もうすぐ一年なんなんだぁ・・・
そう、今月はあの大震災から一年目にあたる。あの日・・・忘れられないあの日。そして忘れてはならないあの日なんだ。
そんな気持ちから、あのときのことを忘れないように、ボクは当時、数日間ほど手記をつけていた。
今後もあの日のことを忘れないように、今回、こちらに手記を移植し、載せたいと思いました。これは完全な個人的記事の内容になってしまうし、東北の方々からしたらボクなんか贅沢な立場だけど・・・出来事を風化させないよう、目を通してもらって、いろいろなことを見直せればと・・・そう思います。
3月11日
仕事中だった。フォークリフトで荷の積んである台車を牽引し場内に入れ、切り離し空いた台車を牽引し戻ってきた。そのときだ。クレーンの操縦士が何か言っているのが見えた。それを見ながら、どうしたんだろう?とフォークリフトを所定位置に止めようとした。まさにその瞬間だった。
「!?」
ガコガコとありえない揺れをするフォークリフト。工場内から一斉に飛び出してくる人々。まるで生き物のように揺れる工場・・・こんな光景、見たことがない!!
揺れは続いた。みんな建物やトラックの揺れを見て騒いでいる。しかしそれよりも、この音、地の底から聞こえてくる、今までに聞いたことのないゴゴゴゴゴという音に意識がいっていた。怖い。なんて怖い音なんだ!!
避難場所に移動すると、みんな携帯で家族の安否を伺い始めた。しかし携帯は繋がらない。メールは行くという話しがどことなく伝わってきたのでとりあえずメールを送る。でも返事は来ない。
数時間後、帰宅の指示が出た。駐車場に向かう途中、やっと嫁と携帯が繋がる。家族みんな無事と聞き安心し、車に乗った。
帰り道は混沌としていた。消えている信号に陥没した道路、崩れている家の屋根に倒れたブロック塀。不自然な場所で止まっている電車・・・家路を急ぐ車で連なった異常な道路は、通常30分の家までの道のりを1時間30分にした。不安だ・・・
帰宅した。幸い家は災害を受けなかったが、電気はつかなかった。戸を開けると暗闇から懐中電灯を持ちながら子供が出迎えてくれたときはうれしかった。
実家に電話をした。兄と話し、実家も全員無事であると聞いてほっとした。しかし通話中、突然通話が切れた。かけなおそうと携帯を見たが、いつもは3本立っているアンテナが消え、圏外になってしまった。場所は移動してはない。何が起きているのだろうか・・・
夕飯はロウソクを灯し、家族みんなでパンとカップめんを食べた。この先どうなるのだろうか?
3月12日
次の日から仕事は待機となった。この先、どうなるのかわからない。電気、水は完全に断たれている。携帯もいつもは家の中でもアンテナ3本立つのに、庭に出ようが圏外で使えない。家から50mくらい先に行ってやっと1本立つくらいだ。
家から見える場所に車が一台しか入らないくらいの小さなガソリンスタンドがある。ここは形状こそガソリンスタンドだが、この地域で灯油やガスを届けてくれたり、ガスコンロやお風呂などの修理もしてくれる、昔ながらの田舎の石油屋さんといった感じの場所だ。なので地元の人でもガソリンの給油なんかはメインではしない場所である。しかし、そんな場所に見たことない大渋滞が出来上がっていた。異様な光景だ。
家の前の田んぼには深井戸がある場所がある。そこは用水路の、いわゆる河川の水ではなく井戸水で、年間を通しても常時きれいな水が出ている場所である。バケツ、ペットボトル・・・近隣から、知り合いに話を聞いた人までこの井戸水に水を汲みに来た。水、いいかな?と言われると、ウチから汲み上げ用のポンプを出し水を出した。少しすると、水のお礼にと栗や、炊き立てのごはんが届けられた。ボクは体験した事はないが、なにか戦後間もない頃の日本を髣髴させる・・・そんな気持ちになった。しかし一方では鬼気迫る、緊迫した状態なんだと、そんな感じもした。そう、ここは水があるからいい。しかし水を確保できないところはどうする?配っているところまで行く?どこで配っている?それを知るにはどうしたらいい?携帯もPCも使えない。テレビもラジオも聞けない、新聞も来ない。大変な状況だ。
夕方、トイレの水が流れないので家の前の畑に行き用を足そうと歩いていた。そのとき左の腰に激痛が走った。どうしようもない、痛い。覚えている。これは結石だ。こんなときに結石になってしまった。
寝てようが起きてようが痛くなる一方だ。しかし救急車は呼べない。携帯は不通、家の電話は電気がきてないので電話が通じないので呼びようがない。なので車で緊急へ行くことにした。嫁に運転していってもらったが、嫁は3月はじめ、雪の日に転倒し右手首を骨折していた。夫婦そろって満身創痍である。
病院に着いた。しかし停電で診察できないという理由で拒否されてしまった。でも病院が悪いわけではない。ちょっと遠いが別の病院に行くことになった。
診てもらうとやはり石だった。病院で痛み止めをした。15分くらいすると痛み止めが効いて信じられないほど楽になった。
病院帰り、スーパーがやっていた。まだ痛み止めが効いていたので動ける。少し買い物をすることにした。
病院では石を出すよう、水分をたくさん取ってといわれたから飲み物と、子供らにお菓子でも買っていこうということで店に入った。しかし水や飲み物は売っておらず、棚は空いていることろが目立った。そこはまるで窃盗団が去った後のような様子である。みんな、必要なものを買っていったんだろう。そんなことを思いながら店内を見渡すと、そこで意外なものを目にした。“桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油”だ。あれが入荷のまんま、大量手付かずの状態で売られていたのだ。発売以来、あまりの人気に売り切れ続出で、メーカーも生産が追いつかず入手困難とされていた、ネットでも高額取引がされていたあのモモラーである。
人間はひとりが何かを始めると、続けて同じ行動を取ってしまう心理があるそうだ。モモラーもそうだったのかもしれない。そして水やカップ麺もそうなのかもしれない。
みんな必死なんだ・・・そう思った。
3月13日
結石の方は相変わらず出続けているようだ。痛み止めをすると信じられないほど回復するが、効き目が切れるとどうしようもない。結石は水分摂取の他、歩いたりジャンプをするのが効果的らしい。痛いがそれらをやるとやはり石が下がってくるのだそうだ。
散歩に出た。踵から地面に付くように歩いて体に振動を与える。家に帰ってきて庭の端にある花壇から数回ジャンプをする。するととなりで息子が仮面ライダーのマネをしながらジャンプを付き合ってくれた。息子はかなり楽しそう。しかしおれはやがて痛み止めが切れ、痛くなり動けなくなった。痛み止めを打ち、布団で横にならせてもらった。大げさかもしれないが、結石の痛みは尿管の中を針金で引っ掻いているような、そんな痛みだ。楽な態勢はない。何をしようがどういう姿勢だろうが痛い。今日は一番痛みがひどい日だ。痛み止めが効いているときと切れたときのギャップがありすぎる。
3月14日
仕事が、引き続き待機になった。今週は出勤がないかもしれない。不幸中の幸いか、怪我の功名か・・・この体の状態では仕事なんかできない。だから仕事が休みになったのはよかったと思うしかない。
午前中、家族で庭に集まりタライを囲んで洗濯をすることになった。嫁と娘が洗い、息子がすすぎ、おれは絞る役目となった。痛み止めをして、イスに座り絞りに没頭する。洗濯物が片付いた。
夕方、横になっているとウィィーンという機械的な音が耳に入った。一瞬理解が出来なかったが、それはエアコンが初期動作をしている音だった。続けて目に入ってきたのはPCの、ADSLのランプである。
電気が来た。復旧した。庭にいた嫁にこのことを急いで教えた。すると
電気きたってー!!と、集落いっぱいに響き渡るような大音量で家族に電通を告げた。
電気がきたのでテレビをつけてみた。映ったのは信じられない光景だった。それは津波が車や家を飲み込み押し流し、瓦礫と化した街の映像だった。こんなことが起きていたのか・・・なんてことだ・・・
しかし・・・このテレビの映像は考えものだと思った。始めは事実を知ることができたが・・・この悲惨な状況が何度も繰り返され放送されるのはどうかと思った。正直、胸のあたりが、気分が悪くなった。
さらに思った。テレビではこうした被害状況を伝えるだけで、生きることに直結する情報をなぜ伝えてこないのだろうかと・・・アナウンサーや専門家は地震のシステムや津波の起こり方を説明している。
そんなもの聞いて、どうする!?
テレビでわかる生きる情報は画面を切って縦横に並んだ地震情報のテロップだけだ。そりゃなにもないよりはテロップが出てくれるのはいいが・・・しかし11日に地震が起きて、今日は14日だ。いくら情報を流しても、それを見ることができなきゃなんにもならないじゃないか?実際に2日間、見れなかったんだから・・・
この日、水道から水も出始めたが・・・ボクのところは田んぼに井戸があったからよかった。しかしそれが出なかったらどうした?後から知った、市でやっていた給水車での水の配給なんて、やってた情報自体がわからなかったし、知ったところで徒歩や自転車で汲みにいける距離じゃなかった。そりゃ、車があれば行けるだろう。でも車がない、運転できないお年寄りなどはどうする?
ウチの地区は今や小学生が4人しかいない。あと7,8年も経てば子供は確実にいなくなる。どういうことなのか・・・そう、集落は高齢化しているのだ。そんな中、ネットや携帯を操れる人は何人いる?情報はない、汲みにもいけない。まだここは復旧が早めだったからよかったが、長引いていたらどうだ?
大変だったのはわかるが、せめて市は広報車の一台も回すべきだったんじゃないか?情報を提供する、異常がないかどうかを確認する、相談事もできる巡回車の一台も回すべきだったんじゃないか!?
3月18日
まだ仕事は出来ないが7日ぶりに出勤となった。結石は膀胱の上辺りまで降りてきたが、そこで止まってしまっているのでおなかが痛い感じだ。今も痛み止めが欠かせない。痛み止めをし出勤する。
出勤すると信じられないものが目に入ってきた。
ボクの働いているところは茨城の、海側に面したところにも関連の工場があるが・・・そこで被害にあった機体が整備の為、戻ってきたのだ。これをトレーラーから降ろす作業が今日の仕事だった。機体は重機だ。
今日、戻ってきたのは鉱山などで使う大きい機体だが、まだキャタピラ部分と掘る部分は付いていない、ボディだけの部位である。しかしその大きさは見上げるほど・・・キャタピラの部分がないにしろ、長さは10m近く、その体高はざっと4、5mはある。
「これがなぁ・・・」
誰かが言った。これがなんだろう?周囲を見ると、エンジン部分に大量の砂がのっていた。ボディのところどころにも砂が見える。操縦席のドアを開けようと、誰かがキーを挿したが入らない。しかしキーが少しずつ入っていくと、今度は白いものがガリガリと落ちて見えた。塩だ。
そうだった。この機体はあの地震のとき津波を浴びた機体だったのだ。驚きが隠せなかった。こんな、4、5mもある体高で波をすっぽりと被ったことはもちろんだが、いくら海側に面している工場だって、この機体が置いてある場所まで波が来るのにどれくらい距離がある?場内に浸入して、さらにこの高さまでの波とは一体・・・そのとき来た波はどんな高さだったんだ!!
あまりテレビでは放送されないが、茨城の県北は未だライフラインが回復していないところがたくさんある。海側もそうとうひどい箇所がある。ガソリンも供給されていない場所もたくさんある。ちょっと歩けばバスが来る、駅がある、買い物できるお店がある・・・田舎の方はそういった環境ではない。バスなんて一日3、4本あればマシな方、まったく通らないところもたくさんある。当然、駅なんてない。徒歩で行けるお店もない。田舎は、とにかく車がないとなんにもできない、どうしようもない。仕事も行けない。ニュースでは食料買いだめなんて言っているが、買いに行くことがまず無理だ。お年寄りがタバコ一箱欲しくても車だ。北茨城、高萩、日立、常陸太田、那珂・・・まだまだ復旧していない場がたくさんある・・・
3月19日
昨日の出勤のみ、今週は一日だけの出勤であった。
結石はいまだ出続けている。昨日の仕事も、重機を下ろした午前中までは薬も効いていて大丈夫だったが、午後からは実は下っ腹が痛くてどうしようもまかった。最後の頃は実は仕事せず隠れて座っていた。ごめんなさい・・・
しかしひどい。どういうわけか石は膀胱のすぐ上で止まってしまって動こうとしない。そのせいで尿管が塞がれ、尿が出所を失っている。ちょうど水道の蛇口をひねり、ホースの先を無理やり押さえ水の出るのをさえぎっているような感覚だ。おかげで左の腎臓や尿管の形が認識できる。通常ではありえないことだ。
夕方、突然熱が出た。なんの熱かわからない。石の影響だろうか・・・
夕飯時、嫁のお姉さんと旦那がウチに来た。ガソリン補給の為だそうだ。姉夫婦の家は県北で、いまだライフラインが来ていないのだという。こちらもガソリン不足だが、北部に比べれば何十分も並んでも入れられるだけいいようだ。
ボクの家族はみんなヘビーだが、この姉夫婦はふたりともいつもスマートだ。しかしウチにきたときはスマートというより、やつれた感が否めなかった。ふたりはそろって東電の社員なのだ。世間はいろいろ非難しているが、仕事の対応は想像を絶するようである。しかも姉夫婦の家は東電だけにオール電化・・・これがアダとなっているようで通常の倍は苦しそうである。ウチでごはんを食べていったが、久しぶりに食事らしい食事だとたくさん食べていった。
夜、熱が収まらない為、再び緊急で病院に行く。どうやら石で尿管に傷ができ、そこから菌が入った疑いがあると・・・その菌が良性であればいいのだが、悪いのであれば入院かもしれない。とりあえず抗生物質を飲んで検査は3日後・・・なんかイヤだ・・・
3月20日
長年、ペットとして家族を癒してくれたジャンガリアン・ハムスターのはじめちゃんが亡くなった。享年3年2ヶ月・・・人間で言えば100歳をゆうに超える大往生だった。子供たちは大泣きだった。特に娘は毎日世話をしたので悲しみはそうとうなものである。
ダンボールで棺桶を作り、そこに綿を敷き、お花とひまわりの種を入れ埋葬した。長い間、やすらぎを本当にありがとう・・・
夜・・・熱は収まったがやはり下っ腹はおかしい。しかしトイレがだんだん近くなってきた。医者が言うには石が落ち始めるとトイレが近くなるのだという。そして深夜・・・トイレに行くと尿と一緒に黒い物体が出てきた。過去に石が出た経験はあるので石ならわかる。しかしこれは石じゃない。なんだこれは?
それはちょうど千と千尋の神隠しで、ハクが魔女の契約印を盗み銭婆に仕込まれ、かまじいのところで苦団子を千に食べらされ吐き出した、あの黒くてクネクネしているようなのに似ていた。大きさもそんな感じだ。気分は悪かった。でもなにか体が変わったような気がした。悪いものが出たような気がした。
3月22日
病院で検査した。どうやら悪い菌ではなかったようで入院は免れた。体は驚くほど楽になっていった。尿管は多少チクチクはしていたが、もう痛み止めは使わなくて済んだ。やはりあのハクの中にいたヤツが出たから調子よくなってきたのだろうか・・・?
医者に聞くとそのハクの中にいたヤツは、傷ついた尿管から出た血が固まったもので・・・名称はフォアグラに似ている言葉だったが忘れてしまった。
多分、この血の塊と一緒に石も出たんだ。本当に楽になった。
3月23日
幼馴染のおじいさんの通夜が行われた。小学校時代には校長先生としてボクの小学校にもいたが、ボク的には遊びにいくと出てきて話をしてくれた印象が強い。しっかりしていて、モノをはっきり言う、そしておじいさんの見本のような素晴らしい人だった。
通夜が終わったと、ボクはひとり戻っておじいさんと対面した。驚いた・・・寝ているだけで、もうすぐ起きるんじゃないか?と思うくらい安らかな顔だった。幼馴染の話では、苦しむことなく眠るように逝ったと言っていたが・・・本当だと思った。
どうぞ安らかに・・・
3月25日
もう石はすっかり抜けたようで調子がよかったが、通院はしていた。そんな病院の帰り・・・親友から着信があった。
「いやー、生まれました!!」
双子の女の子だという。よかった・・・妊婦さんによっては地震などの刺激で影響が出てしまう人もいる。しかしそのようなこともなく無事に出産とは本当によかった。地震以来、どこかどんよりしていたが、明るい話題を聞くことができ、前向きになったような気がした。
一日も早く、みんなが笑顔になれますように・・・