな場所でこんないいカードをやらなければならなかったんだ?と・・・このときのUWFの事情を悔やみ、惜しむ声が多々上がった。
バックボーンを持たずにプロレスに入門し、努力しながらプロのレスリングを身に着けていき・・・そして初めて迎えた天才との対決で、高田は可能性を発揮し、さらなる未来を予感させた。
そして・・・二度目のふたりだけのシーン・・・対決がやってくる。